マルコ14:66~72 鶏が二度鳴く前に

   痛恨の失敗。それは、体も心も世間体も人生もバラバラにするほど辛いですが、最も大切な事柄を学べる宝のような体験にもなり得ます。
 今日は、ペテロが主イエスを3度否んだ場面を見ていきましょう。

1、一度目

ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。(66~68節)

女中はペテロをまじまじと見つめました。ペテロには、女中の鋭い視線が痛かったでしょう。女中は、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」(67節)と言いました。それを聞いてペテロは、とぼけました。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」(68節)

 「あのナザレ人」という言い方には、嘲笑、侮蔑の気持ちが込められています。現代風に言えば、まさか、あんたはクリスチャンじゃないよね。奇跡や復活なんて現代社会で信じているやつは、よっぽどの間抜けだな。そう誰かに言われて、自分がクリスチャンだと言えないなら、ペテロを笑えません。
 
 笑いものになるのが怖いので、自分の信仰をうやむやにする。それが、主イエスを否定するきっかけになります。

 クリスチャンで宮内庁の高官という方がおられました。皇室との関わり、神道の伝統、その中でクリスチャンとして歩むことはさぞ困難でしょうと問われると、彼はこう答えました。「そうです。中途半端なキリスト教では守っていくのは難しいです。でも、本当に熱心なキリスト教信仰ならば、貫くことは難しくはありません。」

キリスト者であるという旗印を鮮明に掲げましょう。


2、二度目

すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。(69~70節)

女中は近くの人に言わずにおられません。「この人はあの仲間です。」(69節)ペテロは再び打ち消しました。

 女中一人ならなんとかやり過ごせました。でも、複数の男たちが女の話を聞き始めたのでペテロは恐ろしくなりました。火に当たっていた人々は、主イエスをさげすむ人々だったので、ペテロは窮地に追いやられました。

私たちが主イエスを否定するようになる第二のきっかけは、自分が少数派になった時です。

 →「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)



3、三回目

しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。(70~71節)

女の話を聞いた複数の男たちが、ペテロの存在に気づきました。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」(71節)あなたはあの男といっしょにいた。間違いない。ガリラヤなまりの言葉が動かぬ証拠だ。

ヨハネの記述によると、ペテロに耳をそぎ落とされた人の親戚がそこにいたようです。(ヨハネ18:26)この場を収拾するには非常に強く否定するしかありません。リビングバイブルは71節をこう訳しています。「そんな男のことなんか、知るもんか。これがうそなら、どんなばちが当たってもかまわないぞ」のろいをかけるとは、そういうことです。

主イエスを否定する第三のきっかけは、自己保身です。



4、鶏の声

するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72節)

ペテロは数時間前に何と言っていたか思い出しましょう。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

ペテロはみごとに失敗しました。

大好きで、尊敬してやまない、どこまでもついて行きたい主イエスを、3度も否定したのです。あれだけ見栄を切ったのに、自分のふがいなさに激しく泣いたことでしょう。

ところで、4つの福音書の成り立ちは、マルコの福音書が最初に書かれ、それを参考にマタイやルカが独自の視点でまとめ、かなり時間がたった後それまでの福音書に取り上げられてない部分をヨハネが補ったと考えられます。4つの福音書全部が記録している部分は案外少なく、バプテスマのヨハネ、5000人の給食、ゲッセマネの祈りやピラトの裁判、主イエスの十字架などが共通する部分です。
それ以外では、ペテロのつまづきの予告とペテロが3度イエスを否むという箇所が福音書4つに共通している箇所なのです。主イエスの福音を記録するとき、ペテロの失敗はどうしても詳細に書かなければならない重大事項なのです。それは、ペテロの失敗が、ペテロ一人の失敗ではなく、弟子の誰にとっても身に覚えるのあることで、また、聖書を読む人すべてに当てはまる弱さだからです。
主イエスは、そんな弱さのあるペテロを見捨てず、赦し、愛し、励まし、再び立ち上がらせました。これこそ、福音が人を生かす実例なのです。主イエスが私たちに伝えたい大切なメッセージなのです。
あなたは弱い。そんなこと最初から分かっている。あなたを強くするのはわたしだ。名前の通りの「ペテロ=巌」にするのはわたしだ、と主イエスは言っておられるのです。

