救いの豊かさ 第1ヨハネ3:2~3

 救いの確信を持てない典型的な例として、<感情に土台を置く信仰>の誤りを先週説明しました。本日は、「若葉のメッセージ」シリーズ第2回目として、救いの豊かさをお話しします。

 生まれたばかりの赤ちゃんがこう言ったとします。「オギャー、僕は、絶望しています」「どういうことだい。説明しておくれ」「だって、私は、皆様のような一般常識も教養も挨拶の仕方すら知りません。この世の中で立派な大人として生きていく自身が持てないのです」こんなことはあり得ませんが、クリスチャンは同じようなことを自分に当てはめています。時には、まだクリスチャンになっていない人まで、同じようなことを考えています。言い直してみましょうか。「私は信仰の確信が持てません。なぜなら、マザー・テレサやキング牧師、賀川豊彦のような立派なクリスチャンになっていないからです。もうこのへんで、クリスチャンを引退したいと思います。」

 こういう人への診断結果をお伝えします。あなたは、義認と聖化と栄化を混同しているのです。

 今日は、組織神学の用語3つを取り出して、救いの豊かさを説明します。その3つとは、義認と聖化と栄化です。聖書が教える救いを、時間の経過を横軸にして説明したものと考えれば分かりやすいですね。救いは、瞬時で完結します。それと共に、長い時間をかけて成熟していく要素があるのです。

1、義認
 主イエスを信じたときに瞬間的に起きます。罪人の私たちが、罪のない正しい人として認められることです。普通、救いという呼ぶは、このことを指します。義認の土台は、先週お話したように、イエス・キリストの十字架の事実です。私たちの身分が変化したのです。

 ローマ5:8~9「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが彼によって神の怒りから救われるのは、なおされのことです。」

 ローマ4:5~8「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」

 私たちは、イエス・キリストと同じきよさや正しさを持つ者として認定されました。これは、神の大きな恵みです。



2、聖化
 クリスチャンが、主イエスに似た者に変えられること。信じた瞬間に起こることではなく、その後の人生で徐々に変化する。義認は立場の変化を意味しますが、聖化は内面の変化です。

 橋の下で寝泊りする孤児が王様の息子と判明したという場合を想定しましょう。その少年は、王宮で生活するようになっても、王子のような立ち振る舞いはできません。けれども、2年、5年とたつうちに、王子の風格も出てきます。同じことが私たちにも起きています。

 「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える人になる、正しく生きようと思う、人を愛そうと願う、きよさを求める、これらは聖化のプロセスが始まっていることを意味します。

 第2コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なら主の働きによるのです。」

 義認が主イエスの十字架に土台を置くなら、聖化は聖霊の働きに土台を置きます。聖霊に導かれて、聖霊の助けにより、私たちは日々に変えられるのです。

 聖化というプロセスは、罪の自覚に始まり、深い悔い改めに導かれ、主イエスの十字架を信仰を持って見上げるというパターンを取ることが多いものです。「私はクリスチャンとしては落第だ」、「私は偽善者だ」、「私はきよくない」、「また同じ罪を犯してしまった」、このように自分に絶望し、内面的に破綻した者であると自覚すること、これらは、私たちがキリストに似るためになくてはならない、近道ができない大切なプロセスなのです。ローマ5:20の言葉は、聖化の恵みを教える聖句です。

 内村鑑三は日本を代表するクリスチャンですが、アメリカ留学中の若き日に自分の罪深さに悩んでいました。アマースト大学のシーリー学長は内村に次にように言いました。
 あなたは愚かな農夫のようだ。種をまいて、芽が出たかどうかと毎日掘り返すようなことはしないだろう。あなたにはキリストの命が与えられている。内なる罪を見ることをやめ、十字架上であなたの罪を贖いたもうた主イエスを仰ぎ見よ。

