心を尽くして主に感謝 詩篇9篇

 私たちが幸せになったり、不幸せになったりする原因のほとんどは、言葉です。悪い言葉を聞けば、失望し、苦しみます。良い言葉を聞くと、元気になり、温かい気持ちになれます。
 人から「ありがとう」と言ってもらえると、苦労がすっと飛んでいきます。実に不思議なものです。今年最後の礼拝で、感謝することの素晴らしさを確認しましょう。



1、感謝すると、愛されていることが分かる

 「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」(詩篇9:1)

 これは詩篇9篇の主題であり、結論です。心を尽くしてとは、神がしてくださった事を、ひとつひとつ思い返したということです。
 感謝する能力があるとすれば、それは、隠れた努力や忍耐、注がれた愛に気がつく推察力と言い換えればいいでしょう。見えないところに隠れた神の愛や配慮に気づくことが、感謝です。

 主のして下さったことを数えましょう。今年、主から受けた恵みを一つ一つを感謝しましょう。あなたも、主に守られたことでしょう。そして、神に忘れられていません。

 「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。」(9節)
 「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。」(12節)
 
 結婚が近づき、花嫁が「お父さん、お母さん、ちょっと話があるの」と言いますね。そんなふうにした人はどのくらいいるでしょうか。両親も、「なんだい、改まって」と言いながら、実は、何を言うのか分かっています。「長い間お世話になりました」感謝する娘も涙、感謝される親も涙になります。親の愛と犠牲に見合う物やお金を返すことは不可能です。でも、ありがとうと言うなら、心は伝わるのです。親もそれ以上は求めません。
 神に対して、同じように感謝しましょう。感謝すれば、するほど、神に愛されていることに気づきます。



2、感謝すると、将来が明るくなる

 「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇9:10)

 神を信頼する者を、神は見捨てることがありませんでした。これは過去形です。それで、御名を知っている者は、これからも神に頼ります。これは未来形です。

 感謝することは、あなたの将来を明るくします。過去の感謝が、未来の安心を引き寄せるのです。今まで、神は、こんなに良くしてくださった。それなら、明日の心配はいらない。

 逆に言えば分かりやすいですよ。今、感謝をしない人の未来は、暗くなるのです。未来を造るのはあなたかもしれません。今の感謝が、将来の輝きを支えるのです。



3、感謝すると、礼拝者になれる

 「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」(詩篇9:2)

 感謝は、神のして下さった事実を土台にお礼を言うことです。感謝を続けると何が起こりますか。それは、恵みを下さる神ご自身が素晴らしいという確信を与えてくれます。もらったプレゼントが素晴らしければ、しばし、感激しますが、そのプレゼントを下さる神こそが、本当に素晴らしいと分かります。これが賛美です。そして、賛美とは礼拝の中心です。

 あなたが、感謝する人になれば、礼拝する人、賛美する人になっていきます。

 エレナ・デッセリッチちゃんは、5歳で脳腫瘍になり、6歳で亡くなりました。両親は子供にしてやれる治療のすべてを行い、余命わずかと分かったときには思い出作りのためエレナちゃんの喜ぶことをすべてしてあげました。
 亡くなった後、親が子供の机の引き出しを開けると、小さな紙が出てきました。「お父さん、お母さん、妹のグレース、大好き、ありがとう」と書いてありました。本棚から本を出すと、小さなメモが出てきました。その数は何百枚にもなり、家の中のあちこちに隠してありました。亡くなって2年たってもびっくりするような場所からメモが出てきました。

あなたの番です。
□まず、身近な人に、感謝しましょう。目を見て、心を尽くして、伝わる感謝をしましょう。
□神に感謝しましょう。一人で時間を取り、今年一年の感謝を具体的に思い出し、ノートに書き、祈りの中で神に感謝しましょう。

クリスマスの意味  マタイ1:18~25

 ラジオのスイッチを入れると、クリスマスは一年で最も素晴らしい時、と英語のスタンダードナンバーが聞こえてきます。
 なぜ、クリスマスは素晴らしいのでしょうか。今日は、クリスマスの意味を考えてみましょう。


1、クリスマスは、救い主の誕生

 日本のクリスマスは恋人たちのビッグイベントの代名詞になりました。アメリカでは家族のリユニオンの時です。

 本当のクリスマスの意味を一言でいいましょう。私たちを罪から救う<救い主>が生まれた、これがクリスマスの意味です。

 マタイの福音書をしばらく読んでみましょう。

 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
(マタイ1:18~21)

 聖書は道徳の本としては素晴らしいが、奇跡があるから信じられないという人が多いです。2000年前のユダヤ人ヨセフも現代人と同じ感覚を持っていました。自分に見覚えのないマリヤの妊娠をどう考えたらいいのか。婚約者のマリヤが妊娠したと知らされ、悩み苦しんだのです。

 神が本当におられたなら、と私と一緒に考えてください。時間と場所の制限を受けない神がいて、天と地のすべてと人間を造られた神がいたとしたらどうでしょう。宇宙の法則を定め、人間の体とDNAのすべてをつかさどり、物質の最小単位の原子、素粒子などのすべてを考案された方がいたらどうでしょう。その全能の神が、ある時、ご自分の造られた法則を一時的に変更することは不可能でしょうか。いいえ、可能です。奇跡は、全能の神を前提とすれば論理的にうなずけることなのです。

 マリヤは、天使ガブリエルとの出会いを詳細にヨセフに語ったことでしょう。ルカ1:26~38に詳しく書かれています。
 ヨセフは、マリヤを愛していました。けれども、常識と理性もあったので、マリヤの言うことは受け入れられません。それで、内密に婚約破棄し、スキャンダルの的にさせないようにと配慮しました。ヨセフができる精一杯の思いやりが表れています。

 処女降誕。ありえないことが起きたのです。けれども、救い主の誕生には、ありえない事がどうしても必要だったのです。
 人の罪を身代わりに背負うためには、救い主が罪があっては身代わりになりえません。普通の人間と同じように生まれて来たなら、それはただの人に過ぎません。聖霊によって誕生した方なので、罪人の身代わりになれるのです。
 また、この特別な誕生方法は預言者イザヤによって預言されていました。つまり、アクシデントではなく、予定通りなのです。イザヤ7:14「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(参照:マタイ1:22~23)

 神のひとり子が、神の栄光をかなぐり捨て、人間の姿をとって生まれてくださいました。当時ですら、家畜のえさ箱に寝かされる赤ちゃんなどいませんでした。貧しさの極みの夫婦のもとに生まれてくださいました。
 主イエスは、人として人生を送り、私たちが経験する悩みや悲しみや苦痛をすべて味わってくださいました。このようにして、私たちの救い主は来てくださったのです。その最後には、私たちの罪を背負って十字架で死ぬという最後が待っていました。

 ヨセフが悩んでいると、主の使いが夢に現れ、マリヤの言葉の正当性を教えてくれました。ヨセフは、これで吹っ切れました。離縁をやめました。ヨセフは男だな、と私は思います。

 ヨセフのこの決断によって、主イエスはヨセフの家系と認められました。(マタイ1:16)それゆえに、主イエスは旧約聖書が預言したとおり、ダビデの子として生まれたのです。



2、救い主を心に受け入れよう

 クリスマスが救い主の誕生であると分かっても、それだけではもったいない。主イエスは、いわば神からあなたに贈られた最高のプレゼントです。そのプレゼントの箱を空けずに横に置いていたら何にもなりません。受け取ることによって初めてその人のものになります。主イエスを心に受け入れ、信じましょう。それが、神のプレゼントを受け入れることです。

 フランシス・コリンズという人は、エール大学で物理化学の博士を取得、ノースカロナイナ大学の医学博士にもなった秀才です。
 インターンの時、お年寄りのクリスチャンから質問され、それが心に重く響きました。「あなたは何を信じているのですか」治療不可能な重度の狭心症で日々耐え難い痛みと戦っていたその患者は神を信じて平安を持っていました。
 フランシスは意図的に神に背を向けてきました。けれども、背中を押されるようにして、様々な宗教の本を読みましたが混迷は深まりました。近くにあったメソジスト教会の牧師に質問にいったおり、C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」を紹介され、読んでみました。自分の持っていたひとつひとつの疑問がわずかな言葉で的確に説明されているのを見て驚きました。それに触発され、クリスチャンになりました。
 フランシスは、後にヒトゲノム計画の責任者となるなど、遺伝子分野の有数な学者として知られるようになり、テレビのインタビューに登場し、はっきりと自分の信仰を語っています。主イエスは、私の救い主だと公言しています。

 聖書は、主イエスが救い主であることをあなたに伝え、あなたが信じて本当の命を受けられるようにと書かれたものなのです。

 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 あなたが、プレゼントの包みを開くときが来ました。
主イエスをあなたの救い主として信じましょう。そのとき、本当のクリスマスの喜びがあなたに届きます。

 クリスチャンのあなたにも最後に一言。堂々と主イエスが救い主であると人々に伝えましょう。

バルテマイ  マルコ10:46~52

 出会いは人生を変える。まさに今日はそれにふさわしい箇所です。盲人で乞食のバルテマイがどのように変えられたかを見ていきましょう。

1、つながるための叫び

 エリコは、オアシスの町、また、パレスチナで最も古い町の一つ。標高マイナス250mという低い場所にあり、もう少し下ると死海に着きます。
 ユダヤ人の大事な祭り、過ぎ越しの祭りが目前に迫っていたので、多くの人がエリコを通過してエルサレムを目指して上っていきました。

 盲人で、乞食のバルテマイが人通りの多いところに座っていたのでしょう。主イエスの一行が付近を通ると知ると急に叫びだしました。

 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。(マルコ10:47)

 バルテマイは主イエスの噂を聞き、この方こそ救い主、ダビデの子孫として生まれると旧約聖書に預言されたメシアだと確信して、「ダビデの子」と呼びました。マルコの福音書で唯一主イエスを「ダビデの子」と呼んだ人物がバルテマイです。

 まことの神を知らない人は、バルテマイと同じように霊的な意味で闇の中にいます。見たことのない方を完全に知ることは不可能です。知りえる情報から判断して、この方こそ救い主と知る以外道はありません。
「あなたが本当の救い主ですか。教えてください」そうあなたが叫ぶなら、あなたは必ず、主イエスの応答をもらえます。

 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13~14)

 主イエスは、バルテマイに応答されました。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(49節)

 主イエスとつながりたいというバルテマイの祈りは、このようにして主イエスに届きました。弟子たちがバルテマイに主イエスの言葉を伝えると、喜びのあまり上着を脱ぎ捨て立ち上がりました。

 あなたの番です。
あなたも、主イエスに届く祈りをしましょう。あなたを知りたいのです。あなたご自身を私に教えてください。私はあなたを信じます。そのように祈りましょう。


2、未来を切り拓く願い

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。

 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(51節)

 シャルル・ペローの「3つの願い」という話は興味深い寓話です。
きこりの夫婦が森で一本の木を切ろうとすると、木の妖精が現れ、この木を切らなければ3つの願いをかなえようと言うのです。言葉に従い、何を願おうかと考えいましたが、奥さんが「大きなソーセージが食べたいな」とつい口に出してしまいました。目の前に見たこともない巨大なソーセージが出てきました。大事な願いをつまらんことに使いおって、そんなソーセージはお前の鼻にくっついてしまえ、と夫が言い捨てました。すると、その通りになり、奥さんは困り果て、結局3つ目の願いは、それを外すことに使いました。

 私たちは、何を望んでいるのでしょう。たくさんのことを、ぼやっと願っているだけです。主イエスは、バルテマイの信仰を引き出したのです。

 「コーチング」という言葉があります。会社の社長や専門職が、新たな飛躍を求めて個人コーチを付ける例が増えてきました。カウンセリングは、どちらかといえば過去の問題の解決を志向しますが、コーチングは未来に向かって自分の行動を変えることを目指すと言われています。コーチングのプロは、課題を明らかにしたり、承認したり、励ましたり、目が覚ましたり、気づくことを促進させようと、的確な質問を投げかけます。そうなのです。良い質問は、漠然としていては出てきません。良い質問が人を育て、引き上げます。

 主イエスの質問を読んで、当たり前のことを聞くなあ、と思わないでください。実に的確で的を得た質問なのです。

 「そのとき盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳をあけられる。」(イザヤ35:5)

 51節で、「盲人は言った。『先生、目が見えるようになることです。』」とあります。盲人がそういう事は大変困難なことです。
 バルテマイは、自分をいじめた人に仕返しがしたいと答えることもできました。世界一の金持ちになりたいとも言えます。けれども、主イエスと対面していたバルテマイは、その出会いによって、心が整えられ、大胆に求めることができたのです。

 あなたの番です。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスに今日聞かれたら、あなたは何と答えますか。

 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(52節)

 主イエスは、バルテマイを励まし、その信仰を肯定されました。あなたの信仰がこんな素晴らしい結果を導き出したのだと。ダビデの子であるとバルテマイが認めたこと、大声で求め続けたこと、主イエスの質問を受けて見えるようになりたいと言ったことなど、主イエスはバルテマイの信仰が素晴らしと励ましました。

 バルテマイは、その後どうしたでしょう。見えるようになった目で主イエスを見つめ、主イエスの後に従う者になりました。金持ちの青年ができなかったことをバルテマイはいとも自然に行うことができました。

 今日、三度目のあなたの番です。
あなたも、主イエスにいやされたなら、罪ゆるされたなら、主について行く人生を選びましょう。

仕える人  マルコ10:32~45

 「私は不幸せだ」と言う人には共通する何かがある。それは、受身の人生観です。愛してもらえない、分かってもらえない、白馬に乗った王子様が来てくれない、子供が問題ばかり起こす、良い仕事が来ない……。
 今日は、仕える心について話します。これを身につければ、間違いなく幸せになれます。

1、何かをする動機

 何かをする時、以下の3つのどれかが動機になっています。

 1)みんながやっている
 2)言われたから
 3)別の下心で

 私も日本人ですから、みんながしていると嫌でもやってしまう気持ちは分かります。人生のかなり多くの部分は、習慣、前例、きまり、規則などに従って生きています。でも、残るのは疲れだけです。

 次に、職場で上司から指示があると、やりたくないことでも、しますね。親に手伝うように言われた子供の顔が不満なのは理解できます。言われてやる事は、たいてい不平、不満が残ります。

 第3は、下心があって何かをする場合です。自分からしているという意味では受身ではありません。自発的ですが、自己中心です。相手からのお礼や見返りがない場合はたちどころに怒りに変ります。

 もし、第4の動機があれば、人生は大きく変ります。主イエスの生き方。仕える心があれば、満ち足りた人生になります。

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:44)

 マーケティングの基本は、他人の求めている事に応えることであり、つまりそれは、人に仕えることだ、と発言する経営コンサルタントがいます。
 ビジネスの世界で、ロバート・グリーンリーフは1970年に<サーバント・リーダーシップ>という考えを提唱しました。ワンマン社長ではなく、上司が部下に仕え会社を活性化するという思想です。この考えは広く知られるようになり、事実、生まれ変わった企業の例も報告されています。


2、主イエスの生き方


 主イエスの生き方は、他人と横並びではなく、言われたからするのでもなく、卑しい動機ですることもありません。

 1)目的を持つ

  主イエスは、これから起きることを弟子たちに予告しました。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:33~34)

 主イエスの未来にあるものは、困難と屈辱と暴力と死だけでした。主イエスは、淡々と十字架への道を歩いていかれました。十字架で身代わりになるという明確な目的を持っている主イエスは、迷うことも、ぶれることもありません。

 2)正しい動機で選択する

 12弟子のうちヤコブとヨハネは、主イエスのナンバー2とナンバー3にして欲しいと申し出ました。(37節)エルサレムで主イエスが何かをなさると予想できたので、今のうちにお願いしようと思ったのでしょう。出し抜かれた他の弟子たちも動機は同じで、後で話を聞いて腹を立てました。(41節)
 主イエスの動機は正しい心でした。人々の罪を赦すために十字架につくという無私の心でした。

 「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲」む、と主イエスはヤコブとヨハネに向かって予告されました。この事は、ヤコブが最初の殉教者(使途12:2)になり、ヨハネが島流しの刑を受ける(黙示録1:9)ことによって成就しました。

 3)仕える姿勢で生きる

 主イエスの生き方は以下の言葉に集約されています。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

 栄光の神が、人となってくださったのです。しかも、罪深い人間に仕える姿を取られたのです。
 神の子が私たちに仕えようと考えてくださり、そのように行動されました。仕える心の中核は、命を与えることです。
 そうです、誰かに仕えることは、命を差し出してるに等しいのです。誰かが困っているとき、あなたがその場に行き、なぐさめ、抱きしめます。それは、あなたの時間をささげ、エネルギーをそそぎ、持てる愛のすべてを与えているのです。あなたも、仕える心を持ちましょう。世界が違って見えるはずです。あなたを待っている人がいます。最も仕えて人こそ、最も賞賛される人となるのです。

 →あなたの番です

 □職場で、家庭で、教会で仕える心を持ちましょう
 □誰かと共にいる、傾聴する、愛する、励ましの言葉のプレゼントをする
 □人を育てるために祈り、誰かに仕えるために計画を立てよう
 □福音を伝え、明確な決心者を生み出す行動を取ろう

 

福音のために マルコ10:23~31

1、神にはできる

 だいぶ昔のことですが、あるアメリカの新聞がお金についての定義を一般公募しまして、一位に選ばれた定義がこれです。
 お金とは、それを払えば天国を除くすべてのところに行く事ができ、幸福以外のどんなものでも買えるもの。

 お金にだけ価値を置き、お金だけを追求する金持ちに対して主イエスは厳しいことを言われました。

 「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。』」(マルコ10:23)

 その難しさを、弟子達に強く印象づけるために、当時ユダヤで知られていた最も大きな動物と最も小さな穴を対比して、次のように主イエスは言われました。

 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マルコ10:25)

 弟子たちは、主イエスの説明に驚きました。神に特別に祝福された人だから金持ちになれた、と当時の人々が考えていたので弟子の驚きは尋常ではなかったのです。

 弟子たちは、困惑しきって、「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(26節)と言いました。
 
 「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」(マルコ10:27)

 今日の箇所には、主イエスのまなざしがとても印象深く語られています。
 「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。」(23節)
 「イエスは、彼らをじっと見て言われた。」(27節)

 ルカは、主イエスのまなざしについては言及していません。(ルカ18:18~30)十二弟子の一人マタイは、二回目のまなざし(マタイ19:26)だけを記録しました。マルコの福音書は、主イエスが弟子たちを二度ご覧になったと記されています。おそらく、これはペテロの記憶に基づくものでしょう。
 ペテロが3度主イエスを裏切ったちょうどその時、「主が振り向いて、ペテロを見つめられた。」(ルカ22:61)とあります。ペテロはその場その場での主イエスの目を他の弟子以上に覚えていたのかもしれません。
 
 主イエスは、目で語るお方です。金持ちの青年にもいつくしみの視線を向けられました。金持ちが救われることが困難だと話すときも、悲しみの表情で語られたのでしょう。けれでも、神には人を救うことができるという時には、温かさと確信に満ちた目をされたことでしょう。
 人にはできない、しかし、神にはできる。神はどんな問題のある人、罪人も救うことができると主イエスは言われるのです。

 「どんなことでも、神にはできるのです。」(27節)

 あなたが、どんなに汚れていても主イエスはそれをきよめると言ってくださいます。あなたが、自分では不可能だとあきらめても、主イエスはできると言ってくださいます。あなたはこの言葉を信じますか。
 主イエスは、今日、あなたを見つめておられます。主イエスの目をまっすぐに見ましょう。

 

2、主イエスのためならできる

 もう、ペテロは黙っていられませんでした。

 「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マルコ10;28)

 ペテロはすぱっと捨てた人でした。マルコ1:18に、「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とある通りです。これはペテロの英断です。仕事を捨て、大事な商売道具の網を捨てて、主イエスについて行くことにしたのです。
 ヤコブやヨハネは、父を置いて、また船を置いて、従ったことが分かります。(マルコ1:19~20)

 富める青年の話を見ていると、財産を捨て主イエスについて行くことが困難に感じられましたが、事実、捨てて従った人々がいたのです。主イエスの素晴らしさを知ったなら、捨てることは自然にできます。
 最も価値あることのためには、価値あるものを捨てることは可能なのです。

 主イエスは、「わたしのため、また福音のために」何かを捨てた人はその100倍の祝福が来ると約束されました。100倍は、大きな祝福を意味するのであって、お母さんが100人になるわけではありません。

 「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」(マルコ10:29~30)

