マタイ2:1~12 行く、拝むクリスマス

Keep Christ in Christmas! こんなステッカーを付けた車が街を走っていました。そうです、クリスマスは、主イエスの誕生を祝う日です。買い物やパーティーに忙しく、肝心な主イエスを忘れてはいけませんね。
 
1、博士たちのクリスマス

 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:1~2)

 ここに登場する博士たちは、バビロニアの占星術師だと言われています。博士たちがいつものように星を観察していると特別な星が夜空に現れました。その星の輝き具合と位置から、ユダヤ人の国に王が生まれたと解釈しました。
 王の世継が生まれただけで博士たちが長い旅をすることはあり得ません。まして、拝むために行くというのは尋常ではありません。博士たちは、新しく生まれた王が、通常の王以上の方だと理解していたようです。

 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
(マタイ2:11)

 博士たちがささげた宝が、主イエスがどなたかを示唆しています。黄金は王の持つ貴金属です。キリストが王であることを示しています。乳香とは、かんらん科の植物の乳白色の樹脂のことで、香として焚くと素晴らしい香りがします。祭司が礼拝で用いた香なので、キリストが大祭司であると理解するむきと、礼拝すべき神であると解釈される場合もあります。没薬は、やはり、かんらん科の植物の樹脂のことで、香りと共に、強い殺菌力や鎮痛作用あるため薬としても用いられ、古来より死者の埋葬に使われました。主イエスの十字架の死を予告しています。博士は高価な宝を赤ちゃんの主イエスにささげました。


2、主イエスの誕生の意味を考える

 神である方が人になること、つまりクリスマスの出来事を、神学者たちは難しい用語でIncanation(インカーネーション=受肉)と呼びました。私たちの生活にも、このインカーネーションの思想の適用が必要かもしれません。

 ちょっとここで質問です。「復活の反対に当たる概念は何でしょう?」
復活の真逆の概念は、クリスマスです。
 
 復活では、朽ちる体が永遠の体に変わり、汚れた肉体が栄光の体に変わります。インカーネーションは、永遠なるお方が時間の制約に入られた瞬間を意味します。自由を持たれた方が、不自由の中に膝をかがめたのです。全能を有限に、強さを弱さに変えました。誰が、このようなプロセスを望むでしょうか。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

 赤ちゃん。この世で最も弱い存在。食べるにも、排泄も、親の助けなしにできない存在です。言葉を学び、生活習慣を教えられ、親の守りなくして一日たりとも生きていけません。主イエスは、あえてこの道を選ばれました。それは、私たちと同じ人間になり、私たちを救うためでした。大人の心を持ったまま、赤ちゃんに変身したと想像してみましょう。誰が耐えられるでしょう。主イエスは、そうされたのです。

 今日、インカーネーションを疑似体験ができる仕事があります。宣教師です。進んだ科学技術や文化や便利さを捨て、ジャングルの奥地に入って、何も言葉がしゃべれない愚か者の姿になって現地の人の言葉を学び、発音を失敗して笑われて生活します。それは、彼らの救いのためです。

 このクリスマス、インカーネーションの経験をほんの少しやってみませんか。あなたが、誰かのために、身を低くし、あなたの権限を捨て、耳を傾け、宝をささげ、その人が主イエスによって救われるためにであなたのできる事をするのです。

 子供と遊んであげるのも良いですね。配偶者のために時間を取り、耳を傾けることもいいでしょう。あなたの周囲で助けを必要とする方の役に立つことはどうでしょう。実際にあなたが短期宣教師になることだってできます。


3、行って、拝む

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)

 今日の聖書箇所で繰り返されるのは、行くという言葉と、拝むという言葉です。

 これはクリスマスに際して、私たちが取るべき態度を明確に示しています。新約聖書では、主イエスの誕生を祝うパーティーやプレゼント交換の記事は一つもありません。羊飼いが赤ちゃんの主イエスを捜し当てるために「行った」こと、そして、帰りに道で神を賛美したことはルカの福音書に記録されています。また、今日の箇所では、博士が宝物をささげ、ひれ伏して拝んだことが書いてあります。

 ショッピングセンターの駐車場の端で敷物を広げ、ひれ伏して礼拝していたイスラム教徒を私は間近に見たことがありました。誰が見ていても、時間になれば、ひれ伏す。果たして、同じことが自分にできるかな、と考えてしまいました。

 クリスマス。私たちが博士たちから学ぶことは、この単純な二つの行為です。行く。拝む。私たちも、これと同じ心で主イエスをたたえたいと思います。

 自分を喜ばせるクリスマス。人間同士で完結して、上に向かうことのないクリスマス。栄光を捨ててこの地上に来てくださった主イエスを忘れ、お礼も感謝も賛美もささげないクリスマス。そんなクリスマスは、ヘロデ王のクリスマスです。

 博士たちのクリスマスを私たちのクリスマスにしましょう。文字通り、ひれ伏して、主イエスを礼拝してみましょう。大切なものを主イエスの足元に置き、自分を誰かにささげる生き方をしてみませんか。


 →あなたの番です
 □赤ちゃんになられた主イエスをたたえます
 □誰かのために、インカーネーションの一部を実行してみる
 □実際に、文字通り、ひれ伏して、主イエスを礼拝してみましょう

マルコ12:18~27 聖書と神の力

「あなた、また電話をかけ直しているの? リダイヤルのボタンが付いてるでしょう」「えっ。確かにある。知らなかった。早く教えてほしかった。いや、自分の問題だよね。トホホ。」
 今日は、知らなかった、という事がテーマです。

1、サドカイ人の質問

 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12:18)

 当事、ユダヤ人律法学者は大きく二派に分かれており、一つはパリサイ人、もう一つがサドカイ人でした。二者は互いに譲らず、深い対立(使徒23:1~10)がありました。
 サドカイ人は、祭司の家系に生まれた経済的に裕福な貴族階級です。その思想は、旧約聖書の中でもモーセ五書、つまり「律法」だけを神からの啓示と理解しました。復活はないと主張した論拠は、復活についての言及がある詩篇や諸書、預言書などを退けていた事によります。

 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」(20~23節)

 これはモーセ五書のひとつ、申命記25:5~6に見られる規定で、レビラート婚と呼ばれ、アフリカなどではまだ生きている制度です。7人兄弟全員が亡くなり、妻も死んだら、女は誰の妻なのか、という質問で、悪意ある奇問と言ってもよいでしょう。
 全員が復活すれば、女が誰の妻か言い切れません。それで、復活という思想そのものが間違っている、とサドカイ人は言いたいのです。この思考パターンは、前回説明したAll or Nothingの理屈と同じで、非論理的で、相手を追い詰める時に使う詭弁の一種です。



2、神の力を知らない

 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(24~25節)

 主イエスの答えは明快です。サドカイ人の考え方は「思い違い」で、「聖書も神の力も知らない」(24節)ことの証拠だと断定されました。

 主イエスは最初に、サドカイ人が神の力を知らないという点を取り上げます。サドカイ人は復活を信じていないので、同じ姿で息を吹き返す程度にしか復活を理解していませんでした。復活とは、神の力によって根底から徹底的に変えられることなのです。第1コリント15:51にあるように「みな変えられる」のです。単なる蘇生ではなく、神による新しい創造であり、栄光の姿への変化です。

 地上では、独身の孤独、子供がいない辛さ、未亡人は悲しさがあるかもしれません、天国にはそれはありません。私たちが、結婚関係のない天の御使いのように変えられるからです。性的な関わり、結婚や出産も天国にはないし、結婚カウンセラーも必要ありません。

 サドカイ人は、復活思想は愚かだと論破したつもりでしたが、結局、自分たちが神の力をまったく知らなかったことを暴露しただけでした。

 さて、私たちは、神の力がどれほど大きなものか、本当に知っているのでしょうか。

 私も、神の力の偉大さを知りません。
天国には、牧師という職業もないはずです。そこに神がおられるので牧師が説明する必要などないのです。きっと、私は主イエスの前で赤面し、あなたの事を何も知らないのに、知ったような顔で話してきて申し訳けありませんと、頭を下げるはずです。
 神の力をもっと知りたいと思いませんか。



3、聖書を知らない

 次に主イエスは、「あなたがたは読んだことがないのですか」(26節)とサドカイ人が聖書に無知であることを皮肉を込めて言われました。サドカイ人が重視するモーセ五書の一つ、出エジプト記3章6節の言葉を取り上げ、主イエスはその意味するところを解説されました。

 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(26~27節)

 主イエスがおっしゃりたい事を簡単にまとめるならこうなります。アブラハムもイサクもヤコブも生きている。そういう事なのです。
 モーセが神と出会った当時、アブラハムやイサクやヤコブは何百年も前に死んでいました。ですから、過去形で「わたしは、ヤコブの神であった」と語るほうが自然です。でも神は、「わたしは、ヤコブの神である」と現在形で言われたのです。
 これは、アブラハムもイサクもヤコブも神の前で生きているという意味です。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(27節)とある通りです。神は永遠に生きておられ、アブラハムたちも生きているのです。

 サドカイ人は、これには何の反論もできません。聖書をきちんと読んでいなかった事が暴露されたので、歯ぎしりして帰ったのかもしれません。

 さて、私たちはどうでしょう。聖書をどれくらい知っているのでしょうか。
ちゃんと、神の言われたい事を聞いているのでしょうか。

 私たちが心配する事柄は、神の力が及ばないと考えている分野です。お金のこと、ビジネスのこと、家族のこと、人間関係のこと、自分の健康のこと。そこにも神の力が表れると信じますか。信じましょう。

 ビル・ブライトは1951年、30歳の時、フラー神学校の学生でした。UCLAで学生に主イエスの福音を伝え始めたのです。福音のエッセンスをわずか77の単語を使って文章にし、重要聖句をそれに添えました。後に『4つの法則』と呼ばれた伝道パンフレットです。この方法は大いに用いられ、25億冊以上が印刷され世界中で用いられ、多くの人を救いに導きました。1979年には、ルカの福音書をそのまま映画にした『ジーザス』を作成し、900を超える原語に翻訳され、多くの人がクリスチャンになりました。彼のミニストリーはキャンパス・クルセードと呼ばれます。
 フラー神学校の学生の時、ビル・ブライトは、一枚の紙に「私は神の奴隷になります」と書いて、署名しました。これが、大きな違いを生んだ秘訣だと後に述懐しています。

 神は、一人の人生を用いて神の力をこのように表して下さいます。あなたにも神の力が働くと信じましょう。

 →あなたの番です
 □神の力をあなたの計画に織り込みましょう
 □神をもっと知りたいと願い、聖書に聞き入りましょう

マルコ12:13~17 カイザルのものはカイザルに

罠について考えましょう。
 今回の罠には、All or Nothingの考え方が巧妙に使われています。


1、罠のからくり

 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12:13)

 「彼ら」とは祭司長たちのことで、律法学者のパリサイ人とヘロデ党の者たちを主イエスのもとに送り込みました。主イエスに罠をかける作戦でした。

 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」(14節)

 14節の前半は主イエスの率直さを際立たせ、主イエスがきっぱりと回答するようにと誘導しています。これは罠の第一段階です。

 「ところで」から始まる部分が罠の核心です。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるべきかと質問しました。この質問が罠だという意味は、イエスと答えても、ノーと答えても、主イエスに不利になるからです。
 主イエスがカイザルに税金を納めよと言うなら、異邦人を嫌うパリサイ人が反発します。神を冒涜する行為だと糾弾されるでしょう。群集が感情的になり、主イエスに石を投げつけ死に追いやる可能性もあります。
 もし、カイザルに税金を納めてはいけない、と主イエスが言われるならどうでしょう。ローマ帝国の後ろ盾で成り立つヘロデ政権の支持者、ヘロデ党の者は強く反発し、ローマに謀反を起こす者としてただちに訴えられ、逮捕され、処刑されるでしょう。


2、主イエスの回答

 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(15節)

 主イエスは、この質問が罠だと見破りました。それで、ローマ世界で通用していた銀貨を持って来させ、誰の顔が彫ってあるかと逆に質問しました。その場にいた者は「カイザルの銘」だと答えます。銀貨には、「ティベリウス、カイザル、聖なるアウグストの息子、大祭司」と書かれてありました。約100年間ローマに支配されていたパレスチナでは、14~65歳のユダヤ人男子が年に一度一デナリを税金として納める必要がありました。

 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。(17節)

 カイザルが流通させた貨幣で貨幣経済が成立しカイザルの庇護を受けているので、カイザルに税金を納めるのは理にかなっていると主イエスは言われました。
 それだけでなく、私たち皆は神の守りの中で生きているから、神に献金するのは当然のことだと主イエスは答えました。

 イエスでも、ノーでもない、第三の答えを聞いたとき、パリサイ人とヘロデ党の者は、驚嘆しました。



3、罠の仕組み

 私たちも、人生で必ず罠に出会います。出世すればするほど、罠の危険が増えます。誠実な信仰者として生きようとすればするほど、罠に出会います。
 時にはあなた自身が、無意識に、誰かに罠を仕掛けることさえあり得ます。

 あなたは、今、罠にかけられていますか。人が仕掛ける罠は、その人の怒り、憎しみ、ねたみ、誤解、復讐心などが原因になります。また、悪魔が仕掛ける罠は、私たちを神から引き離すことを目的にし、神を信じられないような現象を起こしたり、仲の良い人との間を引き裂くように画策します。

 罠とは、どうあがいても出られず、必ず捕まってしまうという非情な方法です。
 
 今回使われた罠は、二者択一の罠です。それは、オール・オア・ナッシングの思考法を利用しています。
 あなたは完全な神の民ユダヤ人か、それなら異邦人に税金を納めないはずだ、もし税金を納めるなら本当の救い主とはいえず冒涜に値する、という図式です。
 このタイプの理論でコーナーに追い込まれたら、大抵の人は、逆ギレして大声で怒りだすか、無視してその場を去ります。主イエスは大声を出すことも、無視することもなく、誠実に答え、オールでもなくゼロでもない第三の答えを出されました。主イエスの冷静な対応にはびっくりします。

 私たちにも当てはめてみましょう。「あなたは完全な父親と言えるか」と問われるなら、誰も下を向くでしょう。すると、「それなら、あなたは父親としては失格だ」と言われてしまいます。そう言われるとなぜか納得して落ち込みます。完璧であるか、それ以外なら、ゼロだという大雑把な事実認識の間違いに気づかないのです。

 あなたも、この二者択一の罠に気をつけましょう。また、この理屈で身近な誰かを追い詰めることも止めましょう。
あなたは完全なクリスチャンか、そうでないなら生きていく資格はない、という悪魔の常套手段の罠に負けてもいけません。

 私たちは、いつも100点でいることは不可能です。65点でも、70点でもいいのです。だからといって決して0点ではありません。All or Nothing 以外の第三の答えが必ずあります。主がその答えを必ず下さいます。上を見上げる時、必ず脱出の道があります。

 →あなたの番です
  □罠を見抜く知恵を神からいただきましょう
  □あなた自身も、人に罠をかけないこと
  □神の守りを感謝しつつ、第三の道を求めましょう

マルコ12:1~12 やり直せる

主イエスは、物事を簡略化して、分かりやすいたとえ話を使って、本質をズバリと指摘されます。今日のたとえ話からは、人間の心に潜む邪悪さが見えてきます。
 たとえ話の後に、主イエスは含蓄のある言葉を加え、私たちの励ましとされました。人生にはやり直しがあると勇気づけられます。


1、邪悪な農夫

 このたとえ話は、当時の人ならすぐ納得できる日常的な題材を使っています。ぶどう園の主人が、農場で働く人を集めて仕事を委ねます。実がみのると、収穫を集めに人を送りました。でも農夫たちに乱暴され、次々に送ったしもべたちも暴力を受けたり殺されたりしました。主人は自分の息子まで殺されてしまいます。とうとう最後には、ぶどう園の主人は農夫たちを殺して処罰しました。以下がその詳細です。

 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。(マルコ12:1~9)

 このたとえ話に登場するぶどう園の主人は、善意の塊です。農夫たちの就職口を世話して、農夫たちを信頼しきって旅に出たのです。収穫を集めるためにしもべを遣わし、虐待されても、何度も忍耐深く別の使者を遣わし、自分の息子まで送り込みます。
 ここに表されているのは、何でしょう。神の愛です。神の愛は、まさに善意の塊です。信じられないほどピュアです。期待と希望に満ちています。

 一方、ぶどう園を任された農夫たちは、悪意の塊です。農園の主人に対して、恩を感じることなく、完全に無視しました。主人が送ってきたしもべに暴力を振るい追い返し、農園を自分たちのものにする算段です。農園の主人の一人息子ですら殺害しました。

 このたとえ話は、祭司長や律法学者の愚かさを気づかせるために主イエスが話したものでした。神が農園の主人、しもべは預言者たちです。農夫はイスラエル人であり、その指導者の祭司長や律法学者を表わしています。最後には、神の子イエス・キリストが遣わされますが、祭司長らにより殺害されます。
 祭司長たちも主イエスの意図に気づきました。(12節)でも、かえって心を閉ざし、主イエスを殺す動機になってしまいました。

 あなたの番です。あなたはこの農夫のような邪悪な心を持っていますか。神に対して恩知らずではありませんか。自己保身、自分の欲望がすべてではありませんか。
 普段の自分の姿を見つめてみましょう。あなたは、この邪悪な農夫に似ていませんか。

 神は、そんなあなたを、そんな私を、信じられないほどの愛で愛していてくれます。



2、捨てられた石が礎石になる

 10~12節は、詩篇118:22~23の引用です。

 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(10~11節)

 家を建てる専門家が、この石は役に立たないと捨てた石が土台の要となる礎石になったというのが詩篇の言葉です。

 この石とは何でしょう。主イエスを指した預言の言葉でした。主イエスは、十字架で死なれますが、それが人々の罪の赦しの代価になりました。捨てられた主イエスが、まことの救い主になったのです。

 主イエスほど深い絶望を味わった方はいません。また、主イエスほど大きな希望を持った方は他にいません。

 ここに大きな励ましがあります。捨てられた人がやり直せるという励ましです。たとえ、人に捨てられた人生でも、主イエスを信じて生きればやり直せます。

 地震の後に、釜石を応援するポスターが出来ました。その一枚一枚を見ていて勇気が出てきます。そのポスターには現地の人が作業着姿で写真に写っていて、下に短い言葉が書いてあります。数種類あるポスターの言葉は、「前よりいい町にしてやる」、「心まで壊されてたまるか」、「かわりに気づいた宝物」、「あきらめるな、と帆立が言う」などとなっています。

 そういえば、ベートーベンは偉大な作曲家ですがバイオリンはあまり上手ではなかったようです。ウォルト・ディズニーは、アイデアが足らないと言われて新聞社を首になったようです。アインシュタインは、4歳まで言葉をしゃべらず、7歳まで字が読めなかったといいます。エジソンは、学校の教師に、頭が悪くて何一つ学べない生徒だと言われました。彫刻家のロダンは、こんな息子を持って情けないと言われた子供だったといいます。何だか励まされますね。

 あなたがやり直せた時にこの言葉を味わって下さい。「これは主のなさったことだ」(11節)主があなたを立たせてくださるのです。


 →あなたの番です。

  □あなたの心に潜む邪悪な心に気づきましょう。
  □どんなに邪悪な私たちをも、神は愛しておられます。
  □倒れても、やり直せます。主イエスと共に歩めば復活できます。

ルカ17:11~19 ありがとうを忘れなかった人

今日は、感謝祭にちなんで、感謝の心、賛美の心について考えましょう。

1、まず、自己点検してみよう

 最近、あなたは、愛の言葉や励ましの言葉をもらいましたか。たとえば、料理がおいしいねとほめられましたか。愛しているよと言ってもらいましたか。

 逆に、あなたが、愛の言葉や励ましの言葉を言いましたか。とってもかっこいいね、尊敬してるよと身近な人に言いましたか。あなたのために祈っているよ、聖書の言葉をプレゼントしたという人はいますか。

 こんなふうに感謝をキーワードにして自己点検してみると、あることに気がつきます。人は、たったワンフレーズの言葉で幸せになったり不幸せになるということです。

大切な人から「結婚して下さい」と言われたら、どうでしょう。たった一行の言葉でも、人生でもっともハッピーな瞬間を味わえます。

 私たち人間の体は食べ物で元気になります。でも私たちの心は、食べ物では元気になれません。私たちは、温かい愛の言葉をもらう必要があります。それと同時に、自分から温かい愛の言葉を言うことが必要です。

 あなたは、感謝する人ですか。賛美する人ですか。


2、いやされた人

 聖書に目を留めてください。今日の登場人物とあなたとの類似点を見つけてください。

 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村にはいると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。(ルカ17:11~13)

 ツァラアトにかかった人、つまり、悪性の皮膚病にかかった人が10人そこで暮らしていました。当事、この病気の人が街を歩くときは義務を課されていました。「私はけがれている」と叫んで、周囲の人に注意を喚起する必要がありました。ですから、この10人は、町から離れて洞窟などで集団生活をしていたと思われます。
 病人たちは家族や友人から引き離されて、孤独でした。治療法もなく、体が破壊されるのを見るしかない毎日でした。