ある中学1年の男子は、夏に主イエスを自分の救い主として信じました。お母さんが筋金入りの気合の入った信仰者だったので、年末になると。「あんた、クリスチャンになったんやったら元旦礼拝やろ。お父さんと勝負してきいや」と言いました。それまでは、父親が長男を連れて初詣にお寺や神社に行くのが、その家のならわしでした。
「僕は、夏の教会のキャンプで、クリスチャンになる決心をしました。だから、悪いけど、明日はお寺でなくて、教会の礼拝に行きたいです。」「お前は俺が育てているんだ。成人したら何を選んでもええ。けど、今は俺の言うことを聞け」少年の目からぽろぽろ涙が出ました。主よ、何と言ったらいいのですかと祈りながら精一杯言いました。「僕は生まれて初めて自分で決めました。間違った信仰なら引きづり戻しても構わないけど、今僕が信じたこと、自分が決めたことを信頼してくれへんか」
お父さんは、しばらく黙りました。そして、「行ってええぞ」と言ってくれました。後で聞いたことによると、「あいつが本気で俺に勝負してきた。それが嬉しかった」とお父さんがお母さんに言ったそうです。

あなたも、本気で勝負しませんか。

→あなたの番です。
□笑われても、主のしもべとして生きていこう
□少数派になっても、主を愛していこう
□自分にマイナスになろうとも、誠実に生きよう
□主イエスは、弱い私を必ず立ち上がらせてくださる

「わたしは、あなたの信仰がなくらならいように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

マルコ14:53~65 主イエスの裁判

裁判とは、真実は何かを明らかにする場であるはずです。でも、主イエスの裁判はそうではありませんでした。

1、深夜の裁判 (53~59節)

大祭司の家で主イエスの裁判が行なわれました。大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる予備的な取調べはすでにこのとき終了していました。(ヨハネ18:12~24)
ユダヤの最高決議機関、兼、裁判所をサンヘドリンがこの夜、臨時に召集されました。議員定数は70人、祭司や律法学者、長老たちが主な構成員で、議長は大祭司でした。ミシュナーのサンヘドリンに関する規定には、夜の裁判と大祭司の家で裁判は禁止されていました。大祭司たちは主イエスの支援者や群集による騒ぎを恐れ、死刑を急いだからでしょう。

ペテロは、一度は主イエスを見捨てて逃げましたが、ヨハネの道案内で(ヨハネ18:15)大祭司の庭に入って主イエスの様子を伺っていました。

この裁判は不当でした。なぜなら、判決が先に決まっていたからでした。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。」(55節)

裁判とは名ばかりで、死刑という結論ありきで、理由付けの場に過ぎませんでした。多くの人が偽証し、主イエスは死刑に値すると語りましたが、辻褄が合いません。議員たちは知識階級なので、矛盾した理屈で判決を下すのには自尊心が許しませんでした。

ひどい裁判だと誰もが思います。でも、私たちも似たようなことをします。あの人が何となく嫌いだと結論を出してから、悪い理由をあげつらいます。
もう少し、公正な立場を取って、人と接してみませんか。



2、沈黙する勇気 (60節)

ひどい偽証が出てきても、どんなに自分が不利な立場に立たされても主イエスは一切口を開かず、弁明しようとしません。大祭司が何か話せと強く挑発しても主イエスは黙っておられました。
イザヤの預言の言葉を思い起こします。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

ペテロが後に手紙を書いたとき、主イエスの沈黙に特に注目しています。
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:23)

沈黙には力があります。正しくさばかれる方にお任せしたときの沈黙はとても強いものです。悪の饒舌さは、正義の沈黙に勝てません。
あなたも、正しいからこそ、沈黙を守るときがあるかもしれません。



3、語る勇気 (61~65節)

そこで、大祭司は最後の切り札を使いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(63節)