 主イエスを信じる者は、主イエスが見ているものを見るようになります。主イエスが神の栄光を捨てたように、私たちもいつのまにか捨てることができます。

 主イエスのために価値あるものを捨てた人生というと、エリック・リデルを思い出します。
 エリック・リデル(Eric Liddell1、902-1945)は、中国で宣教師をしていた両親のもとに生まれ、スコットランドで教育を受けました。運動能力に優れ、1924年パリオリンピックの100mで金メダルを期待された人物でした。レースが日曜に行われたため、信仰を理由に欠場、つまり主イエスのために金メダルを捨てたのです。とはいえ、エリックは400mで金メダルを取りました。
 翌年、宣教師になるため中国に戻り、やがて結婚しました。日本軍の満州進出など不穏な空気が流れ、エリックは妻と3人の子供を故国に戻し一人宣教地の中国に残りました。
 第二次世界大戦勃発後、エリックは収容所に入れられます。捕虜交換の候補として選ばれてもエリックは妊婦にその特権を譲りました。所内の日曜学校では青少年たちに聖書を教えていました。
 エリックから聖書を学んだ少年の一人に、14歳のスティーブン・メティカフがいました。敵を愛せとの主イエスの言葉は守れないという正直な感想に対し、エリックは、敵のために祈ることはできるよ、私は日本人のために祈っていると話しました。祈らないなら自分中心になる、祈るなら神を中心の人生が送れる、と教えたといいます。スティーブンは、エリックの葬儀の時に棺を担ぎ、エリックの信仰のバトンを心で受け止めました。戦後、聖書を学び、日本に来て宣教師となり38年間福音を伝え続けました。

 一人の信仰者が、キリストのため、福音のため、かけがいのないものを捨てるなら、多くの祝福が周囲に及ぶことがこれからも分かります。

 あなたは、今、何のために生きていますか。

 主イエスのために、何を捨てますか。

 福音のために、今週できることは何ですか。

 あなたの番です。



 
 
 

富める青年  マルコ10:17~22

 華麗なファッションに身を包み、流行のヘアースタイルを決め、真っ赤なスポーツカーに乗った若い男が教会に来たとしよう。「どうしたら、あの人の愛を買えるだろうか」と聞いてきたら、私は言ってやりますね、「みそしるで顔を洗って出直してきな」とね。
 愛は金では買えない。同様に、永遠の命も人間の努力や道徳では獲得できない。だが、今日の箇所に登場する男にはそれが分かっていなかった。


1、一期一会

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』」(マルコ10:17)

 マタイ19:20を見ると、この男が青年であることが分かる。ルカ18:18によれば、職業が役人であり、ルカ18:23からは、大変な金持ちであることも分かる。マルコの福音書を読むと、走り寄り、跪く青年の様子がみてとれる。
 このとき、青年の目はどこに注がれていたのだろう。果たして、主イエスの目を見ただろうか。

 青年は病気でも、盲目でもなかった。いまにも死にそうな家族がいるわけでもない。青年は、ただ永遠の命がほしくて、その獲得方法を尋ねるため跪いた。
 主イエスに出会って、悲しみながら帰ったのはこの青年だけだ。他の大勢の人々は、喜び、賛美し、感謝して帰って行った。他の出会いの場面と何が違うのだろう。

 長血の女の場合と比較してみよう。主イエスの着物に触れればいやされると女は信じて手を伸ばした。その結果、瞬時に痛みが引き、癒された。主イエスは、病気が治ればそれで良しとされず、いやされた人を見つけようとされた。女が出てくると、主イエスは言葉を交わされ、信仰を励ましてから帰された。主イエスは、病気のいやしだけではなく、人との交わりを求めておられた。主イエスは、病気をいやすマシンではないのだ。

 さて、この青年に、主イエスとの心の触れ合いを求めた形跡があるだろうか。自分自身を任せた跡があるだろうか。信じようという姿勢があっただろうか。

 主イエスは、心が触れ合うことを何よりも大事にされた。一期一会の出会いが肝心だと確信されていた。主イエスを信じ自分自身をゆだねる経験が、たとえわずかな瞬間であろうと、その一瞬が永遠のとびらを開く鍵となる。
 
 主イエスは、この青年と意味のある出会いをしたいと願われた。青年の目を開きたいと思われた。それで、今回のような対応を選び、言葉を用いられた。


2、つながり

 青年は知識を求め、主イエスは<つながり>を求められた。

 青年の姿勢は、「永遠の命の入った缶をください」とお金を握って教会に来るようなものだ。礼拝に出るつもりはない、クリスチャンに会うつもりもない、缶を手に入れればそれでいいわけだ。

第1ヨハネの手紙には、永遠のいのちが何かを説明している。

 「あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠の命です。」(第1ヨハネ2:24~25)(参照→第1ヨハネ5:11、12)

 命とは、つながりだ。つながっているから、流れる。永遠の命とは、モノではなく、生き生きした関係の事なのだ。主イエスが命だから(ヨハネ14:6)、主イエスとつながることによって命が伝わってくる。
 
 主イエスはつながりを作ろうとされた。でも青年はそれをはじき返してしまった。


3、欠けたところ

 「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」(マルコ10:21)

 この表現はきわめて異例だ。青年を見つめる主イエスのまなざしには、特別な思いが込められていた。

 青年は、今まで人からほめられるだけの人生だったかもしれない。「お金があっていいですね。うらやましいですね。」「真面目ですね。熱心ですね。親孝行ですね。宗教心が篤いですね。」と何度も言われたことだろう。
 主イエスは、青年をひとつも賞賛しなかった。十戒の言葉を部分的に引用して、青年の目を開かせようとされたが、律法については落ち度なく守っていると答え進展はなかった。
それで主イエスは、最後の方法をとられた。いつくしんで言われた。青年の本当の姿をあぶりだすために厳しく言われた。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)

 「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:22)

 もし青年がこう答えたらどうだろう。主イエスさま、そんなことは不可能です。自分の生活も守りたいです。自分がかわいいです。でも、今までの生き方には満足できません。助けてください。

 主イエスはこの瞬間を待っておられた、と私は想像している。

 自分の無力さと罪深さを嘆き、青年が助けを求めて主イエスの顔を見上げたなら、主イエスのいつくしみをたたえたまなざしに気づいたはずだ。
 
 そうすれば、ザアカイが喜んで主イエスをお迎えしたように、青年も心を開き、自分ができることを自発的に提案したことだろう。

 →あなたの番です

□あなたも、主イエスにつながろう。主イエスを救い主として信じよう。

□すでに信じてクリスチャンになっている人は、もっと主イエスとつながりを深くしよう。

□主イエスは今日、あなたに指摘したいことがあるかもしれない。欠けたところがひとつあると言っておられる。それは、何だろう。

 主イエスは、あなたの欠けたところを補うために来られた。そして、あなたといつまでも共に歩みたいと言っておられる。永遠の命は、ここから始まる。

子供と主イエス マルコ10:13~16

 あなたは子供が好きですか。きっとそれは、子供が教えてくれるでしょう。主イエスは子供が好きでした。
 これからは、かなり長い間中断していたマルコの福音書に戻り、メッセージをお伝えします。

1、子供を止めてはいけない

 子供たちを主イエスから引き離すのが大人なのです。これが今日第1のポイントです。

 「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです』」(マルコ10:14)

 この場に登場する子供たちは何歳くらいでしょう。後で主イエスが子供を抱いて、手を置いて祝福する様子を考慮すると、3歳前後の幼児ぐらいかなと思います。
 連れてきたのは大人たちですが、自然に考えると父親や母親でしょう。主イエスにさわってもらいたかったと書いてありますね。こういう親心は、今も昔も変わりません。偉大な人物に抱いてもらえるだけで、親たちは嬉しくなるものです。
 弟子たちは、それを叱りました。先生は忙しいんだ。大人たちに教えているので、子供はうるさくて邪魔だ。という感じで追っ払ったことでしょう。
 
 主イエスはそれをご覧になって、憤ったとあります。マルコの福音書で、主イエスが憤ったと書いてあるのはここだけです。
弟子たちは、主イエスのためにと子供を連れてきた大人たちを叱りましたが、主イエスから見ると、そういう弟子たちこそ叱られる必要があると判断されたのです。

 子供たちは、主イエスのところに行きたいのです。主イエスも子供と触れ合いたいのです。大人たちだけが、あるいは、親たちが、子供を主イエスから遠ざける傾向を持っているのです。たとえば、うちの子は小さいからまだ聖書は分からないと考えるのは間違いです。子供は主イエスを信じて頼って生きることができるのです。

 林竹治郎が1906年に描いた「朝の祈り」という絵が北海道立美術館にあります。お母さんと子供5人が赤くて丸いちゃぶ台を囲んで祈っている絵です。学生服を着た長男が聖書を読んだのでしょう。一番小さな子はお母さんの膝に頭をすり付けて祈っています。家庭に生きている信仰が如実に伝わる名画です。主イエスはきっと微笑んでこの家庭をご覧になっていたことでしょう。その一番小さな男の子は、ハンセン病の施設に生涯をささげる人になりました。

 あなたは子供を主イエスから遠ざけていませんか。

あなたの番です。
 □あなたの身近な子供のために祈りましょう。
 □子供たちがイエスさまのもとに行けるように助けましょう。



2、信仰の鍵は、素直な心

 「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
(マルコ10:15)

 主イエスが言われたのは、子供っぽくなりなさいと言われたのですか。違います。幼稚になれとか、我がままになれと言われたのではありません。
幼い子供が持っている、<素直な心>を大人も持つようにと勧めているのです。

 大人は、子供の素直さを忘れ去っています。大人は、理屈を振りかざすので聖書をそのまま受け入れることができません。社会や人間に裏切られてきたので、単純に主イエスを信じることができないのです。

 主イエスは、子供たちを大人たちの輪の中に招き入れ、ほら、この子供たちのようにすればいいんだと教えました。今日の第2のポイントはそれだけです。

 ある男性はクリスチャンでないときに、ガールフレンドから主イエスの福音を聞きました。ローマ人への手紙の3箇所を開いて説明してくれました。3章23節、5章8節、10章13節。この箇所から、自分は罪人だと分かり、主イエスの十字架の意味が分かり、信じれば救われることを知りました。涙を流しながら、主イエスを心に受け入れました。
 やがて二人は結婚し、リチャードという男の子が産まれました。7歳のときリチャードはお父さんに聞きました。どうしたら、救われのと。お父さんは、自分が昔教えられたと同じ聖書の箇所を開いて息子に教えました。リチャードは、父と同じように主イエスを信じ受け入れ、成長して牧師になりました。

 あなたの番です。
  □救い主イエスをあなたの救い主として心に迎えましょう。
  □子供みたいな素直な心で聖書を読みましょう。
  □神が問題を解決して下さると安心しましょう。
  □父なる神の子供として、神を信頼しましょう。

私の痛みを用いてください 第1テモテ1:12~15

 過去に受けた傷が今も影響を残している人や、過去の傷が原因で悪習慣や依存的な行動に陥っている人がいます。そういう人がどうしたら立ち上がれるかということを話してきましたが、今日が8回シリーズの最終回です。今日の内容をまとめると以下のようになります。

 <自分の生き方と言葉を通して福音を伝えるために、神が私を用いてくださるよう、自分自身を神に明け渡します。>

 
1、2つの傷

 私たちは二つの傷を持っています。

 第1は、他の人から受けた傷です。パウロは過去に受けた肉体的な傷について語っています。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」(第2コリント11:24~25)

 あなたも傷があるはずです。いじめられた。馬鹿にされた。無視された。実際に殴られた。憎まれた。さまざまな傷が残っています。

 第2は、人に与えた傷です。身近な人を裏切った。嘘をついた。だました。肉体を傷つけた。言葉で激しく打ちのめした。相手の苦しむ声を聞いてはじめて気づくことがあります。


2、「彼」の傷

 主イエスは、十字架で死なれた後によみがえり、弟子たちに姿を現されました。主イエスは傷のある方でなのです。私たちのために、あえて傷を負われた方です。


 「こう言ってイエスは、その手をわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)

 「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)

 主イエスの温かい手が私たちを包んでくれますが、その手には釘の傷跡が残っています。主イエスの傷が私たちをいやします。


3、傷の意味

 痛みはつらいものですが、様々な意味を持っていることに気づきます。

1)神は、痛みを通じて私たちに語りかける。

 神にそむいたとき、罪を犯したとき、神はある種の傷みを用いて神ご自身に向き直るようにと警告しますが、痛みはその警告なのです。

2)痛みは、神に信頼することを私たちに教える。

 「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(第2コリント1:8~9)

3)あなたの痛みは、他人に寄り添うためにある。

 星野富弘さんの「れんぎょう」という詩は味わいがありますね。
  「わたしは傷を持っている。
   でも、その傷のところから
   あなたのやさしさがしみこんでくる。」

 あなたが離婚を経験しているなら、離婚直後の人に寄り添うことができます。あなたがアルコール依存から立ち直ったなら、同じ悩みの人の力になれるでしょう。
 あなたの傷が他の人の痛みを和らげることができるのです。

4)痛みは、福音を伝えるときに用いられる

 伝道が難しいと思う人がいます。あなたの痛みから話し始めれば、人は真剣に聞いてくれます。あなたの傷が、福音を語る助けになってくれます。ペテロも自分の失敗をいつも語りました。パウロは、自分がどんなにひどい人間かを語り続けました。

 「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(第1テモテ1:13)

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(第1テモテ1:15)


 神はあなたの痛みを無駄にはしません。あなたの傷が誰かの役に立つのです。

→あなたの番です

①あなたの傷は何ですか
②あなたの傷を用いて、誰かに仕えましょう
③あなたの傷を用いて、主イエスの福音を伝えましょう

回復を続ける 第1コリント10:12 

 「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(第1コリント10:12)

 これは、今日の表題として掲げた聖句です。依存的な問題や、悪習慣、過去の傷の痛みから解放された人への警告は、倒れないように、ということです。
 人は、いつでも逆戻りする弱さを持っています。だから、立っている人は、倒れないように気をつけ、謙虚な心でいつもいましょう。

 今日の内容を一言でいうと、以下の文章になります。

 神と交わる時間を日々確保して、自分を吟味し、聖書を読み、祈ります。それは、神ご自身を知り、私の人生に対する神のみこころを知って、そのみこころに生きる力を得るためです。

 英語のほうが、もっとストレートでピンときますね。

 Reserve a daily time with God for self-examination, Bible readings and prayer in order to know God and His will for my life and to gain the power to follow His will.

 倒れないようにするには、神の前に毎日出るという姿勢が大事です。英文では、リザーブと書いてあり、自分の優先順位を神に合わせることが良く分かります。あなたは、リザーブしていますか、神の前に出ることを。

1、神の前に出る時間を確保する Here I am, I have come.

 「そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。』(7節)
  Then I said, "Here I am, I have come— (NIV Psalm 40:7)

 私は、今、ここにいます、神よ、と言えるように、神の前に毎日出たいですね。特に、毎朝、聖書を読んで祈る習慣を身につけたいですね。
 忙しさに流されると、聖書を読むことが二の次になります。試練の時、弱り果てると、聖書が読めなくなり、事態は一層悪化することがあります。忙しい時こそ、試練の中である時こそ、聖書と祈りを最優先しましょう。
 
2、聖書を読む It is written about me in the scroll.

 「巻き物の書に私のことが書いてあります。』(7節)
  It is written about me in the scroll. (NIV Psalm 40:7)

 この聖句は、聖書の中には私たち自身について書いてあると指摘しています。聖書は鏡です。私の姿をはっきり示してくれます。自己洞察を深めてくれます。

 どんな点について洞察するのでしょう。以下の4つの点についてです。

1)身体

 疲れすぎると身体に不調が出ます。人によって弱いところは違いますが、頭痛、腹痛、めまい、歯痛、目の痛み、むくみ、口内炎、など、体が悲鳴をあげているので、自分のスケジュールを調整する必要があります。神の前でそれらを点検しましょう。

2)感情
   
 リック・ウォレン牧師は、自分の心を5つの点でチェックするようにと勧めています。ちょうど英語の頭文字がHEARTになるので、ハート・チェックと言っています。
 あなたの心には、傷がありますか。心の疲れがありますか。怒りや恨みが住んでいませんか。不必要な緊張がありませんか。(Hurting, Exhausted, Angry, Resent, Tense →HEART Check)

3)人間関係

 心の問題は、不健全な人間関係から出ることが多いですね。身近な人との関係を神の前で見つめてみましょう。

4)神との関係

 イエスさまが、「1時間後に、スターバックスで会おう」と言われたら、あなたはどんな反応をしますか。その反応で、あなたの信仰の状態も分かりますね。神さまを愛す心、神を喜ぶ心、神に仕えたい心、それらがありますか。

 聖書を読み、その言葉を思い巡らすことにより、私たちは深い洞察を得、軌道修正ができるのです。こうした生き方が、「逆戻り」から私たちを守ります。

 聖書を読むと、
第1に、神が分かります。
第2に、私に対する神のみこころが分かります。
第3に、神に従い通す力をもらえます。

3、祈る May the Lord think of me.

 「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。」(詩篇40:17)
  Yet I am poor and needy; may the Lord think of me.
  You are my help and my deliverer;
  O my God, do not delay. (NIV Psalm 40:17)

 聖書を読んだら、祈りましょう。美辞麗句の祈りはナンセンスです。真心からあなたの本音を伝えましょう。

 私の家内は、結婚以来28年、どんな状況でも毎朝聖書を読んで祈る生活を続けてきました。私は、そばにいて、その安定した姿にいつも励まされていました。何よりも、主を第一にしています。涙の日も、嵐の日も、暗闇の日も、病気の時も、乳飲み子を抱えていた時も、聖書を読まない日はありませんでした。
 今まで書き続けた「ディボーション・ノート」は、家内の宝になりました。神が、どんなふうに祈りに答えてくださったかが一目瞭然です。神が生きておられる方であることがはっきり分かります。

 祈り終えたなら、生きておられる主を信じて、みことばを実行しましょう。

 「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:8)
  I desire to do your will, O my God;
  your law is within my heart."(NIV Psalm 40:8)

→あなたの番です
 ①毎日聖書を読む生活を確保しましょう
 ②みことばを思い巡らし、心を洞察し、神のみこころをみきわめましょう。
 ③崩れても、弱っても、失敗しても、また始めましょう。

ゆるす、つぐなう エペソ4:31~32

 私たち人間は、傷を負い、ある時は、他人に傷を与えます。過去の傷が今のストレスとなり、現在の悪習慣や依存的な行動に走ることがあります。その原因を絶ちましょう。
 今日は、人をゆるすこと、そして、人にあやまることについて考えます。
 
1、ゆるす

 信号待ちしていたら後ろから追突されたことが過去にありました。ブロンドの女子大生が車から降りてきて、「アイム、ソー、ソーリー」とアメリカ人としては珍しくごめんなさいを何度も言いました。ほとんどダメージもないので、「いいよ、きにしないでね」と言ってあげました。
 憎み続けるか、赦すか、道は2つにひとつしかありません。あなたはどちらを選んでいますか。
 多くの人は、まるで大きなつけもの石を首からぶらさげるように「憎しみ」を抱えている人が多いですね。相手が謝っても赦さない、死ぬまで赦さない、と言う人がいます。
 どうしたらゆるせるのでしょう。

1)主が赦してくださったように、ゆるす
  
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

 あなたの罪は主イエスによって赦されました。その事を深く感謝できるなら、主がゆるして下さったように、他の人を赦せます。

 赦すということは、相手の悪い態度や行為を是認することではありません。また、他人を変えるための手段でもありません。今日を限りに、裁くことを止めることです。手放すことです。釈放することです。ある意味では、赦す行為は自分のためなのかもしれません。

2)憎んだままでいると、自分を苦しめること

「怒って自分自身を引き裂く者よ。」(ヨブ18:4)とあるように、憎しみの心は自分自身を苦しめます。最初の傷は他人が付けますが、傷を深くするのは自分自身です。だから、もう止めましょう。

3)自分も将来、誰かに赦される必要がある。
 私たちは地上では不完全です。将来、必ず、誰かを傷つけてしまいます。だから、赦してもらう必要があります。

 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:31~32)

 「無慈悲」という言葉は、<苦い>という意味から出た言葉です。人を憎んで、胸や腹が苦々しくなる時、他人に冷たくなるものです。そういう心をまとめて捨てましょう。そして、否定的な思いを投げ捨てましょう。

 静かな部屋で、椅子に座ります。もう一つ椅子を用意し、あなたが憎んでいる人がそこに座っているように意識して、あなたの心に詰まっているものを話しかけてみましょう。これは、実際に人を赦す練習になります。口で言葉を発すると、赦すことがどういうことなのか、体験的に分かります。
 まず思い切って赦しましょう。その後、完全に赦すまである程度時間がかかるかもしれません。でも、投げ捨て続けましょう。赦せますよ。


2、償う
 
 夫婦喧嘩で問題になるのは、謝り方です。なかなか謝らない場合は、相手を一層怒らせます。その反対に、何でもかんでも軽く謝る場合も怒りを引き起こします。あなたの家はどんなパターンですか。

