詩篇


1、詩篇の特徴

詩篇は人の言葉です。ダビデから捕囚帰還後までの人々の祈りです。それが150篇にまとめられ、聖書の一部になりました。人のうめき、嘆き、嘆願、涙、叫び、疑問、そして信仰告白と賛美が神の言葉になりました。詩篇が聖書の中に含まれている。それ自体が神が私たちの祈りを聞いておられる証拠です。

「ダビデの賛歌」と表題に書かれたが詩篇が73篇あり、全体の約半分を占めています。ダビデの詩はダビデの個人的な経験から作られました。詩篇は、3000年~2500年前に書かれたデボーションノートなのです。詩篇は個人的でありながら普遍的なのです。

詩篇は、最初、言葉として口から出た祈りであり賛美です。その詩篇が他の人に知られると暗唱され、歌われ、礼拝で用いられました。メロディーが指定されている詩篇もあります。宗教改革者カルビンにとって賛美とは、詩篇を歌うことしか考えられませんでした。詩篇は声に出して読みましょう、歌いましょう。

復活された主イエスは詩篇についてこう言われました。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」(ルカ24:44)
律法・預言者・詩篇とは旧約聖書すべてを表す言葉で、聖書の中心テーマが主イエスだという事が分かります。詩篇は救い主イエスを指し示しています。


2、助詞に注目

詩篇の内容は、賛美、感謝、願い、悔い改め、とりなし、信仰告白などがあります。その詩篇がどんな内容の詩篇かは、「主」にどんな助詞が付くかで想像できます。

「主よ」……嘆き、苦悩、願い、訴え。
「主は」……信仰告白。主はどんな方か。主は何をして下さったか。
「主に」……神に対する信仰表明。
「主を」……賛美、礼拝。


1)主よ

 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
(詩篇3:1~2)

 苦難や悲しみに直面した時、「主よ」あるいは「神さま」と祈ります。「助けて」と言える相手がいることが幸せです。主に助けを求めたダビデは、その後、ぐっすりと眠れたようです。(5~6節)いざという時に頼りになる心の911、それが主です。


2)主は

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
(詩篇23:1~3)

 詩篇23篇は詩篇で最も有名ですが、「主よ」というフレーズはありません。「主は」となっています。ダビデにとって主は羊飼いでした。それは信仰告白です。あなたの祈りに、「主は」とか、「あなたは」という言い方がありますか。主がどんな方か、祈りの中で表明しましょう。主は、私は私の罪を赦し、病をいやし、試練から救い出す方でもあります。(詩篇103:1~5)


3)主に

 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55:22)

 「主に」と方向性がはっきりと示される時は、それは信仰の言葉になります。信頼すべき方は主。不確かな道、見えない将来、そんな時に私たちは主に身をゆだねます。

4)主を

 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。(詩篇148:1~5)

 詩篇は第1巻から第5巻に区分されていますが、第5巻の107~150篇は交響曲のクライマックスのようで、圧倒的な賛美となります。「主を」ほめたたえる者でいましょう。あなたの祈りには、「主を」という要素がありますか。

 詩篇は、あなたの祈りを豊かにし、あなたの信仰を強め、賛美と礼拝へと導きます。ぜひ、声に出して読んで下さい。お気に入りの一節が見つかったら、暗記して、祈りの中で用いて下さい。


 →あなたの番です □主よ、助けて下さい □主は、私の羊飼いです □主に、信頼します □主を、賛美します



ヨブ記


 正しい者がなぜ苦しむのか。これはヨブ記の中心テーマです。
  
1、ヨブを襲った災難

 ヨブ記の著者は不明です。預言者エゼキエルがヨブを知っていたので(エゼキエル14:14~15)、ヨブは少なくとも紀元前570年より古い人でしょう。律法の記述がなく、いけにえの方法が自由である点、ヨブの年齢(ヨブ記42:16)を考慮すると、アブラハムと同じ頃の人という推察も可能です。

