ヨハネ15:1~27  実を結ぶ人生



 人生の最期の日、実り豊かな人生だったと振り返りたいですね。今日は、実を結ぶ人生について考えましょう。

1、私たちは選ばれていた

私たちは、主体的に考え、判断し、主イエスを救い主として選び、信じたと思っています。でも、本当は、主イエスに選ばれていたのです。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

 十二弟子の一人、マタイ(=レビ)も主イエスに選ばれました。(マルコ2:14)ヨハネもペテロも、主イエスの目に触れ、主イエスが「わたしについて来なさい」と言われ、ついて行きました。(マタイ4:18~19)つまり、主イエスに選ばれたのです。私たちも同様です。

 主イエスは、弟子たちや私たちを選んだ目的を持っておられました。それが、実を結ぶことです。

 あなたの人生は、実を結ぶ人生になっていますか。君は愛されるため生まれた、という有名な賛美がありますが、君は実を結ぶため生まれた、と歌ってみませんか。


2、実を結ぶとは何か

 ところで、実を結ぶとは何でしょう。
別な言葉に言い換えてみましょう。あなたなりの実があるはずです。少し考えてください。
考えることなしに、次には進まないで下さい。

実を結ぶとは何か、主イエスは15章で明確にその意味を語っておられません。そこに、何かの意図があるように私には思えます。

人格的な豊かさを増し加える。いわゆる、ガラテヤ書の御霊の実を連想する人が多いですが、主イエスが最初から御霊の実という品性の熟成を意図されていたのなら、良い人になりなさいと言ってもよかったのです。実を結ぶことが伝道なら、もっとはっきり語られても良かったと思います。けれども、実を結ぶという抽象的な言い方で方向性を示されました。

イザヤ5章で、イスラエルを象徴するものとしてぶどうの木が語られています。イスラエルは、実を結ぶことに失敗しました。主イエスを中心とした新しいイスラエルは、神の望まれる実を結ぶように期待されています。主イエスを信じる者たちによって、神の国が実現されることを主イエスは想定されていたのでしょう。

実を結ぶとは何でしょう。ヨハネ15章にはその意味を推測できるヒントがあります。

1)自分の力では実を結べない。
(5節)「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」

2)主イエスの弟子になること。
(8節)「わたしの弟子になることによって」

3)実を結ぶとは、最終的に神の栄光をあらわす
(8節)「わたしの父は栄光をお受けになるのです」

4)主イエスの喜びになること。
(11節)「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり」

5)自分の安全地帯を出る行為、チャレンジが伴う。
(16節)「あなたがたは行って実を結び」

6)一時的な実、個人的な実ではない。
(16節)「あなたがたの実が残るため」

欲望追求人生と決別し、自分に閉じこもる生き方を止め、福音を伝え、温かい品性を持ち、正義を実現し、誠実に働き、困った人を助け、神を礼拝し、社会に影響を残し、家庭に潤いを与え、小さな主イエスがそこにいるような人生を送ること。それらが、実を結ぶ人生と言っても良いでしょう。神の国の大使として生きる様々な生き方すべてを包含していると思うのです。



3、実を結ぶための秘訣 

 実を結ぶための秘訣は、主イエスにとどまることです。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(1~4節)

 「わたしにとどまりなさい」(4節)と何度も語られているので、これはキーワードに間違いありません。主イエスにとどまるとは、主イエスを信じ、主イエスと語り合い、主イエスと交わりを深め、主イエスの力を体験し、主イエスの導きの中で進み、主イエスの慰めと愛を受け続けることでしょう。
 
 主イエスにとどまるとは何か。主イエスの説明を見てみましょう。

 1)主イエスのみことばを信頼する。
(7節)「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」

2)主イエスの愛の中にとどまる。
(10節)もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

 多くの実を結ぶために、父なる神による刈り込みが不可欠です。2節wよく読んでください。実を結ぶ人生を送っている人が、もっと多くの実を結ぶようにと受ける痛みや試練が、刈り込みなのです。

