詩篇7篇  正しい審判者

 怒っていますか。この詩篇は、怒っているあなたのための詩篇です。

 アメリカに住み始めた人は、たいていカルチャーショックを経験します。日本で当たり前にできたことが、ここではうまくいかない。英語が下手なので、無視される。小さなフラストレーションが積み重なって、怒りが爆発してしまう。これは、誰もが通る道です。

 ダビデの怒りは、それとは違いました。表題にあるように、ベニヤミン人クシュに対して強い怒りを持っています。巨人ゴリアテに勝利するほどの勇士が、大勢の敵を向こうに回してもひるむことない戦士が、たった一人の男の挙動に悩まされています。この敵がサウル王だと言う人もいますが、推測の域を出ません。あなたにも、「ベニヤミン人クシュ」がいますか。


1、正しさを主張するダビデ

 「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら」(3、4節)

 ダビデは自分の正しさを主張しました。裏切ったこともなければ、陥れたこともない、自分のメンツにかけて、そんなことはしていない、と敵の悪口、批判に強く反発しました。

 「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」(8節)

 ダビデは自分が正しいことを強調し、誠実に歩んで来たと述べました。それも神の前で言い切りました。ダビデは窮地に陥っていたのでしょう。敵の非難が身にしみたのでしょう。

一般的に言って、自分の正しさを頑固なまでに振りかざすときは、自分自身を落ち着いて省みることが必要かもしれません。


2、怒る神?

 ダビデは自分の怒りを神の姿に投影している、と私には思えるのです。

 「主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。」(6節)
 「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(11節)

 ダビデによると、神は「日々、怒る神」です。けれども、ダビデは別な詩篇でこう言っています。「私は悩み、貧しいのです」「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵とまことに富んでおられる方。」(詩篇86篇1、15節)

 どちらのダビデと一緒にいたいですか。自分が誠実だと神に訴えているダビデと、自分が貧しいことを認め、神が怒るのに遅い方だと告白するダビデ。私は後者のダビデと一緒にいたいです。
家内は私に、「落ち込んでいる時のあなたが、ステキ」と言ってくれて、とても慰められています。

 あなたは、無実の罪で疑われたことがありますか。そんな時、この詩篇7篇に流れる強い言葉に共鳴することでしょう。


3、いと高き方

 怒りを神にぶつける祈り。自分の正しさを主張する祈り。敵に鉄槌を下してほしいと懇願する祈り。いずれも、悪いことではありません。霧が晴れて、遠景が見えてくるように、神の前での祈りは、2つのものをはっきりと見せてくれます。神がどんな方か。自分はどんな人間か。

 「その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」(17節)

 最後の節、この詩篇の結論で、神を「いと高き方」と呼びました。詩篇の中で、神を「いと高き方」と呼んだのは7篇がはじめてです。地上の様々な権力の上に神はいます。遠いのではなく、はるかに超越している事実を「高い」と表現しています。

 正義、メンツ、こだわり、勝ち負け、などからまったく離れた視点を持ちませんか。正しい審判者を、落ち着いた目で見上げることができたなら、敵が小さく見えます。敵が掘った落とし穴に、敵が落ち込むと確信できます。「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。」(15節)勝った負けたと騒ぐじゃないよ、です。私たちの神は、高みからすべての地上の営みを曇りなく見ることができるのです。あなたが貫いている正義の辛さや無念さを神は理解してくださるのです。

 「義は天から見おろしています」(詩篇85:11)


 あなたは今日、不当な扱いを受けていますか。無実なのに訴えられましたか。卑劣な中傷を受けていますか。

→あなたの番です
1)あなたの怒りを、そのまま祈りにして、神に聞いていただこう
2)いと高き方を見上げよう
3)悪者はおのれの掘った穴に落ち込むと達観しよう

 今週、がっかりするようなことが起きたら、「いと高き方」を見上げよう。

詩篇6篇  涙の祈り 

 涙といっても色々な涙があります。無念の涙。抗議の涙。幸せの涙。温かい涙。今日の詩篇の涙は、どんな涙でしょう。
 
 詩人は、何らかの処罰を神から受けているように見えます。

「主よ。御怒りで私を責めないでください。
激しい憤りで私を懲らしめないでください。」(1節)

 神からの処罰に納得していますが、その厳しさに音を上げ、助けとあわれみを求めています。病気になっているかもしれません。(2~3節)神が遠くにいるように感じるほどです。(4節)一人で夜を迎えると、とめどなく涙が出ます。(6節)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、
夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)

 涙でぐしゃぐしゃの状態ですが、最後の節では涙を拭いて立ち上がっています。

「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。
彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。」(10節)

 いったい何が起きたのでしょう。回復の鍵は何だったのでしょう。


 ポイントは、8~9節にありました。

「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。
主は私の泣く声を聞かれたのだ。
主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(8~9節)