 ローマ5:20「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 以下の聖句は、聖化を願う心を与えて下さるのは神であり、それを成し遂げて下さるのも神であると教えています。

 ピリピ2:12~13「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」

 あなたの番です。あなたも聖化のプロセスをまっすぐに進んで行きましょう。
・あなたは、イエスさまのようになりたいですか。
・どんな分野で変えられたいと願いますか。
・あなたが避けるべき事はどんな事ですか。
・あなたが選ぶべきアクションは何ですか。
・もっと主イエスを知るために何をしたらよいですか。
・愛の人になりたいですか。
・正しく生きる人になりたいですか。
・誘惑に負けない人になりたいですか。

 聖化の大きな助けになるのは、<スクラム成長法>です。
ラグビーで、スクラムを組んで試合が再開される場面があります。一人では、立ち向かえなくてもスクラムを組んで力を集中すると大きな力がでます。それと同じです。クリスチャンの仲間と、2人とか3人とかの最少単位から始めて、定期的に集まり、祈りあい、語り合い、聖書を開き、励まし合うという交わりが、あなたの聖化を助けます。何でも話せる仲間がいる時、あなたは本気で悔い改めることができます。
 いいですか、教会という交わりの中は、鼻水と涙とが一緒になって、ごめんなさいと言う人を尊敬する場所なのです。その人を赦して、僕らも同じだよ、と言って抱きしめる場所なのです。


3、栄化
 栄化は、私たちが死んで、主イエスに出会う時に起きます。瞬間的です。主イエスと同じ栄光の姿に完全に変えられます。

 第1ヨハネ3:2~3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者になることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 神と直接語ることをゆるされたモーセは、その顔が栄光に輝き、イスラエルの人々は光り輝くモーセの顔に驚いたと記されている。(出エジプト記34:35)それと同じように、私たちも主イエスと会うその日、栄光の姿に変えられ、完全にきよめられた聖なる者となっとなるのです。(エペソ5:25~27)それゆえに、私たちは自分の弱さに立ちすくむことはせず、栄化の約束を信じて、この地上の歩みを続けるのです。

 年老いた宣教師夫妻が船に乗り、宣教地から故郷のアメリカに帰ることになりました。外遊中の大統領一向が途中で乗船しました。アメリカの港に着くと、大勢の人が大統領を迎えに出ていました。その賑やかな様子を見て宣教師は妻に言いました。「私たちは、故郷に帰って来たのに誰の迎えもないね」奥さんは言いました。「あなた、私たちは、まだ故郷に帰っていないのよ」
 そうです、私たちも本当の故郷天の国に帰る旅を続けているのです。主イエスの姿に変えられる旅を聖霊の助けをいただきながら進みましょう。



 

救われているのかな 第1ヨハネ5:13

 これから6回シリーズで「若葉のメッセージ」をお届けします。基本テーマは救いの確信です。クリスチャンでありながら自分の信仰に確信が持てないという人に、私は出会ってきました。それも何人もです。驚きというか、残念というか、せっかく神から頂いた救いです、もったいないですよ。しっかりと自分の信仰に確信を見出してほしいと思います。
 「若葉のメッセージ」というシリーズ・タイトルは、イエスさまを信じて、若葉が出たばかりの人が大きく豊かに成長してほしいとの願いを込めて名付けました。効果的な学びのためには、1対1での学びをお勧めします。

1、あなたの信仰自己チェック

 以下の質問に答えて下さい。
1)あなたは、主イエスを救い主として信じましたか?
はい・いいえ

2)はいの人だけに質問します。あなたは、今日死んでも天国に行ける確信がありますか。 はい・いいえ

3)その理由は何ですか?はいの場合もいいえの場合もお答え下さい。


 いいえと答えた人は、だいたい3つの理由が考えられます。
(1)罪を犯してしまうから
(2)理想的なクリスチャンに程遠いから
(3)今日の気分として無理だと思う

 聖書の教える救いについて部分的にしか知らずに、自分は基準に達しないと勝手に結論を出しているので、確信が持てなくなります。

2、救いの確信を与える聖句 

 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第1ヨハネ5:13)

