十字架を負って マルコ8:34~38

 旅に出かけるとき、普通3つの作業をします。第1に、出かけると決めます。第2に、いらない物を置いていきます。第3に、大切なものを持っていきます。

 主イエスは、人生という旅のために必要な忠告をされました。
1、 ついて行く意志
2、 自分を捨てる
3、 十字架を負う

1、ついて行く意志
 
 主イエスは、すでにペテロやアンデレを招いています。「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)それに応えて、12弟子はついて来ているのです。今日の場面で主イエスが再び「ついて来なさい」と言われたのは、弟子たち心を再点検し、基本姿勢を確認されたとみるべきでしょう。
 あなたは、主イエスについて行くと決心しましたか。主イエスの背中が見えるような人生を送っていますか。
 主イエスについて行くと、はっきり心に決めることは、何よりも大切です。
 
2、自分を捨てる
 
 星野富弘さんの詩は、自分を捨てることに関して深い示唆を与えてくれます。

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあうと知った日
生きているのが嬉しかった

 自分に執着すると、かえって不幸になります。もともと、命は神さまからもらったもの。私たちの所持物も、神の恵みで一時的に手元にあるのです。最後は、何ももたずに、神のもとに帰ります。
 旅に出るときや、遠距離に転居する時も、何が大事で、何が不必要か分ります。それと同じように、一旦自分自身を、そして自分が抱え込んでいるもの全部を神にお返ししてみましょう。
 自分の所持品、自分が築いてきた地位や名誉、今後の計画、大事にしている人々。これらのものを、神の御手に一度お返ししましょう。

3、十字架を負う

 十字架とは、何でしょう。当時の意味では、十字架は死刑の道具です。十字架を負うとは、処刑に使う道具を自分で背負って刑場に歩く姿を意味しました。
 人々の罪を赦すための十字架にかかる、これが主イエスの人生の目的でした。イエスさまの生涯は、目に見えない十字架を担う毎日だったのです。十字架にかかる前の苦しみは筆舌に尽くせないもので、恥と辱めと痛みと悩みに満ちたものです。
 そういう意味から、十字架とは、神の使命達成に付随する苦難ということができます。
 あなたの十字架とはなんですか。あなたの生まれつきの苦難、遭遇した苦しみ、絶えがたい悲しみ、などはあなたの十字架になる可能性があります。けれども、苦しみが自動的にあなたの十字架になるわけではありません。その苦しみを、逃げることなく担う覚悟が十字架を負うことにつながります。
 あなたに託された神からの使命を果たそうとすれば、あなたは様々な苦難に出会います。神の御旨を生きようと思えが、苦しみが発生するかもしれません。その苦しみや辱めから逃げない、これが十字架を負うことなのかもしれません。

 1534年8月、イグナチヨ・デ・ロヨラは、6人の仲間と共に、神にすべてを捧げる誓いをパリ郊外モンマルトルで行いました。その中にいた20歳代後半の男性が、後に日本を訪れ福音を伝えましたフランシスコ・ザビエルです。自分を捨て、自分の十字架を負って、主についていった一人です。

 あなたの人生の旅支度は済みましたか。捨てるものを捨て、負うべきものを勇気を持って負い、主イエスの後についていく、これが幸いな人生の秘訣です。

十字架の予告 マルコ8:31~33

ピリポ・カイザリヤへの途上、主イエスは弟子たちの信仰を注意深く確認した。確かに弟子たちは、主イエスを救い主と心から信じている。これは、十字架の予告をするための必須事項だった。

1、人生の目的を持っていた主イエス

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」(31節)

 福音書に「人の子」という言葉が81回記録されている。主イエスは、言葉を選んで、必要なときは「私」と言わずに「人の子」という用語を使用された。もし<メシヤ>の称号を使えば、政治的な革命指導者と当時の人が理解していたからだ。父なる神が遣わされた真の救い主を指す意味で、主イエスは「人の子」を用いられた。

 ルカ19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

日本のドラマの居酒屋シーンなどで、「とりあえずビール」というせりふがよくある。(私は酒は飲まないのでこういう場面は体験的には知らない。念のため)同じように、とりあえずこの学校に行こうとか、とりあえず近くの会社に勤めよう、と思う人が多い。だから、とりあえずこの人と結婚するか、ということで、後で随分と悩むことになる。気がつくと、とりあえずの連続で墓の前まで行くひともある。とりあえずの人生で、あなたは本当にいいのか。

主イエスは、ご自分が誰かはっきり認識しておられた。人生の目的は、十字架で死に、多くの人の罪を赦すことだった。そのために生きている。主イエスを貫く心棒は明瞭だった。あなたはどうだろう。あなたの人生を貫く心棒は何だろう。


2、弟子たちへの予告

中学校を卒業する時、女性の先生から特別に色紙を頂いた。そこには筆書きで「人生はお茶漬けのようなもの」と書いてあった。中学生の私には意味が分からなかった。でも、今、少しわかってきたような気もする。その時分からないが、後に分かることもある。

主イエスは、弟子たちの信仰告白のレベルを見て、時が来たと感じられたようだ。弟子を子供扱いせず、主イエスの歩む道を率直に開示する必要を覚えたのだ。これは角度を変えて言うなら、主イエスは弟子を信頼されたという意味だ。
もちろん、弟子たちがすべてを理解できるはずがない。だから段階的に、今回も含めて3回に分けて十字架の予告をされた。しかも、一回ごとに内容を深めていかれた。(→マルコ9:31、10:33、34)

 主イエスは大切な事は、レベルを下げずに弟子たちに教えられた。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うイエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)と言われたことは意味が深い。

