ローマ10:1 私たちの心の望み

今日は、伝道について、ゆっくりと考えてみましょう。

1、伝道における失敗とは?

 私は生涯一度も失敗したことがない、と言う人がいるでしょうか。もし、いたなら、その人は、なにもしなかった人だと思います。
 伝道には失敗はありません。むしろ、失敗をしなさすぎるのです。もっと、「失敗」しましょう。

 リー・ストロベルは長年無心論者の新聞記者として生きてきました。1981年に主イエスを救い主と信じました。そんな時、会社で、教会の礼拝に行ったそうだね、どうだった、ボスに聞かれ、心が動揺しました。正直に話せば、周囲の新聞記者仲間から馬鹿にされるかもしれない。でも、「私は福音を恥とは思いません。」(ローマ1:16)、というローマ1章の言葉に励まされ、「もしお聞きになりたいのなら、ボスの部屋に行かせてもらえませんか」と答え、結局45分間も聞いてもらうことができました。これが、主イエスを伝えて生きるというライフスタイルの幕開けになったと「The Unexpected Adventure: Taking Everyday Risks to Talk with People about Jesus」という本に書いています。

 しばらくしてストロベルさんは、新聞社の友人のデスクを訪れ、イエスさまのことを伝え、イースターに教会に行こうと誘いました。でも、まったく関心を示してくれません。失敗したのです。
 ところが数年後、ストロベルさんは、一人の男性から礼拝後に挨拶され、あなたのおかげで、私は救われましたと言われましたが、見覚えがありません。
 ストロベルさんが知人に伝道している時、私はあの部屋にいたのです。職を失い、新聞社の知り合いがタイル修理作業を回してくれて、ひざをかがめて作業をしていた時にあなたの声を聞いたのです。私にはイエスさまが必要なんだ、と本気で思ったので、妻とティーンエイジャーの息子を誘いました。妻は、驚いた顔でしたが、結局、みんな救われてここにいるのです。
 伝道には、失敗などないのだ、という事を励ましてくれる実話ですね。

 パウロの伝道旅行を見ると、成功と失敗が入り混じっていることが分かります。
 第1回伝道旅行では、大勢のユダヤ人が信じる事と、別なユダヤ人に憎まれ殺されそうになることが入り混じっています。(使徒13~14章)何が成功なのか、何が失敗なのか、分からなくなるほどです。でも、それで福音は広がっていったのです。

 キャンパス・クルセードの創設者ビル・ブライトの次の言葉は励まされます。
 「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によって、キリストを伝え、結果は神におゆだねすることである。」"Success in evangelism is taking the initiative to tell others about Jesus, in the power of the Holy Spirit, and leaving the results up to God."


2、パウロの望み

 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。(ローマ10:1)

 パウロの心の望みは、彼ら、つまり、同国人であるユダヤ人がイエスさまを信じて救われることです。

  「心の望み」という言葉をパウロは使っています。それは、望みの中でも、最も心の奥深くにある願い、一番強い望み、という意味でしょう。パウロは次の言葉で、その心の願いがどれほど強いものかを表しています。

 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1~3)


3、私たちの望み

 私たちの望みもパウロと同じです。身近な家族、親戚、友人がみな救われてほしいのです。日本人全員が救われてほしいです。
 
 誰に救われてほしいのか、ノートに書き出してみましょう。
 右側に、救われてほしい人の名前を書きます。
 書きましたか。
 次に、左側に、この人は救われないだろう、イエスさまを信じるのは困難だろと思われる人の名前を書いて下さい。
 そのリストをよく見直して下さい。どんな気持ちになりますか。右側も左側も同じに見えてきますね。そうなんです。同じことなのです。私たちは、もしかしたら、左側の困難リストの一人だったのかもしれません。

 次にしてほしいことは、イメージすることです。その人たちが主イエスを信じて、あなたと一緒に教会に行くシーンを心に描きましょう。礼拝で隣り合い、一緒に賛美する様子を夢見ましょう。
パウロは、次のように語り、異邦人が救われる様子を先取りしてイメージしています。

 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」(ローマ15:21)


