「それでもなお」 ヨブ記2:1~13

 独身の男には、彼女のお父さんに結婚前に挨拶するという大きな試練が待っている。(笑い)私の知り合いの男性は、遠隔地にあった彼女の実家に泊めてもらいながら、最後まで切り出せず、見送りに来てもらった飛行場でやっと「お嫁にください」と言った。彼にとっては、毎瞬間が試練の連続だった。

 ヨブには試練が続いた。10人の子供と全財産を一日にして失ったが、一息入れる暇もなく、今度は全身に及ぶ悪性の皮膚病に襲われた。

2年前の感謝祭のちょっと前、息子から夜に電話があった、「父さん、シビックが盗まれた」。急いで車を飛ばして現場に着くとポリスと息子が路上で話していた。自分でローンを組んで大切に使っていた車がやられた。車の保険がカバーするので、息子はレンタカーを借りて使ったが、感謝祭の前日、「父さん、また盗まれた」。レンタカーまで盗られた。
泣きっ面に蜂、二度あることは三度ある。きっとあなたも度重なる試練を、経験しているはずだ。

 詳しく聖書を見よう。神はヨブの信仰を試練前と同様に3節で高く評価された。神はヨブを信頼しておられた。サタンは、「あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」(5節)と執拗に提案してきた。持ち物や家族は、失ってもなんとか代用品を探すものだが、自分の体に試練が来れば、さすがのヨブでも神をのろうだろう、とサタンはたたみかけた。

神を捨てた人や苦しみに倒された人に試練は無用、とサタンは考える。だから人が倒れるまで、二倍、三倍の力で激しく戦いを挑んでくるのがサタンだ。「彼のいのちには触れるな」(6節)との制限を神から受けたサタンは、ヨブの足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打った。
膿や腫れや変形が起きて、二目と見られないひどい体になった。友人らが来ても顔が見分けられないほどだった。不快、嫌悪、絶望がヨブを襲った。
「横たわるとき、私は言う、『私はいつ起きられるだろうか』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。私の日々は機の杼よりも速く、望みもなく過ぎ去る」。(ヨブ7:4~6)

妻は、叫んだ。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」(9節)。妻は、ヨブが本気で神に信頼している事を知っていた。だから、いたたまれない。度重なる試練の出所が神にあると妻は感じていた。
 試練に遭うと人は、<なぜ、私だけが苦しみに遭うのか>とまず自分に焦点を当てる。次の段階は、<なぜ神は、この苦しみをお許しになったのか>と神に批判と疑問をぶつける。
私はヨブの妻が愚かだとは思えない。夫に対する切ない思いやりの言葉かもしれない。

ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(10節)と真顔で返事をした。
「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった」(10節)「口にしない」という表現は、心の中での葛藤を暗示している。喉から下は、濁流のような疑問と溶岩のような怒りが煮えたぎっていたのだろう。ヨブは親友の訪問を受けても、7日間何も言わなかった。つまり、これは、言いたいことが山ほどあったという事の裏返しなのだ。

 ヨブには、エリファズ、ビルダデ、ツォファルという3人の親友がいた。声を掛け合って、ヨブを励まそうとやって来たが、あまりの悲惨さに、自分たちの着物を引き裂き、チリを頭の上に撒き散らし、7日間、ヨブのそばにいて「だれも一言も話しかけなかった」。(13節)

息子の2度にわたる車盗難で私たち夫婦はひどく落胆した。お金のない時だったので、痛烈にこたえた。すぐ翌日の感謝祭礼拝で聖歌隊の一員として賛美した。友人のクリスチャン夫婦に誘われ、ターキーとご馳走を頂いた。彼らは、僕らをそのまま受け入れ、温かい心で支えてくれた。
後日談を加えよう。その年のクリスマス。今度は、バイト先で息子は事故にあい、足指に酸素ボンベを落として手術を受け、年があけると、買いなおした3台目の車まで盗まれた。

 度重なる試練のとき、何が一番の励ましになるのか。それは、一緒に苦しんでくれる人の存在だ。痛みを分かち合ってくれる誰かがいることだ。泣いてくれる人。手を握ってくれる人。夜遅くまで話を聞いてくれる人。そういう人がいればいい。一人でもいればいい。そういう人に感謝しよう。
そういう人にあなたもなろう。