 病をいやすと評判の高いイエスさまが近くを通られたので、大声で助けを求めました。
「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と叫びました。

 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。(14節)

 当事の祭司は、宗教行事だけでなく、病気が伝染病かどうかを判定して隔離を命じたり、完治したと宣言して社会復帰を許可する権限も持っていました。いやされた10人が、直った姿を祭司に見せれば、家族のもとに戻れ、社会生活に復帰できるのです。

 主イエスは、病人の体にさわりませんでした。長時間の祈りをする必要もありませんでした。短い言葉だけ言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」(14節)主イエスは、ほんのわずかな言葉で人を幸せにすることのできる方です。

 肝心なことは、何でしょう。主イエスの言葉をそのまま受け入れ、信じることです。10人は、その言葉を信じました。主イエスがそう言われるなら、言葉の通りにしてみよう。この心が大事なのです。

 あなたの番です。あなたも、今日、この言葉を信じて歩みだしましょう。あなたが背負っている重荷は何ですか。それを主イエスにゆだねましょう。主はあなたにも、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言っておられます。


3、賛美する生活

 「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」(ルカ17:15~16)

 10人はいやされたので大喜びで祭司のもとに急いだのでしょう。その中の一人だけは、くるりと方向を変えて、来た道を戻り始めました。

 この男は、サマリヤ人です。ユダヤ人は普段サマリヤ人をばかにし、サマリヤ人の宗教を見下げていました。けれでも、ありがとうを言いに戻ったのは、このサマリヤ人だけでした。

 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(17~18節)

 15節を見てください。彼はイエスさまの所に戻る前から、一人で神をほめたたえています。大声で歌っていたのかもしれません。道々、神をひたすらたたえています。誰もいないところで神をほめたたえる。これが賛美の真髄です。

 こんなに汚れた私の罪がゆるされた。ありえないことだ。アメジンググレイスだ。神はすばらしい。神は生きておられる。

 この男の生き方こそが、クリスチャンの人生を象徴しています。

 ウエストミンスター小教理問答集の有名な質問に、人のおもな目的は何かを尋ねる質問があります。その回答は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」となっていますが、いやされたこの男性の生き方を重なりますね。

 宗教改革者カルバンも人生の最後に、「イエス・キリストの死と苦しみを通して、わたしのような者の罪を赦してくださった。その神の一方的な御恩寵を全身全霊をもって抱きしめます」と言っています。

 この男のように、神をたたえる人生を送りましょう。
 主イエスは、「神をあがめるために戻って来た者」と言及されました。私たちの人生も、やがては主イエスのもとに戻り、主イエスにお礼を言うための旅なのかもしれません。

 ところで、ありがとうという言葉は、相手がしてくれた事に対する感謝の表明です。あなたを愛しているという言葉は、ちょっと違って、相手の存在をそのまま喜ぶことです。
神を賛美するというのは、感謝の言葉を含みますが、本質的には、神がおられる、神が偉大な方であるということを喜び、神の存在を喜びことです。

 目に見えない神を賛美できるように、目に見える誰かに愛していると言ってあげましょう。そうしていると、神を賛美するのが自然にできるようになります。

 ある男性が父親に電話しました。父への気持ちをはっきり伝えようと、何度も練習してから電話を取りました。
 「父さん。」
 「お前か。ちょと待て、母さんと代わるよ。」
 「父さんと話したいんだ。」
 (父はしばし沈黙)
 「金でも欲しいのか。」
 「違うよ。今までの事を振り返っていたんだ。父さんは、僕が大学に行くために、すごく頑張って仕事してくれたよね。ちゃんと言ったことがなかったから、言いたいんだ。ありがとう。本当にありがとう。」
 (父は沈黙)
 「そして、もうひとこと言いたいんだ。愛してるよ」
 (父は長い沈黙)
 「お前、酔っ払っているのか」

 あなたが、「神をあがめるために戻って来た者」になりましょう。

 →あなたの番です。
  □重荷を負っているなら、主イエスを信頼して、前に進みましょう。
  □罪赦された事を感謝し、神をほめたたえましょう
  □身近な人にワンフレーズで愛と励ましの言葉を言いましょう

マルコ11:27~33 何の権威か

「俺を誰だと思っているんだ」と怒る男がたくさんいます。みっともないですね。
 男は不良品だな、とつくづく私は思うのです。学校で暴力事件は起こすのは男、刑務所には男が多いし、麻薬の売人は男だし、汚職をするのも男、粉飾決算をするのも男、戦争をするのも男、離婚を迫られるのは男が80%で、自殺するのも男が女性の2~3倍です。
 男が気にするのは、権威です。いったい権威とは何でしょう。権威の良い使い方があるのでしょうか。今日は、権威について考えてみます。

1、罠

 「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。」(マルコ11:27)

 権力とは、その立場のゆえに付与された力です。祭司長、律法学者、長老たちは、宗教と政治の最高権力者でした。彼らは70人議会の一員なので、日本で言えば国会議員といってもいいでしょう。ただし彼らには警察権力も裁判権も持っていました。
祭司長たちは、前日の宮きよめ騒動でかなり怒っていたようです。「俺を誰だと思っているんだ」という剣幕です。

 祭司長たちは、主イエスの返答しだいで逮捕するつもりでした。そもそも祭司長たちは、主イエスを殺害するつもり(18節)でした。人を殺すこともできる力、それが権力です。

 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」(28節)

権威なき者が神殿で教え、権威なき者が両替人や商人を宮から追い出した。それは不法だと言いたいのです。


2、逆質問

 主イエスは逆に質問をしました。

 「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(29~30節)

 祭司長らの思惑は、ここでみごとに粉砕されました。権威についての話題は祭司長たちが持ち出した事柄で、主イエスの質問はその関連質問に当たります。群衆も周囲で成り行きを見ています。それで祭司長らは主イエスの質問を無視するわけにいきませんでした。


3、当惑

 「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。』――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません。』と言った。そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』と言われた。」(31~33節)

 バプテスマのヨハネが人々を教え、悔い改めのバプテスマに導いたことは、神のみこころだと誰にでも理解できました。もし、それに異議を唱えるなら、そこにいた群集から強烈な反発を受けることは必至でした。

 祭司長たちは熟慮しましたが、結論が出せません。その場から逃れるには「わかりません」と答えるしか道はありませんでした。祭司長たちは、尻尾をまるめて逃げて行きました。自分が掘った穴に落ちてしまったのです。


4、本当の権威とは

 普通この世界で通用している権力とは、うむを言わせぬ圧力や暴力、わがままのことです。地位や能力、生まれや経験を土台にし社会的に認められた強制力です。

 スティーブ・ビタルフというオーストラリアの家族問題のカウンセラーは、こういいます。「男はおびえると、しばしば身体的、気分的に逆の方向に揺れ、暴力によって反撃しようとする」
 男が権力を振りかざすのは、恐怖から逃げるためです。自分の失敗を人に知られたくないからです。メンツをつぶされて当惑したとき、強く出るのです。恐怖の原因となった誰かをつぶすために権力を使うのです。

 それでは、本当の権威とは何でしょう。周囲の人から尊敬され、愛されたため、その人が持つようになった影響力。それが権威だと私は思います。だから、本当の権威を持つ人は、周囲の人を助けたり豊かにするために権威を使います。

 スウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-86)が暗殺されたとき、国民は通りに出て公然と泣いたといいます。ベトナム戦争に反対、アパルトヘイトに反対、核軍縮に取り組み、非暴力を掲げた政治家で人々に愛され、尊敬されていました。私たちはパルメ首相を必要としていた、世界も彼を必要としていたと多くの国民が語ったといいます。

 本当の権威を持つ人は、自分の地位や立場に固執しません。人々が幸せになれるなら、自分の地位すら捨てます。本当の権威を持つ人は利己的でなく、利他的です。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6~7)

 私たちは気をつけないと祭司長のようになりがちで、権威を振りかざし、人をつぶす破壊的な生き方を選んでしまいます。神の子イエス・キリストの謙虚な歩みを模範にしましょう。権威を振りかざす人になるのでなく、尊敬され、愛される人になりましょう。

 あなたが警官なら、親切なポリスになってみましょう。あなたが空港の入国審査係なら、笑顔で対応しましょう。あなたが電話受付の仕事なら、やさしい言葉で対応してみましょう。権威を素敵に使う道もあります。

 7歳の女の子が転校した初日、遅刻してしまいました。泣きながら走って登校すると、学校の門の前で立派な紳士に呼び止められました。「どうしたんだい」女の子が理由を話すと、「気難しいモリス校長に私がとりなしてあげよう。彼は私の友達だ」、と言ってくれて校長室まで来てくれました。モリス校長はとがめることなく、クラスにその子を連れ、担任の先生にこう言ってくれました。「転校生は1回だけ遅刻をゆるされることになっております」とね。

 「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。(第2コリント13:10)

→あなたの番です
  □権威を振りかざすのを止めましょう
  □主イエスを見上げ、もっと謙虚になろう
  □神から頂いた権威を周囲の人を生かすために用いよう

マルコ11:12~25 わたしの家

 今日は、主イエスが十字架にかかる数日前の出来事に目をとめて、信仰と祈りについて考えてみましょう。

1、枯れたいちじくの木

 福音書によると、その週の金曜日に主イエスは十字架にかかられます。月曜から木曜までの間、主イエスはベタニヤからエルサレムに朝方から出かけ、夕方に戻られるという生活をされていました。

 「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12~14)

 いちじくが実を付けるのは夏なので、春にいちじくの実を期待することは通常ありません。ところが、エルサレムへの道の途中にまるで実がついているような外観の木が一本あり、主イエスは思わず近づいて実を探しました。実がないのが分かると、主イエスは弟子に聞こえる声で「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われました。翌日の火曜日にはそのいちじくの木は枯れていました。(19~21)

 旧約聖書では、いちじくをイスラエルを象徴するものとして記述する場合があります。葉ばかりが茂って実のないいちじくの木は、繁栄を誇っていたエルサレムの町を暗示し、40年後の滅亡を念頭に、イエスさまが警告として言われたのかもしれません。


2、神殿内をきよめた主イエス

 主イエスが最初にされたことは、神殿を本来の神殿の姿に戻すことでした。
 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」(15~16節)

 当事、神殿と呼ばれる施設は国内に一つしかありません。エルサレムは周囲4km程の城壁に囲まれた町で、首都にふさわしい賑わいがありました。町の東側には絢爛豪華な大神殿があり、敷地は南北に500m、東西に300m。外国人が入れる異邦人の庭があり、中央に柵で仕切られユダヤ人しか入れない場所があり、さらにその奥にはユダヤ人男性しか入れない場所があり、祭司だけが入れる聖所、至聖所という構造になっていました。

 神殿とはいえ、異邦人の庭は喧騒で満ちていました。両替人やいけにえの動物を売る業者の声が響き、神殿を通り抜ける方が近道だと道を急ぐ人々も巡礼者に混じっていました。
 主イエスは、神殿を本来の静かな祈りの場所に戻すために、業者を追い出し、腰掛を倒し、近道をする者を排除しました。

 人々は怒ったでしょうか。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」(18節)むしろ、人々は驚嘆したのです。納得したのです。主イエスの言われたことが正論だったからです。神殿には静けさが必要です。

  「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(17節)

 葉が茂って実があるように見えたいちじく。喧騒と金儲けの場所になった神殿。どちらも共通点があります。一番大事なものを失った姿です。この姿はあなたに似ていますか。

 心の内側に静かな神殿を持ちましょう。心の「宮きよめ」をして、不要なものを捨てましょう。



3、信じて祈る

 翌日の火曜日、枯れたいちじくに驚く弟子たちに主イエスはこう言われました。

 「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(22~25節)

 山に向かって、海に飛び込め、と言えば、そうなる。一部の信仰エリートだけでなく、「だれでも」可能だと主イエスは言われます。「自分の言ったとおりになると信じるなら」そのとおりになるのです。主の説明は信じがたいほどダイナミックです。あなたは、これを信じますか。

 主イエスが実際の山を動かしたという記述は聖書にありません。12弟子やパウロが、山を動かしたという記録も聖書にありません。
 アフリカの女性が、自分の敷地から山を取り除けてほしいと祈った話が知られています。政府の職員がやって来て、山を買いたいと申し出たそうです。アスファルトの原料が山に含まれていたので山はみごとに崩されたそうです。でも、山が実際に海に動いたわけではありません。

 けれども、主イエスがお生まれになってからの2000年間、歴史はこの主イエスの言葉をそのまま信じた人によって作られて来たといっも過言ではありません。神がおられるなら山は動くと信じた人が、暗闇を光に変えてきたのです。

 主イエスを信じたばかりの青年が、北海道で途方に暮れたことがありました。無一文になり、職がなく、神に助けを求めていました。誰かが彼の肩に手を乗せました。振り向くと、男性がいました。仕事がある、寝る場所がある、食べ物がある、働かないかと誘われ、洗濯業に足を踏み入れました。10年後、彼は白洋社というクリーニング会社を興し、神の栄光のために働く人となりました。男性の名は、五十嵐健二といいます。

 信仰と祈りはパワフルです。祈りがかなえられたと先取りして生きてみましょう。

 また、心に祈りの家を持つ人は、大胆な祈りと共に、人間関係の分野、繊細な分野で目が開かれ謙虚にさせられます。あなたは、誰を赦しますか。主に罪赦されたあなたの仕事は、鎧を捨てて、誰かを赦すことです。

 まとめをします。
 私たちは、心の中の「祈りの家」を失っていることがあります。そうなると、一番大切な祈りができません。静かな祈りを取り戻しましょう。
 私たちは、大きな山に圧倒されて、意気消沈しやすいものです。第一に神を信じ、第二に祈りをはっきりと口に出し、第三に求めたものはすでに受けたと先取りしましょう。
 主は言われます。「そのとおりになります」と。

 野球好きの男の子がスポーツ店で素晴らしいグローブを見つけました。グローブに手を入れ、ポンとこぶしでたたき、いいなと眺めて棚にもどします。1週間に2回から3回、店に来ては、同じ動作を繰り返しました。2週間、3週間、4週間と同じようにグローブを見に来ました。店長もその子を覚えてしまうほどです。同じことが数ヶ月続いたある日、少年は輝く笑顔でシューボックスを抱えてレジに来ました。ふたを開けると、25セント、10セント、などコインばかりがたくさん入っていました。
 店長はお金を数え、19ドル98セントありますと男の子に言った後、少し考えて、お買い上げありがとうございます、と言ってグローブを包んで少年に渡しました。本当は、値札に79セント98セントと書いてありましたが多少にじんでいたのです。男の子は、喜んで帰りました。

 あなたの番です。あなたが、山を動かす経験をする番です。
 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 あなたの番です。
 →□心に「祈りの家」を取り戻しましょう。
  □あなたにとっての山は何ですか。それを、はっきり口に出して主に願いましょう。
  □かなえられたと信じて、今日から行動してみましょう。

マルコ11:1~11 主がお入り用です

 今日は、ロバについて少し詳しく考えてみましょう。

 ロバに触れる前に、今日の箇所の背景をお話します。
主イエスが十字架にかかられたのが金曜日です。その週が始まる日曜日に、主イエスは、オリーブ山のふのとの町、ベタニヤ付近でロバの子を手に入れ、それに乗って祭りでにぎわう都エルサレムに入られました。ヨハネ11:18によると、ベタニヤはエルサレムから東に3キロメートルほどの距離にあると分かります。人々は「ホサナ」と叫んで、王としてエルサレムに来られた主イエスを熱狂的に歓迎しました。

 「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。』」(7~10節)

 マタイもマルコもルカも、ロバがどのように選ばれたのかを必要以上に詳しく書いています。いきなり赤の他人がロバを連れ帰り、ちょっとした騒動になるというユーモラスな出来事でもあります。これを記録したマタイたちにとっても、ロバと弟子たちの姿が何となく重なり、他人事に思えなかったのかもしれません。


1、主は、子ロバを知っておられた

 「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(2節)

 「ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう」とあります。ロバは、イエスさまとは関係なく、ロバの人生を送っていました。人生ではなく、ロバ生かもしれませんが。主イエスに見られていた事など、まったく念頭にないはずです。
主イエスは、ロバを見ていました。時が来たら、あのロバに乗ろうと心に決めておられたのでしょう。

 主イエスは、あなたを見ておられます。あなたを知っています。あなたが知らないだけです。主イエスは、あなたを心に置いておられます。


2、未知数のロバ

 「まだだれも乗ったことのない」「ろばの子」(2節)と書いてあります。

 このロバは、経験も実績もありません。子供なので、まだ役に立たないのです。

 経験不足、未熟、未知数。それがあなたの姿なら、あなたはロバに似ていませんか。


3、つながれていた

 「表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。」(4節)

 ロバは、家の戸口につながれていました。

 私たちは、主イエスを信じる時まで、様々なものに繋がれ、束縛されていました。罪の奴隷でした。この世の価値観の奴隷でした。否定的なセルフイメージで縛られていました。
主イエスは、あなたを縛っているものから解放して下さる方です。

 主イエスを信じてからも、まだ何かの紐で繋がれている人もいます。毎日の忙しさに繋がれています。ぬるま湯から出られません。まるでサーカスの像のように、杭に繋がれると、自分は逃げ出せないと思い込み、自分はダメだとあきらめています。違います。あなたはできるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 主イエスは、あなたをあらゆる束縛から解き放つ方です。
 今、あなたは何につながれていますか。


4、主がお入用です

 このロバが二重まぶたで美しいとか、力があるとか、血統が良い、気立てが良いとか、書いてありますか。カラオケの歌がうまいとか、コンピュータースキルがある、リーダーシップがあるなどとは書いてありません。選ばれた理由は、ロバの中にはないのです。

 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(3節)

 ロバが選ばれた理由は一つだけです。主イエスが、必要とされたという事です。平和の君、主イエスが乗る動物としてロバが一番適切だったのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就のためにもロバが必要なのです。

 ロバがイエスさまを乗せてエルサレムに向かった時、道を埋めた人々はロバに目を向けたのでしょうか。いいえ。主イエスを見て、賛美したのです。私たちの人生も同じです。主をお乗せして歩くとき、主たほめたたえられるのです。あなたの賜物と、あなたの経験を生かした分野で主イエスをお乗せして歩きましょう。主の栄光のため用いられる。それが、ロバの本当の喜びです。

 使徒行伝の時代、ユダヤから地理的に離れたアンテオケで外国人がたくさんクリスチャンになりました。バルナバがアンテオケ教会に遣わされましたが、バイリンガルの働き人が不足しており、バルナバはパウロを捜しにタルソに出かけ連れてきました。(使徒11:25~26)この場面でも、バルナバはパウロに今日と同じようなことを話したはずです。主があなたをアンテオケで必要としていると。

 イグナチオ・デ・ロヨラは、パリの大学で学んでいたとき15歳年下の青年と寮の同室になりました。1529年のことです。主イエスの福音のためにすべてをささげよと熱く説得し、それに応えたのがフランシスコ・ザビエルでした。

 まとめます。主イエスは、経験も実績もない子ロバに目を留め、つながれていた紐をほどいて新しい出発に導かれました。主イエスは、子ロバのお前が必要だと言って下さいました。この招きに応えた時、主イエスをお乗せしてエルサレムに行くことができました。

 私は大学3年の3月、今日の箇所を読んで、主が私を牧師の働きに招いて下さっていると確信し、水曜の祈祷会であかしをしました。当時は、神学校の学費とか、自分の能力なと、二次的な事に思え、主の招きに応える喜びで心は躍っていました。私が所属していた教会は、私を含め3人が神学校に同時に行くという事態を主からの導きと受け止め、3人の授業料と寮費を全額支援してくれました。今考えても、素晴らしい教会、ささげる教会だと感動します。

 あなたは、人に誇れるものが何もないと嘆いていますか。それなら、あなたはロバです。未熟で、誰も相手にしてくれませんか。それなら、あなたはロバの子です。サラブレッドでない自分を嘆いてはいけません。たとえ人が何と言おうとも、主イエスはあなたが必要だと言って下さいます。あなたのスペアは世界中に一つもないのです。

 あなたが今生きているは、主があなたを必要とされている印です。主の期待に応えましょう。今週、あなたが必要なのだという具体的な依頼が来るかもしれません。「主の用なり」と積極的に自分をささげましょう。


 →あなたの番です
  □王である主は、あなたが必要だと言われます
  □主の招きに応答し、主に用いていただきましょう。
  □どんな分野で、主をお乗せして進みたいですか

第2コリント13:1~13 吟味する

 あなたは、どんな人になりたいですか。どんなクリスチャンになりたいですか。その理想像に近づくために、何をしたら良いでしょう。そのヒントが今日の箇所、第2コリントの最後の章、13章にあります。

1、自分の信仰を見直す

 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(第2コリント13:5)

 Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves. (NIV) まず、自分自身の信仰を吟味する必要があります。それが、理想のクリスチャンに近づく第一歩です。あなたの普通の生活態度、それが、あなたが信仰を如実に表しています。

 今まで、コリント教会の一部の人がパウロをテストしてきたのですが、今度は、パウロが逆にコリント人の信仰のありかたを問いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分をためし、また吟味しなさい。」(5節)パウロは第1コリント16:13で「堅く信仰に立ちなさい」と命じていましたが、コリントの人々は口で信じると言いながら、行動で信仰を否定していました。

 「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。」主イエス・キリストが私たちの中におられる。このことに気づいて生きているなら、信仰に立っていると言えるのです。私たちは、私たちの中におられる主イエスを忘れたり、無視したりして生きる悪い癖を持っています。

 この箇所と関連して、賛美歌の歌詞を思い出しました。アナ・P・ウォーナー(1822-1915)作詞のとても有名な子供賛美歌です。

 Jesus loves me! This I know, For the Bible tells me so. Little ones to Him belong; They are weak, but He is strong. Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. 

