エペソ6:5~9 主人と奴隷

 あなたは誰かの奴隷ですか。

 この現代に、奴隷などいるはずはないと普通は考えますね。そうでしょうか。心にズキンと感じて、私は奴隷だ、とうなずく人もいるはずです。

 今日は、主人と奴隷について考えましょう。これは、とても現代的な問題です。また、これは、御霊に満たされた人が職場でどう生きるのかという内容です。ご一緒に考えてみましょう。

1、奴隷への教え

 奴隷制度は、人間社会が始まって以来ずっとありました。創世記の時代にすでに奴隷はいました。人は昔から他人を非人間化し、搾取しようとする罪があるのです。

 戦争の敗者は相手国の奴隷になりました。借金が払えないときにも奴隷になります。ローマ帝国は奴隷なしに存在できませんでした。中世ヨーロッパには、農奴がいました。産業革命後は、炭鉱や工場に労働者が流入し、危険な長時間労働を強いられました。新大陸アメリカで一儲けしようという資本家は、労働力確保のため多数のアフリカ人を奴隷として連れてきました。いつの時代にも奴隷はいたのです。

 『グローバル経済と現代奴隷制』を書いたケビン・ベイルズによると、少なく見積もっても現代世界には2700万人の奴隷がいるといいます。また、アメリカには毎年約15000人が奴隷として入国しているそうです。
 ベイルズの定義によれば、奴隷とは、①仕事への正当な代価をもらえず(多くの場合は無報酬)搾取された状態に置かれる人で、②暴力や精神的暴力を受け、恐怖に支配されている状態だといいます。

 夜遅くまで働いても残業手当を払わない企業があります。会社の指示に従わないと解雇されるとおびえ、不正な仕事を引き受けたり、低い労賃であきらめている人もいます。単純労働、危険な仕事、給料の低い仕事などはアメリカでは不法移民や低所得者が受け持っています。ノルマに追われるセールスマン、数字で頭をこずかれる課長、電話セールスを延々と繰り返すオペレーター。
 自分は奴隷のようだなと感じる人々は案外多いのです。

 明日の希望のない奴隷にパウロは何と言ったでしょう。天国に行けば楽になる、今はとにかく我慢だ、とは言いません。その反対に、奴隷たちよ逃亡しなさい、奴隷制度自体が間違っているとも言いません。こう言いました。

「奴隷たちよ。
あなたがたは、キリストに従うように、
恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
人にではなく、主に仕えるように、
善意をもって仕えなさい。」(5~7節)

 パウロは積極的に自分から働くようにと指示しました。ポイントをまとめると以下の3つになります。

1)キリストのしもべとして
2)神のみこころを行う
3)主に仕えるように

 これは、いわばフォロアーシップの勧めです。指導者に必要なのはリーダーシップで、従う者に必要なのがフォロアーシップです。両方がかみ合わないと組織は動きません。
 自分とは何者なのかという発見、視点の転換、つまり、自分がキリストキリストのしもべなのだという自覚は、劣悪な環境でも胸を張って生きていける鍵になります。
 神のみこころに沿った生き方を自分から選びましょう。主人のごきげん取りのような仕事は、表面をつくろう行為なので心が空しくなります。主に仕えようという仕事は生きがいを生みます。

 旧約聖書のヨセフを思い出してください。奴隷の身に落ちぶれても、主は常にヨセフと共にいてその仕事を祝福してくださいました。「主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。」(創世記39:5)無実の罪で投獄されても、主に仕える姿勢は変わらず、やがてエジプトの宰相にまで上り詰めました。主に仕える姿勢がいかに力強いかを証明しています。

 あるパン屋さんがいました。朝早くからのきつい仕事でした。店の電話番号は4989、まるで四苦八苦と読めました。そのパン屋さんがクリスチャンになり、仕事に喜びを感じ、同じ電話番号も「良く焼く」と読めるようになりました。

 「人見るもよし、人見ざるもよし、我は咲く也」この武者小路実篤の言葉のように生きたらどうでしょう。主は、あなたを見ておられ、どんな場所でも共にいてくださいます。

 →さあ、あなたの番です。今週、仕事に対する姿勢を変えてみませんか。
□職場で積極的に仕事を学び、改善に乗り出そう
□あなたが社長のつもりで仕事を見直そう
□主の視点で仕事に取り組もう
□主に喜んで頂ける仕事、周囲の人の幸せになる仕事をしよう
□キリストをあかしする職業人になろう



