マタイ1:18~25 ヨセフの勇気

 ヨセフがいなければ、クリスマスは無かったかもしれません。


1、絶望

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ1:18)

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」とあります。ヨセフとマリヤは、正式な婚約期間に入っていました。当時のユダヤの習慣では、婚約した男女はすでに夫婦とみなされました。マリヤは、天使ガブリエルの言葉を聞き、聖霊によって身ごもったことを知り(ルカ1:26~36)、妊娠の事実を婚約者のヨセフに告げたのでしょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1:19)

ヨセフは「正しい人」だったので、激しく悩み、混乱し、絶望しました。ヨセフには二つのチョイスがあったのです。
一つは、マリヤをふしだらな女性として公に訴えることです。そうすれば、マリヤは死刑です。もう一つは、内密に婚約破棄することです。マリヤは生きて行けます。でも、ヨセフは何も説明できません。すべてを胸の内にしまうことになります。

ヨセフはマリヤを信頼していたし、愛していたのでしょう。でも、マリヤの口から聞いた説明は信じられません。若いヨセフが悩んだ末に出した結論は、マリヤを内密に去らせることでした。ヨセフの心は定まり、今後の方針を「決めた」のです。ヨセフは勇気ある決断をしました。男です。

物事には、あれか、これかの二つではなく、人間が及びもつかない第三の道があります。ヨセフはこの時、第三の道、神の道があることを知りませんでした


2、恐れ

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(マタイ1:20)

内密にマリヤを去らせると決めても、まだヨセフは思い巡らしていました。つまり、決断がぐらついていたのです。納得できなかったのです。

聖霊による妊娠というマリヤの言葉を信じたいのですが、恐れがあって前に進めません。そんな事は聞いたことがない。ありえない。世間の人は何と言うだろう。ヨセフは騙された、まぬけな亭主だと噂するかもしれない。

そんな時に、天使が夢に現れました。第三の道を伝えに来たのです。

「ダビデの子」と天使が呼びかけ背後に深い意味がありました。ヨセフ、あなたは自分がダビデの子孫だという自覚を忘れたのか。まことの救い主は、ダビデの家系からしか生まれない。ヨセフ、あなたはダビデの子孫、ダビデの子だ。

「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と天使は言いました。
ヨセフ、あなたは何を恐れている。人の目、社会の批判を恐れているが、恐れよ止めよ。神が全責任を取るという時に、神は「恐れるな」と言われます。

本当にマリヤを愛しているなら、彼女の言葉を信頼しなさい。あなたが信じないで、誰が信じるか。マリヤが誠実で、嘘のない人だとあなたは知っているはずだ。今こそ、マリヤを迎えなさい。恐れるべき方を恐れなさい。神に不可能はない。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊による。あなたは、神に選ばれた。神の信頼に応えなさい。恐れを捨てなさい。神は、将来にわたってずっと、あなたと共におられる。


3、救い主

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)

生まれる子供が男の子であると天使は明言した。名前は、「イエス」という名にするよう天使は命じました。その名の意味は、当時誰でも知っていました。「イエス」は、「主は救い」を意味しました。

主イエスは、ご自分の民をその罪から救うために生まれる方です。

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:21~23)

この福音書を書いたマタイは、マリヤの妊娠について旧約聖書的な解説を挿入しています。ヨセフよりも700年前に活躍した預言者イザヤが、処女から生まれる救い主を予告していました。イエスというお方は、わたしたちと共におられる方です。

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイ1:24~25)

ヨセフは、主の使いの言葉をそのまま受け止め、妻を迎え入れ、御使いの言った通りに、子供が生まれるとイエスとなづけたました。

聖霊による妊娠は、アクシデントや偶然ではなく、神の必然、神の予定だったのです。マリヤを訴えるという道ではなく、また、内密に婚約破棄にするのでもない、マリヤを正式な妻として迎え結婚する道があったのです。これが、第三の道、神の計画なのです。神の計画を歩むこと、それこそが、神の栄光を表す人生です。

2003年10月31日の朝、13歳のベサニー・ハミルトンはハワイ州カウアイ島のハエナビーチにいました。
クリスチャンの両親に育てられ主イエスを救い主として信じていた彼女は、本格的にサーフィンのトレーニングを受けていました。その日も、サーフボードに横たわり左手だけを海の中に入れて良い波が来るのを待っていました。突然全身に電気が流れたようなショックを受け、辺り一面は血の海になりました。巨大なサメがベサニーの左腕をボードと一緒に食いちぎったのです。神さま、岸まで帰れるように助けて下さいと祈りながら右手でパドリングをして岸を目指し、救助され、緊急手術を受けて命を取りとめました。
クリスチャンの友人はベサニーにエレミヤ29:11の聖書の言葉を届けました。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
ベサニーは、サメに襲された事故を神の計画と受け止め直しました。翌11月、事件から1か月後の感謝祭の前日、ベサニーは再び海に立ち、サーフィンを再開しました。二年後、ベサニーは全米大会で優勝、4年後にサーフィンのプロになり、6年後世界ジュニア大会で準優勝し、現在は結婚して子供もいます。
彼女は言います、私のことを見て勇気を感じてくれる人がいたら、左腕を失ったことは無意味ではなく、神のご計画があったと分かると。

ヨセフは、第三の道に目覚めました。事故や災難に思えた出来事が、神の計画だと分かったとたん、神の計画の中を歩む幸いに気づき、勇気が与えられました。救い主イエスの誕生は、絶望と恐れを乗り越えたヨセフによってもたらされたのです。

船は港にいれば安全だ。けれども、船はそのために作られたのではない。

あなたの番です。あなたは、今日、絶望していますか。恐れを持っていますか。人生には、人間が考える範囲内のあれかこれかの二者択一ではなく、神の切り拓かれる第三の道があります。神の計画として引き受けて下さい。主に信頼して、あなたという船を大海原に出航させて下さい。イエス・キリストは、どんな時もあなたと共におられるインマヌエル、救い主です。

「神は私たちとともにおられる」(23節)

→あなたの番です
 □絶望と恐れにつぶされない
 □絶望と恐れを突き破る神の計画を信じましょう



ヨハネの手紙第一、第二、第三、ユダの手紙


 物事をはっきりと言える人は、本質を理解している人です。十二弟子のひとり、ヨハネは短いセンテンスではっきり言い切る人でした。
 ヨハネは手紙の中で、神がどんな方かを教え、主イエスを信じたものが何を持っているかを説明し、主イエスを信じた者がどう生きたらよいかを示しました。まるで、神を網羅的に説明したリスト、クリスチャンの生き方を示したマニュアルのようです。