 この歌を明治維新の頃、バプテスト宣教師のゴーブルがこう翻訳しました。「エスワレヲ愛シマス。サウ聖書申シマス。彼レニ子供中。信スレハ属ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。サウ聖書申ス。」
 主イエスを信じる者は、主イエスの中におり、主イエスに属しているのです。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)というパウロの説明と同じ思想です。

 会社や学校で、何かの問題に出会ったとき、主イエスと相談しましょう。家庭の事柄や、自分の将来の事で、何かの決断が必要な時、主イエスに尋ねましょう。嬉しいとき、主イエスに話しましょう。悲しいとき、主イエスに伝えましょう。



2、目標は高く

 パウロはこの手紙で何度も自分の役割が、信仰のコーチだと語ってきました。(第2コリント10:8、12:19)10節でも「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」と語っています。

 「私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」(9~10節)

 11節でパウロは、クリスチャンの目指す一つの理想の姿を掲げました。理想の姿を持つこと。それは、信仰の成長を促す一つの方法です。

 「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11節)

 クリスチャンが目指す目標とは、喜び、完全、慰め。一致と平和です。

 「喜びなさい」とあります。神に愛されている、罪が赦されている、主イエスが共にいて下さることによる安心が喜びの土台です。そのままで良いという大きな安心が私たちを包みます。
 カトリックのシスターで大学理事長をされた渡辺和子さんは、一日を振り返り3つの感謝をノートに書いたそうです。こういう姿勢は、喜びを習慣化させる良い方法ですね。
昨日プロポーズされ結婚を承諾した女性の喜びが簡単に消えないように、神の愛は私たちに大きな喜びを与えてくれます。

 「完全な者になりなさい」とあります。目標は高いほうがいい。パウロが掲げる目標はとてつもなく高い。高いがゆえに、私たちは自分の不十分さに気づき、成長したいと思うのです。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)とマリヤが言ったように、神が共にいて、神が助けて下さるなら、高すぎる目標ではないのです。
 あなたは、どの部分を変えたいですか。何を身に着けたいですか。何を学びたいですか。理想のクリスチャンになるには、今日何をしたらいいですか。今週何をしますか。この1ヶ月で何をしますか。この1年、この10年で何をしたいですか。

 「慰めを受けなさい」とあります。新共同訳では「励まし合いなさい」となっています。パウロがこの手紙の中で特に強調してきたことは、弱さと慰めでした。生きているなら誰でも必ず落ち込みます。それが人間です。だから、神と人からの慰めと励ましが必要なのです。
 垂直方向での神との交わりと共に、水平方向の人間との交わり。この両面があって初めて、クリスチャンは成長します。
 ある高校の先生が卒業式の後で、一人の生徒にこう言われたそうです。「先生だけは、私を見捨てないでいてくれました」家庭的にも、成績面でも問題があった生徒でしたが、その先生は授業中にこの学生と目が合うと、微笑んであげていた事を思い出しました。

 「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」とあります。一人で聖書を瞑想し、長時間の祈りを行い、霊的に高められ、心が完全にきよめられたという人がいたとします。ところが、家庭ではわがまま、職場では他人を無視、教会では仲間を見下ろすなら、その人は裸の王様と同じことになります。
 周囲の人、とくに家族や親友などの間で、愛を通わせ、交わりを修復できる能力はとても必要です。あなたは、誰かを具体的に援助していますか。誰からか相談を受ける人ですか。交わりの中でも平和や一致を求める人になりましょう。

 あなたはどんなクリスチャンになりたいですか。理想と今のあなたは、どれくらい違いますか。どうしたら、そのギャップを埋められますか。

 最後の祈りは、キリスト教会に広く知られている祝祷です。父なる神、子、聖霊が同列に扱われ、三位一体の根拠となる大事な聖句でもあります。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)

 あなたがどんなに罪深くても主イエスの恵みは必ず届きます。自分が無価値に感じても、神の愛は無限にあなたを包んでくれます。孤独をかみしめているなら、聖霊があなたの真の友であり、あなたとの交わりを決して放棄しないことを忘れないで下さい。

 この10年間、ほとんど毎日、私たち夫婦は夕食後にウォーキングをしてきました。共に歩き、共に語る中で、妻と心を通わせることがどんなに大切なことかを知りました。
 妻との心のつながりが深くなる中で、主イエスと共に歩むという意味がだんたんど理解できるようになりました。それに比例するように、信仰とは何か、少し分かるようになってきました。聖書知識を頭に詰め込むことや、自分の意志の強さで物事を行うことや、特殊な奇跡を待って手を上げ続けることが信仰の本質ではない。生きておられる主イエスと共に、歩くことが信仰の中核なのだと気づいてきました。

 子供賛美歌でもう一つ、私の好きな歌があります。「主イェスと共に歩きましょう、どこまでも。主イェスと共に歩きましょう、いつも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、いつも。」あなたも、主イエスと共に歩きましょう。

 →あなたの番です
 □あなたの信仰を吟味しましょう
 □喜び、完全、慰め、平和を求めましょう。
 □理想のクリスチャンになるために何をしますか
  今日、何をしたいですか。1ヶ月内に何をしたいですか。
  1年以内に何をしたいですか。10年の間に何をしたいですか。

第2コリント12:1~21 弱さを誇る

 履歴書に自分の欠点や弱さを書く人がいるでしょうか。たとえば、国際線の飛行機に乗り遅れたことが2回、なくした携帯電話は5個、失恋が3回。
 パウロは、あえて弱さを明らかにしました。それは、なぜでしょう。
 
1、頂上の経験  <第三の天に引き上げられる>

 自分の強さを語る。それが、自分の立場を守る普通の方法です。

 「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。」(2節)

 14年前とあるので、この経験はダマスコにおけるパウロの回心の出来事ではありません。1節では「主のまぼろしと啓示」とあるので、主に主導権があったと理解できます。「引き上げられました」との表現からも、神によってもたらされた特別な経験だと分かります。
 「第三の天」は、4節で「パラダイス」と置き換えられています。パダダイスは、新約聖書で3回だけ登場する言葉で、主イエスが十字架上で悔い改めた強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言われたことから、主イエスを信じた者が死後にいく場所、主イエスがおられる場所だと分かります。黙示録によると「いのちの木の実」(黙示録2:7)のある場所がパラダイスだと言われていますが、それは天国と良く似ています。(黙示録22:2)

 「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(4節)

 これは、エベレストの頂上に立つような霊的な経験です。これ以上高い山はない、クリスチャンとしてこれ以上素晴らしい体験はない一生に一度の歓喜の時となりました。

 あなたも、このような頂上の経験がありますか。

 信仰的に最も恵まれた経験。奇跡を体験した。祈りの中で主がすぐそばにおられるような時を過ごした。神の言葉を耳で聞いた。
 そうした霊的な経験以外でも、頂上の経験に似たものはあります。あなたの優れた能力。財産や家柄という誇り。身体的美しさ。賞賛を受けた業績。

 これらの頂上の経験は、危険要素をはらんでいます。自分を大きくみせようとする傲慢さが忍び込んできます。周囲の人を見下したり、裁いたりしやすくなります。



2、谷底の経験  <肉体のとげ>

 パウロは、次に、自分の弱さを語り始めました。

 「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(7~8節)

 「肉体のとげ」ということは、実際の痛みがありことを意味します。「私を打つ」という表現から、その痛みが激しいものであると分かります。神からの愛の警告とは言わず、「サタンの使い」という言葉を選んだところから、情け容赦のない痛みだと想像できます。命を投げ出すように必死に何度も祈ったけれども聞かれなかったという事を、「三度も主に願いました」という言葉で表現しました。これほど真剣に純粋に祈ったことがなかったのに、かなえられなかったのです。

 パウロの肉体のとげは、何だったのでしょう。パウロは詳細に書きません。目の病気、むち打ちによる後遺症、ひどい持病、てんかんなどの可能性が聖書学者により指摘されていますが、とにかく、パウロは具体的に書きたくなった事なのです。肉体のとげとは、言いたくない事なのです。

 第三の天に引き上げられたのが山頂の経験と言えるなら、これは、谷底の経験です。
 祈ってもかなえられない、無力さ。サタンの使いに苦しめられるという霊的暗黒。何度も襲ってくる痛みの中での、みじめさや孤独。パラダイスの経験は一度きりでしたが、肉体のとげは頻繁に襲ってくる現在形の痛みであり、いつ終わるともしれない不安を伴いました。

 あなたの弱さは何ですか。とげは何ですか。谷底の経験は何ですか。

 失恋の痛手。最愛の人を失った悲しみ。他人には当たり前のことが自分にはできない辛さ。生まれた家や家族の恥や痛み。自分が抱える肉体的なハンディー。

 みじめさ。疑い。痛み。孤独。無力。私たちは、みな、この種の弱さを抱えています。



3、頂上と谷底がつながる時

 普通の人なら、頂上の経験はフォトフレームに入れて飾ります。パウロも、それだけ離せば、にぜ使徒たちを蹴散らすことができたのです。
 肉体のとげという悩みは心の引き出しの一番奥に放り込み、誰にも見せないものです。パウロはそうしませんでした。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロは、肉体のとげについて主に除去を願い出ました。その祈りの期間が、数ヶ月か、数年かは分かりません。でも、主イエスの言葉が、心に届いたとき、はじめて、頂上と谷底がつながったのです。

 第三の天の経験で高ぶることがないように、痛みはどうしても必要なものだったのです。

 「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないよに」(7節)

 肉体のとげや弱さというのは、欠けたり不足した状態ではないとパウロは悟りました。「わたしの恵みは、あなたに十分である」とあるように、痛みと恥と無力感の中に、主イエスの恵みが不足することなく十分に注がれていたのです。主イエスの愛は、弱さの中にあふれるほど注がれているのです。主イエスの力は、私の弱さの中にこそ現れるのです。それも、完全に。弱さこそ、主イエスを身近に感じられる入り口です。

 伝道者の正木茂先生は、その著書に何度も内山さんという方の話を書いておられます。内山さんは九州の大学病院に入院されていた方で、とても難しい病気になられました。当事は治療法がなく、薬の入った風呂に全身を浸しておく以外生きていくすべがないという状態でした。
 主イエスを信じていた内山さんは、薬の液が滴る手で手紙を書き、主イエスを伝え、困難の中にいる人を励ましました。亡くなる前の最後の言葉は、「神は愛だ。それは本当だ。かみの恵みは私に足れりだ」と言われて天に召されたそうです。

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

 弱さが、神への信頼を強めてくれます。
 弱さが、愛の人を作ります。
 弱さが、傲慢にならないための防波堤になります。
 弱さが、主イエスが身近におられると教えてくれます。
 弱さが、主イエスの力の注ぎ口です。
 弱さは、宝です。

 「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

  あなたの番です→
   □あなたの「第三の天」の経験は何ですか
   □あなたの弱さ、「肉体のとげ」は何ですか
   □今週、あなたの弱さを生かして、主の栄光を現しましょう
 

第2コリント11:16~33 心配と苦しみ

1、異なる福音

 あなたが真面目な人かどうか、ちょっとテストをしてみましょう。
1)深夜、交差点にあなたが立っています。どこにも自動車がいません。歩行者用の信号が赤ですが、渡りますか、待っていますか。
 2)お店でおつりをもらいましたが、10ドルよけいでした。返しますか、主の恵みと勝手に納得して、もらいますか。
 3)車の運転席から、ガムやタバコを捨てる人を見たら怒りますか。
 信号を待ち、おつりを返し、怒るなら、あなたは正真正銘の真面目な人です。

 クリスチャンが真面目になりすぎるとやっかいな問題が生まれます。それは、律法主義です。一方的な恵みで救われたことを忘れ、真面目でいることが救いの土台であり、真面目に行動することがクリスチャンの目標だと思い違いをする人がいます。

 パウロは、コリント教会に混乱を招いた人々を、「にせ使徒」(13節)と呼んで糾弾し、にせ使徒が、「異なる福音」(4節)を持ち込んだと指摘しました。

 「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(13節)

 「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(4節)

 異なる福音とは、律法主義です。主イエスを信じるだけでは不十分で、ユダヤ人のように行動することが必要だと主張しました。ガラテヤの教会でも同種の問題が起き、パウロは以下のように救いの本質を説明しました。

 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)

 人間は、自分の行いや真面目さが救いにつながると考えやすいものです。ですからパウロは、救いの本質が恵みであると語り、人間の力や熱心、真面目さを誇ってはならないと語りました。

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 真面目なクリスチャンは、自分の思考パターンに気をつけてください。自分の良い行いを誇らないようにしましょう。自分だけがクリスチャンのエリートだと錯覚して、他人をさばくことのないようにしましょう。



2、差し出した愛

 人が何かを誇るときは、自分の業績や能力を誇るものです。ですからパウロは、自分が教会を多数開拓し育てたことを誇ることができたはずです。病人をいやした事や、学歴が高く聖書の知識に精通していること、復活された主イエスにダマスコで会った事などを話せば、にせ使徒との差別化ができます。けれども、パウロはそうしませんでした。その代わり、主イエスのために苦しんだ事だけを語りました。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(第2コリント11:24~27)

 三十九のむちを受けたことが5度あるとパウロは述べました。申命記25:3によると、ユダヤでのむち打ち刑は40回が上限とされていました、つまり、これ以上の刑は死刑しかない重い刑であることが分かります。
 ユダヤ人以外から受けたむち打ちが3度と書いてあります。これは異邦人によるむち打ち刑を指します。使徒16:33で、ピリピでパウロがむち打たれた後に、傷を洗ってもらったことが書いてあることから、ローマ兵によるむち打ち刑がどんなに過酷な処罰か分かります。
 石で打たれたと書いてありますが、これは死刑なので、生き延びたこと自体が例外的出来事でした。

 パウロがむち打たれていた時、何を考えていたでしょう。主イエスが十字架で苦しまれたことを思い起こしていたのではと思います。

 最後にパウロは、あちこちの教会のクリスチャンに対する心配で押しつぶされそうになったとも書いています。(28~29節)苦しみ以外に誇れるものは、自分が弱いことしかないと語ります。
 「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30節)


 パウロは、11章前半で、コリント教会の人々のことが心配だと書き、後半では、主イエスのために苦しんだことを書きました。
 誰かのことが心配になる。誰かのために苦しみを担う。それを一言で言い表すなら、愛です。パウロが、コリントの教会と、主イエスに差し出したものは、愛だったのです。


 あなたも、主イエスのために、迫害されたり、ばかにされたりしたなら、あなたは主イエスを愛しているとあかししているのです。今週、主イエスのために苦しみを背負ったなら、しっかりとそれを背負いましょう。

 身近な人のことで、心を痛めたり、苦しんだりしていますか。難しい10代の子供に振り回されていますか。それは、あなたが、その人を愛しているという証拠です。愛しているなら、苦しみを共に担いましょう。

 主イエスは、十字架であなたのために苦しみを背負ってくれたのですから。


 あなたの番です→
 □良い行いを誇らない
 □苦しみの中で主イエスの十字架を思う
 □愛しているなら、苦しみも心配も背負って歩こう

第2コリント10:1~18 「強さ」とは

 パウロは、コリント教会の一部の人から批判を受けていましたが、10章からその問題を本格的に取り扱います。
 
 あなたは批判する人ですか。批判を受ける立場ですか。

 今日は、批判に関する問題を取り上げながら、本当の強さとは何かを考えてみたいと思います。


1、的外れな批判を受けたパウロ

 パウロは、コリント教会の開拓伝道者であり、初代牧師でした。コリント教会を離れて数年たった今、教会の一部の人、おそらく外部から入り込んで来た人々によってパウロは鋭く批判されていました。

1)信仰的でない
 パウロを批判する人々は、パウロが「肉に従って歩んでいる」(2節)と非難しました。パウロが神を忘れ、自分の力だけで仕事をしていると指摘したのです。これは、一方的な思い込みです。パウロをねたむ心が背景にあったのでしょう。
 パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」(3節)と切り返しました。パウロは、神に由来する力を体験していました。(4節)

2)弱々しい
 「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」(10節)
 パウロが謙虚に話したり聞いたりした姿勢を、弱腰だと非難しました。使徒26章によればパウロはアグリッパ王の心を揺るがす説教をし、使徒22章によれば暴徒たちの前で救いのあかしを堂々としたので、むしろパウロは雄弁であることが分かります。
 パウロは、「そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。」(11節)と答えました。

 リーダーとは、批判という海を泳ぎ続ける人のことです。

 私は、高校時代は運動部のキャプテン、大学時代は聖書研究会のリーダー、そして、長い年月牧師をしましたが、リーダーであることは批判の中に生きることだと認識しています。
 あなたも、会社で長く働けばリーダーになります。「長」の付く役職になります。家庭でも、結婚して子供が与えられれば、父であり母であり、家庭のリーダーになります。教会でも様々な奉仕の中でリーダーになります。男はつらいよ、ではありませんが、リーダーという立場はつらいのです。

 批判にさらされるリーダーであることを止めなかった人。それが、パウロです。それが、本当の強さです。



2、問題のある批判者

 非難している人自身に問題があるとパウロは指摘します。

1)高ぶり

 小林一茶は、「他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貪欲、恐るべきはおごり」、と言いました。
パウロは、批判者の心に高ぶりがあると見破りました。

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

 非難という行為は、高ぶりから出て来る場合が多いものです。自分を良く見せたい、自分がリーダーになりたい、尊敬されたい、という願いが私たち自身を高慢にします。神を敬う心を忘れ、自分の弱さから目をそらしています。

 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(6節)
 本当の強さを持つ人は謙虚です。主イエスに従順な心は、自分の限度や割り当てを自覚できます。
 「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。」(13節)

2)間違った優越感

 批判者は、間違ったエリート意識を持ちます。自分たちだけがキリストに属していると勘違いしていました。

 それで、パウロは、こう諭します。「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」(7節)

 本当にキリストに属している人は、キリストに属している他のクリスチャンを見抜けるはずです。それが見抜けないのは、批判者がキリストに属していないという証拠になります。


3)自己推薦している(12節)

 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」(12節)

 コリント教会に紛れ込んだ、<にせ使徒>、あるいは、<にせ教師>は、パウロの悪口を言い、コリントの教会の一部の人々は完全に巻き込まれてしまいました。
 こういう種類の人を、私は「教会無宿ならず者」と呼びます。信仰年数が長い人が、どこかの教会に流れ着きます。神学校で聴講した経験があったり、教会役員経験者、学識者、社会的地位の高い人の場合もありますが、こうした人が、家庭集会などで周囲の人の不満を上手に聞き出し、牧師批判を始めます。教会が分裂状態になり、牧師が辞任せざるを得ない状態になります。私は、こうした例をあちこちで見聞きしてきました。
 あなたを含めて、すべてのクリスチャンはそういう人になる危険があります。霊的傲慢ほど恐ろしいものないのです。

 パウロはこう言いました。「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17節)
 「主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(18節)




3、私はどうだろう


 あなたは、批判者ですか。あなたは、批判される人ですか。

 批判的態度だけで一生を終わらせると、「いじわるばあさん」、あるいは、「頑固じじい」になります。神を知り、信仰の成長を遂げた人は、「励ましじいさん」と「感謝ばあさん」になれます。


 良いものを生み出すために、正当で客観的な評価は必要です。問題は、独断的で悪意ある心や否定的な感情に支配された人の批判です。

 誰かを非難したいという衝動にかられたなら、神の前で静かに祈ってみましょう。平安があなたを覆うなら、適切な言葉を選んで、本人に直接話して下さい。平安がないなら、止めましょう。
 批判の言葉でなく、具体的で、積極的な提案をしましょう。さらに、私に協力させてくださいと一歩前に出ましょう。

 第二次世界大戦中のイギリスの首相チャーチルはこう言いました。「築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。」

 今日の一番大事な言葉はこれです。

 「あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。」(8節)

 「立てるために主が私たちに授けられた権威」私たちは、評論家になるために生まれたのではありません。文句を言うだけの人、悪意ある批判をする人、自分以外を否定する人、否定的な言葉で他者を叩き潰す人になるために神に造られたのではありません。私たちはみな、誰かを立てあげるために生まれてきたのです。

