ヨハネ7:1~52  生ける水の川



 ヨハネ7章を要約します。
 主イエスは、秋に行われる仮庵の祭りに参加するためエルサレムに上られました。祭りに参加した大勢の人々の話題は、主イエスが救い主であるかどうかという点でした。宗教指導者のパリサイ人たちは、こうした情勢に危機感を抱き、役人を遣わして主イエスを逮捕させようとしましたが、役人たちは主イエスの教えに驚嘆したため捕らえることを断念しました。
 今回は、「わたしの時」、「生ける水の川」という言葉に焦点を当てます。

1、わたしの時

 ヨハネの福音書では、「わたしの時」と言う表現が何度も登場します。これは、主イエスさまが十字架につく時を意味しています。
 主イエスは、母マリヤに「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)と言われました。7章では、まだ主イエスを信じていない弟たちの言葉に応えて「わたしの時はまだ来ていません」(7:6)と語られました。さらに、8節、30節にも、まだ時が来ていないと書かれています。
 それが、12章23節になると「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と変化し、「自分の時を知られた」(13:1)、「父よ、時が来ました」(17:1)という表現になります。

  主イエスにとって、「わたしの時」とは、何でしょう。それは、父なる神の時、と言い換えても良いでしょう。主イエスは、十字架にかかる時がいつなのかを父なる神に問い、導きを求め、軽率な行動をつつしまれました。ご自分の使命を実行に移すタイミングを冷静に見ておられたのです。

 神は、あなたの環境を突然の濁流のように変化させ、時を教えることがあります。逆に、いつもの静かな繰り返しの中で、あなたの心に大きな変化を与えることもあります。
 「すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)と書いてある通りです。
 あなたの時を見極めましょう。あなたの時と何ですか。勇気を持って動く時ですか。はやる心を落ち着かせて、待つ時ですか。

 首から下の自由を失った星野富弘さんが、「渡良瀬川」という印象深い文章を書きました。小学生で泳ぎを覚えたての星野少年が、強い水流に流されて、岸にもどろうと必死に泳いだけれども押し流されたというのです。あの岸に戻るのをやめ、どこかの浅瀬に着くはずだと身を任せると膝下程度の水深の地点で立ち上がることができたという内容です。なにも、あの岸にもどれなくてもいいじゃないか。闘病中の星野さんは、この出来事を自分にも当てはめ、動かない体で生きる道を模索するようになります。
 これも、パーソナライズされた<わたしの時>を悟る例かもしれません。

 あなたの時とは何ですか。


2、主イエスの教え

 主イエスの言葉にゆらぎはありません。比類なき神の言葉を語られる神の子。それがヨハネの福音書に顕著な点です。はじめにことばがあり、その方が語っておられるのです。

 祭りに集まった人々は主イエスのことを話題にして、「良い人」だとか「群集を惑わしている」(12節)などと話し合っていました。「悪霊につかれています」(20節)と言う人までいました。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」(31節)と言って、主イエスの奇跡に目を留める人も大勢いました。「預言者なのだ」といったり、「この方はキリストだ」(41節)と言ったり、意見が分かれていました。(43節)

 特筆すべきは、主イエスの言葉が普通の人とはまったく異なっていたことです。
 「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15節)と、主イエスの教えを神殿で聞いていたユダヤ人たちは舌を巻きました。主イエスを逮捕するよう命じられた役人たちは、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」(7:46)と語り、逮捕できなかった理由にしました。

 主イエスは、ご自分の言葉がどこから来ているかを説明されました。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(16節)「あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。」(28~29節)6章では、「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」(6:46~47)と証言されていました。
 
 父なる神を見ていて、父なる神から遣わされていて、父なる神の言葉を語られているので、主イエスの教えは普通の人の教えとはまったく違うのです。主イエスの言葉は、哲学的な深みと深い洞察があり、人を感動させる愛の言葉です。でも、それだけではありません。信じる人の心と生活を変化させる、力ある言葉なのです。それは、仮庵の祭りの最終日、神殿の祭壇に大量の水が注がれる時期に合わせて、主イエスは印象的な言葉を語られました。他の誰がこのような言葉を言えるでしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(37~38節)
 
