ヨハネ18:1~40  逮捕と訊問


 ヨハネ18章の内容は以下のようにまとめられます。
  1~11節:ゲッセマネの園で主イエスが逮捕される
  12~27節:大祭司の尋問とペテロの否認
  28~37節:主イエスとローマ総督ピラトの対話
  38~40節:強盗が恩赦になり、十字架刑が決定

 今日の箇所の最も適切な解説は、バッハの「ヨハネ受難曲」です。ヨハネ18章と19章の言葉すべてにメロディーが付けられたもので、音楽として聴く聖書と言えます。バッハの聖書理解の深さに感銘を受けます。できれば、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏をお聞き下さい。指揮者の鈴木 雅明さんはクリスチャンであり、バッハの素晴らしい理解者です。

 主イエスは、あなたをかばう方です。今日の箇所を注意深く読むと、それが分かるでしょう。


<ヨハネ福音書の特異な視点>

 18章は、主イエスが逮捕され、徹夜の尋問が行われ、ピラトのもとで死刑が決まるまでの出来事が書かれてあります。
 今日の箇所を一読すると、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とほぼ同じ記述という印象を持つでしょう。ですが、何度も読むと、ヨハネの独特な視点に気付きます。

 共観福音書にあるが、ヨハネの福音書にないものをピックアップしてみます。

 ゲッセマネの主イエスの祈り、ユダが口づけで主イエスを裏切る、弟子たちが逃げ去る、大祭司の尋問における偽の証人、激昂する祭司長たち、主イエスへの愚弄や暴力、ピラトの前での主イエスの沈黙。

 共観福音書の印象は、苦難の杯に苦悩する主イエス、卑劣なユダ、臆病で無責任な弟子たち、けしからん祭司長たち、殴られた主イエス、無言の主イエスです。十字架の苦しみに翻弄される主イエス、苦難や侮辱に耐える主イエスという側面が浮かび上がります。

 ヨハネの視点は違います。主イエスが主体的に苦しみを選び取り、堂々と十字架への道を歩いているという理解で書いています。

 もちろん二つの事実があったのではなく、事実は一つです。ヨハネが歳を取り、十字架の出来事を何度も振り返り、熟慮する中で、共観福音書に触れられていない大切な側面があるとヨハネが思い至ったのでしょう。

 ヨハネにあって、共観福音書にはない記述を見ていきましょう。

1)後ずさりして倒れる兵士たち

 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。(4~6節)

 主イエスは、ご自分から誰を捜すのかと問われました。また、「それはわたしです」と積極的にご自分を提示されました。私を捕えよと挑戦するかのようです。その迫力に兵士たちは後ずさりして倒れてしまったほどです。主イエスは、十字架を恐れていません。


2)弟子をかばう主イエス

 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」(8節)

 そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。(19節)
 
 主イエスは、ゲッセマネの園で、私を捕えよ、弟子はそのままで去らせよと言われました。弟子たちをかばっておられます。
 大祭司の尋問時にも、弟子の情報を聞き出そうとされると、完全に無視し、弟子について何もお語りになりません。

 無責任で口ばかりの不甲斐ない弟子たちにはスポットライトは当たらず、弟子たちをかばう主イエスの姿が浮かび上がっています。

 主は、そのように、今も私たちをかばって下さる方なのです。


3)ペテロの拒絶の言葉

 共観福音書では、ペテロが主を3度否んだことを以下のように記録しています。
  「何を言っているのか、私には分からない」(マタイ26:70)
  「そんな人は知らない」(マタイ26:72)
  「そんな人は知らない」(マタイ26:74)

 ヨハネの記述は以下のようです。
  「そんな者ではない」(ヨハネ18:17)
  「そんな者ではない」(ヨハネ18:25)

 ペテロが実際に主イエスを否んだ時には、両方の言葉を口から出したのでしょう。ヨハネの強調点は、私ではない、という言い方にあります。英語の聖書を見ると良く分かります。I am notとなります。

 主イエスが、逮捕される場面で言われた言葉と比べると、違いがはっきり分かります。誰を捜すのか、ナザレのイエスだ、それはわたしだという部分のことです。

 「それはわたしです。」(5節)
 「それはわたしです。」(6節)
 「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。」(8節)

