マタイ11:25~30  疲れた人よ



1、神の知恵

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(マタイ11:25~27)

 主イエスは、十二弟子を二人ずつ派遣した時に注意事項を与えました。また、獄中のバプテスマのヨハネを励まし、人々の前で彼を賞賛しました。奇跡を見ても心を動かさない町々に警告も与えました。
 その後、今までの伝道の働きを振り返り、父なる神の方法に感嘆の声を上げました。

「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」

人が知っておくべき真理は多くありません。神がおられる。神が私たちを造り、愛して下さっている。人間には罪がある。イエスは私たちを罪と滅びから救うお方である。それらの真理は、理解が難しいのではなく、謙虚になって主イエスのもとに行かないと見えない真理なのです。傲慢なままでは見えません。むしろ、見えないように幕がかけられてしまうのです。

 本当の真理は数学の公式のように血の通わない無機質なものではありません。神という生きた人格とつながることによって伝わる命のようなものです。
 謙虚になって主イエスの所に行きましょう。真理がいつのまにか、心の中で生きるようになります。


2、疲れた者へ

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイ11:28~30)

 「今日はしんどかったけど、やり遂げた。良く働いたな」という大工さんは夕食をおいしく食べられます。心地よい疲れは満足をもたらします
 サッカーの日本代表選手に選ばれた若者がいたら、その重荷でつぶされることはありません。えらばれた事を光栄に感じ、一層努力するでしょう。自分が夢見た責務は喜びです。

 けれども、奴隷労働のように働かされている人、非人間的なプレッシャーをかけられている人は、疲れと重荷でつぶれてしまいます。体も心も破壊されてしまいます。

 疲れと重荷でつぶされそうな時は、どうしたら良いのでしょうか?

①原因を見つける=問題要素を分解して、解きほぐす
②慰めをもらう=誰かに事情を話し共感してもらう

③具体的な救出=誰かに助けてもらう、休養を取る、転居・転職する

④立ち向かう=刷新された心を持ち、具体的対策を講じ、問題を乗り越える
 
 主イエスはこう言われました。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 まず、主イエスの所に行きましょう。主イエスの所に行き、どんな疲れなのか、どんな重荷なのかを祈りによって伝えましょう。話す中で原因に気がつきます。問題の要素を分けて考えられます。主イエスは、あなたの悩みと辛さを分かって下さいます。「わたしがあなたを休ませてあげます」と主イエスは約束しておられます。
 
 一人で問題につぶされないようにして下さい。主イエスのくびきを負うならば、主イエスから学ぶことができ、心が強められ、愛の行動が身に付き、試練に立ち向かう勇気が与えられます。

 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(28節)

 くびきとは木の道具で、メガネのフレームを大きくしたようなものです。二匹の牛が頭を入れるようにできています。農作業をしたり、荷車を引く時に、二頭の牛が同じスピードで前に進めるようにするものです。
 くびきの片側に主イエスが頭を入れるので、もう一つに頭を入れてごらんと主イエスは言っいます。同じくびきに入っているなら、疲れ切って倒れそうな場面でも、主イエスが力を出してくれるのであなたは休めます。重荷で打ち負かされそうな時も、主イエスがリードしてくれます。主イエスと二人なので問題から逃げることなく前に進めます。これが、主イエスを信じる者の人生です。主イエスと共に歩むので、主イエスからたくさんの事を学べます。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」主イエスと一緒なのでたましいに安らぎがあります。「そうすればたましいに安らぎが来ます」

「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」
(イザヤ28:12)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)

主イエスのもとに行きましょう。真理に生かされます。主イエスのくびきに頭を入れましょう。疲れと重荷は去り、主イエスから学び、前進することができます。

 主イエスと二人三脚の日々を送る人は、その人自身も小さなくびきを作り、倒れそうな人をそこに招くようになります。主イエスにしてもらったように、誰かを励まし支えることができます。

 →あなたの番です
  □主イエスの所に行こう。真理が見える。  
  □主イエスのくびきに頭を入れよう。いやされ、前進できる。
  □あなたも誰かを支え励まし助ける人になろう


ルカ2:8~20 羊飼いのクリスマス

 救い主の誕生を最初に知らされたのは羊飼いでした。
 なぜ羊飼いだったのでしょう。


1、あなたがたのため

さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:8~11)

社会をピラミッドで表すなら、羊飼いたちは三角形の底辺にいた人々でした。羊飼いは3つのマイナスを背負っていました。貧しい。きつい。見下げられている。
羊飼いから連想されるのは、のどかな仕事というイメージですが実態は逆です。羊飼いをしていたヤコブは、「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」(創世記31:40)と述べるほと過酷な労働でした。律法に無知で戒律を守れない人々を律法学者は「アム・ハ・アレツ」(地の民)と呼び軽蔑しました。その仕事の特殊性ゆえに宗教的戒律を守れなかった羊飼いも軽く見られていました。

御使いの言葉に注目して下さい。「あなたがた」という言葉が繰り返されています。

「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」
「あなたがたは……見つけます」
「あなたがたのためのしるしです」

羊飼いの毎日は、働いても働いても苦しく、貧しさから脱出できず、見下げられて惨めな思いをしていました。でも、救い主の誕生は最初に羊飼いに知らされました。

私もあなたも、羊飼いに似ているかもしれません。貧しい。苦しい。見下げられている。社会の底辺で希望を失っている人のために、救い主は生まれてきたのです。



2、あなたがたのしるし

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:12~14)

ベツレヘムの町には赤ちゃんが何人もいたでしょう。どの赤ちゃんが救い主なのか、天使は見分けるための目印を教えてくれました。飼葉おけに寝ている子だというのです。

どんなに貧しい家の赤ちゃんでも家畜の餌箱に寝かせることはありません。だからこそ、目印になったのです。羊飼いは、この印を聞いて驚いたでしょう。俺たちよりも貧しく生まれた赤ちゃんだ。まさに俺たちのための救い主だ。

 天使の軍勢が突然夜空に現れて神を賛美し、栄光と平和を歌ってくれました。聖書の中でも、これほど大勢の天使が歌ったという記録はありません。
 私はミュージカル映画が好きですが、この場面は人類史上初のリアルミュージカルとなりました。軍勢とは天使によって構成された軍隊を意味します。兵士が望むことは、平和です。救い主イエスさまが生まれたことで、神の栄光がより一層あらわされたのです。主イエスの誕生をきっかけに地上に真の平和が始まったのです。



