詩篇70:1~5  主よ、急いでください


 えっ!コピーペースト?
 詩篇70篇は、詩篇40篇13~17節とほぼ同じです。何か意味があるのでしょうか。

1、急いで助けて

1 神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。
2 私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。
3 「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。
4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。
5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

 まず、詩篇70篇の内容を見ていきましょう。
 (2節)敵に苦しめられて命の危険を感じています。
 (3節)敵に笑われ、恥を受けています。
 (4節)主を愛する人には喜びや楽しみが来るように祈っています。
 (5節)自分の悩みと貧しさを痛切に感じています。
 (1、5節)急いでください、遅れないで下さいと神に懇願しています。

まるで、ボクシングの試合で、なぐられてもひるまず、観衆に笑われても真剣に戦う選手のようです。いっそ倒れてしまったほうが楽なくらいです。
「苦しいです」、「辛いです」、「笑われています」、「主よ遅れないで下さい」と言える事が、試合を放棄してない印になります。それが、主を信頼し続けている証拠なのです。

あなたは、今、詩篇70篇のような状態ですか。

ちょっとかっこ悪いかもしれないけど、「苦しいです」、「笑われています」、「急いでください」と主に言い続けましょう。それは、主に信頼している人しかできない事なのです。


2、大きな視点で見ると

コピーペーストの意味を、詩篇全体の構成から考察してみましょう。
40篇は詩篇第1巻の終わりから2つ目の詩篇です。70篇は第2巻の終わりから3つめの詩篇に当たります。詩篇の編集者が意図的に各巻終わり直前に同じテーマを挿入した、と考えることができます。そして、各巻最後の詩篇は力強い賛美で完結し、アーメン、アーメンと結んでいます。そうなると、第3巻の終わりから2番目の詩篇88篇も気になりますが、やはり苦難の中で神を求める詩篇の次にまとめの詩篇が配置されています。
8回シリーズのテレビドラマで、7回目に主人公カップルが破綻して、仕事も私生活も壊滅状態に陥るのに似ています。

詩篇40篇と詩篇70篇が同じなのは、ベートーヴェンの交響曲第五番のジャジャジャジャーンと同じです。詩篇40篇と70篇で苦悩のテーマが繰り返されているのです。私たちの人生は苦悩と恥が形を変えながら繰り返されます。神私たちの抱えている苦悩に寄り添い続けてくれることを示すために、詩篇40篇と70篇が配置されていると私には思えるのです。

 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。
 あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5節)

いかに問題が大きくとも、自分が貧しくとも、状況がすぐに良くならなくても、あせらない、投げない、祈るのを止めない。それが大事なのです。神は頑張っているあなたを知っています。あなたを支えています。あなたと共に歩いて、出口に導いてくれます。

神に遅刻はありません。

人から見ると遅れに見えても、神の目にはright on timeです。

「もしおそくなっても、それを待て。
 それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2:3)

会堂管理人のヤイロは、瀕死の娘のいやしを主イエスに依頼し、一緒に家に急いで帰りました。その途中に現れた女性によって時間を大幅に取ってしまいました。早く、早く、とヤイロは心で願いましたが、家からやって来た使用人が無情にも娘の死を告げました。遅かった。主イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)とヤイロを励まし、ついに、死んだ娘をいきかえらせました。

ラザロが死にかけた時も思い出して下さい。主イエスは急ぎませんでした。その結果ラザロは死に、姉妹のマルタは遅れて来た主イエスを厳しく責めました。その前に主イエスは「この病気は死で終わるものだけではなく、神の栄光のためのものです。」(ヨハネ11:4)と言われた通りに、ラザロを墓から呼び出されました。

私たちの主に遅れはないのです。


→あなたの番です
 □どんな事が起きても、主に助けを求め続けよう 
 □神に遅刻はない


詩篇69:1~36 泥沼に沈んでも


 絶望的な苦しみの中で賛美する。それが詩篇69篇です。

 69篇は主イエスの十字架の苦しみを予告した詩篇として知られ、新約聖書で引用されました。4節の「ゆえなく私を憎む」はヨハネ15:25で、9節の「あなたの家を思う熱心が私を食いつくし」はヨハネ2:17で、21節の「苦味を与え」はマタイ27:34で成就しています。
 私たちの苦悩は誰にも分ってもらないと詩篇69篇はうめきます。でも、主イエスはそれと同じ苦しみを体験するために生まれて下さったと詩篇69篇は予告しています。