1、教会を守るヨハネ

 ヨハネの手紙第一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙第三、ユダの手紙、この4つの手紙には、教会を守るという共通テーマがあります。
 間違った教えに傾くな、邪悪なリーダーシップを排除せよと教えています。

迫害は、教会の外から攻撃して教会を潰そうとします。一方、間違った教えや邪悪なリーダーシップは教会内に巧妙に入り込むので注意が必要です。牧師だけでなく、信徒も教会を守るように招かれています。

というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(ユダの手紙 4節)

私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。(ヨハネの手紙第三 9節)

なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二 7節)

教会が間違った教えを信じるようになれば異端になります。牧師や教会役員が独裁者のように振舞えば宗教カルトになり、教会員が被害者になります。

 純粋な信仰を守るため、聖書をまんべんなんく読み続けましょう。邪悪なリーダーシップにノーと言える健全さを持ちましょう。



2、主イエスを紹介するヨハネ

 この頃、ヨハネは80歳くらいになっていたかもしれません。ヨハネの手紙第一の内容は、だいたい3節ごとに区切ることができます。老聖徒ヨハネは、心に浮かんだ事柄を短く言い、違うテーマに移り、また同じ内容に戻る形で話を進めました。

 「神はどんな方ですか」と質問されたら、ヨハネはこう答えるでしょう。神は、いのち、真理、愛。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(ヨハネの手紙第一 1:1~4)

上記のみことばを読むと、神はいのちであり、イエス・キリストの本質もいのちだと分かります。いのちとは何でしょう。いのちとは、つながっていること、流れていること、止まっていないこと、交流があることです。

ヨハネは、信仰を<私―キリスト>という点と線として理解していません。むしろ、三位一体の神の輪の中に、ヨハネが加わり、その輪の中に私達を入れようとしています。主イエスを信じることによる、私たちは神とのつながりに入り、神のいのちをもらえるようになります。人は、神とつながることによって、本来のいのちを回復します。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:5~7)

 ヨハネは、神は光です。暴力団が明るい陽射しの中でピクニックするのは似合いません。悪事は暗いところでします。神は光で、嘘がなく、罪がなく、きよさがあります。主イエスを信じた者も、罪が赦され、神の光の中を歩むようになるので、正義を選び(3:7)、キリストに似た者に(3:2)されていきます。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(4:7~11)

上記のみことばを読むと、神の本質が愛だと分かります。愛のない者には、神は分かりません、神は愛だからです。神は、無条件であなたを愛しています。あなたが気づかなくても愛しています。その証拠は、十字架を見れば分かります。

神はいのちです。光です。愛です。だから、主イエスを信じた私たちも、神との交流でいのちをもらい、光の中を歩み、互いに愛し合うことができます。


→あなたの番です
 □守るべきものを守ろう
 □神はいのち、光、愛です。 □いのちを喜び、光に歩み、愛し合って生きていきましょう。

ペテロの手紙 第一、第二


 新約聖書の人物で誰に会いたいかと聞かれたら、私はペテロと答えます。
ペテロは漁師だったので日焼けした顔で、深く刻まれたしわがあったかもしれません。素朴な語り口、穏やかなまなざし、迫害で受けた傷跡、自分の失敗を語る率直さ、が想像できます。

文は人なりと言いますが、60年代に書かれたペテロの手紙には、ペテロの人柄がそのまま表れています。パウロのような論理的アウトラインはありません。トルコ半島に住むクリスチャン(第一ペテロ1:2)を心に思い描き、祈りつつ、迫害に苦しむクリスチャンを励まそうとして書いた手紙です。手紙のあちこちに、主イエスと過ごした思い出話が出てきます。(第一ペテロ1:7、2:4~8、2:21~15、4:12~14、5:1~2、第二ペテロ1:16~18)

ペテロの手紙のキーワードを3つチョイスするとしたら、①選び、②救い、③神の似姿を挙げることができます。


1、選ばれている
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(第一ペテロ1:2)

 神が私たちを選んだことを心に留めよ。ペテロはそう言いたいのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(2:9)

 主イエスがペテロを十二弟子に選んだのはなぜでしょう。それは、主イエスが昇天された後、主イエスの働きを継承するためでした。私もあなたも、「選ばれた種族」です。主イエスがして下さった素晴らしいみわざを周囲の人に述べ伝えるために選ばれました。福音を「いつでも弁明できる用意」(3:15)をしておきましょう。
 私たちも選ばれています。何のために選ばれたのか、よく考えて行動しましょう。

2、救われている

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(1:8~9)

 主イエスに会ったことのない人々が主イエスを愛していることを、ペテロは素朴に驚きました。主イエスを直接見ていないのに主イエスを信じている人々をペテロは心から喜びました。彼らの姿に、ペテロは救いの印を見ました。
 主イエスを信じたゆえの地上における救いだけでなく、天にたくわえられている救い(これから体験する素晴らしい恵み、受け継ぐ資産)があるとペテロは言いました。

 私は、ジグソーパズルが好きです。1000ピースのパズルを妻と一緒に楽しく作っています。カチッと入ったときは楽しいです。なんといっても、ジグソーパズルは完成すれば必ず美しい写真なり絵が現れるので安心して取り組めます。
 救われた人には、最後には救いの完成が約束されています。永遠の命が与えられ、朽ちない霊的資産がもらえるのです。

 救いがあると分かった人は、この世の小さなことに一喜一憂しなくなります。自分の終わりが分かっているので、じたばたする必要がありません。それで、損しても正しいことをしたり、苦労して人を助けたり、愛したりできます。また、上に立つ権威を尊敬して生活できます。(2:13)信仰ゆえの不当な苦しみを負う時も耐えることができます。(2:21~24)

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(2:21)

「道路に落としたゴミが多すぎて女子校生が拾い集めきれない、助けてあげてほしい」という電話を受けた日本の警察官が現場に着きました。夕方、日の落ちた県道で作業をしていた女子校生に尋ねると、誰かが落としたごみが散乱していたので拾い始め、自転車カゴには入りきれなかったので、コンビニでごみ袋を買って来て入れていたというのです。彼女は、当たり前と思ってゴミを拾った、と答えました。

当たり前、無意識、醸し出す雰囲気。そこに価値があります。主イエスに救われた人の心に主イエスが住んで下さるので、ごく当たり前に愛や正義や謙虚さがにじみ出てきます。それが付け焼刃でない本物です。
今週、救われているゆえの、当たり前の行動をしたいですね。

手紙を書いた頃のペテロには、信仰者としての年輪、主イエスを愛しているゆえの輝き、御霊による聖めの香りなどがにじみ出ていたことでしょう。

3、神の性質にあずかる者
 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:4)

