詩篇40篇 泥沼から賛美へ


 神を主語にする。それが大きな違いを生みます。

1、泥沼から救い出されて

 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。(1~2節)

 絶体絶命。ダビデは追い詰められ、切なる心で主の助けを待ちました。すると、レスキュー隊が遭難現場から引き上げるように神が鮮やかに救い出して下さいました。ダビデの歩みは、これを契機に一変し、盤石の人生となりました。
 この経験を私たちに当てはめてみるなら、主イエスを信じて罪赦され価値観が変えられた時と言い換えてもよいでしょう。

 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(3節)

 ここを読むと、賛美すら神が私たちに授けて下さるものだと分かります。

 1~2節を見直して下さい。ダビデは、神を主語にして、神がして下さった事を描いています。このシンプルな言い回しが信仰を強めるのです。私を主語にしているだけでは物事の本質が見えません。
 先週一週間を振り返って下さい。漠然と振り返ると、普段と変わりない一週間かもしれません。でも、神を主語にして思い返すと、違って見えてきます。

 つい数日前ですが私たちは、結婚後11回目の引っ越しをしました。主は素晴らしい方で、当日の天気は曇りで引っ越し日和、ベテランの引っ越し業者の技に感嘆し、差し入れられた食事を感謝して食べました。神さまが引っ越しのすべてを導いて下さったことが分かりました。
 あなたも神を主語にして、人生を振り返ってみましょう。

 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。(5節)



2、神の恵みを告げる

 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。(7~10節)

 神によって泥沼から救い出されると、聖書の読み方が変わります。「巻物の書」つまり聖書の言葉が生き生きとして迫って来るので、聖書に自分の姿が書かれていることに気づき、神のみこころを行いたいと願うようになります。
 
 神を主語にして人生を振り返ると、神の恵みを語りたくなります。「告げる」という言葉が5、9、10節に繰り返されているのはその自然な成り行きです。

 私たちも、ダビデと同じようにしましょう。救われた経験を未信者に語り、神がして下さった恵みをクリスチャンの仲間に分かち合いましょう。「私は私のくちびるを押さえません」とダビデは言っています。神の恵みは語らずにはいられません。



3、それでも来る災い

 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください。(12~13節)

 泥沼から救い出された決定的な経験をし、神を賛美し神の恵みを伝える生活をしていても、災いは襲ってきます。「数えきれないほどのわざわい」が私たちの人生にやってきます。また、自分の罪の現実にがっかりすることがあります。
 ケガ、事故、病気、悲しみ、試練、失敗を経験しても、神を主語にすると、違って見えてきます。ケガしたけど死ななかった。事故にあったけど、最小限で済んだ。神を主語にしつつ、主に助けを求めましょう。

 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。(17節)

 17節でダビデは再び神を主語にしています。今回は、神を主語にしてbe 動詞で受けています。これは、神がどのような方かという説明になります。神は私の助けです。これが神を賛美する言葉、また、信仰告白の言葉になります。

 たしかに私たちは悩む者であり、貧しさや弱さを持ち、様々な悩みに直面する者たちですが、主は私の助けなのです。悩みの真ん中で、神を主語にしてbe 動詞をつなげて神の素晴らしさを賛美しましょう。

 ローラ・モーク宣教師(Laura Mauk, 1886-1962)は1914年、28歳の時に日本にやって来たオクラホマの女性宣教師です。第二次世界大戦になっても日本を去らず、抑留施設に強制収容され約3年を過ごしました。当時のモーク宣教師は50歳を過ぎていました。米軍の空襲が激しくなる中、施設の係官が防空壕を掘り始めたので、私のための防空壕なら必要ありませんと彼女は断りました。私は自分の上に爆弾が落ちるように神に祈っています。そうすれば、愛する日本人、特に子供たちが一人分は死ななくてすみます。そのように答えたそうです。
 日本が降伏し抑留施設から開放される喜びもつかの間、全員が殺されるとの噂が流れ、ミス・モークも強く動揺しました。そんな中、主イエスの姿を部屋の中で見出し、恐れるな、わたしを見ていなさいという励ましを受け平安を取り戻したそうです。