ヨブは、正しく歩む敬虔な信仰者で(ヨブ記1:1)、財産に恵まれ、10人の子供がいて(1:2~3)、幸せに暮らしていました。ある日災難が襲い、子供全員が死亡、財産も全部失いました。(1:13~19)それでも、ヨブは主を礼拝しました。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)

すぐに、ヨブはひどい皮膚病にかかり、誰だか分からないほど醜く腫れ上がりました。(2:7)そこに親友の3人がやって来て慰めようとしましたが、ヨブの悲惨な状態を目にして言葉を失い何日も座り込みました。(2:11~13)やがてヨブは口を開き、「私の生まれた日は滅びうせよ」(3:1)、生まれなければ良かったと強い勢いで語りました。

あなたもヨブと同じような経験をしたかもしれません。普通に生きて来た私が、なぜこんな目に遭わないといけないのか。どうして私なのかと。

私の父は、自宅の階段から落ちて首を骨折、手術を受けました。県内に国立リハビリテーションセンターがあったので、そこで数か月入所して、リハビリと自立訓練を受けました。父は、後で私にこう語ってくれました。「あそこに行けて良かった。俺だけがひどい怪我をしたと人生を嘆いたいたけど、俺より何倍もひどい怪我や障害を負った人や中途失明した人と話せて励まされたよ」


2、友人の言葉

 人生を呪うヨブの強烈な言葉を聞いて、親友のエリファズはヨブの痛みを背負い切れなくなりました。それで、エリファズはヨブの災難の原因追及を始めました。まるで、悪質な新興宗教のように、今回の災難の原因はあなたにあると断じました。これは因果応報の論理です。

 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。(4:7)

ヨブに罪があったから災難が来たのだ、だから罪を悔い改めよとエリファズは迫りました。ヨブの3人の友人、エリファズ、ビルダデ、ツォファルは同じ内容を代わる代わる言いました。罪を悔い改めよと責めました。これが4章から31章まで続いています。

 ヨブは悪いことをしていません。むしろ神を恐れ正しく歩む良い人でした。ヨブは友達の言葉を聞いて落ち込みました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」(6:14)とヨブは訴えました。「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(9:33)と述べ、神と人の間に立つ救い主を待ち焦がれました。議論が行き詰る中で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(19:25)と語り、ヨブは救い主の到来を確信しました。ヨブが待ち望んだのは、救い主イエスだったのです。

 ヨブのような災難や試練の中にいる人がいたなら、ヨブの友人にならないように気をつけましょう。原因追及よりも真の友情が必要です、ヨブの悲しみに寄り添う事が大切です。
 この辺で、ヨブの友人達の理屈とヨブの考え方を比較してみましょう。

 ・罪を犯したから災いが来る。(ヨブの友人達の理屈)
 ・正しく生きているから災いに遭うはずはない(ヨブの考え方)

 注意して比べて下さい。ヨブの友人もヨブも、実は同じ考え方なのです。表か裏かの違いで本質は同じです。
 私たちはこの因果応報、努力―結果、という枠組みから離れられないのです。ヨブは、因果応報の論理を神に突きつけ、神を糾弾していました。

正しく生きれば災いが来ないはずだ、という問いに対して、ヨブ記は何も答えていません。神は、因果応報論理の外におられると聖書は語っているようです。
 ヨブの災難とヨブの言葉を神が無視しておられたのではありません。むしろ苦しむ人の言葉を最初から最後まで耳を傾けておられたのです。ヨブの友達が最初の7日間にしてくれたことを、ずっと続けているということです。私たちも、災難や別離や喪失で苦しみ、友人の無理解や態度によってさらに傷つけらます。けれども、神は一番近くにいて、私たちに寄り添っていてくれるのです。