主イエスはこう答えました。
「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62節)

「わたしは、それです」と訳されていますが、ギリシア語で ego eimi となっています。英語に直訳すれば、I amになります。この言い方は、出エジプトで神がご自身の名をモーセに教えたI am that I am(出エジプト3:13~14)と同じことになるので、大祭司は猛烈に怒ったのです。ありてある者、ご自分の存在が他に依存しないお方、それは神以外ほかにはおられないのです。主イエスはまことの神、まことの救い主です。ハレルヤ。
ステパノが殉教するとき、神の右の主イエスを見ていました。(使徒7:56)

主イエスは、どんなに自分に不利な状況でも、私だ、と言われました。それを言えば死刑だと分かっていても、はっきりと、私だと言われた方です。

1942年6月26日、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師は治安維持法違反の容疑で逮捕され、厳しい取調べを受けました。聖書によればすべての人は罪人というが、相違ないか、との質問を受け、菅野先生は、相違ありませんと答えました。天皇陛下も罪人かとの問いに、一国民が陛下に関して云々することは畏れ多いことですが、陛下が人間であるならその通りです、と答えました。天皇陛下も主イエスの十字架による罪のあがないが必要かとの問いにも、その通りですこと答えました。
菅野牧師は1943年12月に獄死しました。肺結核でした。菅野先生は、主イエスの後に従う誠実な信仰者だったといえます。

主イエスは、裁判で真実を言う勇気をお持ちでした。その答えが何を意味するか十分覚悟の上での発言でした。十字架の道をまっすぐに進む覚悟でした。


大祭司は、主イエスの答えを聞いてそれ見たことかと大げさに自分の着物を引き裂き、冒涜罪での死刑を議場に求めました。自分を神の子と言ったぞ。メシヤと表明したぞ。父なる神と自分を同格に置き、神の右に座すと言った。雲に乗って来るとまで言った。これは、明らかに冒涜だ。死刑に値する。
議員たちは、無批判に大祭司に同調し、死刑を決めました。その場にいた人々は主イエスに暴力を振るい、主イエスをはずかしめました。

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。(マルコ14:65)

弱い者を標的にしていじめるのは子供ばかりではありません。私たち大人も、寄らば大樹の陰とばかりに、多数派に寄りかかり弱者を苦しめることがあります。
主イエスを辱めた人々は、実は私たちの姿です。卑怯ないじめをしてきた私たちの罪をゆるすために、主イエスはその罰を受け、いじめられる者の一人となられたと考えることもできます。


→さあ、あなたの番です。
□時を見極め、勇気ある沈黙を選ぶ
□胸を張ってキリストをあかしする
 □いじめに加担せず、先入観から離れて人と接する



マルコ14:51~52  ある青年の記録

1、ある青年がしたこと

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51~52)

 主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時、十二弟子は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。主イエスが大祭司のところに連れて行かれる途中、一人の青年がその後をつけました。周囲の人は、この青年も主イエスの仲間だと気づき捕らえようとしました。身の危険を感じた青年は駆け出しましたが、身に付けていた亜麻布が邪魔になり、それを脱ぎ捨てて裸になって逃げたのです。

 それだけの出来事です。実に唐突に書かれています。他の福音書には見当たらないマルコ独自の記録です。


2、記録に残った謎

 さて、この青年は誰なのでしょう。そして、この短い記述は福音書に記録するだけの値打ちがあるのでしょうか。

 「イエスについて行ったところ」(51節)と書いてあるので、主イエスを信じ尊敬していた事に間違いはありません。けれども初心貫徹はなりませんでした。
この青年を笑いの種にする目的で書いたのでしょうか。あり得ません。主イエスのもとから逃げ出した十二弟子は例外なく全員がみっともなかったはずです。


この出来事の性質上、自分から打ち明けなければ誰にも知られない話です。青年が自分からこの話をしたとしか思えません。
また、この人物を匿名にしたいなら「ある人物」と書けばよいのですが、「青年」と書きました。かえってその人物が誰なのか絞り込めるようにしています。匿名にしながら、むしろ素性を明らかにしているという両面性があります。
 