 主イエスを信じることは父なる神を信じること。主イエスを信じる者の心には聖霊なる神が住んで下さるので、聖霊によって生ける水の川が流れ出す。(39節)
 水が一箇所にたまるだけなら、単なるため池です。ため池はやがてにごり、いやなにおいを発し、最終的には干上がります。多くの人は、このため池のような人生を送っています。
泉は違います。地下水脈は出口を探し地表にあふれて泉となります。泉は枯れることを知りません。泉から流れ出た水は小川になり、やがて大河となって乾いた土地を潤して流れ続けます。主イエスを信じたなら、あなたは心に泉を持ったのです。父なる神に直結している主イエスを信じたのですから、あなたの心の泉は本物なのです。あなたの心で始まった生けるいのちの水は、あなたの渇きを癒すだけでなく、あなたの周囲の人々を潤す大きな流れになるのです。
さあ、今週、あなたの生ける水の川を周囲に流しましょう。周りの人の心をと具体的な必要を潤しましょう。

絢子さんは秋田の生まれで、おばあさんと寝起きしていました。ある朝、おばあさんが「おれ死ねば、ここさ入るども、んだども、どこさ、いくんだべが」という独りごとを聞きました。翌年おばあさんが亡くなり、死の意味を真剣に求めるようになりました。大学に入り、クリスチャンの先生や上級生と出会い、教会に通い、聖書研究会に出席しました。「わたしについてきなさい」(マルコ1:17)の言葉が心に迫り、この方について行きたいと願い、やがて決心、洗礼に導かれました。
田舎に帰ると親族会議が開かれ、絢子さんに信仰をひるがえすようにと圧力がかかりました。けれでも、どんなに大人が説得しても決心は変わりません。お母さんが彼女にこういいました。「おめも大変だべな。んだども、おめがあの部屋っこさ入って出てけば、なんだかたいした落ち着いた、安心した顔になってるども、あそこで何してるんだ」聖書読んで、祈っているだけだと答え、「読んでみねが」と誘うと、「んだな」と言って、一緒に聖書を読み、祈るようになり、15年後に洗礼を受けたといいます。
絢子さんは、主イエスとつながることを知ったので、神が強さを与えてくれたのです。絢子さんは、主イエスの言葉に信頼することによって、人生が変わったのです。心の底から、生ける水が流れだしたことを経験したのです。
あなたも、比類ない神のことば、主イエスの言葉を受け入れて生きることにしませんか。

「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(38節)

→あなたの番です
□あなたの使命は何ですか、それを実行する<あなたの時>はいつですか
□あなたの持っている生ける水の川を周囲に流しましょう


 



ヨハネ6:1~71  いのちのパン



  ヨハネの書き方の特徴は、一つの出来事をまず取り上げ、それに対する群集や律法学者の反応を述べ、その議論全体から主イエスがどんな方かを説明するやり方を取っています。
 6章も同様で、5000人の給食という奇跡をきっかけに、主イエスがいのちのパンであることを述べています。
 あなたにも、いのちのパンが必要です。

1、困った時に何かが起こる

 ガリラヤ湖のほとりに大群衆が押し寄せていました。男の数だけでも5000人が集まって主イエスの話を聞いていました。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」(ヨハネ6:5)

 現実的な解決がどうしても必要になった時、その時が、私たちの信仰が成長する機会になります。今、あなたが、人間関係でピンチに立った、お金が急に必要になった、病気や怪我をしてしまった、当てにしていたものが全部だめになった、などの具体的なトラブルは、あなたの信仰が成長するチャンスなのです。主イエスはピリポや弟子たちをためし、信仰を豊かにし広げようとされました。「イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。」(6節)

 ピリポは、計算しました「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」(7節)現代的に言えば年収の半分以上の費用が必要だったので、途方に暮れました。
 アンデレは、「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」(9節)を少年から分けてもらうことに成功しましたが、焼け石に水と気落ちしました。この少年は良く承知したと思います。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。(11節)