 ここに、私たちが「神のご性質にあずかる者」になれるという約束が書かれてあります。

 この約束があるので、聖さを求める生き方が空しくなりません。(1:15~16、第二ペテロ3:14)夫や妻は互いに尊敬し、愛し合うことができます。(第一ペテロ3:1~7)兄弟愛を働かせ、謙虚に生きることも可能です。(3:8)主から頂いた賜物を用いて、奉仕し互いに仕えます。(4:8~11)

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(1:15)

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(4:2)

今から40年以上も前のことですが、ウイリアム・ニガンダというアフリカで有名な伝道者がいたそうです。アフリカでミニストリーをしていましたジム・ホワイトは、ウイリアム先生の噂を聞いていました。伝道集会などでウイリアム先生が講壇に立つと多くを語らないうちに心を刺され悔い改める人が出る人で、「神の人」という評判の高い人でした。
ナイロビで車を運転していたジム夫妻はウイリアム先生を見かけ、車に招き入れてしばらく話す機会がありました。ウイリアム先生は、後部座席にいた5歳の女の子に、「お嬢ちゃんのお名前は?」と尋ねました。「バレリー」と答えると、「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」と聞きました。「うん、まあね」と答えました。しばらくして先生と分かれたジムの家族は5分間、誰も口をきけませんでした。ウイリアム先生との会話で受けた温かい感動が圧倒していたのです。その後、やんちゃ盛りのバレリーはお母さんにこう言いました。「私も大人になったら、神の人になりたい」


 主に選ばれ、主によって救われ、神のご性質にあずかる者と約束された私たちは、普通の人とは違う「当たり前の生き方」が始まりました。
 身近な人を愛す。仕事で正義を選ぶ。汚れを離れ聖さを求める。困難の中でも、忍耐し、信じ、仕え合う。それがごく自然にできるようになりたいです。


 →あなたの番です
  □選ばれ、救われ、神に似るようにされたことを感謝する □人生のどんな時も、愛と聖さを実行し、福音を伝えていこう

ヤコブの手紙

 「行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
 このことばのように、ヤコブの手紙は厳しいという印象があります。ヤコブの手紙を読み解く鍵は、手紙をもらった人々の状況、そして、主イエスが語られた山上の垂訓にあります。


1、主イエスのように考える
 主イエスの弟であるヤコブは(マタイ13:55)、主イエスの復活後主イエスを信じ(使徒1:14)、エルサレム教会の中心人物(使徒15:13、ガラテヤ1:19)になりました。新約聖書の中で最も古い手紙の一つがこのヤコブの手紙です。迫害のためにエルサレムから各地に散らされたユダヤ人クリスチャンを励ますために書かれました。(ヤコブ1:1)

先週学んだ「ヘブル人への手紙」も、迫害の中にいたユダヤ人クリスチャンに書かれたものでした。苦しい中で信仰を守り通すために、主イエスがまことの救い主だと確認し、主イエスから目を離さないようにと語っていました。
「ヤコブの手紙」も同じような読者を想定していますが、その内容を簡潔に言うならば、主イエスのように考え、主イエスのように行動せよとなります。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(ヤコブの手紙1:2)

 試練は嫌なものです。誰も試練は喜べません。けれどもヤコブは、喜べと言いました。主イエスの山上の説教を彷彿させます。主イエスは、そういう人には天の報いが大きいと教えました。ヤコブは、試練で忍耐が育ち、成熟すると述べました。試練を表面的に見ず、大きな視点で見ることが大事です。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5:11~12)

迫害や苦しみの中にいる人にとって、物事の洞察力はとても大切です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

知恵というのは、迫害や試練の真相を見極める洞察力だと思います。今起きている事柄の本質を見抜くのが、主イエスのものの見方であり、本当の「知恵」です。主はあなたのみ知恵を必ず与えてくれます。

迫害を受けている人は、生活の困難を覚え、多くの場合は貧困に苦しみます。ヤコブは、貧しさは高い身分だと説明します。

貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。(ヤコブ1:9)

迫害でひどい仕打ちを受けた人は常に怒りモードに入っています。けれどもヤコブは、怒るなと言いました。

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブの手紙1:19~20)

主イエスも山上の垂訓で、人を「さばいてはいけません。」(マタイ7:1)と言われました。怒った状態で誰かに「ばか者」、「能無し」と言うのは殺人と等しいと語りました。(マタイ5:22)

試練の時、貧しい時、怒りたい時、ひどい仕打ちを受けたとき、主イエスのものの見方をしてみましょう。



2、主イエスのように行動する


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
 
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)
 
 迫害、試練、経済的困難など生活上の悩みを抱えたときの処方箋は、「行動」です。小さなことでもいいのです。体を動かしましょう。誰かの役にたちましょう。

ヤコブは手紙の中で様々なアクションを勧めています。えこひいきしないで人と接する(2:1~4)、生活に困った人を具体的に助ける(2:15~16)、良い言葉を語る(3:2~12)、平和をつくる(3:13~18)、争わない(4:1~4)、罪を悔い改める(4:8~10)、謙虚に仕事をする(4:13~15)、互いのために祈り合う(5:14~16)。

 心が弱っている人、ダメージを受けている人にとっては、ヤコブの手紙の言葉は厳しいメッセージに聞こえるかもしれません。でも、迫害で苦しむ人へのアドバイスが「行い」であることに注意して下さい。弱っている人、ダメージを受けている人が、誰かのために自発的な行動をすること、それ自体に価値があり、逆に助けになるのです。

生きた信仰は行動します。行動すると、成功もあります、失敗もします。それでよいのです。生きた信仰者は、失敗を重ねながら愛を学び、忍耐を学び、主の力と恵みを発見します。あなたは、今週、何をしますか。アクションしましょう。

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ5:13)

 →あなたの番です
  □主イエスのように考えてみよう
  □主イエスのように行動してみよう

ヘブル人への手紙


 信仰者が苦難に遭遇したら、どうしたらよいのでしょう。「ヘブル人への手紙」は教えてくれます、主イエスに目を留めよ、と。

1、主イエスこそ救い主

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:3)

 ユダヤ人がクリスチャンになる。それは、昔も今も容易なことではありません。初代教会の時代、ユダヤ人がクリスチャンになると会堂から追放され、ユダヤ人コミュニティーで厳しい迫害を受けました。クリスチャンになったユダヤ人は、暴力、罵倒、捕縛、経済的損出を経験しました。(ヘブル10:32~34)

