ルツ記4章 男の中の男、ボアズ

1、みごとな男、ボアズ (1~12節)

 まず、1節から12節まで読んでみましょう。ボアズという人は、ほれぼれするような男です。

 一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」彼は立ち寄ってすわった。それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください。」と言ったので、彼らもすわった。そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分のはきものを脱いだ。そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」(ルツ記4:1~12)


1)明確な優先順位

 「ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。」(1節)ボアズは、大事な事を先延ばししない。何が一番大切な事か、分かっている。だから行動が早い。朝早くから、門の所である人物を探していた。それが、「ちょうど」という偶然を引き寄せた。

→あなたの最優先事項は、何ですか。

2)真正面から正攻法

 「ボアズは、彼にことばをかけた」(1節)ボアズは、陰に隠れて、策を弄しない。人をだますやり方を選ばない。直接、交渉すべき人物とコンタクトを持つことは、何よりも大事。もっとも勇気が必要とされる生き方です。そして、これは問題を複雑化しない賢いやり方です。

→あなたが直接話すべき人物は誰ですか。

3)緻密な計画力

 「ボアズは、町の長老十人を招いて、『ここにおすわりください。』と言ったので、彼らもすわった。」(2節)買い戻しの権利者の順位がどうなっているかボアズは調査済みだった。ボアズの兄か、義理の兄が権利を持っていたようだ。土地売買を成立させるため長老10人の承認が必要だと分かっていたので、相手がどこにいるか、使用人に連れて来させたのだろう。十分考え、何度も練り上げたはずだ。

→からまった問題を解決するため、考える時間を取っていますか。

4)優れた交渉力

 「死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません」(5節)ボアズは、まず、土地の売買を議題にして交渉を進め、権利者が買う意思を示した段階で、ルツと結婚する義務が生じると説明した。ボアズはどんな手順で話すべきかを心得ていた。
 買い戻しの権利のある親類は、ルツと結婚するのは良いが、息子が生まれたとしてもエリメレクの名を継ぐのであり、買い取った土地は自分の手を離れることに気づいたのです。

→出たとこ勝負ではなく、本番にそなえて何度も練習しよう。

5)安定感

 その朝のボアズは、感情的混乱がなく、交渉相手に強い圧力をかけた様子もない。怒りもないし、卑屈な態度もない。実に安定しています。主がお許しにならないなら、諦める覚悟すら伺えます。「もし、それを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。」(4節)穏やかに物事を運べる。それが、何よりも効果的な交渉条件です。
 ボアズの信仰は文字として記録されていませんが、ボアズの言動(2:4、2:12、3:10、3:13)から、彼が主を敬い、主を信じ、主と共に歩んでいた事は容易に想像できます。

→自分の心を計る温度計を使って、こころが安定しているか点検しましょう。

 ボアズが持っていた特質のうち、あなたが身に付けたいと思うのはどんな点ですか。
優先順位、真正面からの取り組み、計画力、交渉力、安定感、主への信仰、どれですか。


2、孫が生まれた祝福 (13~22節)

 「主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」(13節)子供の誕生は、主の御手の中にあることです。男の子が生まれたことにより、エリメレクの家系は安泰となりました。「あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。」(14節)

 「オベデはダビデの父エッサイの父である。」(17節)マタイの福音書の筆頭に掲げた家系図には、「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」(マタイ1:5~6)とある。男性中心の系図に、外国人女性ルツの名前が書き込まれているのは、ルツの信仰を極めて高く評価しているからです。

 ベンジャミンは1951年デトロイトの貧しい家に生まれました。みんなにベンと呼ばれた男の子は、小学校で一番のまぬけと呼ばれました。落ち着きがなく、すぐ怒り出す子でした。学歴が小学校3年しかないシングルマザーのソーニャは、そんな息子を励まし続け、勉強の習慣を作ってあげました。
 14歳の時でした。友達とのささいな言い争いで逆上し、殺してやると、ナイフを腹部に突き刺しました。不思議な偶然で、相手の鉄製ベルトのバックルに当たり、ナイフが壊れました。
 ベンは、聖書を持ち込み、トイレに入り、神に叫びました。私は、自分の心をコントロールできません。助けて下さい。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言16:23)という聖書の言葉が心に染みました。神に自分を明け渡しきって、ドアを開けるまで3時間かかりました。でも、その日、本当にクリスチャンになったと、後にベンは言っています。
 ベンは、高校を主席で卒業、エール大学に入り、卒業後、医学大学に学び、小児外科医になりました。彼とは、ベン・カーソン。頭部がつながったシャム双生児の分離手術を成功させ一躍有名になり、その後も数々の医学分野の賞を受け、2008年には大統領からPresidential Medal of Freedomを受賞しました。ベン・カーソンの生涯は、本にも、映画にもなっています。