 (2節)「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

 誰の言葉か忘れましたが、私は、次のフレーズが大好きです。
船は港にいれば安全だ、だが、船はそのために作られたのではない。

「もっと多く実を結ぶために」

実を結ぶ人生を送りましょう。そのために、主イエスはあなたを選ばれました。

→あなたの番です
□あなたは実を結ぶ人生を送っていますか
□あなたにとって、何が、実を結ぶことですか。
□主イエスにとどまりながら、何を始めたいですか


ヨハネ14:1~31 心配いらない



 ヨハネ14章全体を読んで以下の質問に答えてください。
 When, Who, Where, What? (いつ、だれが、どこで、何をした?)
十字架にかかる前の晩、主イエスが、最後の晩餐の部屋で、弟子たちに教えられた。
それに加えて、How, Why? (どのように、なぜ?)という質問にも答えて下さい。
答えは、質疑応形式で、心配する必要がないことを伝えたいから。

 ヨハネ13章をひとことで言えば、Love。
ヨハネ14章は、Don’t worry! 14章を読むとあなたの心配が減るはずです。


1、心配しなくていい理由

弟子たちは、ただならぬ主イエスの雰囲気を感じ不安になっていました。主イエスはどこか遠くに行ってしまい自分たちは取り残されるのでは、と漠然と感じていたようです。主イエスはそんな弟子たちに、心配しなくてよい理由と対策を8種類語られました。

①主イエスを信頼すれば、心配は飛び去る(1節)
②主イエスは私たちの家を備えに行かれるので、死後の心配はない(2~3節)
③主イエスが父のもとに行く道だから、迷うことはない(5~6節)
④主イエスを見たなら父を見ているので、安心(8~10節)
⑤困った時に主イエスが助けて下さるので、大丈夫(12~14節)
⑥聖霊がいてくれるので、心細くない(16~19節)
⑦聖霊がみことばを教えてくれるので、あわてる必要はない(26節)
⑧主イエスの平安は特別なので、不安にならなくていい(27節)

 ところで、裏側に英文字が刻まれているビーチサンダルがハワイで売られているようです。砂浜を歩くと、左足はDon’t worry、右足はBe Happyと足跡が残るのです。

 主イエスは心配するなと言っておられます。あなたの今の心配事は何ですか。5年後に日記を読み返すと、そんな事を心配していたのかと驚くはずです。

①主イエスを信頼すれば、心配は飛び去る(1節)
 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1節)

 多くの場合、心を騒がすことは無意味で有害です。私たちは、心のブレーキを神から与えられているので、ストップをかけましょう。むしろ、主イエスを信頼しましょう。

②主イエスは私たちの家を備えに行かれるので、死後の心配はない(2~3節)
 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(2節)
 
 主イエスの言葉で、私たちは死後にどこに行くのかはっきり分かりました。主イエスは、私たちが永遠に住む場所を備えて下さるのです。だから、安心して死ねます。

③主イエスが父のもとに行く道だから、迷うことはない(5~6節)
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(5~6節)

 つまり、父なる神に至る道は、善行、努力、犠牲、精進、決意ではないのです。主イエスを信じ、主イエスにつながることが父なる神のもとに行く道なのです。
④主イエスを見たなら父を見ているので、安心(8~10節)
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。(8~9節)

 父なる神をひとめ見れば、不安はなくなると誰でも思います。弟子のピリポも同じです。主イエスは、もう見ているよ、と言いました。主イエスこそ、神ご自身なのです。
⑤困った時に主イエスが助けて下さるので、大丈夫(12~14節)
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(13、14節)

 主イエスの御名によって我々が祈るのは、この箇所が根拠です。主イエスが、求めにこたえると約束しています。だから、願いましょう。
⑥聖霊がいてくれるので、心細くない(16~19節)
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(16~18節)

 主イエスがいなくなった後、主イエスと同じくらい頼りになる聖霊を遣わすと主イエスは言われました。主イエスは助け主ですが、聖霊はもう一人の助け主なのです。助けてくれる神が、あなたの心に住んでくださっています。
⑦聖霊がみことばを教えてくれるので、あわてる必要はない(26節)
 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(26節)

 主イエスから直接教えを聞けない時がきても心配いりません。聖霊が、主イエスの言葉を思い出させてくれます。4つの福音書は、聖霊がマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネを導かれたという証拠です。