1)「ごめんなさい」と心をこめて伝える。

 まず、心をこめてあやまりましょう。赦す行為が自分のためなら、謝るのは相手のためです。

2)個人的に、謙遜に、言い訳せず、相手に期待せず

 自己弁護をして謝るなら、謝罪になりません。謙虚にあやまりましょう。たとえ、相手が赦してくれなくても。

3)自分ならどうして欲しいかを考える。

 謝罪や賠償は、相手の立場に立って行動することが第一です。自分の車が誰かにぶつけられていて、良く見るとフロントグラスにメモがはさんであり、電話番号と名前が書かれてあったという人も案外多いものです。

 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)
 
4)必要なら具体的に償う

 取税人ザアカイは、償う人々の模範といえます。彼は主イエスに出会って心がきよめられ、今までの悪事を悔い改め、謝罪と償いを自発的に申し出ました。

「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

→さあ、あなたの番です
①あなたが赦す人は誰ですか
②あなたがあやまるべき人は誰ですか

イエスさまが言われたように、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)です。

 今日の内容をまとめましょう。
自分のすべての人間関係を吟味し、自分を傷つけた人たちを赦し、また自分が傷つけてしまった人たちに償いをします。ただし、その人や他の人たちをさらに傷つけることのない場合に限ります。

変えてください ローマ12:2

 「変身!」変わりたいのは仮面ライダー(古い)だけではありません。多くの人は変わりたいと願いますが、うまくいきません。

 星野富弘さんが治療を受けていた病院で、「ちきしょうと言わないで」と看護婦さんに言われました。そんなはずはないと思ったのですが、まくらことばのようにしょっちゅう使っていたことに気づきました。
 「あなた、大声だすのはやめてください」と奥さんに言われた男の人を私は知っています。「オレがいつ怒鳴った」と声を荒げたことも意識にないのです。
 身近な人が、「お願いです、変わってください」と切実に言うときは、かなりの重症なのです。

 ところで、あなたが一番変わりたいのはどんな事ですか。周囲の人を傷つけているあなたの言動は何ですか。あなた自身を惨めにさせる悪習慣は何ですか。


 
1、バルテマイの場合

 エリコにいたバルテマイは盲人で乞食でした。主イエスに出会った時、大声で主イエスに助けを求めました。
 
 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(マルコ10:51)
 
 変えられるために必要な要素は、①変わりたいと願う事、そして、②主イエスの力です。私たちは、主イエスとの交わりの中で変えられるのです。
 バルテマイは、呼び水となった主イエスの言葉に率直に反応して、素晴らしい奇跡を経験し、目が見えるようになりました。
 
2、変わる決意
 
 バルテマイのきっぱりとした願い、これは私たちの模範になります。私たちも、主イエスにはっきりと願いを伝えましょう。ここが変わりたいのですと。

 ローマ12章1~2節は、ローマ書の折り返しとなる大事な言葉です。ローマ1~11章は私たちの罪がどのようにして赦されたかが書いてあります。汚れた罪が赦されたと知った人々は、12章からはじまる信仰者の歩みへと招かれます。そうです。主イエスの十字架を知ったものが、自分を主にささげ、主に喜ばれる道を目指して自分を変え始めるのです。

 神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

 人は、他人に責められても、涙を流して懇願されても、自分を変えようとは思いません。自分から変わりたいと願うときに変わり始めるのです。

 教会開拓を始めて2年たった牧師がうつ病の症状に陥りました。何の力も出てきません。その時、聖書の言葉を小さなカードに書いて、裏には教えられたポイントを書き出し、いつもポケットに入れて持ち歩き、一日に何度も読み返しました。それが、4~5週間続くうちに、うつから開放されたといいます。この牧師は、アメリカの大教会の牧師です。肯定的に生きる秘訣を聞かれたとき、この牧師は答えて、私は自分を訓練したのです、と言ったそうです。

 あなたも神の約束を人生の土台としよう。目に見える事実だけを土台として生きていきますか。それとも、人間の可能性や計算を超えた神の現実を土台としますか。これはあなたの決断です。そして、また、これはあなたの新しい習慣です。あなたを支える聖句暗記カードを作り、心にしっかりとみことばをたくわえましょう。
 
3、変えてくださる主

 自分で自分は変えられません。他人を変えることはさらに困難です。でも、神にはできます、私を変えることができるのです。
 神は、私たちの心に働き、変わりたいとの心を与え、また、それを実現させてくれます。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

 中学時代からヤクザの組員になり、高校生になると新宿の町で喧嘩や恐喝などを行っていた男がいました。教会に誘われ、礼拝に行くようになり、高校生の伝道会でイエスさまを信じました。それを知らされた牧師ですら、信じられないと言ったほどの札付きのチンピラでしたが、人生が変わりました。今では、引きこもりになった人、精神的に病んだ人の友となり、それらの人々のいやしを謙虚に祈る人になりました。そして、その人々が元気になっています。
 人は変えられます。変えられた人は、人が変えられるお手伝いができるようになります。

 次の聖書の言葉は、日々に主によって変えられるという励ましを与えてくれます。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第2コリント4:16)


 今回の学びをワンフレーズでまとめましょう。

 自分の人生において、神が変えたいと願っておられるすべてのことに自発的に従い、自分の性格上の歪みを直してくださるように、へりくだって神に求めます。

→あなたの番です
①変わりたい事をはっきりと神に願う
②聖書の約束を人生の土台とし、聖句暗記カードを作る
③信頼できるクリスチャンの仲間に話し、祈ってもらう

旅立ち 創世記12:1~4

 私たちの毎日は繰り返しに見えますが、同じ日は一日としてありません。そういう意味から、人生は旅にたとえることができます。
 今日は、アブラハムの旅立ちから3つのことを学んでみましょう。

1、アブラハムの旅立ちは、離れること

 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、」
                     (創世記12:1)

 家族のぬくもり、安心できる場所を離れることは辛いことです。子供たちが遠くの大学で生活を始めた時など、理由がなくても実家に電話することがあります。ところが数ヶ月すると、親が電話しても、今は忙しいからあとでとそっけない返事になり。4年たつと、立派に成長したことが分かります。

 同じように、私たちも、家族から離れ、友人から離れ、住み慣れたコミュニティーから離れると、神に信頼するようになります。今までになく、祈るようになります。そうです、「離れる」ことは、神に近づくことになるのです。


2、アブラハムの旅立ちは、一歩踏み出すこと

 アブラハムは、ウルという町から最初旅立ちました。ユーフラテス川の下流にあった当時の世界で最大の人口を誇った町だと歴史家はいいます。
 アブラハムはカナンを目指して進みましたが、途中の町カランで住み着いてしまいます。そこで父テラが亡くなりました。その後、神が12:1からの言葉をアブラハム語られました。

 「わたしが示す地へ行きなさい。」
        (創世記12:1)

 神は、道を示してくださる方です。大切なことは、道を聞いて、それに従うことです。
 信仰者には二つのタイプがあります。動かないタイプと動くタイプです。動かないタイプとは、ソファーに座ってテレビのリモコンだけを操作する人のようです。祈るけれども、答えだけを待っている。自分は、動かないのです。
 神が望んでいるのは、神のみこころを知って動く人です。動きだすときは勇気がいります。神を信頼しないと動けません。けれども、一旦動きだすと、神が生きておられる方だとダイナミックに理解できるようになります。

 私も大学3年のとき、今日の箇所の言葉を読んで、真剣に卒業後の進路を祈るようになりました。毎朝、また、夜寝る前に読んでいた聖書通読箇所で、使徒7:2~3とヘブル11:8を1ヶ月のうちに読みました。全部がアブラハムの旅立ちの箇所でした。それで、私は真剣に「あなたの示す道を教えてください」と祈りました。2ヶ月後、マルコ11章から、「主がお入用なのです」とのお言葉がとどめの言葉となり、自分を生涯主にささげ牧師になる道に踏み出しました。私も、アブラハムとまではいきませんが、将来を知らないまま主に従いました。 それで、本当に素晴らしい人生になりました。

 「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」
               (ヘブル11:8)

 神は、あなたを新しい旅に招いています。それは、若い人だけの話でしょう、と言われそうですが、アブラハムが歩みだしたのは75歳の時でした。あなたも、新しい旅が始ままります。


3、アブラハムの旅立ちは、周囲の人々を祝福する

 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
           (創世記12:3)

 神は大いなる祝福を約束されました。神の約束は、アブラハム個人の祝福、その子孫の祝福、アブラハムを通して祝福が世界に溢れるという約束でした。
 アブラハムが歩み出すなら、この祝福がいただけるのです。

 この約束はアブラハムだけのものでしょうか。私はそうは思いません。神に従うあなたの小さな一歩が、世界を変えるという約束です。これをあなたは信じますか。

 あなたは自分が弱いので、あるいは、自分に能力がない、人間的には何の可能性もない、と考えていますか。 当時のアブラハムは、それ以上に、人間的可能性はありませんでした。75歳でも子供がいなかったのです。子孫など皆無でした。
 あなたの可能性が限りなく小さいとしても、神はそれを何とも思われません。用いられやすい人を神は求めているのです。可能性は、神にあるのです。

 升崎外彦(1892~1975)の人生は、まさに一人の人物が主に従うことによって、周囲の人が祝福されるという実例の生涯です。詳しくは、『荒野に水は湧く』(田中芳三著)という本をお読みください。

 →さあ、あなたの番です

 ①信仰と勇気を持って、あなたの旅を始めよう。
 ②神についていくと、もう一度心に決めよう。
 ③あなたの示す地はどこですか、と祈ろう。
 ④幸せを求める人から、幸せを分ける人になろう。

告白ときよめ 第1ヨハネ1:9

 メッセージシリーズ「やり直せる」は、今回で4回目になります。やめようと思っても繰り返してしまう問題行動が誰にでもあります。人によっては中毒症状になっている場合もあります。その根を絶ち切り、新しい自分を取り戻せるようにと願って私はシリーズを始めました。

 今日のポイントは、自分の過去を徹底的に見直すということです。英語で表現するならmoral inventory of ourselvesです。リック・ウォレン牧師は今回の学びの内容を以下のようにまとめました。


 正直に自分の心を点検し、自分の犯したあやまちを
自分と神と信頼できる人に告白します。



1、心の棚卸しをする 

 一人静かな場所で自分の人生を振り返りましょう。心に浮かんだ過去の罪を具体的に紙に書き出しましょう。以下のように聖書の言葉は、自分の歩んで来た道を振り返ることを勧め励ましています。

 詩篇139:23~24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
 
 哀歌3:40「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」

 詩篇32:5「 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」

 静かな場所と時間で以下のような質問をしてみましょう。この場合、あきれるほど正直でいることがどうしても必要です。

 □私の良くないところはどこだろう

 □罪悪感を感じることは何だろう

 □私は誰を傷つけただろう

 □今も強いストレスとなって私に襲い掛かる過去の罪は何だろう

 今、心の棚卸しを始めましょう。最低でも1時間くらいは必要です。静かな場所で一人になって自分を正直に見つめましょう。私は先週、公園の人通りの少ないパーキングに車を止め、シートを後ろに下げて、紙に書き出しました。

 私も、こうして自分を見つめることを定期的にしてきました。最初の一行がつらいところです。文字にするのはかなりの抵抗があります。それでも、勇気をもって書きましょう。漠然と書いてはいけません。具体的に書くのです。

 主イエスはルカ18章でパリサイ人と取税人の祈りを比較されました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人の心を評価されました。


  
2、注意:人のせいにしない

 私たちは、自分の過ちを人のせいにする傾向が強いですね。自分が万引きしたのは、取り易い場所に商品を置いた店員のせいだ、という理屈を言う人もいます。それは関心しません。正当化をやめましょう。自分の責任をきちんと認めましょう。



3、棚卸しが終わったら:神にゆるしを求めて個人的に祈る

 書き終えたら、自分の口で神に罪の告白をしましょう。この段階も勇気がいります。具体的に人の名前を出したり、行為を口にするというのは、神の前で一人で祈っても辛いことです。でも、逃げてはいけません。神にきちんと悔い改めましょう。

 第1ヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 罪を言い表すという言葉は原文で、ホモロゲオーという言葉が使われています。ホモは同じという意味、ロゲオーは言うという言葉です。つまり、神が示してくださった事を、その通りですと認めることが告白なのです。神に罪を隠すことは不可能です。正直に認めましょう。

 神と取引するのではありません。盗んだ二倍のお金を慈善団体に寄付しますからおゆるしくださいというのは取引です。何度も気合を入れてあやまることでもありません。小学生の反省作文ではないので、ごめんなさいを何十回言っても意味はありません。神が示されたことを、そのまま認めることが告白の本当の意味です。


4、その次は:信頼できるクリスチャンに聞いてもらう

 このプロセスを終えると、心に大きな喜びと落ち着きがやってきます。良い意味で、開き直れます。人の言葉は気にならなくなります。だって、人の批判よりも数倍も厳しく自分を吟味したのですから、人の言葉などまったく気にならなくなるのです。本当の自分は、もっと、もっと悪いということが分かっているのですから。

 そうしたら、信頼できるクリスチャンに自分の罪の告白を聞いてもらいましょう。これは、リック・ウォレン牧師が定期的に実行していることだといいます。そういう姿勢を私は心から尊敬します。
 実は、クリスチャンの真実な交わりでは告白や罪のあかしが自然に行われています。あなたも、そんな場面に居合わせた経験があるかもしれません。聞いている私たちのほうが恥ずかしくなるくらい正直に罪の告白が行われるとき、私たちは皆自分の心の日記帳を知らず知らずにめくっているのです。人の罪の告白を聞きながら、自分の罪を思い浮かべて同じ痛みと解放を味わっているのです。

 ヤコブ5:16「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」

 1997年10月4日ワシントンDCに50万人のアメリカ人男性が集まり、聖書のメッセージに耳を傾けました。プロミスキーパーズの歴史的な集会のことです。男たちは、地面にひれ伏して自分罪を告白し、聖書の原則に立ち返って生きると決心しました。家に帰った男たちは、妻や子供に、「俺が悪かった」と正直に語ったのです。
 自発的に、自分の心の棚卸しをしましょう。今週、時間をとって、自分を見つめてください。何かが始まります。

 さあ、あなたの番です。
 やってみましょう。

キリストにゆだねる   マルコ9:9:20~27

 自分の無力さに気づき、神に希望があると知るだけでは不十分です。神とあなたをつなぐものが必要です。それが、信仰です。今日はシリーズ「やり直せる」の3回目です、

1、キリストを信じられない理由

 日本人がキリストを信じられない理由をいくつか取り上げましょう。

1)神についての知識が乏しい

健全な信仰は、信じる対象を理解し、それを土台に信じるというプロセスを踏みます。「いわしの頭も信心から」というのは、キリスト教の信仰とは相容れません。日本人の多くは聖書を知りません。まずは、聖書を読んでみましょう。信じる対象を知りましょう。

2)宗教は怪しい、という先入観がある

 オウム真理教の騒動の頃、私は自分が作ったキリスト教のパンフレットを教会の近所に配っていました。すると、ひとりのおじさんが、「なんだキリスト教か、オウムとかわらねえな」と紙を覗き込みながらつぶやきました。宗教に凝ると怖いことになる、と日本人は思っています。そんな先入観が、健全な信仰への門を閉ざしています。

3)周囲に合わせないと落ち着かない

 日本語は語尾で主張が決まる特徴を持っています。会社の上司の顔色を見ながら、臨機応変に自分の意見を変えられます。「私は、その事に関しては、賛成(顔色を見る)、ということは申し上げられません」大多数が信仰を持っていない日本では、多数派に所属することによって、安心感が得られます。真理は多数決によって決まるものではありません。

4)信じ始める事と、完璧な信仰を混同

 信仰をもったとたん、マザー・テレサにならないといけない、と勘違いする人が多いです。私にはマザー・テレサになれないと勝手に土俵を降りてしまうのです。信仰は成長するものです。はじめから完全な信仰などありません。

5)プライド 

 男はプライドが強いです。(女にも意地というものがあります)「俺は、宗教に頼るほど軟弱ではない」と男は言いたいのです。
でも、プライドの本質は人間の本質と重なります。つまり、自分は神を認めたくない、神なしで生きていく、という本音がプライドとなって表れているにすぎません。神を認めないことは、聖書で言う「罪」の本質なのです。
 「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。」詩篇14:1

6)生きた神、人格を持った神がいるとは思ってもみなかった

 日本人の神観は浅薄です。子供が生まれて神社に出かけ、子供の受験の時には神頼み、結婚式は教会で、死んだときにはお寺。これで何の問題もないのです。まるで自動販売機のように、お賽銭を入れて、ボタンを押して、ご利益をいただく程度の神しか想定していません。
 聖書によると、神は生きた神です。今も私たちに語りかけ、私たちを愛し守る神です。宇宙、世界を創造した全能の神できよい神です。日本人は、そんな神を受け入れたくないのです。自分の今までの歩みが音をたてて崩れるようで、怖くてたまらないのです。

 こうした様々な障害物を取り除ける方法は、子供のような心で神を信じるという一点に尽きるのです。聖書をしっかりと読んで、健全な信仰を持ってください。

2、主イエスを信じる

「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ9:24

 マルコ9章には、子供の病気を直してもらいたい一心で主イエスを訪れる父親の記事があります。弟子たちが直せなかったので、疑心暗鬼になっている父親に対して、主イエスはその姿勢の中途半端さを戒めました。
ビシッと叱られた父親は、目が覚めて、「信じます」と心から言いました。と同時に、自分の内側にある不完全さを正直に認め、不信仰であることを告白しました。信じると言いながら、不信仰である、この矛盾こそ人間の姿とも言えます。
 信仰の最初の一歩はこれでもいいのです。あなたがもっている信仰でまずスタートしましょう。あなたが聖書から学んだ主イエスを信じましょう。その一歩が尊いのです。

 主イエスを救い主として信じると、あなたは変えられます。自分で変化するのではありません。「信じます」との決断を神が受け入れて下さると、あなたの中に神の力が発揮されるのです。信じたあなたには次の3つのことが起きます。

 ①あなた自身が新しくなる
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」第2コリント5:17

 ②神のみこころを行うことが喜びとなる
「私は御心を行うことを喜びとします。」詩篇40:8

 ③日常生活や自分の内に働く神の力を体験するようになる
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」ピリピ4:13

 私は礼拝メッセージの最中に会衆のみなさんに尋ねました。「パラグライダーをしたことある人がいますか?」すると、一人の婦人が手を挙げました。斜面を数歩走り下ると、フワッと体が浮いたといいます。私のようにやせた人間でも、自力で空を飛べる人はいません。でも、パラグライダーに乗ると、上昇気流が体を空に引き上げてくれます。飛べるのです。
 信仰の歩みもよく似ています。「イエスさま、あなたを信じます。あなたが私の罪を赦すために十字架にかかってくれたことを感謝します。神の子、イエスさまを信じます。私自身をおゆだねします。どうぞ救ってください。どうぞ、これからいつも共にいて導いてください」と祈りましょう。主があなたを引き寄せてくれます。

 リック・ウォレンはシリーズ第3回の学びの内容を以下のようにまとめています。

 私の人生と意志のすべてを
 キリストの配慮と導きにゆだねることを
 意識的に選択します。

 さあ、あなたの番です。
 クリスチャンでない人に勧めます。主イエスを信じましょう。
 クリスチャンに勧めます。自分自身とあなたの課題を主イエスにゆだねましょう。

 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20

神にはできる  マタイ19:23~26

 シリーズ「やり直せる」の第2回目です。今回は、自分から目を離して、神に希望を置くことを学びましょう。

 第二回目の内容をまとめたリック・ウォレンの言葉を紹介します。

  神が生きておられること、
  神にとって私は大切な存在であること、
  そして神には私を回復させる力があることを心から信じます。

1、神はあなたを捨てない

 神はあなたの本当の姿を知っています。それでも、あなたを見捨てません。この事実を、<神はあなたを愛している>と表現することができます。

 日本では、マニフェストを掲げた民主党が選挙で圧勝しました。これから、子供を持つ親への資金援助や、高速道路無料化などが実施されるはずです。もし、公約が実現できなければ次回の選挙はゆれ戻しが起きるはずです。
 私たちも個人的マニフェストを新年に掲げますが、すでに実現不可能となっている場合が多いです。でも、私たちは信じられないほどの寛容さを示して、優しく自分を受け入れていますね。つまり自分には甘いのです。

 確かトヨタが昨年開発した技術だと思いますが、自動車を停止線できちんと止めるというものがあります。停止線が近づくと運転手に気づかせ、止まらないなら自動的に停止させるのです。人間にも同じ機能が必要ですね。罪を犯してはならない時には、自動的にとめる。今しなければならない良いことなら、自動的に実行できる。そんな装置は残念ながら存在しません。

 人間はさまざまのストレスを抱えると、ブレーキを踏めなくなります。逸脱行動に走ったり、逃避したり、悪い習慣を繰り返し、人を傷つけ、自分を傷つけ、非生産的になってしまいます。

 けれども神は、そんなあなたを捨てません。罪には厳しい方ですが、あなたという人間を決して捨てません。むしろ、あなたの痛みを自分のことのように感じてくださいます。

 「あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」(詩篇31:7)