 私たちの涙には様々な不純物が含まれています。憎しみ、怒り、事故憐憫、自己弁護が私たちの涙に含まれるうちは、神に受け入れられる涙とは言えません。
 そんな時は、泣きましょう。もっと泣きましょう。主の前で泣きましょう。6節のように泣き続けましょう。そうするうちに、不純物が取り除かれていきます。
 自分は本当に汚れた存在だ、誰が悪いのでも、めぐり合わせが悪いのでもなく、私が悪い、と虚心になって気づくなら、あなたが流す涙は真珠のようにきれいになります。砕かれた心、不純物が取り除かれた涙は、神が喜んでくださる涙です。

 神は預言者イザヤを通してヒゼキヤ王に次のように言われましたが、これも純化された涙だったのでしょう。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」
(イザヤ38:5)

 駅に向かうバスの中でこんな事があったそうです。
冬の寒い日、一台のバスが病院前のバス停に止まりました。大勢の人がそこで乗り込み、車内は満員、室温は不快になるほど急上昇。そのせいで、赤ちゃんが大声で泣き出しました。車内は険悪な雰囲気になりました。次のバス停で何人かが降りましたが、赤ちゃんを抱えた若いお母さんが「降ります」と声を上げて、料金を払おうとしました。
 「ここが目的地ですか」と運転手が尋ねると、「いいえ、でも赤ちゃんが泣くので、降りて駅まで歩きます」と答えました。運転手は、マイクのスイッチを入れ、「このお母さんは、迷惑になるので歩いて駅まで行くと言っていますが、赤ちゃんの仕事は泣くことです、どうでしょう、このまましばらく皆さんとご一緒できませんか」と乗客に語りかけました。数秒の沈黙後、一人が拍手、その後全員が拍手して賛同しました。
 
 あなたは今、泣いている赤ちゃん自身かもしれません。あるいは、赤ちゃんを抱え心で泣いていたお母さんかもしれません。神は、あなたが乗るバスの最良の運転手で、あなたの涙を見ていてくださいます。あなたの涙から、憎しみや自己憐憫、怒り、自己弁護が消え去ったとき、あなたの肩に手を乗せて、こう言ってくださるのです。「ここで人生を途中下車してはいけない、目的地まで行こう。私は、あなたの涙を知っている。あなたの涙は尊いものだ。」

 さあ、あなたの番です。泣きましょう。神の前で泣きましょう。自分の本当の心が見えるまで涙しましょう。あなたは、涙の向こうにおられる神をきっと見い出すことでしょう。

 「主は私の泣く声を聞かれたのだ。」

詩篇5篇  朝明けの祈り

朝の祈り、それが詩篇5篇です。

朝、それはあなたの生き方を映し出す鏡です。
絶望という毛布をベッドから引きずって起き上がる人がいます。
起きぬけの音楽として、恨みや憎しみの再生ボタンを押す人もいます。
否定的で消極的な気分を朝食にする人もいます。

それでは、人生変わりません。


1、朝の祈り

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。
(詩篇5:1~3)

この祈りは、真剣で、悲痛な叫びです。
朝、心を注ぎだして祈っています。

朝の祈り、それは、あなたの人生を変える力です。
朝の祈り、それは、あなたを変える秘訣です。
朝の祈り、それは、今日に備える心構えを与えてくれます。
朝の祈り、それ自体が、解決に踏み出す一歩です。

朝の新鮮な空気の中で最初に神と語り、一番大切なことを神に教えていただいき、一番伝えたい願いを神に祈りましょう。


2、神が見えてくる祈り


あなたは悪を喜ぶ神ではなく、
わざわいは、あなたとともに住まないからです。
誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。
あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。
主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。
しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、
あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
(詩篇5:4~7)

朝、神に祈ると、心の朝霧が晴れてくる。
神が正しいお方であることが確認できる。
神は、悪と同居できる方ではない。悪者は神とは相容れない。
自分が神とどんな関係にいるかも見えてくる。
神の<ヘセド>によって、礼拝者として神に近づくことができていることに気づく。
ヘセドとはヘブル語で、旧約聖書の中心概念の一つ。愛とか恵みと訳される言葉だ。新改訳で「恵みによて、あなたの家に行き」と書かれているのがヘセドだ。


3、敵が見えてくる祈り

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。
(詩篇5:8~10)

この部分で「助けてほしい」と神に願っている。
敵がどんなに陰険な人々かが分かる。言葉でダメージを人に与える者たちだ。パウロはローマ3:13でこの箇所を引用し、罪人の代名詞としている。
詩篇には、敵に対しての基本姿勢があるようだ。それは、攻めの姿勢ではなく、守りの姿勢。つまり、敵が掘った穴に敵が落ちるのを見るという姿勢だ。自分の義を掲げ、敵に攻めかかるとき、自分自身が罪を犯したり、加害者になることもある。「彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。」という姿勢は、敵を冷静に見させてくれる。神の解決を落ち着いて信じることができる。