3、神との出会い

 ヨブは友人の追及に逆上し、27~31章において、自分の正しさは完璧であるかのように語りました。ヨブにとって、神とは「私のたましいを苦しめた全能者」(27:2)となりました。「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(27:5)とヨブは意地を張りました。私の皮膚は黒ずみ、みんなに笑われ無視されている(30章)と感じました。

 黙って聞いていた若いエリフが急に割り込んだのが32~37章です。エリフの主張は基本的には他の友人と同じですが、神が苦しみの中で教師のように導かれる(36:22)と語り、「神の奇しいみわざを、じっと考えよ。あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。」(37:14~15)と語り、神が語る道備えをしました。

 ついに神はヨブに直接語られました。

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
(38:1~4)

正しい者がなぜ苦しむのか、という問いに主は回答されませんでした。その代わり、ヨブが何も分かっていないと指摘されました。神についての知識がないまま、因果応報の理論を振りかざし、自分の正当性を主張し、結果としては、神の摂理を暗くしていると言われました。
「摂理」とは、NIVでmy plansと訳され、神の深いお考え、愛に根ざした配慮、私たちのためになる計画なのだと分かります。

38章から42章で神は自然を見よ、動物を注意深く見よ、とヨブに言われました。海や雲や朝日やオリオン座や雨の事を考えて、誰が造ったのかを心を低くして考えなさいと言われました。(38~39章)

 ヨブは、自分の正しさを主張したいがために、神を悪者にしたことに気づきました。

 ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。(40:3~8)

 ヨブの友人は間違っていると主は明言されました。「わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかった」(42:7)ヨブが友人のために祈ると、主はかつての二倍の祝福を与えて下さいました。(42:10~12)

 聖書は、求めよさらば与えられんと人生の上り坂を応援してくれます。逆に、体力が衰え、責任ある立場から降り、人の世話になり、大切なものを失う、いわば、下り坂の経験の時に、ヨブ記は私たちを慰めてくれます。


→あなたの番です
□正しく生きても、失う時がある
□因果応報の論理を振りかざさない
□私たちは、神についてほとんど何も知らない
□主は、与える方であり、取られる方である
□神は、人の悲しみや苦しみに寄り添っておられる
□主には最善の計画(摂理)がある

見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。(26:14)


エステル記


 ひとりの若い女性が、ユダヤ民族を救いました。

 舞台はペルシャ帝国の首都。アハシュエロス王(クセルクセス王、BC486~465年在位)の新しい王妃に選ばれたエステルが、ユダヤ民族を虐殺から救い出しました。

 エステル記には、見えざる神の御手、そして、祈りに裏打ちされた勇気ある行動が描かれています。

1、見えざる神

王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。(エステル記2:17)

 エステルは両親を亡くし、親戚のモルデカイに引き取られて育てられた女性で、姿も顔立ちも美しい人でした。(2:7)ペルシャ王アハシュエロスの新しい王妃を探すため、帝国全土から美しい女性が集められた時、エステルもその一人として招かれ、やがて正式な王妃としてされました。

エステルが王妃に選ばれた事は、単なる偶然だとは思えません。見えざる神の御手が働いていた。そう考えるのが自然です。エステル記には「神」や「主」の名が一度も登場しませんが、逆に、見えざる神が働いておられることが鮮やかに分かります。

王の補佐官にハマンという有力者がいて、彼はユダヤ民族を根絶やしにする計画を立て(3:6)王の許可を得ました。次にハマンは、ユダヤ人モルデカイを毛嫌いしていたので、モルデカイ殺害の許可を得ようとたくらみました。
不思議なことに、ハマンが来る前夜、アハシュエロス王はどうしても眠れず、過去の記録を調べモルデカイに褒美を与えていなかったことを発見しました。早朝に王のもとにやって来たハマンは、モルデカイに王服を着せ、王の馬に乗せて町を歩き、モルデカイに栄誉を与える役を王から命じられました。アハシュエロス王が眠れなかった事も偶然ではなく、見えざる主の御手があったのです。