4、神の願い

 パウロの願い、私たちの願い、と順に見てきました。次は、神の願いが何かを見ましょう。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第2ペテロ3:9)


5、どうすればいいのか

 1)まず、祈りましょう。
 リック・ウォレン牧師は言いました。教会に誘われて人は断ることはできますが、祈りの力を拒絶できる人は地上にいない、と。とりなしの祈りを防ぐために壁を作れる人は誰ひとりいないのです。祈りは力があります。
 救われてほしい人の名を祈りのノートに書いて、毎日祈りましょう。

 一緒に食事する機会があったら、今、祈っていいですかと聞いて、声を出して祈ってみましょう。相手のために祈るのです。

 クリスチャンを見つけるとくってかかっていたような青年がいました。ある時、年配のクリスチャンの方に祈ってもらい、帰宅する車の中で自分の病がいやされていることに気づき、主イエスを信じたというあかしを聞いたことがあります。主は、私たちの祈りを通してもみわざを為してくださるのです。

 2)主イエスを信じてほしい人と、何らかのコンタクトしましょう
 この1ヶ月の内にアクションを起こしましょう。どこかに一緒に行くのもいいです。食事はとてもGoodです。

 3)耳の伝道をして、相手の心の願いを聞き取り、共感しよう
 会うことができたら、心を込めて相手の話を聞きましょう。聞くことは愛です。聞いてくれる人に、人は心を開きます。

 4)家族には、言うべきことがある
 伝道したい相手が家族なら、まず心を込めて「ありがとう」を言うべきです。相手に迷惑をかけてきたと思うなら、「ごめんなさい」をきちんと言いましょう。この二つの言葉が、愛と真実さを伝えることになります。

 このようなプロセスは、畑仕事を例にとれば、地面を耕す作業だといえます。草を取り、石や切り株を取り除け、肥料をまいて、良い土地に福音の種をまくのです。

 5)聖書を開いて、主イエスを言葉を伝えよう

 聖書の言葉を直接紹介しましょう。教会や聖書の周辺的な事を話すのではなく、主イエスを伝えるのです。

 ウイリアム・ムーアという男性は、泥棒に入った家の男性を射殺した人物です。ムーアのお母さんの願いでクリスチャン二人がが福音を伝え、ムーアはイエスさまを信じました。生まれ変わったムーアは、刑務所で通信教育で聖書を学び、謙虚で、誠実な生き方をするようになりました。やがて、囚人だけでなく、刑務所外の人まで相談に来るような人に変えられ、最終的には罪が赦され、釈放され、牧師として働いています。彼が救われたとき、こう言ったのです。
  「主イエスが私を愛していると、誰からも聞いたことがなかった。主イエスが、私のために命を捨てて、私の罪を赦してくださったということを、聞いたことがなかった。」

 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:14)

 あなたが伝えないなら、一生、主イエスの福音を聞かずに生涯を終える人がいるかもしれません。

 あなたの祈りと、勇気が、その人に永遠の祝福をもたらします。

 →あなたの番です
  □祈る
  □こちらからコンタクトを取る
  □聞く
  □家族には、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言う
  □聖書を開いて、主イエスを紹介する

使徒9:26~28、11:22~26 メンタリング

送り出す教会になりたい。そのためには、クリスチャンとしてしての基本を確実に身に付けた人を育てる必要がある。どんな方法があるだろうか。
 たとえば、礼拝に忠実に出席する。ディボーションを続ける。教会を愛し、忠実に奉仕する。スモールグループに加わる。これらは、クリスチャンとして健全に成長するために不可欠な事柄です。
 それに加えて、今日は、メンタリングという事を考えてみたいのです。


1、メンタリングとは何か

 メンタリングとは、クリスチャンとしてのトータルな成長を促すことを目的にした、1対1の人間関係と定義できます。教え導く人がメンター、教えられる人をメンティーと呼びます。
 (メンタリングは男性が男性を導き、女性が女性を導きます。異性間のメンタリングは不適切で絶対にしてはいけません。男性牧師や男性伝道者ですら、女性を個人的にメンタリングしてはいけません。)