 神を主語にしましょう。過去の事柄も、現在の問題も、将来の計画も、神を主語にしてとらえ直しましょう。主イエスはあなたを愛し、あなたのために命を捨てて助けてくれた方です。今も将来も決して離れないと約束した方です。今、どんな苦しみの中にあっても、主はあなたの助け手です。

 →あなたの番です
  □神を主語にして文章を作りましょう
  □その内容を人に伝えましょう
  □主こそ私の助けです


詩篇39篇  私の齢


 今日までのあなたの人生を本にして出版するなら、どんなタイトルを付けますか。
 『恵みの足跡』、『感謝!』、『新しくされた私』、『希望をもらって』という明るいタイトルを付ける人がいます。もう一方で、『報われなかった日々』、『曲がりくねった道』、『辛抱』、『踏みつけられて』、『滑落事故』という感じの人もいるかもしれません。
 ダビデは詩篇39篇で、人生の暗い面を直視しました。

1、苦しみ多し

 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。(1~3節)

 私たちの人生、私たちの道は何によって方向づけられるのでしょう。それは、口です。それでダビデは黙ることにしました。悪者の前で本音を言ってしまうと自分自身が罪を犯すと予測できたので、悪者に対する怒りのマグマを心の底に押し込み黙ることにしました。「それで私の痛みは激しくなった。」心は煮えくり返り、爆発寸前の火山になってしまいました。
 上司の悪事を暴露したいが、言えば自分が解雇されるかもしれない。人生の苦しみはこんな所に表れます。あなたの人生、辛いですか。


2、むなしい

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(4~6節)

 「私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」ダビデは人生を俯瞰しようとしました。自分の人生全体が見通せれば、自分の齢の終着点が分かれば、どうふるまうべきか覚悟ができます。でも、私たち人間は、100歳まで生きるのか、明日事故や脳卒中で死ぬのかは誰も分からないのです。

分かることは私達の人生が「手幅」ほどのわずかな年月だということです。ごくわずかな人以外、すべての人は歴史に名前を残すことなく死んでいきます。一生懸命働いて蓄えても、積み上げても、それらはいつか人手に渡ります。
心血を注いで一代で財を成した人が、我がまま息子に社長職を譲って死んでいくのは辛い事だと思います。あなたは、人生のむなしさを感じていますか。


3、罪多い日々

私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。まことに、人はみな、むなしいものです。セラ (8~11節)

世間の矛盾に苦しめられる日々も人生ですが、自分自身の罪に苦しみことも人生です。罪を犯せば、神から責められて罪意識がうずきます。罪をまけば、罪の刈り取りが待っています。
「私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。」と祈るのは自然のことです。神だけが罪の解決者だからです。


4、旅人

私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。(12~13節)

ダビデは、自分が旅人のように安定感を欠いた立場にいることに気がつきました。外国に身を寄せた寄留者のように心細くなったのです。
そこでダビデは神に祈りました。神がダビデの心を晴れやかにしてくれると信じました。


 このようにダビデは詩篇39篇で人生についての思索を深めました。悪者の前で黙しながら人生の矛盾に苦しみました。自分の齢が見極められぬまま、人生のむなしさを実感しました。罪多き自分を直視しました。孤独な旅人である自分を見据えました。こんなダビデに希望はなかったのでしょうか。いいえ。あります。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(7節)

この7節は39篇で鍵になる言葉です。社会にも自分にも希望を見出すことはできませんが、神には希望があるのです。不条理な世界で苦しんでも、はかない命であっても、罪を犯してしまう自分であっても、神は私を見捨てません。神は、私たちの罪を赦し、私たちから決して離れません。どんな人生でも、どんな社会でも、どんな未来でも、どんな立場であっても、神は私たちに希望を与えてくれる存在なのです。
私たちは、神を待ち望みましょう。私たちの望みは、神ご自身にあるのです。有限で、空しく、汚れて、一時的な私たちも、永遠の神とつながるなら一つ一つの事柄が永遠に価値あることに変わります。神への希望こそ、最も価値ある希望です。

