主イエスを信じることが、幸せの秘訣 使徒16:25~34

 これから6回シリーズで<幸せになる秘訣>を話します。

 多くの人は、求めている何かが手に入れば幸せになると考えている。その何かを持っていないなら不幸になる。でも、本当の幸せは、所有するかしないかに関わらず得られるものだ。

1、暗闇の中での賛美

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(使徒16:25)

 パウロは、ピリピの町で無実の罪で鞭打たれ、足かせを付けられた上に投獄された。屈辱、痛み、不快、不自由、未来なしの状態となった。普通なら狂乱状態になるところだ。ところがパウロは、神を賛美し、神に祈り始めた。牢屋にいた人々のために、とりなしの祈りをしたかもしれない。
 我々が苦しみに直面すると、「どうしてですか」と叫んだり動揺したりするが、パウロは神に賛美していた。これが本当の意味での賛美だ。
 幸せは、何かを所有していることや、人より優れていることではない。神がいること自体が幸せなのだ。私のすべてを知った上で見捨てない神がいる。私に命を与え、支えてくださる神がいる。最善をなしたもう神がいる。
 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)
 私たちもこう告白したい。どんな状況でも幸せでいられる秘訣がここにある。

2、喪失ゆえの自害

 真夜中に地震が起きた。牢獄は揺れ動き、ドアは勝手に開いてしまった。眠りから目覚めた看守は、慌てふためき、確認もせずに囚人が逃げたと勘違いした。今後自分に降りかかる責任追及の厳しさを予想、自殺することが最善と結論づけた。暗闇に目が慣れているパウロは、あやしく光る看守の剣を見て取って叫んだ。
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28節)
 何かを積み上げれば幸せになると考える人は、失敗が何よりも怖い。けれども、大きな失敗を犯しても、主イエスにあっては、やり直しの道がある。

3、新しい出発―信じる生き方

ここで看守と囚人の立場が入れ替わって、看守が囚人に助けを求めた。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(30節)
 パウロの答えはいたって単純だった。
「主イエスを信じなさ。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
(31節)
 信じることが、看守を救った。ただ主イエスを自分の罪からの救い主として信じた。それで充分なのだ。

 主イエスを信じますかと私が問うときに、「いや、信じることができません」と答える人に出会う。その場合、かなりの人が思い違いをしている。以下にその勘違いの3つの種類をリストアップする。
1) 信じるには100%完全な信仰が必要だと思い込み、自分は不完全だからだめ、完全に信じられるようになったら信じる。
2) 信じたら、マザーテレサのような立派な人に瞬時になるべきだが、自分はなれそうにない。だから信じない。
3) 何をやっても中途半端だった自分だから、信じても生涯続けられそうもない。だから信じるとは言えない。

 こういう人たちの勘違いは、自分の力で自分を救おうとするものだ。よく考えてほしい。僕らは主イエスに救っていただく立場なのだ。自分で救えるほど我々の罪は軽くない。以下にたとえ話をしてみよう。

 身寄りのない日本人男性が、アメリカで手術を受け、日本語の話せる美しいアメリカ人女性に介護してもらうことになった。入院数日後、あなたの洋服や下着を洗濯しますよ、と言われたならどうするか。たいていの独身男性なら、申し出を断り、自分で洗うと言うだろう。けれども重体でベットから出られないのだ。清水から飛び降りる気持ちで洗濯を任せると、その女性は数時間後きれいにアイロンをかけて衣類と下着を持ってきてくれる。主イエスの救いはこれに似ている。

 人に見せたくない自分の罪の失敗、過去の汚れた罪、それを主イエスは残らず十字架で背負って死んでくださった。私たちは、ただありがとう、あなたを信じますと言えばいい。

 その小さな一言があなたの人生を変える。あなたを救うのは主イエス。あなたを変えるのは主イエス。あなたを愛すのは主イエス。

 主イエスをあなたの罪からの救い主として信じよう。そうすれば、牢獄のような暗闇でも、幸せになれる。主イエスを認め、主イエスと共に生きるなら、あなたは幸せな人生に入れる。

山を降りながら  マルコ9:9~13

1、誰にも話してはならない

 主イエスと3人の弟子は栄光の山頂を後にした。山を降りる経験、それは山を登るよりも困難な道かもしれない。
 弟子たちは、心躍る経験を山上で経験した。主イエスの栄光の姿を自分の目で見たのだ。だれかれとなく言いふらしたい内容だが、主は他言をゆるさなかった。