⑧主イエスの平安は特別なので、不安にならなくていい(27節)
 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(27節)

 人が作り出す平和は、とりあえずの平静、打算に基づく平和、不安定ですぐに争いと混乱に変わるものです。主イエスが与えてくれる平安は、柔軟でありながら強く、何が襲ってこようとも揺るぎません。神である主イエスが私たちの碇だからです。孤立でなく、つながっているゆえの安定です。



主イエスは、このようにして転ばぬ先の杖をたくさん用意して下さいました。
だから、Don’t worry!なのです。それでも不安ですか。
心配するために、努力しているのですか。
主イエスの励ましの言葉8つを受け入れて、希望ある歩み方をしませんか。

最後になりますが、私は、今日の箇所で以下の言葉が心に残りました。
「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3節)
「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(19節)

私たちが最後に行く場所は、主イエスのおられる所なので安心です。今、私たちに生きる力が与えられているのは、主イエスの命をもらっているからだと、納得しました。

あなたも、信仰のビーチサンダルを履いて歩き出しましょう。左足を出せばDon’t worry、右足を出せばTrust in Jesus。

→あなたの番です
 □不安になったら、心を騒がすことを止める
 □主イエスに信頼し、丸ごとお任せする
 □助けが来ると信じて、主イエスの名によって願う

 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1節)

ヨハネ13:1~38 愛されて、愛す


   今日お話したいのは二つの事です。
主イエスは私を愛して下さった。
だから、私たちも愛し合う。

1、主イエスは私を愛して下さった

 弟子たちと過ごす時間は、あとわずか。主イエスは、そう自覚しておられました。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(1節)

 主イエスは、十二弟子を教え、訓練し、叱責し、励まし、奇跡を行い、約三年の間、生活を共にされました。その期間の本質を問うならば、それは、愛、ということができます。
 主イエスは、愛したのです。弟子たちは、愛されたのです。

 井伊直弼は茶人でもありましたが、「独座観念」ということを言いました。茶席を終えた主人は、すぐに後片付けに入らず、一人で茶を点て、帰られた人々を静かに思い起こす、という意味で独座観念と言っています。

 あなたも、一人静かに座って、主イエスがあなたを愛している、という事実を心で思いめぐらしてください。親に愛された思い出を何枚かの写真のように思い描いて、親の愛を味わい、感謝してください。そうすることは、主イエスに愛されて来たことを理解する助けになります。

 あなたは、主イエスに愛されています。それを頭で理解してください。そして、心で分かってください。愛されていると分かるなら、主イエスを信じることが自然になります。あなたは、主イエスに愛されていますか。どんなふうに?

 最後の晩餐の席で、主イエスはその愛を惜しみなく注ぎ出しました。その表れが、弟子たちの足を洗うという行為でした。(5節)

 舗装されてない道を歩けば足はひどく汚れます。当時、足を洗うのは身分の低い下働きの仕事でした。この行為は、誰かに見せるためのスタンドプレーではありません。主イエスは、弟子たちの足を洗いたいと思われたのです。主イエスはこの翌日に十字架にかかりますが、その意味(8節)をあらかじめ弟子たちに教えたのだと理解することもできます。

「イエスは、彼らの足を洗い終わり」(12節)とあるように、ご自分を裏切って殺そうとしているユダの足も洗いました。これから3度主イエスを否むこと(38節)を承知の上で、ペテロの足も洗いました。これが、主イエスの愛です。

 沖縄で生まれた一人の女の子は、顔立ちがアメリカ人だったので幼い頃からいじめられ、両親と信じていた人達が本当の親でないと知り、愛されているのだろうか、自分は誰なのだろうかと心が折れてしまいました。学生時代は非行で荒れすさみ、どん底になった時に主イエスと出会い、人生が変わりました。主イエスに愛されていたと分かったのです。その後、主をたたえる賛美をする歌手になりました。これは、上原令子さんというゴスペル歌手のあかしです。
 