ヨブ記は、試練の時にこうすれば良いという模範解答を教える書物ではない。自分と同じ苦しみをたどった人がいる。自分と同じく、悩み、うめき、叫び、疑った人がいる。その事自体が慰めの源泉なのだ。
あなたの苦しみ自体が、そのまま、誰かへの慰めになることを、忘れないようにしよう。あなたを見つめている人が、慰められているのだ。

「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみにあうなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。」(第2コリント1:5~6)

「なぜ私が」 ヨブ記1:1〜22

<正しい人がなぜ苦しみに会うのか>、これがヨブ記の基本テーマです。
 
「なぜ私だけが苦しむのか」。人は人生で何度もこの言葉を口に出す。なぜこんなに苦しむのか。何も悪いことはしてないのに。なぜ災いに巻き込まれるのか。
ある種の宗教は、あなたが先祖を大事にしなかったから災難に遭ったと説明します。ある人は、あなたの心がけが悪いからだと言いますます。はたして、そうでしょうか。
 
これから、ヨブ記を何度かに分けて学んでいきます。<なぜ私が?>の質問に主がどのように応えてくださるかを見ていきましょう。
 
ヨブは、どうやらユダヤ人ではなく、エドムの人のようです。1節にあるウツという場所は死海の北東部、アラビヤ砂漠との境界線付近だったと学者は考えます。ヨブ記では、出エジプトの出来事、律法、預言者、ユダヤの王などについて言及しなことから、ヨブの生きていた時代はアブラハムと同じ頃、あるいはその 少し後と考えられます。
 
ヨブの人柄は、1節、5節、8節に顕著です。
「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)
 
ヨブを紹介するとき、聖書はその財産の豊かさに最初は触れず、ヨブの4つの内面性を説明します。潔白、正しさ、神を恐れる心、悪から遠ざかる姿勢。神から見ても非の打ち所のない人物であると8節で明記されています。
 
神に敵対するサタンは、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」(1:9)と疑問を呈します。ヨブが正しく潔白に生きているのは、神が物質的な繁栄をヨブに与えたからだと指摘した。信仰の支えとなっている繁栄を奪えば、ヨブは神をのろうとサタンは断言、神はサタンに許可を与えます。
 
この結果起きたことは悲惨の一言でした。一日のうちに、7人の息子と3人の娘が死亡しました。その上、すべての財産が奪われたり焼かれたりしたのです。一文無しで、子供なしです。積み上げてきたものは、すべてなくなりました。
ヨブは、この事実を知らされ、悲しみの表現として上着を裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、以下のように語りました。
 
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
 
ケアホーム職員が受けた講習についての文章を『羅府新報』に書きました。人生は大切なものを失うプロセスです。配偶者を失い、子供を家庭の中から失い、名誉や地位を失い、健康を失い、味覚も聴力も視力も無くし、記憶も失っていくのです。獲得することだけが幸せという偏った価値観では、不幸になるだけです 。
 
現代のアメリカや日本では偏った価値観した教えません。それは<坂を登る>価値観です。勉強して、良い学校に入り、有名企業に就職し、立派な家に住み、早めにリタイアし、高級ケアホームに入り、(最後は超豪華墓地に入る)。
集めること、所有すること、多くなること、強くなること、高くなることばかりを強調する価値観には歪みがあります。
人生には<坂を下りる>経験が必ずあります。分けること、少なくなること、さびしくなること、弱くなること、忘れられること、そうした中にも人の幸せが隠れているのです。
 
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。(伝道者の書3:6)
 
ヨブは生まれた時の自分の姿に思いを馳せました。あのとき、裸だった。何も持っていなかった。分娩室で取り上げられたとき、マスターカードとチェックブックを持っていた赤ちゃんなんて聞いたことがありますか。ヨブは自分が死ぬときにも目をやりました。そうさ、何も持っていけないんだ。地上で人間が所有で きるものは、すべて神の許しと守りの中で享受できるもの。裸、つまり、命と体。それは神から頂いた最高に価値あるもの。ヨブはその裸を感謝しました。
 