3、あなたがたが……見つける

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:15~20)

 「さあ、ベツレヘムに行って……見て来よう」羊飼いたちは行動しました。

 羊飼いたちはベツレヘムに行き、赤ちゃんを捜し歩きました。そしてついに見つけたのです。羊飼いは、ヨセフとマリヤに野原で起きた事柄を残らず話しました。マリヤもヨセフも、そこにいた人たちも、その話に驚き、マリヤは心に留めて思いを深めていました。

 羊飼いは、この赤ちゃんが救い主になってくれるのだとじっと見つめ、感激したことでしょう。帰り道、羊飼いたちは、天使の言った通りだったので神をあがめて、自分たちが歌い出しました。こんなふうに歌ったかもしれません。天使が歌ったメロディーを覚えていて、それを繰り返したかもしれませんね。

メリークリスマス。救い主イエスさまがお生まれになりました。
クリスマスに最もふさわしい応答は、救い主に会いに行き、心に受け入れ、神を賛美することです。主イエスが救い主であると、歌いましょう


→あなたの番です
 □主イエスは、底辺にいる人のために生まれて下さった
 □主イエスを見に行く、受け入れる、賛美する



マタイ11:20~24  ああコラジン

 主イエスは、点としての個人の救いだけでなく、面としての町の救いを願っていました。神の国は、一つのコミュニティーが変えられることから進展します。


1、コラジン、ベツサイダ、カペナウム

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:20~22)

コラジンとベツサイダは町の名前です。主イエスは、個人が救われるだけでなく、町やコミュニティーが全体として変わることを願っていました。
コラジンはガリラヤ湖から2マイル北西に入った町です。ベツサイダはガリラヤ湖畔北部の町です。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:22~24)

カペナウムはガリラヤ湖北部の町です。ガリラヤ湖に注ぐ川の東側がベツサイダ、西側がカペナウムです。
主イエスの公の活動は約3年ですが、最初の2年間はおもにガリラヤ湖周辺で行われました。カペナウムにはペテロの家があり(マルコ1:21、29)、主イエスはよくそこに滞在されていました。ですから、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々はどこの町よりも主イエスの教えを聞き、多くの奇跡を経験したのです。(マルコ1:32~34)


2、力あるわざ

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。(マタイ11:20)

マタイは20節で「力あるわざ」と表現しました。原文ではδυνμεις ατο(=彼の力)です。聖書には、「奇跡」「不思議な力」「力あるわざ」という言葉が出てきますが、原文では同じ単語「デュナミス」が使われていて、力という意味です。

奇跡を見せてくれ、そうしたら信じるよ、という人がいます。ところが、この3つの町の人々は、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえ、歩けなかった人が飛び跳ね、隔離された皮膚病患者がきれいにいやされて社会復帰し、死人がよみがえった姿を目撃したのですが、一時的に驚いただけで、罪を悔い改めて主イエスを信じる人は少数でした。奇跡を見ても、信仰を持つかどうかは別問題でした。

 ツロとシドンは海沿いの外国の町で、太古から栄えた貿易港です。また、享楽の町、不道徳の町、異教徒の町でもありました。(悪名高い王妃イゼベルは、シドン王の娘でした)コラジンやベツサイダは、ツロやシドンよりも悪いと主イエスは言いました。
さらに、ユダヤ人の歴史で最も堕落した町として知られるソドムのほうが、カペナウムより裁きの日に罰が軽いと主イエスは言いました。

現代日本風に言えば、新宿歌舞伎町で主イエスの奇跡が行われれば、人々は罪を悔い改め、罪を悲しむ印としての荒布をまい、頭から灰をかぶったことだろう、となります。

ところで、その年の世相を漢字一字で表し大きな紙に筆で描くというパフォーマンスが行われますね。コラジンやベツサイダやカペナウムの人々の姿を漢字一つで表すなら何になるでしょう。「拒」です。
人間の心の底には、今の生き方を変えたくないという強い意思が横たわっています。イエス・キリストを拒絶する姿勢が染み付いています。主イエスは、わたし達が「拒」から「信」に変わることを願っておられます。



3、修理人イエス

ああコラジン。ああベツサイダ。(マタイ11:21)

「ああ」(ウーアイ)という言葉は、哀しみと嘆きを表す感嘆詞です。主イエスは、コラ人やベツサイダの人々を思い、嘆いているのです。悔い改めて、自分自身をゆだねてほしいと主イエスは願っています。

主イエスが繰り返したフレーズを思い出して下さい。それは、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)です。  謙虚に自分の罪を認め、罪を悔い改め、福音を信じましょう。福音を信じるとは、主イエスを信じることです。

 日本にはぬいぐるみを修理する有名な方がいます。穴が開いたり、パーツが取れたり、全体がしぼんだり、汚れたり、伸びきったものも直してくれるとテレビなどで知った人が、ぬいぐるみを持ってきます。
 修理する人は、依頼主の話を良く聞いてから作業を開始します。最初は、内部に詰めてある綿やウレタンなどを出します。黄色く汚れています。それから、丁寧に手洗いして汚れを落とします。その後、専門知識と長年の経験を生かして、みごとに再生します。

 主イエスは人間の修理人です。本来のあなたの姿に戻してくれます。ただし、最初に自分の罪を主イエスに言う必要があります。悔い改めですね。そして、洗ってもらいましょう。洗礼です。

ドストエフスキーの小説『罪と罰』は、人間の罪と悔い改めをテーマにしています。主人公ラスコーリニコフはお金欲しさから殺人を犯し、捜査をかいくぐって生き延びようとします。現実逃避したり、刑事の影を恐れたり、殺人を正当化し、人間が崩れていくこと自体が罪の罰でもあります。彼を愛するソーニャは、こう言います。「十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向かって大声で、わたしは人殺しですと言いなさい」ラスコーリニコフはソーニャの言葉の通りひざまずき、犯行を自白し、刑に服します。小説では、シベリアでの厳しい流刑生活が語られ、小説の最後にこう書かれています。「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり……」

コラジン、ベツサイダ、カペナウムの人のようにならないで下さい。主イエスに心を閉じないで下さい。審判の日は来ます。罪のままでは滅びてしまいます。悔い改めて、主イエスを信じましょう。修理人イエスさまに身をゆだね、直してもらいましょう。