 ペテロは3度、私はそんな者ではない、と言いました。
 主イエスが3度、わたしだ、と言われました。(英語ではI amです)

 
 私たち、みなが、ペテロです。
 私たちも、自分が犯した罪を指摘されると、とっさに否定します。
 わたしではありません。主イエスは違います。


 以下の話は事実ではなく、私が創作した寓話です。
 大企業の社長で、地位も財産もある中年の男性がいたとします。ある日、警察がやってきて下着泥棒の容疑で逮捕すると言います。社長は、とっさの事なので、「私はしていない、何かの間違いだ」と返事をします。警察は、「ここに礼状があり、確かな証拠がある、あなたの机とロッカーを捜査します。コンピューターと書類一切を証拠として持ち帰ります。署までご同行下さい、それとも手錠をかけますか」と迫ってきました。その容疑は事実だったので、社長は真っ青になっていました。
 そこに誰かが突然現れます。「その逮捕状は私に対するものです。私がやりました。私を捕え、私を牢に入れ、私を罰して下さい」

 そう言ってくれるのが主イエスです。主イエスが、それはわたしです、捕えるべき相手は私だ、とゲッセマネの園で繰り返し言われた言葉は、実は私のための言葉なのです。



 主イエスは、「真理をあかしするために生まれ」(ヨハネ18:37)と言われました。主イエスは、真理を明らかにするために十字架で死なれました。
 主イエスのあかしされた真理は、神がどんなに愛の深い方か、神による罪の赦しがどんなに完全なものか、主イエスを信じる者に与えられる命がどんなに生き生きしているか、そうした真理が明らかにされているのです。真理は、人を赦し、人を生かすのです。


 →あなたの番です
 □主イエスが私をかばってくれたこと、それを心に刻みましょう
 □今週、誰かをかばいましょう
 □主イエスに従い、堂々と生きていきましょう

 

ヨハネ17:1~26 主イエスの祈り

 主イエスは信じるに値する方です。主イエスを信じて、まことの命を得てほしい。ヨハネが福音書を書いた中心目的がそれでした。(ヨハネ20:31)

 1~12章は、主イエスの奇跡が語られています。13~17章は、主イエスの人柄が語られています。ですから、主イエスの奇跡を土台に主イエスを信じることもできるし、主イエスの人格に触れて主イエスを信じてついて行くことができるのです。

 今日の箇所、17章を読みましょう。主イエスは、奇跡を行うだけでなく、教えるだけでなく、愛してくれるだけでなく、あなたのために祈ってくれる方だと分かります。

1、栄光をあらわして下さい(1~8節)

 主の祈りの最初の部分は、神の栄光があらわされることです。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。(1節)

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(5節)

 栄光とは何でしょう。圧倒的な光によって、神の力、神の聖さ、神の威厳などが表されることです。

主イエスは、この数時間後、逮捕され、拷問を受け、鞭で打たれ、無残にも十字架で死んでいきました。表面的には栄光のかけらもありません。けれども、この姿にこそ、神の栄光があらわれたと私は理解しています。4節から分かるように、神の栄光とは、父なる神のみこころ行う所にあらわれるからです。

あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。(4節)

 初期の科学者たちは、神がおられるので宇宙、自然に秩序があると理解し、神の栄光のために化学を行いました。天文学者ケプラーの言葉をご紹介します。彼もまた、神の栄光を求めた一人です。
 「私たち天文学者は、自然の書についての祭司なのです。自分たちの考えに栄光を求めるのではなく、神の栄光を求めるのです。」

私たちも、私たちの人生を通して神の栄光をあらわして下さいと祈りましょう。


2、弟子のための祈り(9~19節)

 「私は彼らのためにお願いします」(9節)と、主イエスは祈りました。これは、弟子たちのための祈りです。主イエスは、今も、祈っておられます。あなたのために祈っておられます。ただし、過保護ママのようには祈りません。

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。(15節)

 弟子たちは、主イエスに遣わされた存在です。ちょうど、父なる神が主イエスを世に使わされたのと同じです。この世と聖め分かたれ(17、19節)、神の栄光をあらわすように(10節)と期待されています。