 ユダヤ人クリスチャンは、「押し流され」(21)、「不信仰の心」(3:12)になり、「確信を投げ捨て」(6:11、10:35)、「動揺」(10:23)し、「いっしょに集まることをやめ」(10:25)、「神の恵みから落ち」(12:15)そうになりました。そして、ユダヤ教の律法やいけにえに心が惹かれました。

 「ヘブル人への手紙」を書いた人物(著者不明)は、そうしたヘブル人に対して、主イエスに目を留めるように勧めました。主イエスは、旧約聖書が預言した救い主であり、「神の栄光の輝き」「神の本質の完全な現れ」(1:3)であり、「万物の存在の目的」(2:10)です。主イエスは、天使にまさり(1~2章)、モーセにまさり(3章)、ヨシュアにまさる(4章)のです。

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(9:12)

大祭司のいけにえは不完全であるがゆえ毎年繰り返されました。主イエスの十字架はたった一度で私たちの罪を完全にあがない、罪の赦しを与えてくれました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)

へブル人への手紙においては、主イエスが完全な救い主であることを教えるだけでなく、主イエスが苦しまれたということに注目しています。主イエスは、「多くの苦しみを通して」(2:10)、「苦しまれたので」(2:18)「私たちと同じように、試みに会われ」(4:15)、「お受けになった多くの苦しみ」(5:8)とあるように、主イエスは誰よりも苦しを経験されました。その苦しむ主イエスの姿が、私たちを勇気づけてくれるのです。

1967年7月、17歳のジョニー・エレクソンは岸から遠く離れた海に浮かぶ浮台に立ち上がり、海に飛び込みました。ガツンという感じで何かに当たり電気ショックのような痛みを感じ、力なく浮いていました。幸い一命を取りとめましたが、首の骨を折り、首から下は全く動かなくなりました。病室で痛みと闘っていたとき、見舞いに来た友達が言いました。あなたは、十字架で釘づけられたイエスさまと同じだね。そう言われて、ジョニーははっとしました。主イエスは、私と同じ痛みを知っておられる。主イエスも自分で手合いを動かせなかった。それが彼女の慰めになり、やがて絵筆を口にくわえて絵を描いたり、歌ったりするようになり、クリスチャンとして多くの人を励ますようになりました。ジョニーは、苦しむイエスに慰められたのです。

苦しんでいるなら、主イエスに目を向けましょう。


2、忍耐

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:35~39)

 迫害を受けて苦しむヘブル人に、「へブル人への手紙」は忍耐を勧めます。人生には忍耐の時期があるのです。忍耐には価値があり、忍耐は報われます。主イエスも苦しまれ、忍耐されたのです。
 「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」(10:36)だから、旧約聖書の信仰者たちは困難な中で忍耐し「信仰によって」(11:8)歩んだのだから、「主はその愛する者を懲らしめ」(12:6)るのだから、やがて「ご自分の聖さにあずからせ」(12:10)て下さるのだから、忍耐を持って信仰の道を進みましょう。

 あなたも、今が忍耐のしどころです。忍耐は永遠には続きません。


3、主イエスから目を離さない

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:1~3)

 あなたが疲れ倒れたときは、人を見ず、自分も見ず、ただイエスさまを見上げましょう。苦難の十字架の道を選ばれた主イエスに目を向けましょう。あなたが元気を失い、疲れ果て、自分を支えるものが何もないと感じた時でも最後に残る確実なものがたった一つあります。主イエスが、あなたのために死なれたという事実です。十字架です。主イエスの苦しみ、痛み、流された血、受けた恥は、すべてあなたのためです。

 キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(13:5)
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(13:8)

 →あなたの番です
  □主イエスは、まことの救い主
  □人生には忍耐の時がある
  □主イエスから目を離さない

テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙


 テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙は、各教会に宛てたパウロの手紙と性格が異なります。先輩牧師であるパウロが、若い牧師を励ますために書いたもので、教会運営上の具体的アドバイスが多く含まれています。

 これら3つの手紙のエッセンスを生かせば、子育て、職場での後輩指導、信仰上の弟子訓練に応用できます。


1、主のあわれみを受け取る

信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(第一テモテ1:2)

 パウロは、手紙の最初にいつも「恵みと平安」を祈りました。テモテに宛てた手紙だけに「あわれみ」を加えて「恵みとあわれみと平安」があるようにと祈りました。
 主イエスからあわれみを受けることなしに、牧師は続けられない。パウロは、まず自分の過去に触れて、どんなに大きな主のあわれみを受けたかを語りました。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:13~16)

先輩、親、上司、という立場の人は、立派な今の姿だけを見せるのではなく、失敗と未熟さがあった若き日を後輩に語ることが大切です。主からあわれみを受けたという経験談が若い人達に大きな励ましになります。
かくいう私も、神学校の1年生の時、寮を逃げ出したことがありました。自分の能力の限界と信仰の未熟さに失望して、いわば自主退校をしました。バック一つ持って部屋を出て、アルバイトニュースを買い求めました。大学の聖書研究会の部屋に泊まりましたが、その深夜に主のあわれみに気づき翌日学校に戻りました。私は、主のあわれみを受けて30年以上牧師として歩むことができましたが、あの日のことは忘れません。

私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(第二テモテ1:4~7)

テモテへの手紙第二にも、あわれみが書かれています。テモテよ、私はあの時のあなたの涙を覚えているよ。弱い時もある、臆病になる時もあるけれど、主のあわれみは注がれている、主から受けたものを思い出せ、必ず立ち上がれるよ、とパウロはテモテを励ましました。

 人を育てる者は、主からのあわれみを体験していることが必須です。


2、信頼できる人に任せる

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(第一テモテ3:2~7)

テモテへの手紙第一の時点では、テモテはエペソで牧師をしていました。また、テトスが手紙を受け取った時、テトスは地中海のクレテ島で牧師をしていました。二人とも若い牧師ですが、パウロに代わって各地を巡回していました。パウロは二人に対して、町ごとに教会の牧師を任命するようにと指示しました。上記の聖書箇所は、牧師の資質リストです。テトス1:5~9のリストも基本的には同じものです。牧師の資質を簡単に言うと、信頼できる人で、教える能力のある人です。

 パウロが第二の手紙でテモテを鼓舞している以下の部分でも、同じ事を言っています。他の人に教えることのできる人で忠実な人に弟子訓練をゆだねるように勧めています。

そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第二テモテ2:1~2)