→あなたの番です
 □コラジンやカペナウムのように拒絶しない
 □罪を悔い改める謙虚な心を持つ
 □修理人イエスにお任せする

マタイ11:7~19   主イエスは、ほめる方

 主イエスは、ナタナエルをほめ、百人隊長をほめ、ナルドの香油の女をほめました。今日、主イエスはバプテスマのヨハネをほめています。

1、ほめられたヨハネ

主イエスは聴衆に向かってこう言いました。ガリラヤの人たち、あなたたちは60マイルも南にある荒野まで行きましたね。その目的は、ヨルダン川岸の葦を見るためでも、宮殿に住む貴族たちを見るためでもありません。バプテスマのヨハネを神の人として認めたから行ったのです。彼は、「預言者よりもすぐれた者」なのです。彼は並の預言者ではなく最高の預言者です。

この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。(マタイ11:7~9)

 ヨハネの弟子たちが主イエスの回答を持ち帰った事を見届けてから、主イエスは群集に向かって、公に、バプテスマのヨハネを賞賛しました。まるでヨハネの表彰式ようです。

 牢獄の看守が主イエスのほめ言葉を伝え聞き、「すごいな。あのイエスがお前のことを人前でほめてるぜ。最高の預言者だってよ」とヨハネに教えたかもしれません。
ヨハネの弟子たちも、「聞いてください先生、救い主イエスがあなたのことを人前ではっきりとほめています。あなたより偉大な人物はいないと。先生、良かったですね。私たちも嬉しいです。鼻が高いです。」
ヨハネは苦しい獄中生活をしていましたが、主イエスの賞賛の言葉は何よりの励ましになりました。今までの苦労が報われ、心が開放される喜びを味わったことでしょう。

青函トンネル工事で34人の人が命を落としました。黒部第四ダム工事では、171人が亡くなりました。東海道新幹線の工事では210人が死亡しました。尊い犠牲を忘れてはならないし、遺族の方々のためにもこうした人々への賞賛を後代に残していくべきだと思います。主イエスがなさったように、公に、明瞭に。

主イエスは、ほめて下さる方です。

主イエスはあなたもほめてくれます。あなたの隠れた苦労、誰にも知られていなかったあなたの親切、良い行い、誠実さ、涙、ささげた祈りを主イエスは見て、あなたを心からほめてくれます。私たちの神、救い主イエスはあなたを賞賛してくれる人です。



2、ヨハネの優れた点

この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。(マタイ11:10~15)

主イエスは、客観的にほめ、主観的にほめ、最後に、努力をほめました。

 「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」という言葉は旧約聖書のマラキ書3:1です。主イエスは、ヨハネの業績をほめました。ヨハネは、マラキの預言通りの働きをした。救い主のために、ひたすら道を備えた。これは客観的な評価です。誰が見ても、その通りだと分かりました。

 主イエスは次に、女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ません」と断言されました。
確かに、ヨハネは偉大です。母の胎内にいた時から聖霊に満たされていた。(ルカ1:41)。庶民の罪も国王の罪も恐れずに断罪する勇気を持っていた(マタイ14:4)。荒野で叫ぶ声(ヨハネ1:23)としての分をわきまえ、救い主を指し示す謙虚さを持ち続けた(マタイ3:11)。救い主に直接会うことが許された唯一の預言者であり、主イエスにバプテスマを授けた人(マタイ3:15~16)。

ほめ言葉は、主観的で良いのです。「私から見たら、あなたは世界一ハンサム」「何歳になってもあなたはステキ」と奥さんが本当に思えば、それは立派なほめことばです。
主イエスは、人類史上でヨハネが最高の存在だとほめました。ヨハネはこの言葉を聞いて苦笑いしたかもしれません。主イエスの主観的評価になるかもしれませんが、それで良いのです。牢獄で、ヨハネは大きな勇気を得たはずです。

 「この人こそ、きたるべきエリヤなのです」と主イエスは言われました。竜巻にまかれて地上を去った力ある預言者エリヤは、世の終わりに帰って来ると預言されていました。(マラキ4:5)ヨハネこそがエリヤだと主イエスは明言されました。

 小学生の女の子が、自発的に早起きして勉強をしたという作文を読みました。それによると、お母さんがほめてくれるかな、ほめてくれると嬉しいなと期待しながら勉強の成果を見せたというのです。お母さんはほめるずに、むしろ怒って、明日の分もやりなさいと言いました。女の子は、思わず泣いてしまったという作文です。

 主イエスは、バプテスマのヨハネの信仰の揺らぎを知って、叱り飛ばすこともできましたが、何も責めませんでした。むしろ、ヨハネをほめました。客観的に、主観的に、多くの言葉を用いて公にほめました。
 主イエスは、そういう方なのです。



3、笛ふけど踊らず、だね

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16~19)

 最後に主イエスは、もう一つの方法でヨハネをほめました。
 ほめる時は、客観的に成果が出た時、主観的に素晴らしいと感じた時、そして、努力したのに報いられなかった時に、そのプロセス自体をほめることができます。

 主イエスはヨハネにこう言っているのです。笛吹けど踊らずで、預言者はつらいよというところだな。何度も断食し、荒野で野蜜やイナゴを食べてサバイブしたのに、悪霊呼ばわりされてかわいそうだ。わたしの歩みもあなたとそっくりだ。罪人の救いのために一緒に食事をすれば、大食漢で大酒飲みと揶揄され、取税人と同類だ言われた。君の苦労は良く分かる。良く頑張った。

 成果が出なくても、失敗しても、ほめることができます。

 入学後、初めての登校日に電車通学をした中学生がいました。緊張のあまりカバンを棚に置いたまま降車してしまいました。駅員さんと交渉し、数駅先まで行って回収して学校に行きましたが大幅な遅刻になり校門付近で校長先生とばったり出会ってしまいました。
 その女性生徒は遅刻をわび、何があったのかを説明しました。校長先生は、それは大変でした、自力で取り戻せたのだから立派です、そういうあなたを誇りに思いますよと言ってくれました。

 主イエスは、あなたの苦労をねぎらって下さる方です。ほっと一息つけますね。

 やがて私たちはイエスさまにお会いする日がきますが、主イエスはきっと言ってくれます、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21)と。

人をほめられない人は、神を賛美することが困難になります。賛美の本質は、神をほめることだからです。いつも身近な人をほめている人は、どんな時でも神をたたえることができます。
さあ、今週、周囲の人をほめましょう。あなたは、主イエスにほめてもらっている人なので、きっとできます。夫をほめ、妻をほめ、子供をほめ、上司や同僚をほめましょう。