 愛しているということは、普通、以下のような行為で分かります。
 言葉で「愛している」と言う。
 態度で、抱きしめる。
 耳を傾け、あなたの声を聞き、共感してくれる。
 困った時は、具体的に助ける。
 プライオリティーのトップとして、あなたのそばにいる。
 裏切ろうが、罪を犯そうが、汚れてしまおうが、決して見放さない。
 あなたのためなら、どんな犠牲もいとわず、命を捨てることもある。

主イエスは、世界中にあなた一人しかいなくても、十字架で命を捨ててくださる方です。
主イエスは、ずっとあなたを愛しています。人が愛してくれなくても、主イエスはあなたをまごころから愛してくれます。

 「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、
  主が私を取り上げてくださる。」(詩篇27:10)



2、私たちも愛し合おう

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)

 最後の晩餐の席で、弟子たちに命じた最も大事な命令がこれです。愛し合いなさい。互いに愛し合いなさい。主イエスが、愛して下さったように、愛しなさいと言われました。

 「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(14節)という言葉の本質は、互いに愛し合う事と同じ意味です。「それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」(17節)という祝福の約束まで付いています。さらに、互いに愛し合うなら、「わたしの弟子であることを、すべての人が認める」(35節)と主イエスはコメントされました。

 主イエスに、たっぷりと愛されたなら、自然に誰かを愛したくなるのです。さあ、あなたの番です。誰を愛したいですか。誰を愛すことが苦手ですか。愛すというなら、誰を、どう具体的に愛しますか。どうやって、外からは見えないあなたの愛を見える形に表しますか。

 「イエスが愛したように」(長沢崇史作詞作曲)の歌詞は、今日のみことばをそのまま賛美にしています。♪イエスが愛したように、私たちも愛し合う。その愛の中で、枝となる時、多くの実を結ぶ/(中略)共に支え合い、共に助け合う、イエスの愛で、共に祈り合い、共に笑い合う、イエスの愛の中。♪

 飛行機から降りる客の一人がCAの一人に、あなたの笑顔はとびっきりにすばらしかった、とほめました。それを見ていた先輩スチュワーデスも、私も同感だと言ってくれました。言われたCAは、早朝に父が危篤という知らせを受け、このフライトで東京に戻ったら駆けつけようと予定したいたと話しました。笑顔の裏には、深い意味があったのです。

 あなたが、今日、あなたの身近な人に微笑むことは、そんなに難しくはないはずです。笑顔で愛を伝えることもできます。言葉で伝えることも、行動で伝えることもできます。

主イエスに愛されていることを実感し、それを感謝し、身近な誰かを具体的に愛しましょう。

わたしがあなたがたを愛したように、
そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)


→あなたの番です
□主イエスに愛されています
□互いに愛し合いましょう
□誰を、どんなふうに、愛しますか


ヨハネ12:1~50  一粒の麦


1、主イエスこそ救い主
 
 主イエスは救い主。
 そのことの根拠が12章に6項目あげられている。

1)死んだラザロを生き返らせた。(1節)
2)預言者ゼカリヤの預言した形態で、ロバに乗ってエルサレムに入った。(14~15節)
3)ユダヤ人だけの救い主ではなく、ギリシア人にとっての救い主。(20~23節)
4)父なる神が主イエスの求めに即座に答えてくださる。(28~29節)
5)預言者イザヤの預言通り、奇跡を見ても信じない人々が生まれた。(40~41節)
6)主イエスを見た者は父なる神を見たことになる、との父なる神との同一視。(44~45節)

このように、ヨハネの福音書12章には、主イエスが救い主であるという証拠と証言が並べられています。さて、あなたはどう応答しますか。
主イエスを救い主として信じて、心にお迎えしてください。

主イエスを信じられない人の特徴は、現状維持です。自分の価値観の変更は歓迎しない。今のままでいい、という気持ちです。主イエスが救い主であるという証拠がいくら掲げられても心で反発してしまうのです。

ところで、『人生がときめくかたづけの魔法』(近藤麻理恵著)という本は実際的で理論的にすっきりした良い本です。かたづけのテクニックではなく、かたづける人になることを目指しているところが白眉です。私は収納上手ですが、痛いポイントを付かれて納得しました。収納上手は、不要品を増やすだけだという指摘に納得しました。心ときめく物だけを持ち、それ以外は捨てたりリサイクルに回すことで、生き方が変わるというのはうなずけます。