主イエスがされたことに注目して下さい。①感謝する。②分ける。主イエスの手元にあったのはパンが5つ。それも貧しい人々が食べる大麦のパン。魚が二匹。大きな魚ではなく、小魚の干したもの二つ。主イエスはそれを感謝しました。手元にあるものを感謝しました。なんと美しい姿でしょう。その後、主イエスは、それをシェアしました。

これは、私たちへの大きな励ましです。主は、わずかな食物から5000人が満腹するほどの食べ物を生み出すことのできる方です。まさに、いのちのパンです。

 大麦のパン5つと小さい魚2匹。それは、何を意味しますか。あなたの能力、あなたのお金や時間、あなたの経験、あなたの祈り、あなたの努力、あなたの熱意がそれです。そのわずかなものを心から感謝しましょう。それを使ってみましょう。


2、いのちのパン

 主イエスはどんな方ですか。主イエスは、天から下って来たいのちのパンです。ヨハネは、まるで、交響曲や協奏曲を演奏するように、同じ主題=「いのちのパン」という主旋律を何度も何度も美しく奏でています。

「わたしはいのちのパンです。」(48節)

 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(34~35節)

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(51節)

 パンは、鑑賞するために存在しません。食べることで人の栄養となり命になります。主イエスは、わたしを食べなさいと言っておられるのです。私たちが食べられるように、ご自分の命を十字架で投げ捨てて下さったのです。パンである主イエスを食べるということは、主イエスを救い主として信じるということです。(29節)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56節)

 主イエスが、体や血という直接的な表現を使ったので、聞いていたユダヤ人たちは「これはひどいことばだ」と反発し(60節)、パンの奇跡で主イエスについて来るようになった弟子たちの多くが離れていきました。(66節)

 他の福音書では十字架の前の晩に聖餐式の記述がありますが、ヨハネの福音書にはそれがありません。ヨハネは、5000人の給食の奇跡の中に聖餐式と十字架を見ていたのです。

 ある郵便局にマイクという職員がいました。彼は、お客さんに何か一言、励ましになる言葉をいうことを心に決めました。毎日、どのお客さんにも、心が軽くなるような言葉を言い続け、38年がたちました。ですから今では、切手が家に残っていても、マイクに会うため郵便局に切手を買いに来る人がいるほどになりました。

 あなたも、手にある5つの大麦のパンと小魚2つを感謝して、分けることができるはずです。

「わたしはいのちのパンです。」(48節)

 →あなたの番です
 □あなたが困った時、あなたは成長する
 □あるものを、感謝し、分けてみよう
 □いのちのパンを信じ、人々にシェアしよう


ヨハネ5:1~47 歩きなさい


 結婚していても、家族があっても、たくさんの友人に囲まれていても、私たちは突き詰めると皆、孤独です。ひとりぼっちに気づくと自分に自信がなくなります。私たちは誰か、励ましてくれる人を待ち望みます。
 主イエスは、そんな私たちを励ましてくれる方です。歩き出す力を下さる方です。


1、よくなりたいか

 主イエスは祭りのためエルサレムに上っておられたが、38年間病気で歩けない男とベテスダの池で出会った。

そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5:5~6)

 「よくなりたいか」と主イエスに尋ねられて、男はイエスでもノーでもない答えをした。すべて他人が悪い、運命が悪い、自分は被害者だ。彼は、主体性を失った否定的な男だった。

病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)

この男は、誰かに似ていませんか。それは、私であり、あなたです。主イエスは、今日も、同じ質問をされます。「よくなりたいか」あなたは何と答えますか。
あなたにとって、38年間の病気とは何でしょう。絶対に無理だ。解決はありえない。変わりようがない。それは、一つの強固な信仰のようなものです。
そこから、一歩出ましょう。人のせいにしない。自分の能力や可能性だけで計算しないことです。よくなりたいです、と主イエスに答えましょう。
 主イエスは言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」主イエスを信じて歩き出せば、あなたは変わります。道は開けます。信じましょう。