 私の知り合いのイラストレーターは、アメリカの会社に中途採用され、絵がうまいので先輩にねたまれました。先輩は部下を使い嫌がらせをさせ、「I don’t like you」と職場で言わせました。クリスチャンの彼は、「I like you」と返事しました。再び「I don’t like you」
と言われても、「I like you」といい続け、結局喧嘩にも、混乱にもなりませんでした。


 何かを作り上げたいという目的を持ったリーダー達は、困難を乗り越え、問題的を改善し、調和を作り、最終目的に邁進する人です。目的達成のためなら、泥をかぶること、叩かれること、傷を負うこと、批判されること、遠回りの道も厭いません。

 あなたは、どちらですか。壊し屋ですか。建築家ですか。家庭や教会、会社や地域で、どちらの立場にいますか。無責任な批判者で一生を終えますか。勝利を信じて汗を流し手を取り合って進む主イエスの弟子になりませんか。

 主イエスは、公生涯のほとんどを律法学者からの批判を浴びて歩まれました。けれども、主イエスは、批判ばかりする私たちの罪を赦し、ネガティブな私たちを積極的に励ます十字架の道を選ばれました。主イエスこそ、真の建築家です。

 「十字架は重いが、ふしぎなことに、
 おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
 初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
 この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。」
      ―ヒルティ「眠られぬ夜のために」3月13日―


 あなたの番です→
 □批判的になりやすい自分の動機を見つめよう。
 □建て上げる人になろう。提案者になろう。サポーターになろう。
 □主イエスに習い、批判につぶされない、強さを持つリーダーになろう

第2コリント9:1~15 豊かに刈り取る

 今日も前回に続き、献金について考えます。今回の箇所を思い巡らす中で、マルコ12章の主イエスの様子を思い出しました。

 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」(マルコ12:41~42)

 主は、献金する人々を見ておられました。
 信仰は信仰、お金や商売は信仰とは別の問題と考えるべきではありませんね。主イエスは、献金がその人の信仰状態を表わすものだと気づいておられました。


1、生活習慣の改善

 1節から始まる献金の勧めは一見唐突に見えますが、パウロには考えがあったようです。罪のために元気を失い、ばらばらになっていたコリント教会は悔い改めにより新しいスタートを切りました。次にコリント教会に必要なのは、結束した行動であり、具体的なやり直しです。
 コリント教会は、エルサレムの貧しい人たちへの献金を開始しましたが、途中で中断していました。(第1コリント16:2~3)このプロジェクトを完成させれば、コリント教会の人々の喜びとなり、自信になります。
 
 クリスチャンになると、雰囲気や言葉使い、仕事の態度が変わります。次の段階としては、お金の使い方においても、神に喜ばれる道が何かを考えるようになります。
 家庭やビジネスでのお金の使い方について、神の光を当て、神に喜ばれるお金の使い方をしませんか。そのために、献金はとても意味ある行為です。



2、種まきの原則

 「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(6節)

 献金は、失うことではありません。種まきです。少し蒔けば刈り取りは少ない。多く蒔けば豊かな収穫になります。献金とはそういうものです。

 献金をどれだけしたらいいか、と尋ねられることがあります。クリスチャンでない人には、自由です、強制されません、と私は説明します。神が分からなければ、献金の意味は理解できないからです。クリスチャンの人には、10分の1の原則を紹介しています。

 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

 「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」(レビ記27:30)

 大学4年の時、私はお菓子の詰め合わせ工場でフルタイムで週に3日ほど働きました。初めてもらう給料に喜びを覚えたのは、私としては高額の献金ができるからでした。礼拝では、格別の感激をもって献金したことを覚えています。それ以来、収入の10分の1をささげるという生活を30年以上続いています。主は約束通り、祝福を与えて下さいました。

 収入が少ない時から、主に献金する生活を始めましょう。そうすれば、収入額が大きくなったときにも同じようにできます。リック・ウォレン牧師が今では十分の九を献金としてささげているとメッセージで聞いた時、英語の聴き取りを間違えたのではないかと思ったほどでした。

 静かな心で考えてみると、私たちはすべてを神から頂いています。命も、空気も、平和も、家族も、仕事も、お金も、罪からの救いも。献金は、10分の10を神から頂いていることを絶えず思い起こし、10分の1を感謝と礼拝の印としてささげる行為なのです。
 神を第一とする人に、神は必ず応えて下さいます。


3、ささげるために、与えられる

 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(8節)

 献金をささげたいという心を持つなら人なら、心配はいりません。神がまず必要なものをすべて与えて下さっているのですから。8節には、「常に」「すべて」「あふれる」「あらゆる」という言葉が繰り返し使われているのが印象的です。

 「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

 最終的には、こうした献金が神の栄光を表し、エルサレムの人々に喜びをもたらします。(11~15節)

 15節で、「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」とパウロは書いていますが、神からいただいた賜物とは主イエス・キリストを指しているように読めます。神のひとり子、真の救い主が私たちに与えられていることを思うと、自分自身を主にささげ、与えられているものを主と人々のためにささげていきたいと自然に願います。

 あなたの番です→
  □神が、10分の10をあふれるほどに与えて下さっている事を感謝しましょう
  □生活を点検し、献金の喜びを体験しましょう
  □身近な人に、分けること、与えることを実行しましょう

第2コリント8:1~15 献金の祝福

 7章で主からの慰めを語ったパウロは8章に入り、具体的な問題を取り上げました。

 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。(第2コリント8:1)

 マケドニヤとはコリントの北方の地域を意味し、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会を指します。これらの教会が、神の恵みを受けたことを伝えたかったのです。
 神から具体的に何か良いものをもらったから恵みなのでしょうか。いいえ。マケドニヤの教会が献金したことにより受けた神からの祝福を、恵みと呼んでいるのです。

 今日は、献金の祝福を3つの角度からお話します。献金は、1)喜びをもたらし、2)礼拝の真髄に導き、3)キリストの御姿に近づけてくれるものです。

1、与えることが喜びをもたらす

 私たちは物を集めることや金を貯めることに喜びを感じます。ですが、意味あることのために失うならば、喜ぶことができます。
 実家に帰ると、子供を手ぶらで返したくないので、親はがらくたのように見える物でも(失礼!)、「これ、持っていきなさい」と与えます。心臓病になった子供を助けるために、親は貯金を使い果たして借金しますが、そこに親の喜びがあるのです。

 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(2節)
 
 マケドニヤの教会の人々は、苦しい試練の中にあり献金どころではなかったはずです。極度に貧しかったので、与えることは本来は不可能でした。けれども、持っているお金をささげたのです。その結果、あふれる喜びが生まれたのです。「満ちあふれる喜びは」「あふれ出て」とあるとおりです。

 失うことで得る。貧しくなることで、富む。
 これが、神が与えて下さる恵みです。
 私たちは本来、分け合って生きていくように神に造られたのです。


2、自分自身をささげる礼拝者

 私たちは、献金することによって、礼拝の真髄を学ぶことができます。

 礼拝の本質とは何でしょう。それは、神への賛美と感謝であり、神のみこころを知って自分自身を主にささげることです。
 ローマ12章1~2節に書かれている霊的な礼拝の原則も、神のみこころを悟り、自分をささげることだと言っています。主に自分をささげることの一部として、献金があるのです。

 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第2コリント8:3~5)

 マケドニヤのクリスチャンは、「神のみこころ」(5節)を求めました。これが神を第一とする姿勢です。神のみこころに応答して、「まず自分自身を主にささげ」ました。「自ら進んで」(3節)、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(4節)まだ見たこともないエルサレムの貧しい人々への資金援助を彼らは決断したのです。

 私たちも礼拝でこう祈りましょう。主よ、私に命を下さり感謝します。生かして下って感謝します。家族や仕事を感謝します。罪から救って下さり感謝します。あなたは素晴らしい神です。あなたをたたえます。私のもっているものはすべてあなたから出たものです。どうぞ私を用いて下さい。私自身をささげます。私の経験と賜物を用いて下さい。そして、私の財産を用いて下さい。これらすべてを通してあなたの栄光が表されますように。

 献金することで、まことの礼拝が何かを知ることができます。


3、キリストに似る

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(第2コリント8:9)

 富んでおられた主イエスが、貧しくなられました。キリストの貧しさが、私たちを豊かにして下さったのです。

 今夏、パサディナにあるノートン・サイモン美術館でヤコブ・ファン・ライスダール(1628-1682)の大きな風景画を見て、しばらく釘付けになりました。
 ライスダールはレンブラントと同じ時代にオランダで活躍し、風景画の巨匠ターナーやロマン派のドラクロワなどにも影響を与えた画家です。私が見たのは、川のある山の風景に立つ3本の偉大な木という作品でした。森の中にそびえる3本の木が中心に描かれています。ちょうど光が差し込んでいる一本の大木の幹が無残に折れています。私は、その木に吸い寄せられ、見つめ続けるうちに大きな感動を受けました。なぜだろう。折れた木が、付近の自然を力づけ、川となり地域を潤しているように見えました。
 そうか。この木は十字架だ、と自分なりに解釈しました。

 死んでくださったお方により、私たちは命をもらいました。無実の方が、罪深い私のために身代わりになってくださいました。富んでおられた方が貧しくなって下さった。主イエスの生涯とはそのようなものです。

 献金することは、このような主イエスをほんの少し真似ることになります。貧しくなることを学ぶときです。

 今日のまとめをしましょう。献金する中で私たちは神の恵みを確かに頂きます。その具体的な意味は、以下のようなものでした。
 1)与えることで大きな喜びを受ける
 2)自分自身をささげる礼拝者になれる
 3)キリストに似た者にされる

 あなたも、心から献金することにより、神の恵みを味わいませんか。

 あなたの番です→
  □献金できることを喜びましょう
  □神への礼拝として献金しましょう
  □今週、誰かに分けたり、与えたりしてみましょう

第2コリント7:1~16 悲しみと慰め

 悲しむ時、落胆した時、私たちが求めるものは何でしょう。それは、慰めです。今日は、慰めについて考えましょう。

1、安らぎを失い、気落ちした時

 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。(第2コリント7:5)

 パウロは、安らぎを失っていました。信仰の勇者パウロでも狼狽することがあるのです。厳しすぎたかとコリントに宛てた手紙の内容を一時は後悔しました。(8節)
 パウロは、コリント教会に書いた手紙の反応を心配し、トルコ半島の北西部の町トロアスでいてもたってもいられず、海を渡ってギリシアに渡りマケドニア地方に移動したほどでした。(第2コリント2:12~13)

 あなたは今日、安らぎがないかもしれません。仕事や家庭の問題で、まさに「外には戦い」(5節)という状態ですか。あるいは、心の中の心配事が多すぎて「うちには恐れ」という状態かもしれません。このようにストレスの多い毎日の生活に、決定的と思えるような大きな問題が一つ加わると安らぎを失い、気落ちします。正面から問題に立ち向かう気力を失います。

 かなり昔のことです。サーカスのチケットを買うために夫婦とその子供8人が立っていました。良くしつけされた子供達は二列に並び、サーカスの楽しさを想像して期待に胸をふくらませて語り合っていました。
 父親が担当者からチケットの総額を聞いて「えっ、いくらですって」と困惑の表情を浮かべました。思った以上に高額だったのです。そのとき、誰かが肩をたたきました。見知らぬ男性が「失礼ですが、この紙幣があなたのポケットから落ちましたよ」と言うと、入場料に見合うお金を差し出しました。その父親は目に涙を浮かべ、感謝してそれを受け取りました。

 私たちの神は、「気落ちした者を慰めてくださる神」(6節)です。生きて働く神が、あなたを慰めてくださいます。あなたは、それを信じますか。

 「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)


2、悲しみの力

 コリント教会で何かトラブルが発生したようです。12節によれば、悪を行った加害者とそのために被害を受けた人がいるようです。教会の対応が適切でなかったため、問題解決ができず、悪い影響が残ったようです。
 パウロは、根本的な解決のために、問題の原因がどこにあるのかを厳しい言葉で指摘し、何をすべきかを指導したようです。テトスが戻って来て、良い知らせを伝えてくれました。

 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。(6~7節)

 コリント教会の人々は、パウロの手紙を読み、テトスの説明を聞き、二つの点で大きく変化しました。罪を悲しみ、態度を変えてパウロを心から慕うようになったのです。
 問題解決の鍵は何だったのでしょう。それは、神のみこころに添った悲しみです。

 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第2コリント7:9~10)

 悲しみには、力があります。

 神のみこころに添って悲しみ、悔い改めるなら、前に進む力が与えられます。

それは、憎しみを引きずった悲嘆のことではありません。悔し涙でもありません。神の前での自分の罪を嘆くことです。

 神のみこころに添った悲しみからは、赦しの喜びが生まれます。優しい気持ちになれます。自然な形で、周囲の人に「ごめんなさい」と言えます。自分らしくなれます。神に愛されていることを、しみじみと感じさせてくれます。現実的に問題解決をしようという勇気が与えられます。

 悲しみは、慰めの注ぎ口になるのです。

 主イエスの言葉を思い出します。「悲しむ人者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 若い女性が、買ったばかりの新車を運転中、停止していた車に追突しました。夫に買ってもらった車なので、ショックが大きく、思わず泣いてしまいました。
 事故処理のため車の登録証を出そうとダッシュボードから封筒を出すと、中に紙が入っていていました。夫の字で事故を起こした時の対処法が書いてありました。その中に、「僕が愛しているのは車じゃなくて君だということを忘れないでほしい」と書かれてありました。

 父親の皆さん。妻と子供たちに、「すまなかった」と心から言いましょう。あなたの悲しみが、誰かを慰めることになります。奥さんたち、夫と子供達に言いましょう。「悪かったわね」と。子供達、兄弟や父母に言いましょう。「ごめんなさい」と。

 あなたの神の前での悲しみは、周囲の人をいやします。

 あなたの番です→
 □「気落ちした者を慰めてくださる神」は、あなたの肩に手を置いて下さいます。
 □神のみこころに添った悲しみをあなたのものにしましょう。

第2コリント6:1~18 今は恵みの時

 神の恵み。
 それは、神から人に注がれた愛の別名です。
 今日は、神の恵みを無駄にしない生き方を考えてみましょう。

1、釣り合わないくびき
 
 最初に、6章の最後のパラグラフである14節から7章1節の部分を取り上げることにします。ここでパウロは、率直に、大胆に、これから結婚しようとする人に対して忠告しました。

 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(14節)

 くびきとは、二頭の牛の首に木材を乗せて首をつなぎとめる農耕器具です。信仰を持っていない人がすでに頭を入れているくびきに、クリスチャンが頭を入れないように、とパウロは警告しています。この場合のくびきは、不自由さ、重労働、不平等さ、などがイメージされています。

 パウロは、正義と不法、光と闇、神とベリアル(サタン)などの接点のないペアを列挙し、釣り合わない結婚もそれと同じだと指摘しました。15~7章1節において、パウロは旧約聖書を複数箇所引用し、<分離すること>の大切さを語りました。

 フラー神学校の心理学者で結婚カウンセラーのニール・カレン・ウォレン博士は30年以上の臨床経験から、精神世界を重要視する人とそうでない人の結婚は必ず問題にぶつかる、とその危険性を警告していますが、パウロが2000年前に述べたことを現代的視点で検証していると言えるでしょう。

 結婚に限らず、クリスチャンがこの世の中の罪の伝統、社会や会社の悪いしきたりに染まるということも、同じ問題をはらんでいます。「彼らと分離せよ」(17節)とパウロは言います。こうした生き方は、神の恵みを無駄にしない生き方の一つです。

2、今は恵みの時

 パウロは5章で神の救いの素晴らしさを語り、パウロ本人も私たちも福音を伝える使節として任命されていると語りました。6章の冒頭1~2節では、その余韻が残る中で、今こそ、神の救いを受けよと熱く呼びかけます。罪を知らない方を十字架にかけてまで(5:21)、あなたを救おうとした神の恵みをむだにしてはいけない、今日は救いの日だと述べます。

 「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(1節)
 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2節)

 神の恵みは、感謝して受け止める人がいないなら、無駄になります。まるで、受け取り手のいない流しそうめんのようです。
主イエスを救い主と信じる。これが、神の恵みを無駄にしない、最も大事なことです。今、救いに招かれていたら、今、主イエスを信じましょう。

 あなたがすでに、主イエスを信じているクリスチャンなら、愛において成長し、キリストの姿へ変えていただきましょう。
 友達が「パンクして困っている」と電話してきたとします。あなたならどうします。それも、相手がアリゾナにいたとしたら。

 成長のポイントは、決断をして愛の行動をすることです。大切な人のため、まるで車をユーターンさせるように、親切さと思いやりのある行動を選ぶことです。

 恵を無駄にしない生き方とは、神の愛に応答して、実際のアクションに落とし込むことです。



2、福音にふさわしく

 パウロは、自分が語る内容と、自分の生活態度が矛盾しないように生きていると3節から10節まで語ります。これも、恵を無駄にしない姿勢です。

 「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と」(4~6節)

 福音にふさわしく歩もうとするなら、困難は避けられません。それは、パウロの人生を見れば一目瞭然です。パウロはその苦しみの中でも、寛大な心や思いやりを忘れませんでした。原文のギリシャ語を読むと、苦しみも親切も同じ文章形態で書かれてあり、パウロにとっては、苦しさに耐えることと、人を思いやることに、何の区別もないことに驚きます。

 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(6~10節)

 私たちは、人から評価されたり非難されたりして一喜一憂しますが、人生とはそういうものだとパウロは達観しています。
外見は、否定的で、弱くて、貧しく、魅力のないものに見えるのがクリスチャン生活の一面です。ところがどっこい、実態は正反対だとパウロは体験的に言います。
 貧しくても人を富ます生き方ができると言います。無一物無尽蔵。それは、主がおられるので可能となるのです。主の恵みゆえに実現する信仰生活の真髄なのです。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」

 トム・ハーケンは1992年、レストラン事業で大成功した創業社長としてアメリカで栄誉ある賞を受けました。彼は、長い間字が読めず、書けなかったことをその時のスピーチで自分の子供たちと出席者の前で明かしました。妻の助けで、やっと克服したといいます。
 小児麻痺と結核のため教育を受ける機会を失ったトムは、字が読めないままで掃除機の訪問販売を行い、名前、住所、電話番号、購入機種などを暗記、書類書き込みを夜になって妻に頼みました。そうした熱意が全国一のセールスマンにしました。
 トムがアメリカの有名大学で、名誉博士号を授与され、卒業式の記念スピーチをしたことがありました。その前夜、大学当局者から、我が大学は中立をモットーとする格式のある大学なので神についての話をしないでほしいとやんわりと忠告されていましたが、「大学に必要なのは神です。神を知らない人生は問題にぶつかる。神を求めましょう」と大胆に語り、聴衆のスタンディングオベーションを受けました。トムはどんな場所に行っても、神に助けられ、妻に支えられ、今の自分がある、とあかし続けています。

 神の恵みを無駄にしないため、あなたはどんな選択をしますか。

 神を第一に、福音のためにすべてのことをする決断を絶えずしていくなら、主はあなたの人生を豊かに祝福してくださいます。
 たとえ、苦難があっても、別れがあっても、貧しくても、弱くても、主と福音のために生きる人には神の助けが豊かにあります。


 →あなたの番です
 □あなたのプライオリティーを明確にしよう
 □主の恵みを無駄にせず、今、大事なものを選び取ろう
 □主よ、貧しくても、弱くても、多くの人を富ます人生にしてください

 「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(第1コリント9:23)

 

箴言3:5~6 道に迷った時

 今日は、道について考えましょう。道に関して悩みは、2種類あるかもしれません。
 第1は、決断の悩みです。道が4つも5つもある場合、決定するのはしんどいものです。たとえば5人の素敵な男性から同じ日にプロポーズされたなら、あなたは困りますね。一人でいいから分けてほしいという方もいます。
 第2は、先行き不安の悩みです。未来が暗く、まったく道が見えないという場合です。アメリカの最近の不況は深刻で、就職できない人がたくさんいます。否定的要素しか見えない悩みです。

 あなたはどんな道を求めているのですか。

 箴言3:5~6節は、その解決を教えてくれます。冒頭部分を私が読みますので、続きの部分を言ってみて下さい。
  心を尽くして…………
  自分の悟りに…………
  あなたの行く所…………
  そうすれば…………

 この聖書の言葉を読んで、どんなことに気づきますか。少し考えて下さい。


1、主により頼む

 「心を尽くして主に拠り頼め。」(5節)

 先行き不安の人に、この言葉を贈ります。先を知っている方(=神)がおられるので、その方に任せれば、安心できます。

 私は、香港、シンガポール、インドネシア、台湾などを尋ねたことがありますが、どの場合も現地で働く日本人宣教師や、現地の牧師さんの出迎えを受けて、安心して出かけました。現地を良く知っている人に任せるのが一番です。拠り頼むことが、一番確実です。