小さな女の子の宝箱には、ガラスやプラスチックのアクセサリー、折り紙などが入っています。大人の持ち物も、そんなに変わりません。本当は不必要な物を大事に握っています。
主イエスを本当に知ることにより、価値観が変わり、生きる方向性が与えられます。あなたも、勇気を持って、主イエスを救い主として信じ、人生の主として主イエスを心に迎えましょう。



2、主イエスの死に方に学ぶ

ヨハネ12章で最も心の残る言葉は24節です。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)

 麦を地面に蒔くことは農夫にとって実に自然な作業です。ですが、主イエスは、死ぬという表現を注意深く選ばれました。麦が自発的に死を選ぶという印象が残ります。

 また、麦が死なないならば、「それは一つのままです」という表現にも目を留めてください。死なないなら、何も変わらないのです。

 もちろん、主イエスの場合は、十字架で私たちの罪の身代わりとして死ぬという文字通りの死を意味します。
 「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(26節)とあるように、私たちにも「死ぬという生き方」を主イエスは勧めておられます。死ぬことが、生きることなのです。
 「自分のいのちを愛する者はそれを失い」(25節)と言われた通り、自分と自分の持ち物や価値観にしがみついていると、大事なことを失います。

 マリヤは、主イエスのために、いのちを捨てた人と言えます。マリヤは、年間収入に匹敵する額の300デナリのナルドの香油を主イエスにあますところなく注ぎ切りました。(3~5節)主イエスは、マリヤの行為を埋葬の準備であると理解され、その行為を高く評価されました。

 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。(7節)

 私たちも、今週「死ぬ」ことを選びましょう。自分の安全地帯から一歩出て、身近な家族が笑顔になることを選びましょう。会社の同僚や友人のため、「死ぬ」という決断をしましょう。それが、たとえ皿洗いでも、挨拶を先にすることでも、ありがとうを心を込めて言うことでも、それは小さな「死ぬ」という行為になります。死ななければ、そのままです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(24~26節)

ヨハネ12章を読みながら、バッハの教会カンタータ147番を思い出しました。「主よ、人の望みよ喜びよ」という6番目の曲は有名で、その歌詞がいいです。直訳風に翻訳するとこうなります。私は幸せです、イエスを持っているから。私はイエスを固くだきしめる。イエスが私の心をいやしてくださる、病の時も、悲しみのときも。私にはイエスがいる。イエスは私を愛し、私のためにご自身を差し出して下さる。だから、イエスを放さない、たとえ心が張り裂けようとも。

主イエスは、一粒の麦となり、いのちを投げ出してくださいました。それで、私たちは救われ、罪ゆるされました。だから、私たちも「死ぬという生き方」を生活に取り入れましょう。

 「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(36節)

 
 →あなたの番です
 □主イエスが預言されていた救い主であると、信じましょう。
 □私たちなりに、「死ぬ」ことを選びましょう。
 



ヨハネ11:17~57  わたしはよみがえりです



  松竹梅は本来論語の言葉で、不遇に耐えてけなげに生きるたとえのようですね。冬に緑を保つ松、雪の重みに負けない竹、極寒に咲く梅。
 マルタとマリヤに会いにいかれた主イエスの気持ちを考えるうちに、松竹梅という言葉を思い出しました。今日は、99%の暗闇に覆われた時、どう生きるかという事を考えます。

1、99%の暗闇

 物事はすべて悪い方向に向かっていました。
1)ラザロは墓に埋葬され、4日が過ぎていた(17、39節)
2)大勢の弔問客でごった返し、葬式一色だった(19節)
3)マルタは主イエスの不在を責めた(21節)
4)信仰深いマリヤでさえ主イエスの不在を抗議した(32節)
5)マリヤは泣き崩れ、弔問客はもらい泣きした(33節)
6)盲人の目を開けた主イエスは、ラザロを癒せたはずとの批判の声があった(37節)