 神の愛に包まれていることが分ると、私たちは、前に進むことができます。


2、神にはできる

 自分は無力だ、これがやり直すための第1歩です。神にはできる、これが第2歩です。

 神は全能のお方です。だから、私を変えることができるし、私の環境を変えることもできるのです。

 宮城県の栗原市かつては、人口10万人あたりの自殺者が約48人で全国平均より高い率を示していました。同市は対策に乗り出し、低利子の融資枠を設け、金融、弁護士、非営利団体などと協力、多重債務者を一人一人救い出すことにしました。その結果、自殺者が減少し、全国的に注目されています。
 ただし、相談しに行った人は、自分の債務を一つ残らず話さなければいけませんね。恥ずかしいという気持ちも働くでしょう。それでも、全部の負債をきちんと言わなければ、援助も受けられませんね。

 私たちも、いわば道徳的な多重債務者です。ですから、主イエスの前で自分の過去をきちんと話す必要があるでしょう。
 主イエスは、私たちの罪を解決するため、十字架にかかってくれました。私たちの罪の身代わりに死に、罪が解決した印によみがえってくださいました。
 私たちは、主イエスによって救われたのです。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

 ユダのアサ王の言葉は、別な角度から神の全能を語っています。

「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。」(第2歴代14:11)

 信仰というものは、自分の意志を強くしたり、気合を入れて生きることではありません。全能の神を信じ受け入れ、あなた自身をまかせることです。

 2004年2月14日ニューヨークのブロンクスのアパートで火事がありました。アパートの3階の部屋で煙にまかれた30歳の女性は、窓から顔を出しました。ちょうど下を通りかかった男性が上を見上げると、女性は腕に抱いていた生後1ヶ月の男の赤ちゃんを静かに落としました。39歳のフェリクス・バスケスさんは「体が自然に反応した」と後で言っていましたが、上手に赤ちゃんを受け止め助けることができました。(彼は、アマチュア野球のキャッチャーでした)自分の無力さを知った女性のしたことは、可能性を持つ人にゆだねることでした。


あなたの番です
→これだけは、と握り締めていることがありますか。全能の神にゆだねましょう。
→生きている神を信頼し、あなた自身をまかせましょう。
 神にはできるのです。 

無力さを認める  ローマ7:15~19

 今日からメッセージ新シリーズ「やり直せる」を始めます。今回のシリーズは、リック・ウォレン牧師の書いた「回復への道」を土台にし、私なりの視点で捉えなおしています。もっと詳しく知りたい方はその本を読んでください。 

ストレスから逃れるために人は様々な行動をとります。健康的なスポーツや身近な人との語り合い、音楽や動物、自然と触れ合いによってストレスを解消する人は多いですね。でも、不健康な方法を用いてストレスから一時的にのがれようとする人はたくさんいます。酒、コンピューターゲーム、ギャンブル、薬物、暴力行為、不特定な相手との性行為、買い物依存、過食・拒食、自傷行為などこの世には大くの種類のアディクトがあります。

1、私たちと無関係ではないストレス

自分には関係ないと思う人がいるかもしれません。ここでちょっと見直してみましょう。あなたは以下の事柄に身に覚えがあるなら四角の中にチェックマークを入れてください。

□ つい夜更かししてしまう
□ 食べ過ぎる
□ しなければならない事を先延ばしする
□ 悪いと分っていることをしてしまう
□ 止めたいのにやめられない事がある
□ 言ってはいけない事を言ってしまう
□ 不健全な方法でストレス解消をしてしまう

 パウロは、誰もが直面する自分自身に対する嫌悪感を以下のように語っています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7:15)

 あなたも同感ではありませんか。


2、私たちは様々な原因によって、つぶされている

 時間軸で考えると私たちのストレスは3つの分野にわたります。

・過去に受けた傷、過去に犯した失敗
・未来の心配、やらなばならない事で押しつぶされる
・現在のストレスから逃げまわっている自分、ありのままの自分を喜べない

 あなたのストレスはどこから来ていますか。あなたがいつも陥ってしまう逃避方法は何ですか。その不健康なストレス解消方法で、あなたは身近で大切な人を傷つけていませんか。そして、あなた自身を傷つけていませんか。


3、回復への第一歩、自分の無力さを認める

 アディクト状態から立ち直るための一番の近道は、自分の無力さに心底気づくことです。

 ・私は、私の過去を変える力はない
 ・私は、自分の周囲の人をコントロールする力はない
 ・私は、悪い習慣や振る舞いを変える力を持っていない
 
 このような自己認識があなたを変える一歩になります。
主イエスも言われました。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
聖書の他の箇所でも、へりくだる心の大切さを教えています。
「神は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)

 さあ、あなたの番です。
 → あなたの弱さは何ですか
 → あなたの生き方で神に変えていただきたい点は何ですか
 → あなたが目をそむけて来た傷は何ですか
 
 リック・ウォレン牧師の言葉を第1回のまとめの言葉とします。

  私は神ではないということを認めます。
  悪いことをしてしまう自分をコントロールする力がないこと、
  そして、自分の人生が手に負えない状態にあることを認めます。


 「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(イザヤ57:18)

 神は私たちの曲がりくねった人生を見ても、私たちをいやそう、導こう、平安を与えようと願っておられるのです。まず、神の前で、自分自身の姿を正直に見つめましょう。

キリストをかしらとして  エペソ1:20~23

1、神の力は生きて働く

 パウロは、霊的祝福について言及した後、自然に祈り出し、いつのまにか主イエスの栄光をたたえました。

 私たちは神の偉大な力を知らずに生きてきました。けれども、主イエスの十字架と復活に目をとめるなら、神の力を疑うことができなくなります。
 
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ……」(エペソ1:20)

 この神の力が、あなたの中にも表れると信じますか。神の偉大な力はあなたの体に働き身体を健康にします。あなたの問題に働き解決を与えてくれます。神の偉大な力を今週体験してください。


2、キリストはすべての主

 キリストは罪からの救い主ですが、それだけではありません。すべての権力の上に君臨するまことの王、支配者です。

 「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ……」(エペソ1:22)

 私たちは、地上の権力に服従して生きています。先週日本に短期間戻りましたが、駅のエスカレーターの左側に乗る日本人を見て奇異に感じました。大勢の人が下に溢れているのに片側一人しか乗りません。右側は、急いで走る人のために開けています。(大阪は右側に並ぶようですが)ヤクザでも左側に乗るのでしょうか。

 キリストは死からよみがえり、本来持っておられた栄光の姿になられました。私たちがその姿を直接見ることができれば、言葉を失い、ただひれ伏すことでしょう。キリストは、地上の警察権力の上に君臨されています。大統領の権力よりも上に位置します。

 私たちは、世界の王、まことの神である主イエスに栄光をささげ心から礼拝をささげましょう。


3、教会はキリストのからだ     

 「教会はキリストのからだであり……」(エペソ1:23)

 世界の王であるキリストが、教会のかしらになられたのです。教会は、キリストを頭とする体です。教会はそのことを誇るのではなく、キリストのからだとして行動することが求められています。

 キリストが今、あなたの家庭に、あなたの会社に、あなたのコミュニティーに生きておられるなら何をするでしょう。それを実現するのが教会です。頭であるキリストの願いを実現するので、キリストの体なのです。

 あなたもキリストのみこころを、家庭で、会社で、世界で実現しましょう。そのとき、神の偉大な力をあなたは体験することができます。

 先週、娘と一緒に日本に行きました。娘はあるアイドル・グループが大好きで、滞在中に国立競技場で行われたコンサートに行きたかったのです。残念ながらチケットは購入できず、ポスターなどの購入のため炎天下3時間以上列に並びました。私は、娘の役に立ちたいと、「余ったチケットを娘にゆずってください」と書いた紙をかかげて4時間駅前に立ちました。Tシャツにはメッセージを書きこみました。私は何万人という人に笑われました。娘のためなら笑われても平気でした。
 この時私は、十字架につけられ、人々にののしられた主イエスのことを考えていました。人々の救いのためなら、人に笑われても構わない。罪のゆるしのためなら、鞭打たれても、命を取られても構わない。

 主イエスは、十字架で死に、よみがえり、神の右に座しておられます。主イエスに表された神の力が今、あなたにの内にも働きます。
 キリストの体の一部としてキリストの願いを今週実現していきましょう。

ドント・ウォーリー ピリピ4:6~7

 本日は晴れ渡った良い天気で、公園で野外礼拝です。天井もありません。壁もありません。後でおいしいバーベキューを食べますが、みなさんの胃袋も底がありません。

 今日のテーマは「ドント・ウォーリー」、心配するな、です。あなたには心配事がありますか。すぐに人に言えるようなものは本当の心配事ではありませんね。きっとあなたは何かを一人で抱えていることでしょう。


1、心配事についての考察

 最初に心配事を分析しておきましょう。分析できても、心配事が減るわけではありませんが、理解の助けになると思って考察します。あなたの悩みはどのタイプですか。
 時間軸で分けると3つのタイプがあるでしょう。

(1)過去が原因となって、未来が不安になる場合
(2)突然の災難や通知が今やって来て、未来が揺らいでしまう場合
(3)未来のある時点で必ず起きるだろうと心配していること

 原因を切り口に考えると、3つのタイプが考えられます。
(1)自分の失敗や罪が心配事の発端
(2)自分に非がないのに起きた突発的出来事
(3)誰もが通過する人生の節目が自分にもやって来た

 デール・カーネギーの古典的名著「道は開ける」で、心配事の打開策として、最悪を想定する、という項目があります。これは、良い意味での開き直りの勧めです。人生での最悪とは、何でしょう。私は、それは死だと思います。主イエスは興味深いことを言われました。まことに至言です。

 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 イギリスの名首相として知られたウィンストン・チャーチルは、悩み事を紙に書き出すとよいと言っています。6つの悩みを書き出したとします。チャーチルによれば、書き出した悩みを検討すると、2つはすぐに消え、2つはお手上げだから心配してもはじまらない、残りの2つは何とかなるだろう、と説明しました。
 書き出すことは、問題整理として良い方法です。漠然としているので不安なのです。書き出すことによって、恐れていた実体が明確化されます。


2、聖書的思い煩い解決法

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)

 「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 この聖書の言葉を段階を追ってポイントを書き並べると以下のようになります。

(1)思い煩いをやめる
(2)どんなときでも感謝する
(3)願い事を神に伝える
(4)神の平安が来る

 最初にすべきことは、止めることです。心配は雪だるまのようで、一度斜面を転がるとどんどん悩みは大きくなります。止めるだけでも効果ばつぐんです。私の知っている大阪人の牧師夫人は、ガンになり、大腿骨を骨折しながら、もちまえの大阪式思考法を駆使しました。「悩んで徳になるなら、悩むけわ。けど、そやないやろ」。心配しても、胃が痛くなるし、眠れなくなるし、家族に八つ当たりするし、いいことありません。止めましょう。

 二番目にすることは、感謝の祈りです。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって」とあります。小さなことを感謝し始めると幸せになります。小さな喜び、あたりまえと思えることこそ、幸せの源泉です。悩みが大きいときこそ、声に出して感謝の祈りをささげましょう。パウロはピリピの獄中で、賛美の歌をうたえる人でした。

 三番目は、願い事を神にはっきり伝えることです。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。
 詩篇の42篇5節に、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。」と書かれています。
 同じように、問いかけてみましょう。わが魂よ、なぜ、おまえは心配しているのか。心配ことをクッキリ、ハッキリと、一つの文章にしてみましょう。「私は、明日の朝、体重計に乗るのが怖いのです」などとね。体重計に乗るとき、位置を微妙に変える人がいますが、本質的な解決ではありませんね。
 あなたが、心配していることは何ですか。それを、はっきり神に伝えましょう。モヤモヤしたままだから不安なのです。正体をはっきりさせましょう。それを、神に話しましょう。

 最後にどうなるでしょう。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 猿知恵というのがありますが、人間の策略や計画はしょせんヒト知恵です。自分が嘘をつい事が将来ばれた時どうしようと心配すると、多くの人は嘘の上塗りをして傷を深くしてしまいます。自分が原因で作ってしまった不安なら、解決策を持っているのはあなたです。「ごめんなさい。私が嘘をつきました」と正直に言えばよいのです。それが済んでしまえば、あなたの心は穏やかになります。
 聖書のプロセスを踏めば、経験したことのない平安がやってきます。これは聖書の約束ですから、試してみてください。

 ラインホルト・ニーバーの祈りを紹介して、結びとします。色々な訳がありますが、今回は文語風で行きましょう。

「神よ、願わくは我に与えたまえ
変えられるものを変える勇気を
変えられないことを受け入れる忍耐を
そして、その二つを見分ける知恵を」

 あなたの悩みは何ですか。それを、神にゆだねましょう。その上で、あなたにできる最善を平安に包まれて行いましょう。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5:7)

パウロの祈り エペソ1:15~19

 今日のキーワードは、「心の目を開いてください」です。これを持ち帰ってください。

 もしも、霊的な視力検査が可能だったらどうでしょう。普通の視力検査と同じに検査ができたなら、ちょっとドキッとしますね。
 パウロには見えていることが、エペソの人々には見えていませんでした。

1、パウロの祈り

 今日の箇所は全体がパウロの祈りです。エペソのクリスチャンのためのパウロがささげたとりなしの祈りです。祈りの内容な以下のようになっています。

 1)エペソ人の信仰と祈りを神に感謝(15~16節)
 2)知恵と啓示の霊を与えてください(17節)
 3)心の目を開いてください
   a.神の召しによる希望(18節)が見えるように
   b.聖徒の受け継ぐものの栄光(18節)を見えるように
   c.信じる者に働く神の力の偉大さ(19節)が分かるように

 「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」(エペソ1:15~16)

 パウロが最初に祈ったのは、感謝の祈りです。エペソのクリスチャンが持っている信仰と愛を喜んでいます。
 信仰生活は、縦糸である主イエスへの信仰と横糸である身近な人への愛によって織られた美しい布にたとえることができます。必ず両方が必要です。

 パウロは、「いつもでも残るものは信仰と希望と愛です。」(第1コリント13:13)と述べています。そうすると、エペソの人々には希望が欠けていた事が分かります。

 それで、パウロは、「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、」(18節)知ってほしいと願ったのです。

 希望、それは、未来と今の自分をつなぐ糸です。エペソの人々には、希望が必要でした。

 1850年代のことです。ニューヨークとカナダをつなぐ鉄道が必要でしたが、流れの速いナイアガラ川には通常の橋を建設するのは不可能でした。それまでの歴史で初めてとなるつり橋による鉄橋が計画されました。約250メートル先にある向こう岸に、太さ10インチのワイヤーをどうやって渡すかが問題になりました。ロバート・シューラーの本によると、子供の凧あげ大会で問題解決を図ったとあります。向こう岸にたどりついた凧の糸に徐々に太い糸を結んで、最後には太いワイヤーをつないだといいます。この凧あげ大会で優勝した少年は、ホーマー・ウォルシュだそうです。

 あなたが主イエスを信じ、身近な人を愛す人になっているなら、信仰の糸を少しずつ太くして、未来につながる希望に変えることができます。

 

2、心の目を開いてください

 パウロの祈りの中心は、心の目がはっきり見えるようになることです。

 「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(18~19節)

 心の目とは、何でしょう。それは、神が本来人に与えてくださっていた洞察力ということができます。ただし、心の目は、罪や自己中心や傲慢さによって衰えることがあります。それで、多くの人は、パウロが見えている信仰の世界が見えないのです。

 第2列王6:15~17には預言者エリシャの逸話が記録されています。エリシャに仕える若い者が朝起きて周囲を見渡すと、敵であるアラムの兵士が大挙して取り囲んでいました。あわてふためく若者のためにエリシャは祈ります。「彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(第2列王6:17)すると、若者の目が開きました。天の軍勢が周囲の山々に満ちているのを驚嘆の目で見ました。エリシャには見えていたのです。

 パウロはエペソの人々のために祈りました。心の目がはっきり見えるようにと祈りました。

 心の目が開かれ、神の偉大な力を経験する道はどこにあるでしょう。それは、困難に直面した時に、あながたが信仰をもって動き出すときです。

 あなたの番です。
1)心の目が開かれるように祈ろう。
あなた自身のために。また、あなたの身近な人のために。

2)神の力の偉大さを体験しよう
細い糸でも、神への希望を持ち始めるなら、やがて太いケーブルに変わります。

3)信仰をもって踏み出そう
信じて歩み出さない限り、何も始まりません。

約束の聖霊  エペソ1:13~14

 最初に、二つの質問をします。あなたは、福音を聞いて主イエスを自分の救い主として信じましたか。あなたは、あなたの内側に聖霊を持っていますか。もし、ノーという答えなら、今日の聖書の言葉で確信を持ってください。主イエスを信じたあなたの中に聖霊はまちがいなく住んでおられます。

 パウロは、三位一体の神による素晴らしい救いを3節から14節までの長文で一気に書き下ろしました。父なる神の計画、御子イエス・キリストの十字架、そして、聖霊の役割が今日の箇所です。

1、聖霊は証印

 「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ1:13)

 イエス・キリストは十字架であなたの罪を解決されました。主イエスを信じるなら救われる。これが福音です。人を救いに導く真理です。
 あなたが、主イエスを信じたなら、あなたの内には聖霊がおられます。それが13節の意味です。「証印」とは、当時、所有者が誰かを示す印でした。この家畜は、誰のものかは焼印を見れば分ります。
 
 高級装飾品や陶器などの裏には、それぞれの会社の刻印が押されています。それは、製作者を示し、品質を保証するものです。

 父なる神は、イエスさまを信じたクリスチャンに、聖霊という証印を押してくださいました。あなたは、救われて神のものとされています。
 あの人は、他の人と違い、温かいし愛があると感じるなら、その人の背中に十字架の刻印があるというわけです。(十字架の刺青があるという意味ではないですよ。念のため)



2、聖霊は保証

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:14)

 聖霊は保証です。この「保証」という言葉は、元はフェニキア商人の用語でした。手付金という意味です。手付金は、商売の成立を約束しています。
 クリスチャンにとっては、聖霊が天国に行けるという保証です。

 飛行機に乗るときのチケットがそういう役割を果たしていますね。特に、ボーディング・チケットを発行して手渡してもらうと、「大丈夫、これで予定の便に座れる」と安心できるわけです。

 3節から14節に語られた神の祝福は、過去、現在、未来を包含する大きなスケールの救いです。特に14節は、救いの完成を物語っています。それでパウロは、神の偉大さ、神の救いの素晴らしさに感嘆し、神を賛美しました。

 あなたの番です。

1)今週、聖霊が共におられることを感謝し、安らぎましょう。

2)聖霊の語りかけに耳を澄まして生活しましょう。

3)聖霊の導きを求めましょう。

 漫画のドラエモンの道具に、「超小型みちびきの雲」なんてものがあったらおもしろいですね。旧約聖書の火の柱、雲の柱(出エジプト40:36~38)がコンパクトになって目の前に現れ、行くべき道が右か左か教えてくれる。この人と結婚すればいいと教えてくれる。
 聖霊は、今日もあなたの内におられて、あなたを導いておられます。現代でもあなたを導く火の柱、雲の柱となっておられます。

 イタリアのジェノバの上空40キロ、1986年5月28日午後6時40分、飛行中のセスナ機内で突然パイロットが意識を失いました。乗客の一人が緊急通信、それを受けフィオラバンデ・スブラジさんが同型機で緊急発進。第二次世界大戦中のイタリア空軍の「空の鷹」と呼ばれたスブラジさんが、無線で操縦方法を教えました。そのかいあって、飛行機は無事着陸できました。

 あなたの内におられる聖霊は、あなたを安全に導く、信頼できる友です。聖霊のみ声に聞き従いましょう。

御国を受け継ぐ(未来力) エペソ1:11~12

 今日は「未来力」について話しましょう。「未来力」とは、私が名付けたもので、信仰によって将来の祝福を信じる力のことです。

 「人生とは、後ろを振り返れば理解できるが、前向きに生きなければいけない」

 キルケゴールは上記のように含蓄のあること言いました。人は、しばしば過去を振り返ります。失敗、悲しみ、痛み、などを現在形で追体験する傾向があります。それは、自動車に乗り、ギアをリバースに入れ、体を反転させて後方を注視し、100マイルもバックを続けるようなものです。自動車は、前に走るためにできていて、後ろに戻るのは車庫入れぐらいです。
 人間も前に進むために造られました。神が、約束された将来の祝福をしっかりと見つめ、それを喜びとし、目当てとして前進しましょう。

1、私たちは後ろを向く、将来の祝福を知らないから

 さて、神が将来私たちにくださる祝福とは何でしょう。

 「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(エペソ1:11)

 11節には、ギリシア語でエレーローという言葉が使われていますが、翻訳聖書に訳のばらつきがあります。「神の民として選ばれた」(口語)、「約束された相続人とされた」(新共同訳)、「私たちは選ばれた」(NIV)、「私たちは相続財産を持っている」(NKJ)、堅実な訳で知られる新改訳は「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなった」と大胆に訳しています。

