逃げる人から逃げない人へ ヘブル10:35~36

次の聖句を読んで、気がついたこと、励まされたことがあったら、配布した紙に書いてください。そして、近くの人と分かち合ってください。

ヘブル人への手紙10:35~36
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

「ですから」というのは、32~34節の背景を受けての言葉です。手紙の受け取り手達は、信仰を持った直後から、凄まじい試練や苦難に出会っています。馬鹿にされたり、ののしられたり、財産を没収されたり、投獄されたりしました。殴られたり、辱めをうけたかもしれません。その中で、仲間をかばい、自らも喜びを持っていた信仰の勇者たちでした。その喜びを思い出すようにとの勧めになっています。

確信というものは揺るがない強い信仰のことで、「大胆」という意味合いを含んでいます。確信を持っている人は、普通は投げ捨てたりしません。それでは、どんなときに確信すら投げ捨ててしまうのでしょう。耐え難い試練。肉体的、経済的、精神的、社会的に限界を感じた時でしょう。信仰の勇者たちが信仰を投げ出したくなる苦しみがあるのです。

あなたも、今、もう信仰を投げ出す寸前なのかもしれません。確信を投げ捨ててはいけません。それ自体が、大きな報いをもたらします。自分なんか、いてもいなくても同じだと感じてますか。多少努力しても、何も変わらないとあきらめてますか。なんで自分だけ貧乏くじを引いてんだとがっかりしていますか。泥沼のような毎日は終わりそうもないと感じてますか。問題からいつも逃げてばかりいませんか。

ヘブル人への手紙の主題は第1に、主イエスがどのような意味でまことの救い主であるかを旧約聖書を土台に詳細に解き明かしています。第2に、キリストご自身が苦難を体験されたので、私たちの弱さを分かってくださる方だということです。以下は、第2の部分に関連する聖句です。

ヘブル2:18
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
ヘブル4:15
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

ヘブル5:8
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、」

ヘブル12:3
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまらないためです。」

ヘブル13:5
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:8
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 こうした主イエスがおられるので、確信を捨てる必要がないのです。こういう主イエスがいて、私たちを支えてくれるので忍耐できるのです。

 「チェインジ」シリーズは今回で終了です。神によって考え方を変えていただき、神の力で行動を変えましょう。主イエスは今も生きていて、あなたの全存在を変革してくださることを世界にあかししていきましょう。

祈らない人から祈る人へ

 今日はショートメッセージです。いつもと違って、聖書箇所の解説ではなく、聖書全体から祈りについてワンポイントの考察をしましょう。言いたい事はただ一つ、「祈りましょう」それだけです。

 あまり祈らない人がいます。なぜ、祈らないのですか。
おそらく、祈らない人には理由があります。

・ 祈る必要を感じない。
・ 何でも願うのは自分勝手だし、失礼だと思う。
・ 祈りの言葉が上手ではない。
・ やれることは、自分でするから。
・ 祈って、答えられないと、自分の信仰の薄さが暴露されるから。
・ 神が生きておられると、本当は信じてないから。

 おそらく、最後の理由が最も重要だと思います。
あなたは、神が生きているお方だと、本当に信じていますか。

 第1列王17:1「私の仕えてるイスラエルの神、主は生きておられます。」
 
 預言者エリヤの神は、生ける神です。だから、神に頼り、神に聞き、神に願うことができました。あなたは、本当に生ける神を信じていますか。

 祈りとは実際のところ何でしょう。何でも願いに答えてくれる万能自動販売機のスイッチとしてだけ祈りを捉えるなら間違いですね。
 祈りは、会話です。私たちが生ける神に語り、神がそれを聞いてくださること。神が私たちに語り、私たちが聞くことです。この両方が祈りです。
 
 祈りは、知識として学ぶだけでは体得できません。実際に祈ってみないと、祈りとは何かは分りません。だから祈りましょう。今、祈りましょう。

 一人になれる場所で祈ってください。朝や夜は、心を静めるのに良い時間帯です。私は、散歩しならが、神と自分だけになる中で祈るのが好きです。「神さま」と心を込めて語りかけてください。そうすると、次に何を言ったらよいか自然に分かってきます。

 第1テモテ2:8「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

 上の聖句は、男にとって祈るのが困難な行為であることを暗に示しています。男は、道が分らない時でも聞きたいないプライドがあります。神に対しても、祈りたくない本性があるのかもしれません。男よ、祈りましょう。祈らないと何も始まりません。男が、膝をかがめて祈る姿は美しいです。今週、祈ってみましょう。


 

