第一サムエル1:1~28 ハンナの祈り

 「考える時間を持ちなさい。
  祈る時間を持ちなさい。
  笑う時間を持ちなさい。」
 こう言ったのはマザーテレサでした。

 私たちも、自分について考え直し、祈りに取り組みましょう。

1、いらだつハンナ

エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。(第一サムエル1:2)

 ハンナという名は、日本語なら、「恵」とか「好子」の意味になる。夫エルカナと妻ハンナの間には子供がいなかった。子供が生まれずにエルカナが死んでしまうと、当時の法律によれば土地は第三者の手に渡る。やむなくエルカナはペニンナを第二の妻として迎え、息子と娘が複数与えられた。(4節)

 エルカナは毎年、神の箱のあるシロという町に行き、主を礼拝し、いけにえをささげ、特別のご馳走を食べてその日を祝った。二番目の妻ペニンナは年中行事のように毎回ハンナをいじめた。ハンナは判で押したように毎年ペニンナの罠にはまり、食事すらできなかった。

彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。(6~7節)

 ところで、結婚カウンセリングの専門家は不幸な結婚かどうかは、夫婦の会話をしばらく聞いているだけで分かるといいます。会話の出だしが「あなた」から始まるなら、相手を否定したり、馬鹿にしたり、責める言葉が続きます。だから「あなたはいつも」は宣戦布告の印です。自分が交通事故を起こした時に、原因は朝の妻の言葉だと信じて疑わない夫がこの世には存在します。「私」という言葉から始めるなら関係は良くなります。「私が悪かった」「私はあなたを愛している」「私がやります」

 自分が不幸なのは、身近なあの人のせいだ、環境のせいだと考え続けるなら、不幸を自分で引き寄せているようなものです。ハンナも同様です。ハンナは毎年、ペニンナの罠にはまり、自分の優位に気づきませんでした。

夫のエルカナはハンナだけを愛していたのです。「彼がハンナを愛していたからである。」(5節)と書いてある通りです。ペニンナが何人子供を産んでも、夫の愛は依然としてハンナに注がれていたのを知っていたので、ペニンナはハンナを嫉妬していじめたのです。(6節)
 
 あなたは、ハンナに似ていますか。
 あなたは、愛されています。
 環境があなたを不幸にしているのではありません。また、身近な誰かがあなたの不幸の原因ではありません。あなたの考え方が不幸を引き寄せているのです。感謝を見出し、主の恵みに気づくなら、環境に左右されない平安と喜びがやってきます。



2、心を注ぎだす祈り

ハンナは毎年、祈ったはずです。「赤ちゃんを与えて下さい。ペニンナを見返したいのです。復讐したいのです」けれでも、祈りはかなえられませんでした。

シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(9~11節)

この年のハンナの祈りは、違っていました。堂々巡りからついに脱したのです。祈りの目的は復讐でも、はらいせでもありません。ハンナの目はペニンナから離れ、主ご自身に向きました。ハンナの祈りは、「主に」(10、20、26節)、「主の前に」(12、15節)ささげられた祈りでした。与えて下さい、そうすれば、あなたにすべて与えます。将来、主と人々のお役に立つ赤ちゃんを与えて下さいという祈りになりました。

ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(15~18節)

最初は、いらだちの言葉と愚痴のような祈りだったのでしょう。それが、心を注ぎだす祈りに変化しました。最後は、生まれる息子を主にささげると約束して、心が晴れ晴れしました。顔がみごとに変わりました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)

主はハンナの祈りに答えて、息子を与えて下さいました。(20節)サムエル(その名は神)という名を付け、ハンナは手塩にかけて育てました。離乳食が食べられるようになると、祭司エリに引き渡し、祭司として育ててもらうことにしました。(24~28節)