2、主人への教え

 さあ、主人への命令です。パウロは、奴隷を解放するように命じましたか。

 「 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」(9節)

 主人がなすべきことは以下の3つです。

1)奴隷と同じ覚悟で仕事に取り組む
2)おどすことをやめる
3)差別されない主を見上げる

 パウロは、主人と奴隷双方に、同じ心を持つようにと命じました。これは、天地驚愕の教えです。そうなると、主人も奴隷もなくなってしまいます。パウロは、本質的な意味で、奴隷制度を空洞化しようとしています。

 主人は奴隷を脅かしたり、差別してはいけないのです。大統領もホームレスも何の差別もないのです。みな等しく神の栄光のために生きる者となるべきです。

 会社の経営をする人、店のオーナー、学校の教師、専門職、学校で言えば先輩、リーダーと呼ばれるすべての人への教えです。
 主人たち、経営者たち、ボスと呼ばれる人たち。あなたは誰も脅してはいけないのです。暴力も言葉の暴力もありえないのです。働いてくれる仲間を誰よりも大切にしましょう。社員がハッピーな会社は栄えます。
 以下に、経営者の方々のヒントになるような具体的事例を挙げてみました。

 世界的に知られたあるコンサルティング会社では、上司が部下の成長にどれだけ貢献したかが評価対象になります。大事な事ほど後輩に教えないという封建的な日本の会社と正反対です。自分だけ昇進するというケチな生き方を捨てて、全社的な成長を目指すほうがダイナミックで健康的です。

 ミネソタにはクリスチャンの信仰を前面に打ち出して営業している銀行があります。融資を求めて来た方がいれば、その方の事業のためにその場で銀行員が祈るといいます。また、主イエスを大胆に語り、銀行のオフィスでイエスさまを信じた人が70人を越えているといいます。

 クリスチャンで弁護士の佐々木満男さんのモットーは<ドント・ウォーリー>です。クリスチャンになる前は、深刻に考え、思い煩う人で、しり込みしやすく、あきらめる人だっと述懐されています。でも、今は、生まれつきの性格とは正反対の生き方で多くの人を励ましています。心配でつぶされそうなクライアントに、ドント・ウォーリーと言える弁護士は立派なリーダーです。

 →あなたの番です。主人の立場の方々。経営者の方々。リーダーたちへのチャレンジです。
□高潔なビジネス・ミッションを掲げましょう
□脅さない、怒鳴らない
□人を物と考えない
□人を育てる経営者になる
□会社を明るく前向きな雰囲気にするのはあなたの役割です

 リーダーシップを用いる人も、フォロアーシップを期待される人も共に、顧客の笑顔と社員のスマイルのために、そして主の栄光のためになる仕事をしませんか。

 



 

エペソ6:1~4 親子

 お父さんが好きですか。

 お母さんが好きですか。

 子供が好きですか。

 今日の箇所を読んで、「大好き」と言える人になってもらいたいですね。


1、子供への教え

 御霊に満たされた人は、家庭においてどのように歩んだらいいのか。それが今日の箇所です。

 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。(エペソ6:1)

 子供は、親を尊敬し、親に従う。これが聖書の基本的な教えです。 

 主にあってとは、主を信じているなら、主と共に歩むなら、主の助けをいただくなら、主から受けた恵みを思うならと解することもできますね。

 両親に従うことが、1)正しいこと、2)第一の戒め、3)幸せと長寿の約束が伴うとパウロは説明しています。

 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。(エペソ6:2~3)

 主イエスも12歳の時、両親に仕えていました。(ルカ2:51)

 クリスチャンで小児科医のドブソン博士は『思い切ってしつけましょう』の中で、しつけをされなかった男の子の例を書いています。
 あるお母さんが3歳の男の子を寝かしつけようとすると、息子がお母さんの顔につばをかけました。愛と話し合いだけで子供は育てるものだという教育理論の信奉者だったので、母親はだめよと言っただけでした。すると、息子はまたお母さんの顔につばをかけました。お母さんは最低限の怒りを示しました。すると、3度目のつばをかけました。お母さんは部屋から逃げ出しました。思い起こすとその時から親と子供の関係が決定的に逆転したといいます。
 その息子が13歳になると夜2時前に家に帰らない子となり、親は完全にお手上げとなっていました。