→あなたの番です
 □主イエスは、あなたをほめてくれます
 □今週、身近な人をほめる  
□客観的に、主観的に、努力をねぎらい、ほめましょう

マタイ11:1~6 ぐらつくヨハネ

 今回は、バプテスマのヨハネの心の葛藤を取り上げます。

1、疑うヨハネ

イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:1~3)

バプテスマのヨハネは炎の預言者でした。らくだの毛皮を着ていなごと野密を食べて荒野でストイックな生活をしながら、罪を悔い改めよと人々に叫び、救い主のために道を備える働きをしました。(マタイ3:1~6)
庶民でも権力者でも分け隔てなくはっきりと罪を指摘し、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けました。国主ヘロデの結婚が不法だと糾弾したため、捕らえられ、今は牢獄に閉じ込めたれていました。(マタイ14:3~4)

本来のヨハネなら、主イエスの数々の奇跡を聞いて、「ハレルヤ!あなたの奇跡のみわざを聞いて心からあがめます。あなたこそ私が道を備えた救い主です」と主イエスに言葉を伝えていたはずです。

ところが、ヨハネは信仰がぐらついていました。主イエスの奇跡の話を聞いても「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と弟子を通じて主イエスに尋ねました。

隔離され、孤独になり、劣悪な環境と最低の食事のために体も心も衰弱し、死刑の恐怖が信仰を不安定にさせたのかもしれません。救い主であるはずの主イエスが、私を牢獄から救い出してくれない。今までの労苦は報いられるのだろうか。自分が信じて来た救い主は、本当にイエスだったのだろうか。

 あなたも信仰がゆらぐときがありますか。



2、事実に目を向けよ

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4~6)

主イエスは、ヨハネを叱責しません。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」というヨハネの質問に対する主イエスの答えはシンプルでした。わたしが救い主だと言う代わりに、聞いたり見たりしていることをヨハネに伝えなさい、とヨハネの弟子たたちに命じました。

信仰がぐらついた時は、第一に、事実に目を留めることが必要です。主イエスが何をなさったか、何が起きたのかを心に留めましょう。信仰の土台は事実です。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。(マタイ11:5)

イエスの奇跡は、誰もできないし、誰も見たことのないものでした。イエスの敵対者の祭司や律法学者すら奇跡を否定できなかったことを思い起こして下さい。「この人は、悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:24)「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」(マタイ27:42)

主イエスは、実際に起きた奇跡によって、ご自分が神であり救い主であることを示されました。



3、みことばに目を留めよ

信仰がぐらついたときに、第二に大事なことは、神のことばです。

主イエスは、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。

主イエスの発言を聞いて、ヨハネはイザヤ書35章を思い出し、ドキッとしたはずです。主イエスが言われたことは、イザヤ書35章の預言の成就だったからです。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5~6)

 そもそも、ヨハネは祭司の息子であり、聖書に通じていた人でした。イザヤ書の言葉から自分の使命を理解して「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)という自己認識をしていました。
 主イエスの言葉の引用元であるイザヤ書35章の最初の部分も同時に思い起こしたはずです。

 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
  心騒ぐ者たちに言え。
  『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。』」(イザヤ35:3~4)

 信仰が揺れ動くことは人生に何度かあります。そんな時、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言って私たちを励まして下さいます。

 ヨハネの立場で主イエスの言われた内容を聞き直すと、主イエスの言葉に励ましのヒントが隠されていた事が分かります。
 バプテスマのヨハネは、牢獄から出られず世の中の事は見えない盲人の状態にいました。牢屋の外に出られず、足が不自由で歩けない人のようでした。ツァラトに冒された者のように隔離され孤独でした、耳が聞こえない人のように情報が限定されました。死刑を待つ身のヨハネは、生きていても死人でした。そして、最も貧しい人のような最下層で失望した人のように暮らしていました。主イエスは、これら6つの事柄に勝利する奇跡をなさったお方です。ヨハネにとって何と大きな励ましになったことでしょう。

 信仰が揺らいだ時は、第一に事実に目を向け、第二に神の言葉に留まり、第三に主イエスの励ましに耳を傾けましょう。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。」


 →あなたの番です
   □心がゆらぐときもある
   □事実と神の言葉に土台を置く
 □主イエスの励ましを受け止めよう

マタイ10:34~42 十字架を負って

 十二弟子は二人一組で伝道旅行に派遣されました。それに先立って、主イエスが注意事項を弟子たちに語られた内容が10章です。最初は具体的なアドバイスで、病人をいやしなさいとか、財布は持つなという指示でした。内容は次第に弟子の内面に関するものとなり、今日の箇所はキリストの弟子として最も大切な心構えが語られています。


1、父母よりも

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34~37)

 旅客機のパイロットはシュミレーターで訓練を受け、突然エンジンが止まるなど過激なトラブルの対処を学びます。
主イエスは、いわば信仰シュミレーターを用いて弟子たちを訓練されました。家族との対立という最も過酷なトラブルを想定させました。良く考えさせ、それでも主イエスに従う事が弟子の道だと教えました。
実際のところ、両親から信仰を反対されるクリスチャンがいます。尊敬し、愛する父母とぶつかるのは精神的にきついです。でも妥協はいけません。主イエスは剣をもたらす方です。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

 誰よりも主イエスを愛します。私を愛し、私のために命をお捨てになった主イエスを誰よりも愛しますと心に刻んでおきましょう。それが弟子の心です。

 

2、いのちを失う覚悟

 今日の中心聖句は38節と39節です。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)

 1909年2月28日午後8時過ぎ、北海道の塩狩峠で、列車の最後尾の客車が外れて峠を下り始めました。乗り合わせた鉄道の職員職員、長野政雄さんは自らの体を車両の下敷きにして乗客を救いました。長野さんは熱心なクリスチャンで29歳、その時携帯していた小型聖書の表紙は赤く染まりました。

 1954年9月26日、アメリカ人宣教師ディーン・リーパーとカナダ人でメソジスト派の宣教師アルフレッド・ストーンは、青函連絡船「洞爺丸」に函館から乗り込みました。台風の直撃を受け船は沈没、その際、自分の持っていた救命胴衣を日本人に与えて命を救い、自分たちは犠牲になりました。

 この人たちは、なぜ、自分の命を捨てて他の人を助けることができたのでしょうか。それは、主イエスの弟子として死ぬ覚悟があったからです。

自分の十字架を負ってついて来なさいと主イエスは言われます。十字架を負うとは、自分のハンディとか運命とか苦悩を背負うという意味ではなく、死ぬ覚悟を意味しています。十字架刑の場合、死刑囚は自分がかかる十字架をかついで刑場に行きました。キリストのために命さえ惜しまない。それがキリストの弟子の心構えです。

この心構えさえできていれば、身近な人を愛すとか、奉仕のために自分を捧げるとか、誰かのために時間を使うとか、大切なものを捨てることができるのです。

キリストの弟子になりたいですか。それなら、キリストのために死ぬ覚悟をしましょう。大切なものをいつでも捨てるつもりで生きてみましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)



3、私がキリスト?

