ダニエル書


 ダニエル書は、1~6章がダニエルらが経験した事、7~12章はダニエルが見た幻です。ダニエル書全体を貫くテーマは、神の主権です。


1、横暴な国家権力の下で

 ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。(2:20~21)

 「主権」がダニエル書の中心テーマです。主権とは、最終決定権のことです。通常は国王や大統領のことを指します。一番偉い人、最も影響力の強い人や組織です。神が国々の王を立てたり除いたりするので、神こそが主権者です。

 エホヤキム王の第三年(紀元前605年)、エルサレム崩壊の19年前、ダニエルと3人の少年は捕囚の一員としてバビロニア帝国に連れて来られました。少年たちは、王族、貴族の出身で、バビロンで3年間教育を受けました。彼らは容姿端麗、頭脳明晰で頭角を現し、王に仕える高位の役人として採用されました。(ダニエル1:1~4)

 ダニエル書前半の出来事を要約してみます。

 1章:ダニエル達は、偶像に備えた肉を避け、野菜を食べて健康に生活。
 2章:ネブカデネザル王の夢。それは神が歴史を支配する方であることを示す。
 3章:3人は金の像を拝まず、燃える炉に入れられても主が救って下さった。
 4章:ネブカデネザル王が高慢になり、神にさばかれた。
 5章:神の指が壁に文字を書き、ダニエルが解説。ベルシャツァル王は暗殺される。
 6章:法令に反して主に祈ったダニエルはライオンの穴に投げ入れられるも、無傷。

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(3:16~18)

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(6:10)

 王や国家権力というものは、自己を神格化する傾向があります。ダニエルたちは、いわば敗戦国の人質、奴隷、バビロニア帝国の三流市民という弱い立場でした。けれども、まことの神への忠誠を変えず、死刑の危険があっても、空気が読めないと責められても、真の主権者である神だけを礼拝しました。ダニエルたちの真っ直ぐな生き方は、まぶしく感じられます。

 あなたがクリスチャンであるなら、日本の文化やしきたり、地鎮祭、仏教式の葬儀など、周囲から強制力が加わる場面に直面します。あなたはそんな時、何度か失敗した後味の悪い経験をしたかもしれません。ダニエルのように歩みましょう。そう願うなら、まず、気負わずに「私はクリスチャンです」と言いましょう。何かの行事が控えているなら具体的に準備を詰め、覚悟を決めて、祈りつつその場に臨みましょう。主権者である神を、堂々と礼拝しましょう。世間は日和見的なクリスチャンは相手にせず、筋の通ったクリスチャンは評価するものです。現代のダニエルになりましょう。
 ダリヨス王は、ダニエルの姿勢と神の救いを見て、ダニエルの神を賛美しました。

私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。(6:26)



2、歴史を貫くもの

 ダニエル書後半は、前半と打って変わって、ダニエルが見た奇想天外な幻が書かれてあります。巨大な獣、輝く人、ミカエルやガブリエルという天使、暗号のような数字、戦争の場面、などイメージは明瞭でも細部は意図的に隠されています。(12:4、6)これらの幻は、近未来、救い主が来られる時、世の終わり、に起こる預言です。

主イエスも「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が聖なる所に立つのを見たならば」(マタイ24:15)と警告しておられます。また、パウロも、世の終わりに「自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け」る者が現れる(第2テサロニケ2:4)とダニエルの幻を念頭に言っています。
ダニエルの幻を要約すると以下のようになります。

 7章:4種類の獣の幻で今後の大帝国の興亡を預言。                                                                                   
 8章:2本角の羊と4本角のヤギの幻。人の子のような方の栄光。
 9章:ダニエルの祈り。エルサレムの未来の姿。
 10章:亜麻布と金の帯の人との出会い。70週。
 11章:北の王と南の王との戦い。聖所を汚す荒らす忌むべき者。
 12章:かつてない苦難。1290日。終わりまで歩め。

 ネブカデネザル王が2章で見た夢や、7章の4種の獣の幻は、バビロニア帝国の後、ペルシャ帝国が興り、次にギリシアが領土を広げ、やがてローマ帝国になることを預言しています。8章の雄羊と雄やぎの幻は、アレキサンダー大王の驚異的な進撃とギリシア帝国が4つの王朝に分かれることを予測しています。

11章には、北の王と南の王の争いの後、神殿が汚され、荒らす憎むべき者が神殿に立つことが預言されました(8:11、11:31)。それは、ギリシアのセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネス王によって紀元前167年に実現しました。主こそ、歴史の主権者です。