 そこで、この青年が誰か、一番の可能性は、著者のマルコ自身になります。マルコの住まいがエルサレムにあったこと。(使徒12:12、1:13~15、「二階の広間」マルコ14:15)青年だったこと。マルコの福音書が最初に書かれたのに、他の福音書がこの記事をあえて省いたこと。この出来事が唐突なこと。それらが、青年がマルコであったという高い蓋然性を示しています。


3、マルコの心

 この記事が書かれた理由は推測するしかありまえん。ただ、はっきり言えることは、マルコがこの記事を書かねばならないと思っていたことです。

 青年の行動は、誰に迷惑をかけたわけではない。誰かが傷ついたわけでもない。でも、青年は知っています。私は、主イエスを見捨ててしまった。最後まで主イエスについて行くことができなかった。後悔とみじめさ、自責の念。それらが、この数行に凝縮されています。

 マルコは自分の汚点をしっかりと記録に残したかったのでしょう。誰から言われたわけでもなく、自発的に書きました。自分の失敗を認める自発性。それは尊い、勇気ある行為です。
 マルコは、言い訳を一つも書いていない。事実だけを書いた。それが悔い改めの原点です。逃げ出した事実を書いただけですが、このみじめな事実を書けること自体が、この失敗を乗り越えているという印です。

 オランダ人の画家、レンブラントも同じようなことをしました。十字架に掛かる主イエスの絵の下のほうに、時代考証に反したベレー帽の男を描いています。主イエスを十字架にかけたのは私だと言いたいのでしょう。映画「パッション」を監督したネル・ギブソンも、手のひらに釘を打つ場面で自分の手を大写しにして使いました。それも同じ意味です。
 パウロも、「私はその罪人のかしらです」(第1テモテ1:15)と言い切りました。

 あなたにもあるはずです。裸で逃げた夜が。みっともない失敗のこと。主イエスを裏切るような行動があったはずです。

マルコは、「ある青年」の出来事をまるで暗号のようにして聖書に記録しました。同じ経験をした人にだけ分かる暗号です。
主イエスは、「裸で逃げた経験」を用いて、あなたをきよめ、あなたを愛のある人にし、謙遜にさせてくれるとマルコは言いたいのでしょう。

あなたや私のみっともない事柄を全部公にしなさいなどとは言っていません。そういう経験を暗闇に葬るのでなく、大切に取り扱いましょう。「裸で逃げた経験」は主イエスの愛とあわれみを体験するための注ぎ口になります。裸で逃げた経験が大きければ大きいほど、主の愛を受ける注ぎ口は広くなります。だから、大切にしましょう。うなだれても、胸をたたいて、主イエスのもとに行きましょう。主イエスも、あなたが裸で逃げた経験を知っていても、あなたを見捨てることはありません。

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)


 あなたの番です。
 □あなたにとって「裸で逃げた経験」とは何ですか。
 □「裸で逃げた経験」を見つめ、主イエスの愛を味わいましょう。

マルコ14:43~50 人生道路でのアクシデント

   信号で停車しているとき、後ろから追突されたらどうしますか。怒鳴り散らしますか。パニックになって泣きますか。友達に電話をかけまくりますか。茫然自失、座り込んで何も言えなくなりますか。

今日は、主イエスが逮捕される場面です。ユダは、主イエスは、弟子たちは、それぞれどんな対応をしたのでしょうか。

1、口づけで裏切るユダ

そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。(マルコ14:43~47)

ユダは、今だと思ったのです。主イエスがゲッセマネの園で長時間祈ると察知しました。それで、大祭司のもとに行き、ゲッセマネで捕まえろと指示しました。
夜も深まり木立の暗がりでは顔の判別は不可能です。誰が主イエスかを教える手段をユダが考えつきました。

「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」(44節)