ヨブの信仰は、神から物質的な繁栄をもらったから成り立つ<ご利益信仰>ではなかった。神が富や財産や子宝を与えてくださる時は、与え主である神に感謝する。神が、繁栄や子宝を取られるときは、神の深いお考えがあることに信頼を置き、神に愚痴をこぼさない。神は自分の創造者、神がおられる事自体が喜びの 源、神と共に歩めること自体が真の幸いと認識していました。物質や金を手に入れる生き方ではなく、命の源である神とつながって歩めることが最大の幸せなのです。そういう人は、神に与えられた財産を上手に使い、神のため人のために生かせる生涯になる。そして、坂を下りる経験の中でも主をたたえることができるのです。
 苦難を通ったヨブだから語れた21節の言葉です。この言葉で多くの人が慰められてきました。
 
 横田早紀江さんの長女めぐみさんは、昭和52年(1977年)11月15日に行方が分からなくなりました。悲嘆にくれる中、めぐみさんと同学年の娘を持つお母さんから、「聖書を学ぶ会」に誘われ、聖書をもらいました。悲しみの中でこんなに分厚い本をどう読んだらいいのかと最初悲嘆にくれましたが、ヨブ記を勧められていたので開いてみました。そこで目にとまったのが21節でした。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 「はじめて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。私は、むさぼるように聖書を読み始めました。今まで聴いたことのない、魂に深く、それも痛みをもって心地よく染みていくこの本は、なんという本でありましょうか」と早紀江さんは述べています。
 
 あなたの人生で、必ず何かを失う経験に出会います。そのとき、主を見上げよう。坂を上りながらも坂を下りながらも主を見上げましょう。そして、残された自分の命をどう生かすか。よく考え、よく祈り、静かに行動に移しましょう。
 
「主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」

「神の栄光のために」 第1コリント10:31

 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10:31)

 人は二つの種類に分けられる。自分の欲望を追求する人と、もう一つは、欲望を追求する人に振り回される人。あなたは、どちらですか。

 おとなしそうな真面目サラリーマンも、自分の欲のためなら暴力でも詐欺でも厭わないやくざ者も、内面はそんなに変わりません。
 アメリカは、いわゆる「世間さま」が存在しないので、日本でできない事もここではできます。一山当てて金持ちになれる場所です。

 さて、欲望追求の人生で何が残りましたか。そこに深い満足がありますか。あなたの人間性は深まりましたか。身近な家族はどうなりましたか。
 人の欲望に振り回された人はどうですか。心に憎しみが渦巻いていませんか。結局あなたも、欲望追及を邪魔されて怒っているだけではありませんか。


 聖書は第三の生き方があると教えます。それは、神の栄光を現す人生です。

 今まで、4回ほどに分けて、信仰の礎シリーズを話してきました。人格を持ち、無限で雄大な神は、私たちをお造りになり、私たちの欠点や罪を知った上で決して見捨てない方だと話してきました。

 1563年に出版された『ハイデルベルク信仰問答』の最初の質問は次のようなものです。「生きている時も、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
 答え:「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。<中略>わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることができるように、して下さるのであります。」

 神に作られ、神に愛され、神によって救われ、神のものとされた者は、神のために生きると、教えています。実に美しい言葉ですね。

 神のために生きるというのは、どういうことでしょう。私は次のように考えています。神に使ってもらいやすいように、自分を差し出す生き方です。

 完全に自分を明け渡したかどうかで自分を吟味し続けるのではなく、不完全でもいい、罪深くてもいい、今のあなたを差し出す生き方が肝心だと思います。使ってください、という姿勢でいることです。「今がそのときだ」、「今、神が求めておられる」というチャンスが分かってきます。そのとき、実際に自分を使ってもらいましょう。それが、神のために生きることです。

 クリスチャンは、エビに似てるなって、思うんです。だって、「いえいえ、私には何もできません」と謙遜しすぎて、後ろに下がってばかりいるのです。だからエビみたいです。むしろ、カタツムリでいいんじゃないか、と思います。後ろに下がるカタツムリって、見たことないでしょ。歩みは遅くても、与えられた賜物を主にささげて、前にでましょうよ。使ってくださいとささげましょうよ。

 今日配布したプリントを見てください。以下のように、神のために生きることが人間にとって合理的で、最善の生き方だと書いてあります。

神の栄光のために造られた
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ43:7)

神は人を探している
「主は御目をもって、あまねく全治を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16:9)

主イエスも父なる神の栄光を求めた
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰すなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えられる方は、わたしの父です。」(ヨハネ8:54) 