ラインホルト・ニーバーの以下の祈りをご存じかもしれません。
 God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
 The courage to change the things I can,
 And wisdom to know the difference.
 この祈りは、静けさと勇気と知恵の3つを求める祈りです。変えられないものを受け入れる静寂さ、変えることのできることを変える勇気、その二つを見極める知恵を求める祈りです。
 ハンナも心を注ぎだして祈ったので不要なものがそぎ落とされ、動機が純化されて赤ちゃんを胸に抱くことができました。そこには、優越感も傲慢さもありません。主にささげ尽くした爽やかさと感謝が残りました。

あなたも、今、心を注ぎだして祈りましょう。

→あなたの番です
□環境ではない、自分を点検しよう
□復讐ではない、心を注ぎだす祈りをしよう


ルカ24:36~53 イースターと魚


 2002年の全国高校野球の地方大会で、9回裏ツーアウトで14対5で負けていたチームがありました。誰もがあきらめる場面ですが、それから10点を入れて逆転勝ちしたというのです。
 今日はイースター。私たちの人生を逆転に導く主イエスの復活に目を留めましょう。

1、真ん中に立つ主イエス

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。(ルカ24:36)

 「これらのことを話している間に」とは、弟子たちが5種類の話題を何度も繰り返し語り合っていたのだろうと私は想像します。

悲嘆:大好きな主イエスが死んでしまったので、悲しくてしょうがない。
自責:主イエスを裏切り、見捨て、自分たちだけが助かってしまった。
失望:イスラエルをローマ帝国から解放してくれると思っていた。
不安:自分達も主イエスのように殺される。どうやって生きていこうか。
不信:主イエスの復活の噂を耳にしたが、ありえない。信じられない。

 あなたは、これら5つのうち、どれを今、抱えていますか。生きている限り、悲しみ、自責の念、絶望、明日への不安、信じられない弱さは避けられません。それが生きているということです。
 主イエスは、その問題を抱えた私たちの真ん中に立って下さる方です。イースターは9回裏ツーアウトのあなたに大逆転を与える出来事なのです。すべてがダメでも、主イエスは大丈夫と言うお方です。

「イエスご自身が彼らの真中に立たれた」(36節)ここに、イースターの希望があるのです。


2、魚を食べる

 私たち日本人は、主イエスの復活の話を聞くと「ありえない。信じられない」と知性派になりますが、幽霊はいるかという質問になると「いると思う。きっといるよ」と真顔で言います。

 実は、弟子たちも主イエスを見て驚き、恐れ、幽霊のようにしか思えませんでした。(37~39節)この場面は、主イエスのユーモア、ゆとりを感じさせます。

それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(41~43節)

 主イエスは、本当によみがえられたのです。幻でも幽霊でもありません。部屋の中に突然現れることができる体で、かつ、魚を食べることのできる体でした。
復活の主イエスの目撃者は第1コリント15:6によると500人を越えています。主イエスは、イースターの日曜だけでなく、その後40日間弟子たちに現れたと使徒1:3に記録されています。

パウロは、復活こそがキリスト教の根幹であると次のように言いました。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(第1コリント15:17)
主イエスは弟子たちによみがえると約束したので、もし主イエスの復活がなかったなら、主イエスは嘘つきになります。また、弟子たちも嘘つきです。キリスト教も聖書も無意味です。罪のゆるしも、救いもありません。

フランスの数学者ブレーズ・パスカル(1623-)は主イエスを信じたクリスチャンです。神がいる、神がいない、と二つの場合を想定した時、神がいると信じて生きるほうが益が多いと確率的な視点から神を信じることを勧めました。
パスカルの死後、彼の衣服の襟に縫いこまれていたメモが見つかり、「パスカルの覚書」として知られていますが、パスカルが主イエスを信じた時の喜びが伝わってきます。

あなたは、主イエスの復活を信じますか、信じませんか。


3、聖書を悟らせる

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。(44~46節)