 子供は親を尊敬し、親に従うことを第一に学ぶべきです。なぜなら、子供に最も大切なことを教えてくれるのは親だからです。もし、子供が親を無視したり、馬鹿にするなら、教育を受けずに育ったも同じになります。
 子供は親を尊敬する。親は、親を尊敬するように子供に教えるのです。

 ところで、クリスチャンのあなたにお聞きします。あなたが主イエスを信じてから親に対する姿勢が変わりましたか。
 こう質問すると、多くのクリスチャンは親への思いが変化したと言います。感謝の気持ちが湧いてきた。大切に思える。いとおしく感じる。
 その理由は何でしょう。クリスチャンになると、目に見えない神の愛が分かり、神から受けてきた恵みの深さに驚き、主イエスの十字架の犠牲の愛に感動するので、親の愛が神の愛と重なって理解でき、感謝の気持ちが出てくるのです。

 あなたは、親に汚い言葉を吐いたり。決定的な事を言ったり、泥を塗るようなことをしたことがありますか。
今、静かな気持ちで、親に謝り、また、感謝の気持ちを伝えるときではありませんか。

 感謝の心と笑顔。これが、神を信じる者が自分の親に向かい合うときの姿勢だと私は思っています。
感謝とは、今までしてくれた親の愛と犠牲に対するものです。また、感謝とは、親が子供の非礼に耐え、子供の失敗をゆるし、子供を見捨てずに見守っていてくれたことへの感謝です。
 笑顔とは、親の弱さを知っていても受け入れるゆとりです。また、笑顔とは親の問題発言や問題行動をゆるしているというサインです。笑顔とは、自分もまた問題のある人間だと理解しているという意味です。

 あなたの番です→
□言葉と態度で親を尊敬していることを伝えましょう
□感謝の心を何度でも伝えましょう
□笑顔で親と食事しましょう
□体を動かして親を助けましょう




2、親への教え

 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)

 父たちよとパウロは呼びかけています。教育の責任は、学校にはありません。母親にもありません。教育の最終責任は父親にあるのです。それがパウロの考えです。

 おこらせてはいけないとはどんな意味でしょう。子供を王様にして、親が奴隷になることですか。とんでもありません。それは、さきほどの3歳の男の子の例からも分かりますね。
 親が子供に理不尽な扱いをしてはいけないという意味です。親の身勝手な命令、暴力、子供の意見をまったく聞かない、完全に無視する、などの行為をすると子供は怒りのやり場がなくなるのです。それをしてはいけないと言っているのです。
 親から暴力を受けた子供は、学校で教師に逆らい、暴力をふるい、いじめをするようになります。あるいは、自信を失い、消極的になり、セルフエスティームの極度に低い子になります。

 子供は親の所有物ではありません。詩篇127:3に「子供たちは主の賜物」とあります。十数年の期間だけ神が教育の責任を親たちにゆだねてくださったと理解しましょう。

 4節には、主の教育と訓戒と書いてあります。主の教育とは、何よりも主を子供に教えることです。申命記6:4~9を読んでください。子供に信仰を教えるのは親の責任であり。父親の責任です。

 教育の目的は何でしょう。それは自立です。
 自立とは、悪い誘惑を跳ね返す強い心、正しい事を選ぶ判断力と決断力、親や兄弟や周囲の人を思いやる温かさを持ち、失敗しても立ち上がれる回復力、辛さの中で生きていける忍耐力、主からいただいた賜物を生かして生きがいを持って生きる姿勢といえます。

 4節の「教育」は、口語訳では薫陶、新共同訳ではしつけと訳されています。この言葉は、訓練や懲らしめという意味を持っています。
 ヘブル12:7~11に「教育」と同じ言葉が「懲らしめ」という訳語で使われています。教育の手段としてお尻をたたくスパンクが暗示されています。

 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル12:7)
 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。(ヘブル12:9)