 ギリシア語本文には、「御国」とは書いてありません。いずれにせよ、神が私たちを選び、私たちに特別な財産をくださるという点では一致があります。

 それにしても、私はエペソ1章を読みながら悔しくなります。パウロが見ているもの、パウロが確信しているものが、私には実感としてつかめないからです。
そういえば、アフリカの草原に住んでいる人の視力が6.0だという事を聞いたことがありますか。とんでもない視力です。見える人には見えているものです。
 音楽家は、一般人には分からない音のズレに気づきます。ピアノの調律の元になるA(ラ)の音が440ヘルツではなく442ヘルツになるだけで気分が悪くなるといいます。
パウロは、神が下さる祝福がどんなに素晴らしいかを知っていました。

 いままで、エペソ1章で、私たちの過去に関する神の祝福を見てきました。神が私たちを愛してくださったこと。選んでくださったこと。神の子としてくださったこと。罪を赦してくださったこと。同様に、神は、私たちの将来についても素晴らしいプレゼントを用意してくださっているのです。


2、神は後ろも前も知っている、祝福を喜んでおられるから

 次の文書は、1885年にバーネットが書いた小説「小公子」の冒頭部分です。
 「セドリックはなにも知らなかった。だれも教えてくれなかったからだ。パパがイギリス人だというのはママの話で知っていた。」

 主人公セドリックは、ニューヨークの裏町に生きる7歳の貧しい少年でした。亡くなった父がイギリス人だという事は聞いていましたが、祖父がドリンコート伯爵で、アメリカ人女性と結婚したことで勘当されたということは知りませんでした。莫大な資産が相続されることになったのです。私たちとセドリックは良く似ています。本当は、神の相続人なのに、まったく気づいていない。聖書を読んでもピンと来ないのです。

 飛行機でエコノミー席を買ったのに乗ってみたらビジネス・クラスに変更されていて、<天にも上る気持ち>という人もいるでしょう。航空会社の地上職員は、エコノミーが満席なので、誰をビジネスにしようか考えます。この人だと決めてしまっても、私たちは最初のうちは知らされません。私たちは今、そういう状態で待合室である地上に生きているのです。

 リビング・バイブルのように現代風に、また大胆に翻訳することで有名な「The Message」訳によると。11節は、「私たちは、自分が何者であるか、また、何のために生きているかを、キリストにあって見出すことができた。それは、私たちがキリストの事を聞く前から、神が私たちに目を向け、神のために生きるようにとすべてのことを働かせ、神の目的、神の栄光のために私たちが生きるようにとデザインして下さったからだ。」(私訳)となっています。

 神は、私たちが見たこともない聞いたこともない相続財産を私たちに用意しておられます。
 「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第1コリント2:9)

 永遠の昔から、神は私たちを祝福し、豊かな資産を与える決意をされたのです。私達に必要なのは、<未来力>=信仰によって将来の祝福を信じる力です。

 さあ、あなたの番です <未来力>を手に入れるには、
あなたの外に希望の土台を置くことです。
未来の祝福を信じる根拠をキリストに置くことです。
聖書の約束の言葉にとどまることです。

 そのように生きるとき、「それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(12節)と告白できるようになります。

 「さあ、私の父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を受け継ぎなさい。」(マタイ25:34)

みこころの奥義 エペソ1:8~10

 くやしいことだが、若い人にだけ聞こえる音があるらしい。「らしい」というのは、今の私に聞こえるかどうか自信がないからだ。ある一定の周波数は年配者にはまったく聞こえない。
 同様なことが聖書の真理にあてはまる。パウロが明確に理解し感激している事も、凡人の私などにはピンと来ない事が多々ある。今日の箇所などはその代表的な例だろう。日本語としては読むことはできるが、抽象的な言葉の連続のため内容をつかみきれない。


1、恵みの素晴らしさ明らかにされる

 「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、」(エペソ1:8~9)

 8節と9節を分かりやすく説明してみると以下のようになる。
神は、世界の始まる前から私たちを選び、神の子とする用意をされ、御子イエス・キリストの命と引き換えに私たちに罪の赦しを与えて下さった。これは、信じられないほどに大きな恵みであり、偶然や悲劇ではなく神の知恵に基づいた神の奥義だ。

 奥義とは、神以外の者には説明不可能な内容を指す。ペテロたち十二弟子は、主イエスが十字架の予告をされた時、この救いの奥義がさっぱり理解できなかった。(マルコ8:31~32)だが、主イエスの十字架の死と復活に接したとき、心の中でストンと腑に落ちた。点と点でしかなかった主イエスのお言葉が、線でつながり、全体像が瞬時に把握できた。奥義が分かったのである。ペテロたち十二弟子が経験したことを、私たちも同じ道を辿るようにしてやっと信仰が持てるようになる。

 もしあなたがクリスチャンでないなら、神があなたを救うために備えられた十字架の救いを受け止め、主イエスをあなたの救い主として信じてください。



2、神が明らかにされる苦しみの意味

 パウロが感激したのは神による救いのみわざだが、私たちの苦しみの意味という具体的な問題についても同じような視点で考えてみよう。

 ハイハイができるようになった赤ちゃんを公園の砂場などに連れていくと何が起きるだろう。お母さんたちなら良く知っている。砂を握って、口に持っていく。母親は、ダメよ、と言って制止するか、聞き分けないなら手をビシリとたたくかもしれない。赤ちゃんの立場で考えれば実に不快な経験になるが、親の意図や愛は分かるはずもない。
 神と私たちの関係もこれに似ている。赤ちゃんの時の「砂」が、大人になると成功とか誘惑とか栄誉だとか、ちょっと気のきいたモノに変わるだけで構図は同じだ。神は、私たちの手をたたくようにして、害になるものを捨てさせることがある。
 また、私たちは思いもかけない試練や苦悩を通ることもある。その意味は私たちに分かるはずもない。けれども、苦しみにだけ注視するのを止め、苦しみがもたらしたものに視点を移すと、新しい世界が開かれるのも事実だ。
 20歳代の息子さんを交通事故で亡くしたお母さんの話を私は先週お聞きしました。検死のため息子さんに会えない日々は泣き暮れたといいます。遺体と対面したとき、平安な息子さんの顔を見て彼女は大きな慰めを受け、それ以来、涙の質がまったく変わったと言っておられました。葬儀には1000人の人が教会にかけつけたいいます。私は、そのお母さんのお顔を見ながら深い感銘を受けました。

 神の深い知恵と思慮深さが私たちの上に今も注がれていると、私は信じます。私たちの今の苦悩の中にも神の奥義が隠れていると思えるのです。あなたは、どう思いますか。

 仲の悪かった夫婦が、子供の病気を通して心が通うようになった話は聞いたことがありますか。貧しくなったので、小さな事を感謝できるようになったと感じませんか。
私の家内はよく私に言います。「落ち込んだときのあなたが素敵!」私はその意見に同感です。自分のダメさ加減に幻滅しているときのほうが、私は謙虚に、素直に、なれます。

 苦しみの中にいるあなたにお勧めします。苦しみのもたらしたものに目をとめましょう。


3、やがて明らかにされる

 「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、」(エペソ1:10)

 神の奥義は、十字架という2000年前の歴史的事実に結実しました。ですが、まだ実現していない神の奥義が残されているのです。
 時が満ち、神のみこころが実行されるとき、世界がキリストによって秩序が回復するときがきます。不平等で、邪悪で、利己的なこの世界が、キリストの足元にひれ伏す時がきます。キリストが本来の栄光を持ってこの世界に来るときがやってきます。

 この真理を私たちの人生に当てはめればどうなるでしょう。やがて、神のときに、時が満ちて、私たちのための神の奥義が実現するときが来るということです。

 幼稚園の先生で、若いけれども厚化粧の女性がいました。生まれつき、顔に大きなあざがあり、化粧で隠していたのです。その人は教会に通うようになり、主イエスの十字架の救いと神の愛に気づいてから、あざは神からもらったプレゼントと考えるようになり、厚化粧を止めました。
 彼女の幼稚園に心を閉ざした暗い子供が入園してきました。その子の顔にもあざがありました。だから、顔にあざのある先生に出会ってびっくりしました。明るくて素敵なその先生が大好きになりました。いつのまにか、笑顔がこぼれるようになりました。
 幼稚園の先生が踏み出した小さな一歩は、誰かの喜びに貢献しました。時が満ちたとき、神はあなたの人生にも素晴らしいみこころを実行されることでしょう。

 未来を信じましょう。あなたの将来に、神がみわざを行われると信じましょう。

罪のゆるし  エペソ1:7

 あなたは、ゆるされて生きていますか。今日は、神が下さった霊的祝福の3番目、罪の赦しについて考えましょう。

 「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

1、持っているのか?

 今日の聖書箇所、エペソ1章7節を英語の聖書で見てみましょう。
In him we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, in accordance with the riches of God's grace. (NIV)

 分かりやすい英語ですね。私たちは持っている、と書いてあります。実は、ギリシア語の原文も「持っている」と書いてあるのです。日本語としては、贖いを持っている、ゆるしを持っていると書くとあまりに翻訳調になるのでそれを避けたのでしょう。
神からの霊的祝福の一つである、罪の赦し、それは、私たちが「持っている」と明確に言えることなのです。あなたは、罪の赦しを持っていますか。

 持っているか持っていないか、これは非常に明瞭な事です。携帯電話を持っているかどうか、それは、今、捜せば分かります。手元になければ、持っていないのです。あれば、持っていると言えます。罪が赦されたかどうかも、パウロの視点でいえば、持っているか、持っていないかであり、中途半端はありません。
「私の罪が赦されているかどうか、わかりません。天国に行けるかどうかも、行ってみなければ分かりません。傲慢不遜にも、自分でそうした事は判断できません。」と言うクリスチャンにたまに出会います。一見謙遜に見えますが、聖書を全く読んでいない人です。神の恵みをまったく知らない人です。

 イエス・キリストを信じた人は、罪のゆるしを持っているのです。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」



2、御子のあがない

 主イエスは、私たちを赦すために、特別なことをしてくださいました。ご自分のいのちと身代わりに、私たちの罪を赦してくださったのです。
ですから、罪の赦しの根拠は、私たちの内側にはなく、私たちの外にあるのです。2000年前の歴史的事実、主イエスの十字架にあるのです。

 贖いとは普通、奴隷に身をやつした人を自由にするため大金を払うことを意味します。主イエスが払ってくださった代価は、金でも宝石でもなく、ご自分の命でした。「御子の血による贖い」と書いてある意味はそういうことです。以下に、身代わりの実例を3つ挙げます。

 1942年11月神奈川県横須賀市の踏切で30歳の先生が小学4年生を引率して列車の通るのを待っていました。遮断機のない踏切で、先生は手を広げて生徒をとどめていたが、電車が通過したをきっかけに、一人の女の子が渡ろうとしました。ところが、ちょうど反対からも列車が来ていたので先生は生徒を突き飛ばして助けたましたが、自分は命を落としました。

 1941年7月アウシュビッツ収容所で脱走騒ぎがあり、10人が無作為に選ばれ見せしめとしての餓死刑が言い渡されました。50歳のポーランド人、フランツィシェク・ガオウィニチェクは「私には妻も子もいる」と叫び、命乞いをしまいた。それを聞いた、マキシミリアノ・コルベ神父は、私は司祭で子供も妻もいない、身代わりになります、と申し出ました。ガオウィニチェクは、このとき、神父にお礼を言うができず、目だけで感謝を伝えましたが、自責の念は消えなかったといいます。コルベ神父らは2週間、地下牢で食事と水の配給を断たれたが、神父は祈りと賛美で仲間を励まし続け、最後に薬殺されました。助けられたガオウィニチェクは生き残り、90歳過ぎるまでコルベ神父のことを語り続ける生涯を送りました。

 2007年2月、板橋区の踏切で自殺願望を持った39歳の女性が電車に飛び出したところ、53歳の宮本邦彦巡査部長が助けに入り女性は無事、警察官は死亡しました。

 歴史の中でも、最近の事でも、見ず知らずの人のため身代わりになる人がいます。自分の命を代償に他の人を生かす人の物語は心を打ちます。

 主イエスが命を捨ててくださったことにより、あなたが負うべき罪の罰は終わり、あなたの罪は赦されたのです。罪の赦しを持っているのです。もし、命を助けてもらったあなたが、「罪が赦されているかどうか分かりませんし、言い切るのは傲慢です。」と言ったとしたらどうでしょう。あなたは、主イエスの犠牲をまったく無駄にしているも同じです。
 先生に命を助けてもらった小学生でさえ、「先生は、身代わりになってくださったのです。電車の音を聞くたびに先生のことが目に浮かびます」と文集に書いています。

私たちが主イエスに言うべきことは、「ありがとう」です。


3、御子のうちにあって

 罪のゆるしを持つためには、何をしたらいいのでようか。自分の罪を悔い改めることですか。真面目になることですか。不思議なことに、パウロはここで罪の悔い改めについて触れていません。(誤解のないように言いますが、自分の罪を凝視し、罪を悔い改めることは信仰の成長や御霊の実を結ぶためにはどうしても必要なプロセスです。)パウロは、罪のゆるしが、まるで空から降り注ぐ雨のようだと言っているのです。おどろくべき恵みだと言っているのです。神から送り届けられた霊的祝福だと言っているのです。
人間が為すべき一番基本的なことは、私のために命を捨ててくださった主イエスを信じることです。それが、「御子のうちにあって」という状態です。以下の聖書の言葉に注目してください。

 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(使徒10:43)

 昨年12月8日、軍用機F/A18が、サンディエゴのドング・ヨーンさん(37歳)の家に墜落しました。彼は仕事のため不在でしたが、奥さん、2ヶ月になる赤ちゃん、1歳3ヶ月の赤ちゃん、手伝いに来ていた義理のお母さんの4人が炎に包まれ死亡しました。クリスチャンの韓国人ヨーンさんは、妻と子供らを失った悲しみをインタビューに答えて述べた後、緊急脱出で助かった28歳のパイロットについて言及しました。パイロットがこの事故で窮地に立つことがないよう祈っている、彼は我が国の宝だ、彼は自分にできるベストを行った、と。ヨーンさんは、パイロットが謝罪する前に赦していたのです。


→さあ、あなたの番です

・クリスチャンでない方は、主イエスを救い主と信じましょう。
・確信を持っていなかったクリスチャンは、今日の聖書の言葉を受け入れ、自分が罪のゆるしを持っている、と明確に認識しましょう。
・赦しの確信を持っている人は、人をゆるしましょう。

 他人を赦すということについて、最後に一言。ひとり子イエスの死の苦しみと悲しみを引き受ける中で父なる神は私たちを赦されました。これは赦しの原型です。ヨーンさんが、失意の中でパイロットを赦す姿と重なります。私たちの罪が結果的に主イエスを苦しめたのですが、傷を負わされた主イエスが私たちを赦してくださいました。
 相手が謝罪したからゆるすのではありません。相手が誠実だからゆするのでもありません。人を赦すのは、まったくの自発的行為です。見返りはありません。人をゆるすという行為は、痛みとうずきの中でだけできるのです。忘れないでください。人を赦すことができるのは、自分が傷を負った時にしかできないのです。


 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)

神の子供へ エペソ1:5~6

 神が与えて下さった霊的祝福の第二は、神の子供になることだ。

 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:5~6)

1、「ここがあなたの家だよ」

 神の子供とされたことの意味は、究極的な帰属場所が与えられるということだ。多くの人は、まるでクラゲのようにさまよっている。自分が誰で、どこから来て、どこに行くのか分からない。誰かの真似をして取り繕っているが、落ち着く場所もなく、帰る場所もない。

 埼玉県の三崎さんを私は尊敬している。毎朝の早祈祷会を欠かさない祈りの人であり、また、多くの里子や養子を受け入れる、愛の人だ。初めて家にやって来た子供に対しては、夜、添い寝をしてあげるという。ここがあなたの家だよ、私があなたのお母さんだよ、と全身で伝えてあげる。

 神も、ここに来なさい、ここに休みがある、と私たちに言っておられる。安全、安心、平安、完全な受容、自分が神に属している意識、それが神の子とされる意味だと思う。


2、「死んではいけない」

 人が、神の子供でないなら、それは、神から離れた罪人の状態だ。つまり、神を無視し、悪を重ね、罪の奴隷になっている。その行き着くところは永遠の滅びだ。だから神はあなたを救おうとする。たった一人の愛する息子、イエス・キリストを地上に送り、十字架で死ぬことにより私たちを罪から救い、神の子の身分を与えて下さった。
 神からのメッセージは、死んではいけない、という切実なものだ。

 宮城県の産婦人科医師、菊田昇氏は、1973年新聞に「生まれたばかりの男の子を我が子として育てる方を求む」と広告を出し、賛否両論が噴出、大変な話題となった。当時合法とされた8ヶ月未満ぎりぎりで中絶処置をすると、元気な産声を上げる赤ちゃんもいた。そんな赤ちゃんは、積極的あるいは消極的に命を奪うしかなかった。悩んだ末菊田医師は、望まれない妊娠をした子供を元気に産ませ、子供を望む夫婦に養子として斡旋し、にせの出生証明まで書いたが、合法的に子供を救う道が必要と判断、自身の人生や名誉、命をかけて戦うことにした。除名処分を受けたり、営業停止命令を受けたりしながらも、4年後、法律改正を勝ち取った。合法的中絶の月齢を下げ、養子縁組しても戸籍上で実子扱いできるようになった。キリスト者の菊田医師の悲願が実った。その後の人生で、600人の赤ちゃんの命を救った。あなたが、その子供であったかもしれない。

 神は、私たちが滅びに向かうことをゆるせなかった。それで大きな犠牲を払う決意をされた。大切な、たった一人の息子、イエス・キリストを十字架にかけるという決断だ。「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」という言葉は、そういう意味だ。

 私たちが神の子供にされた背後には、こんなに大きな犠牲が払われている。


3、「大好きだよ」

 神の子とされた理由をもし神に問うたなら、神はこう答えるだろう。わたしの心だ、愛しているからだと。それが神のみこころだ。

 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)

 養子をもらう人も、里子を育てる人も人の子で、かわいい子や素直な子を選びたいものだ。神が私たちを神の子とする場合は、まったく違う基準で選ぶ。愛しているから神の子にしてくれた。それが神の心であるから、私たちを選ばれた。

 ボニー・ウィラー著『愛と喜びの家族』という本を私はかなり昔に読んで、深く心が動かされた。3人の子供のいる家庭に、3人の養子が加わる実話だ。クリスチャンのウィラー夫妻の長女は10歳のジュリー、小児麻痺で足に補助器具を付けていた。2番目は7歳のティミー、落ち着きのないADHD(注意欠陥・多動性障害)の子。ロビーは4歳で小児麻痺、足にギブス。奥さんは4回流産したが、それでも子供がほしかった。家族で話し合い、養子の条件を決めた。3歳以下で、混血児で、身体に障害のある子。結局、家にやって来たのは、病気をたくさん持っている子や耳と目の不自由な子たちだった。ウィラー家はその後も温かい家庭となっていった。

 私たち夫婦の話をしよう。二人の子供が与えられた後、望まれない妊娠で生まれた子を引き受けたいと夫婦で祈った時期があったが、主は道を開かれなかった。妻は大病をして、もう次の子供の出産は無理と言われたが、主の恵みで治癒され、第一子から10年後に3番目の子が宿った。高齢出産で障害のある子が生まれるリスクが高いと産科医は判断、羊水検査を勧めた。家内は、「どんな子供でも産みます」と答え、医師はいぶかしげに「どんな子供でも産みます」とカルテに書き込んだ。生まれた子供が、今の末っ子だ。

 神は、御子イエスがヨルダン川でバプテスマを受けた際、天から大声で愛を表された。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)

 この言葉は、あなたにも同じように適応できる。なぜ? 父なる神は、あなたを見るとき、身代わりになった「その愛する方」、御子イエスの命を私たちの内に見出すことができるので、愛しているよ、喜んでいるよと、躊躇なく言える。

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(第1ヨハネ3:1)

 USCのフットボールコーチ、ジョン・マッケイは、次のようにインタビューに答えたことがある。息子が昨シーズン活躍したことを喜んでいます。よくやりました。でも、息子が試合にひとつも出られなくても私は息子を誇りに思います。神も、同じように言われる。あなたを誇りに思う。あなたは、間違いなく私の子だと。
 
 「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)


 あなたの番です。
→あなたが神の子とされている事を味わい、感謝し、神をたたえましょう。
→あなたの子供をあなたの子としてきちんと認め、喜び、愛を伝えよう。
→あなたは神の子です。その身分にふさわしく胸をはって生きていこう。

神の計画  エペソ1:3~4

 昨夜、いつものように妻と二人で手をつないで散歩しました。ドアの前に戻ったとき、「僕を選んでくれてありがとう」と言いました。洋子も言ってくれました。「私を選んでくれてありがとう」結婚して25年以上たっていますが、この感謝の気持ちは変わりません。今日は、神の選びについて考えてみましょう。