 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(18節)

 スザンナ・ウエスレー(1669年生まれ)は、たくさんの子供をイギリスで育てました。子供たちが5歳を過ぎるとスザンナは、毎晩時間を取って、一人の子供に、台所で主イエスのことを教えました。イギリスを流血革命から守ったといわれるジョン・ウエスレーは彼女の15番目の子供で、やはり母から聖書を学びました。
 主イエスが弟子たちのために祈られたように、スザンナも子供のために教え、祈りました。スザンナの語る言葉を聞きたいと200人が集まったことがあるといいます。

 主イエスが私たちのために祈っていてくださると知るだけで、何かこう勇気が出てきませんか。私たちの応援団長が主イエスなのです。片時も私たちのことを忘れないでいてくれます。


3、弟子に導かれる人達への祈り(20~26節)

 弟子たちに導かれた新たなクリスチャンを想定して、主イエスは祈られました。主イエスがいなくなった後、十二弟子が働きを引き継ぐと、主イエスは確信していたのです。弟子の次の世代も多くなると主イエスは見通しておられました。壮大なビジョンです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。(20節)

 私たちも、信仰が自分だけで終わってしまわないように、誰かに救いを伝えましょう。あなたが救いに導いた人で終わってもいけません。その人たちが次の人にバトンタッチできるようにも祈りましょう。

 血のつながる家族という面で言えば、子供がクリスチャンになるように祈り導き、孫もクリスチャンになるよう祈り励まし、ひ孫もクリスチャンになるように祈るという具合です。
 誰かを救いにに導くという側面でいえば、私→私が決心に導いた人→その人が導いた人、という順番になります。その3代目の人のためにも、その次の世代のためにも祈りましょう。パウロも同じようなことを言っています。

 「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(第二テモテ2:2)

 最終的には、どんなに多くのクリスチャンが生まれても、ユニティーを失っては台無しです。。三位一体の神の交わりに信じた者が入れてもらい、その交わりが一つであり続けることが神の栄光につながります。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(21節)

 まとめましょう。
 主イエスは、常に神の栄光を求めながら、父なる神と親しく語り合う方です。父なる神と御子主イエスとの親しい交わりにわたし達を招き入れてくれる方です。
その交わりにしっかりコネクトできるように、主イエスは私たちのために祈り、私たちの次の世代のためにも祈られました。
 主イエスのような素晴らしい紹介者はいません。主イエスに仲介していただいたのですから、もっと神を親しく神を知る者、神の栄光をあらわす者になりたいですね。
 そして、私たちも、3つの祈り(=神の栄光をあらわせるよう、次の世代のための祈り、その次の世代のための祈り)をしていきましょう。

 モニカは、331年に北アフリカに生まれた女性でした。結婚相手は暴力を奮う男。息子は放蕩して手がつけられません。それで、いつしか、祈りの人になりました。
息子が主イエスのもとに導かれるようにと祈っていたとき、司教から「涙の子は滅びない」と励まされました。この息子が、後に歴史に名高い神学者になりました。モニカはアウグスティヌスの母なのです。
一人の涙の祈りが、息子という次の世代を導き、その息子により次の世代にまで影響を残す祈りとなっていきました。主も、私たちの涙の祈りを知っていて下さいます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ38:5)


→あなたの番です
 □今週、祈る人になりましょう。
 □自分のために祈り、弟子や子供のために祈り、孫や将来救われる人のために祈りましょう
 □神の栄光のために祈りましょう。




ヨハネ16:1~33  「その」という言葉



 「その」という言葉はどんな時に使いますか。通常、話し手にとって既知の事柄を第三者に伝える時に使います。ヨハネ16章には「その」という言葉が何度も出てきます。今日は、3つの「その」について考えましょう。

1、その方(8節)

 弟子たちは、最期の晩餐の席の主イエスの言動を見て、かなり動揺していました。(6節)主イエスは、助け主が来られるので将来の事は大丈夫と言われたのです。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(7節)

聖霊(パラクレートス=ギリシア語)は、私たちを助けて下さるばかりでなく、私たちの物の見方を革命的に変えて、真理とは何かを教えて下さる方です。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(8節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(13節)