アメリカ人で、ある地位の高い方に、困難な依頼をする必要が発生しました。普通に考えると「無理だよな。初対面だし。」と最初は気が重かった一件がありました。でも、気を取り直し、祈って、電話でアポイントを取ることにしました。受付の人が取り次ぎ、その人物の秘書に取り次ぎ、気づいたら本人と直接電話で会話していました。その会話で、解決の方向性が一気に開けた経験をしまし、主をあがめました。

歩き出してみましょう。


2、主イエスの生き方

男が主イエスにいやされたのが安息日だったので、ユダヤ人が主イエスを批判しました。病人をいやすことが、仕事に当たるというのです。血の通った人間なら、良かったね、38年間も病気だったのに完全にいやされて良かったと喜ぶところですが、律法主義に凝り固まった人々は規則違反だと声高に主イエスを責めました。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(10節)

 主イエスは、こうしたユダヤ人の批判に答えて、ご自分がどんな姿勢で生きているのかを説明されました。それが、11節から47節までの内容なのです。

 主イエスの主張を分かりやすく言えば、父なる神がなさっている事、願う事をしているだけだというのです。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(17節)

 父なる神は世界創造の働きを6日間で終え、7日目には休まれました。けれでも、人をあわれむという働きは一日として休むことなく続けておらます。詩篇121篇にあるように、主は眠ることもまどろむこともないお方で、私たちへの愛は24時間降り注いでいて下さる方です。だから、主イエスは38年間病気だった人をあわれまれたのです。「ですからわたしも働いているのです」

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(19節)

主イエスは、父のしておられることをいつもじっと見ておられます。父のされる事と同じことをします。何でもします。これが、主イエスの行動の動機であり、勇気の源泉なのです。

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。(30節)

 主イエスを遣わした方、つまり父なる神のみこころを求めて、それを行うことが主イエスの行動原則です。37節の言葉をきちんと読めば、主イエスが父なる神の姿を見ていたこと、父なる神の声を聞いていたことがはっきり分かります。
 主イエスは、父なる神だけを見つめている方なのです。人の賞賛など必要としません。今、一人で正義を行うとしている人、誰かのために匿名で良い事をしようとしている人、主イエスの態度を学びましょう。

 わたしは人からの栄誉は受けません。(41節)


 父なる神がなさっている事、願う事をする。それが、主イエスの行動原則です。私たちも、主イエスの行動原則を真似したいです。

 奥さんが52歳でアルツハイマーになり、奥さんを精一杯看護した男性がいました。その方は、どんな事があっても日曜には礼拝に行き、奥さんに牧師のメッセージを教え、共に賛美歌を歌ったといいます。主イエスを見上げることが、看護の源泉になっていたのです。

 主イエスの姿を真似ることが、クリスチャンの生き方の基本です。それは無理だというなら、38年病気だった人と同じになります。
あんな消極的で、否定的で、他人のせいにするような人間が変えられたのです。主イエスは、今日も「良くなりたいか」と聞いて下さいます。私たちも、主イエスだけを見つめて、歩き出しましょう。

 →あなたの番です
 □よくなりたいとはっきり口に出しましょう。
 □主イエスの力を信じて、自分の足で歩いてみましょう。
 □主イエスの心と行動を、自分の行動原理にして今週を過ごしましょう。

ヨハネ4章1~54 サマリヤの女



 主イエスは、人の心の井戸を深く深く掘ることのできる方です。サマリヤの女との会話を見ると、その意味が分かるでしょう。

1、3つの層

主イエスは、サマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください。」(7節)と話しかけました。飲み水についての世間話が、やがて、人の心を本当に満たす<いのちの水>についての話題に変わっていきます。

ヨハネの福音書4章を読んでいると、人の心は3つの層からできているように思えてきます。第1の層は表面的な満足の層。第2の部分は精神的満足の部分、第3の部分は神に満たしてもらう層。

 多くの人は、表面的幸せを追いかけています。ビジネスが成功すれば満足、金が入って幸せ、形だけは結婚できれば嬉しい。表面的な幸せは一時的満足なので、必ず渇きを引き起こします。それは、CSルイスのナルニア国物語で、雪の女王がエドモンドに与えるプリンに似ています。食べると天にも昇るほどおいしいのですが、とたんに飢餓感に襲われます。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13~14節)