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:40~42)

キリストの弟子を受け入れることは、キリストを受け入れることになる。また、それは、父なる神を受け入れることになる。キリストの弟子に水を飲ませる行為は、キリストに水を差し上げることになる。
ここで、キリストの弟子とキリストが同一視されています。キリストの弟子としては光栄なことです。

「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」あなたの存在は、まるでこの地上にキリストが生きておられるのと同じことだと主イエスがみなして下さるのです。あなたや私がキリストの弟子としての心構えを持って生きるなら、地上にたくさんのキリストが生きていることになるのです。


「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

キリストの弟子になりたいですか。生涯、キリストのあとについて行きたいですか。

→あなたの番です
 □家族より、誰よりも、主イエスを愛します
 □主イエスのために命を惜しみません

マタイ10:24~33 一羽の雀さえ

 マタイ10章は弟子の心得を教えた章で、今日のテーマは恐れです。
 恐れは、主イエスの弟子とした歩むことをじゃまします。
 弟子よ、恐れるな、と主イエスは3回も言っておられます。


1、弟子よ、恐れるな

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
(マタイ10:24~27)

 私たちは悪口に弱いです。元気な人も、一言で萎えてしまうことがあります。

 「だから、恐れるな」と主イエスは言われました。だからとは、恐れる必要がないという理由説明です。
 悪口を言われても、馬鹿にされても、恐れるな。先生である主イエスが、ひどいことを言われ続けているのだから、弟子であるあなたたちが罵倒されるのは当然だというのです。

 イエスは、悪霊の親分=ベルゼブルだと言われていました。悪霊のかしらだから、悪霊を追い出せるのだと律法学者たちは悪口を言い続けました。
 
 隠してはいけない。食卓で主イエスから聞いた話でも、語りなさい。暗闇で聞いたことも明るみで語りなさい。屋上で、街中で語りなさい。
 悪口や陰口を恐れず、律法学者の悪口に気力を削がれず、主イエスから聞いた福音を人々に語り続けなさい。



2、雀よ、恐れるな

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:28~31)

 主イエスの弟子として真剣に歩むなら、必ず、暴力、迫害を受け、時には命の危険にさらされます。そんな時は、良い意味で居直り、死を恐れないことです。

人は人間の体を滅ぼすことしかできません。敵対者は、クリスチャンを迫害し、殺すことしかできないのです。神は体も魂も両方とも滅ぼすことのできる方なので、神のみを恐れよ。人を恐れるな。

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーの町で、バスに乗っていた黒人女性が白人乗客に席を譲らずに座る決心をしました。静かで勇気あるこの行為が、黒人の人権運動の大きなうねりをもたらしました。その女性ローザ・パークスは、当時42歳。彼女を支えて運動の先頭に立ったのは26歳のキング牧師でした。ローザはこう言っています。「キング牧師は、真のリーダーでした。私は、彼に恐怖心があるのを感じたことがありません。」キング牧師は、自由のため、主イエスの福音を実践するために、恐れを乗り越えて活動しました。その結果、肉体の命を奪われましたが、反対者は彼の魂を滅ぼすことはできず、むしろ、敵対者たちは敗北しました。

自分がちっぽけな者に感じるとき、恐れを感じます。自分が世間に何の影響も与えないし、いてもいなくても同じような存在だと考えてしまうと、恐れが心を支配します。

当時、雀が売られていましたが、1羽では販売されず、2羽でいくらという売り方でした。日本でいえば、メザシ一匹のようなものです。
「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」そうです、そんな雀の一羽であるあなたを、神は守ってくれます。
自分は価値がないと勝ってに思い込んでも、神はあなたを大切に考えています。あなたの髪の毛一本でさえ、神に数えられています。神は、あなたの人生の細部まで知っておられ、あなたを守っておられます。

だから、周囲のすべての人間を恐れるな。神だけを恐れよ。あなたは、神のセキュリティーの中で守られている。一羽の雀よ、恐れるな。


3、人を、恐れるな

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32~33)

周囲からプレッシャーをかけられ、「まさか、君、クリスチャンじゃないよな」と言われたときも、自分の信仰をきちんと告白しましょう。

主イエスの十二弟子なのに、人の目を恐れて、自分の命が惜しくなり、主イエスの弟子であることを否んだり隠したりするなら、その時は、主イエスはあなたを知らないと言われます。

恐れる理由は存在しません。キリストの弟子として胸を張って歩みましょう。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」


→あなたの番です
  □主イエスの弟子よ、陰口や迫害を恐れるな
 □一羽の雀よ、あなたは守られている
  □救われし者よ、主イエスを人前で認めよ

マタイ10:16~23  用心しなさい

 ヨセミテ国立公園にはハーフドームと呼ばれる山があります。お椀を逆さにして半分を切り落としたような花崗岩の塊で、渓谷の底から頂上まで1500mの高さがあります。何度もハーフドームを上った人は初心者に次のような注意をします。登り始めたら5分くらいは決して下を見ないこと。不安だったら命綱のフックを鎖につなぐこと。大の大人が泣いて降りてくるほど怖い場所だと覚悟を決めること。

 キリストの弟子として生活することは、まるでハーフドームを登ると決めることです。もし、キリストのようになりたい、福音を伝えたいと願うなら、今日の箇所のような困難があなたを待っています。嫌なら登る必要はありません。けれども、頂上にたどり着いた人だけが見える景色があります。


1、用心しなさい

 マタイ10章全体の内容は、十二弟子を二人一組で伝道に遣わすに当たって主イエスが与えた注意事項です。特に今日の箇所では、福音を伝えるなら逮捕、尋問、迫害が起こるので心の準備をしなさいという警告です。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。(マタイ10:16~17)