 教会に長く通っているけれど、信仰が不安定で、霊的成長が遅く、聖書から個人的に語られた経験がなく、他の人と一緒に祈ることが極端に苦手で、問題に振り回され、生活スタイルが普通の人と変わらないという不時着しそうな超低空飛行のクリスチャンがいます。

 一方、日曜礼拝に最高のプライオリティーを置き、毎日聖書を読み祈る習慣を身に付け、仕事や家庭にクリスチャンとしての生き方が反映され、主イエスの福音を分か合うことを願ってトライし、心の深い部分で主の取り扱いを受け、人格が変えられている人がいます。

 何がどう違うのでしょう。クリスチャンとしてトータルに成長していいる人は、最初に掲げた項目以外に、メンターから学んでいる場合がとても多いのです。

 机に座って本を読む、レクチャーを聞くというタイプの勉強だけでは信仰の成長には不十分です。人間の生き方、考え方、感じ方、行動などのダイナミックな変容は、バランスの取れた信仰の先輩にコーチングされる中で多くの場合起こります。
 主イエスが12人という限られた人を選んだ理由がこれで分かってきましたね。主イエスは、12人と生活を共にし、集中して12人を教えました。折々に、ペテロやトマスやアンデレに個人的に語られ、叱責されたのは、まさにメンタリングなのです。

 今日の結論は二つ。あなたがメンターになりましょう。あなたもメンターを持ちましょう。



2、メンターとしてのバルナバ

 聖書に登場する代表的なメンター、バルナバからメンターの仕事とは何かを学びましょう。

 第1に、メンターは、引き受ける人です。

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:26~28)

 新改訳は「引き受ける」と訳していますが、NIVはtook himとけ訳しています。これは文脈から読み込んだダイナミックな訳なのかもしれません。実際、バルナバはパウロの身元引き受け人になったも同然でした。
 パウロ(サウロ)が回心したと聞いても12使徒は誰も信じませんでした。アルカイダの幹部が昨日回心し、今日礼拝にやって来たようなものです。機関銃を手に、手榴弾を腰にぶらさげ、血走った目でやって来たら、みんな引いてしまうでしょう。
 バルナバは危険を冒してパウロの話を聞き、パウロの回心が本当だと確信しました。それで、十二弟子のもとに行き、バルナバが証言したのです。最初パウロは使徒たちの前で話すことすら許されていませんでした。バルナバは、パウロと本気で関わることに決めたのです。メンタリングとは、相手を責任を持って引き受けることです。

 第2に、メンターは、イニシアティブをもって訓練します。

 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒11:22~26)

 バルナバはパウロを「捜し」、「会い」、「連れて来た」。人をやって呼び寄せたのではありません。他人が出かけても、承諾しなかったかもしれません。連れて来るというイニシアティブはバルナバが取りました。
 パウロの律法学者時代の気位の高さや凝り固まった律法主義的考え方は、すぐには抜けなかったと私は予想します。パウロは忍耐を持って、教え、正し、見本を示したはずです。この訓練はon the job training の形で長期間続いたと思われます。
 イニシアティブとは、愛のイニシアティブです。まず、バルナバがパウロを愛しました。可能性を信じるイニシアティブ。期待するというイニシアティブをバルナバが持ったのです。

 私は、ハワイの牧師にメンターになってもらい、2年半近くの期間、月に二度お会いし、様々な励ましを頂いた経験があります。ハワイのビーチで、「あなたたちは、これから、新しいミニストリーに備えるのです」という言葉を頂き、どんなに励まされたか分かりません。その時の黒田先生は涙を流しながらそう励まして下さいました。

 バルナバとパウロがアンテオケ教会で過ごした期間、どんなメンタリングが行われたのか、聖書は沈黙しています。でも、10年ほどの期間、パウロがバルナバからのメンタリングを受けたことは間違いありません。パウロは、主イエスによって救い出され、バルナバによってキリスト者にされた、といってもいいかもしれません。


 第3に、メンターは励ます人です。

 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(使徒4:36~37)

 バルナバという名は本名ではありません。ヨセフが本名でした。あだ名は十二使徒が付けたのです。ペテロやヨハネが、「あなたは慰めてくれる人だ、励ましてくれる人だ」と言ったのです。だから、バルナバは励ますメンターになりました。