この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(7:14)


3、終わりまで歩む

 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。(10:11)

「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」10:19)

 ペルシアの王クロスの3年になると、ダニエルはもう高齢者です。ダニエルは宦官でしたから、妻も子供もいない寂しい老後を送っていたかもしれません。そんな時に主は、あなたは「神に愛されている人」だと励まして下さいました。

 ダニエルは輝く人に会いました。亜麻布の衣を着て、金の帯を締め、顔がいなずまのようで、目は燃えるたいまつのような人です。(10:5~6)この人物と良く似た人がヨハネ黙示録1:13~15に出てきます。

 主権者を認めて生きるとはどんな事でしょう。大切な人のために生きる。その人の愛を裏切らない。その人の考えを実行する。そんな生き方だと思います。

 ところで、ヨットレースや練習で海に落ちて死ぬ人がいます。冷たい0度の海に落下すれば15分以内に意識がなくなります。
 1988年9月24日、ソウルオリンピックのフィン級のヨットレースが釜山の海で行われました。カナダのローレンス・レミュー選手(Lawrence Lemieux、1955~)は2位で航行中でした。海は荒れ模様です。別のクラスで走行中のシンガポールチームの艇からジョセフ・チャンとショウ・ハー選手が海に落ちました。舟から20mあまり流されたジョセフ選手をローレンス選手が救出、彼はケガしていました。ショウ選手も助けてから試合に戻りました。22位でゴールしたのでメダルはありません。
 ローレンス選手の心には別の風が吹いていました。メダルより人命が優先。自己犠牲と勇敢さが評価され、彼にはオリンピックの特別賞が授与されました。

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(12:13)

 王と国々と歴史の上におられる主権者が神です。地上の権力者を恐れず、人々の目に屈せず、主だけをあがめましょう。困難な日々を送っていたとしても、あなたは神に愛されている者です。人生の終わりまで、あなたのヨットを走らせましょう。

 →あなたの番です
  □神は、世界と歴史の主権者
  □いつものように、主を礼拝しよう
  □恐れるな、主に愛されている者よ、終わりまで歩め

エゼキエル書


 預言者エゼキエルは、神に示された幻をテレビの現場レポーターのように生き生きと語りました。

1、バビロンで

カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。(エゼキエル書1:3)

祭司エゼキエルはBC597年、エホヤキン王と一緒に、約1万人の捕囚の一人としてバビロンに連れて行かれました。(1:2~3)その後5年たった頃、エゼキエルは預言者として召されました。大先輩のエレミヤがエルサレムで活躍し、同時期に、若きエゼキエルが異国バビロニア帝国で神の言葉を語ったのです。
ユーフラテス川の運河をケバル川といいますが全長100キロもある大運河で、その近くにユダヤ人居留地テル・アビブ(3:15)にエゼキエルは住んでいました。(イスラエルのテル・アビブは、1900年代初頭に作られた町です)

イザヤが預言者になった時もケルビムを見ましたが、エゼキエルも空飛ぶケルビムに圧倒され(1:4~25)、サファイヤのような王座と雲間に輝く虹のような主の栄光を見ました。(1:26、28)

エゼキエルは文書よりも映像の人です。ケルビム、神の栄光、偶像を拝む長老たちの姿、骨の再生、新しい神殿など、見主に見せられた幻を何回も書いています。

主はエゼキエルに、「反逆の家」に遣わすのだから「彼らが聞いても、聞かなくても」(2:5)神の言葉を語るように主に言われました。
神に立ち返れ、さもなくば滅びる。それがエゼキエルの初期のメッセージです。エゼキエルは主に命じられて行動でも神の警告を伝えました。左脇を下にして30日横たわったり(4:4~5)、菓子を牛の糞で焼いり(4:15)、おびえて水を飲んだり、壁に穴を開けて荷物を背負って逃げたり(12:5~7)、妻が死んでも喪に服さなかったり(24:16~18)などのエルサレム崩壊の姿を先取りして人々に伝えました。
11:22~23においては、神の栄光が神殿から去り、東の山のほうに移動する光景をエゼキエルは目撃しています。

エゼキエルの努力もむなしく、BC586年エルサレムは滅ぼされました。(33:21)


2、悪者の死を望まない

 それでは、神はエルサレムが滅びることを喜んでおられたのでしょうか。違います。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(18:23)