十二弟子が各地を巡るようになると、病気がいやされて喜ぶ人や、神の国の福音を歓迎して主イエスを信じる人が多数起こされます。十二弟子や主イエスを憎む者たちは、主イエスや弟子たちの人気を妬み、様々な方法で妨害します。

伝道旅行は、まるで狼の群れに羊を送り出すことです。多数の狼に囲まれて、羊が無事でいられるはずがありません。だから生き残るために、知恵や賢さが必要なのです。人々の悪巧みを見抜く洞察力が不可欠です。相手がどんなに邪悪でも、神の前の素直さは失ってはならないのです。嘘に嘘で対抗してはいけないし、暴力に暴力ではむかってはいけないのです。不必要な逮捕、裁判、暴力を上手に回避しましょう。主イエスも、祭司や律法学者に憎まれましたが、3年間逮捕されずに活動できました。あなたも、周囲の人々を無用に怒らせたり、いら立たせてはいけません。人にはくれぐれも用心して、さとく、素直に生きましょう。



2、心配いらない

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:18~20)

 逮捕されたり、訴えられれば、裁判の席で弁明することになります。総督や王たち、また、宗教権威者や議員たちなど地域の有力者の前で話すことになります。それには、主の目的があります。あかしするために、地方法院に連れて行かれるのです。

 そんな時は、足がふるえ、口がからからになり、頭が真っ白になり、質問も聞き取れないかもしれません。でも、「何を話そうかと心配するには及びません。」なぜなら、そういう場面では、あなたが語るのではなく、「あなたがたのうちにあて話されるあなた方の父の御霊」が語るからです。これは、大きな励ましです。

 あなたの人生にも同じことが起こります。親戚の法事に出席した、会社の忘年会に出た、同窓会に顔を出した、そんな時急にあなたの洗礼の理由を聞かれることがあります。テーブルにいる人々があなたの言葉に興味を持っているのが分かります。そんなとき、19~20節を思い出してください。どのように語ろうかとか、何を話そうかと心配する必要はないのです。あなたの内に住まれる神である聖霊が話してくれます。あなたは、逃げずに、祈りながら、あかしして下さい。言葉は聖霊から与えられます。

 

3、耐え忍ぶ

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10:21~23)


 信仰のハーフドームを登ろうとしている人は、大きな迫害を受けます。特につらいのは、親や兄弟や子供たちから受ける無理解や激しい軽蔑や暴力です。ハーフドームを登るつもりのない人は、この種の困難には直面しません。

 家族、親族、友人などの身近な人が、あなたを迫害するときは、最後まで耐え忍ぶと覚悟を決めましょう。耐えるという決意があなたを支えます。

 アメリカ人の最初の宣教師と知られているは、アドニラム・ジャドソンです。名門ブラウン大学を首席で卒業した秀才で、1823年にビルマ(今のミャンマー)に到着しました。聖書をビルマ語に翻訳する作業に取り掛かりましたが、36歳の時(1824年)、イギリスとビルマが戦争になり、スパイ容疑で彼は投獄されました。飢え、暑さ、悪臭、虫、拷問を乗り越え、約2年後に釈放されました。彼の妻アンが夫のために食事を差し入れたことが大きな支えでしたが、同じ年、アンは病のために天に召されました。幼い子供も召されました。しばらくはジャドソンは妻の墓から離れられず、失意と悲嘆に暮れ、自身も死を覚悟しました。その後、聖書翻訳の作業に再び取り組み、完成させ、ビルマの土となるまで宣教を行いました。

主イエスの弟子となると覚悟したなら、御国の福音を真剣に伝えようとするなら、不当な逮捕、有力者の前での尋問、厳しい迫害に遭うかもしれません。そんな時は、不用意に逮捕されないように賢くて素直な心を大切にしましょう。あかしをする場面が来たら、心配せずに語りましょう。そして、迫害が襲ってきても驚かずに耐え忍びましょう。

「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」(19節)


→あなたの番です
 □賢く、素直で、用心を怠らない
 □あかしする時は心配しないで、御霊にゆだねる
 □迫害に直面した時は、耐え忍ぶ

マタイ10:5~15 オンザ・ジョブ・トレーニング

1、御国が近づいた

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:5~8)

主イエスは、後継者としての十二弟子のトレーニングを始めました。簡単な説明をした後すぐに、「ふたりずつ遣わし」(マルコ6:7)たことが分かります。机に座って講義を聴くより、On the job trainingのほうが物事を効果的に学べます。

ペテロたちが二人一組になってどこかの町に入ると、町の広場などで主イエスに言われたとおりに、まず、「天の御国は近づきました。」と叫んだと思います。でも、その後、言葉に詰まって顔を赤くしたかもしれません。それで良いのです。

主イエスが語られた教えを思い出し、主イエスの言われた意味に気づき、自分の言葉になって話し出したことでしょう。

主イエスが、弟子たちの伝道対象を決めました。ユダヤ人にだけ伝え、異邦人に伝えるなと言われました。これは、第一に、祭司たちやパリサイ人を刺激しないためだと思います。第二に、一番語りやすい対象です。ユダヤ人は同国人なので、自分の言葉で自然に語れます。主イエスが羊飼いのない羊のようにご覧になった人々が対象なので、深いあわれみの心をもって語れます。

言葉につまったり、質問されたりして困ったら、病気の人を招いたことでしょう。苦しみを聞いてあげて、祈ってあげて、主イエスの名によっていやす働きを真剣にしたと思います。人々の前で病人がいやされたら、群集は弟子たちの話を真剣に聞くようになるでしょう。

主イエスは、今日も、あなたを遣わされています。まずは、あなたと似た人に福音を伝えてごらんと主イエスは励ましておられます。言葉に詰まっても構いません。イエスさまのこと、教会のこと、聖書のことを誰かに話してみましょう。そして、身近な人の苦しみに寄り添い、解決のために祈ってあげましょう。



2、何も持たずに

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。(マタイ10:9~10)

旅に出る人は、宿屋の代金、食料、着替え、万一の場合の備えをします。それは、今も昔も同じです。主イエスは弟子たちに、お金を持たず、万が一の準備もなしに伝道旅行に行きなさいと命じました。

適量のストレスを与え、役割を限定し、なすべき事をはっきり指示するなら、短期間にスキルを上げることができます。
十二弟子は、自分がするしか他に道がないので、自覚が全然変わったことでしょう。主イエスの言葉を思い出し、その意味を深く悟ったことでしょう。目の前で病人がいやされるのを見て、神の力を確信したことでしょう。