あなたは、今、理解できない事があるかもしれない。分からない事があるかもしれない。大きな命題を神から示され、困惑しているかもしれない。主イエスは、あなたに大切な事を語っておられる。いつかきっとそれが分かる時が来るだろう。

3、人のことを思う弱さ
 
 ペテロは主イエスをわきにお連れして、いさめた。その同じことばが、主イエスがペテロをしかるときにも使われている。ペテロがかなり強い言葉で言ったことが分かる。ペテロの先入観によると、救い主は死ぬことなく政治的にユダヤを解放してくれると期待していたようだ。主イエスの力をもってするなら、ユダヤの政治権力もローマも武力も、一気に壊滅させられると踏んでいたようだ。

 主イエスの反応は非常に厳しいものだった「さがれサタン」(33)これは、公生涯に入る前の荒野の誘惑で、主イエスがサタンの誘惑を退けた場面の言葉と本質的に同じだ。「引き下がれサタン」(マタイ4:10)

 サタンは、主イエスを十字架の道から遠ざけようとした。最大の誘惑とは、十字架の恥と苦しみなしに人々の王になる事だった。今、ペテロの口をついて出たおそらくは常識的な言葉は、主イエスにとってサタンの言葉と同一のものと受け取られた。

 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33)常識と思える視点が、ともすると人の目を気にした言動であり、神のみこころに真っ向から反対する場合もある。
 今、人のことを思いすぎて判断がぐらついている事柄がありますか。常識的と見えても、実は神に逆らうことを選ぼうとしていませんか。

 ペテロは、主イエスの十字架の死と復活を身近に目撃し、ペンテコステを経験した後、大胆な人へと変えられました。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)とユダヤ指導者らの前で発言し、命がけで福音を伝える人になったのです。

最近、人のことばかりを気にかけて、神を忘れていませんか。神のことを思い、神に従うべきです。

信仰告白 マルコ8:27~30

 ガリラヤ湖の水面は海より200メートルも低い。主イエスと12弟子は湖の北岸から一路北に向けて出発した。標高2814メートルのヘルモン山に至る上り坂を進んでいった。その中腹にあるピリポ・カイザリヤには、ヨルダン川水源の一つとされた泉が湧き出ている。人ごみから離れた弟子たちは、水音が聞こえそうな道を登りながら、静かな心になっていたかもしれない。木陰に休んだおりに、主イエスは質問されたのだろうか。非常に大切な質問を二つされた。一つは導入的な質問。もうひとつは核心を突いた質問。

1、 人々は何と言っているか

 (27節)「人々はわたしをだれと言っていますか。」

 イエスさまが公に活動を始める前にバプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に罪の悔い改めを勧めた。この活動を見て、祭司とレビ人が尋ねて来て真剣に質問した。「あなたはどなたですか。」(ヨハネ1:19)この質問は、あなたは旧約聖書が預言していた救い主ですか、という意味だ。これに応えてヨハネは、「私はキリストではありません。」(ヨハネ1:20)と否定した。当時の人々は、日々の苦しい生活がローマ帝国による過酷な占領支配と考え、政治的な解放者を救い主として待ち望んでいた。

 12弟子たちは人々の主イエスに対する評価を3つ挙げた。
・バプテスマのヨハネ→「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(マルコ6:16)
・エリヤ→「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5)
・預言者の一人→「ひとりの預言者をあなたのために起こされる」(申命記18:15)

 実は、これ以外にもイエスさまに対する見解はいくつかあったが、弟子たちはは無視した。
・ナザレの人々→この人は大工だ。ヤコブ、ヨセ、ユダの兄にすぎない。(マルコ6:3)
・律法学者→イエスは悪霊に取りつかれている。(マルコ2:22)

 現代も主イエスについての評価は色々ある。四大聖人の一人とか、思想家、哲学者、道徳の教師、革命家など。

2、 あなたは何と言うか

 (29節)「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 キリストとは、イエスさまのラストネームではない。ヘブル語のメシア(油注がれた者)をギリシア語で表すとキリストになる。キリストとは、旧約聖書で預言されていた救い主のことを指す。
 ペテロは主イエスの質問を聞き、今まで過ごした主イエスとの年月を振り返ったことだろう。盲人の目を開ける奇跡、ヤイロの娘をよみがえらせた力、ガリラヤ湖の上を歩く姿、5千人にパンを与えた出来事など思い起こし、山上の垂訓など主イエスの深遠な教えを振り返ったことだろう。

 ペテロの答えた、「あなたはキリストです」(29節)。

 ペテロは確信を持って答えた。人々の意見に流されずに答えた。

 フランスの数学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)は、イエスさまを救い主として受けれた出来事を以下の言葉で表現している。
 「歓喜、歓喜、歓喜。火、イエス・キリスト。哲学者の神にあらず。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
 パスカルは上着の襟にこの言葉を書いた羊皮紙を縫いこんで、生涯離さなかったという。

 あなたも、ペテロのようにはっきり信仰告白しよう。あなたは、私の救い主です。私のような者を救ってくださり感謝します。私はあなたを誇りとします。あなたを目標にして生きて生きます。
 実は、小さな信仰告白に様々な意味が込められている。信仰告白とは、単なる今の感想で終わらず、生涯継続するものだ。プロポーズの言葉が、その時だけで終わらず、一生連れそうという決意であるのと良く似ている。
 あなたにとって、一番大事な人、イエスさまとずうっと一緒に生きていこう。誰にでも胸を張って紹介しよう。信仰告白は、イエスさまこそ私の救い主であり、私は生涯あなたといっしょに生きて行きますという表明なのだ。