 ただ一度だけ、心細くなったことがありました。だいぶ前の事情なので、今は問題ないと思います。一人で、シンガポールからフィリピンに飛び、国内線に乗り換えてセブ島に行くときのことです。事情通のアメリカ人宣教師からマニラ空港のタクシーには気をつけろと真剣に忠告されました。雲助タクシーや強盗の被害に遭う外国人が多いと知らされ、一生懸命に祈りました。国内線の待合室にやっとたどり着き、何時間もフライトを待つ間にフィリピン人のおばさんと親しくなり、行き先が同じで私が牧師だと知ると、彼女はハレルヤと感謝して大喜しました。私に頼られても、困るのですが、不安な者が二人いると不思議に元気になるものですね。「大丈夫ですよ」などと私が励ます立場になってしまいました。主の恵みで、無事に目的地に着きました。

 道を知り、私たちの最善を知っておられる神に信頼しましょう。一眼レフのカメラの焦点を合わせるように、神にピタリとフォーカスしましょう。
結局のところ、主により頼むかどうかが問われているのです。


2、自分の悟りにたよらない

 「自分の悟りにたよるな。」(5節)

 なぜこう書いているのでしょう。それは、私たちの理解や悟りが、一面的で、自分勝手で、視野が狭く、誤りやすいものだからです。
タクシーに乗ったら座席に茶封筒が置いてあったとします。中に100ドル札の束が入っていたら、これは祈りの答えだと感謝の祈りをしますか。それは人間の悟りです。
 フロントグラスにはねた泥水をワイパーでふき取るように、自分の悟りをさっと一旦取り去りましょう。そして、自分の横に置いて、主の前で吟味しましょう。

 朝の祈り、朝の聖書。それが、私たちの悟りが正しいものか、自分勝手なものかを教えてくれます。だから、毎日のディボーションはとても大切なのです。

3、どこにおいても

 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(6節)

 ある部分は神の導きを求めるが、ある分野ではまったく導きを求めない。私たちは、そういう傾向を持っています。
 どの分野で、主を認めているか、いないか、それはすぐに分かります。あなたが祈らない分野が、それです。

 自分の専門とする分野、経験豊富な分野など、私たちは主に頼りません。祈らない分野の代表例を挙げます。経済、法律、機械のトラブル、売り上げ、プロジェクト、会社の同僚や上司や部下、お客様のためにも祈りません。男性にはこの傾向が強いです。

 どんな分野でも、主を認め、主に信頼しましょう。
・新しい分野:新しい学校、新しい職場、新しいコミュニティー、新しい世界。あなたの未来。
・古い分野:過去の傷、昔の失敗、変えられないと思っている習慣、生まれついてのマイナス。
・現実分野:お金、法律、経済、健康、資格試験、恋愛、結婚、子育て、遺産、家を買う。

 神なしの分野、例外を作らない。それが、どこに行っても、主を認めることです。

 ポールという少年は、ABCも覚えられず、本を読んでも頭に入らない、学習障害の子供でした。高校はビリで卒業、コミュニティーカレッジから大学に編入、本を読んでまとめる宿題は友達に助けてもらい、その代わりにコピーなどの使い走りを熱心にしました。そうするうちに、銀行から5千ドルを借り、コピー屋を開業しました。市価より安くしたので大繁盛して店舗を増やしました。会社名はキンコス、アメリカにいる人なら誰でも知っている、世界的大企業の一つです。創業者のポール・オーファラは、「何かを始めるとき、絶対に誰かの助けを借りないといけない」と心に思っていました。その姿勢が成功の秘訣なのかもしれません。

 自分の限界を謙虚に知り、生活のあらゆる分野に例外を作らずに神を認め、主に拠り頼む心で生きていく。それが箴言3:5~6が教えてくれる生き方です。


4、主は私の道をまっすぐにされる

 「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(6節)

 そうすれば。つまり、いままでの3つの条件を守るなら、何かが起きるのです。主が私の道を整え、まっすぐにして下さるのです。
 私たちが主を心から大切だと思うなら、主は私専用の道を備えて下さいます。
 まっすぐな道とは、神の喜ばれる道であり、私たちが笑顔になれる道です。

 不治の病を持つ6歳の息子のため最後にしてやれることはないかと一人の母親が思案していました。そうだ、息子は大きくなったら消防士になりたいと言っていたから、思い切って頼んでみよう。そう思い立ってアリゾナ州の消防署に出かけました。「消防車に息子を乗せて、近くを走ってもらえないでしょうか」「それなら、一日署長になってもらいましょう」と言われ、思いもかけない素敵な一日をプレゼントしてもらい、火事場まで消防車で同行することもできました。 
 数ヶ月後、最後の時を間近にして、ホスピスの看護士長は関係者に連絡、消防署署長にも電話すると、「病室の窓を開けておいてください、5分後にうかがいます」と答えました。約束通りサイレンが鳴って、消防車の長いはしごが3階の病室にかけられ署長を含めた15人の消防士が窓から入り、男の子をやさしくハグして「I love you」と声をかけました。

 心を尽くして主に拠り頼め。
  自分の悟りにたよるな。
  あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
  そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
  (箴言3:5~6)

 あなたの番です。あなたは、あきらめていませんか。主は、あなたの道をまっすぐにする用意ができています。
私たちが、しっかりと主に拠り頼み、不可能と思える分野にも主が働いてくださると信じましょう。そして、主が備えられた私専用のまっすぐな道を笑顔で歩きましょう。

  →あなたの番です
 □主が道を拓いて下さると信頼して、アクションしましょう。
 □毎日のディボーションを充実させ、主の導きを明確にいただきましょう。
 □「どこにおいても」主を認めましょう。自分の悟りは横に置きましょう。

  「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

  「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
  そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

第2コリント5:1~21 信仰によって歩む

 5章のパウロの記述は、普通とは順序が逆になっています。
 天国→信仰生活→救い。

 パウロは、「見えないものにこそ目を留めます」(第2コリント4章18節)と述べた後、目に見えない天国について自然に語り出しました。天国への希望が揺るぎないものなので、信仰による歩みが自然な営みになります。元をただせば、十字架の愛を受けたことが信仰による歩みの出発地点でした。この素晴らしい救い、神との和解を他の人に分かち合うことがパウロの使命であり、また、私たちの使命なのだと結びます。これが、5章の全体の流れです。

 今日は、私たちの信仰の歩みを高い視点から俯瞰してみましょう。

1、天国のリアリティー

 あなたは天国を信じますか。天国についてのリアリティーがありますか。

 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(1節)

 私たちが死んで天国に行くことは、新しい服を着ることだとパウロは説明しました。(2、4節)私たちの体は、「幕屋」、つまり、テントのようなものです。地上の体においては、私たちは、重荷を負い、うめいています。また、肉体という幕屋はこわれるものなのです。テント生活と普通の家での生活。どちらが心安らぐかは、言うまでもありません。天の体は、「神の下さる」もので、「永遠の家」です。だから、死後について心配する必要はないのです。

 アメリカに住む者にとって、日本に行くというのは楽しいイベントです。それは、家族や友人と会えるからです。家族や友人が一人もいない日本になってしまえば、ただの観光地です。
私たちは天国にあこがれるのは、そこに主イエスがおられるからです。主イエスも、そこで待っていると言って下さいます。

 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:3)

 先週私は古い映画を家で見ました。主人公が死にそうになりましたが、ハラハラしませんでした。なぜかというと、その続編で主人公が活躍しているのを知っているからでした。
 人生の結末、最終結果を、私たちは知っているのです。主イエスを信じているものの最後は天国というハッピーエンドと決まっているのです。
 だから、天国のリアリティーをはっきり持つことが大事なのです。


2、信仰による歩み

 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(7節)

 天のリアリティーを持っているなら、その人の歩みは自然と信仰生活になります。信仰によって歩むとは何か、パウロは実に自然に自分の生き方を以下のように説明しました。

1)天国にふさわしい者としてくださったのは神であり、神に感謝して生きる。
 「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です」(5節)
2)御霊なる神が天国の保証となってくださったので、心強く生きられる。
 「神は、その保証として御霊を下さいました」(5節)
 「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです」(6節)
3)主に直接お会いし、主と共にいられる状態をあこがれて生きる。
 「主のみもとにいるほうが良いと思っています」(8節)
4)私を愛して下さった主に喜ばれる生活がしたい。
 「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」(9節)
5)主の前で公正な裁きを受けることが分かっているので、誠実に生きる。
 「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」(10節)
6)キリストの愛に突き動かされて行動する。
  「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(14節)
7)キリストのために生きたいと願う。
  「自分のために死んでよみがえられた方のために生きる」(15節)

 
3、救われて新しくなる

 主イエスは、十字架で、私の罪を身代わり罰を受け(21節)死んで下さいました。この主イエスの愛と十字架が、私たちを罪から救い、私たちの内面を180度変えて(17節)下さいました。

 私たちの内面の変化は、徹底的です。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(17節)
 
 私たち罪人は、本来自己中心で、動機はいつも自分の利益のためです。ところが、主イエスの愛が取り囲み、私たちを駆り立てると、主イエスのために生きる人生、身近な人々のために生きる人生(13節)へと大きく舵を回すことになります。主イエスの愛を知った人は、その恩をお返ししたいと思うようになるのです。

 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(14~15節)

 イエスさまを信じることが、信仰生活の第一歩になります。

4、私たちの使命

 天国→信仰生活→救い。この順序で説明してきたパウロは、そのまとめとして、自分たちの使命について語りました。

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(19~20節)

 大きな視点で人生を俯瞰するなら、今、何のために存在しているのかは自明の理となるとパウロは言います。神と和解することが人の最大の幸せだ。神との和解を人々に伝えるのが私たちの使命だ。私たちは、そのために主イエスから使わされた使節なのだ。そう、パウロはまとめました。

 バングラデシュのムハマド・ユヌスさんはアメリカに留学し経済学博士になった方です。帰国して大学の部長になった時、5万人が死亡する1974年の飢餓を経験、経済学が何の役にも立たないことに愕然としました。ユヌスさんは、貧しい生活をしていた人の聞き取り調査を行い。竹細工の材料費1ドルすら払えない現実を知りました。調査対象の42人が必要としていた額を合計すると27ドルでした。ポケットマネーから無担保、無期限でお金を貸したことが、彼の第一歩になりました。貧しい人にわずかなお金を貸し、生活の安定を助けるグラミン銀行はこうして成果を出し、ノーベル平和賞を2006年に受賞しました。ユヌスさんはクリスチャンではないと思いますが、その発想にとても刺激を受けます。

 「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(15節)

 私たちは、主イエスから溢れる愛を受けました。受けた愛を主イエスと身近な人にお返ししたい、そう思いませんか。

  あなたの番です→
 □天国のリアリティーをもって人生を見直そう。
 □主イエスから受けた愛を感謝し、恩を返そう
 □私だけのユニークな使命とは何だろう。

第2コリント4:1~18 途方に暮れても

 第2コリントには、パウロの体温が感じられる。あらかじめアウトラインを練ったタイプの手紙ではないだろう。心情の吐露が随所で見られ、喜びの奔流があふれ出ている。特に4章は、パウロの自覚、信仰、価値観、視点、確信などが自然な形で語られており驚嘆に値する。
 あなたが今、悩みを抱えているなら、パウロのような視点が必ず助けになる。

1、あわれみを受けている

 人からどう思われるか。あなたの悩みはこのタイプの問題ですか。

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
(第2コリント4:1~2)

 パウロは、神からあわれみを受けたと書いている。その感激で心が溢れている。(1節)
あわれみを受けるとはどんな状態だろう。条件に届かない、資格がない、落第している状態なのに、神の愛と力と配慮を受けていることです。
 パウロは、クリスチャンを迫害し、暴力を振るった過去があり、自分は<あわれみの見本>にされたと強く自覚しています。(第1テモテ1:12~16)

 だからパウロは、自分を見て落ち込まず、他人の評価で勇気を失うことなく、昔使った卑劣な悪巧みは捨て去り、神の言葉を曲げず、真理に生きる態度を取れたのです。(1~2節)

 私は、ハワイで新聞記者をしていた時に日本の政府高官の記者会見に出席したことがあります。その人物の言葉と態度に辟易しました。傲慢そのものだったのです。その帰りのエレベーターで地元テレビの有名なニュースキャスターと乗り合わせました。彼のフレンドリーで温かい態度に驚きました。どちらに私が好印象を持ったか、言うまでもありません。

 パウロは、人間からの評価など気にしていません。神からあわれみを受けたという喜びで、謙虚な人柄になっていたのです。あなたも、あわれみを受けています。


2、宝を持っている

 あなたは、自分に価値がないと落ち込んでいますか。いいえ、あなたは素晴らしい価値を持っています。

 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(第2コリント4:7)

 土の器とは何でしょう。金や銀の器に比べれば価値がない。壊れやすく弱い。取るに足りないものです。私たちも土の器です。
でも、ただの弱い器ではないのです。その内側に宝を持っているのです。宝とは、イエス・キリストです。その宝が、私たちを価値あるものに変えます。

 パウロはルステラで、ユダヤ人にから石打ちの刑を受けたことがありました。むごいリンチの処刑方法です。大小さまざまな石を大勢からぶつけられ、完全に死んだとみなされて、町の外に捨てられました。幸い命に別状はありませんでした。生命力が強かったのではないのです。はかり知れない力がパウロを守ったのです。パウロはこの宝の凄さを体験したのです。

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(第2コリント4:8~9)

 以上のように、人間的にはもうだめだという絶対絶命のピンチを4回、畳み掛けるようにパウロは語りました。それで終わりではないとパウロは力説します。主イエスを内に持つ者は、不屈の意志が備えられるのです。

 戦後直後、群馬県で伝道を始めたコーウィン宣教師は、ある日タイプライターやアコーデオンなどを盗まれました。数日後、そっと、おわびの手紙と物品が返却されました。新聞記者に同宣教師は以下のように心境を語り、記事になりました。私も同じ罪人です。あなたをゆるします。神に赦されることが大事です。どうぞ、我が家に来てください。ご一緒に食事をしましょう。
 新聞記事を読んだ犯人は自責の念から服毒自殺未遂をし、その親から連絡を受けた宣教師が見舞いに訪れ主イエスの福音を語りました。犯人は悔い改めました。

 あなたは土の器ですが、主イエスという宝が内にある限り、困難に取り囲まれて終わりということはないのです。
 あきらめてはいけません。主イエスキリストがあきらめていないのですから。


3、見方は変えられる

 目先のことで右往左往している人がいます。あなたの視点が問題なのです。
 にっちもさっちも行かないときでも希望があります。私たちの見方が変化する可能性があるからです。そうすれば、取り組み方が根本的に変わるのです。別な出口が見えるのです。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第2コリント4:16~18)

1)外なる人は衰えるが、内なる人が日々新たにされる
 若い頃は努力と根性でなんとかなりました。歳を取って無理をすると怪我をします。幸いなことに、主イエスが私たちの内面の動機、感情、思考方法を日々変革してくださるのです。

2)患難は一時的であり、軽い。最終的には、栄光をもたらす
 目の前の苦しみや問題が永遠に続くと錯覚して、戦う前につぶされてしまう人が多いです。永遠の視点で見ると、どんな患難もひと時の苦しみ。軽いのです。新共同訳では、いっときの軽い艱難と翻訳しています。

3)見えるものにではなく、見えないものに目を留める
 私たちが深い満足を得るのは、見えないものを大事にしたときです。正義のために苦しんでも、愛のために犠牲を払っても、真実のために倒れても、私たちの心には満足が訪れます。見えないものに目を留めて、歩きましょう。

 主のあわれみに励まされ、主イエスの臨在を内に感じて、あきらめずに進みましょう。途方に暮れても、道はあるのです。

 →あなたの番です
□私たちはあわれみの器です。だから、勇気を出そう。
□私たちは土の器です。倒れても終わりではない。
□私たちは見えないものに目を留める器です。必ず変えられる、乗り越えられる。

第2コリント3:1~18 御霊のあるところ 

 健康なクリスチャン生活の秘訣は、聖霊にあります。もっと、御霊を意識し、あがめ、導いていただきましょう。今日は、御霊に目を向けましょう。


1、私たちは、手紙

 コリント教会の一部の人たち、「ある人々」(第2コリント3:1)はパウロの使徒職を疑問視していたようです。それなら、ダマスコのアナニヤ(使徒9:10~20)にパウロの回心の様子をまとめてもらい、バルナバとペテロに正式な推薦状を書いてもらうことも可能でした。
 ところが、パウロは、そうしませんでした。その代わり、こう書いたのです。

 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。(2節)

 コリント教会が存在していること。コリントの人々が持っている信仰そのもの。それが、パウロ人となり、働きを裏付けると説明しました。

 私たちにも同じことが適用できます。私たちはキリストの手紙であり、御霊によって書かれた手紙(3節)なのです。知られています。読まれています。周囲の人が、私たちの言動を見て、私たちに書き込まれたキリストを知るのです。私たちの存在そのものが、公開書簡なのです。

 私は一人の女性看護士を知っています。人の嫌がる仕事を笑顔でする人でした。入院患者の一人は、そのことに気づき、やがて彼女を通して教会に導かれイエスさまを信じました。彼女は周囲の人に読まれていたのです。キリストの香り(第2コリント2:15)を放っていたのです。

 あなたも、現代のキリストの手紙なのです。


2、古い契約と新しい契約

 次にパウロは、古い契約と新しい契約を対比して説明しました。(新約聖書の新約という言葉は、古い約束、古い契約と対比した新しい約束を意味しています)コリント教会に入り込んだ人々は古い契約の信奉者で、律法的な信仰を賞賛したのかもしれません。
 律法を行うことで義を神の義を得るという生き方がどれほど困難な生き方か、パウロは体験的に知っていました。(ピリピ3:4~7)
 そこで、以下のような対比を行い、新しい契約の優位性を説明しました。新しい契約とは、主イエスを信じるだけで義とされる救い、そして、御霊により日々変えられる生き方です。

 ・古い契約(14節)……………………新しい契約(6節)
 ・殺す(6節)……………………………生かす(6節)
 ・罪に定める(9節)……………………義とする(9節)
 ・やがて消え去る栄光(7節)…………永続するものの栄光(11節)

 モーセは、十戒を神から頂き、山から降りて来ましたが、その際、神の栄光を反映して顔が光っており、人々はモーセの顔を見据えることができませんでした。(出エジプト34:29~30、34)
 古い契約における栄光ですら、そのような輝きを持つのなら、新しい契約における栄光ははるかに優れてものであるはずです。


2、変えられる

 私たちクリスチャンは、何かの拍子に、昔の考え方に立ち戻る傾向があります。クリスチャン生活を、道徳や努力に置き換えてしまいがちです。
 救われたのは、主イエスの十字架の恵みです。救われた後も、主の恵みと聖霊の助けによって歩むのです。

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 ・どうすれば変えられるのですか。(16節)主に向くならです。
 ・誰によって変えられるのですか。(18節)御霊なる主です。
 ・誰が変えられるのですか。(18節) 特別な人でなく、みなです。
 ・どのようにして変えられるのですか。(18節)主の栄光を反映してです。
 ・どのような姿に変えられるのですか。(18節)主イエスと同じかたちにです。

 私たちは、弱く、罪を犯しやすい者です。その上、繰り返し失敗をします。嘘をついた、会社の金を盗んだ、インターネットでポルノを見た、人の悪口を流布した、自分を良く見せようとして事実と違う印象を与えた、人の業績を自分の成果にした。

 まじめに生きよう。自分をコントロールしよう。そうした努力はとても大切です。ただし、聖霊の助けを排除して、自分だけで頑張ろうとするなら、律法的な生き方に陥ってしまいます。それは、成功すれば傲慢になり他人を裁く態度となり、失敗すれば信仰自体が破綻寸前となる実に不安的な信仰になります。

 鍵は、聖霊にあります。聖霊が私たちの希望です。

 私たち自身を聖霊に委ねましょう。聖霊に取り扱っていただきましょう。

 私は、岩渕まことさんの著書『気分は各駅停車』を何度か読み返しました。飾らない信仰体験がしっとりと心に染み込みます。小学1年の娘さんが脳腫瘍になり、祈り、苦悩され、その中で「父の涙」という歌ができたこと。その作詞作曲したとき、ご自身も泣いておられたこと。医師から「強いですね」と言われたけれども、そう見えたのならイエスさまのおかげと話しておられること。とても素晴らしい本です。

 クリスチャン人生は、山もあり谷もあります。輝きもあり闇もあります。負のスパイラルに陥ることもあり、主と共に水の上を歩くときもあります。
 大切なことは、御霊と共に歩むことです。御霊の促しに従うことです。聖霊に作り変えていただくことです。

 第2コリント3:18を心にとめましょう。

 私たちは、………栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 御霊なる主よ。私を変えてください。

→あなたの番です
 □私たちはキリストの手紙です。周囲の人に読んでもらいましょう。
 □人間的な力みから離れて、御霊にゆだねた生き方を選びましょう。
 □私たちは、みな、主と同じかたちに変えられる。この聖句を信じましょう。

第2コリント2:1~11 涙の手紙

 人と人とが生きていると、誤解が生じたり、思いが届かないことがあります。
 パウロとて同じです。コリントの教会は問題の多い教会で、それを正そうとするパウロとコリントの人々との間で軋轢が生じていました。

1、コリントへの手紙は何通?