負ける人から勝つ人へ 第1コリント9章24~27節

 人生の真の勝利者とは、どういう人のことを言うのでしょう。日本には、「勝ち組」と「負け組」という嫌な言葉があります。ビジネスに成功した人、出世した人、高級車に乗れる人、を勝ち組というなら、ほとんどの人は負け組みになってしまいます。おかしな基準ですね。

 主イエスは、ご自分が勝利者であると言われました。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 第1ヨハネの手紙を見ると、主イエスを信じる者が勝利者であると書いてあります。
「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第1ヨハネ5:5)
「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。わたしたちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(第1ヨハネ5:4)

 事業に成功して若くしてリタイヤ、残りの人生は世界旅行とグルメ生活。こうした「勝ち組」人生の夢なんて、たいしたことはありません。小さい、小さい、考えることが小さいです。

 パウロは第1コリントで主イエスを信じる人の人生を競技にたとえています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(第1コリント9:24)
当時のコリントでは、オリンピックのような競技大会が2年に一度開かれていたようです。一等の賞品は植物で編んだ冠で、まさに「朽ちる冠」です。その朽ちる冠のために選手たちは節制し努力をするのですが、クリスチャンも同様に目標を目指した生き方をするように励ましています。

 大切なことは、価値ある目標を定めることです。「勝ち組」なんて目標はベニヤ板みたいに薄っぺらいものです。目標を、神の栄光と定めましょう。パウロは、第1コリント9章23節で、「私はすべてのことを、福音のためにしています。」と言いました。神の栄光という概念を別の言葉で言い換えたと考えても良いでしょう。

 岐阜県のコロッケ屋を経営する79歳の男性のことを知り、さわやかな思いに満たされました。高校生がテストで80点以上の成績を取ったら、コロッケ2個をただで進呈するというのです。6年間続けているので、大学に合格した生徒がお礼に来たこともあります。この歳になったら、利益よりも、人に喜んでもらうほうが嬉しい、という気持ちだそうです。この店主の目標は単なる利益でなく、誰かの役に立ちたいというところにあります。だから価値があるし、生きがいも生まれます。

 あなたも、パウロが勧めるように、価値ある目標を定めましょう。その次に、あなたの持っている能力、経験、財産、気力、努力のすべてを集中して、走りましょう。そういう生き方をしている人は、さわやかで、楽しくて、生きがいがあります。

 50歳の男性が東京マラソンに参加したときのことでした。41キロ付近を走っているとき、警察官があわただしく動いている場面を見てレースを中断、近寄りました。意識不明の男性が横たわっているの見て、自分が消防士で資格のある救護士だと告げ、蘇生作業を開始、電気ショックを与える機械を操作して心臓機能を回復させました。しっかり呼吸ができるのを見届け、コースに戻ってゴールインしました。ゴールした男性の顔は、満足感と喜びに満ちていたといいます。

 私たちが、単に「勝ち組」になりたいという欲望で生きているなら人生なんてつまらないもので、優越感と劣等感を行き来するだけです。けれども、神の栄光を表すという価値ある目標を定めるなら、たとえ途中で遠回りをしても、貧しくなっても、倒れても、病気になっても、すべての事に意味が生まれます。神の栄光のために生きて地上の生活を終え人生のゴールに走りこむなら、主イエスがあなたを喜び迎えてくれるでしょう。「よくやった、忠実なしもべだ。わたしは、あなたの歩みを知っているよ。誰も見ていなくても、わたしは見ていたよ。あなたは立派に走った。あなたは、勝利者だ」と言ってくれるでしょう。

 決勝点をしっかり定め、あなたも持てるもの総動員して、意義ある人生をおくりましょう。
「私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:2)
 

後ろ向きの人から、前向きの人へ ネヘミヤ2:17~20

 あなたの部屋のカーペットは何色ですか。すぐに言える人は問題ない。雑誌や洋服、買い物袋で床が見えない人はすでにブロウクン・ウインドウ状態だ。
 「ブロウクン・ウィンドウ理論」とは刑事司法学者ジェイムズ・ウイルソンとジョージ・キリングが、1982年に提唱した考え方。建物のガラス窓を割れたまま放置しておくと、やがては、そのビルが犯罪の温床となり、地域全体の風紀を乱していく。
 この理論を土台に、壊れた窓直していけば社会の治安回復ができると考え、考えただけでなく実行したのがニューヨークのジュリアーニ市長と言われている。地下鉄の落書きを消し、空き缶の投げ捨てを禁止、歩行者の信号無視も取り締まり、数年後には凶悪犯罪数が激減した。