主イエスは、十二弟子を意図的に極限状態に置かれました。主イエスは、ストレスのかかる場面で弟子たちをトレーニングされたのです。

2008年、宇宙航空研究開発機構は宇宙飛行士を募集し、963人が応募、最終選考に10人を残しました。彼らは宇宙空間と同じような狭い閉鎖隔離施設に1週間滞在させられ、ストレスのかかる作業をこなし、審査員はカメラで候補者の姿をモニターしました。必要に応じてリーダーになり、場合によってはリーダーをサポートする良きフォロワーにもなり、また、緊急事態でも冷静さを忘れず、心折れずに対応できる人材を審査員は探しました。その結果3人が選ばれ、次の訓練に進み、3人とも宇宙飛行士として宇宙ステーションで働くことができました。

 何も持たないことは、心細いです。それは、見方を変えると、すべて持っているとも言えます。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とあるからです。

 災害や事故への備えを万全にして、貯金も、保険も、家も、会社も問題がないと思っても、突然の大地震やサブプライムローンの破綻が起きると何の役にも立ちません。つまり、持っていると思っている人も、実は、何も持たない人と大差ないのです。

私たちの人生も旅に似ています。スーツケースが人より大きく、重くなる人は、心配性です。私たちの人生の持ち物を軽くして、主に頼って生きて生きましょう。



3、平安を祈り、ちりを払う

どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10:11~15)

一つの町に入ったら、伝道活動を通して知り合った人の中から、伝道拠点となる家を見つけるようにと主イエスは言われました。ぜひ我が家に泊まって下さい。あしたも教えて下さい、多くの人をいやして下さいという家族の世話になりなさいと言われました。

その家に入る時は、家のため、家族のため、平安を祈りなさいと主イエスは命じました。十二弟子は、人をいやす権威だけでなく、家庭に平安をもたらす権威まで授けられました。祈ると、その通り、神の平安が実態を持って留まりました。

伝道旅行に出ても、すべての人が歓迎してくれるわけでもありません。反発や迫害もあるでしょう。そういう時は十二弟子もがっかりしたことでしょう。そんな時には、足のちりを払い落とすという儀式にも似た行為をしなさいと主イエスは命じました。

福音を拒絶する人が受ける裁きには責任がない。そうした象徴的な行為です。目の前で病気のいやしという奇跡を見ていながらも、主イエスの福音や主イエスの弟子たちを拒む者はソドムやゴモラよりも罰が重いというのです。

○イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
○胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
○その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。


→あなたの番です
  □あなたと似た人に、あなたの言葉で福音を伝え、平安を祈ろう
□ストレスのかかる環境は、成長のチャンス
□人生という旅で、荷物を減らし、主に頼ろう
  


マタイ10:1~4 十二弟子

 弟子はギリシア語でマセーテース。その意味は、学ぶ者です。

1、寄り添う人になる

 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。(マタイ10:1) 

主イエスは、なぜ十二弟子を選んだのでしょう。主イエスが天に上った後も、働きを継続させ、拡大させるためです。10章以降は、弟子の訓練についてかなり詳しく書いてあります。

主イエスの主な活動はマタイ9:35に簡潔に書いてあるように、①会堂で教える、②御国の福音を伝える、③病人をいやす、でした。弟子たちも同じことをする必要がありますが、まず命じられたことは病人をいやすことでした。主イエスは弟子たちに、悪霊を制する権威、病気をいやす権威を授けたのです。病をいやす権威を十二弟子に授けること自体が主イエスが神である証拠になります。
病をいやすためには、病で悩み苦しむ人たちの話を聞く必要があります。つまり、悩む人々に寄り添うことが十二弟子の最初の仕事になったのです。

あなたの番です。主イエスは、今も、弟子を求めておられます。働き人が少ないのです。あなたも、悩む人や苦しむ人に寄り添い、話を聞き、具体的に助けましょう。そういう人がキリストの弟子です。



2、変えられた弟子

 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(マタイ10:2~4)

 主イエスは徹夜の祈りをして十二人を選びました。(ルカ6:12~13)選ばれた人は、権力者ではなく、家柄の良い人ではなく、学問もない人でした。ほとんどはガリラヤの漁師で、まさに庶民です。

バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイについてはほとんど記述がありません。アンデレ、ピリポ、トマス、福音書に数度登場するだけです。せっかく弟子に選ばれたのに、イスカリオテのユダはユダヤ当局と結託して主イエスを裏切りました。

 ペテロは漁師でした。長所は、強い好奇心と積極性です。短所は、調子に乗りやすい、誘惑に弱い所です。シモンが本名ですが、主イエスが「ペテロ」というニックネームを付けました。これは、目標であり、励ましを意味する名前です。シモンはこんにゃくのような人ですが、やがてペテロ(岩)のようになる。
 十字架前に主イエスを知らないと3度言い、激しく悔い、復活の主に出会って別人のように変えられました。ペテロは神殿の門にいた足なえを主イエスの御名によっていやし、大勢に福音を語ったために捕縛され尋問を受けましたが、「無学な、普通の人」の「大胆さ」(使徒4:13)が際立ちました。ペテロは変えられ、岩のような人物になったのです。

ヤコブとヨハネは兄弟で、主イエスは彼らに「ボアネルゲ=雷の子」(マルコ3:17)というあだ名を付けました。主イエスを拒絶したサマリヤ人を焼く尽くしましょうと提案したほど(ルカ9:54)怒りっぽい人達でした。ヨハネはやがて、愛の使徒と呼ばれるまでに変えられます。ヤコブは最初の殉教者になり、忍耐の極みまで働かせました。

マタイは、十二弟子の名前のリストに、自分の名に「取税人」という解説を加えています。マタイを取税人と書いているのは「マタイの福音書」だけです。極悪非道の取税人稼業の過去を書き入れ、主から受けたあわれみを忘れないように、謙虚に生きるようにと自戒しています。

十二弟子のその後の人生を見ると、以下の事が鮮明になります。イエスは弟子を育てる天才です。
普通の人が、輝く人に変わった。
短気な人が、愛の人になった。
裏切った人が、殉教を恐れない人に。
疑い深い人が、信仰の人に。
無学な人が、聖書を教える人に。
罪人が、きよい人に。