 ヨハネが生きていた時代にも、確信を持てないクリスチャンがいたことがこの聖句からうかがい知ることができます。ちょっと、ほっとしますね。
あなたがイエスを神の子と信じているなら、聖句の後半部分は間違いなくあなたに適応されます。ためしに、<あなたがた>という部分にあなたの名前を入れて声に出して読んでみましょう。山田太郎という名前で読むことにしましょう。「神の御子の名を信じている山田太郎に対してこれらのことを書いたのは、山田太郎が永遠のいのちを持っていることを、山田太郎たによくわからせるためです。」良く分かりましたか。
 このようにして、あなたの救いの確信を聖書の言葉に置くことが大事なのです。聖書に書いてあるから、私は救われているといえるのです。

3、救いの確信に満ちている聖書

 聖書は多くの箇所で、人が救いを確実に受け取れると保証しています。たいていは、救いの条件とその結果が明瞭に記されています。条件とは、主イエスをただ信じること、その結果とは以下に記された救いの様々な要素です。これらが私たちのものになるのです。以下に、主イエスが直接語られた救いの様々な概念を書き出しました。

1)あなたの罪は赦された マルコ2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

2)新しく生まれた ヨハネ3:3
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

3)天国に行ける ルカ23:43

「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

4)永遠の命がある ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 5)神の子となった ヨハネ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。

4、救いの確信の土台はどこに?

 キャンパスクルセードの『4つの法則』に汽車の絵が掲載されています。左側には機関車、その次に石炭車、最後に客車の順で並んでいます。この順番が大事です。機関車部分が事実を表し。石炭車は、その事実を信じることが信仰であることを表し。客車部分は、その結果として心の中に生じるものが感情であると教えています。この逆は不可です。感情という客車で機関車を引っ張ることはできないのです。

 日本人は、グリーンカードかビザかアメリカ市民権を取るかのいずれかをしなければアメリカに居住し労働することはできません。あなたが合法滞在であるという事を証明するものは何でしょう。あなたの気分ですか。違います。移民局なり法務局などにある書類があなたの身分を保証します。
同様に、私たちが天国に行ける保証は、私たちが真面目だとか、礼拝に毎週行くだとか、立派なクリスチャンになったとか、そういうレベルのことではないのです。人間がどれだけ正しい行いをしたとしても、神の基準からすれば標準以下です。かなり訓練して泳げる人でも、ドーバー海峡を渡るくらいが限度で、カリフォルニアから東京まで泳いで渡れる人がいないのと同じです。
 あなたが天国に行けることを保証するものは、あなたの外にあります。

 イギリスを暴力革命から救ったと歴史家がその活動を評価するジョン・ウェスレーは、アルダスゲイト街で1738年、信仰による義という真理に目覚めました。その直後、ドイツを訪問しモラビア派のクリスチャンに会い、その理解を深めたました。クリスチャン・ダヴィッドは以下のようにウエスレーに言いました。
 「(義認)の正しい土台は、あなたの悔いた心でもなく、あなたの義でもなく、すなわち、あなたに属する何物でもなく…………。それは、あなたの外にあるもの、すなわち、キリストの義と血のことです。」

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

 救いの土台は私たちの感情になく、十字架の事実にあるのです。

 クリスチャンなら、みことばに土台を置いて救いの確信をしっかりと自分のものしましょう。あなたは救われています。主イエスが十字架でその保証をしているのです。
 クリスチャンでない人なら、イエスさまを信じましょう。信じるだけで救われるというこの素晴らしい救いをあなたのものにしてください。
 確信を持っているクリスチャンは、確信を持っていないクリスチャンと定期的に会って、救いの確信を持てるように聖書を学び、励ましてください。