 主イエスは十二弟子を①選び、②育て、③任せました。パウロも、教会のリーダーたちに対して、常に次世代のリーダーを選び、任せるよう命じました。

 あなたの周囲に、クリスチャンとして信頼できる人がいますか。その人は教える力を持ていますか。その人を選び、育て、任せましょう。

 弟子作りの原則は、子育てにも、後輩育成にも応用できます。


3、自分自身も向上に努める

 パウロはテモテ第二の手紙を書く時点で、死期の近いことを悟っていました。(第二テモテ4:6~8)事実、この手紙はパウロの絶筆となりました。
 テモテよ、若くても軽くみられるな、信徒の模範となれ、教える事と自分の生き方を分離するな、一貫性のある信仰生活を送れとパウロはいつも語っていました。弟子を育てるあなた自身が、主の弟子であり続けなさいと教えました。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(第二テモテ2:3)
 「熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:15)
「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2:22)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(4:2)

あなたも、クリスチャンとして一貫性を持ちましょう。教会でも、家庭でも、職場でも、嘘がなく、誠実で、親切で、主イエスを愛す人として生きましょう。周囲の人に信頼される人になりましょう。神の栄光をあらわし、主イエスの福音を生涯語り続けましょう。
 人間ですから、罪を犯したり、失敗することもあります。大事なことは、悔い改め、主のあわれみを受けて立ち上がり、クリスチャンとしての一貫性を再構築することです。
 そのためにも、毎朝祈りましょう、毎朝聖書を読む人になりましょう。ありがとう、ごめんなさい、愛してます、私がします、と言える人になりましょう。


 →あなたの番です
  □主のあわれみを受け取りましょう
  □弟子を育てる弟子になりましょう
  □クリスチャンとしての一貫性を保ちましょう


ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙

 今日は、喜びと感謝について考えましょう。

1、ピリピ人への手紙

 パウロはローマで上訴審開催を待っており、拘留状態にありました。そこに、エパフロデトがピリピ教会から献金を持って来て、生活の足しにして下さいとパウロに渡してくれました。(ピリピ4:18)パウロはそれをものすごく喜んで、感謝の手紙を書きました。それがピリピ人への手紙を書いた直接の理由です。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20~21)

生きていても喜び。死んでも喜び。自分を通してキリストが明らかにされるなら、どちらでも構わないとパウロは考えたのです。日常生活に左右されない別次元の喜びをパウロは持っていました。
主イエスに愛されていること、主イエスの十字架で罪が赦されたこと、天国にいけること、罪深い私と共に主イエスがいてくださること、欠けの多い私を通してキリストがあがめられること、使命が与えられたこと、それらが喜びの源泉でした。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:4~7)

主にあって喜びなさいとパウロは何度も言いました。喜ぶか喜ばないかは、あなた次第です。主にあって喜ぶとは、生き方の選択です。あなたの心のカーナビを、喜びという方向にプリセットするのです。
多くの人は、不幸の原因を他人や環境のせいにしています。そういう人は一生不幸です。

教会に通う前の私は、毎朝不機嫌でした。前夜は運動部の疲れで夕食後はうたた寝して、夜中に置き出して夜更かしし、朝方自分の目覚まし時計では起きられず母に起こしてもらっても起きず、寝坊すると母親のせいにして「遅刻する!」と怒鳴りながらドアを思いっきり閉めて駆け出した高校生でした。私は他人のせいで不幸だと思い込んでいましたが、それは間違いでした。

出かける前に鏡の前で見だしだみを整えるように、一日を始める前に自分の心を整えることが、主にあって喜ぶことです。

 物事に左右されない喜びを身に着けるために、祈りが必要です。思い煩わずにまず祈ることです。他人の物まねのような笑顔を作るのではなく、自分らしい、心の穏やかさを持った、人生を肯定的にとらえる姿勢を整えるのです。それが、主にある喜びです。

 ヘドロの沼になってメタンガスを出すか、鮎が泳ぐ清流になるかは、それはあなたの心がけ次第です。さあ、周囲に影響されない自分、不幸を他人のせいにしない自分を作りましょう。主にあって、喜んでみましょう。



2、テサロニケ人への手紙

 私たちが、テサロニケ教会から学ぶ点は、迫害下でもくじけない心です。
パウロは通常、手紙の最初で各教会の信仰と愛を賞賛しますが、テサロニケ教会の場合、信仰と愛に加えて「忍耐」に言及しています。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(第一テサロニケ1:2~3)

 テサロニケの教会は、パウロが伝道した当初からユダヤ人による迫害が起きました。(使徒17:1~15)パウロに反対するユダヤ人は、町のならず者を利用して暴動を起こしたり、クリスチャンの家を襲わせました。クリスチャンになった瞬間から、苦難の人生が始まりました。テサロニケの人々はそんな中でも信仰告白し、周囲の人にイエスさまの福音を伝え(第一テサロニケ1:8)、信仰に堅く立っていました。(第一テサロニケ3:7~8)迫害の苦しみは、「神の国のため」(第二テサロニケ1:5)なのです。

 テサロニケのクリスチャンは、暴力や差別、あざけり、経済損出などを経験していたので、主イエスが再び地上に来られる日を強く待ち望みました。そうした信仰が暴走して、主イエスが来る前にクリスチャンは死なないという間違った理解が生まれ、死んだ仲間を見て落胆した人が出たので、パウロは主イエスの再臨を説明しました。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16~17)

 主イエスの再臨に気を取られ過ぎて日常生活がおろそかになる人も出てきたので、落ち着いた生活を心がけ、きちんと仕事をしなさいとパウロは教えました。(第一テサロニケ4:11、第二テサロニケ3:11~12)さらに、そんな困難な状況だからこそ、喜べ、祈れ、感謝せよと励ましました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16~18)

喜びを選び取り、祈ってゆだね、物事のポジティブな面を見つけましょう。そうすれば環境に左右されず芯が強く穏やかで自分らしい心を身に着けることができます。

 
→あなたの番です
 □主にあって喜びましょう
  □苦しい時こそ、感謝を見つけましょう


エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙


 エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙は、同じ頃パウロによって書かれました。この3つの手紙は紀元60年ごろ獄中で書かれ、テキコによって運ばれました。(エペソ6:21~22、コロサイ4:7~9)エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙は構造も内容も良く似た双子の手紙です。前半部分は教理、後半は実践部分になっています。

 正しい事をしたい、人に親切にしたい、悪に負けなくないと願う人は、自分の弱さに直面し失望します。ガソリンの無い車を走らせているのと同じだからです。神から霊的祝福を受け取るなら、人を愛すことが可能になります。



1、霊的祝福

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)

 主イエスを信じた者には、霊的祝福が与えられます。霊的祝福を、私なりに言い換えてみるとこうなります。神しか与えることのできない恵み。生きる力を後押しする励まし。本来の自分に戻れるさわやかな風。みんなが望んでいる心の平安と満足。
私たちクリスチャンは、霊的祝福を静かに確認し、味わい、感謝することが必要です。霊的祝福をかみしめた者だけが、愛と正義と聖さを実現できます。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:4~7)