 聖書では、主イエスを信じて、病気がいやされた人が大勢出てきます。彼らは弟子と呼ばれず、信じた人とみなされています。
 十字架から約10年後、アンテオケ教会でキリストの弟子たちはクリスチアノスというニックネームを外部の人から付けられました。(使徒11:26)それは、「キリストのもの」、「キリストの追従者」という意味です。英語にすればクリスチャン、日本語ならキリスト者です。彼らはキリストの弟子でした。

 あなたは、キリストの弟子ですか。
 主イエスの言葉の意味が分からない、キリストに質問してみたいことがある、どうしたらうまくいくのかキリストからアドバイスがもらいたい、そう思っている人はキリストの弟子です。主イエスから学ぼうとしているからです。
 信仰面で失敗したことある人、伝道してうまくいかないと悩む人がいますか。その人もイエスの弟子です。主イエスのようになりたいと願っているから悩むのです。イエスの助言を受けて、自分の生き方を変えたいと願っているからです。
 十二弟子は、何度も主イエスに質問し、何度も失敗をしました。質問する、失敗する、それが弟子の印です。このプロセスなしに弟子にはなれません。

主イエスは、十二弟子のリストの後に、あなたの名前を入れたいと願っています。「わたしについてきなさい。」(マタイ9:9)と言ってマタイを招かれたように、あなたの名を呼んでいます。自分をイエスの弟子として意識しましょう。

主イエスよ、あなたから学びます、あなたが夢見た神の国を建設するために私にできることをします、と言いましょう。主イエスが、あなたのを本物の弟子に変えて下さいます。

あなたは何を主イエスから学びますか。何を今週行って、弟子として歩みますか。

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」
「わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

→あなたの番です
 □弟子は、学ぶ者 □悩む者に寄り添う人になる
 □弟子になろう

マタイ9:32~38 収穫は多い

1、心を閉ざすパリサイ人

この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
(マタイ9:32~34)

 耳が聞こえないので話せないという場合が多いので、この人が主イエスの奇跡も教えも耳から聞くことはできません。それで、主イエスを知っていた人がこの人を連れて来たのかもしれません。

 主イエスは、その人から悪霊を追い出し、話せるようにしてあげました。人々は驚きました。「そのとき足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ35:6)という預言の成就です。
 話せるようになった人は何と言ったのでしょう。「ありがとうございます。ずっと夢見たことでした。信じられません、私が話せるなんて。」と言ったかもしれません。

 伝道を難しく考えることはありません。主イエスを知らない人を、主イエスの所にお連れするだけで良いのです。自分がしてもらったように、してあげれば良いのです。

 この奇跡を見ても、喜ぶことなく、憤っている人たちがいました。パリサイ人です。目の前で起きた奇跡は否定できないので、この奇跡は悪霊のかしらによるものと決めつけました。最も悪いことをする悪霊が、親切で良いことをしたと言い張るのです。

 こんなに心を閉ざすのはなぜでしょう。パリサイ人は、主イエスが嫌いだからです。宗教権威者という立場が脅かされたので嫉妬心が燃え上がったのです。

 あなたにも私もすぐにパリサイ人になれます。自分より若い人が来たら嫉妬します。能力のある人、美しい人、人気のある人が来れば、私たちもパリサイ人と同じ気持ちになります。今、誰かに無性に腹が立ったり、いつもその人のあら捜しをしているなら、あなたもパリサイ人になっています。そういう自分にさよならしましょう。


2、主イエスの目

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:35~36)

 主イエスがガリラヤ湖畔の町カペナウムでしたことが9章全体に書いてありました。つまり、罪を赦し、律法的な生活習慣から開放し、病気をいやし、失望している人に希望を与えて来ました。どこの町に行っても、主イエスはそれと同じことをしたのです。

 1)会堂で神のことばを教える………山上の垂訓。神のことばで人を生かす。  2)御国の福音を宣べ伝える…………神の国がある。救いがある。キングダムビルダー。  3)病気をいやし、悪霊を追い出す…現実の悩み苦しみから解放する。

 羊飼いを失った羊の状態だった群衆を無視することは主イエスには不可能でした。羊飼いを失い、良い牧草地に行けず、食べ物が無く、安全を失い、行き場をなくし、不安の中にいる羊と群集は同じだと見抜かれました。

 主イエスは人々に、神のことばを与えて魂の食物とし、福音を伝えて完全な罪の赦しを与え、神の国があることを教え、神の国を作る使命が与えられていること伝え、各人の切実な悩みを解決されました。

 あなたの周囲にいる人を見てください。本当の姿は、羊飼いのない羊です。その人のために、祈りましょう。



3、働き手が必要

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37~38)

 主イエスは弟子たちが見えないものをもう一つ見ていました。収穫を待つばかり畑です。豊かに黄金色に実った畑です。

豊作の畑とは、神の言葉を受け入れたい人がたくさんいるという事です。罪が赦され、信仰告白をし、神の国のために生きようとしている予備軍がたくさんいるという事です。弟子たちには見えませんが、主イエスには見えています。収穫は多いのです。必要なのは、刈り取る人だと主イエスは言います。

「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と主イエスは十二弟子に言われました。あなたが十二弟子の一人で、この言葉を聞いたらどう応答しますか。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)と言うことができます。

伝道とは、実った穂を刈り取るだけの作業なのです。もう、畑は色づいているのです。私たちが誰かを教会に誘ったり、聖書の言葉を教えたり、祈ってあげたり、具体的に援助するプロセスを通して伝道ができます。

フランシスコ・ザビエルは1547年、マレーシアのマラッカで3人の日本人に会い驚嘆しました。特に、ザビエルが語る聖書の言葉をメモしながら聞くヤジロウという武士の姿に驚いたのです。日本人は他の民族と違う。ザビエルは、ヤジロウを見て収穫するばかりの畑を見たのです。1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、平戸で100人に洗礼をさずけ、山口で500人に洗礼をさずけ、約2年の日本滞在で多くの人を導きました。


まとめます。
奇跡を見ても心を閉ざし、嫉妬するだけのパリサイ人のような生き方を止めましょう。身近な人に寄り添い、みことばと愛と手を伸ばし、主イエスのもとに連れて行きましょう。それが、収穫の働きです。


矢印あなたの番です
 □偏狭で、嫉妬する自分に、さよなら
 □自分がしてもらったように、誰かにしてあげてイエスに導こう
 □収穫は多い、あなたが働き人になろう