 パウロはコリントで伝道し(使徒18章)教会の基礎を築きました。パウロは活動の拠点をエペソに移した後もコリントの様子を心に留め、祈り、人を送り、手紙を書いて支え続けました。
 パウロがコリントの教会に宛てた手紙は、聖書の記述によると少なくとも4通あったようです。

 1)叱責の手紙(第1コリント5:9)
 2)コリント人への手紙第1
 3)涙の手紙(第2コリント2:4)
 4)コリント人への手紙第2

 手紙以外にも、テモテを遣わしたり(第1コリント16:10)、自分自身もコリントに赴いて(第2コリント2:1)、コリント人を励まし続けたことが分かります。


2、涙の手紙

 パウロが誤りを正そうとする。それを聞いて、コリントの人々がリアクションを起こす。少し改善される。まだ不十分なので、問題点を指摘する。うまくいかない。パウロの人間性や使徒としての信頼性に揺らぎが生じる。
 パウロは万策尽き、結果を主に委ねて、コリント人に対する思いのたけを手紙に書き記しました。それも、涙をもって。

 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(第2コリント2:4)

 涙とは何でしょう。思いやりの結晶です。

 3週間前、右足の小指を椅子にいやというほどぶつけました。骨折したかもしれないと内心感じましたが医者には行きませんでした。1週間して、娘が昼休みを利用して職場から私のオフィスにやってきました。「きちんとお医者さんに診てもらって。2時30分に予約を入れておいたから。行ってね。レントゲンを撮ってもらってね」と言うのです。私が「心は伝わったよ」とにべもない返事をすると、娘は涙を流し、同じことを繰りかえして言いました。医者に行くとは言わずに、結局娘を返しました。私は、娘が出て行った後に心を揺さぶられました。こんなに愛されている。携帯で「今から、行くよ。ありがとう」と連絡して、医者に行きました。それで折れていたことが分かりました。

 パウロの涙はコリント教会の人には見えません。でも、手紙の文面から、パウロの涙の流れる音が聞こえたはずです。
コリントの人々にパウロの心が通じたのです。パウロの涙の祈りが届いたのです。

 主イエスがどんな方か、思い出しましょう。主イエスは私たちの涙を読み取ってくださり、涙を流してくださる方です。

 主はその母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。(ルカ7:13)
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 あなたの愛を涙に変えて祈りましょう。伝えましょう。


3、赦しと慰め

 パウロは、罪を犯した人の処罰の断行を知り、今コリント教会で必要なことは、赦すことと慰めることだと諭しました。

 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(第2コリント2:6~7)

 パウロが望んだのは、コリントの人々を倒すことではなく、コリント教会の人々の笑顔を見ることでした。直言や叱責の最終目的は、回復であり、喜びの回復です。それを忘れないように。

 あなたの番です→
 □あなたが大切にしている人は誰ですか
 □涙にくるんで、あなたの愛と真心を伝えましょう
 □最終的に、あなたが見たいと望んでいることを忘れないように

 

第2コリント1:1~11 慰めがここに 

 これから、コリント人への手紙第2を毎週1章づつ学んでいきます。

 先日、右足の小指を椅子にぶつけて、あまりの痛さに倒れこみました。それを話すと人は二種類に分かれます。一方のタイプの人はこう言います。若くないのですから、気をつけなくちゃいけません。あわてるからつまづきます。別のタイプの人は、自分のことのように感じて、痛いでしょう、おつらいですね、どうぞお大事にしてくださいと言います。どちらのタイプの人が、私の痛みを倍加させてくれたか、分かりますね。

 第2コリントのキーワードは「慰め」です。シリーズ第1回目は、慰めをテーマに取り上げます。



1、神は、慰めの神

 まことの神は、慰めの神です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。(第2コリント1:3)

 神は、正しく、きよく、強くある方です。それだけではなく、私やあなたを慰めてくださる方であり、人の心に寄り添ってくださる方です。
 弱った人、病気の人、傷を負った人、倒れた人に対して、神は慰めの神として接してくださいます。

 主イエスも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(第2コリント1:4)

 そうです。神はどんな苦しみの中にある人をも慰めることができます。神なら、おできになるのです。神だけが、できるのです。だから、本当の神といえるのです。

 大きな苦しみの中にいる人に、神は細い声で、その人の心に届く方法で、慰めを与えてくださるのです。あなたも、その慰めを受け取ってください。




2、苦しんだ人が、誰かを慰める

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第2コリント1:4)

 パウロの言葉によると、神の慰めを受けた人は、他の人を慰める人になれるといいます。あなたは、それを信じますか。
それだけではありません。どのような苦しみの人をも、私たちが慰めることができるといいます。私たちが、誰かの慰め手になれるのです。

 私は牧師の仕事を辞したことがあります。その翌日、教会の英語部の方が私の家の前に車を止めました。仕事がなくなると生活が大変になるから食料を持って来ました、使ってくださいというのです。トランクは、お米、野菜、肉、食料で一杯でした。私は 呆然としました。
 翌日、別の方がやはり車を止めました。トランクを開けると、やはり食料が満載してありました。涙が出ました。
ある年配のご婦人は、パンを買って届けてくれました。それも、毎週来てくれました。留守の時にはパンだけを置いていかれました。おいしいと評判のベーカリーのパンでした。置かれているパンを見るたびに、大きな慰めを受けました。
 あるリタイアしたカップルは、私たち夫婦を日本食レストランに招き、ランチをご馳走してくれました。その時お二人は、一人分のランチを二人で分けて食べました。お二人の倹しい生活を思うと、食事が喉を通らないほど感激し、その心が伝わりました。
 家主の突然の申し渡しで急に引っ越しの必要が出て、かなり落ち込んでいた時。二組のご夫婦は、私たちの転居を手伝い、ジョークを飛ばして明るい雰囲気にして、引越し荷物を運んでくれました。
その他にも、心温かな人たちから、たくさんの愛と慰めを受けました。それで、生きることができたといっても過言ではありません。

 私は、10年たっても、これらの事を忘れません。何度も思い出し。何度も感謝し、何度も涙を流します。

 神の慰めを受けた人が、私を慰めてくれたのです。

 あなたも、誰かの心を慰めることができます。

 あなたの痛み、暗闇が、誰かの慰めに繋がっているのです。



3、慰めの経験は希望を生み出す

 パウロは、神が慰めの神であると説明しました。また、パウロは神の慰めや助けを確かに受けたと、経験的に語りました。8~9節によれば、それが、死を覚悟するほどの厳しい経験だったことが分かります。その経験がパウロに希望を与えました。

 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(第2コリント1:10)

 そうです。苦しみと慰めを経験した人が、ゆるがない希望を持つ者になるのです。

 苦難と慰めが、希望の人を生み出すのです。



 あなたの番です→
 □苦しみと弱さの真っ只中で、神の慰めを体験しましょう。
 □あなたは誰かを慰めるために生まれた。
 □自分を頼まず、神により頼む。そこに希望が生まれる。

マタイ16:13~19 教会につながる

 信仰の羅針盤シリーズの最終回です。
 安定したクリスチャン生活を送りたいなら、教会にしっかりと繋がることです。

1、信じる事と教会

 信仰を持つことは、個人的で、内面的なものです。けれども、信仰は他者とのつながりなしには成り立たない、という面も備わっています。そういう意味で、マタイ16章はとても興味深い箇所です。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:13~17)

 ペテロの信仰告白の場面として有名な箇所ですね。最後の部分に注目してください。主イエスは、あえてペテロの本名シモンと呼びかけています。あなたの信仰は、あなたの悟りや知識や経験によったのではなく、父なる神に導かれたものだと指摘されました。「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」これは、感動を持って聞き取りたい内容です。

 第1コリント12:3の視点を加えると、信仰告白は聖霊によるものだと理解されます。そうすると、私たちの信仰は、父と御子と聖霊の助けの中で初めて成り立つものだと分かります。信じているなら、あなたは三位一体の神との交わりの中にいるのです。

 次に目を留めたいのは、教会です。

 主イエスは、シモンの信仰告白を聞いて、それに応答するように、シモンをペテロ(岩)と呼びました。これは、いわば、主イエスの側からシモンに対する「信仰告白」とも言える内容です。不完全で、欠けの多いシモンを信仰者としては巌のような者と認めてくださいました。ちょっと気恥ずかしいですね。その信仰の上にご自分の教会を建てると主イエスは言われました。

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

 世界中にはたくさんの組織がありますが、主イエスが造れた組織は教会だけです。主イエスは、国にも、会社にも、学校にも、国連にも期待しておられません。教会にだけ期待しておられるのです。信じた人には、教会が必要なのです。クリスチャンが教会に繋がって生きるようになったのは、主イエスのプランなのです。

 リック・ウォレン牧師は、私たちが生まれて来た目的の一つは、教会に繋がることだと明言しています。

 あなたは、教会に繋がっていますか。
 特定の分野に専門的に関わる超教派団体が数多くありますが、それは、教会の腕として働く機関であり、教会ではありません。教会に地盤を置いて、超教派の働きに関わりましょう。
 自称「無教会」の人は、独善的になりがちで、教会評論家にしかなれません。評論家が1万人いるより、主イエスのために汗を流す10人のほうが意味があります。
 気ままに、あっちに行ったり、こっちに行ったり、という教会渡り鳥になってはいけません。それでは、クリスチャンの醍醐味は体験できません。

 一つの教会にしっかり繋がりましょう。雑多な人がいる教会。お年寄りも赤ちゃんもいる教会。ちょっと苦手なタイプの人がいる教会。そこに、大きな意味があります。そこに、成長の道が隠されています。そんな教会につながることが、どうしても必要なのです。



2、つながると、命がめぐる

 主イエスは、ヨハネの福音書15章で、つながることの大切さをぶどうの木のたとえで説明しています。

 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

 聖書を長年読んで来ましたが、この箇所は、教会にとどまりなさい、と読み替えても、同じ意味になると私は考えるようになりました。なぜなら、教会はキリストの体だからです。(エペソ1:23、コロサイ1:18)

 弱くて小さな枝でも、幹であるキリストにつながるなら、主イエスの命があなたの中を巡るようになります。主イエスのいのちが、あなたを生かすのです。

 また、私は17歳で信仰を持って以来、いくつかの教会に関わり、たくさんのクリスチャンを見てきましたが、教会に結びついていることが、健全なクリスチャン生活に不可欠だと確信を持って言えます。

 私は、牧師の立場を離れ、信徒として5年間、教会につながったことがあります。その時の体験を思い出しても、教会は本当に素晴らしいものだと心から言えます。その時、昼食会の後の掃除とごみ出しを自分の奉仕にしました。主に仕える喜びを知りました。
 主イエスを信じる人たちに触れるだけで励まされました。祈ってくれる人がいて、支えられました。共に、泣いてくれる方たちによって生きることができました。


 日本の教会は、暗い、小さい、つまらない、などと陰口を言われます。特に、アメリカの大きな教会を見ていると、日本の教会がくすんで見えます。
 でも、そうした見方は浅薄です。私も若いころ、日本の小さな教会を見下げたり、有名な牧師をヒーローに見立て、名も無い牧師を無視していた生意気な時期がありました。ゼロからの開拓伝道をする立場になってみて初めて日本の教会の現状に気づきました。
 日本の教会の礼拝出席平均は30数名で、そんな教会が全体の半数を超えています。10数名の教会もたくさんあります。むしろ今、そうした小さな教会、名も無い牧師先生の長年にわたる祈りと伝道を尊いものとして心から尊敬しています。福音の灯台となって地域に留まっていることは何にも増して価値があります。
 

 完全な教会など地上にありません。あなたが、そこにいれば、完全でなくなるからです。(失礼)素晴らしい教会があったとしても、私がそこに加われば不完全になってしまいます。

 地上の教会は欠けだらけです。でも、主イエスは、教会にだけ期待しておられるのです。教会だけを信頼してくださっているのです。

 どんなことがあっても、教会につながり続けましょう。教会を愛しましょう。あなたの実家としましょう。
 
 今までシリーズで話してきた、神を愛す、人を愛す、福音を伝える、人を育てる、これら4つの要素は、教会につながることによって実現します。教会につながることがクリスチャン生活の要なのです。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)


 あなたの番です。
 □しっかりと一つの教会に所属してください
 □教会のスモールグループに加わりましょう
 □教会で何かの奉仕をしましょう
 □教会批評家にならず、教会を愛す人になりましょう

使徒18:24~28 育てる人が育てられる 

 信仰の基本姿勢を見直す「羅針盤シリーズ」。今日はその本論の4回目、育てる人になる、がテーマです。
 ところで、スターバックスではバリスタと呼ばれる店員がコーヒーを作ってくれますが、グリーンのエプロンとブラックのエプロンの人がいます。ブラックのエプロンはコーヒーマスターと呼ばれるスペシャリストの印です。
 あなたもクリスチャンになったなら、ブラックのエプロンを付けた人になりませんか。

1、プリスキラとアクラ

 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。(使徒18:26)

 パウロを彷彿させる伝道者アポロが流星のようにエペソに現れ、ユダヤ人の会堂で主イエスの福音を語りました。学識、熱意とも申し分ありません。ただし、聖霊についての理解が不足していました。
 そこでプリスキラとアクラの夫婦が自宅に呼んで、正確に教えました。夫婦に教えられたアポロはコリントに渡り、素晴らしい伝道・牧会を行いました。(第1コリント3:6)

 実はこの夫婦、只者ではないのです。パウロは当初、二人の家でルームシェアしていました。1年6ヶ月、パウロから直接薫陶を受けたクリスチャン夫婦なのです。

プリスキラとアクラは、エペソで家の教会(第1コリント16:19)を作り、ローマに移動するとそこでも家の教会(ローマ16:5)を作った伝道的な夫婦でした。また、パウロの命を救い出した、牧師を心底サポートする信徒の鏡です。(ローマ16:3~4)

 青年たち、結婚したならこの夫婦の生き方をモデルにしましょう。すでに結婚している人たち、今から目指しましょう。人を育てる人がどんなに成長するのか、プリスキラとアクラはその実例です。


2、人を育てること

 教会には、信仰年数何十年という人がいます。ですが、「どうしたら、クリスチャンになれますか。クリスチャンとして生きるには、どうすればいいですか」と質問されると、牧師に聞いてください、としか言えない人がたくさんいます。
 スターバックスのバリスタになれる知識も経験もあるのに、お客さんの立場で満足しているクリスチャンが多すぎるのです。

1)主イエスの基本戦略

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)

 主イエスは、自分が世を去った後のことを考えておられました。主イエスは群衆にではなく、弟子にフォーカスしておられるのです。福音書を詳しく読むと、主イエスが驚くほど多くの時間を弟子たちに費やし、実地訓練をされていたことが分かります。
 
 また、主は、あえてエリートを集めませんでした。怒りっぽい欠点を持つヤコブとヨハネ(雷の子=マルコ3:17)、冷酷でなければ勤まらない収税人の過去を持つマタイ、内にこもる懐疑主義者トマス、でしゃばりのペテロ、暗闇を抱えたユダ。このように、普通の人こそが弟子として作り変えられるという手本を示してくださいました。
 これは、私たちへの大きな励ましです。3年たった弟子たちは、みごとに主イエスの代役を果たせるまでに成長しました。

2)次の次の次

 パウロは、人を育てる場合、全部で4代を念頭に置くように教えています。

 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第2テモテ2:2)

 まだ、誰にも聖書を教えたことのない人は、それを始めてください。教える人が最も多くを教えられるのです。
 パウロ→テモテ→忠実な人→他の人。パウロは、次の次の次、つまり4代を意識してテモテに教えていました。

3)人まね小猿

 「私のようになってください」(ガラテヤ4:12)
 「兄弟たち。私を見ならう者になってください」(ピリピ3:17)

 人を育てることは簡単です。私のそのままを真似ればいいのです。これが、主イエスの生き方であり、パウロが実行したことでした。

 困ったな、と感じる方は、自分のクリスチャンとしての歩みが不十分と気づいた人です。そうであっても、あなたが達しているところまで、他の人を引き上げてください。誰かをケアするうちに、あなたも強められ整えられます。
 多くの若い女性たちは、そのようにしてママになります。お母さんの責任感や忍耐力、思いやりや犠牲などは、on the job trainingで身につくものなのです。

 伝道団体ナビゲーターの創始者ドーソン・トロットマンといえば、カリフォルニアに住む者としてとても身近に感じます。トロットマンはLAで生まれ、1934年ロングビーチの海岸でミニストリーを始めました。一人の水兵を救いに導き、彼を訓練して伝道できるクリスチャンに整え、その水兵が他の人を救いに導きました。このミニストリーは連鎖して拡大し、第二次大戦前後に1000人のクリスチャンが生まれたといいます。
 大伝道者ビリー・グラハムが、生涯で最も感銘を受けた人物と評したのがドーソン・トロットマンでした。

 さあ、あなたも福音の種をまきましょう。そして、その人を育てましょう。あなたのような人を育ててください。私たちは、誰かを救い養うために、新しく生まれたのです。

あなたの番です→
 □あなたが育てる人は誰ですか
 □生活、仕事、教会生活すべてを見せて、私のようになれば良いと言える人になろう
 □4代先を見て、育てましょう

使徒5:17~21 福音を伝える

 信仰の基本姿勢を持っていることが、あなたの毎日を生き生きしたものにする、と私は述べてきました。
 第一の基本姿勢は、神を愛しますという心。第二は、今日も誰かを愛しますという態度。そして、今日は、その第三として、福音を伝える、というテーマを取り上げます。

1、初代教会の基本姿勢

 アメリカの総人口のうち何%がキリスト教会の礼拝に参加しているのでしょうか。デイビッド・オルソンによると、1990年は20.4%が礼拝に参加しています。2005年には、17.5%になったといいます。この率では、キリスト教国とは言いにくくなっていますね。

 ペンテコステの日にイエスさまを信じた人は、2000人でした。(使徒2:41)やがて、その数は男だけでも5000人になります。(使徒4:4)エルサレムにおけるクリスチャン比率は飛躍的に上がりました。

 使徒5:12~16を見ると、多くの病人が道端に寝かせられ使徒たちが通るときに癒してもらった様子が書いてあります。それが、宗教権力者の怒りを誘いました。祭司たちはねたみに燃え使徒たちを捕えて留置場に入れました。(使徒5:17~18)その夜、何が起きたでしょうか。

 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。(使徒5:19~20)

 「使徒たち」とあるので、牢に入っていたのはペテロやヨハネたちでしょう。主の使いの言葉に注目してください。さあ、これで逃げられます、遠くに行きなさい、とは言いません。病気の人々をいやしなさい、とも命じません。いのちのことばを伝えなさいと言いました。死んだ人を命あふれる人に変える、主イエスの福音を語るようにと勧めました。
 
 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。(使徒5:21)


 初代教会の人々は、どんな信仰の基本姿勢を持っていたのでしょう。使徒2章などの記録を読むと、神を愛すこと、人を愛すこと、を大切にしていたことが分かります。今日の箇所から、福音を伝える姿勢があったことがはっきり分かります。これは、神の意思です。

 信仰の調子が悪いので伝道はできない、という人がたくさんいます。気持ちは分かります。でもそれでは、冬のシアトルで青空を待ち望むようなものです。
 伝道する気持ちで朝起きるのです。朝、最初にこう祈りましょう。「主よ。今日、私を福音を伝えるために用いてください。」

 福音を伝えたいという姿勢があなたの信仰を守り、強めるのです。


2、どのように語ればいいのか

 まず、誰に福音を語ればいいのでしょう。使徒8:26~30を読むと、聖霊が語るべき人を示してくださることが分かります。
 それによると、ピリポは南に40マイル以上も移動しました。示された場所で待っていると、エチオピアの政府高官が馬車に乗って通りました。しかも、イザヤ書を朗読していたのです。ピリポは、この人だと気づき、イザヤ書で預言していた救い主は主イエスのことだと教え、彼を救いに導きました。
 主ご自身が語るべき人を示してくださいます。あなたが備えがないなら、「教会はどこにありますか」と問われると、「そこを右」としか答えられません。もしあなたが、心の備えがあるなら、道順だけで終わらず、ピリポのように用いられます。

 何を語ればよいのでしょう。ある場合は、語るより、愛を示し、祈ってあげることが一番良い伝道になります。「それなら、自分にもできる」と思いませんか。
 サウスベイ・フリーメソジスト教会は、食事を共にする家庭集会がとても用いられています。クリスチャンでない人々を招いて楽しい食事をし、それぞれが抱えている問題を率直に話します。それを聞いたクリスチャンが深い共感を示し、愛を表し、心から祈ってあげます。毎週それを続けるうちに、彼らが教会に導かれ、クリスチャンになっていくそうです。