1、苦しすぎる(1~12節)

 主よ助けてください。まるで、沼に落ちて水が喉元まで迫っている状態です。負けそうです。絶望的です。敵が多くて太刀打ちできません。敵は強すぎます。根拠がないのに悪口を言われ、笑われ、侮辱されています。その苦しみで胸が張り裂けそうです。

神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。(詩篇69:1~2)

ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、
私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。
それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。(4節)

私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。
私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。
門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。
私は酔いどれの歌になりました。(10~12節)

 あなたは今、こんな状態にいますか。
苦し過ぎるなら、神に助けを祈りましょう。

ある朝、男性が奥さんの様子がおかしいのに気づきました。解離性健忘症という病気を持った彼女は、目の前の夫が見ず知らずの男性に見えていました。夫は、彼女の名前を教え、結婚指輪を確認させて昨年5月に結婚したことを話し、彼女の日記を読むように勧めました。彼にとっては3度目の経験なので、比較的落ち着いていました。妻は私を知らないし愛してもいない。でも、私は彼女をずっと愛してる。これからも彼女を愛すし忍耐深く彼女を支えるつもりです。

私たちは、試練に出会うと、神はいない、神は私を忘れていると言い放つことがあります。さきほどの男性のように、主も私たちを愛して下さったし、これからも愛してくれます。現実が辛いからと言って、神の愛が停止することはありません。
のどまで水が迫る苦悩の中でも、主に祈りましょう。助けを求めましょう。


2、誰にも理解されない(13~28節)

 助けてください。もう少しで死ぬところです。あなたのタイミングを見計らって救って下さい。いや、すぐに救って下さい。もう耐えられません。誰も私の苦しみを理解してくれません。むしろ、傷に塩を塗りこむ者がいます。だから、敵を滅ぼしてください、命の書から彼らの名前を消し去って下さい。

しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。
あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。
私を憎む者ども、また大水の底から、
私が救い出されるようにしてください。(13~14節)

そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。
私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。
慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。
彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、
私が渇いたときには酢を飲ませました。(20~21節)

どうか、彼らの咎に咎を加え、彼らをあなたの義の中に入れないでください。
彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、
書きしるされることがありませんように。(27~28節)

 あなたが助けを求めても、事態が好転しない時もあります。誰にも理解されずに孤独に陥ることがあります。
 孤独すぎます、限界です、誰も信頼できません、と叫ぶ相手がいるとしたら、その相手が最も信頼できる方なのです。その方が私たちの神です。神のまこと、神の恵み、神のあわれみに頼りましょう。

「感謝します」というプレイズソングをご存じですね。Dan Burgessによる原詩が素晴らしいのですが、奥山正夫による訳詞は原詩にない温かみを加えていて、日本人の琴線に触れる泣ける歌詞です。今日の詩篇69篇のテーマに通じる歌といえます。

感謝します 悲しみの時に 共に泣きたもう 主の愛を
感謝します こぼれる涙を ぬぐいたもう 主の憐れみを
しかし願う道が 閉ざされた時は 目の前が 暗くなりました
 どんな時でも あなたの約束を 忘れないものとしてください


3、未来が見えない(29~36節)

 自分の願う通りに問題が解決した時は感謝します。
 願う通りにならない時は、どうしたらいいですか。賛美するのです。

悩みと恥が消え去らない。理解者もいない。何の解決の糸口もない。首都エルサレムの将来は不透明です。そんな時、この詩篇では、神をほめたたえました。歌いました。
将来が見えない中での主への賛美は、最上の牛を犠牲として捧げること以上に尊い礼拝になります。神は、神である。その一点のゆえに、賛美に値します。弱い人や貧しい人は、きっと神の恵みを受けることでしょう。天と地よ、世界のすべてのものよ、主をほめよ。この方こそ、まことの神です。

私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。
主は、貧しい者に耳を傾け、その捕われ人らをさげすみなさらないのだから。
天と地は、主をほめたたえよ。海とその中に動くすべてのものも。(30~34節)

 35節にシオンとあります。シオンはエルサレムですが、シオンを私と言い換えて祈ってみましょう。神が私を救い、私の家族、私の職場、私のコミュニテーを再建して下さる。あなたもそう信じませんか。賛美する者は、信じる者に変えられます。

まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。
こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。(35節)


 →あなたの番です
  □苦し過ぎるから、主に助けを求める
  □誰にも理解されないから、主に頼る
  □未来が見えないから、主をたたえる


詩篇68:1~35 旅の途中は


 イスラエルの歴史を旅の隊列にたとえているのが詩篇68篇です。

1、旅を守られる主

神よ。立ち上がってください。
神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。
煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。
悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。
(詩篇68:1~2)

 1節は、荒野を旅したイスラエルの民にとってなじみ深い言葉でした。モーセが旅の出発を告げる時に必ず発した言葉だからです。「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」(民数記10:35)
今の旅行と比べて、昔の旅は危険と隣り合わせでした。だから、神よ、私たちと共に出かけ、守って下さいと祈ったのです。「神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ」(7節)

 イスラエルの民は、エジプト→シナイ(17節)→約束の地(9節)→エルサレム(29節)と旅をして行きました。シナイでは、神のおきて=律法を授かりました。神の言葉に励まされた女たちも主の働きをしました。(11~12節)神は旅の途中で、イスラエルの民のために恵みの雨を降らせて下さる方です。

神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、
地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。
神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。(7~9節)

 私たちの人生も旅です。私たちも荒野を進んで行くキャラバン隊です。あなたは、今、どんな旅をしていますか。あなたは旅を楽しみ、感謝していますか。



2、賛美の旅

 目的地に到達することは旅の目的ですが、プロセス、旅の間の毎日の過ごし方もとても大事な事です。イスラエルの人々は旅の間、賛美しました。

神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。
歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。
「相つどうて、神をほめたたえよ。イスラエルの泉から出た者よ。主をほめたたえよ。」
そこには、彼らを導く末子のベニヤミンがおり、その群れの中にはユダの君主たち、ゼブルンの君主たち、ナフタリの君主たちもいる。(24~27節)

 イスラエルの人々が神を賛美する様子が伝わってきます。エルサレムの神殿に向かう人々でしょうか。あるいは、神殿で賛美する人々でしょうか。人々は、神による勝利を喜び、賛美しました。

 イスラエルは国力を増し、都エルサレムが政治や経済の中心地になり、周囲の国々やアフリカの国々が珍しい贈り物や高価な宝を献上に訪れるようになりました。(29~31節)

エルサレムにあるあなたの宮のために、
王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。(29節)

イスラエルの人々が賛美を続けていると、世界の国々が関心を持ち、いつの日が世界中が主を賛美する日が来ます。賛美は常に宣教的な要素を持っています。

この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。
昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。
聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。
神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。(32~34節)

 あなたの旅も、賛美の旅になっていますか。家で、車の中で、仕事場で、あなたの口から賛美の歌を響かせましょう。



3、重荷をになう主

賛美するのは、なぜでしょう。救っていただいたからです。また、主が素晴らしいお方だからです。5~6節を見ると、神が弱い人に寄り添って下さることが分かります。

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。
しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。(5~6節)

 両親を失った子供、夫に先立たれた女性、孤独な人、囚人、これらの人々は最も弱い立場に置かれた人です。けれども、主は、このような人の神なのです。主は見捨てません。差別しません。神がみなしごの親代わりになってくれます。

「ほむべきかな。
日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。」(19節)

 19節はキーワードです。また、主イエスの言葉を連想させてくれます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

江戸時代末期の1864年、外国人のための礼拝堂建設が許され、長崎に大浦天主堂が完成しました。翌年の3月、10数人の農民が教会堂を訪れ、プティジャン神父にこう語りました。「ここにおります私たちは、あなた様と同じ心でございます。」キリシタン禁令から250年、そこに現れた隠れキリシタンは、7代目の信徒でした。
後に彼らは政府により流刑とされ日本各地に散らされ、拷問を受け、662人が命を落としました。1873年にキリスト教禁令が廃止され、故郷に戻された人々は、苦しかった6年間の流刑を『旅』と言うようになりました。
 
あなたの重荷は何ですか。重荷につぶされそうですか。本来、重荷とは自分で負えないゆえに重荷です。どんな重荷も、主に話し、ゆだねましょう。主が背負ってくれます。

神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。(34節)

 →あなたの番です
  □主は私たちの旅を守ってくれます
  □人生の旅の間中、私たちは主を賛美する
  □主は重荷を背負って下さる