弟子たちは、復活の姿を目撃したから、燃える証し人になったのでしょうか。違います。それなら、復活の姿を現すたびに主イエスは魚を食べればよかったのです。
主イエスは、復活の体を示してから、聖書を教えました。これなくして確かな信仰は維持できないのです。主の証人となって世界に出て行くために、十字架と復活が神の計画であり、聖書があらかじめそれを預言していた事を理解する必要があったのです。

たとえば、詩篇16篇から救い主の復活、詩篇22篇から十字架の苦悩、イザヤ53章から罪の身代わりが預言されていたことが分かります。
そして、主イエスは、私たちが聖書の真理を悟ることができるように、私たちの心を開いて下さるお方でもあるのです。

次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。(46~48節)

九州で生まれたある男性は、20歳代前半でカリフォルニアに出かけ、陶器を売って大もうけしようと試みました。英語も話せない彼が、うまく商売ができるわけはなく、借金をかかえ、希望を失いました。そんな時、アメリカ製のキャンディーを食べ、「これだ!」と直感、日本で製造販売しようと思い立ったのでした。
生活のため、ある家でハウスボーイをしました。その主人はM.C.ハリス牧師でした。キリスト教が大嫌いな彼でしたが二人の優しさに触れ、2年後にイエスを救い主と信じて洗礼を受けました。紆余曲折あった後、洋菓子製造方法を学び、日本で洋菓子屋を開店。移動販売の車の屋根に、キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたと書いて、商売と同時に、主イエスの福音を伝えました。彼が森永太一郎です。

主イエスがよみがえったと目で見るだけでなく、聖書が予告していたお方であるとの理解はとても大切なのです。

あなたの人生に大逆転を起こすお方、それが復活の主イエスです。あなたの心の真ん中に立ち、あなたを今日も励ましておられます。

→あなたの番です
 □悩みと問題の真っ只中に、復活の主イエスは立たれます。
 □主イエスは、本当によみがえりました。
 □聖書が予告した救い主がイエス・キリストです。


第1テサロニケ5:1~28 喜び、祈り、感謝


 いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事について感謝せよ。これは、この手紙で一番有名な言葉です。迫害で苦しむテサロニケの人々に、パウロはなぜ、そう命じたのでしょう。

1、目を覚ます

 聖書によれば、主イエスが再び来られることは確実。でも、いつかは誰も知らない。5章の前半部分は、4章後半の流れを引き継いで再臨への備えに言及しています。
 パウロのオリジナルというより、「だから目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)という主イエスの言葉の言い直しと理解できる。

 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(5~6節)

 「昼の子」、「光の子」の「子」とは、英語ではchildではなく NIVではsonと訳されている。だから、光の後継者、光に所属する者と理解できます。あなたは、暗闇にいますか、光にいますか。私たちは、世の光であるキリストに属しています。
 目をさました態度こそ、再臨を待つ根本姿勢です。信仰と愛を胸当てとし、救いの望をかぶと(8節)をかぶり、主の兵士として常に備えよとパウロは教えました。

 再臨にはいくつかの意義がありますが、命の恩人に再開し、感謝を述べる日と言えます。
 私が新聞記者をしていた時、脊髄ドナーとなってくれた人に感謝の言葉を伝えたいので記事にしてほしいという男性が社を訪ねて来たことがありました。医療上は匿名の約束ですが、その人を見つけて、「おかげで、命を長らえることができました。」と伝えたいというのです。

 私たちも再臨の時に、主イエスに同じことを言うのです。命の恩人に感謝の言葉を言うのです。10節には、主イエスが私のために死なれたとはっきりと書いてあります。
 「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節)


2、互いに励ます

 主イエスの再臨を待つ間、互いに励まし合う(11節)ようにとパウロは語りましたが、その具体的内容が12~22節に記されています。今日のあなたに必要な助言はどれですか。

 みことばを教える人を尊敬する。(12節)
 弱い人を配慮し助ける。(14節)
 復讐しない。(15節)
 喜び、祈り、感謝をこころがける。(16~18節)
 御霊の助け、神の導きを大切にする。(19~20節)
 物事の本質を見極め、悪を避ける。(21~22節)