 スパンクは子供にとって痛いことなので親を恨むのかと思うと、懲らしめられても親を敬うとヘブルには書いてあります。正しいことを勇気を持って実行する親は子供に尊敬されるのです。
 日本のお父さんは、子供のしつけを奥さんに任せ責任から逃げています。子供と向き合い、叱るときにはきちんとしかるお父さんになってください。

 「訓戒」という言葉は、おもに言葉による教育のことです。叱責、諭す、警告する、励ます、などの意味を持っています。子供に対する言葉の励ましはとても有効です。

 お母さんが、子供に嫌われることを恐れてきちんと子供をしつけないなら、後で「くそババア」と呼ばれます。お父さん、今、子供と向き合わないなら、十代になった子供はあなたと向き合ってくれません。

 親にとって大事なことは、愛と勇気です。

 主の助けをいただいて、主の教育と訓戒によって子供を育てましょう。


 あなたの番です→

 □子供に対する暴力、暴言を一切やめましょう
 □子供が信仰を持てるように祈り、教えましょう
 □必要な時は、勇気を持ってしつけをしましょう
 □子供に心を向ける時間を、今、取りましょう

エペソ5:22~33 夫と妻と教会

 御霊に満たされて歩む。それがエペソ人への手紙の結論でした。

 それでは、御霊に満たされた人は、具体的にはどう生活したらいいのでしょう。夫婦、親子、職場、という3つの場面をパウロは想定して、御霊に満たされた人の実際生活を説明していきます。今回は夫婦について考えてみましょう。

1、キリストと教会

 ある男性がいました。能力があり、地位も名誉も富もある人で、人柄が良く、その上ハンサムでした。その彼がある女性に恋しました。人並み以下の容姿、がっかりするスタイル、性格は悪く、万引きの常習犯、お世辞にもかわいいとは言えない。その女性が街でヤクザを怒らせ、ドスで刺されそうになりました。近くにいた男性は彼女をかばい身代わりに刺されてしまいます。
 助けられた女性は男性を愛すようになり、人柄が変えられ、やがて美しい人に変えられ、二人は共に暮らすようになりました。

 この男性が主イエスです。その女性が私たちであり、教会の姿です。エペソ22~33に描かれているキリストと教会の姿を、私なりに分かりやすく解説したつもりです。

 主イエスが何をされたか。教会は何をするか。その点に注意しながら今日の箇所全体を読み直して下さい。

22妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
23なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
28そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
29だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
30私たちはキリストのからだの部分だからです。
31「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
33それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ22~33)

 お気づきになったでしょう。イエス・キリストは、教会を愛し(25)、命をささげ(25)、教会を水とみことばで洗い(26)、聖く栄光に輝く姿にし(27)、養い育ててくださいました。(29)

 私が分かりやすく説明した意図が理解して頂けましたか。

 教会は、主イエスの愛を受けて、主イエスに従うようになります。(24)

 32節には驚くべきことが書いてあります。この箇所は結婚式で必ず読まれる箇所で、父と母を離れた新郎新婦が結婚により一つとなると説明されます。ですが、パウロの説明のポイントは夫婦にははく、キリストと教会の関係です。一心同体になるのは夫婦ではなく、キリストと教会だと念を押しています。

 「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(32節)

 私たちは、主イエスを信じることによって、主イエスと一つにされているのです。夫婦が一体となる以上に、キリストと教会は親密な関係になっているのです。初期の教会は、旧約聖書の雅歌を大切にし、男女の愛と主イエスと教会の関係の類比を深く学び、主イエスとの親密で豊かな一体感を大切にしました。

 主イエスと一つとされていることを感謝しましょう。



2、夫と妻

 主イエスと私たち教会の関係を明らかにしながら、パウロは夫婦のあり方を述べました。

 ポイントは明瞭です。夫は妻を愛す。妻は夫に仕える。これだけです。

 注意深く読むと分かりますが、夫への命令は妻を愛しなさい、と3回繰り返しているだけです。(25、28、33節)