助けて ルカ11:1~4

 主の祈りは、すごい祈りなのです。

 人の抱える悩みとは、つまるところ現在、過去、未来の悩みです。主の祈りにはそのすべてを網羅した祈りです。あなたは、今生きること自体がとても問題ですか。過去が辛くて前に進めませんか。将来が不安で、冷静さを保てませんか。

1、現在形の祈り

 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」

 今日食べるものがない。これは、生活の悩みです。切羽詰った大問題です。
笑って話せる貧乏体験がありますか。私は若い頃、パン屋でパンのみみをもらいに行ったことがあります。杉並区の立派なパン屋ですから、残ったパンや切り落とした食パンでもおいしかったことを覚えています。さすがに店頭では惨めな気持ちで一杯でした。
 あなたは、今日、食べ物がありませんか。そういう人は、生ける神にこう祈りましょう。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」主の祈りは、現実を切り開く力をあなたに与える祈りです。
 今日食べる物にはまったく心配がいらないという人もいるでしょう。そういう人は、生かされているのが神の恵みだと気づく不思議な力を持った祈りになります。
 主の祈りは、現実を切り開く力を与え、謙虚さを人に与える祈りです。


2、過去形の祈り
 
 「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」

 過去の悩みの多くは人間の罪と関連しています。自分が犯した罪を嘆く。取り返しがつかない。人が自分にもたらした悪によって傷がいえない。特定の人を憎んでいる。別な角度でいえば、過去の悩みは人間関係の悩みに置き換えることができるのです。
 主イエスの教えにはバランス感覚があります。赦してくださいと願った自分も、次には人を赦すことがどうしても必要になるのです。「ごめんなさい」と「ゆるします」はセットになっています。人間は必ず失敗する生き物だからです。
 もし、「ごめんなさい」や「ゆるすよ」と最近言っていない人がいたら、心が硬直しているおそれがあります。握り締めている手は、人を殴ることしか考えません。その手を開いてください。誰かと手を繋ぐことができますよ。
 主イエスが教えてくれた祈りは、実に素朴です。罪を赦してください、という祈りです。この祈りをするとき、私たちは正直になり、柔らかい心を持つようになるのです。


3、未来形の祈り
 
 「私たちを試みに会わせないでください。」

 これは将来の悩みですが、角度を変えて言えば、<心>の問題ともいうことができます。心配いらないよ、思い込みすぎだよ、と人から言われても、心配でたまらないというのは悩みの根拠に実体がないということです。でも人間は、明日を思うとくよくよするものです。
 これとは違い、明白な理由で不安になる事があります。来週には手術がある、大事な商談が明日だ、入学試験が迫っている、リストラされる可能性が高い、という場合は深刻です。
 主イエスは、人に安易な幸せを公約しませんでした。むしろ人生には苦しみがあると明言されています。誰も苦しみから除外される人はいません。その厳しい人生で、主イエスが教えてくださった祈りは、「試みに会わせないでください。」というものです。この祈りには、不思議な力があります。不安で立ち止まり、しゃがみこんでしまう人が、この祈りをすると、なぜか勇気がわいてくるのです。神を信頼して、前に進む心に変わるのです。十字架の道を私たちに先立って歩いて下さった主イエスの言葉だから、力があるのです。

 このように、主の祈りは、過去、現在、未来の悩みに立ち向かえる心を与える祈りです。

 主の祈りの全体を見直すと面白いことに気づきます。主語に注目しましょう。<私>の祈りではなく、<私たち>の祈りなのです。主の祈りは、エゴイストを作る祈りではなく、<私たち>という枠をどんどん広げてくれる力を持っています。私一人が満腹すれば良いのではなく、身近な人、日本人、アメリカ人、世界の人が食べられることを望む祈りに発展します。
 主の祈りの特徴をもうひとつ。主イエスは私たちの悩み全体を良く知っておられるという事です。私たちの悩みの深さを本当に良く知っておられるという点に私は感動するのです。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。」(ヨハネ黙示録2:9)