見えざる主の御手は、今もあります。あなたは、それを信じますか。

 

2、この時のため

 「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル記4:14)

 モルデカイは、ユダヤ民族抹殺計画の全貌をエステルに伝えました。危機的な状況を今ひとつ飲み込めないエステルに、モルデカイは厳しい言葉を言いました。今、あなたが沈黙すれば、みんな滅びる。ユダヤ民族を救うよう王に懇願するために、あなたは王妃に導かれたのだと語りました。育ての父が養女エステルに、本気で語った激しい言葉です。

「もしかすると、この時のためであるかもしれない。」この言葉は、あなたに当てはまります。あなたがその職場にいること。あなたが母であること。あなたがアメリカにいること。あなたが、今、生きていること。「この時のため」なのだと気づいたら、勇気を出して行動しましょう。

 「私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(4:16)

 エステルは断食して祈りに集中しました。また、ユダヤ人の仲間にも頼んで、同じように祈ってもらいました。自分が祈る事と、誰かに祈ってもらう事、それは、何か大きな試練に立ち向かう時にどうしても必要なことです。あなたも祈り、祈ってもらいましょう。 
 本気で祈ると二つの事が生まれてきます。一つは、知恵です。思いもつかなかったアイデアが出てきます。二つ目は、勇気です。火事場の馬鹿力以上のすごい力です。

 あなたは、今、直面している問題の解決のために、そこにいます。



3、主は救い主

王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、王は手に持っていた金の笏をエステルに差し伸ばした。そこで、エステルは近寄って、その笏の先にさわった。王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」エステルは答えた。「もしも、王さまがよろしければ、きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」(5:2~4)

 エステルは王とハマンを宴会に招き、願いを打ち明けずに翌日の宴会に持ち越しました。これは、祈りの結果与えられたアイデアです。王をじらしました。王は、何としてもエステルの願いをかなえたいとさらに強く願ったのです。
 次の日エステルは、自分が殺される運命にあると王に告げました。これは、極めて劇的な言い方になりました。ハマンがエステルとその民族を殺そうとしていることが暴露されたのです。(7:1~8)王は憤ってハマンを殺しました。(7:9~10)ユダヤ人殺害の日に自衛手段を行使できる法令も王に許可され、虐殺を免れました。(8~9章)

主は、救い主です。見えざる神は、見える形で安全と命を与えて下さいました。

ハマンがプル(くじ)を投げてユダヤ人皆殺しの日を決めましたが(3:7)、それを記念してユダヤ人は今も2~3月ごろに「プリムの祭り」(=プルの複数形)を祝っています。

「ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉の日であった。」(8:16)

 1900年、中国で「義和団の乱」が起きましたが、この外国人排斥運動の高まりで多くの外国人が殺されました。サイデンストリッカー宣教師家族も中国人暴徒に狙われていることがお手伝いさんの情報で分かりました。夫の宣教師は伝道旅行中だったので、奥さんのキャロラインは祈り、一人で立ち向かうことにしました。深夜、手に武器を持った男たちがやって来ました。リビングに明かりが灯し、お茶とお菓子をふるまい、子供たちには晴れ着せて迎えました。拍子抜けした暴漢たちは、お茶を飲み、お菓子を食べて帰ってしまいました。多くの外国人だけでなく、プロテスタント宣教師が130人以上が殺され事件でしたが、サイデンストリッカー宣教師一家は母の機転で助けられました。
 これは、当時9才だったパール・バックの体験で、後に『母の肖像』に詳しく書かれています。キャロラインも、祈って、知恵を得て、立ち向かった人でした。

 あなたも一生に一度か二度、人生の大舞台に立ちます。この国に来たのはこの時のためだと分かったなら、主に祈って、勇気を出して、立ち向かって下さい。見えざる神は、見える形であなたを救ってくださいます。

 →あなたの番です
□見えざる神が、救って下さる
□この時のために、ここにいる