 聖霊があなたに来て下さるまで、実は、真理はまったく見えていなかったのです。神は本当におられるのです。この世界は神が造られたのです。主イエスは、救い主なのです。あなたは、神とコミュニケーションができるのです。聖霊がその事を教えてくれるのです。

 あなたは、「その方」、聖霊を知っていますか。


2、その喜び(22節)

 「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。」(19節)という言葉の意味が分からず、弟子たちは困惑しました。主イエスは、将来弟子たちが、「その喜び」を体験するようになると予告されました。

 山登りが好きなお父さんが、子供を連れて初めて山に登る場面を想像して下さい。険しい上り坂で子供たちは弱音をはくでしょう。けれども、山頂にたどり着き360度の絶景を見たなら、子供たちは言うでしょう、「すごいね。来て良かった」。すると、父親は言うはずです。「そうだろう」父親はその喜びを知っていたのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(20節)

「その喜び」と主イエスは語られました。その喜びが何か、主イエスは知っておられるのです。

日本で、小さな食堂のトイレに入ると、たいてい相田みつをの色紙が飾ってあります。「つまずいたっていいじゃないか、人間だもの」おおらかな人間肯定が人気の秘密です、私も彼の言葉も筆跡も好きです。
がっかりすることを先に書いて、後ろに「人間だもの」と書き入れれば、相田みつを風な色紙が書けます。「失恋したっていいじゃないか。~」「入院したって~」

主イエスが色紙を書くならどんな言葉をどんな書体で書くでしょうね。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20節)という言葉なら、人間だものとあきらめちゃいけない、わたしがあなたを造ったんだから、なんて感じになりますか?

あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(22節)

 主イエスは、あなたに「その喜び」を与える方です。たとえ今が辛くても。


3、その日(23節)

 お父さんは、息子が中学生になると、まもなく声変わりがして、しばらく高い音が歌えない時期が来ると知っています。「とうさん喉が変だよ、病気かな」と息子に言われたら、その日が来たな、変声期だよと教えるでしょう。その日が来るのです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(23節)

 弟子たちから、疑問が消え去る日が来るのです。聖霊に助けられ、真理が知らされ、苦しみを振り払う喜びが与えられ、祈りが答えられる経験をする日が来るのです。

 ペンテコステの日には、聖霊が激しく弟子たちに臨み、その後、ペテロやヨハネたちは主イエスがしたような奇跡を行い、主イエスが教えられたようなことを語り、主イエスが示したような愛を届けました。ペンテコステこそ、「その日」です。そして、「その日」は、今もあなたに起こります。

 ヘレンケラーの人生をまとめた『奇跡の人』の現代は、The miracle workerです。奇跡とはヘレンのことではなく、家庭教師のサリバン先生のことです。
ご存じのように、ヘレン・ケラーは、見えない、聞こえない、しゃべれない、という三重苦の暗黒に7歳の時までいました。サリバン先生は、その日が来ること、その喜びが来ることを知っていたのです。
サリバン先生は、9歳で母を失い、弟と一緒に施設に預けらました。寂しく、苦しい環境で、弟は死んでいきました。自分も目の病気を悪化させ失明し、心を閉ざします。そんな中で、聖書に触れ、14歳の時に手術をし、目が見えるようになり、誰かの助けになりたいと志を持ちマス。サリバン先生21歳の時にヘレンに会うのです。
指文字で「水」を教え、ヘレンはそれが何かを悟った日が来ました。ヘレンが後に語ったところによると、言葉というものがあるのを知った晩、ベッドの中で、嬉しくて、嬉しくて、早く明日にならないかと胸をわくわくさせたといいます。その喜びは誰にも理解できないほど大きなものだったようです。サリバン先生は、その日が来ること、その喜びが来ることを体験的に知っていたのです。
 次のヘレン・ケラーの言葉は私たちを励ましてくれます。「私は何もかもできるわけではない。でも、何かはできる。」

 最後に、主イエスは勇敢であれと言われました。それは、その方、その喜び、その日を知っていたから言えた言葉なのです。

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33節)

 →あなたの番です
  □その方、その喜び、その日。あなたに、どれが必要ですか。
  □神はあなたを勇敢な人として造られました。そう、生きていきましょう。