 愛す。これは、男には一番苦手で、女性が一番必要とするものです。

 キリストが教会を愛したように愛せ(25)と書いてあります。キリストは教会の救い主(23)でもあります。そうすると、普通の愛し方では不十分だと分かります。

 ジョン・エルドリッジが書いた「Wild at Heart」という本があります。神が男を男らしくユニークに造られたことを思い起こし、男性よもっとタフガイになろうじゃないか、という本です。本来男性は冒険を好み、戦う生き物だと語ります。その中で、美しいお姫様を救い出すという事は男に与えられた一つの大切な使命だという趣旨を述べています。
 エルドリッジの考え方を今日の箇所に当てはめてみると面白いですね。夫の人生は生涯一人の妻を救出し続けるためにある。主イエスが命を捨てたように、妻を助ける続けるように愛す。
 また、主イエスが罪に汚れた私たちを聖め栄光の姿に変えてくださることを私たちに適応するとこうなります。妻が満ち足りた人生が送れるように助け、養い育てるのは男の仕事です。妻を美しくするのは、男の責任です。

 妻から頼まれていた事を今すぐしましょう。棚を作ってほしいと言われて何日、何ヶ月たっていますか。休暇のスケジュールを今の内に相談して、先に予約を入れましょう。家計上の相談を妻と穏やかな心でしましょう。大事な記念日には照れずに花をプレゼントしましょう。

 
 それでは妻は何をすればいいのですか。

 まず、夫をリーダーと認めることです。キリストは教会のかしら、リーダーであると23節で書かれてあります。妻は、夫を家庭でリーダーと認めることが必要です。
 22節では、主に仕えるように夫に仕えるようにと言われており、24節ではすべてのことにおいて夫に仕えるようにと言われています。また、33節では、「妻もまた自分の夫を尊敬しなさい」とあります。

 今の夫では、とうてい尊敬できない、という奥さんがいます。かなりいます。すごくいます。でも、昔を思い出してください。彼が好きだという事は彼を尊敬していると同義語だったはずです。彼が握りこぶしを作り、腕の筋肉を見せたとき、あなたは何と言いましたか。「すごい筋肉!」たったそれだけのことですが、あなたは本気で彼を尊敬したはずです。彼への尊敬を言葉と態度で伝えていたはずです。実は、それが彼への愛の表現になっていました。
 男が最も求めているものは尊敬です。あなたから尊敬が伝わったので、あなたに愛を返していたのです。人の話を聞くなんて男の一番苦手な事ですが、あなたのつまらない話を真剣に聞いてくれたでしょう。それは、尊敬してくれたことへのお礼なのです。
 夫の尊敬できる点を真剣に探してください。お世辞ではなく、本音で尊敬できるところを、心を込めて夫に伝えてください。必ず何かが変わります。
 尊敬できるなら、そして、彼に助けてもらっていると認めるなら、あなたは夫に仕えることが自発的にできるはずです。

 アメリカに住んでる奥さんたち。ご主人の大好きなトンカツを作ってあげてください。台所が汚れるので嫌われるメニューですが、夫が好きなら作りましょう。愛は伝わります。手作りトンカツを使って、カツ丼を作ってあげて下さい。夫の顔はみるみる笑顔に変わります。そうすると、デートしてたときみたいに、あなたの話を聞いてくれるかもしれません。

 主イエスを見上げましょう。そうすると、夫は妻を愛せます。妻は夫に仕えることができます。

 「それはそうとして、あなたがたも、
 おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。
 妻もまた自分の夫を敬いなさい。(33節)

 さあ、あなたの番です。信仰は具体的生活に適用されることによって初めて目に見えるものになります。

□妻を愛すため、何をしますか。
□夫のどこを尊敬しますか。何をして自発的に仕えますか。
□あなたは若い夫婦から相談される年齢なら、何を助言しますか。
□あなたが、デイトしているなら、どんなデイトがふさわしいデートですか。
□夫婦関係が最悪の人。最後の選択は離婚でなく、キリストの愛です。

エペソ5:15~21 賢く歩む

 今日の箇所は、エペソ人への手紙の結論といってもいいでしょう。

 ポイントは、主のみこころを知ることと、御霊に満たされて歩むことです。

1、みこころを理解する(15~17節)

 Be very careful, then, how you live(15節NIV) 

 自分の生き方に十分に気をつけよ。と英語訳聖書を読むと心にストレートに響いてきます。

 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:15~18)