4、周囲が見えてくる祈り

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
とこしえまでも喜び歌いますように。
あなたが彼らをかばってくださり、
御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
(詩篇5:11~12)

朝の祈りで心を注ぎだすと、自分だけでなく周囲に目が向かう。これは実に不思議なことだ。自分が苦しいはずなのに、回りの人のため祈るようになる。

『夫を支える30の祈り』という本がある。音楽家の夫と結婚し、苦しみの中で祈りの秘訣を学んだクリスチャン女性、ストーミー・オマーティアンが書いた良書だ。
妻がその本を持っているのを私は知っていた。昨日、ちらっとページをめくってみた。そこには、たくさん線が引いてあった。<妻は私のために祈ってくれた>という事実に改めて気づいた。ありがとう。こんなにも真剣に祈ってくれて。

祈りは、夫や妻、あるいは子供をコントロールする道具ではない。自分自身が神の手によって練り直される大切なプロセスだ。祈りこそ、自分自身が変えられる道だ。私たちの今日を変革し、私たちの将来を築くのが祈りだ。

あなたの朝を、真摯な祈りの時に変えてみよう。
明日の朝から、祈りの人となろう。

そのとき、あなたが神の盾に守られていることに心底気づくだろう。

詩篇4篇 私が呼ぶとき

夜の祈りと呼ばれる4篇を見ていこう。夜の祈りとみなされる理由は、床の上で自分の心に語る箇所(4節)と身を横たえ眠る(8節)という部分に由来する。

1、呼べば答える神      

3篇と同じくこの4篇も苦難の中での祈りだ。根底に流れる思想は信頼。苦しくても、神への信頼に陰りはない。まことの神は、私たちが呼ぶとき明確に答えてくださる神だ。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1)

苦しみのときにゆとりを与えてくださったと過去形で訳すのは口語訳、新改訳。ゆとりを与えてくださいと訳すのは新共同訳と英語聖書NIV。誤訳ではない。前者は直訳。後者は聖書ヘブル語文法に基づき<願い>を<完了形>で書き表す「祈願的完了形」であるとの認識。

第1ヨハネの手紙にはこの事と関連して興味深い聖句がある。祈りがきかれたと先取りする信仰姿勢を推奨している。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(第1ヨハネ5:14)

詩篇4篇の作者は、過去の試練において神からゆとりを頂いた経験があるのだろう。困難に出会った今、ゆとりを神に願っている。

4篇のような落ち着いた祈りができること自体が、既に<ゆとり>をもらっている印。


2、自分の心との対話

詩篇2篇と似た構造が2節にある。人々の一部が神から離れ、むなしいもの、まやかしを求めている姿をまず描き、3~5節で問題への対処方法を述べている。


恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。(詩篇4:4)

夜の闇は神からの贈り物だ。明るい昼間、人間の目は自分の外にだけ向く。夜の闇が私たちを覆うと、目は自分の内面に注がれる。心を静めよう。自分の心と向き合おう。そのとき、自分の本当の姿が見えてくる。これなしには、本当の幸せをつかむことができない。

3、あなただけが!

7節は、物質的喜びを超えた真の喜びに言及している。

あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4:7)

私たちも神の恵みに目を留めよう。神がくださる喜びは物質的な喜びと次元が異なる。神からの喜びは以下の4つにまとめることができると私は考えている。

1)愛されている そのままのあなたが愛されている
2)罪赦されている どんな罪も赦された
3)主がともにおられる 一人ではない、神と共に歩むことは幸いだ
4)主に期待されている 自分が必要とされている、為すべき事がある

これらの恵みを夜、振り返るなら、大きな感謝に包まれ、熟睡することができる。

ところで、超豪華ホテルの理念には素晴らしい姿勢が掲げえられています。お客様がベッドで休むひとときを大切に考えていると公言するホテルもあります。ベッドに入り一日を振り返り、「このホテルに来て良かった」とお客さまに満足してもらうため、心温まる思い出作りのためにホテル従業員は働いているといいます。

神は、私たちが試練の中や苦難の中でも落ち着いて眠れるようにとすべてを整えておられます。あなたの安眠は神の贈り物です。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4:8)

神に、心から「ありがとう」と言って今晩眠りにつきましょう。
本当の幸せは、主だけから来るのです。


→あなたの番です

1)自分の心を静かに見つめ、感謝と悔い改めをしよう
2)真の幸せは、神からだけ来るのです。そのことを心に刻みましょう
3)主が、あなたの願いにすでにかなえられたと先取りしよう