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――
だから、悔い改めて、生きよ。(18:31~32)

悪者が死ぬとほっとする。それが一般人の正直な感想です。主のお考えは違います。悪者の死を望まないのです。「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。」「悔い改めて、生きよ。」エゼキエル書の根底に流れる神の心は、悪者よ死ぬな、罪人よ滅びるな、です。

南米エクラドルの東、アマゾン川源流に住むワオラニ族に主イエスの福音を届けたい、自分の言葉で聖書を読めるように援助したい、そう願う若い5人の宣教師が1956年1月8日、彼らの毒槍で殺されました。外部の人間は自分達を殺して食べる種族だと思い込んでいたワオラニ族の人は常に好戦的でした。
レイチェル・セイントはこの事件で弟を失いましたが、彼女自身がワオラニ族に伝えたいと言葉を学び、仲間と村に入り、20年間そこで暮らし、彼らの言語に聖書を翻訳しました。主イエスを信じた村人は穏やかになり生活態度が一変しました。

あなたにとって「悪者」とは誰ですか。主は、悪者の死を願いません。あなたは、「悪者」のために何ができますか。<神は人の心を新しくできる>これは、エゼキエル書が何度も語る大事なテーマです。

 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
(36:26~27)

 神は人の心の中心に新しい霊を下さる方です。石のように硬い心を持つ「鉄面皮」(3:7)であっても、神は新しい命、新しい霊を私たちの内部に作って下さいます。干からびた骨になっても、神は命を再び与えることのできる方です。(37:1~14)

 柔らかい心、低い心になって、神の前に出ましょう。神は、悪者の心も変えてくれます。私たち自身の心も新しくしてくれます。


3、新しい神殿

 40章から48章までのテーマは神殿です。エルサレム神殿はすでに滅ぼされていましたが、神はエゼキエルに神殿の回復を約束し、新しい神殿を幻の中で見せてくれました。エゼキエルは、完成した神殿を歩くようなアリティーを感じました。各部分の寸法も分かりました。神の栄光は神殿に戻っていました。(41:4~5)
 エルサレムは山の頂上にある町ですから、神殿から泉が湧くはずはありませんが、確かに神殿の祭壇から水が流れていました。

 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。(47:1)

神殿から流れる水は、約500m進むと足首くらいの深さになり、ひざの深さ、腰まで、さらに行くと泳げる大河になりました。(47:3~5)この川は山岳地帯から東のヨルダン渓谷に下り、やがて海(死海)に届きます。すると、水質が変わり魚が住めるようになります。川の両岸は素晴らしい果樹園になります。

この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。(47:9)

これは何を意味しているのでしょう。主を礼拝する人が、神殿から出て行く光景です。私にはそう見えます。礼拝した人々が、周囲の人に愛を届け、正義を示し、喜びを与え、まわりの人に命が与えられます。

 ところで、イエスさまの時代になると、この神殿から流れる川をイメージした行事が実施されていました。秋の祭り、仮庵の祭りの最終日、大勢の祭司たちがシロアムの池で水を汲み、歩いて神殿まで運び、次々と祭壇に水を注ぐ儀式です。それは、エゼキエルの預言の成就を願う儀式です。その場面で、主イエスはこう語られました。
 
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)

主イエスを信じた人の心には泉がわき出るのです。生ける水の川です。その水は、主イエスを信じた人に命を与えます。また、主イエスを信じた人が周囲の人に潤いを与える人になります。

『クレージーラブ』という本を書いたフランシス・チャン牧師は、こういう礼拝をするそうです。賛美は10分、聖書の話は10分、それで終わり。数百名の礼拝者は、出かけていって、誰かを愛したり助けたり、耳を傾けたり、主イエスを伝えて数時間を過ごし、また教会に戻って恵みを分かち合う。

聞くだけでは何も変わりません。今週、行動してみましょう。あなたが行く所、あなたがいる場所で、あなたが「川」になりましょう。周囲の人を潤しましょう。あなたの心に流れ始めた命の川は、誰かに注がれるためにあるのです。

「この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」

 →あなたの番です
  □神は悪者の死を喜ばない。死ぬな!生きよ!
  □礼拝者のあなたが行動し、周囲の人を生かそう

哀歌


 エルサレムの滅びを記録したのが哀歌です。

1、滅びと苦悩

ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。(哀歌1:1)