 人生は短い。時代は悪い。人の心は放縦に傾きやすい。だから、主のみこころをしっかりと捉える必要があります。

 主のみこころがどこにあるのか。今日は、以下の視点を使って多角的に考えてみましょう。

 In       Out
 Yes       No
 スタート     ストップ
 ひとり      一緒に
 やり直す     あきらめる
 愛す      愛される
 動       静

 まず、インとアウトで主のみこころを考えてみましょう。主は、あなたに今、何を身に付けるようにと言われていますか。つまり、インです。知識、経験、財産、人との出会い。しっかり吸収する事が主のみこころかもしれません。
 その反対に、あなたが身につけたものを、誰かに、社会に与える時ではありませんか。仕事、伝道、教会、家庭で、受けたものを与えることが主のみこころだという人もいます。

 同じようにして、いくつかの指標を補助線にして、主のみこころを祈りながら、聖書を読みながら、考えていきたいですね。

 今はYESと積極的に応答する時かもしれません。あるいは、言えなかったNOを思い切って言うときかもしれません。悪い習慣にNO、自分を引き下げるしがらみにNO、主がそれを促していると気づきますか。
 何か新しいことをする時かもしれません。あるいは、長く続けてきた事を止めて誰かに譲るときかもしれません。
 一人になり、自分を深く見つめるときかもしれません。あるいは、他の人と積極的にネットワークを作るときかもしれません。
 立ち上がってやり直すにも時があるし、すっきり諦める時もあります。心を込めて愛すべき人は誰ですか。本当は誰に愛してほしいのですか。
 今が行動を起こすときかもしれないし、反対に我慢のしどころかもしれません。

 あなたが望むことは何ですか。そして、主があなたに望んでおられることは、何ですか。

 あなたが真剣に主の導きを求めていることは何ですか。



2、御霊に満たされる(18~21節)

 エペソ1:13によると、主イエスを信じる人には聖霊が住んでいてくださることがわかります。だから、ここで言っているのは、御霊よ来てくださいと願うことではなく、御霊に導かれて歩むことを勧めているのです。

 御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)
 
 この言葉は、命令形、現在形、受身形です。

 命令形なので、クリスチャンなら誰でも御霊に満たされることを望みましょう。現在形なので、いつもその状態になれるように求めましょう。受身形なので、自分ではできないことですから、リーダーシップを御霊に明け渡しましょう。

 大きな船が湾に入るとき、必ず水先案内人が船に乗り込みます。湾内の地形を熟知した水先案内人が船を安全に岸壁まで導きます。このとき、儀礼的にこういう質問をします。私が指揮権を取ってよいですか。
 同じように、私たちも、自分という船を聖霊に明け渡して、最善の場所に導いてもらいましょう。

 三位一体の神の第三位格の神、聖霊にゆだねて歩む。それは、なによりも安全で幸いな生き方です。

 19~21節の言葉は、御霊に満たされた人がどんな歩みをするのかを示した箇所とも言えます。

 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:19~21)

 この聖句によれば、聖霊に満たされた人には次のような4つの特徴があることが分かります。

 賛美。交わり。感謝。仕え合う。

 詩は旧約聖書の詩篇です。賛美は新約聖書時代の賛美歌です。霊の歌はオリジナルのプレイズといってもいいでしょう。

 御霊に満たされた人は、何よりも神をたたえたくなります。そして、神をたたえる言葉が交わりの中心テーマになります。さらに、感謝が言葉を継いで出てきます。感謝とは、物事の明るい部分を注視する姿勢のことです。そして、最後には、具体的に体を動かし賜物を用いて仕えるようになるのです。

 使徒の働きには、ペンテコステで聖霊に満たされた使徒たちの様子や、救われたクリスチャンの様子が書いてありますが、初代教会の雰囲気と19節から21節の内容はみごとに合致します。

 自然に神さまのことを語りたいとき、気づいたら神をたたえていた。辛い環境でも主に感謝している。自分から、誰かを助けているし、仕えることが喜びになる。それは、御霊に満たされている印です。