この時のユダは、グループの首謀者のように動いています。しくじるなよ、しっかりと捕らるんだ。俺の合図を見逃すなと言っているようです。

裏切るときは事務的に実行するものです。自分の心を覗いてしまうと、躊躇するからです。

あなたがユダになる、そんな場面は来ないと思います。でも、もし、罪の誘惑が来たときは、あなたの良心に目隠しをしてはいけません。冷酷で、事務的になってはいけません。心が痛いという感覚を大事にしましょう、魂のアラームに耳を傾けましょう。



2、毅然と立ち向かう主イエス

イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(48~49節)

主イエスの周囲には、違う風が吹いていました。
主イエスは、実に冷静でした。私は強盗ではないから、剣や棒をもって捕まえに来る必要はないと言われました。また、毎日神殿で教えていたのだから、そこで捕まえたほうが簡単だったはずだとも指摘されました。

「わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。」捕まえに来た群衆は明かりを持って来ていたので、主イエスは自分を縛る人たちの顔を見ることができました。主イエスは、「あなたがた」と言っておられます。突然のアクシデント、最悪の事態になった時にも、相手の一人一人に目と留める余裕をお持ちでした。
あなたは、敵の目が見えますか。相手の顔が見えているなら、あなたは大丈夫です。

「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(49節)

父に祈った主イエスは、準備が完了していました。父なる神のみこころが分かっていたので、こんなにも冷静に毅然としておられたのでしょう。私たちも、祈りの中で主の助けをもらいましょう。
箴言の次の言葉は、ちょっと不思議な言葉です。事態がどうなっているか冷静に分析しただけのように見えますが、私たちは納得します。「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)主イエスのように毅然とできないなら、私たちは弱いのです。
主イエスのように、祈って備えることができていないなら、アクシデントの真ん中で主の助けを求めましょう。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)



3、逃げ出す弟子たち

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(50節)

弟子たちは、主イエスが逃げられるように、自分たちに敵を引き付け、さあ、逃げてくださいと叫ぶこともできました。この逮捕は不当だと強く抗議することも可能でした。最後の方法は、私も捕まえろ、私も主イエスについていくという手段も取れました。

でも、何もせずに、逃げました。ペテロだけは剣を取り出し、あわてて防戦しました。(ヨハネ18:10)ペテロの狙いはそれて致命傷にはならず、耳を切り落としただけでした。被害者は大祭司のしもべでした。

実は、剣はもう一つあったのです。ルカ22:38によると、剣は二本でした。ヤコブかヨハネが持っていたのかもしれません。でも、剣は鞘から抜かれることはありませんでした。剣を抱えていた弟子は後で強く悔やんだはずです。結局、10人全員が逃げてしまいます。自己保身。やはり自分が一番大事だったのです。

私たちは弟子たちを裁けません。同じ失敗をする可能性があるのです。

主イエスは、弟子たちを責めていません。怒ったり、叫んだりしません。主イエスは知っておられたのです。弟子の弱いことを。同時に、主イエスは信じておられたのです。この失敗は、失敗で終らない。必ず、立ち上がる日が来ると。

オランダにハンス・モンダーマン(Hans Monderman, 1945-2008)という交通分野の技術者がいて、Shared Spaceという概念を提唱し、実行に移した方がいました。オランダのある地域で信号機、交通標識を取り払い、歩道との段差をなくし、センターラインも停止線も消しました。その結果どうなったでしょう。車の運転手は、歩行者や自転車に乗る人の顔を見るようになり、交通事故が激減したそうです。実績が評価され、ヨーロッパの他の地域でも導入されるようになりました。

人生という道路では、交通事故が起きます。ユダのように誰かを裏切って、傷つけることがあります。自分は悪くないのに、人にぶつけられることもあります。道義的にはそこに残るべきなのに、自己現場から逃げ出すようなこともします。
身近な人の顔をよく見ましょう。ごめんなさいを言い、ありがとうを伝え、自分の力不足を感じたときは主の御顔を見上げましょう。人生という道路で事故が起きたとき、落ち着いて事後処理ができるように、普段から祈り、備えていましょう。

→あなたの番です
□アクシデントが起きたとき、あなたの真価が問われます
□主イエスに最後までついていきましょう
□あなたを信じて何も言わない主イエスの御顔を心に刻みましょう