 語る人があなたしかいない。そういう時も、心配はいりません。

 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:19~20)

 語るべき言葉は御霊によって与えられるというのです。ですから、安心して語りましょう。

 人は、人生の過渡期に福音に対して心を開きやすいのです。引越し、新婚、赤ちゃんの誕生、子育て、転職などのとき、相談に乗ったり、具体的に助けたりしながら福音を語れます。
 人生の危機を通っている時もまた、聖書に興味を示します。破産、失業、離婚、人間関係のもつれ、子育ての悩み、病気、老齢など、あなたが良い聞き手になり、励まし手になって、主イエスを紹介しましょう。

 あなたは、クリスチャンとして調子が悪いときもあるでしょう。夫婦喧嘩をした直後かもしれません。受験に失敗した後かもしれません。お金もないかもしれません。でも、あなたは宝を持っています。主イエスという決して裏切らないお方を知っています。命を投げ出して、あなたを救ってくれた方がおられます。その方なら紹介できるはずです。

 10年間に800人にバプテスマを授けたデイブ・ホールデン牧師は、一番伝道しやすい対象は、あなたに良く似た人だと指摘しています。年齢、立場、考え方、生活スタイルなど、あなたに良く似ている人なら語りやすいはずです。そういう人を心に覚え、祈り、主からチャンスを頂いて、話を聞き、語りましょう。

 高校時代、私を教会に誘ってくれた関根君というクラスメイトがいました。私は、3回か4回は誘いを断りました。それでも、また声をかけてくれました。彼の愛と思いやりがなければ、私は決してクリスチャンにならなかったでしょう。
 あきらめなかったその人に、あなたがなる番です。

 →さあ、あなたの番です。
 □朝、福音を伝えるために私を用いてください、と祈りましょう。
 □あなたに似ている人は誰ですか。その人に語りましょう。
 □変化や痛みを通っている人に耳を傾け、主イエスを紹介しましょう。

 「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」(使徒5:20)

使徒4:36~37 人を思いやる心 

 信仰者が心に持つべき基本姿勢の第2番目は、人への思いやりです。

 愛してくれない。多くの人がそう考え、不幸感を強めています。そこを抜け出す方法は何でしょう。とても逆説的に見えますが、誰かを愛すことが、不幸感から抜け出す道なのです。


1、第2の戒めは、人への愛

 聖書の中心命令は、神を愛すこと、そして、人を愛すことです。

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

 人を本気で誰かを愛そうとするなら、必ず愛の難しさに直面します。愛の困難さは、自分が愛された記憶を呼び起こしてくれます。「こんなにも深く愛されてきたのだ」と深い感慨に導かれます。

 では、愛とは何でしょう。人を思いやるには、どんな段階を通るのでしょう。今回取り上げる、バルナバという人の行動から以下の事が分かります。

 1)その人の存在を喜ぶ。
 2)自分だったら、何が嬉しいことなのかを想像する。
 3)自分の持っている何かを、与える。     

 あなたが、朝、目覚めるとき、今日は誰を愛そう、と考えて起きたらどうでしょう。「愛されてない」症候群から解放されるのは間違いないです。


2、「慰めの子」、バルナバの愛

 バルナバの愛の行動を使徒の働きの順に従って見ていきましょう。

1)バルナバと呼ばれる

 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(使徒4:36~37)

 十二弟子がヨセフのことを、「慰めの子」と呼びました。彼が愛の人という事実を如実に語るエピソードです。この後、ヨセフという本名は一度も使われません。十二弟子が認め、名づけたという事が、バルナバの愛が人並み優れていたという証拠になります。
 バルナバは、畑を売り、代金を十二使徒に託しました。おそらく、エルサレムに住む貧しいクリスチャン、お年寄り、病気の人などを助ける目的で、献金したのでしょう。思いやる心は、経済的にサポートするという実際行動を生みました。

2)サウロを受け入れる

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:26~28)

 十二使徒はサウロを拒絶しましたが、バルナバは違いました。サウロの話に真摯に耳を傾け、サウロの信仰と主イエスからの使命が本物だと認識し、十二使徒に紹介しました。バルナバは、十二使徒を説得できた人物です。
 バルナバは、サウルにだまされ殺されるという危険もかえりみず、サウロに会いました。勇気ある愛です。

3)アンテオケ教会に派遣される

 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:22~23)

 異邦人の教会であるアンテオケ教会が突如誕生しました。エルサレム教会の十二使徒は対処に困ったことでしょう。結局、自分たちが出向くのではなく、全権をゆだねる形でバルナバを派遣しました。
 愛の人らしく、バルナバは未熟なアンテオケの人々の存在を喜んだのです。受け入れて励ますのがバルナバの真骨頂です。

4)使徒15:36~41

 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。(使徒15:37~39)

 バルナバは、伝道旅行中に脱落したマルコにやり直しのチャンスを与えました。マルコを連れていくかどうかでパウロと対立し、喧嘩別れになり、パウロとの友情を失ってもマルコを立ち直らせる道を選びました。それは、バルナバが築いてきたアンテオケ教会の地位を失うことも意味したかもしれません。

 主イエスは愛の人ですが、こうして見てくると、主イエスの愛のDNAを最も受け継いだ人はバルナバなのかもしれません。
 貧しい人を思いやり財産を投げ出し、危険人物のサウロを引き受け、未熟なアンテオケの人を喜びながら励まし、落ちこぼれマルコを育てる。

 私たちも、バルナバを見習いましょう。
 愛しましょう。励ましましょう。与えましょう。

 1995年に失明して教師の職を失った新井淑則さんの人生は多くの人を励まします。普通中学の教師として13年後に復帰した経験はテレビドラマにまでなりました。新井先生が書いた『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』を読むと、失明前後の荒れた心や生活が分かります。あとがきに、奥さんの助けなしには今日の自分はないと書かれた文章に私は一番感動しました。あきらめない。逃げない。明るさを与え続けた奥さんは本当に立派だと思いました。

 あなたも、見捨てないで誰かを支えてください。誰かのために無駄をしてください。愛するゆえに失うこと、それは、一番人間らしい行為です。キリストに愛された者らしい態度です。あなたも、キリストの弟子の一人でしょ?

→あなたの番です
 □誰に、愛を届けたいですか
 □その人が励まされる事は何ですか
 □そして、何かを失う喜び、を体験しましょう

ルカ10:38~42 神さま、大好き

 羅針盤シリーズの第2回目。今日は、神への愛、という基本姿勢について考えましょう。
 信仰の基本姿勢を持っていることはとても大事だと前回お話しました。心に確かな羅針盤のある人は、仕事も、家庭も、教会での奉仕も、一本筋が通っています。

1、第1の戒めとしての、神への愛

 信仰の基本姿勢を因数分解すると4つぐらいの要素があると私は考えています。その第一が、神への愛です。なぜ、第一かというと、主イエスがそう言われたからです。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。(マタイ22:37~38)

 神への愛は申命記6:5など旧約聖書でも一貫して主張されている大事な命令です。

 神を、偉大な神として、畏敬の念を持っている人は多いです。でも、主イエスは、神を尊敬しなさいと命じませんでした。愛しなさいと言われたのです。何か、新鮮な感じがします。

 ここで、あなたに質問です、あなたは神さまを愛していますか。


2、マルタの祈り?

 エルサレムに近い村ベタニヤに、マルタとマリヤの姉妹が住んでいました。主イエスが、弟子たちとマリヤの家を訪れたときの様子がルカ10:38~42に書いてあります。
 マルタは、もてなしのために忙しく、カリカリしていました。

 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10:40)

 マルタが主イエスのそばに来たのは、文句を言うためでした。妹を働かせるように命じるように主イエスに催促しました。
祈りの言葉が、文句や不平ばかりになる祈り。気に入らない人の態度をインスタントに変えてほしい時の祈り。こういう祈りを「マルタの祈り」と呼んでもいいかもしれません。

 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

 たとえば、あなたが女性で、アメリカ人と結婚した人だとします。年の離れた妹がやはりアメリカ人と結婚してシアトルに行くという時に、あなたが実家を訪れたとします。妹と話せるのは1日だけです。妹は、台所を出たり入ったりして食事の準備をし、姉の大好物の明太子がないとスーパーに買い物に行ってなかなか帰ってこないとします。そんなとき、あなたはどう思うでしょう。主イエスは、私たちに一番大事なことを話したいと願っておられます。

 マルタは主イエスのために忙しく働いていましたが、主イエスを愛していたと言えるでしょうか。


3、マリヤの姿勢

 マリヤの姿に目を向けましょう。

 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。(ルカ10:39)

 とても美しい姿です。39節を、4つの要素に分けて考えましょう。

1)そばにいる
 主の足もとに座っています。マリヤは、一番そばに座り込んでいます。そばにいることは愛です。
では、私たちの実際生活で、主イエスのそばにいるとはどんなことでしょう。礼拝に行くとか、賛美するなどが、そうかもしれません。

2)何もしない
 マリヤはただ座っています。自分のしたい事をすべてキャンセルし、停止しています。あなたのために、全部スケジュールは空けてあります、という姿勢です。
 私たちに適用するとどうなりますか。安息日という概念は、まさにそれに当たりますね。

3)耳を傾ける
 マリヤは主イエスの言葉を聞きたいのです。主イエスは、大切な事を教えてくれます。私たちに必要な事を語ってくださいます。今、知るべき知恵を話してくれます。聞くことは愛です。
 耳を傾けることは、聖書を読むこと、聖句を暗記する、祈りの中で神の言葉を思い巡らすことなどが、それに当たるでしょう。

4)聞いて実行する
 主イエスの言葉を聞くのは、主イエスの望むことを理解して、自分がそれを実行したいからです。ヨハネ12章1~3節によると、主イエスの死を理解して高価な香油を注いだのは、このマリヤだと指摘しています。マリヤは聞くだけの人ではなかったのです。
 私たちへの適用は、まさに、主イエスの心を知って、それを行うことです。

 主イエスと共にいることが嬉しい、主イエスのためだけの時間を取る、主イエスの言葉に耳を傾ける、主イエスのメッセージを実行する。これらは、神を愛すということの実例です。

 あなたは、どんなアクションを選んで、神を愛していることを伝えますか。
 神を愛すという基本姿勢が、あなたを罪から守り、あなたに勇気を与え、あなたの人生を輝かしいものにしてくれます。

 →あなたの番です
 □あなたは、神さまが大好きですか
 □神を愛す行動を、今週実行しましょう

使徒9:10~20 何を目指して

 「羅針盤シリーズ」が今日から5回連続でスタートします。
 ご存知のように、羅針盤は船に取り付けられた計器です。どんなに海が荒れても東西南北を教えてくれて、どこに進むべきか示してくれます。私たちの生活にも羅針盤が必要です。
 クリスチャンにとって最も基本的な価値とは何か、核となるものは何かを確認していきましょう。

 ところで、東京ディズニーランドのスタッフの一人は、大地震の際にお客さんを安全に誘導し、自分の判断で売り物だったお菓子を無料で配ったそうです。東京ディズニーランドの基本ミッションが「すべてのゲストにハピネスを提供する」とあるので、それを臨機応変に対応したのですね。

 さあここで、あなたは質問に答えてください。
  Q:クリスチャンとして、どんな基本姿勢を持っていますか。
  Q:あなたのモットーは何ですか。
  Q:死ぬまでに成し遂げたいことは何ですか。


1、アナニヤの基本姿勢

 ダマスコのクリスチャン、アナニヤは驚愕したはずです。神が突然語られたことも驚きですが、その内容がとんでもない内容でした。

 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」(使徒9:10~12)

 まず、アナニヤの基本姿勢が立派です。主の語りかけを聞いたとき、「主よ。ここにおります」と答えているからです。いつでも主に従う用意ができています、という心の基本姿勢ができていました。

 ですが、悪名高い迫害者サウロを助けることには難色を示しました。それでも、神の説明を一旦受け入れると、自分が殺される危険を承知の上でアナニヤはパウロに会いに行き、主に言われたとおりを実行しました。(17~19節)

 アナニヤは、「兄弟サウロ」と第一声を発しました。殺人者であり、クリスチャンの敵を兄弟と呼ぶアナニヤはあっぱれです。
 アナニヤは、神から遣わされたという強い自覚を持っていました。これも、クリスチャンの基本姿勢としてとても重要な自己認識です。

 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(17節)

 →あなたの番です。
  神に従う備えができていますか。
  遣わされて今、生きていると自覚がありますか。



2、パウロの使命

 サウロは、ダマスコのクリスチャンを迫害するために道を急いでいました。町まであとわずかという時、まばゆい光に照らされ、声を聞き、倒れました。

 「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞いた。彼が、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』」(使徒9:4~6)

 サウロは混乱したはずです。クリスチャン捕縛は神のみこころと思い込んでいて、神に逆らう行為だとは微塵も思っていませんでした。主イエスの突然の語りかけは、サウロの生き方を根底から揺り動かしました。
 サウロその時から、3日間盲目になりました。過去を見つめさせ、現在起きている事を思い巡らし、将来どう生きたらいいか、と真剣に考え、祈らせるための暗黒でした。私たちにも、こうした暗黒がやってくることがあります。それは、意義深い自己洞察の機会です。自分の基本姿勢を問い直すチャンスです。

 「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』」(使徒9:17)

 アナニヤは、主から聞いたサウロの使命を伝えたことでしょう。

 「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」(使徒9:15~16)

 選びの器。そうです、パウロは国際的に活躍する伝道者としての資質を身に付けていました。王の前でも卑屈にならない生まれつきのローマ市民であり、第一級の学者です。ローマ社会の共通語ギリシア語に堪能で、ヘブル語の聖書や難解な専門書も理解する完璧なバイリンガルです。

 私は、主イエスの福音を全世界に伝えるために生きている。これが、パウロの基本姿勢ですね。

 パウロはやがてアンテオケ教会の牧師となり、教会を育てた後に、自らが宣教師となりローマ世界へと出かけて行きました。

 「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)

 私個人が心に持っている基本理念はこれです。
 <イエス・キリストはまことの救い主。主イエスを信じ、主イエスと歩み、主イエスのために生きる人生には永遠の価値がある。>

 あなたも、クリスチャンとしての基本姿勢をあなたなりの言葉にして、心に書き記してください。

 あなたの番です。
  □あなたが大事にしている信仰の基本姿勢は何ですか。
  □世を去るまでに、必ず成し遂げたいことは何ですか。
  □あなたの夢、ビジョンは何ですか。
  □今日できる第一歩は何ですか。

 
 

 

創世記35:1~12 ベテルに上ろう

 ヤコブの生涯シリーズの最終回になります。今日のキーワードは、ベテルに上る、です。

1、頭をかかえたヤコブ

 ヤコブは、人生最大の難関であった兄エサウとの和解を終えてほっとしたところでした。その後、ヨルダン川西部のシェケムに一家で住みつき、近隣のヒビ人との付き合いも始まったようです。
 祭りでもあったのあったのでしょうか、ヤコブの娘ディナは女性友達を訪ねにヒビ人の町に出かけました。ところが、ディナはその町の男に捕らえられレイプされてしまいます。(創世記34:1~2)
 ディナの直接の兄であるシメオンとレビは加害者の男を含む集落に住む男性全員を惨殺しました。(創世記34:25~31)

 ヤコブは頭を抱えました。娘は涙に暮れ、ショック状態です。息子たちは、父の不甲斐なさを怒り、憎しみの化身となりました。
ヤコブにはトラブルの原因が分かりません。これからどう生きたらいいのか分かりません。

 あなたは、ヤコブのように何かのトラブルに巻き込まれていませんか。子供の問題、親の問題、会社の問題、金銭の問題、人間関係の問題。

 主がどのように問題の糸をほぐしてくださるのか、今日の聖書箇所を大きな枠組みを手がかりに見つめてみましょう。



2、鍵を握るのはヤコブ

 「神はヤコブに仰せられた。」(創世記35:1)

 神は、ディナに何も言われません。問題の発端は彼女の行動にありました。神は、シメオンとレビにも注意をされません。どうみても過剰報復です。
 その代わりに、神は父親のヤコブに語られました。

 これが神の方法です。

 あなたが抱えている問題の種類によっては一概に言えませんが、あなたが問題解決の鍵を握っていることがあります。ヤコブの場合がそうでした。

 あなたの番です。解決の鍵を握るあなたに、神は語りかけていませんか。


3、ベテルとは何か

 「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記35:1)

 神の助言はベテルに上ることでした。ベテルとはどんな場所か、創世記28:10~19に詳しく書かれてあります。20年以上前にヤコブが兄から逃げ出し旅先で神と出会った場所、それが、ベテルです。
 ベテルは、ヤコブがこの時住んでいたシェケムから南に直線距離で約30キロの地点にあり、シェケムより標高が高い場所にあります。

 ベテルは、ヤコブの信仰の原点です。神が生きておられると初めて体感した場所。心に届く励ましを神から受けた場所です。

 あなたがトラブルに巻き込まれたときは個別のトラブルに具体的に対処する必要がありますが、何よりも、あなたの信仰の姿勢を正すことが大切です。
 信仰の基本姿勢がずれていないか。生ぬるくなっていないか。傲慢ではないか。自己正当化に走っていないか。
 神は、ベテルに戻ることだけでなく、そこに住むように命じました。それは、信仰の原点に戻り、その状態を維持するようにとの教えでしょう。

 あなたの信仰の原点とは何でしょう。

4、ベテルに上ろう

 ヤコブは、息子や娘、使用人の前で自分の信仰の核心を語りました。

 「私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(創世記35:2)

 神は苦しみの時に神は私を見捨てなかった。主は私からかたときも離れなかった。その方を一番身近に感じたベテルに共に行こう。
 ヤコブのように、息子や娘に信仰のあかしを話せる父親は立派です。そういう父親が信仰のリーダーシップを家庭で発揮できる父親です。

 ヤコブは娘や息子たちを連れて、ベテルに移動し、祭壇を築き、神を礼拝しました。(創世記35:2~7)

 あなたの周囲で起きたトラブルの解決方法は、遠回りに見えても、あなた自身が信仰の原点に戻ることです。


 あなたの番です。
  □あなたの信仰の原点はどこにありますか。
  □信仰の原点に戻るため、具体的なアクションをしましょう。

創世記33:1~11 兄との再会

 ヤコブがエサウに再会する場面で、3つのキーワードに目を留めましょう。ひれ伏す、走り寄る、見上げる、の3つです。

1、ひれ伏す

 ついに兄エサウがやって来た。

 「ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。」(創世記33:1)
 
 ヤコブは、妻や子らを4グループに分け、最愛の妻ラケルとその子ヨセフを一番後ろに配置して、自らは前面に出てエサウに向かいました。

 「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。」(創世記33:3)

 ヤコブは、足を引きずりながら兄に近づき、7回も地にひれ伏しました。兄への尊敬の姿勢。過去の非礼に対する謝罪がそこに読み取れます。

 地にひれ伏している時は無防備です。矢が飛んできても構わない。首を切られても構わない。ヤコブの腹は恐らくそこまで決まっていたことでしょう。

 謝罪の基本は、自分の非礼を心から詫びることです。謝罪は、赦してもらうための手段ではありません。私たちの側が加害者だからです。

 「七回も地に伏しておじぎをした」

 →あなたの番です。
 あなたが、謝りたい人は誰ですか。地にひれ伏す心であやまりましょう。


2、走り寄る

 「エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」(創世記33:4)

 思いがけないことが起きました。走り寄ったのは誰ですか。抱きしめたのは誰ですか。エサウの方です。最終的には、ふたりは抱き合いながら泣きました。

 あけっけないほどの、想像を超えた、結末でした。聖書の次の言葉を思い出します。

 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第1コリント2:9)

 約束は約束だ、俺が長男になった。オレを兄と呼べ。父の財産相続をもらいに来た。このようにヤコブが長子の権利を振りかざしたなら、流血の事態は避けられなかったでしょう。
 和解の鍵を握っているのは、あやまる人ではなく、赦す人です。

 薬物依存で刑務所から出てきた男がいました。姉から教会と牧師を紹介され、信仰を持ち、教会員になり、穏やかで優しい人に変えられました。
 仕事でオートバイが必要になり、父親が大事にしていた大型バイクを借りました。父は「わしのバイクを傷つけたら、家に帰ってこんでいい」と念を押しました。
 息子は本当に帰ってきませんでした。仕事を終えた帰り、他のバイクにぶつけられ死亡しました。警察にバイクを取りにいくと、ほとんど傷がないことに驚きました。父親は、「バイクなどどうでもよかったんだ。お前に帰って来てほしかった」とつぶやきました。

 →あなたの番です。あなたが、走り寄る番です。あなたが、誰かを抱きしめる番です。誰をゆるしますか。和解の鍵はあなたが握っています。


3、見上げる

 その後は兄と弟は穏やかな会話をしました。ヤコブは家族をエサウに紹介します。(5~7節)次に、財産の話題、つまり家畜の話題になりました。かつては、財産分与が争いの元だったので、扱い方によっては対立が再燃する危険がありました。