 次に主イエスは、サマリアの女の心を深く掘り下げていきます。夫を連れてきなさいと命じました。女の心に空虚感を与える問題を直視させます。女が5人の男と離婚し6人目の男と住んでいる、と主イエスは指摘(16~18節)、精神的レベルにおいても満たされていないことを気づかせます。精神的レベルの満足は、この女のように愛がテーマになったり、正義、真実、生きがいなどが取り扱われます。

 最後に主イエスは、霊の部分を取り扱いました。礼拝において大事なのは、礼拝する場所ではなく、霊だと主イエスは言われました。霊とは、神とつながる人間の心の最も深い部分と理解できます。人の真の幸せはこのレベルで決まります。いのちの泉はこのレベルにあります。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(24節)

まこと(アレーセイヤ=真理)は、神の真理、神のみことばの真理と捉えることができます。ユダヤ人は、聖書全部を持ち神のみこころを知っていましたが、肝心の心、神とつながる霊の部分を失っていました。サマリヤ人は、モーセ五書だけを持ち、異教の神々の習慣を取り入れて、礼拝における真理を失っていました。
霊の部分で神と心をつなげ、みことばの真理に根づいた礼拝をしましょう。ですから、今日のメッセージは感動したとか、つまらなかったと言ってふんずり返っている姿勢は礼拝者の姿勢でないことは明白です。

 サマリヤの女は霊の目が開かれ、主イエスがメシヤではないかと考え始めます。主イエスが「あなたと話しているこのわたしがそれです」(26節)と明言されましたが、ギリシア語ではエゴー・エイミ、英語ならI amです。出エジプト記3:14「わたしはある」(I am)という神の答えを彷彿させます。主イエスは、神であり、まことの救い主なのです。


2、畑は色づいている

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(35節)

神を求める人がたくさんいるのにあなたたちは気づいていないと主イエスは警告されました。サマリヤの女はせっかく汲んだ水を井戸に置いたままで町に入り(28~29節)、主イエスとの出会いを伝えると町の人はその言葉で主イエスを信じました。畑は色づいていたのです。

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(39節)


3、ありえない出来事

 カペナウムの役人は、息子の病気のいやしを求めて主イエスのもとに来ました。彼の頭にあったのは、主イエスが自宅に来てくれて、息子の上に手を置き、厳かな祈りをささげ、いやしてくれることでした。役人は、主イエスを使用人の一人のように使っています。役人は自分の立てた計画の実行だけに熱心でした。それで、主イエスは、あえて次にように言われました。

「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50節)

彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。(51~53節)

54節によれば、これが第2のしるしです。主イエスは、死にかかっている病人をいやすことのできるお方です。遠く離れている人の病気も、言葉を発するだけで癒すことのできる神です。それで私たちは、遠くにいる家族や友人の病気のいやしを祈り求めます。

主イエスは、私たちの想像を超えた形でみこころを実現されます。主のおことばを信じて、私たちの予想外の神のみわざを体験しましょう。

ピーターとシャロンの夫婦には小さな女の子が二人いました。普段出張の多いピーターはこの日も早朝から飛行場にいて、「おはよう、元気かい」と妻に電話してきました。妻は、「大丈夫」と口では言いましたが疲れが極限に達していました。シャロンは汚れた食卓を見ながら、涙を流していました。40分後、子供たちの着替えを手伝っているとドアが開き、ピーターが立っていました。僕を必要としているのはニューヨークではなくて、君だよ。部長に言って、休暇をもらったよ。その日は、彼と妻と子供たちで公園に行って遊び、夜は子供たちが寝てから夫婦でいつまでも語らいました。30年たっても、シャロンはこの日のことは忘れません。

主イエスが、あなたの人生のドアを開けて、君のために来たよという語りかけを聞いて下さい。主イエスは、あなたの心に湧きあがる泉を与え、あなたの生活を生き生きさせ、あなたの問題を思いがけない方法で解決してくださる方なのです。

→あなたの番です。
□心の一番深い部分で主イエスとつながりましょう
□畑は色づいて、収穫の時です。
□主イエスの言葉を信頼し、思いがけない解決を信じましょう。