 第4に、メンターは与える人です。

 バルナバは畑という大きな財産を売って、それを献金しました。ですから、バルナバは与えることにおいて、躊躇のない人です。バルナバは、自分の時間を与えたことでしょう。自分の知識、経験、受けた訓練をパウロに与えたでしょう。とりなしの祈りをし、いつもパウロを見守っていました。自分のすべてを与えるといっても過言でありません。

 第5に、メンターは、去って行ける人です。

 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。
 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。(使徒15:36~41)

 落伍者マルコを巡り、パウロとバルナバは議論しました。パウロはマルコを伝道旅行に同行することを拒否し、バルナバは連れて行くと主張。意見が折り合わず、パウロとバルナバは二派に分かれて出発しました。この後、バルナバは聖書に登場しなくなります。分かることは、脱落者マルコを立て直したということです。(第2テモテ4:11)
 喧嘩別れのようではありますが、摂理的に、バルナバとパウロが分かれる時が来たのだと思います。バルナバは、完全にパウロを育て上げたといえるでしょう。
 メンターは、カウンセリングで言う「共依存関係」に注意しないといけません。自分の弟子を囲い込むようになっては、本末転倒です。自分の弟子ではなく、主イエスの弟子を育てるのがメンターの仕事です。

 バルナバとの苦い別れは、パウロの心に警告を残したでしょう。パウロは、後に、テモテという若者を選び(使徒16:1~3)今度は自分がメンターになって育てました。バルナバから受けたと同じことをしてテモテを育てたのです。(第2テモテ2:2)パウロはメンターとしての自分の引き際をわきまえていたはずです。
 
 神は、あなたにふさわしい信仰の先輩を、その時々に用意してくれます。そのメンターから学びましょう。そのメンターの生き方を模範にしましょう。そして、あなたがメンターになりましょう。

 バルナバは、引き受ける人、イニシアティブをもって訓練する人、励ます人、与える人、去って行ける人として、パウロと関わりました。バルナバこそメンターの中のメンターです。

 →あなたの番です
 低空飛行の中途半端なクリスチャンから脱出しましょう。キリストを喜び、成長し続けるクリスチャンになりましょう。

□メンターから学びましょう。
□あなたが自身がメンターになりましょう。あなたが導く人は誰ですか。

使徒13:1~3 送り出す教会とは

今日は、送り出す教会のお手本、アンテオケ教会の姿に目を留めながら、自分は「送り出す人」なのか、「送り出される人」なのか、を考えてみましょう。


1、送り出す教会

 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると……(使徒13:1~2)

 使徒11:22~26にあるとおり、アンテオケ教会は質も量もぐんぐんと成長しました。アンテオケ教会の開拓はAD30年代、今日の箇所の13章はAD47年前後なので、教会の歴史も10年を過ぎています。1節の記述で分かるように、アンテオケ教会には、異なる賜物、異なる背景、異なる人種からなる優れた教会指導者に導かれていました。

 アンテオケ教会の指導者たちは主のみこころを尋ねたのです。教会が祝福された時に、主の指示を仰いだのです、

 教会が拡大し、喜びに包まれ、教会に勢いがあるとき、アンテオケ教会のリーダーたちは、断食をして祈りに専念し、特別な礼拝を行い主のみこころがどこにあるかを求めたのです。自分たちの教会が大きくなるだけで良いのだろうか。自分達の計画や希望をひとまず横に置き、ただ主のみこころを求めたのです。ここが素晴らしい点です。
 キリスト教主義の学校やお年寄りの施設を作ることもできました。ホームレス支援のミニストリーも病院を建てることも可能でした。

 私達も、アンテオケのリーダーたちのように、虚心坦懐、ただ主のこころを求める時です。



2、送り出される人

 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。(使徒13:2~3)

 こんな礼拝をしてみたいですね。聖霊がダイレクトにみこころを教えて下さる礼拝です。エルサレムから派遣された聖霊に満ち円熟した人格を持つ聖書教師のバルナバ、バルナバに見い出された情熱と神学の人パウロ。この二人が選ばれたのです。
 「わたしのため」とあります。送り出される人は、神のために出て行くのです。「わたしが召した任務」とあるように、これは神から与えられた使命なのです。送り出される人とは、聖霊に押し出される人のことです。