 エサウは「弟よ。私はたくさん持っている」(8節)とヤコブの贈り物を遠慮しますが、ヤコブは次のように返事をしました。

 「ヤコブは答えた。『いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。』ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。」(創世記33:10~11)

 「あなたが私を快く受け入れてくださいましたから」とヤコブは述べました。兄に赦された喜びに言及しています。その喜びの表れとして受け取ってほしいと懇願しました。ヤコブは、神の御顔をエサウの後ろに見ています。神の特別の介入があったことを心から感謝しました。

 その後、ヤコブは兄と穏やかに別れ、ペヌエルからヨルダン川を渡り、西岸のシェケムに落ち着きました。(18節)

 物事が穏やかに終結したとき、神の介入があるのです。何事もない日常生活を感謝しましょう。その背後にある、神の御顔を見上げて、神を礼拝しましょう。
 当たり前なんて、この世界に存在しないのです。主の守りと愛に包まれているのです。

 →あなたの番です。
  □低い心で、まごころからあやまりましょう。
  □あなたがエサウです。今が赦すときです。
  □守られた事を感謝し、神の御顔をあがめましょう。

創世記32:1~12 恐れと心配

 今日は、ヤコブがエサウと再会する直前の様子を見ていきましょう。

1、使者を送る

 「ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。」(創世記32:3)

 ヤコブは、覚悟ができました。もう逃げません。ヤコブは自分の方から使者を送りました。受身になっていません。一番大事な事に真正面から立ち向かう覚悟ができました。エサウに会うのです。

 使用人にエサウのことを「主人」(4節)と説明している姿を見ると、ヤコブがラバンのもとでいかに謙虚な人になったかが分かります。

 あなたにとって、エサウに会うとは、どんなことですか。ずっと逃げていた事とは何ですか。あなたにとって一番大事な事とは何ですか。神は、あなたに言われています。エサウに会いなさい。

 あなたも、まず、使者を送るという第一歩から始めましょう。スケジュールを見て、あなたの一番大事なことを優先して予定を組みましょう。お金がいるなら、まず1ドルから貯金を始めましょう。

 エサウに会うという一大イベントの前にして、誰かがそばにいてくれることが大きな励みになります。ヤコブの場合は、御使いが表れたことが大きな力になりました。

 「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。」(1節)

 それで、ヤコブはそこをマハナイム、つまり神の陣営と呼びました。あなたにも神の守りあります。信仰の友の励ましがあります。正面から課題に取り組み、使者を送り出しましょう。

2、不安と恐れを抱えても

 使者たちはエサウの返答を持って帰りませんでした。沈黙。それがエサウの返事でした。これほど恐ろしい返事はありません。

 「使者はヤコブのもとに帰って言った。『私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。』」(6節)

  「ヤコブは、非常に恐れ、心配した」(7節)とあります。神の導きに従ったのに、やってきたのは恐れと心配でした。ここが、信仰が試され、信仰が強められる踏ん張りどころなのです。逃げたらいけないのです。ヤコブが20年間、ラバンのもとで苦しんだのはこの時のためだったのです。ヤコブは祈りました。

 「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。」(9節)

 これは神の約束に立とうとする祈りです。危険に直面したとき、私たちも神の約束に立ち返りましょう。

 「私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。」(10節)

 ヤコブが二番目に祈ったのは、神から受けた恵みの再確認でした。自分勝手で、押しのける者である自分を見捨てない神がおられた。そんな私にあふれるばかりの富を下さった。本来、杖一本しか持たなかった自分だった。すべては神から受けた恵みだ。そこまで考えが及ぶと、自分の財産を兄に譲渡することは、何でもないことに思えるのです。
 13~19節によれば、ヤコブは合計550頭の家畜を兄にプレゼントしたことが分かります。

 「どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。」(11節)

 この最後の部分の祈りは、純粋に、助けを求めています。あなたも、神に助けを祈りましょう。不安や恐れが襲ってきても、神の約束を思い起こし、神の恵みを感謝し、ひたすらに神の助けを求めましょう。


3、格闘

 大きなイベントの前夜というのは、不安が最高潮に達し、なかなか眠れないものです。結婚式前夜の花婿は、心配でつぶれそうになります。それで新郎(=心労)と呼ぶのですね。

 「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」(24節)

 この場面は、イエスさまの生涯ならば、ゲッセマネの祈りに当たります。あなたの人生にも、同じような場面があるはずです。

 兄と会うことが一番の山であり、人生最大の戦いです。けれども、本当の戦いとは自分との戦いなのです。それはまた、神との戦いと言ってもいいかもしれません。ヤコブは、自分のかたくなな自我と戦っています。捨てきれない何かを持っています。
 「ある人」はヤコブのもものつがいを打ちました。それで、ヤコブはもはや足を踏ん張ることができません。ヤコブは今まで自分のやり方で踏ん張って生きてきたのです。その要を打たれました。それが大きな転機になりました。

 「ある人」(24節)とは誰でしょう。ある人と、相撲のように取り組むことができました。会話することもできました。ヤコブに新しい名前を与えることのできる方でした。(28節)翌日ヤコブはこの夜の戦いを振り返ってこう言っています。
 「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。』という意味である。」(30節)

 逃げていた事、一番大事な問題、和解すべき大切な相手との再会。これらと取り組むとき、私たちは自分と向き合うことになります。真剣な祈り、神との語り合い、そして、神に完全降伏する。そのとき、あなたは、神から新しい名をもらいます。神が、あなたにくださる名は何と言う名でしょう。

 翌朝、ヤコブは、エサウと会うことなど、もう何でもないことと感じていたでしょう。名誉が失われようが、財産が奪われようが、命が取られようが、それは小さなことなのです。ヤコブはエサウに会う前に完全に変えられ、輝いていました。

 「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」(31節)

→あなたの番です。

□まず、あなたの使者を送りましょう
□ 神の導きに従うゆえの困難なら、祈って乗り越えましょう
□あなた自身が神と格闘し、神に変えていただきましょう

ヨハネ20:11~18 誰を捜しているのか

 イースターおめでとうございます。主はよみがえられました。
今日は二つの質問を手がかりに、イースターの意味を考えましょう。

1、なぜ泣いているのか

 マグダラのマリヤは、7つの悪霊を主イエスに追い出していただいた女性です。(ルカ8:1~2)。彼女は12弟子と共に旅をした女たちの一人で、実質的には女性の弟子といっても良いかもしれません。マグダラのマリヤは、主イエスが十字架で死なれる場面をじっと見つめて最期を見届けました。(マルコ15:40)
 マリヤは、人生で最悪の時を過ごしていました。主イエスが死なれたのです。無実の主イエスがむごたらしく殺されたのです。恩人が死んだのです。希望が消えうせたのです。悲しみの極みでした。

 「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(1節)

 マグダラのマリヤが墓につくと、入り口の大きな石が取り除けられていました。中をのぞくと、主イエスの遺体がありません。ペテロとヨハネに一部始終を知らせ、二人は詳しく調べて帰りました。二人が帰った後も、マリヤは墓の外で立っていました。

 「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(11節)

 ふと、墓の中をのぞくと白い衣を着た人が二人いました。(12節)その二人はマリヤに語りかけました。「なぜ泣いているのですか。」(13節)

 このタイミングで、夫が妻に「なぜ泣いているのか」と尋ねたら、いっぺんで愛想をつかされますね。あなた、あっちに行って、じゃま、と言われるのがおちです。
 「なぜ~」と言う場合、理由を尋ねる場合と、もう一つの意味があります。泣く意味がない、と言いたいのです。

 あなたは、今、マグダラのマリヤと同じように、人生で最悪の状況にいますか。悲しみでつぶされそうだ。希望の火が消えた。何も考えられない。

 そんなあなたに、神が伝えたいメッセージは、<泣く必要はない>ということです。最悪と思える状況でも、泣く必要はないのです。

2、誰を捜しているのか

 人の気配がして、マリヤは後ろを振り向きました。見ず知らずの男性がそこにいて、こう言いました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」(15節)

 同じ言葉の繰り返しは、重要なメッセージだという印です。なぜ泣いているのですか、と再びマリヤは言われました。泣く必要はないとの神のメッセージです。
 第二の質問は、「誰を捜しているのですか」です。マリヤは、誰とは答えませんでした。答えられないのです。
 マリヤが捜していたのは、<誰>ではなく、<それ>だったからです。マリヤの関心事は、生きている方ではなく、命のない遺体だったのです。

 マリヤが墓に来た目的も、遺体にすがって泣きたかった、きちんと埋葬したかったからです。マリヤは、なきがらに会いたかったのです。

 主イエスは、今日、イースターの朝、あなたに同じことを言われます。「だれを捜しているのですか。」

 あなたは、問題の解決方法を捜しているのですか。それとも、問題の解決者である主イエスを捜しているのですか。

 あなたの通っている苦しみ、家族の問題、病気、将来の不安、それらの中でただ泣くばかりのあなたに、主イエスは言っておられます。わたしがここにいると。わたしと共に進もう。わたしは、死んで、よみがえった。あなたが乗り越えられない問題はない。そうあなたにイースターのメッセージを伝えておられます。

 マリヤはその人が誰か、まったく見当がつかず、墓の管理人と思い込みます。
 「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。」(14節)

 私たちの人生にも同じことが起こります。問題の横に主イエスがおられるのに、気づいていないのです。でも、祈りの中で、主イエスを見出すことができるのです。

 ある宣教師夫婦に子供が与えられましたが、奥さんは子宮頸がんと診断され、赤ちゃんの中絶を勧められました。信仰的な観点から中絶はできません。セカンドオピニオンでも中絶を勧められました。子供を与えてくださったのは神さまであり、奥さんの病をゆるされたのも神であるなら、神が解決を持っておられると二人は信じることにしました。中絶せず、また母親の命を守る道があるという別の医師と出会うことができ、結果的に元気に赤ちゃんは誕生し、お母さんも守られました。

 「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」(16節)

 なつかしい主の声、愛に満ちた声、7つの悪霊から救い出してくれた声、勇気を与えてくれた声。まぎれもなく、生きておられる主イエスだとマリヤは気づきました。

 あなたは主イエスが死からよみがえられたと信じますか。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 あなたの番です。
  □泣く必要はないと主は言われます。悩みを乗り越えられると信じましょう
  □悩みの中で、解決方法でなく、解決者である主イエスを求めましょう
  □よみがえられた主イエスをたたえ、主と共に生きていきましょう

創世記31:1~13 ラバンから離れる

 決断は、あなたを成長させる。
 勇気をもって大きな決断をするとき、あなたの信仰は飛躍的に成長します。

1、時を見分ける

 月日は流れた。ヤコブは20年間ラバンの下で、ついら労働に耐えてきた。
 「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされ、眠ることもできない有様でした。」(創世記31:40)
 14年間はラバンの二人の娘との結婚費用として、その後6年も余分に働きました。

 現代の会社風に言えば、経費はすべて自分持ち出し、不可抗力で起きた損害は自分がすべて被り、残業手当も休暇もない過労死寸前の状態と言えます。
 あなたは、今日、似たような状態にいますか。こんな会社辞めてやると言い捨てながら、毎日同じ繰り返しでいいのでしょうか。あなたの生活、仕事、スケジュールを見直しましょう。

 追い討ちをかけるように、ラバンの息子たちのヤコブへの態度が険悪になり、ラバンの態度もフレンドリーとはいえません。(1~2節)

 そんなとき、主はヤコブに語られました。
 「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」(創世記31:3)

 あなたにとって、生まれた国に帰りなさいとはどんな意味ですか。人によっては、本当に引っ越すことを意味するでしょう。ある人にとっては、自分の原点に帰ることかもしれません。人生は長くありません。主の前で悔いの残らない歩みをしましょう。

 クリスチャン青年のドゥウィット・ウォーレスは会社を解雇され、それを機会にして、心に温めていたビジネスを始めました。本の要約や心励ます記事をまとめた小さな本を出版しました。その雑誌が「リーダーズ・ダイジェスト」で、やがて世界で何億部も印刷されるまでに発展しました。ウォーレスも、主に行き先を示され、決断して祝福をつかんだ人です。

 大切な決断は、あなたがしなければいけならないのです。主の指示を仰ぎ、時を見極めましょう。大きな決断は、あなたの信仰は強めます。


2、不遇に咲いた花たち

 神は20年間沈黙しておられたが、目を閉じていたわけではありません。
 「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。」(創世記31:12)

 不遇の20年間と思えた年月ですが、主の恵みが野の花のように咲いていることにヤコブは気づきました。

 第1の花とは、羊などの財産が飛躍的に増えたことです。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと男女の奴隷、およびらくだと、ろばを持つようになった。」(創世記30:43)
 ヤコブは、働いた報酬としてぶち毛やまだら毛、黒毛の羊をラバンに要求しました。白い羊をもらうと、取った取らないと後で争いになるので、色のついた羊を申し出たのです。主の恵みと守りの中で、また主から頂いた知恵のおかげで、色のある羊はたいそう増えたのです。(創世記30:27~43)

 第2の花とは、大勢の子供です。ルベンからヨセフまで、結局11人の息子が生まれました。二人の妻のいさかいは絶えずヤコブも苦しみますが、これらの子供たちがユダヤ12部族の祖となったのです。神の奇しきご計画としかいえません。子孫が増えるという主の約束がこのようにして実現しました。

 苦しみの中で、知らず知らずのうちに、美しい花が咲いていることがあるのです。あなたの番です。苦痛の中で咲いた花は何ですか。悩みと辛さの中で身に付けた良き物はなんですか。


3、決意をサポートしてくださる神

 ヤコブは環境の変化に気づき、主の励ましを受け、自分で一歩を踏み出しました。ラバンに挨拶もせずに、生まれ故郷に帰ることにしました。ラバンに嫌われることを恐れません。
 あなたは、ノーと言える人ですか。多くの人は断れない自分に愛想をつかしています。あなたが恐れているのは、大好きな人に嫌われることではなく、付き合い程度の人に嫌われるのを恐れているだけです。劣悪な環境から出ましょう。ノーと言いましょう。新しい生き方を始めましょう。
 あなたを主から引き離す人、罪に誘う人、否定的にさせる人、そういう人からはきっぱりと離れましょう。

 決意をサポートしてくださる主は、ヤコブの妻たちの心を整えてくださいました。これは大きな力です。レアとラケルは、「さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」(16節)とヤコブの決断を支持してくれました。(創世記31:14~16)娘は自分の父を大切にするものですが、レアとラケルは父に失望しきっていたのです。

 主の第二のサポートは、ラバンに釘を刺してくださったことです。ヤコブが逃げたと知ったラバンは血相を変えて追いかけてきました。ですが、ヤコブに会う前夜、夢でラバンに忠告されました。
 「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。『あなたはヤコブと、事の善悪について論じないように気をつけよ』」(創世記31:24)
 主からの力強いサポートでした。おかげで、ヤコブはラバンと不戦条約を結び、ご馳走を食べて平和に分かれることができました。(創世記31:43~55)

 一人の男子大学生が教授に授業後に呼ばれ、叱られたことがありました。もっと男らしくなりたまえ。答えを知っているなら、きちんと答えなさい。大学生は、私はどうしようもない人間なのです、と返事をしました。教授は、負け犬のようなことを二度と言ってはいけないと諭した後に、「君を造られた神に、私を変えてくださいと祈ってごらん」と励ましてくれました。
 大学生は、廊下を出て、長い階段を下りました。下から4段目で足を止め、言われたとおり真剣に祈りました。それが彼の人生を変えるターニングポイントになりました。この大学生の名は、ノーマン・ピール、後に牧師になり、積極的人生を語る第一人者になりました。

 主が道を示されたなら、主がその道のすべてであなたを守られます。神は、ベテルの神だからです。ベテルで約束されたことを、必ず守る神です。

 「わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油を注ぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」(創世記31:13)

 ベテルの神を信じて、あなたも踏み出しましょう。

 あなたの番です。
  □時を見分けて、離れるときです。何から離れますか。
  □不遇に咲いた花を数え、感謝しましょう。
  □主があなたの決断を支えてくださいます。

創世記29:15~30 だまされたヤコブ

1、ラバンと会う

 ヤコブは旅を続け、ある井戸にたどり着きました。羊飼いとの会話から、そこが母の故郷カランだと分かりました。(創世記29:4)
 ヤコブは、井戸で一人の女性に出会います。その女性はラケルという名で、母の兄ラバンの娘でした。ヤコブは彼女に口づけし、声を出して泣き出すほど感激しました。(9~11節)
 ラバンはヤコブが来たと知らされると、走って迎えに行き、ヤコブを抱きしめました。(12~13節)

 神は、ベテルで約束された通り、ヤコブを守り導いてくださいました。ヤコブは、神の助けを心から感謝したことでしょう。

 私は先週の一週間をハワイで過ごしました。人生で最も苦しかった5年間、私の横にいて支えてくれたたくさんの人と再会できました。顔を見ただけで私は涙でした。ハグしただけで、何も言えなくなりました。私の涙を見て一緒に泣いてくれる人を見て、さらに私も泣きました。
 あの頃、多くのクリスチャンに支えていただきました。食事に誘ってもらいました。語り合う、祈ってくれる、そのままの私を受け入れてくれる、具体的に助けてくれる。それらの事すべてが私が受けた愛でした。こうした人々との出会いは、神の愛がどんなものか具体的に分からせて頂くかけがえのない経験になりました。

 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。」(創世記29:15)

 神は、ベテルでヤコブに約束されたことを果たしてくださいました。神は、今もあなたを守る方、あなたと共におられる方です。つまり、あなたを愛してやまない方なのです。


2、だまされたヤコブ

 最初の1ヶ月間、ヤコブはラバンのもとで仕事を手伝いました。(14節)ラバンはヤコブの労働力を評価し、長期間働いてほしいので報酬の相談をしました。ヤコブはすぐにこう答えました。「私はあなたの下の娘ラケルのために7年間あなたに仕えましょう。」(18節)

 水筒のふたをアケルとラケルを思い出し。このぶどう酒はイケルぞとラケルを想い、今日は熱くてヤケルなとラケルのことを考え、石につまずいてコケルと、ラケルの名を呼ぶという感じで、ヤコブはラケルと結婚できるのが楽しみでしょうがありません。
 「ヤコブはラケルのために7年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」(20節)

 いよいろ結婚の祝宴が開かれました。夜明けとともにヤコブはだまされたと知りました。最初の晩を過ごした相手はラケルではなく姉のレアだったのです。

 「朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。『何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。』」(25節)

 ラバンは、ヤコブの申し出を聞いたとき、注意深く言葉を選んで答えていました。「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」(19節)
 ラバンは、ラケルと明言せずに、娘とぼやかしています。また、7年といわず、私のところにとどまれと言うにとどめました。
まるで新聞広告の下に書いてある小さい字の契約内容のようなもので、ラバンは一枚上手の詐欺師だったのです。
 レアを拒絶することは、来客への侮辱になり、既成事実もあるので結婚解消は難しく、年上の娘から結婚するのがこの地の慣わしだと言われて反論もできません。

 「この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう7年間、私に仕えなければなりません。」(27節)とラバンに言われ、しぶしぶ納得しました。

 父をだまし、兄を出し抜いたヤコブが、今度は逆にだまされました。

 これは、神の与えた大切なレッスンです。だますことがどんなに大きなダメージを与えるのか。だまされることがどんなに悔しく辛い経験か。ヤコブは初めて知ったのです。

 私たちは様々な苦しみを経験します。そのごく一部に、自分の犯した罪の重さを悟るためのレッスンが含まれています。
 ヨセフの兄たちがエジプトで理不尽な扱いを受けたとき、「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。」(創世記42:21)と自分の罪を思い起こしたことに似ています。
 今、あなたも、そういう意味の苦しみにいるかもしれません。

 ヤコブは、怒りが収まった後に、こう祈ったかもしれません。「主よ。私はもっとひどいことを父や兄にしました。父と兄の気持ちがやっと分かりました。私は傲慢でした。私は自己中心でした。ごめんなさい。これからの7年間で、私を作り変えてください。」

 俳優のウォルター・ハンプデンは、最も好きな言葉を尋ねられ、古い黒人霊歌の歌詞を挙げました。
  Nobody knows the trouble that I’ve seen.
  Nobody knows my sorrow.
  Nobody knows the trouble that I’ve seen.
  Glory hallelujah

 この歌を歌った人は、出口のない苦しみと嘆きの中にいました。孤独と失望の淵にいました。けれども、突然のように、グローリー、ハレルヤと叫んでいます。信仰者だけが歌える魂の賛美です。神さま、あなただけは知っていてくれます。それで十分です。あなたは、ほめたたえるべきお方です。
 ヤコブの経験は、こうした賛美の歌が本物になるための、神からの貴重なレッスンでした。

 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
 私はそれであなたのおきてを学びました。」
 (詩篇119:71)

 あなたの番です。
  □神はあなたを守る方、共にいてくださる方です。
  □苦しみの中で、しっかり神のレッスン受けましょう。
  □苦しみの真ん中で、神の栄光をたたえましょう。