→あなたの番です
 □私の人生全体を大きな目で俯瞰してみよう
 □どんな時にも、望みを主に置きましょう


詩篇38篇 責めないで


 罪を犯した後の苦悩が描かれているのが38篇です。

1、突き刺さった矢

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。
あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、
私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、
私には重すぎるからです。(1~4節)

 ダビデは、罪を犯し、罪意識に押し潰されました。
 罪意識とは何でしょう。あなたは間違った事をしたと教えるために、神が放った矢です。その矢は容易に抜けません。やがてダビデは健康を害し(3節)、大きな重荷(4節)に押し潰されそうになります。
 動物は、他の動物から獲物を奪っても罪意識に苦しめられることはありません。人間は違います。人間の罪意識は、神がおられることの一つの印ではないかと私は考えています。神は人間に罪意識というセンサーを植え付けられました。誰にも知られていない罪であっても、罪は私たちの心を苦しめます。

 一般的に中学生や高校生は自分が自己中心だという事に気づかずに生きています。ある女子高校が礼拝に通い始めて、一番はっきり気づいたことは、自分に罪があるということでした。
 神は、今日、弓矢を放って、あなたの心を刺しているかもしれません。



2、うなだれて

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(5~6節)

 罪を犯すと周囲の人を傷つけますが、同時に自分自身にも傷が残ります。(5節)。適切な処置がなされない傷は、やがて化膿して悪臭を放ちます。傷と化膿した悪臭が、後悔の念であり、幻滅、うなだれ、嘆きとなります。

 今日、あなたの罪の傷は適切に処理されていますか。



3、愛する者の離反

主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、
私の嘆きはあなたから隠されていません。
私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、
目の光さえも、私にはなくなりました。
私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、
私の近親の者も遠く離れて立っています。
私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、
一日中、欺きを語っています。(9~12節)

 あなたの隠れた罪が周囲の人に明らかになると、別な問題になります。他人はあなたをさげすみ、理解してくれるはずの身近な人(11節)まで離れて行きます。つまり、罪の問題は孤独の悩みを引き連れてきます。

 サッカー女子ワールドカップで日本はイギリスと戦い、2対1で決勝に進みました。日本選手がゴール前に絶妙なパスを出し、ディフェンダーのローラ・バセットが必死にクリアして蹴ったボールが自分が守るべきゴールに入ってしまいました。いわゆる、Owen Goalとなりそれが決勝点になりました。試合後、彼女は泣き崩れて自分のミスを嘆きました。
 もちろんローラの場合は罪の問題ではなく、試合上のミスにすぎません。彼女のツィッターには、励ましの言葉がたくさん並びましたが、イギリスに帰ってくるな、という感情的な言葉も多数ありました。あなたが、ローラだったらどうでしょう。

 ダビデは、自分が犯した罪ゆえに、孤立し、親しい者からの保護や応援さえ失いました。あなたは罪ゆえに孤独になっていませんか。



4、神を待ち望む

しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。
それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。
わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。
私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、
私に対して高ぶらないようにしてください。」(13~16節)

 ダビデは、人の評価を聞かないことにし、無駄な弁解も止め、神だけを待ち望むことにしました。

 私の罪を鋭い矢で警告したのが神ですが、私の罪を完全にゆるして癒してくれるのも神なのです。人々は私の罪のほんの一部を知っただけで去って行きますが、神は私の罪の全貌を知っていても見捨てません。
 罪を犯した時は、神を待ち望みましょう。



5、離れないで下さい

私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。
しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。
また、善にかえて悪を報いる者どもは、
私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。
私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。(17~22節)

 まことの神がおられるので、罪の赦しと心の平安は必ず得られます。ただし、罪の赦しのプロセスは38篇のような心の葛藤は避けられません。
 
 「私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。」(21節)とダビデは祈りました。神はダビデから本当に遠くに離れてしまったのでしょうか。罪と罪意識の暗闇がダビデの目を曇らせ、近くにおられる神が見えなくなったのだと私は思います。

 どんな罪であっても、神は赦して下さいます。罪の苦悩と孤独がどんなに深くても、神は、あなたをご自分の子のように扱い、あなたのそばを離れません。

 主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)


 →あなたの番です

  □神は罪を指摘される方です
  □罪を犯したら、神を待ち望みましょう
  □神は決して見捨てない方です