 「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。」(マルコ9:9)

 特別に大きな祝福の経験は、時間をかけてゆっくりと心の中で咀嚼する必要がある。さもないと、大きな奇跡や驚嘆する主の介入を、まるで自分が偉大になったかのような錯覚を持ってしまう。
 大きな祝福の後は、ただ主を賛美しよう。土の器の中に表された神の栄光をたたえよう。それが、上手な山の降り方だ。

2、弟子の質問に答えて

 弟子たちは、主の苦難と十字架の死、そして復活という一連の予告の意味が理解できないでいた。それで、さきほど見たばかりのエリヤに関連して主イエスに質問した。

「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょう」(11節)

 マラキ4:5に「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」という預言がある。律法学者も、救い主が来る前に、エリヤが来ると解説していた。主イエスによると、エリヤはもう来ている、というのが主イエスの答えだ。マタイ11:14では、「実はこの人こそきたるべきエリヤなのです」とバプテスマのヨハネがエリヤの役割を果たしたと説明していた。

 バプテスマのヨハネは結局は殺された、と主イエスは言及された。これは、後に控えている救い主に対しても人々は同様に扱うと暗示している。主イエスの苦難と十字架と死は偶然ではなく、旧約聖書の預言の成就であると、主イエスは弟子達にヒントを出しておられる。実際のところイザヤ53章はまさに、救い主の苦難の預言となっている。イザヤ53:4「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。

 主イエスはどんな質問にも答えてくださる方だ。さらに、その質問をきっかけに、もっと大きくて深い真理を開示してくださる方だ。だから、今あなたが持っている疑問、質問をぶつけてみよう。主の答えを注意深く見つめよう。

3、書いてある

 「エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことをしたのです。」(12~13節)

 12節と13節の主イエスの答えに注目しよう。同じ言葉を繰り返しておられる。マタイ4:1~10を見ると、荒野の誘惑の際も3度も用いたのが「書いてある」という言葉だ。主イエスの力強さの秘訣は、神の言葉に信頼することにあります。

 私はハワイに家族で移り住むにあたり、赤坂の米国大使館で永住権の承認書類をもらった。手にした時は、苦労して祈って待った後だったので本当に嬉しかった。これでアメリカに正式に渡れる。入国審査の際、私の立場を客観的に照明してくれるのはこの書類だ。たとい自分の気持ちに不安が起きても、ここに書いてある、と自分を励ました。たった一枚の紙切れが私たち家族の身分を保証してくれた。聖書は、それ以上だ。救われた事を確信させ、神の愛を分らせてくれる。主イエスが共にいることを教えてくれる。<書いてある>、これは私たちの信仰の土台だ。

 2005年3月11日、アトランタに住む当時27歳の女性アシュレイ・スミスさんの家に突然見知らぬ男が入り込んで来た。聞くと、裁判所から逃走してきたブライアンという男で、4人を殺した凶悪犯だと分かった。男がろう城したのが分ると周辺は警察に封鎖された。恐怖の中でもアシュレイさんは、男に食事を出し、対話を試みた。自分が離婚して傷ついたこと、覚せい剤中毒だったこと、主イエスに出会い人生が変わったことなどを心を込めて話した。リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ライフ)の32章を読んで聞かせた。人は神の下さった賜物を生かして生きるように造られた、あなたもそう生きたらいい。自首して人生をやり直せと勧め、男はそれに共鳴して翌日警官の前に出て行った。
 アシュレイさんは、ブライアンから天使と呼ばれたが、彼女はそれを否定した。つまり上手に山を降りたのだった。

 「1トンの興奮より、1グラムの信仰を大切に」とは、確かスポルジョンの言葉だったと思う。あなたも、素晴らしい祝福経験の山から降りることを学ぶ必要がある。徐々に高度を下げる旅客機のように着陸することが必要だ。歳を重ねることも、仕事をリタイヤすることも、恵まれたキャンプから実生活に帰る時も、奇跡を経験した後も、上手に自分と付き合おう。そして、ただ神をたたえよう。謙虚に生きよう。そして、どんな時も「書いてある」というキーワードに戻って、主の約束と愛を確認しよう。山を降りる経験は、もしかしたら、主の山を上る経験なのかもしれない。