 4~7節で、霊的祝福が説明されています。永遠の昔に私たちは選ばれた、神にずっと愛されていた、ひとり子イエスさまの血が流されて私たちの罪が赦された。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ1:13~18)

 コロサイ人への手紙においては、霊的祝福に続き、主イエスの神性が語られています。主イエスは、いつくしみ深い救い主であるだけでなく、永遠の昔から存在された偉大な神、世界の造り主なのです。その力強い主イエスが教会のリーダーなのです。このような主イエスだからこそ、霊的祝福を注ぐことができるのです。

 神に選ばれ、愛され、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命が保証され、聖霊が与えられていることを味わい、感謝しましょう。



2、日常生活に生きる信仰

 霊的祝福が与えられたので、私たちの生活は変わります。霊的祝福を知り、神に愛されている事を確認し、創造主イエスと共に歩むなら、悪い行いを止め(エペソ4:30)、「光の子ども」(エペソ5:8)らしく歩み、古い人を捨てて新しい人を着る(コロサイ3:9~10)ようになれます。同情心を持ち、寛容になり、互いに赦しあい、(コロサイ3:12~13)、キリストの言葉を大切にして神を賛美できるようになります。(コロサイ3:16)

 パウロは、エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の後半において、家庭を論じました。家庭は、普段着の場所、疲れたり我がままになったりする場所です。そこでこそ愛が育ち、信仰を実生活に生きるのです。

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:22~27)

 妻は夫に従う。夫は妻を愛す。これはとても難しいことですか。いいえ、そうではありません。結婚前の二人は互いに実行してきました。だから、二人の愛は深まったのです。新しい気持ちで実行すれば、二人は再びラブラブになります。

 パウロは最初に、最も重要な夫婦関係を取り上げ、次に親子(エペソ6:1~4)、さらに奴隷と主人の関係(エペソ6:5~9)を語りました。家庭で思いやりを示し、職場で同僚を大切にするなら、社会は変わていきます。
 霊的祝福を注がれた人は、優しい人になります。今週、優しい人になりましょう。

 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)



3、ピレモンへの手紙

 最後に「ピレモンへの手紙」に触れます。この手紙はパウロの手紙で最も短く個人的です。逃亡奴隷のオネシモを主人ピレモンのもとに返すため、パウロは一肌脱ぎました。パウロが人に優しくした一例です。

むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(ピレモン9~12)

 獄中にいたパウロはオネシモと出会い、彼を救いに導き、信仰訓練を行いました。オネシモの将来を考えると、主人のもとに返すのが最善と考えたのです。当時、逃亡奴隷は死刑でしたが、主にある兄弟として受け入れ直してほしいとクリスチャンの主人ピレモンに懇願し、オネシモが盗んだお金を弁償する(18~19節)と書きました。
 パウロがしたことは、主イエスが十字架で私たちのためにして下さった事に良く似ていますね。

 ある高校3年生女の子が、公民館の学習室で夏休みに勉強していました。受験のストレスで、家族に当たることもありました。その日、朝9時の開館時間になっても掃除のおばさんたちはおしゃべりしながら掃除を続けていました。不機嫌になってドアの所に立っていると、一人のおばさんが「その椅子、座っていいよ」と言ってくれました。早くいなくなって欲しいと思いながら彼女は勉強を始めました。しばらくすると、おばさんたちは部屋から出て行きましたが、一人のおばさんが残りました。「大学を目指してるの」と聞いてくるので、「いいえ、専門学校です」と答えました。「そうか、専門学校ね。頑張ってね」と言っておばさんはむこうを向きました。そして、窓をふきながらこう言いました、「がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ。」それを聞いて、胸が熱くなり、心の中で何かが解けて自由になり、涙が込み上げてきました。4回、応援してくれた言葉が嬉しかったのです。

 主イエスは、霊的祝福で今もあなたを応援しています。
 霊的祝福を受けた人は、人に優しくなります。あなたが応援したい人は誰ですが。今週、その人に優しい言葉を言ってあげましょう。
 

 →あなたの番です
  □霊的祝福を確認し感謝しよう
  □家庭や職場で、優しい人になってみよう

ガラテヤ人への手紙


 パウロがガラテヤ地方で伝道した後、ユダヤ人クリスチャンがやって来てパウロと違うことを教えました。信仰だけでは不十分だ、律法を行いなさいと教えたのです。パウロはそれを聞いて怒りました。それは福音ではない、主イエスの十字架を台無しにすると厳しく批判しました。それがガラテヤ人への手紙の中心テーマです。



1、律法主義への防波堤、パウロ

 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(1:13~14)

 パウロは、優秀な律法学者であり、律法の実践に熱心な行動派で、キリスト教徒迫害の先頭に立ちました。ダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、パウロは劇的にクリスチャンになりました。「生まれたときから選び分け」られたとパウロは述懐しています。

 この手紙でパウロは、福音を人間から聞かなかったし(1:12)、また、人間によって使徒に任命されたわけでもない(1:1)と証言しました。つまり、主イエスによって、直接福音を聞き、また、主イエスにより使徒の任命を受けたのです。十二弟子とパウロは、明らかに別ルートですが、両者の福音理解は同じでした。

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(2:16)

福音は道徳に変質しやすいので、福音になにかを付け加えてはいけないのです。福音の本質は、主イエスを信じるだけで罪から救われることです。
救いについて言えば、良い行いや律法は救いに何の関係もありません。クリスチャンになった後について言えば、割礼を受けたり、ユダヤ人の生活習慣を守る必要はないのです。

 パウロは、律法学者として歩んだ彼の経歴は、福音の真理を守るためだったのだと分かりました。
 私たちも主イエスに出会って初めて、自分とは誰なのかが分かります。物事の本質、自分のアイデンティティーが見えてきます。あなたは主に選ばれ、主に召されてたのです。あなたが通った回り道は、主イエスと出会うことにより納得できるようになります。



2、無価値な律法主義

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:1~3)

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(4:9)

 律法の空しさを最も自覚していたのはパウロでした。律法は、無力、無価値、幼稚な教えなのです。
 律法主義は、まじめな人や年長者が陥りやすい罠です。少しでも律法を守れると傲慢になり、守っていない人を見つけると裁きます。
 
 あなたは、最近、誰かを裁いていませんか。たいていは、自分が疲れたとき、ストレスの強いとき、為すべき事ができてない時など、人を裁きます。
 人をさばくのは止めましょう。むしろ、人の良い点を見つけて、ほめてあげましょう。