 私たちの教会から日本に帰る青年、若いカップルが多いですが、帰ってしまうのではない。神が選んで、日本に遣わされたのだと私は理解するようになりました。小さな宣教師となって送り出されるのだと確信するようになりました。

 あなたは送り出される人ですか。送り出される人には以下の特徴があります。

 神に選ばれた
 使命を与えられている
 主と教会に期待されている
 他の人から支援を受ける
 祈られる
 神に頼らないと使命を達成できない
 将来は未知数
 使命達成のためトレーニングが必要
 ネットワークを大切にする
 遣わされる喜びを知っている

 ところで、両手を合わせた祈りの手の絵を、キリスト教関係の本でよく見かけますね。あの絵は、アルブレヒト・デューラーの作品です。絵の好きだったデューラーとその友達のハンスは、都会に出て絵の勉強をしたいと望んでいましたがお金がありません。最初に君が勉強に行けばいい、その間、僕が仕事をして援助するとハンスが言いました。デューラーが絵の勉強を終えて、交代しようと思いましが、ハンスは激しい肉体労働のせいで彼の手の指は曲がり絵筆が持てない手になっていました。その友達の手をモデルに、デューラーが描いたのが有名な祈りの手だという逸話が伝えられています。

 日本からアメリカに来た留学生、青年、海外駐在者などは、送り出される人になり、日本や世界に遣わされるのです。用意はできていますか。十分な訓練が終わっていますか。不安な部分があるなら、今年、しっかりとトレーニングを受けましょう。


3、送り出す人

 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
                                     (使徒13:3)

 「断食」とあります。断食は祈りに専念することを意味します。神の助けがあるように、宣教活動が祝福されるよう、道の安全が守られるようにと、まごころから祈ったのです。
 「ふたりの上に手を置いて」とあります。普通按手の祈りは、神の力の付与を意味します。宣教の使命達成には神の力が不可欠です。それだけでなく、アンテオケ教会を代表して遣わすという意味合いも込められているでしょう。

 アンテオケ教会全体は、二人のために宣教師派遣式を行ったのでしょう。教会全体がバルナバとパウロを派遣したのです。この二人が、世界の歴史で最初の宣教師になりました。

 オズワルド・スミスはカナダの伝道者で、宣教師になることを願いましたが病弱のため過酷な宣教地での生活は無理でした。そこで、ピープルズ・チャーチを設立し、500人の宣教師を派遣したり、経済的に援助しました。
 オズワルド・スミス牧師は、以下のたとえを使って、宣教は送り出す者と送り出された者の共同作業だと説明しました。深い井戸に落ちた人を助けるため、ロープで救助者を送り込んだとします。無事助け出したとき、中に入った人が助けたのだろうか、それとも、ロープの端を持って引き上げた人だろうか。両者が助けたのです。

 送り出す人には以下のような特徴があります。

 私は、今、出て行けない
 年齢や立場的には、父や母、兄や姉、先輩たち
 かつて送り出された経験がある
 今度は、自分が誰かをサポートする番だと思っている
 とりなしの祈りをする
 若い人や後輩を育てる使命を感じている
 「私は、ロープの端を握る人」だと決意している
 一人では不十分だから、誰かにも声をかける
 世代交代を喜んでいる

 ・送り出される人は、訓練を受けて成長し、宣教地で主のみわざを体験できます。
 ・送り出す人は、訓練をほどこす立場で、ささげる立場で成長し、与える喜びを体験します。

 江戸時代末期、岡山生まれの緒方洪庵という蘭方医が大阪で開業して患者を助けながら、塾を開いて若者を育てました。その「適塾」で大村益次郎や福沢諭吉などが学びました。先に学んだ者は、若者に学問を教えることが社会に対する恩返しであるという思想が当時あったと歴史小説家の司馬遼太郎は言っています。
 緒方洪庵が塾生に与えた十二か条の戒めの第一条が次の文章です。
 「医師がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ。」
 「医師」という部分を、「クリスチャン」に置き換えることができませんか。