高い山で マルコ9:1~8

1、高い山で起きた3つのこと

主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。 近くの山といえば標高2814メートルのヘルモン山と考えるのが普通ですね。 そこで起きた事は以下の3つです。

1)主イエスが栄光の姿に変わった
2)エリヤとモーセが現れた
3)天から声がした

「それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(2~3節)
マタイの福音書17:2では「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」とその時の様子を説明している。主イエスが本来持っておられた神としての姿が3人の弟子の前で明らかになりました。神が造られ太陽ですら3秒と凝視できないのが人間です。ですから、神の栄光を言葉で説明するのは不可能といえます。

「また、エリヤがモーセとともに現われ、彼らはイエスと語りあっていた。」(4節)
エリヤは旧約時代を代表する預言者。一方のモーセはイスラエルの民をエジプトから導き出し、神の律法を人々に教えた旧約時代最高の指導者・教師。つまりこの二人は、旧約聖書を代表する人物とみてよい。その二人が、主イエスと語り合うという出来事は、主イエスこそ旧約聖書が預言してきたまことの救い主であるという証明になります。ルカ9:31によれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について話していた」という。
 
 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)
主イエスが公生涯の初めにバプテスマを受けましたが、その際天から聞こえた声と酷似しています。明らかにこれは人間の声ではなく、父なる神の声でした。


2、弟子たちの反応

ペテロたちの反応は2つあります。第1は驚き。第2は恐れです。ペトロはあまりに突然な主の栄光とエリヤらの出現に驚愕し、自分が言っていることすら冷静に把握できませんでした。いわば顕現記念チャペルを建立しますと言ってしまったのです。ペテロたちは、恐怖の念にとらわれました。神の栄光は、日常生活に前ぶれなくやってきます。

日本にいた頃の話ですが、大きな茶封筒が届いたことがありました。どうせ何かの宣伝かダイレクトメールだろうとしばらく開けもしませんでした。数日後、開封すると「おめでとうございます。2名様ハワイ旅行当選です」とあり、こういうタイプのキャッチセールスはよくあるんだ、と思って無視しました。家内が、まさかと思って、発送元のホームセンターに行ってみると、家内の名前で当選発表がしてあり、全国30万人の中から選ばれたということが分かり驚きました。家内は娘を連れて、本当にハワイ旅行を無料で満喫しました。これは小さな出来事で、たわいもないことですが、その後すぐハワイで牧師になるように導かれた事を考えると、神の導きの伏線があったこと驚きました。
神の栄光は、日常生活に突然流れ込む神の力と臨在の強烈な印です。


3、神の栄光がもたらすもの

権力者に捨てられ殺されると6日ほど前、主イエスは弟子たちに予告されました。また、主イエスについて来たい者は自分を捨てる必要があると厳しい姿勢を教えられました。それで、十二弟子は恐れと不安を持ったはずです。そんな時に天から父なる神の声がかかりました。

 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)

主イエスの栄光の姿を目撃し、エリヤとモーセと出会った3人の弟子は、主イエスこそまことの神であるという確証をもらい、たとえ厳しくても主イエスに従う道は正しい道であると確信を強めたはずです。ペテロは、生涯この日のことを忘れず、次のように説明しました。

「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(第2ペテロ1:16~18)

あなたの生活に、主イエスの栄光がすでに注がれていませんか。もう一度、信仰の目で見つめ直しましょう。今、暗黒の中にいるなら、主イエスの栄光が光輝くように祈りもとめましょう。

一人の女性が就職試験を受けました。アメリカでは、<落ちた>という知らせは通常来ません。1ヶ月間何の便りもないので、落ちた事実を認め、どこが足らなかったのか聞こうと電話をかけようとした瞬間、電話が鳴りました。取ってみると、その会社からで、「おめでとう、採用されました」という内容でした。彼女はクリスチャンでした。話し終えてから「やったー」と叫んだのは当然ですが、まるで主イエスの栄光に出会ったような瞬間でした。

主イエスは生きておられます。今も、あなたにご自身を知らせたいと願っておられます。あなたの今週の歩みの中に、主イエスの栄光が届きますように。素晴らしい驚きが来ますように。