 主イエスは完全な神ですが、同時にまぎれもない人間でした。ロボットや機械のような鉄の心を持っていたのではなく、主イエスは私たちと同じような壊れやすい心を持っておられました。人に責められればつらいのです。人の悲しみに触れると涙が出るのです。ヨハネの福音書は、主イエスが人間であることを躊躇なく記録しています。

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、(32~33節)

しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。(37~38節)

あなたは、最近、自分に幻滅したことがありますか。自分の発言。自分の行動。自分の取り乱した姿。思い出すだけで自己嫌悪に陥る。もし、そうなら、主イエスが動揺する姿はあなたの慰めになるはずです。主イエスは、私たちの葛藤が分かってくださるのです。

 主の栄光はいつあらされるのでしょう。物事の99%が悪い方向に向かい、心乱れる時なのです。あなたが暗闇にいて、動揺の真っ只中なら、主の栄光はすぐ近くにあります。


2、主イエスの言葉を、信じるか否か

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」(21~23節)

 マルタは復活を信じていましたが、死んだラザロは終わりの日によみがえる、というおぼろげな希望でした。主イエスは、あなたの兄弟はよみがえるとはっきり言われました。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(25~27節)

 マルタは一応こう言いましたが、ラザロの墓の石をころがしなさいと主イエスに言われると、もう臭くなっていますと答え(39節)、ラザロの復活を信じていないことが暴露されます。

 納得できるから、神の言葉ではないのです。そうなりそうだと合理的に推測できるから、神の言葉ではないのです。主イエスが言われるから神の言葉なのです。

 東日本大震災のとき福島の病院で勤務していたあるクリスチャン、地震の揺れがあまりに強いので死を覚悟しました。危険な場所から引き上げるよう他の人から強く言われても、災害拠点病院で勤務を続けました。理由は、死んでも天国にいける私が先に逃げることはできない、という自覚でした。主イエスのいのちを持っていることが、今の生き方を規定しました。

 主イエスは、いのちです。主イエスこそ、よみがえりです。この方を信じるなら、死ぬことはないのです。あなたは、主イエスの言葉をそのまま信じますか。


3、神の栄光

 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40節)

 主イエスが使いに託してマリヤたちに言われた言葉、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」(4節)この言葉をマリヤもマルタもまるで聞いていませんでした。主イエスを信じ、主イエスの言葉を信じているなら、神の栄光を見るのです。

 墓のふたが開けられると、主イエスはラザロに聞こえるような大声で、「ラザロよ。出てきなさい。」(43節)と言われました。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44節)

 誰もが唖然としました。まさかと思いました。布をほどいて、ラザロの笑顔を見たなら、葬式は結婚式のようにガラリと変わったことでしょう。
この奇跡で、多くの人が主イエスを信じました。(45節)一方、知らせを聞いたパリサイ人たちは、主イエスが危険な人物だと確信を持ち、抹殺すべきだという結論を出しました。

 東関東大震災の日、気仙沼を大津波が襲いました。阿部さん夫妻は、旅行中で津波の難から逃れましたが、気仙沼の自宅はすべて消失、通っていた気仙沼第一聖書バプテスト教会も土台だけとなり、自営業として営んでいた印刷会社の建物には1.6メートルの高さの泥水が浸入、総額1億円の被害を受けて打ちのめされ、再起不能とあきらめて泣き崩れました。
 外国人クリスチャンがボランティアとしてやって来て、掃除、建物の改修を助けられ、5月の連休に訪れた三女の夫が信仰告白してクリスチャンになり、5月の末には小規模ながら印刷業を再開、地震から一年後には本格的な印刷機を購入し、印刷業に復帰できました。
 阿部さんは言っています。多くの人が助けてくれた。どんな苦しみの中でも、神が愛を注いで下さった。最初は下を向いていた。しだいに前を向き始め、最後は上を向くようになったそうです。
 印刷会社の建物は、教会の礼拝堂として兼用していますが、礼拝スペースの正面には旧約聖書の言葉が掲げられています。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌8:7)

→あなたの番です。
□主イエスは困難に取り巻かれ動揺され、私たちの葛藤を体験的に理解してくださる方
□「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(40節)
□主イエスと主イエスの言葉を文字通り信じましょう