 

3、救われた人の生き方

 福音を知り、主イエスを信じた人は、三位一体の神と繋がりながら歩むようになります。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(4:6~7)

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(2:20)

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16)

 アバとは、幼児がお父さんを呼ぶ時の言葉です。主イエスを信じた者は神の子になったので「アバ、父」と父なる神を呼べるようになります。
 主イエスを信じると、古い人は十字架で死に、キリストが私たちの内に生きるようになります。
 主イエスを信じると御霊が私たちの内に住んで下さいます。だから、御霊の導きを求めつつ歩むことができます。

この3つの聖句を読んで、あなたも気がつきましたね。信仰生活とは、神とのリレイションシップに生きる生活なのです。律法ではなく、御霊に導かれて生きるなら、御霊の実を結びます。その人の人格に素晴らしい変化が生まれます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(5:22~25)

ある田舎の小学校での出来事です。傘が木に引っかかっている、という連絡がありました。傘は小学1年の女の子のものでした。学校側はその子の自宅に連絡しておきました。しばらくすると、女の子のお父さんから電話が学校にありました。アクシデントで傘が引っかかったのではなく、女の子が傘をかけたのだといいます。その木にかわいい実がなっていて、雨が降って来たので濡れないようにと傘をかけたのだといいます。もしかしたら、その子は雨に濡れて帰ったのかもしれませんね。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などの品性の実を結んで、ほめられたい、自慢したい、クリスチャンとして一人前になりたいと思うなら、動機が不純です。身近な人の笑顔が見たいと思う時、内面が成長します。雨に濡れないようにと傘をさしてあげる人の心に、自然に、御霊の実が結ぶのです。

 福音に律法主義を付け加えてはいけません。律法主義は、空しく、傲慢や差別や争いを生みます。人を裁いても何も良いものは生まれません。
 御霊に導かれて生きるなら、他者への愛や寛容や親切が自然に生まれます。


 →あなたの番です
  □主イエスと出会うと、本質が見えてくる
  □律法的生き方を止めよう
  □御霊の実を結ぼう


コリント人への手紙第二


 「あー、本当に良かった。ほっとしたよ。主は素晴らしい。嬉しくて飛び上がりたい」コリント人への手紙第二を書いた当時のパウロは気持ちが高揚していました。パウロは、コリント教会に宛てて書いた厳しい手紙(2:4)の反応が心配だったのです。コリントから戻って来たテトスの報告を聞いてパウロは胸を撫でおろしたのです。罪を犯していた人が悔い改め(7:9~11)、パウロに対するコリント教会の信頼感が回復したようです。
 「それからね、コリント訪問の日程はこういう予定で(1:15~16)、エルサレム教会への献金はしっかり集めておいてほしい。(8~9章)それから………」という雰囲気で手紙は進むので、この手紙のアウトラインはちょっとつかみにくいのです。


1、慰めの神

 この手紙のキーワードは「慰め」です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(コリント人への手紙第二1:3~4)

 「慰めの神」と書いてあります。神を単なる力やエネルギーや法則と考える人がいますが間違っています。力や法則は人を慰めることはできません。本当の神は人格を持つ神なので、私たちの話に耳を傾け、心の深い部分まで分かってくれるのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」なぜそう言えるのでしょう。神だから、どんな苦しみの中にいる人も慰めることができるのです。

 大学生のサラは、ソフトボールの試合で生まれて初めてホームランを打ちましたが、一塁ベースを回る時に膝を痛めて倒れ込んでしまいました。チームメートが助けようとするとコーチと審判が「触るな」と言いました。ルールブックによると、そんな時に触れたなら選手はアウトになりホームランは無効になるのです。痛みのため動けないサラは、自分を責め、みじめな自分を恥じていたことでしょう。
 それを見て、敵側の一塁手と二塁手がサラを持ち上げて塁を回ると提案し、審判もOKを出し、無事ホームを踏めました。サラはどんなに感謝したか分かりません。この経験を経て、サラは誰かを慰めて助ける人になったことでしょう。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。(1:6)

 今、あなたはトラブルの真っ只中かもしれませんが、神は必ずあなたを慰めることができます。そしてあなたは、いつか、誰かを慰める人になります。


2、点と線

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(5:17)

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(3:18)

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(4:16)

 パウロは、第二の手紙において「肉に属する人」という話題を出しませんでした。むしろ、主イエスを信じた者は新しく造られた、という事実を指摘しました。新しく造られたら「はい、終了」ではなく、日々、どんどん新しくされるのだと教えました。

 主イエスが私たちに与えてくれた救いは、「点」と「線」です。罪人が主イエスの十字架により義と認められたことは「点」です。クリスチャンが聖霊によって日々キリストの姿に似た者と変えられるプロセスは「線」です。

 ロバートさんは占領軍の一員として沖縄の基地で働いていた時に、愛用の万年筆を無くしました。オフィス内で働く日本人男性の胸ポケットにその万年筆を見つけたので、厳しく問いつめて取り返しました。それから3週間後、ロバートさんは自宅で彼の万年筆を見つけました。取り上げた万年筆と比べると模様がわずかに異なっていました。その日本人は誠実な人柄だったことを思い出しました。ロバートさんは彼を探して謝罪したいと思いながら、それができずにアメリカに帰ってしまいました。それは生涯の悔いとなりました。

 私たちも、ロバートさんを責められません。同じことをしているので自分に嫌気をさすことがあります。生まれ変われたらな、と思うものです。
 主イエスを信じるな、主イエスの内にあるなら、私たちは新しく造られたのです。そして、日々新たにされるのです。ここに慰めと喜びがあるのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


3、弱さが力に

 異例ともいえますが、パウロはこの手紙でかなり個人的な事柄を書きました。伝道者として、迫害に遭い、鞭打たれ、投獄され、命の危険を何度も経験したと語りました。(11:24~27)
 さらにパウロは、14年前の特殊な体験も話しました。(12:2~5)天に引き上げられ、パラダイスで神と間近に接した経験をしました。
 キリストのための苦難の傷跡。神を身近に感じた栄光の出来事。その二つは、信仰者の勲章のようなものですが、パウロは誇れるものはそれではなく、弱さだと言いました。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(12:7~9)