 タイタニック号が沈没したのは今から約100年前でした。死亡したのは、子供が56人、女性が114人、男性は1339人です。船の乗組員に男性が多かったことは想像できまうが、あまりにも男性の死者が多いです。
 タイタニックに乗り合わせたスコットランドの牧師ジョン・ハーバー先生は、人々が救命ボートに我先にと群がったとき、女性と子供、それに、主イエスを信じていない人を優先しなさいと叫んだそうです。クリスチャンの男性たちは、それに聞き従ったのです。見事な覚悟です。ハーバー牧師は、船が沈没した後も、人々の間を泳ぎまわり、「あなたは主イエスを信じて救われていますか」と語りかけ、まだ信じていない人がいたら、主イエスを信じなさいそうすれば救われる、と語り続けたそうです。
 ある男性の前で、そう語ったハーバー牧師は、彼の目の前で水中に沈みました。目撃した男性は、主イエスを信じ、その後、救助されハーバー牧師のことを後世に伝えたといいます。

 この世界は、沈没している大きなタイタニックです。
 送り出されて主イエスを伝える人になりましょう。
 主イエスを伝える人を送り出すために、サポートしましょう。


 →あなたの番です
  □送り出す教会になりましょう。
  □あなたは、送り出される人ですか。必要な準備をしましょう。
  □あなたは、送り出す人ですか。祈りを、訓練を、援助をしましょう。

使徒11:19~21 送り出す教会のはじまり

送り出す教会になりたい。
 それが、カリフォルニアに来てから祈り求めてきて、主に導かれたビジョンです。今日は、新約聖書の最初の送り出す教会、アンテオケ教会の始まりに目を留めましょう。

1、散らされた人たち

 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。(使徒11:19)

 アンテオケ教会は、偶発的にできた教会です。エルサレムで迫害を受けたクリスチャンが着の身着のままでたどり着いた場所が、エルサレムから北へ360マイルにあったアンテオケだったのです。主イエスの十字架がAD30年ごろなら、その数年後の出来事になります。

 教会の基礎を築いた人々は、散らされた人でした。たまたま流れ着いた場所、それが宣教地になったのです。不本意と思える職場、第3希望だった学校、知り合いがいたのでやって来た、色々な理由で今の場所にいますが、散らされた場所、そこが主の導かれた宣教地なのです。

 散らされた人はお金も、家も、仕事も、立場も、一切を失ったいました。持っていたのは主イエス・キリストの福音だけでした。美しの門でペテロが、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・ キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)と言った心と同じです。



2、名のない普通の人


 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて(使徒11:20)

 教会の礎を築いた人々の名は不明です。有名な伝道者でも、弟子でも、教会指導者でもなかったのです。普通の人、目立たない人でした。それも、幾人かが伝道したに過ぎませ。

 伝道は、誰か有名な人、立派な人が用いられると考えやすいのですが、ここでは名前さえ記録に残らなかった人たちが主に用いられました。「主の御手」(21節)があるとき、宣教のわざは進むのです。



3、外国生活者

 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。(使徒11:20~21)

 キプロス人とは地中海のキプロス島で生まれ育ったユダヤ人のことです。クレネとはエジプトの西、リビアの海岸都市のことで、クレネ人もやはり外国育ちのユダヤ人のことです。

 これらの人々は、普通のユダヤ人と違って、海外生活経験がありました。ユダヤ人の言葉ばかりでなく、当時の国際語ギリシャ語も話せました。
 現代風に言えば、アメリカの市民権やグリーンカードを持っている人や、アメリカ留学をしている日本人と同じです。つまり、「変な日本人」が宣教に用いられるのです。海外生活経験者は、自国の文化に縛られない自由さを持っています。真理だと分かったら、まっすぐに実行できる力を持っています。神は、そうした変なユダヤ人を用いて異邦人伝道の突破口を開かれたのです。

 私たち海外生活者は、主から期待されています。大胆に、福音を語りましょう。

 送り出す教会とは何か、次回ゆっくり取り上げます。



→あなたの番です
□散らされた場所は、あなたの宣教地です
□問題を抱えた、弱さを持った人が伝道で用いられます
□主は海外生活経験者に期待しておられます