 ニューヨークの医者で、名声と地位と富を築いた男性がいました。このままの人生でよいのか、他の道があるのか、神のみこころを求めました。
 44歳のとき、彼は妻クララとともに江戸時代だった日本に宣教師として出かける道が示されました。
 日本に着くと、医師として日本人に仕え、日本語に聖書を翻訳し、ローマ字を作り、辞書を編纂し、大学を作り、主イエスの福音を伝え、教会を建て上げる働きを33年間続けました。彼の名は、ジェームス・カーティス・ヘップバーン。日本ではヘボンという呼び名で親しまれています。(James Curtis Hepburn、1815- 1911)
 ヘボンは、主のみこころを求め、御霊に満たされて主と人々に仕えた素晴らしい主の僕でした。

 あなたは、44歳になっていますか。遅くありません。主は、あなたに何を期待しておられるのですか。

 ヘボンのような大きな働きとは無縁だとしても、私たちも御霊に満たされて歩みたいですね。そのために、謙虚な心で主の助けを祈り求め、主のみこころを知るために聖書を読んでいきたいですね。


→あなたの番です
 □主のみこころを理解して、賢く生きよう
 □御霊にリーダーシップを取ってもらおう
 □賛美と交わりと感謝と仕え合う喜びを体験しよう

エペソ5:1~14 光の子として歩む

 今日のテーマは、クリスチャンの自己意識。
 自己意識は生きていく姿勢と言ってもよいでしょう。アイデンティティーです。私たちの名刺に書くべき肩書きといってもいいでしょう。
 クリスチャンの自己意識とは、「光の子」としての認識です。

 「光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)

1、自己意識

 ところで、ゴキブリのことを考えると何だかちょっとかわいそうな生き物という気がします。暗い場所でしか活動しない。道の真ん中を歩くことはできず、いつも物陰や壁にそって歩く。人が捨てたものや腐ったものを喜んで食べる。光が当たると数秒は動けない。
 罪の中にいる人間は、ゴキブリの生態にどこか似ています。人に隠れて暗い場所で罪を行う。罪悪感があるので、物陰歩きが板についている。欲望を追及するが、決して満たされない。自分の罪を明らかにする神の光を恐れる。

 パウロは、神を知らない異邦人の生活態度を以下のように描写しています。

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。(エペソ5:3~7)

 パウロは、救われたクリスチャンに対して強く言いたいことがありました。あなたは、暗闇に住むゴキブリではない、光の中を生きる光の子であると。

 明瞭な自己意識は、私たちを罪から引き離し、前向きな人生へと導いてくれます。

 あなたは、闇にうごめくゴキブリではないのです。光の子としての意識を強くもって、胸を張って歩みましょう。


2、光の子

 光とは何でしょう。光にはさまざまな特徴がありますが、暗闇を照らし周囲を明るくすることがもっとも顕著な働きでしょう。つまり、光とはまわりに影響力を及ぼすものなのです。

 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、
 今は、主にあって、光となりました。
 光の子どもらしく歩みなさい。
 (エペソ5:8)

 イエス・キリストはまことの光です。主イエスを信じる者は、光の子とされます。子供であるとは、その性質を受け継いだ者という意味ですね。

 私たちも、光っています。照らしているのです。
あなたが正しい光を周囲に届けているなら、会社の同僚は汚職も不正はできないのです。あなたが、温かい愛の光を放っているなら、周りの人は笑顔になるし、あなたに相談を持ち込みます。

 あなたには影響力があるのです。もっと光りましょう。主イエスに光らせてもらいましょう。

 神に愛されていることをもっと実感してください。そうすると、もっとあなたは輝きます。

 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:1~2)

 基次さんというお年寄りが寿荘というケアホームに入りました。その人のおかげで部屋がとても明るくなったといいます。入居老人は普通、愚痴や悪口、否定的な発言が多いそうですが、彼は違いました。そこで働く職員も、疲れるとこの方の所に行くのだそうです。癒されるそうです。
 基次さんは、若いころからのクリスチャンでした。脳溢血で倒れ、半身不随となり、話すことも困難な状態になり、記憶の一部も失っていました。でも、その基次さんが周囲の人を慰め、いやしていたといいます。彼は、光になっていました。光の子として生きていました。

→あなたの番です
 □神に愛されていることに気付いてください
 □光の子としての意識を持ってください
 □主に喜ばれることを見分けましょう

 「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(10節)