1、神をたたえる人生

 パウロは、手紙の本論に入ってまず神をほめたたえました。強烈に、あふれるほどの言葉もって、神を賛美しています。

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)

 何かを伝えようとする前に、神をたたえる。これがパウロにとってごく自然な行為でした。3節から14節まで原文では区切れのない一文なのです。神をたたえる言葉が泉のようにパウロからあふれ出ました。

 私は、実の娘達からほめられる時、表面ではそれほど表しませんが、内心かなり喜んでいます。身内はお世辞をいいませんし、娘達は本当に良いときしかほめてくれません。そんな娘達が「父さん、かっこいいよ」と言ってくれると嬉しいです。認められるという目に見えない行為が、私の心に喜びを与えてくれます。
 霊的祝福も目に見えませんが確かに存在します。霊的祝福とは、神だけが与えることができる祝福です。その祝福を受けると人は本当の幸せと喜びを感じます。
 パウロにとって、霊的祝福は抽象的な概念ではなく極めて具体的で、はっきりと体験したものでした。パウロはそれを理由に神をたたえたので、賛美の言葉が途切れることがなかったのです。
 天国にもし<霊的祝福発送所>があるなら、そこはもう空っぽです。「祝福してくださいました」と書かれてあるからです。あとは、私たちがしっかりとその祝福を受け止めるかどうかです。キリストを信じることによって、その祝福を受け取ることができるのです。

 あなたにお勧めします。全能の神、聖い神、創造主なる神、永遠の神、まことの神を心からたたえましょう。礼拝で皆と心を合わせてたたえましょう。あなた一人のときにも、神を心からたたえましょう。神を本気でたたえるとき、私たちは本来の人間の喜びを知ることができます。問題が小さく見えます。自分の心が謙虚になります。優しくて柔軟な心が生まれます。


2、神による選び

 パウロがリストアップした霊的祝福の第1は、選びです。この言葉はすぐに誤解されます。選ばれた人と選ばれなかった人がいるのか?神は不公平だ、えこひいきだとか言う人がいます。私はこの箇所を何度も読みなおし、思い巡らし、新しい観点が見えてきました。神に愛された喜びを表す主観的な表現が、選びだと思えるのです。

 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)

 神が主語となり神が選ぶ行為を実施するなら、私たち人間の側はいつも受身になります。それで、「選ばれた」という表現になります。
 選ばれたという行為は、人間関係でいうなら結婚関係に似ています。あなたを愛しているのであなたを選びましたというのがプロポーズです。そのプロポーズを受けた人は、選んでくれてありがとう、私もあなたを愛しています、と答えます。この場合、プロポーズは非常に排他的な行為で、世界中のすべての人を無視して、たった一人だけを選ぶことになります。選ぶことは、「愛しています」という言葉の最高度の表現だと思います。
 だから、選びとは、誰かを選び、誰かを選ばないという客観的表現ではなく、愛された人による主観的表現だと言えます。

 ある会社の社長は入社式の挨拶の中で、不慣れな中国語で5分間スピーチしました。日本人新入社員に混じった中国人社員一人を歓迎するため社長は二日間徹夜で中国語を覚えました。その社員は、愛された、選ばれたと感じたことでしょう。
 
 一般的に、何かを選ぶとき、自分にとって益になるものを選びます。つまり、利己的な選びです。けれども、神の選びは、違います。罪のけがれを持ち、欠点や不服従の可能性を持つ人間を神はあえて選びました。選びという行為は、相手の将来すべてを引き受ける覚悟です。また、選びは、これからずっとあなたと共にいる、あなたを捨てないという強い決意です。将来、神に逆らい、神の栄光を汚し、神につばするような者となる可能性のある者でさえ、世界の基の置かれる前から、愛すと決めておられたのです。「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とあるように、神は、私たちの汚れをきよめ、神の前で完全な者にしようとする目的を持っておられます。

 かつてキリスト者を迫害したパウロが、主イエスによって使徒として選ばれました。それでパウロは、自分が愛されたこと、選ばれた事実を感動を持って話すのです。
 「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」(使徒9:15)

 選びに関連した以下の聖句にも心に留めてください。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

 選びも、霊的祝福すべても、私たちの努力や真面目さで入手できるものではありません。十字架で死なれたイエス・キリストによって初めて得られる恵みです。だからパウロは、キリストのうちに、キリストにおいて、と何度も繰り返すのです。

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)

 神は、罪深い私を選び、世界に向けて、「ほら見てください、私の選んだ人です」と胸を張ってくださる方なのです。選んでくれて、ありがとう。私は、心からそう言いたいです。選んでくださった方に恥じない生き方をしましょう。

恵みと平安 エペソ1:1~2

 これからパウロの獄中書簡の一つ、エペソ人への手紙を学んでいきましょう。今日は、手紙冒頭の挨拶部分を見てみましょう。手紙には定型句がありますが、パウロの決まり文句は、生きた信仰の表れでした。
 
1、神のみこころによる

 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、……」(エペソ1:1)

 パウロはまず自己紹介をしますが、出身地による説明なら寅さんみたいに「生まれも育ちも葛飾柴又」となります。勤めている会社名や役職で自己紹介をすれば、会社人としての自己認識が高いわけです。パウロは、神との関係でアイデンティティーを確認していました。目的を持って派遣された人、<使徒>、これがパウロの自己認識でした。

 宗教過激派の頭目のようなパウロは、キリスト者を迫害する旅の途中ダマスコで復活の主イエスに出会い劇的な回心を経験、数日後、主から使命を頂きました。

 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)

 会社人間にとって現役引退は厳しい現実になります。たとえ社長として活躍してきた人でも、株主総会で人事刷新が終わると、とたんに秘書も部下も見向きもしなくなり、ただのおじさんになります。でも、神とのかかわりでアイデンティティーを持っている人は、強いです。

 パウロは、神からの使命を頂いた幸せな人でした。あなたの場合、神との関係でいうと、以下の空欄にどんなことばが当てはまりますか。

 神のみこころによる(                )


2、忠実な聖徒

 「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」(エペソ1:1)

 あなたは聖徒ですか。クリスチャンなら、のこらず聖徒です。第1ヨハネ1:7にも、御子の血によってきよめられると書かれています。主イエスが身代わりになってくださったゆえに、私たちはキリストのきよさを持つ者とされたのです。聖徒とは、レベルの高いクリスチャンを指すことばではありません、私やあなたのよな普通のクリスチャンのことです。

 エペソは現在のトルコのエーゲ海側の海岸近くにあった町。トルコ半島を犬の顔に見立てれば、ちょうど口の位置にありました。現在は遺跡をとどめるだけで、地名も残っていません。パウロの時代は、商業の町、また、女神アルテミスの神殿の門前町として栄えました。

 第2回伝道旅行でパウロがエペソに立ち寄ったのが52年ごろなら、第3回伝道旅行で滞在したのは(使徒19章)55年、この手紙が書かれたのが60~62年ごろになります。パウロの伝道旅行年代は学者により誤差があるので、あくまでも目安としてご理解下さい。

 パウロは、エペソで例外的に長く滞在しましたが、エペソを宣教上の拠点と把握したのでしょう。

 「これが2年の間続いたので、アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた。」(使徒19:10)

 ここで言うアジアとは小アジアのことで、現在のトルコ半島全域を指し、面積で言えば日本の2倍の広さになります。わずか2年の間に、小アジア一帯に福音が伝えられたというのは驚くべきことです。どのようにして、それを実現したのでしょう。
 アルテミス神殿には多くの参拝客がやって来ましたが、パウロ達がこの人たちに伝道し、救われた人を伝道師として訓練し、故郷に帰って伝道するよう派遣することができました。
また、パウロが神学校のようにして、信者を教えるなら、整えられた上で各地に派遣することもできます。この2種類の伝道や教育活動により、広い地域に伝道が可能になったのでしょう。まさに、忠実なクリスチャンの姿です。

 私たちの教会は<幸せの発信地>を目指していますが、エペソ教会はそのお手本になる教会です。エペソ教会はアジア一帯に福音をと伝える発信地となりました。

 現代でも同様のことが可能です。留学のためアメリカに来た人を救いに導き、訓練して、日本に遣わす。また、教会で救われた人を神学校レベルの教育を授け、宣教師のような立場で派遣する。福音を伝えることにより、本当の幸せをもたらすことができます。その幸せの発信地として、主に用いていただきましょう。

 ロン・ヘイファーというバイオラ大学のチャプレンは、新入生に同じような話をするそうです。1934年、ノースキャロナイナでモルデカイ・ハムという巡回伝道者の集会に、ウイリアムという名のおとなしそうな16歳の農家の青年が参加したそうです。彼はそこで、主イエスを信じました。メッセージを語ったハム師も、個人的に救いの祈りを導いた人も、その頼りない青年が後に、世界の伝道者ビリー・グラハムになるなど知るよしもありません。

 あなたには何ができますか。あなたの知識、経験、賜物、発想、時間などを用いてください。神を愛し、人を愛し、福音を伝えてキリストの弟子にするために、あなたができることは何ですか。

3、恵みと平安
 
 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(エペソ1:2)

 恵みとは、受けるに値ししない者が受ける祝福。平安とは、神だけが与えることのできる魂の平和。パウロが書いた13の手紙すべての冒頭で使う挨拶が、恵みと平安です。

 恵みといえば、主イエスの恵みを思い出します。ヨハネ1:14によると、「この方は、恵みとまことに満ちておられた。」とあります。ヨハネは、主イエスから恵みを受けたと書いています。(ヨハネ1:16)恵みは、愛、罪の赦し、守り、など多くの意味を内包しています。主イエスだけが与えることのできる祝福と言うこともできます。

 また、平安についても、主イエスの言葉を思い出します。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)病気の人、試練の中にいる人、孤独な人、落胆している人に、平安は特に必要です。

 パウロは自分が受けたものを人にも分けたいと思っていました。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(第1コリント15:10)

 パウロの挨拶は、挨拶のための空疎な美文ではなりません。パウロが実際に主イエスから受け取った実体のあるものでした。恵みと平安という実体を、エペソの人にも持って欲しかったのです。
あなたも、礼拝でもらった祝福を自分で独り占めしないで、持ち帰って他の人に差し出して下さい。

 あなたにも、神の恵みと平安がありますように。神のみこころの真ん中を進み、福音の拡大のために自分をささげてください。
 

幸せの発信地  マタイ22、28章

 教会は何のために存在しているのでしょう。神を愛し、人を愛し、福音を宣べ伝えてキリストの弟子を育てることです。つまり、God, Others, Disciples となり、頭文字はGODとなります。

 これを、私たちの人生の骨組みとしよう。それが、私たちを本当の意味で幸せにします。

1、<G> God 神を愛す  

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マタイ22:37)

 旧約聖書の中心メッセージを要約すれば、神を愛し、人を愛す、となります。心を尽くして神を愛しましょう。

 心を尽くして神を愛すようにと主イエスは言われました。神を私たちのプライオリティーの第一に据えるためには、努力が必要なのです。神は目に見えません、神の声は聞こえません、だから、神との約束を無視したり、目に見える人間との関係を優先しがちです。だから、意識的な献身がないと、神を愛すことはできないのです。

 教会で開いているお母さんと幼児のクラスで、「お母さん、大好き」と子供に言わせています。3歳の子供たちは、手を広げて、お母さんを見つめ、嬉しそうに、大好きといいます。それを聞いたお母さんは、思わず子供を抱きしめます。ある子供は、寝る前に、「お母さん、大好き」と言うようになったと聞きました。
 神を愛す人も、同じことをしているのです。神さま、あなたが大好きですと祈ったり、賛美したりします。すると、あなた自身がニコニコになるのです。

 あなたにとって、神を愛すとは何をすることでしょう。見えない神を心を込めて礼拝しましょう。神の言葉、聖書を読みましょう。優先順位の第1に神を置きましょう。


2、<O> Others 人を愛す      

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

 知っているという事と、行うという事は天地ほどの差があります。愛は、形にしないと伝わりません。
身近な人を大切にし、具体的行動で愛しましょう。「ありがとう」と「ごめんなさい」と「大切に思っているよ」を言葉ではっきりと伝えましょう。
 隣人を愛すときは、心を尽くしではなく、自分自身のように、と注意書きが添えられていいます。そうすると、思いやりが生まれてきます。相手の喜ぶ顔を想像して、何が最善かを考えます。そこが大事です。
 あなたにとって、人を愛すとはは、誰のことでしょう。そして、何をすればいいのでしょう。


3、<D> Disciples 福音を宣教しキリストの弟子を作る
      
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19~20)
 
 1980年、26歳の男性が不動産屋を訪れました。ここに引っ越してきました。教会を新しく作ります。住むところが必要ですが、金がありません。不動産屋は、笑いながら話を聞き、コンドミニアムの家賃を最初の1ヶ月無料にしてくれただけでなく、「私が教会員になりましょう」と申し出ました。これが、サドルバック教会開拓の第1歩でした。その青年牧師が、リック・ウォレン牧師です。
 3月30日、高校のシアターを借りて、次週から始まる礼拝のリハーサル礼拝をしました。そこで、彼は夢を語りました。20000人の教会、50エーカーの敷地と施設、大勢の宣教師を世界に遣わし、クリスチャンの霊的成長を促すセミナーやクラスを開き、何よりも、心の傷ついた人々のいやし、壊れかけた家庭の再生、失われた人々を主の救いに導くことを優先しました。最初の礼拝には、205人が参加して、夢の実現が始まったのです。

 新約聖書の中心命令は、主イエスの福音を宣べ伝え、キリストの弟子を育てることです。私たちも主イエスの福音を伝えましょう。そして、救われた人をキリストの弟子になれるように励まし育てよう。
 あなたは誰に福音を伝えたいですか。あなたは誰を弟子として育てていますか。


 神を愛し、人を愛し、福音を伝えて弟子を育てることが、教会の存在目的です。また、これこそが、私たちの人生の目的です。

 福音を受け入れた人には、本当の幸せが届きます。その喜びは、信じた人の家族にも伝わります。家の中が明るくなり、平和になります。つまり、福音こそ、真の幸せをもたらすものです。

 私は夢をみます。私たちの教会が、幸せの発信地になる夢を。アメリカに住む日本人とその家族に本当の幸せを届ける発送基地になりたいのです。いかがですか、あなたもその一部をいっしょにになってくれませんか。3つの骨組みに肉付けをするのは、あなたです。あなたの賜物を生かして、この3つを実行しましょう。

パラダイスはそこに ルカ23:39~43

 主イエスによる救いについて4回シリーズの今日は最終回。主イエスとともに十字架につけられた犯罪者二人について考えてみよう。

1、第1の犯罪人

 自分と向き合えない男が、最初の犯罪人だ。
あなたは、どうだろう。本当の自分の姿に向き合う自信があるだろうか。

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(39節)

 十字架に釘で打ち付けられた男は、自暴自棄になった。死刑を見に来た群衆や律法学者が主イエスに投げつけた言葉を聞いて同調した。いっしょになって怒りを主イエスにぶつけた。俺が救われないのはお前のせいだ、とばかりに悪口を言った。

 いつでも、人のせいにする人がいる。親が悪い、先生が悪い、友達が悪い、社会が悪い。自分を見つめる勇気がないので、いつも他人を悪者にしている。それでは、何も始まらない。「ごめんなさい」と言えるなら、人生は新しく始められる。

2、第2の犯罪人

 もう一人の犯罪人は、死を目前にして自分の罪を認めた。死ぬ間際に信仰を持ったのは、聖書の中でこの男ひとりだ。

 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 男は、自分の罪を認めた。主イエスが罪のない方だと知った。男は、ひとつだけ願いごとをした。

 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(41~42節)

 普通、こんな場面なら、「助けてください」と言うところだ。「罪を赦してください」と願うはずだ。「天国に入れてください」と懇願したことだろう。けれども、この犯罪人は、思い出してくださいと語った。

 きっとこう思ったのだろう。俺には資格がない。罪を赦していただく資格がない。悪い事をさんざん繰り返し、死ぬ間際に「ごめんなさい」では都合がよすぎる。それで、私を思い出してくださるだけでいい、と言ったのだろう。
 資格がないと気づくことが、罪を赦していただくための資格かもしれない。

3、パラダイスに招く主イエス

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)

 主イエスは、この犯罪人を門前払いしなかった。むしろ、心を低くした男の姿勢を評価したように思える。条件を付けず、今までの生活を叱責することもなく、パラダイスを保証された。

 第2の犯罪人が、主イエスの真の姿に気づいたのはなぜだろう。

 この男が主イエスと一緒にいたのは、たぶん数時間程度だ。その日、十字架を背負って死刑場のゴルゴタまでエルサレム市内を歩き回った期間と、十字架に付けられてからの数時間だけだったろう。
この間、主イエスは、山上の垂訓のような高邁な教えを語ることはなかった。輝く笑顔と澄んだ瞳を男に向けたこともなかった。腰を抜かすほどの奇跡もしなかった。

 第2の犯罪人が見た主イエスとは、弱く、みじめな姿だった。殴られた後が痛々しく残る顔。目も開けられないほど顔は腫れ上がっていたはずだ。茨の冠をかぶせられたので、顔は血だらけ。リンチを加えた者たちが吐き付けたつばが眉毛に付着したままかもしれない。背中は激しい鞭打ちのため、ざくろのように割れ、血潮が流れ落ちていた。十字架の上では、人々の罵倒を聞き続けたが、一言も答えなかった。

 この姿を見て、犯罪人は主イエスが罪のない救い主だと確信した。

 あなたも、試練の中で苦しみうめく時、弱さ丸出しの姿でいるとき、それを恥じることはない。弱さの中に表れる神の力を信じよう。

 「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(第2コリント12:9)

 自分自身と向き合ってください。

 罪赦される資格がないと思うなら、あなたには主イエスの救いを受ける資格があります。主イエスを救い主として受け入れましょう。

 あなたが今、試練の中にいて、揺れ動く心でいるなら、神の力があなたをおおってくださるように祈りましょう。その姿を通して、主イエスをあかしできるように祈りましょう。

喜びの人生へ ルカ19:1~10

1、ザアカイという男

 一番会いたくない男をイメージしてみよう。劣等感が強いくせに尊大で、金の亡者、それがザアカイだ。

 1)取税人の頭 ローマ帝国の手先として法外な税金を集めていた。
 2)金持ち  私腹を肥やす成金。
 3)背が低い 極端に背が低いという意味だろう。
 4)友達がいない 人だかりができたとき、入れてくれる人がいなかった。
 5)主イエスに興味がある  いちじく桑の木に登ってもひとめ見たかった。

 現代風に言えば、<おれおれ詐欺>の総元締めのような男だ。主イエスは、こんな男に会うためにエリコを訪れた。


2、名前を呼ぶ主イエス

 主イエスは、よろいや槍で固めた男の心にも、スーと入り込める近づきやすさを持っている。

 「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」(5節)

 主イエスが先に声をかけた。長年の友達のように、気さくに名前を呼び、今晩泊まることにしてあると話した。さわやかに主イエスの心が伝わった。
ザアカイは、ゴクリと唾を飲んだかもしれない。目が輝き、子供のように喜んで、子枝を折りながらもあわてて下りたことだろう。

 聖書を読むと、主イエスがザアカイを責めたとは一つも書いてない。責めること以上に、大きな友情で包むことのほうが、良い結果を生む。

 実は、ザアカイの外側と内面はかなり違っていた。外側は尊大で、醜い金の亡者でも、見捨てられた悲しさ、のけ者にされた悔しさ、落ちこぼれた辛さなどで一杯で、心の内側はむなしかった。
 ザアカイは人生をやり直したかったのだ。だから、木に登ってまで主イエスに会おうとしたのだ。

 「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(8節)

 ザアカイは、全財産を失う覚悟だ。すべての金を失うことより、人生で価値あるものを得るほうが先決だった。

 「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」(9節)

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(10節)


3、キリストの真似をしたい

 主イエスの真似をしたいと思いませんか。

 主イエスのされたことは、先回りする友情だ。過去形でなく、未来形に生きる姿だ。誰よりも先に、心を開く勇気を持っておられる。夢の成就の喜びを今に引き寄せる力を持っておられる。

 主イエスが、あなたの過去だけを見ていたら、あなたに近づくことはしないでしょう。
身近な家族に先回りする愛で接しましょう。あなたが先に笑顔で迎えましょう。


 →あなたの番です。
まだクリスチャンでない人へ
主イエスをあなたの心に迎えましょう。

クリスチャンの方へ
主イエスの真似をして、あなたが先に心を開きましょう

 「さあ、早く降りて来なさい。今日は、あなたのところに泊まることにしてあるから」

あなたも赦される ヨハネ8:1~11

 主イエスの沈黙の意味を考えてみよう。

1、沈黙の意味 - パリサイ人から女を守るため

 パリサイ人は、主イエスに罠をかけた。どちらに転んでも、主イエスを失脚させられる悪賢い策略だった。罪深い女を赦して無罪放免にせよと主イエスが言えば、モーセの律法を破ったとして糾弾される。女を死刑にせよと答えれば、弱い立場の人を救うことができなかったと責められるのです。
 ところが、主イエスは、沈黙された。