自分を神に使っていただこう
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

私たちの体は神のもの
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第1コリント6:19)

 さあ、あなたの体を神に使ってもらいましょう。そこに、本当の喜びと満足がきますよ。

「私たちに似ている神」 創世記1:1~5

 日本人が考える神とは以下の3つに分類できます。
1)白い髭のおじいさん → 役に立たないおひとよし。
2)エネルギー → 宇宙の源。パワー。非人格的な神。 
新興宗教に多い考え。この絶大なパワーを自分のものにするのがその信仰形態になる。この種の神とは、人間が利用したり、操作できるもので、自己実現の道具に等しい。エネルギーに対する祈りは、精神統一、自己暗示、恍惚状態によるやる気の高揚につながる呪文に近くなる。
3)運命 → 冷たい運命。人間は荒ぶる神に逆らえない。だから、怒りを静める儀式が信仰形態となる。人間に残された道は、運命をあきらめるだけ。

 以上のように神しか、日本人は想定できない。だから、神は取るに足らない存在となり、信じるに足る相手ではなく、結局は神はいないと結論するしかない。
 
 聖書に示されている真の神は、そいうお方ではない。創世記を見よう。創世記を単なる神話や昔話として考えては、大切な宝を失うことになる。

 1~5節を読もう。神が何をなさったか良く見よう。神がなさったことから、神がどんなお方か推測することができる。

初めに、神が天と地を創造した。
地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 神は宇宙を創造する方だ。つまり、デザインする力がある。無から有を造り出す独創力を持っておられる。はかりしれない知恵を持っておられる。

 宇宙に目を向けよう。1光年は9兆4600億キロメートル。太陽系は銀河の中心から3万光年離れている。太陽系が銀河系を1周するに2億年かかる。そして銀河系自体がうみへび座方向に1日に5000万キロ移動している。銀河系の直径は10万光年。現在観測できる宇宙の果ては150億光年先まで。その先は 光と同じ速度で遠ざかっているため 測定できないという。なんと遠大な宇宙だろう。神は、このすべてを造られた。

 今度は目を小さなものに向けてみよう。人間の体内にある血管は伸ばすとどのくらいになるか。答えは10万キロ。つまり地球を2回転半の長さ。これも気が遠くなる世界だ。酸素を運ぶ動脈は皮膚から深いところにある。赤血球の形は穴のないドーナツ形。表面積が球体などより30%も多い。赤血球の大きさは1ミリの1000分の7。骨髄で作られ寿命は120日。血管の95%は、目に見えない太さの毛細血管。血の中には13種の血液凝固因子あり。出血すると、血小板がこわれ、13種の因子が混ざるきっかけを与え、血が止まるようにできている。

 神は、宇宙のような大きなものから、血管や血液など小さなものまでお考えになり造られた。人間は偶然に存在するのではない。だから人生に意味がある。神は私たちを造られた。そして、ご自身に似せて造られた。

 マルチン・ブーバー(1978~1065)というオーストリア生まれのユダヤ人哲学者が『我と汝』という本を書いた。ブーバーによれば人間をめぐる関係は二つしかない。
<我と汝>
<我とそれ>

 人間が自分を人間と意識できるのは、相手があって初めてできること。自然やモノとの接触は人間の自覚をうながさない。あなたと呼べる相手との出会いが人間には不可欠だという。

 エネルギーとしての神、非人格的存在の神では、人間が利用するだけで、欲望肥大だけをまねくだけ。 けれども、あなたと呼んでくれる存在に出会うとき。人間は、はじめて人間になる。

 私は妻と出会って様々なことに気づいた。それまでは、男が優位で女は劣ると思っていた。それは男の傲慢に過ぎなかった。妻は家庭の中で、「ありがとう」を自然に言う人だった。私が育った家族の中で、私はそんなことは言わなかった。「ありがとう」との出会いは大きく言えば人生を変えた。

 神はあなたを呼んでいる。あなたも、人格的で無限の神から語りかけを受けている。「神よ」とあなたが応答するとき、あなたは本当の自分に気づく。そして、神との祈りが自然に生まれる。

 神が人間に似ているのではない。僕らが神に似ているのだ。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
 あなたも、「神よ」と心を込めて語りかけよう。