紀元前430年前後のユダヤ人は廃墟となったエルサレムを見ていたが、何もできないでいた。後ろ向きの心に支配されていた。ネヘミヤは違った。ネヘミヤは、前向きにこの問題に対処した。

 今日のテーマは、どうしたら前向きの人になれるか、いうことだ。そうは言っても、無理して前向きのフリをする必要はない。神の栄光を求めればいい。そうすれば自然に前向き思考になる。

 問題を知らされたネヘミヤは以下のように行動した。
1、問題を覚えて祈る
2、自分ができる事は何か見極め、計画を立てる
3、生ける神を意識しながら、他の人に声をかける
4、困難や反対にひるまずに成し遂げる

1、問題を覚えて祈る
 1章4節でネヘミヤは祈っている。祈ったから1章9節で神の約束を思い出した。過去の失敗を嘆いたり、愚痴や不平を言ってるだけでは後ろ向きだ。祈ることだ。祈ることが問題解決の第一歩だ。神の栄光は、祈りの中から輝き始める。

2、自分ができる事は何か見極め、計画を立てる
 ネヘミヤがアルタシャスタ王の献酌官であると1章11で言及されているが、これはネヘミヤが自分の地位を自覚したという間接的な表現だろう。2章5節でネヘミヤは王に城壁再建の願いを打ち明けると、王から具体的計画を尋ねられ、即座に日程、必要書類、資材の調達などを答えている。(2章6~8節)単なる願いじゃだめだ。具体的に計画を立てよう。

3、生ける神を意識しながら、他の人に声をかける
2章17節でネヘミヤは、エルサレムの住民に計画を伝えた。困難を見ているだけでは何も始まらない。「さあ、エルサレムの城壁を立て直し、これ以上そしりを受けないようにしよう」(2章17節)と述べた。人々は共鳴し、協力を誓った。
ネヘミヤは18節で、「私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。」とあかしをしている。生ける神をあかししている。ネヘミヤ記には、「私の神」という表現が9箇所にある。(2:8、2:12、2:18、5:19、7:5、13:14、13:22、13:29、13:31、<「わが神」6:14>)ネヘミヤにとって、神と生ける神であり、その神と生き生きした交わりを持っていたのだ。神との生きた関係を持っている人にだけが、神の栄光を求めることができる。

4、困難や反対にひるまずに成し遂げる
 エルサレム周辺で権力を握っていたサヌバラテ、トビヤ、ゲショムなど有力者は、ネヘミヤに反対した。ネヘミヤはそれにひるまずに、「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる」(2章20節)と目を天に向けさせた。
城壁工事が進んでいると聞いた反対者らは、さらにひどい妨害を行い意志をくじこうとした。(4章2、3、11節)人々は、疲れと作業進展の遅さから弱気になり、不可能だと後ろ向きな発言をしはじめた(4章10節)。4章14節でネヘミヤは恐れるべき方は神だと信仰を鼓舞した。反対や抵抗が増えてくるのは、問題解決が近い証拠だ。人々は、片手に槍を持ち、片手で城壁修復作業を行った。52日かけて城壁はついに完成した。(6章15節)

ネヘミヤは前向きな人だと思う。それは、生ける神を知っており、神の栄光を求めて生きたからだ。あなたも同じようなプロセスを踏んで進もう。そうすれば、あなたは神の栄光を表す、結果的に前向きな人になる。

賛美歌や聖歌の歌詞を合計5000曲作ったファニー・クロスビーは、1820年ニューヨーク州に生まれたが、生後6ヶ月に医師のミスが原因で失明、生後1年ほどで父を失う。信仰深い祖母と母に育てられ8歳にして自分は幸せ者だと心から発言している。
27歳で盲学校教師になり、38歳で結婚、二年後に子供を生むが亡くなってしまう。そんな時に作った歌詞が多くの人を慰めている。
もしあの医師に出会ったならこう言いたいと自伝で書き残した。あなたは失敗したかもしれないが、神には失敗はない。確かに目は見えないが、多くの素晴らしいものを見てきた。賛美歌の歌詞を通して多くの人を励ますことができた。私は世界で一番の幸せ者だ、と。
賛美歌の歌詞で100万人の人々を主イエスに導きたいと願ったクロスビーのビジョンは、実現したと言うことができる。後ろ向きにならず、前向きに生きた人の模範だろう。

 後ろ向きの人が、前向きになるのは、実はかなり大変だ。小さいことが気になる人、勇気がない人、こだわりの強い人、色々なタイプの人がいる。それでいいと思う。そんな事はどうでもいい。神の栄光を見たいと望むなら、あなたは前向きの人になれる。