 「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(ヨハネ8:6)

 この沈黙の意味は、パリサイ人の横暴さへの抗議といえます。まるで、おおきな愛のマントで包むように、主イエスは女をパリサイ人の非人道的な糾弾から守ったのです。

 「愛は多くの罪をおおうからです。」(第1ペテロ4:8)

2、沈黙の意味 - 女の信仰心を呼び覚ますため

 主イエスは、過保護なママがするように女と接しない。女と距離を置き、自分を振り返るよう促した。悔い改めと信仰の求めが自発的に起きるようにと。
 主イエスの沈黙の意味のもうひとつの意味は、女の信仰を呼び覚ますことだ。

 あなたは、今日、この女の立場にいるかもしれない。失敗があらわになっているかもしれない。自分の罪が周囲の人々に知られてしまったかもしれない。
 そんなときは、この女と同じうように怒りだけが支配する。けれども、主イエスが目もあわせずに地面に何かを書いておられ、パリサイ人の催促にも関わらず無視し続ける姿は、女に自分を見つめさせる効果がある。あなたも、今、惨めな恥の中で、本当の自分の姿に出会っている。

 「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。」(ヨブ5:17)

3、誰もいない意味 - 罪の赦し

 主イエスは沈黙を破って、ひとことだけ言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者からはじめて、結局はみなが去って行った。罪ある者には罪人を裁けないと気づいたのだ。

 「彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(11節)

 女が最初から信仰を持っていたとは思えない。主イエスへの期待も持っていなかったと思う。けれども、主イエスが、目に見えない愛と赦しのマントを女にかけてやったことにより、女は罪の悔い改めが生まれたと思われる。主イエスを頼る心、人生をやり直す勇気をもらったはずだ。


 あなたの最近の姿は以下のどれに近いですか。
1)パリサイ人のように、人のあらさがしをして、皆の前で人を責める
2)女のように、人前で、自分の失敗や罪が暴かれて、呆然としている
3)主イエスのように、愛のマントをかけて、罪を赦す人

 主イエスの姿と言葉に触れた人は、謙虚な心になる。主イエスの沈黙に接した人は、主イエスの愛のマントを持つ人に変えられる。今週、その愛のマントで人を包んであげてください。 

 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:7~8)

走り寄る愛  ルカ15:11~24

 今日の箇所は、「放蕩息子」のたとえとして知られている。主イエスの語られた最高のたとえ話だ。神の愛とは何かをドラマチックに教えてくれる。

1、あこがあれて

 たとえ話に登場する弟は、目もくらむ遺産を生前贈与の形で手にし、遠い国に旅立った。この息子は、人が望む3つの願いをすべて獲得した。人が望むものとは、自由、お金、欲望の3つだ。自由とは、親や地域社会の束縛からの自由、何をしてもいい自由のことだ。お金は、自分の願いをかなえる手段。欲望とは、セックス、麻薬、宴会騒ぎなどの快楽を指す。

 「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」(13節)

 「欲望自動販売機」というものを想像してほしい。もちろんこれは私の想像の産物にすぎない。コインを入れると、願う欲望が満たされる便利なものと思ってほしい。ただし、人間の尊厳というコインを入れないと商品は出てこない。たとえば、親の愛を踏みにじるというコインを入れて初めて、好き勝手な自由が手に入る。妻の信頼と家庭の団欒というコインを入れるなら、浮気という快楽が手に入る。自分の脳の破壊というコインを入れれば、覚せい剤が出てくる、というわけだ。多くの人は、自分の尊厳と家族の平和を犠牲にして欲望を追求する。

 弟息子は、あっという間に財産を使い切り、気がつくと飢饉にみまわれ、豚の飼育係に身をやつした。あなたは、放蕩息子と似ているだろうか。

2、我に帰る

 「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して積みを犯し、またあなたの前に罪を犯しました。(18節)

 弟息子は、どん底で、我に帰った。自由を求めていたが、結局は奴隷になっていた。靴を履いていないことから、彼が奴隷の身分だと分る。(22節)大金に喜んでいた彼は、湯水のように使ったため食事もできないほど貧しくなった。快楽に酔ったはずだが、孤独、空しさ、みじめさしか残らなかった。

 やっとここで、気づいた。孤独、空しさ、みじめさの原因は、自分の罪にあったと。父のもとに帰ると決心するが、息子として戻る資格がないことを正直に認めた。

3、走り寄る

 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)

 帰ってきた息子を最初に見つけたのは、父親だった。父は、走り寄って、次男を抱きしめ、口づけした。息子が自分の罪を告白したから、息子を抱きしめたのではない。父は息子が謝る前に、ボロをまとった息子を抱きしめていた。この常識はずれの父の姿は、何を意味しているのだろう。これが神の愛だと教えている。

 神の愛とは、“As is”の愛だ。アメリカで、不動産を売買する際によく“As is”という表現を使う。それは、<現状通り、傷あり、難あり、汚れアリ、保証なし、無条件受け入れ、修理が必要>という意味だ。神は、他人がまゆをしかめるようなあなたをそのままで受け入れてくれる。これが神の愛だ。
 あなたは今、神に愛されている。

◆あなたの番です。
1、まだクリスチャンでない人は、神の愛に気づいてほしい。あなたは、神に無条件に受け入れられている。あなたの罪を悔い改め、イエスさまを救い主として信じよう。

2、クリスチャンのあなたは、身近な人に行動で愛をあらわそう。
 哲学者のアリストテレスは、興味深いことを言っている。建築家は家を建築することによって建築家になり、ハープ奏者はハープを演奏することによって音楽家になる。彼の言いたいことはこうだ。<正しい人>というのは、頭で正しい事を考える人ではなく、行動で正しさを表すことだ。そこで、私はあなたに言いたい。あなたも、<愛の人>になろう。つまり、身近な人に愛が伝わるように、愛を具体的にあらわそう。

奉献式の喜び ネヘミヤ12:31~43

 城壁工事が完成し、いよいよ奉献式当日を迎えた。ネヘミヤは、晴れ晴れとした歓喜と充実感、そして神を賛美する心であふれていたことだろう。今日でネヘミヤ記の学びは終了する。


1、ユダヤ人の信仰を再建したネヘミヤ

 日本の高校で3年間運動部で活動した人は、運動技術だけでなく、根性、努力、忍耐など形に見えないものを身に着けている。アメリカでいえば、4年間マーチングバンドで活躍した人たちもやはり心の筋肉が付いている。

 ネヘミヤ記全体を概観してみると、同じようなことに気づく。ネヘミヤが再建したのは、建物としての城壁だけでなく、ユダヤ人の信仰そのものの再構築であったことが。神を信じて生きる具体的な生活を復活させた。

 以下の箇所見ると分かるが、ネヘミヤがユダヤ人の内面性の向上に大きなエネルギーを使っている。
7章でネヘミヤは、神殿で仕える祭司らの身分確認を行った。正当な系図を持っていない場合は祭司として認めなかった。
9章では、ユダヤ人が大挙して集まり罪の悔い改めをしたことが書かれている。聖書の朗読に耳を傾け、祖先の罪を思い起こし、自分たちの罪を悔い改めた。
10章は、悔い改めた民が、律法を守ると誓約する内容となっている。安息日を厳守する。安息日には商売しない。偶像礼拝を行う外国人とは結婚しない。3つの祭りを守るなど。
11章は、町の指導者、祭司、レビ人などの役割分担や組織の確認。
13章は、城壁完成後の後日談で、何年もたつうちに発生した腐敗や問題に対してネヘミヤが下した処分。城壁妨害の首謀者と懇意になった祭司らの処分。レビ人への給料未払い問題の解決。安息日商売禁止と外国人との結婚禁止の徹底など。

 人々は、今、神に従いたいと願っている。先祖が犯した失敗を繰り返したくないと思っている。ネヘミヤは、目に見える城壁と、内面の城壁の両方を再建したのだ。


2、人々に喜びの賛美を与えたネヘミヤ

 まだ、神を信じていない人が教会に来るようになって、その人がプロの音楽家だと分かると、礼拝で演奏してくださいと頼む人がいるが、私はきっぱりそれに反対する。音楽ができるから、賛美ができるわけではない。学校教師が教会に初めて来て、信仰を持たないのに、来週の礼拝で説教してくださいと依頼することと、同じことなのだ。

 ネヘミヤは、レビ人を探し集めた。(27節)レビ人は、神殿の働きの補助的な仕事や神殿の警備、そして主には賛美の仕事をしていた。歌うたいのレビ人、楽器を演奏できるレビ人があちこちからエルサレムに連れて来られた。聖書に登場する楽器は最低でも22種類はあると言われている。

 30節にあるように、彼らは、自らをきよめた。賛美するにふさわしい心を主の前で整えた。ここが、通常の音楽家と根本的に違うところだ。
賛美する人は、自分の心を置き去りにして、歌うことができない。誰かに対して怒っていたら、神への賛美はできない。神から心が離れたままなら、人々の心から賛美を引き出すことはできない。まず、賛美をリードする人が悔い改める。ゆるす。謙虚さを持つ。信仰に立つことが必要だ。

 私が日本で牧会をしていたとき、礼拝で素晴らしい奏楽奉仕をしてくれた女性がいた。聞くと、彼女は一つの助言を受けて、奏楽の仕方を変えたという。ある礼拝で彼女が奏楽したが、ゲストとして出席した一人の中年男性が、礼拝後に彼女に尋ねたという。「あなたは、礼拝の奏楽をするとき、自分自身も賛美歌を声に出して歌いますか」「いいえ」「私も奏楽をしているが、必ず、声に出して賛美歌を歌います。練習もそうします。本番も声に出して歌います。あなたは素晴らしい奏楽をするから、これからは、声に出して賛美してください」これが、きっかけになって、奏楽スタイルが変わったという。

 12章31節、「そこで私は、ユダのつかさたちを城壁の上に上らせ、二つの大きな聖歌隊を編成した。一組は城壁の上を右のほうに糞の門に向かって進んだ。」

 ネヘミヤは、聖歌隊を2つに分け、完成した城壁の上を賛美しながら行進させた。祭司エズラが先頭に立つグループは、城壁の西側から南を回り、東部へと向かった。
 もう一隊は、ネヘミヤを中心として同じ出発点から時計回りに北方向を回り、神殿がある東側に向かった。二体は、民が集まっていた神殿の広場で合流し(40節)、高らかに主を賛美した。人々は、その賛美リードに合わせ、主に喜び歌った。

 「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(43)

 こうしてネヘミヤは、人々に賛美の心をよみがえらせた。

 ユダヤ人が神を喜んでいることが、エルサレム周囲の人々にまで知れ渡った。これは、すばらしい伝道だ。使徒2章46、47節にも、初代クリスチャンが賛美と喜びを持っていたことが分かり、それを見て周囲の人が好意を持ったことが記録されている。

3、私たちの“再建”を励ますネヘミヤ

 あなたの“城壁”は何ですか。

 私は自分が猛烈に教会のために働いていた30歳代の頃を、後悔と恥ずかしさを抱きながら思い出す。教会外の働きや、海外宣教委員長としても重責があり、ストレスと過労がひどかった。そのため、遠くで会議をしてきた夜など、駅に迎えに来てくれた妻に対して、助手席に乗り込んでもありがとうの一言も言えない愚か者だった。言わなくても当然と思っていた。俺のほうが大変で、一生懸命働いている、と合理化していた。
 こういう状態は、“城壁”が崩れていても気づかない状態だといってもいい。教会の人のためなら何でもする用意があったが、妻の話を親身になって聞く心さえ持ち合わせていなかった。

 あなたの“城壁”は、何でしょう。
あなたの、家庭でいうなら、家族団らんが持てることが、あなたの“城壁”かもしれない。傾いた事業を立て直すことが、“城壁”かもしれない。こわれた人間関係が、“城壁”でもある。あなたは、再建できると信じますか。

 城壁再建の物語は最初、小さく始まった。ネヘミヤがたった一人で泣きながら祈ったことに端を発している。あの麗しの神の都が廃墟となって100年以上たっているのに、瓦礫の山のままだという。エルサレムから直線距離で1000キロ以上離れた異国にいたネヘミヤに、何ができただろう。
けれども、目から流れ落ちた涙一滴一滴が、やがて信仰の小川となって集まり、それが山をも削るほどの大河となって流れ始めた。

 2章12節「私の神が、私の心を動かし」とある。ネヘミヤの情熱や野望ではなく、神がネヘミヤを動かされた。それが、落胆したユダヤ人に希望を与えた。敵の攻撃や中傷がどんなに激しくなっても、槍を片手に工事を続け、ついに完成に導いた。粘り強くなった人々。神の言葉を求めるようになった人々。生活面でも、信仰姿勢を貫き始めた人々。エルサレムの人々は、もはやかつての人とは違う人となった。

 あなたもネヘミヤになれる。今は涙でも、奉献式喜びの歌声と笑顔を必ず経験できる。あなたは、それを、信じますか。

 「女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」

悲しんではならない ネヘミヤ8:1~12

 ネヘミヤは、エルサレムの城壁をわずか52日間の工事で完成させた。紀元前445年のことである。
 

1、神の言葉を求める心

 人々は神の言葉を強烈に求め、「律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」(1節)

 ネヘミヤは城壁を再建するために帰って来たが、同時に、ユダヤ人の信仰を立て直すために来たと私には思えてならない。人々は神の言葉を自発的に求めた。

 私は高校3年ごろから教会に通い始めたが、教会の高校生の温かさや明るさに心底驚いた。彼らの心の中には神の言葉があったのだと気づくには時間がかかった。

 「夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」(3節)
 
 人々は約6時間、聖書の言葉に耳を傾け、律法学者やレビ人の説明を熱心に聞いた。神の言葉を求める心が、すべての出発点といえる。

2、心砕かれる礼拝   

 祭司エズラが神をたたえ、祈り始めた。すると人々は、一斉にひれ伏した。1人の真実な礼拝者、エズラが、大勢の礼拝者の心を神に向けました。一人の真実な礼拝者は、教会全体が祝福される導火線になる。
 
 「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」(6節)

 オセロゲームで勝ちたければ、四隅を取ることだ。そこを押さえれば、周囲は同じ色に変わっていく。一人の真実な礼拝者がいれば、礼拝の雰囲気は変わる。そして、家族が、社会が変わっていく。
アメリカの歴史には、大覚醒と呼ばれる出来事が何回か起きている。ジョナサン・エドワーズによるリバイバルはその中でも一番有名だ。エドワーズ牧師は、聖書が淡々と解き明かした。すると、人々は、自分の魂の救いについて強い求めを持ち、多くの人が信仰を持っていった。なまぬるい信仰から、生き生きした信仰に変わっていった。

 神の言葉に飢え渇いて礼拝に来るなら、必ず大きな恵みを受ける。真実な礼拝は、時に私たちの心を砕くことがある。生きている神が、私の罪をはっきり指摘することがある。
 「民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」(9節)

 人々は、聖書の朗読を聞いているうちに、なぜ、エルサレムが崩壊したのか分った。先祖たちが神を離れ、罪を犯したからだ。自分自身の罪の汚れにも気づいた。心の深いうなずきは、悔い改めの涙として結晶した。


3、神を喜ぶことが私たちの力

 「悲しんではならない。泣いてはならない。」(9節)
ネヘミヤは、人々に語りかけた。自分の罪に泣くだけで終わってはならない、神を喜べと。
どんなに深い罪であっても、主の手が届かない罪はない。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

 「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」(口語訳)
 「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源だ。」(新共同訳)
  “For the joy of the Lord is your strength” (NIV)

 我々はどんな時に喜ぶだろうか。多くの場合、どこからか転がり込んできたプレゼントのような幸運を喜びと理解している。だから、苦しみの時には喜べない。自分の貧しさや弱さに気づくと喜べない。けれどもネヘミヤは、根源的な幸せの秘訣を教えた。神を喜ぶこと、それ自体が力になると。
心から賛美するとき、私たちは幸福で満たされる。それは、心から神を喜んでいるからだ。神を喜ぶ賛美をささげよう。神を喜ぶ祈りをささげよう。神を喜ぶ心と言葉が、我々を強くする。


●あなたの番です
 真のリーダーは、人々の信仰を立て上げることに焦点を当てる。
また、神の言葉を求めるようになり、礼拝する後ろ姿で人々に影響を与える。

 目立つ人にならなくていい。神に感動する人になればいい。
笑いを取る人になる必要はない。神を喜ぶ人になればいい。

城壁完成 ネヘミヤ6:1~19

 城壁完成まで、あとわずかと迫った。慌てたトビヤとサヌバラテは、最後の妨害工作に打って出た。最初彼らは、ネヘミヤを暗殺しようとした。

1、指導者に必要なのは、洞察力 

 サヌバラテらは、もっともらしい会見理由を持ち出し、会見場所を準備した。ネヘミヤは、暗殺計画だと見抜いて、応じなかった。ここに、洞察力が働いていることが分る。
 サヌバラテらは、開封の手紙を持って行かせた。その手紙には、ネヘミヤがアルタシャスタ王への反逆を画策しているとの虚偽の情報が書かれてあった。ネヘミヤは、こうした作戦に踊らされることはなかった。

 指導者に必要なのは、洞察力だ。問題の本質がどこにあるか、見抜く力が必要だ。罠や誘惑を見抜く力が不可欠だ。

 ネヘミヤは、神に祈った。「ああ、今、私を力づけてください。」(9節)

 祈りが、洞察力を与えてくれる。何か変だな、その理由が分らない、という時は、祈ることだ。祈りの中で大切なものが見えてくる。

 ジョン・ウェスレーの書斎が今も残っている。質素な机や祈りの場所が今も見ることができる。毎朝4時から祈った祈ったと言われているが、多くの人々を救いに導き、イギリスを変えた原動力は祈りにある。写真で見ただけでも、ウェスレーの熱い祈りが伝わってくる。私たちも祈ろう。洞察力を求めて。

2、指導者が持つべきものは、勇気

 暗殺計画が失敗すると、サヌバラテたちはネヘミヤが失脚するように画策した。買収された預言者シェマヤは、ネヘミヤに緊急事態を装って神殿に逃げ込むように声をかけた。親切そうな誘いだった。祭司しか入れない場所にネヘミヤが入れば、後にユダヤ人から批判の声が上がり、指導者失格になることを計算の上の策略だ。殺さなくても、失脚させれば、効果は同じだった。
 ネヘミヤは、こう言った。
 「私のような者が、逃げてよいものか。」(11節)

 ネヘミヤは、ぎりぎりの状況で、罠を見破り、踏みとどまった。
「わが神よ。……忘れないでください。」(14節)と神に祈った。

 ネヘミヤは、自分の名前が歴史に残ることを願わなかった。その代わり、神に覚えられることを願った。ここにネヘミヤの優れた視点がある。

 私が20年以上牧師をしながら多くのクリスチャンを見てきたが、信仰者にとって大切な要素は勇気だ。祝福されたクリスチャン生涯を送る人は、例外なく勇気を持っている。
 愛す勇気。止める勇気。あやまる勇気。始める勇気。主イエスを伝える勇気。信仰をあかしする勇気。正義を行う勇気。人を助ける勇気。
 あなたには勇気があるだろうか。「私のような者が、逃げてよいものか」

 日本で出会ったあるクリスチャン弁護士は、暴力団事務所の移転を求める住民訴訟を引き受けていた。自宅の前に警察官が警備のため立っているという。彼の周囲には静かな勇気が漂っていた。

 イギリスの偉大な政治家チャーチルは言っている。家財を失うのはわずかなことだ。名誉を失うことは多くを失うことだ。しかし、勇気を失うのはすべてを失うことだ。

3、神の栄光を仰ぎ見るために 

 本当の成功は、誰か個人がほめ称えられることではない。神の栄光がたたえられることだ。
 100年間放置されていた城壁がわずか52日で完成した。ネヘミヤの指導力が並外れていたことは明らかだ。しかし、完成したときネヘミヤへの賞賛の言葉など記録されていない。人々は以下のように認識した。

 「この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである」(16節)

 そうです、私たちの神によって事は為るのです。神のために生きる人は、このように神の栄光を見ることができる。

 ある日本人クリスチャンは日本で電車に乗っていた時、酒に酔ったヤクザ2人が若い女性にからんでいる場面に出会った。誰も助けない。祈った。すると、智恵が与えられた。電車が駅に止まる直前に、弱い者いじめはやめろと大声を出した。注意が男性に向いたときに女性は駅を降りた。自分も降りた。ヤクザは後を追いかけようとしたが、ドアが丁度良く閉まった。
 