 私たちは、ボアズでも、ルツでなく、また、ベン・カーソンでもありません。それでも、主に頼りながら落穂拾いのような小さな一歩を踏み出し、時にはルツが忍び込んだように大きな決断もします。
 それは、単なる個人的な人生に過ぎないのだろうか。いいえ、違います。神は、あなたの信仰生活を用いて、まだ見ぬあなたの子孫への祝福、あなたの周囲にいる人へのきわめて大きな影響力にされます。One for All。あなたの個人的な人生は、必ず多く人の励ましになります。さあ、あなたも、あなた自身のルツ記を綴りましょう。

ルツ記3章 おおってください

1、ナオミの思いやりと知恵 (1~5節)

 しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてからはいって行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」(1~5節)

 「娘よ。あなたがしあわせになるために」(1節)ナオミは、嫁のルツの幸せとは何だろうと考えました。ここに、姑の愛があります。
 あなたにとってのルツとは誰ですか。血のつながりはないけれど、近くにいる人。あなたにとってのルツのため、あなたができることを探しましょう。

 「私におっしゃることはみないたします。」(5節)
 ナオミは、ルツに、大胆な知恵を授けました。今夜、ボアズのふところに飛び込み、心を伝えなさいというのです。
 落穂拾いという小さな事をコツコツと続けてきたルツにとっては、このアドバイスは勇気のいることでした。でも、ルツは、神への献身を表すような言葉を力強く述べました。I will do whatever you say.
 神は、人生の中で何回か、とても大きなチャレンジをされます。今がその時かもしれません。主があなたに命じた大きなチャレンジは何ですか



2、女性からのプロポーズ (6~13節)

 こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。彼は言った。「あなたはだれか。」彼女は答えた。「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」(6~13節)

 夜中、足元の異物に気づいてボアズが起き上がります。その時、ルツは9節の言葉を言いました。「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」(9節)
 おそらく、その夜、ルツは一睡もせず、言うべき言葉を何百回も練習していたことでしょう。おおってくださいという言葉は、美しい言い回しです。私は、あなたに守って頂く必要がある弱い者です。私は、あなたのそばにずっといたいのです。決定権は、あなたにあります。
 この言葉にはそういう意味が込められています。男性の立場から見ると逆プロポーズですが、これだけ適切な事場を言われたら、悪い気持ちは全然しないでしょう。
 ボアズが、「翼の下に避け所をもとめてきたイスラエルの神」(2:12)とルツに語った言葉と関連するなら、私たちが神に助けを求める言葉と理解することもできます。

 ボアズは、ルツの申し出を即座に受け入れ、今後の行動計画を提示しました。ボアズの言葉は主イエスからの励ましの言葉のようにも聞こえます。「恐れてはいけません。あなたが望むことはみな、してあげましょう。」(11節)

 ボアズの素晴らしい点が二つあります。第一は、性的誘惑に負けない自制心です。自分をコントロールできました。第二は、行動力です。決断に躊躇がなく、行動が安定しています。

 あなたも、神におおってもらませんか。今の状況をそのまま述べて、神の保護を求めましょう。


3、素手では帰さない  (14~18節)

 こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない。」と思ったので、「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい。」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」(14~18節)


 「素手で帰ってはならない」(17節)素手という言葉は、1章21節にあったナオミの苦悩の言葉と同じです。主は、本来、素手で帰す方ではないのです。失意の経験をすると、二度と満たされることはないと、勝手に考えやすいのが私たち人間です。でも、神はあなたに言われています。あなたを素手では帰さないよと。

 「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。」(18節)ナオミは、忍耐が必要だとルツに教えました。ただし、ナオミは年の功で、ボアズが今日のうちに必ず実行することを見抜いていました。私たちにも、忍耐が必要です。忍耐は、あなたの品性を築くために不可欠な信仰の熟成期間です。 
 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)


 神は、ルツ記3章で、何一つ人に直接語りかけていません。でも、神が一人ひとりに働きかけておられることは明らかです。
 神は、ナオミに思いやりと知恵を授けました。神は、ルツに勇気と機転を与えました。そして、ボアズに、誘惑に打ち勝つ自制心と、行動力を与えました。神は、沈黙の中で饒舌に語りかけておられるのです。あなたに必要なものは何ですか。思いやりですか。勇気ですか。自制心ですか。行動力ですか。神に、あなたも求めましょう。
 
 もしルツが否定的な人なら、ナオミの助言を退けて、次にように言ったかもしれません。私は、貧乏人でボアズは金持ち、彼は地域の有名人で私は外国人の未亡人、私が結婚を願うなら拒絶され世間の恥さらしになるだけです。現実はそう甘くない。現実は不公平で現実は冷たいものです、と。