 人の病をいやしてきたパウロなのに、自分の病=「肉体のとげ」をいやせない。その弱さの中で神の恵みに気づきました。弱さゆえに、神の力を体験しました。・

 あなたに弱さがありますか。
 あなたの弱さは何ですか。

生まれた家庭環境、人に言えない失敗や罪、誰かをひどく傷つけたこと、生まれついてのハンディー、深刻な病、災難に遭ったこと、今も解決しない深刻な問題、もつれたままの人間関係。それらの弱さは、神の恵みが注がれるための一口です。
弱さがあるから、あなたは謙虚になれます。弱さがあるので、神に祈れます。弱さゆえに、神の栄光を体験できます。弱さがなければ、傲慢で、人に共感できない、嫌な人になっています。

 つとむ君は、メキシコ系アメリカ兵士と沖縄の女性の間に生まれたハーフでした。生まれてすぐ医療事故で全盲になり、彼が1歳の時に両親は離婚、父はアメリカに帰還、祖母のもとで育てられましたが、彼が中学の時にその祖母も死去。人生を悲観し、井戸に飛び降りようとしたこともありました。
 そんな時に一人の牧師さんに出会いましたい。僕ほど不幸な人間はいない、目は見えない、混血児で差別される、父も母も大嫌いだ、生きる意味がない。牧師さんは、涙を流しながら親身に聞いてくれて、それ以降は家に招いて食事をご馳走してくれたり様々な世話をやいてくれて、勉君もクリスチャンになり新しく造られました。
 歌の好きな、新垣勉君さんは著名なボイストレーナーのオーディションを受ける機会があり、「君の声は日本人離れした明るい声を持っている。ラテン系のお父さんのおかげだね。その声で多くの人を励ますんんだ。」と励ましを受けました。新垣勉さんは、テノール歌手として活躍しています。弱さは力になりました。

あなたの弱さは、あなたが一番嫌うものです。けれども、弱さの中に神の恵みが染み込んでいます。弱さの中に神の力が現れます。あなたは、それを信じますか。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 →あなたの番です
  □まことの神は、慰めの神
  □私たちは、新しく造られ、日々変えられる
  □弱さの中にこそ、神の恵みと力あり

コリント人への手紙第一


 聖書の中で、最もがっかりさせられる教会がコリント人の教会です。
 でも、良く考えてみると、コリント教会は私たち自身の姿なのかもしれません。


1、コリント教会の問題

 紀元50年頃パウロはコリントで伝道を開始、コリント教会が誕生しました。コリントは交通の要所で大都会でした。大きな建物が並び、ギリシャ神の神殿には多くの参拝客が集まり、風紀の悪い歓楽街が大変賑わっていました。
 コリント教会の人々には都会的で知的で能力のある人達がいましたが、様々な問題を起こしていました。心あるクリスチャンがパウロに助言を求め、それに返答したのがこの手紙です。パウロは問題の背景を深く洞察しつつ、解決策を教えました。

<コリント教会の問題とパウロの対処>
1~4章:分裂、パウロ批判        → 仲間割れするな
5~6章:性的な堕落、訴訟事件      → きちんと除名せよ
7章:結婚観が混乱            → 健全な結婚生活を提示
8~11章:会食の混乱、偶像にささげた肉 → 弱い人を配慮しなさい
12~14章:賜物の優劣、混乱した礼拝  → 愛が一番大事
15章:復活を否定するクリスチャン           → 復活なければ信仰なし

 

2、肉に属する人

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(コリント人への手紙第一3:1~3)

 問題を起こしているクリスチャンを、パウロは「肉に属する人」だと指摘しました。肉に属する人は、信仰理解が不十分で、信仰生活が確立していない人です。

 信仰面をまずチェックしてみましょう。
 □自分の罪が赦されたと確信できない
 □その日の気分や環境で信仰が吹き飛ぶ
 □聖書が神の言葉であるとは思えない
以上のことがはっきりしないなら、救いの入門の学びをやり直しましょう。

クリスチャンの人生は、キリストを土台にして、その上に家を建てるようなものです。(3:10)

○日常生活をチェックしてみましょう。
□いつもイライラしていて、大声で怒ることもある
□人のうわさ話が大好き
□いやみを言う、人をいじめる、暴力を振るう
□酒、薬物、ギャンブルをやめられない
□声に出して祈れない
□家で聖書を開いたことがない
□救いのあかしをしたり、伝道したことが一度もない
□人を支配したがる、おせっかいが過ぎる
□極端に否定的な言動をする
□気の向いた時だけ日曜礼拝に参加する
□オカルトや占いをやっている
□不倫したり、いかがわしい場所に通っている
□職場で、嘘、盗み、詐欺をしても平気

自分が肉に属するクリスチャンだと分かったなら、聖霊の助けによって、日々変わることを心がけましょう。「成長させてくださる神」(3:8)がおられます。

揺るがない土台、変わり続ける生活。これがクリスチャンです。


3、心に留めたいみことば

1)十字架の言葉

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1:18)

人間の知恵や哲学を信仰の土台としないように、パウロは細心の注意を払ってコリントで伝道しました。信仰の土台は、十字架のことばです。主イエスの十字架の死と復活の事実こそが人を救います。


2)神の栄光

 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(10:31)

 信仰と仕事を分離せず、生活のあらゆる分野で主の栄光を現しましょう。私たちの体は、聖霊の宮であり、自分のものではなく主のものだからです。(6:19~20)
 食べるとか飲むとか小さな事ににこそ神の栄光をあらわしましょう。判断に悩んだ時は、イエスさまならどうするか、と考えましょう。

3)寛容と親切

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(13:4~7)

 知識と賜物を鼻にかけ派閥を作って他者を見下していたコリントの人達に、パウロは寛容と親切を教えました。
寛容とは、他者が自分と違うことを認め、尊敬し、喜ぶことです。親切とは、積極的に自分から助け、与えることです。

林竹治郎は18歳の時に信仰を持ち、美術学校を卒業して、札幌の学校で教師になりました。彼の家の家庭礼拝の様子を描いた「朝の祈り」(1904年)にという絵は有名です。ちゃぶ台の周囲に、母親と子供たちがいて、祈っています。お母さんのひざに顔をうずめて祈る幼い男の子は、後にハンセン氏病者の施設を開く林文雄医師です。この家庭礼拝は50年間続けられたといいます。信仰と家庭も切り離してはいけないのです。

日曜礼拝、朝の聖書や祈り、スモールグループ、賜物を生かした奉仕などは、クリスチャンが成長するためにはとても大切です。

揺るがない真理である主イエスを土台としましょう。その上に建物を建てていきましょう。主イエスは変わりません。私たちは日々に変えられましょう。聖霊の宮である私たちの体を用いて神の栄光を現し、身近な人に寛容で親切で愛を届けましょう。

 →あなたの番です
  □肉に属する人をやめる 
  □日々生き方を変え、神の栄光を現す
  □寛容になり、親切にする