 私たちは健康に良いことには敏感で、運動という予防手段も、定期健診によるチェックも、処方薬やサプリメントを飲むことも、進んでします。でも、心や魂の健康のために何もしていません。  12~22節を普段から心掛けましょう。それが、魂を悪から守り、魂を強め、魂の健康を豊かにするのです。以下のパウロの祈りを見て下さい。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(23~24節)

テサロニケの人々は日常的に迫害を受けていました。悪を受けたので悪で仕返ししたかったのです。でも、パウロは、悪で悪に報いるな、復讐するなと教えたのです。

 最後に触れたいのが、16~18節です。辛い毎日だったテサロニケの人にこそこの命令が必要だったのです。こんなに辛いから喜ぶ必要があり、感謝する必要があったのです。これこそが、神のみこころだと確信していたのです。
 
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16~18節)

ひまわりのように、いつも喜びに顔を向けたい。自分の弱さに謙虚で、神に信頼して祈る者になりたい。環境に左右されずに感謝を見つける人になりたい。
新共同訳では、「どんなときにも感謝しなさい」、NIVではgive thanks in all circumstancesとなっています。あらゆる時に、あらゆる環境で、感謝は見つかるのです。

ロジャー・クロフォードは、右手に1本、左手に2本の指しかなく、片足は義足の人です。でも、テニス指導員としてプロ認定されて活躍し、その後は、講演活動などで多くの人を励ましています。常に微笑むだけで人生は変わる、という彼の言葉には説得力があります。


 1909年2月28日、北海道の塩狩峠で鉄道事故が起きました。連結器が壊れて列車最後部の客車が坂を逆走、クリスチャンで鉄道員だった長野政雄さん(29歳)が自分の体を車体の下敷きにして乗客の命を救いました。乗客は、亡くなった長野さんを見て号泣したといいます。車内には、長野さんがいつも携帯していた聖書と妹さんへのお土産の饅頭が残されました。長野さんの生き方は、主イエスの生き方を現代に伝えてくれる実例です。 
 「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節)


ネガティブな世界に影響され、誰かへの復讐のために生きるとしたら、それは空しい生き方です。
あなたの番です。今週、喜びませんか。感謝を見つけませんか。それが、あなたの魂を健康にします。また、それは、絶えず祈ることにより可能になり、主イエスにあって実現します。それが神のみこころだからです。
再び主イエスにお会いし、命を頂いた感謝が言える日が来ることを忘れないでください。

 →あなたの番です
 □「昼の子ども」として生きる。
 □復讐せず、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝する。


 

 
 


第1テサロニケ4:1~18 きよさと再臨


 二つの助言が必要だとパウロは考えました。
 第一に聖く生きること、第二に再臨の主に会う備えをすることです。


1、聖く生きる

前半の中心聖句は3節です。「神のみころは、あなたがたが聖くなることです。」

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。(3~7節)

 3節の「不品行」という言葉は品格のある訳語ですが、実感のない言葉です。原文のギリシア語ではポルネイア、ポルノの語源です。英語ならsexual immoralityとなります。
 聖く生きるとは心の問題だと思いがちです。でも、ここでは違います。からだの問題なのです。具体的な生活習慣のことなのです。それで、「自分のからだを、聖く、また尊く保ち」と命じたのです。

 テサロニケは繁栄した港町で、商業や政治の中心地でした。つまり、性道徳が乱れやすく、家庭にも性的罪の余波が襲っていたのです。
 性的な誘惑に負けない男性は、この世に一人もいません。カエサルがクレオパトラの誘惑に乗り、エジプトの王位継承問題に深入りしたことは有名です。男性は視覚から誘惑されます。誰も見ていないなら、後で問題にならないなら、お金で済むなら、一度限りなら、そういう場面で男性は性的な罪を犯します。