 でも私は最後にこう言いたいと思います。現実とは、あながの決断が築く未来です。

 決断という名の絵の具で真新しいキャンバスに向かうなら、そこにあなたの新しい現実が描かれるのです。

 ルツの勇気ある決断の結果、ボアズとの結婚の道が開かれ、やがてその子孫にダビデが生まれ、その子孫に主イエス・キリストが生まれました。
 あなたは、あなた自身のルツ記を書いているのです。主に励まされながら、大きな一歩を勇気と信仰をもって踏み出しましょう。あなたの大きなチャレンジとは何ですか。

 I will do whatever you say.  「私におっしゃることはみないたします。」(5節)

ルツ記2章 はからずも

1、ちょうどその時  (1~7節)

 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(ルツ記2:1~7)

1)小さな事から始める
 悲嘆に暮れた人、すべてを失った人は、何をしたら良いのだろうか。それは、小さな事を始めることです。
 2節「どうぞ、畑に行かせてください」「落ち穂を拾い集めたいのです」貧しい人にゆるされた労働(レビ23:22)である落ち穂拾いに出かけました。今で言えば、最低賃金の仕事を進んで始めたという事です。穂を持ち帰れば、食べていかれます。
 
 悲しみや苦しみに出会った人が、居直る、乱暴に振舞う、依存的な行為に流される、そういう事はよくあることです。そんな時だから、小さな事を始める必要があるのです。だから、小さな事は大きな事なのです。小さな事は勇気あることなのです。

 あなたに勧めます。小さな事を始めましょう。小さなレンガを一つずつ積み上げましょう。
あなたにとって、小さな事とは何ですか。

2)偶然に見えること
 3節「はからずも」、新共同訳では「たまたま」、4節では「ちょうどその時」と書いてあります。なにげなくルツが立ち寄った畑が、ナオミの夫の親戚で、ナオミの土地を買い戻せる資産家でした。果たしてこれは偶然なのでしょうか。

 私たちが偶然だと知覚できるのは氷山の一角に過ぎません。私たちが気づかない神の愛と配慮に裏打ちされた「偶然」に囲まれて私たちは生かされているのです。

 あなたへの質問です。主が今、明らかに導いておられる事がありますか。主は、あなたをどこへ導いていますか。あなたにとっての偶然、「はからずも」の体験を良く見つめ、主の導きに気づいてください。偶然に、方向性が示されているかもしれません。
 

2、隠れた行為はやがて知られる (8~16節)

 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」(ルツ記2:8~16)

 ボアズはルツに直接話しかけ、8節「ここにいなさい」とボアズの畑で続けて働くようにと勧めました。ルツは、外国人である自分への破格の好意に驚き、理由を尋ねました。すると、11節、「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと」、「私はすっかり話を聞いています。」ルツが誠実に生きた証をボアズはすべて知っていました。

 隠れた行為は、結局人に知られることになります。

 隠れた良い行為には主の報いが訪れます。12節、「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」主の御手と、ボアズの指示により、ルツは抱えきれないほどの大収穫、1エパの大麦を抱えて帰宅することになったのです。

 あなたの隠れた行為はいつか人に知られます。良い行いも悪い行いも、いつか人に知られます。その事は、今週のあなたの生き方にどんな影響を与えますか。


3、差し込んだ希望  (17~23節)

 こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました。」と言った。ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。』と私におっしゃいました。」ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。(ルツ記2:17~23)

 ルツ記の世界と現代に生きる私たちにはいくつかの共通点があります。超自然的な奇跡がない。モーセやエリヤのような際立った信仰者が登場しない。神が人に直接声をかけない。けれども、神は確かに生きて働いておられる。それで、ルツの物語は私たちにとても身近なものなのです。

 ナオミは、ルツの持ち帰った収穫に驚き、20節で、次にように語りました。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」
 ナオミは、この偶然と見える出来事の背後に主の御手があると理解し、主を賛美し、ボアズの祝福を祈りました。失った土地をぼあずに買い戻してもらえるという希望が出てきたのです。

 苦難の中で小さな一歩を歩き始める。人に隠れた小さな一歩が人に知られ、人々の評価が変わる。偶然に見える出来事から、人との出会いやつながりが起き、やがてそれが私たちの生涯を変えることがある。ルツの人生はそうでした。あなたも、あなたのルツ記を書きましょう。

 あなたの番です。誰が見ていなくても、小さな一歩を捜して歩み出しましょう。神が導かれる出会いのチャンスをしっかりつかみましょう。

 「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
 あなたは、その翼の下に身を避ける。
 主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇91:4)

ルツ1章 主の御手

聖書を理解し、神の心を知る一番の近道は、聖書そのものを心を静めて読むことです。ルツ記の学びは、バイブルリーディングという態度で進めていきたいと思います。

1、異国での悲嘆(1~5節)