 心を静めて、神を父と呼んで祈りましょう。父の懐で愛を受け、父を礼拝し、父を世界に伝えたいという思いに導かれ、父の御心に従うという心が私たちを包んだ後に、今日学んだ後半の部分を祈るのです。あなたの過去の問題、今の生活の課題、明日の心配、すべてを祈りによって神に伝えましょう。
 現実を切り開く力と謙虚さ、罪をあやまる正直さと人を赦す柔らかな心、そして、神への信頼と勇気を持って未来に立ち向かう人になりたいなら、主の祈りを心を込めてささげましょう。

父に祈ろう ルカ11:1~4

 今年の教会の標語は「父に祈ろう」です。経済不況が本格化する年に、神を父として親しく呼んで祈っていきたいと思います。 

 今日、取り上げるのは、有名な主の祈りです。主の祈りといえば、マタイ6:9からが有名ですが、ルカ11章も間違いなく主の祈りです。一字一句マタイの主の祈りと同じでないところに味があります。二種類の主の祈りがあるというのではなく、主の祈りに込められた中心思想が一つだと理解すべきでしょう。

 主の祈りといえば、「天にまします我らの父よ」という導入の句が有名です。これは今から120年前の文語訳聖書の言葉です。幼稚園の頃覚えて、大人になって教会に来て、同じ言葉の主の祈りに出会って嬉しかったという人も多いでしょう。英語の主の祈りでよく知られたフレーズはキングジェイムズ訳で、これは今から400年前の文章です。

 「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。」(2節)

 主イエスの祈りの最も大きな特徴は、神を父と呼ぶことです。

 ところで、あなたのお父さんはどんな人ですか。我がまま勝手なおやじですか。小さいことまで管理したいせこセコイ公務員タイプの父親ですか。あなたに暴力を振るったり、言葉で罵倒するいやな奴ですか。酒飲みで博打好きでろくでもない風来坊ですか。少しも話を聞かない父ですか。
あなたの実際の父親のイメージが悪いと、神を父と呼ぶ場合に抵抗感が生じてしまいます。宗教改革者ルターも怖い父親イメージがあったので、最初は苦労したようです。

 主イエスは祈るとき<父>と呼びかけ、また、私たちにもそれを勧めました。十字架につく前夜、ゲッセマネで祈られた主は、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。」(マルコ14:36)と祈りました。アバというのは幼児語で、とうちゃんという雰囲気がにじみ出た言葉です。主イエスはそれほどに父と親しい関係をお持ちでした。
 「あなたがたは、……子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ。父。』と呼びかけます。」(ローマ8:15)こうした聖句を見ていくと、私たちが、父さんと呼んでいいのだと分かります。

 2節をものすごく分かりやすく表現してみましょう。父さん、私は父さんが大好きです。みんなが父さんのことを知ってくれたらいいのに。

 あなたが一番言いやすく、親しみを込めて呼べる方法で、神を呼んでください。「父ちゃん」でもいいし、「おとん」でもいいです。神のふところに飛び込むように、父さんと語りかけて下さい。そういう真実な祈りができると、祈りは変化します。

 36歳の主婦が新聞に投稿している文書を読んで、私は心がほんわかしました。結婚10周年の記念の日に、夫がプレゼントをくれました。「好きなように使っていいよ」と封筒を渡したのです。開けてみると、1万円札が100枚。100万円が入っていました。毎月1万円ぐらいを貯金して来たのです。もし、この夫婦に子供がいて、その意味が分かったらきっとこう言ったでしょう。僕のお父さんは凄いよ。100万円をお母さんに上げたんだ。ねえ、すごいよと友達に言って回ったことでしょう。

 あなたの、神を父さんと親しみを込めて呼びましょう。そして、どんなことでも祈りましょう。