 エルサレムは紀元前586年に滅びました。バビロニア軍に包囲され、食料が途絶えた頃に総攻撃をかけられ、多くの人が殺され、神殿は破壊され、町に火が放たれ、城壁が崩され、生き残った人々はバビロン捕囚として遠く異国へと移されました。
 その日を「最も悲しい日」としてユダヤ人は今も忘れません。「美の極みと言われた町」(2:15)、エルサレムは廃墟となり、かつての栄光は去りました。

彼女の仇がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。彼女の幼子たちも、仇によってとりことなって行った。(1:5)

「多くのそむきの罪のため」(5節)とあるように、滅びの原因は自分たちの罪にあるとユダヤ人は理解しました。哀歌は悔い改めに満ちています。先祖の罪、指導者の罪、自分の罪を何度も認めています。

主は正義を行なわれる。しかし、私は主の命令に逆らった。(1:18)
ああ、私たちにわざわいあれ、私たちが罪を犯したからです。(5:16)

エルサレム崩壊の出来事は、神がどんな方かを教えてくれます。神は予告されたら実行します。この事実は、世の終わりの最終的裁きは必ず来るという警告でもあります。

主は企てたことを行ない、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。滅ぼして、容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、あなたの仇の角を高く上げられた。(2:17)

哀歌にはエルサレムが包囲された時の悲惨さが書いてあります。かわいそうなのは子供たちでした、食べ物がないのです。(4:4)赤ちゃんを持つ母親は、その子を煮て食べました。(2:20、4:10)戦後の混乱時に、女性たちはバビロン兵によって辱めを受けました。(5:11)

私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。(2:11)

残された人は、川のように涙を流すしかありませんでした。

ところで哀歌は独特な文学形式を採用しています。ヘブル語本文で、1章、2章、3章、4章がアルファベットのアクロステックで書かれています。1ユニットの冒頭が英語でいえばA、次の文頭にB、次がCとなっています。5章は、ヘブル語のアルファベットの数である22節で終わっています。
たとえば、ドレミの歌の一部にアクロステック的手法が使われています。「んなときにも、つを組んで、んな楽しく、ファイトをもって」哀歌3章は特に手が込んでいて、3行のユニットの冒頭全部が同じアルファベットになっています。
『日曜大工のA to Z』という本があれば、それは日曜大工のすべてという意味です。エルサレム崩壊にともなう悲惨のA to Z、すべての悲しみを書き出した。それが哀歌なのです。

悲惨な事実をありのままに書く。悲しみとうめきと疑問のすべて書き尽くす。哀歌そのものをエルサレム崩壊の記念碑にしたのです。
すべて書く。そこには、悲しみを過去にする姿勢がみられます。すべて書き終える。そこに、前進しようという意志が感じられます。事実、ユダヤ人は、ユダヤ陥落の日を記念して嘆きの壁で今も悲しみますが、神殿再建を同時に祈っています。

あなたは大きな災難や苦悩の日々を経験しましたか。あなたの哀歌を書くことが過去の整理になります。未来への一歩ともなります。あなたの哀歌を書きましょう。


2、神のあわれみは尽きない

 1~5章はアルファベットの数のとおりに22節で終わっていますが、3章だけが3倍の66節になっています。内容的にも一番大事な章です。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
(3:22~24)

廃墟を見る。それは、悲しく辛くみじめな経験です。けれども、生き残った人だけが廃墟を見るのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。」この恵みとは、神の愛とも訳せる「ヘセド」という言葉です。滅びなかったのは神の愛があるからです。

主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
(3:25~33)

25~33節は、そのまま味わいましょう。苦しみの中に希望があります。

ところで、脳の機能解明が進んでいなかった1953年、野蛮な手術が行われました。頻発するてんかん発作の治療のため脳の一部を切除したのです。発作は直りましたが、その人の11年分の記憶が失われました。
あなたの悲しみの記憶を外科手術で消せるかもしれませんが、消してもいいですか。たとえ痛みの記憶でも、それはあなたの一部です。あなたの優しさは、痛みを経験したから身に付いたはずです。涙を知っている人だから、優しくなれたのです。

私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(3:40~41)

今、あなたは廃墟を見て意気消沈しているかもしれません。主に立ち返りましょう。主に心を向けましょう。主を信頼しましょう。身近な人を愛しましょう。

 →あなたの番です
  □自分の哀歌を書いてみよう
  □廃墟に立てるのは、生かされているから
  □主を信頼しつつ、誰かに優しくしよう