 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

 ナオミは、夫と息子二人でモアブに転居しました。モアブは死海を挟んで西側にある外国で、一家全員で移民したと言っても良いでしょう。
 10年ほどの間に、ナオミは夫に先立たれ、現地の女性と結婚した息子たちも若くして亡くなり、ナオミだけになりました。残ったものは、悲しみ、孤独、不安でした。

 あなたは、今日、悲しみと孤独と不安に囲まれていますか。それなら、あなたは、現代のナオミです。


2、帰途で気づいた事(6~9節)

 そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

 ナオミは故郷に帰ることにしましたが、その帰途に熟慮し、自分の将来の安定よりも、同行していた二人の嫁の幸せを優先することにしました。8節「自分の母の家へ帰りなさい」、9節「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」
 自分の最も近しい者の幸せを第一にする。これも、一つの選択です。

 ナオミは、このような悲しみの中でも、嫁への感謝を忘れません。8節「あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように」 
 ここまでの箇所にも、道すがらも、ナオミの不満は書かれていません。もし、ナオミが神に不満を持っているなら、主の「恵み」(8節)があるようにと、素直に言うことはできないでしょう。ナオミは、どんな中でも主の恵みを数える人、主の恵みがあるようにと祈る人でした。

 →あなたの番です。一番親しい者は誰ですか。その人に神の恵みがあるように祈りましょう。


3、姑ナオミの思いやり(10~14節)

 ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。

 ナオミは分かれの挨拶として口づけをしましたが、二人の嫁は離れないと泣きました。ナオミは、「わたしの娘たち」(新共同訳)と嫁たちに呼びかけ、親愛の情を示します。ユーモアを交え、合理的に考えさせ、12節で「帰りなさい」ときっぱりと命じました。

 ナオミは嫁たちとは悲しみを分け合ってきたのでどんな愚痴も神への不平も嫁たちに言えたでしょう。けれでも、13節でナオミは、「主の御手が私に下ったのですから」とだけ述べました。
 普通、幸せと喜びがあるときに主の御手を感じます。ナオミは、苦しみと悲しみの時にも主の御手を覚えています。どんな事態の中にも主の御手がある。ナオミは、涙で祈る中でも、主の御手を覚えていました。
 運命がもしあるならそれは冷たいものでしょう。でも神の御手は温かいのです。不幸、悲嘆、ため息、理解不能の悲嘆に暮れている時でさえ、神の御手は温かいのです。私はそう感じて生きてきました。

 あなたの上に、今、神の御手がありますか。


4、ルツの決意(15~18節)

 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。

 16節「あなたの神は私の神です。」ルツの信仰は、物事がうまく行ったから神を信じるというご利益信仰ではありません。苦難を経験した姑ナオミをルツは見てきましたが、ナオミを生かしている神がいると分かったのです。ルツ自身も夫を失う苦しみを経験しましたが、それでも、まことの神がおられると信じたのです。今、神はルツの神になりました。

 「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。」Where you go I will go, and where you stay I will stay.(クリス・トムリンのプレイズソングを思い出します。このみことばがそのまま繰り返しのフレーズになっています。)ルツの言葉は、神への徹底的な献身表明と受け取ることもできます。

 ところで、放蕩息子と父のたとえ話は、父の愛がテーマで、神の愛と人間の悔い改めを教えてくれますね。今日の箇所、ルツ記1章は、母の愛が中心を貫いています。嫁の幸せを優先する姑と義理の母への献身が、神の愛と神への従順を教えてくれて興味深いです。

 あなたの番です。あなたは神に導かれていますか。神はどこに導いておられますか。
 

5、ナオミの動揺(19~22節)

 それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

 ナオミの信仰に動揺がみられます。どうしたのでしょう。原因は、人の目、うわさ、です。あの人ナオミなの、やつれたわね、夫は死んだらしいよ、自慢の息子も死んだらしいね、外国人の嫁しか連れて帰れるものはないようだね、昔の栄光いまは無しだね。こうした噂や好奇の目にさらされ、ナオミは本来の落ち着いた姿を忘れ、自暴自棄、やぶれかぶれ、居直りの心境になったと思われます。
 あなたは、今日、人の目を気にして落ち込んでいませんか。あなたが気にすべき事は人の評価ではありません、主イエスの温かい眼差しです。主イエスは、「しっかりしなさい、わたしだ」マタイ14:27)と言っておられます。

 ルツ記は、こうして暗く長く寒い夜のような状況から始まります。かすかな希望は、この時が大麦の刈入れの時期であったということです。ここにもう一つの神の御手を見出すことができます。

 悲しみに押しつぶされそうな私たち、噂や人の目に弱い私たちです。どんな中でも主の恵みを願い、主の御手に気づく人になりたいですね。そして、どんな境遇でも、どこまでも主について行く人になりましょう。

 「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16)