クリスチャンになっても、不倫を続ける、援助交際をする、不適切な場所に出入りするなら、それはパウロが6節で指摘するように、クリスチャンの友を踏みつけて裏切ることになります。性的な罪は自分ひとりの問題で済まずに、配偶者を苦しめ、家族を巻き込み、平穏な暮らしに嵐を招き入れてしまいます。

ところで、オランダはネーデルランド(低い土地)と呼ばれ、九州くらいの広さで、国土の4分の1が海面下にある国です。
1916年に大洪水に襲われ、第一次世界大戦時に食糧不足を経験したため、1927年から5年をかけて大掛かりな防波堤の建設を行い、かつての湾を淡水湖にし、埋立をして耕地を作りました。幅90m長さ32キロという世界最大の堤防が、国民に安定した生活をもたらしたのです。今も、海面が人々の目線よりもはるかに高い状態ですが、オランダ人はその地に住むという毅然とした決意を持って生きています。

強引な類比だと叱られるかもしれませんが、オランダの人々の生き方と、クリスチャンの生き方に、私はある種の共通点を感じるのです。
この世界には性的誘惑が満ちていて、放置すればその洪水に飲まれてしまいます。自分をきよく保つ方法は守りに徹することだと思うのです。パウロが、「避ける」、「保つ」「おぼれず」、「しない」、という言葉を使った理由が納得できます。ヨセフも主人の妻から誘惑を受けた時、ひたすら逃げました。(創世記39:18)
愛する妻や配偶者、家族や親友の顔を思い浮かべ、彼らを決して裏切るまいという態度も心の堤防になるでしょう。
強固な堤防を作りましょう。それが、あなたと、あなたの最愛の人たちを守る唯一の方法です。周囲の人々が何と言おうが、決然とした態度を取りましょう。もし罪を犯し浸水箇所ができたとしても、何度でも悔い改め、水をかき出し、修理しましょう。

毎日の生活で、体の聖さを保ちましょう。あなたにとっての堤防とは何ですか。何をすることですか。何をしないことですか。



2、再び来られる主イエス

13~18節は神学用語で「携挙」と呼ばれる内容です。その日が実際はどのようになるのか詳細は分かりませんが、主イエスは必ず来られます。

主イエスが再びこの世界に来られるという予告は、私たちが思う以上に聖書に多く書かれています。チャック・スウィンドルによると、主イエスが再び来られるという言及は新約聖書で300回箇所あり、30節に一度出てくる勘定だといいます。
パウロも、テサロニケの手紙で何度も触れています。
 「イエスが天から来られるのを待ち望む」(1:10)
 「主イエスが再び来られるとき」(2:19)
 「主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき」(3:13)
 「主イエス・キリストの来臨のとき」(5:23)

テサロニケのクリスチャンは迫害のゆえに辛い毎日を過ごしていました。迫害が原因で先に死んでいった仲間がいて、悲しみに沈んだ人もいたのでしょう。再び主が来られることを期待するあまり、生活に混乱がみられたのかもしれません。それで、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(11~12節)とも命じています。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(13~18節)

 「私たちの主のみことばのとおりに言いますが」(15節)とあるのは以下のマタイの箇所だと思われます。ヨハネの福音書でも主イエスは再び来ると約束しておられます。

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:30~31)
 
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2~3)

 この世界は不平等で、悪がはびこり、一部の者が弱者を抑圧し搾取しています。また、自分自身に目を向ければ、罪があり、自己中心で、誘惑に負けやすく、聖い生活に困難を感じます。
ですから、世界の問題も、私という問題も、どうしても最終解決が必要です。それが再臨の意義です。

希望ある未来が約束されています。主イエスが再び来るからです。
主イエスに出会う日から逆算するように今日を生きてみませんか。
主イエスに再会するのですから、今日、神の国の建設に携わりませんか。

→あなたの番です。
□性的誘惑に負けない堤防を作り、家族と自分を守ろう。
□再び来られる主イエスに会う備えをしよう。