 あなたの番です。
問題の本質は何か、見極めるられるように、祈ろう
神に祈って、勇気をもらおう。
神だけに認めてもらえる生き方をしよう。

十分考えた上で ネヘミヤ5:1~19

 落胆していたエルサレムの人々にビジョンを与え、城壁建設プロジェクトを具体化して多くの人の協力を取り付けたネヘミヤは類まれなるリーダーである。敵の脅しにも屈することなく、片手に槍を持ち工事を継続、工事は順調に見えた。
 だが、次の難問は内側から噴出した。貧しい人々も建設工事に協力していたが、日銭が稼げず、生活に困窮してしまった。彼らの話によれば、借金の担保に畑を渡した者がおり、人によっては担保物権も底をつき、息子や娘を奴隷として人手に取られた者たちもいた。(1~5節)彼はは、問題の持っていき場所がなく、途方に暮れていた。
 ネヘミヤはこれを聞いて怒った。そして、十分に考えた上で行動に移した。

1、判断力

 ネヘミヤは、たとえ自分を支援してくれる有力者であっても、彼らを恐れずに批判した。(7~8節)自分を支持する金持ちを優遇するのが政治家の常だが、ネヘミヤは違う。金持ちで権力を持つ人々の問題点をはっきりと指摘した。ネヘミヤには、信仰を土台にした判断力があった。
 同胞のユダヤ人に高い利息を付けて金を貸したり、借金が返せないときに畑を奪ったり、子供たちを奴隷として労働させることは聖書に照らして許されないと断じた。(→出エジプト22:25、申命記23:19)

2、実行力

 神だけを恐れ人を恐れないネヘミヤは、ユダヤ人の金持ちに行動をうながした。現状を変革するには行動が必要だ。ネヘミヤは、畑を返せ、利子を返せ、と富裕層に迫った。(9~11節)

 「私たちは神を恐れて歩むべきではないか。」(9節)

 力を出して城壁工事に協力する事は共に生きる道だ。持てる富を捨てることもまた共に生きる道でもある。失うことは、実は新たな価値を生む。
 ネヘミヤは、このようにして、損をする道を選ぶように有力者に勧めた。それが神の心であると説いた。犠牲を呼びかけることができる指導者、これもまたネヘミヤのリーダーたるゆえんだ。

 申命記15:1には「ヨベルの年」という負債免除制度が記されている。7年に一度、貧しい人々が再出発できるチャンスがあった。その年、借金がゼロになる。こうした神の考え方がネヘミヤの行動を後押ししているのだろう。

3、模範

 借金や利息を免除し、担保物権を返したり、奴隷を解放することは、経済的損失を意味したが、ネヘミヤは自らが、その先頭に立った。(10節)また、指導者としての生活でも、ネヘミヤはユダヤ総督としての給与を受け取らなかった。(14節)

 有力者らは、ネヘミヤの言葉を聞いたとき最初、沈黙した。(8節)その次には、ネヘミヤの言葉を受け入れ、「私たちは返します」(12節)と自分たちの権利を放棄し、利子や畑、奴隷を返した。最後には、神の前で今後の姿勢を誓い、アーメンと言って「主をほめたたえた」(13節)。内部分裂の危機が、主への賛美と姿を変えてみごとに解決した。

 UCLAの男子バスケットボールチームを全国で10回優勝させたジョン・ウッデン氏は、伝説的な監督だ。目先の勝利ではなく、人格教育を重んじ、選手が自分のベストを出せることを目標にかかげた。ウッデン監督は言う、失敗することはあるが、自分の過ちを人のせいにするまでは本当の失敗とはいえない、と。仲間のミスを責めることによってはチームに亀裂が生じるが、自分のベストに専念し、同僚のミスをカバーするような心は勝利を呼び込む。

 ネヘミヤは、危機を乗り越え、城壁完成へとまた一歩近づけた。

 私たちも以下のように神に求めよう。
正しく物事を見極める判断力を与えてください。
人を恐れず、神を恐れて行動できるように。
私自身が、まず模範になれるように。

槍を手にして ネヘミヤ4:15~23

1、優先順位

 ネヘミヤは、何が最も大切な事か知っていた。揺るがない目的を持っていた。敵の悪口に振り回されても、悲観的な意見が沸き起こっても、微動だにしなかった。その目的を遂行するための優先順位をしっかりと持っていた。ここにネヘミヤの強さがある。
 人々は作業に戻った。リーダーが最も大切なもの逸れなければ、周囲の人々は落ち着いて為すべき事に集中できる。目標を掲げたら、達成するための優先順位をしっかりと堅持しよう。

「私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。」(15節)


2、ファイティング・スピリット

 敵の妨害を受けて以来ネヘミヤは、もしもの場合に備えて万全な対策を施した。片手に槍、片手で仕事という厳しい作業を人々に課した。「こんなに大変なら、もうやめよう」という弱気な発言はあったはずだ。けれどもネヘミヤは投げ出さなかった。彼は、戦う心を持っていた。ときに私たちは、この戦う心が必要なときがある。
 あなたの人生で、今が戦う時かもしれない。逃げるな。あわてるな。しっかり戦え。

 「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。」(17節)


3、神の戦い

 人々は、神のため、家族のため戦うと心に決めた。(14節)注意深くネヘミヤの言葉を読んでみよう。戦うのは私たちではなく、実は神ご自身なのだ。

 「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(20節)
 
 あなたが戦う心を一旦持ったなら、神が先に立って進んでくださる。神が戦ってくださる。

 英語のことわざで以下のようなものがある。
<船は港にいる限り安全だ。けれども、船はそのために作られたのではない。>

 あなたは安全地帯に隠れるために造られたのではない。たとえ荒波であっても、そこを乗り越えて神の栄光のため、人々を愛すため、真の勝利を得るため、主と共に、戦おう。

 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

ちりあくたの山 ネヘミヤ4:1~14

 今日は3種類の人々についてお話します。ぶち壊し屋、悲観屋、励ます者についてです。

1、ぶち壊し屋

 ホロン人サヌバラテとアモン人トビヤは城壁再建工事を憤り、悪口を投げつけた。
「一日で仕上げようとするのか。」(2節)
「一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」(3節)
 ぶち壊し屋の武器は、悪口、皮肉、否定的な言葉だ。痛烈な言葉で有名な評論家は多くいるが、評論家になるのは簡単だ。「全然なってない。いろはのイも知らない」と言い捨てれば立派な評論家になれる。口だけの評論家より、泥まみれになり、汗をかいて、失敗したとしても、私はフィールドで戦う一人になりたい。ところで、あなたはぶち壊し屋ですか。
 
 ネヘミヤはぶち壊し屋の攻撃にどう対処しただろう。「45度の祈り」で攻撃をかわした。「45度の祈り」とは私の造語だが、4~5節の祈りのことだ。悪口やあざけりの言葉が来たときは議論をしないことだ。その悪口を45度で反射し、垂直方向に向け、神に聞いていただけばいい。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。」(4節)これが悪口に対する正しい対処法だ。

2、悲観屋

 城壁工事をしていた人たちに徐々に疲労が出てきた。ぶち壊し屋の「口撃」に弱音をはいてしまった。
 「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」(10節)
 城壁は半分の高さまでになった(6節)が、<まだ半分>と作業する人々はサヌバラテらの悪口や陰謀のうわさに意気消沈した。脅迫を恐れて、最悪の事だけを想定した。
 悲観屋とは、すぐにダメだと言う人だ。物事を悲観的にしか考えない。できないと思い込む。
ところで、あなたは悲観屋ですか。
 
 悲観的な意見に立ち向かう方法は9節にある。これを私は「両手の祈り」と呼ぶ。「しかし、私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」(9節)一方の手では、神に祈り、もう一方の手では、自分にできる最善をする。神に完全にゆだねよう。その上で、昼夜見張りする姿勢を取ろう。よく考えるなら、祈りこそ本当の見張りだ。

 神は、石の城壁と木の門の完成を願っているのだろうか。それとも、ユダヤ人の心を立て直すことに関心があるのだろうか。神は、私たちの心の城壁を築き直したと考えておられる。

 イエス・キリストは悲観的な人ではなかった。求めなさいと言われた。たたきなさいといわれた。パウロも、私を強くしてくださる方によってどんな事でもできると言った。

3、励ます者

 サヌバラテらの脅迫や揺さぶりに負けた人々は、男たちに自宅に帰ってきてほしいと願いでたが、ネヘミヤは、実際的な対抗策を打ち出した。
 「そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の空き地に、剣や槍や弓を持たせて配置した。」(13節)
 ネヘミヤは、悲観屋を励まし、神に目を向けさせた。
 「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(14節)

 ロサンゼルス東部のガーフィールド高校はギャング18団体が学内で闊歩するという最悪の学校だった。そこに赴任したJaime Escalante教諭は、あまりの退廃ぶりに何度も止めようとしたが、自分にできる範囲で学生たちを励まそうと努力を始めた。それは、APテストに合格させ、高校にいながら大学レベルの勉強をさせようという試みだった。難しい微分積分を放課後などに熱心に教え、やっと2人が合格した。その後、合格者を徐々に増やしていった。1981年、14人が合格し、喜んだところ、答案に類似点があることからカンニングの疑いがかかった。抗議も通じず、生徒たちも落胆、Escalante教諭の努力もこれで終わりかと思われた。数学の追加勉強もできない夏休みが過ぎてから追試験が実施されたが、14人はみごと全員合格、信頼を一気に取り戻した。それだけで終わらなかった。これに刺激された他の先生も自分の専門分野でAPレベルの勉強を教えるようになり、学校が見事に再生された。この実話は映画にもなっている。

 今日からあなたも励ます者になろう。家族の誰かを励まそう。友達に勇気を与えよう。職場の同僚を応援しよう。教会の仲間の悩みを聞き祈り支えよう。そして世界を励ます者になろう。主イエスを信じている人は、間違いなく、日本人コミュニティーのリーダーだ。ネヘミヤのような心で身近な人を励まそう。

 励ます者になるためのヒントをいくつか紹介する。これなら、今日から実行できる。
  ・相手の良い所を心から褒める
  ・実行可能な助言をする
  ・自分ができる援助や犠牲をおしまない
  ・時には手を貸さず、自立するのを信じて待つ
  ・祈りで援護射撃する
  ・みことばを分かち合う
  ・愛を伝える
・一緒に食べて、大笑いする
 
 もうぶち壊し屋は卒業しよう。悲観屋もやめよう。神が望むような、前向きで、お互いに励まし合う生き方を選ぼう。あなたならできる。主が共におられるから。

作業する人々 ネヘミヤ3:1~32

 シリーズ「指導者ネヘミヤ」の第4回。今日は、指導者についていく人々に焦点を当てる。
 Leadershipはfollowershipによって実現する。ついていく人がいなければ、リーダーシップは機能しない。

 アメリカ育ちの若い方が、「あなたの名前はカナイというのか」と私の妻に尋ねた。私がメッセージで「家内」と言うからだろう。妻の名はカナイではなく、洋子だ。私がどこに遣わされても喜んでついてきてくれる。あなたの行くとこなら、どこでもついて行きますと言ってくれる。本当にすばらしいfollowerだ。

 ネヘミヤ記3章は、大勢の人々が城壁再建のために作業をしている様子が描かれている。ハンマーの音、のこぎりの音、柱を立てる時の掛け声など、作業する人の発する声があちこちで聞こえるようだ。彼らはリーダーであるネヘミヤの声に喜んで従っている。

 一つのグループには、20-60-20の法則が成り立つという。つまり、指導者に大賛成でついていく20%の人がいて、その逆に反対する人が20%、残りの60%は様子を見てついていくという。ネヘミヤの提案は95%近くの支持を取り付けて作業が始まった。多くの人が一生懸命働いていることが分かる。その中でも、ちょっと目につく6種類の人を取り上げよう。

1、大祭司のよき模範(1節)
 大祭司エルヤシブがまず作業するリストに挙げられ、良き模範を示している。ただし、大祭司エルヤシブの孫はネヘミヤの宿敵サヌバラテの娘婿(13:28)になる。さらに、13章4節のエルヤシブが大祭司のことなら、宿敵の一人トビヤと懇意にしていることになる。もし、そうであるなら、大祭司エルヤシブはネヘミヤの反対者になりうる人物だ。その大祭司エルヤシブを表面的であれ、作業の一員として引き出したネヘミヤの功績は見事だ。

2、協力しない人(5節)
 テコアの人々の一部は、作業に協力しなかった。非協力的な人々は彼らだけだった。ネヘミヤを支持する人々が圧倒的多数であることが分かる。ネヘミヤは、反対した人の名前をあえて記録しなかった。ここにネヘミヤの指導者としての資質を見る。

3、金細工人の努力(8節)
 金細工人ウジエルと香料作りのハナヌヤが修理している。手先が器用で芸術的職人のウジエルが大工仕事に携わった。ハナヌヤも同様だ。専門職の気位の高い人々が専門外の分野で主のためにと頑張っている。神が求めているのは私たちのabilityではなく、availabilityだ。つまり。能力以上に大切なのは、神のために自分を差し出す用意があるかどうかだ。

4、家の前を修理する人たち(10節)
 エダヤは自分の家に面した場所の城壁修復作業を行った。23、29節にも同様な人々がいる。30節には、自分の部屋の面している所だけ修理したメシュラムがいる。城壁に直接面した家をルーム・シェアしているのか。でも、これでいい。自分が一番関心ある場所を丁重に修理できる。エルサレムの城壁を一人で修理することはできないが、自分の担当を完了しさえすれば、全体の工事が終わるのだ。

5、家族の力、女たちの力(12節)
 シャルムには息子がいなかったようだ。それで、娘たちが工事に協力した。あっぱれな娘たちだ。娘たちもabilityにはなく、availabilityに目を留めている。

6、熱心なバルク(20節)
 バルクは「熱心に修理した」とある。3章全体を読めば、作業に関わった全員が一生懸命にしたことが伝わってくる。その中でも、「熱心に」と記録している事から、特別丁重に、落ち度なく、念入りに作業したことが分かる。

 ビゴー・オルソン宣教師(Dr. Viggo Olsen)は、1960~70年代を中心にバングラデッシュで医療伝道を行い、現地のイスラムの人々からも多大な尊敬を受けた人だ。ネヘミヤ3章を読んでオルソン宣教師は深い示唆を受けたという。これらの人々は普通の人だ。プロの大工は一人もいない。それなに、城壁再建工事ができた。それをヒントにして、バングラデッシュの人々と共に多くの家の建築プロジェクトを進めた。

 ネヘミヤは忠実で熱心で個性的なフォロアーを得た。それゆえ、ネヘミヤのリーダーシップは効果を発揮することができた。

 同じように神は、ご自身について来る人(フォロアー)を求めておられる。家庭で、教会で、職場で、主のフォロアーになろう。忠実なフォロアーになろう。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)

 あなたにとって城壁とは何だろう。箴言25章には、自制心のない状態を城壁のない町にたとえている。もし、罪に負けているなら、あなたの城壁は崩れている。

 「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」(箴言25:28)

 あなた自身の城壁も立て直そう。主イエスをリーダーとして、あなたがネヘミヤ3章の人々になって、ついていけばいい。良いfollowerになろう。

再建に取り掛かろう ネヘミヤ2:9~20

 シリーズ「指導者ネヘミヤ」の第3回。リーダーシップとは何だろう。一番簡潔な説明は、影響力だ。ネヘミヤは文字通り、人々に大きな影響を与えた指導者だ。

1、夢を掲げること I have a dream.

 ネヘミヤは旅の疲れを取ると、夜間にエルサレムの城壁の南から東の部分を視察した。恐らく、北部から都入りをし、西部方面に宿舎があったので、南部と東部の視察が必要だったのだろう。最終的な実況見分を終え、ネヘミヤはついにユダヤ人指導者らに夢を語った。
 「あなたがたは、私たちが直面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼きは払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」(17節)
 1963年8月28日、約20万人の黒人らが人権回復を求めワシントンへ大行進を行ったが、マーティン・ルーサー・キング牧師はその際にI have a dream.と呼ばれる有名な演説をして多くの人々の心に希望を与えた。
 ネヘミヤも人々に夢を語った。リーダーシップとは夢を掲げることだ。自分の夢ではない、神の夢を語るのが真に霊的なリーダーだ。12節に「私の神が、私の心を動かし……」と書いてあるが、ネヘミヤの夢は神が与えた夢だった。
 第二次世界大戦後アメリカ生まれの日系二世が荒廃した東京に乗り込んで、町を再建しようと叫んでも、日本人は冷ややかな反応をしただろう。ネヘミヤの場合も、ペルシャかぶれの変なユダヤ人に命令されたくない、と冷遇されてもおかしくなかった。真摯な祈りが神に届き、マイナス要素の多い中でもネヘミヤは夢を伝達することができた。
 ジョン・マクスウェルはアメリカの企業家やリーダーたちのメンターと呼ばれるリーダーシップの権威だ。その彼は20年以上牧師をしてきた人物で、彼のリーダーシップ理論の土台は聖書だと言っても過言でない。聖書のリーダーシップは、政治でも経済でもどんな分野でも活用できる真理だ。
 神の夢はあなたにとって何だろう。神の夢を受け止めた人には、神の力がみなぎる。第2歴代16:9「その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」


2、影響力を与えること Let's roll!

 2001年9月11日、同時多発テロでユナイテッド93便はハイジャックされた。乗客らは世界貿易センタービルで何が起きたかを知り、自分たちの飛行機も大量殺害の道具となることを知った。戦うべきだと誰かが言ったのだろう。そして、男性乗客らは決意を固めた。午前9時55分、トッド・ビーマーは、「Let's Roll(さあやろうぜ)」と叫んで仲間と共にコックピットを目指して突入し、さらなる惨事を防いだ。

 リーダーシップとは他者に影響を与えることだ。ネヘミヤは、再建の必要性、神の御手、王の許可などを人々に詳細に伝えた。希望は人々にこだまして、再建の機運が盛り上がった。聖書の言葉に注目しよう。ネヘミヤの言葉はユダヤ人の言葉になっていた。
 「そこで彼らは、『さあ、再建に取りかかろう』と言って、この良い仕事に着手した。」(18節)

3、あきらめないこと He can do it.

 主のために働こうとするとき、また、良い事に着手する時に必ず反発が起こる。サヌバラテ、トビヤ、ゲシェム(10、19節)は、ネヘミヤの敵対者になった地方役人だ。ネヘミヤは、敵からの影響力を阻止した。反対に動じないのは、信念の強さでなく、神を見上げているからできる。
「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。」(20節)
 1970年4月11日、アポロ13号は月を目指していたが、酸素ボンベが爆発、3人の宇宙飛行士が生き残れる道を閉ざされた。月着陸船に酸素があることに気づき一同が乗り移り、寒さと暗闇と息苦しい船内で4日間耐え、奇跡的な生還を果たした。Jamese Lavell船長は、後に以下のように語ったという。どんなときでも決してあきらめてはいけない。神を信じ、神のうちに夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にある。

 リーダーシップの話は、あなたには関係ない事ですか。こんな商売方法ではもうからないと気づいているなら、あなたは売り場のリーダーになる可能性があります。こうしたらチームは強くなれると思っているなら、あなたもコーチ候補者です。あなたが家庭にたった一人のクリスチャンなら、あなたがリーダーです。聖書を学ぶグループがあったらいいのになと思うなら、あなたがスモールグループを始めればいいのです。

 主イエスは12弟子を選び指導者として育てました。弟子たちは120人のクリスチャンのリーダーになりました。(使徒1:15)その120人はペンテコステで救われた3000人のリーダーとなったはずです。(使徒2:41)神は今もリーダーを求めています。

 あなたも、自分自身を主にささげ、主に喜ばれるリーダーになりましょう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」(マルコ8:34)

天の神に祈る ネヘミヤ2:1~8

 「指導者ネヘミヤ」シリーズ第2回は、リーダーの最も大切な資質について考える。

 ネヘミヤはアルタシャスタ王の側近の献酌官として仕えていたが、ある日、王に顔色が悪いと指摘された。それを機会にユダヤ人の都エルサレムが廃墟となっている事がネヘミヤの憂いの原因であると告げた。
王は、「では、あなたは何を望むのか」(4節)と尋ねた。数ヶ月祈り続けたチャンスが到来した。今だ。ネヘミヤは瞬間的に祈った。「そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。」(4~5節)
ネヘミヤの提案を受け入れた後、王は詳細な質問してきたが、ネヘミヤはそのすべてに的確に答えるだけでなく、工事実施に必要な王の許認可をその場で求めた。(6~8節)
 ネヘミヤは、大胆であり、緻密な人だった。ひざまずいて祈る人であり、行動の人だった。その中でも目を引く指導者としての資質は、一番大切なものを見分ける能力だ。今日は、このポイントを考えてみたい。

 ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞き、断食して祈る中で考え抜いた。ユダヤ人全体にとって励ましと希望になる行動は何か。神の栄光になることは何か。今の自分の立場と能力を使って奉仕できることは何か。その答えが、エルサレムの城壁の再建だった。これは、現地に住んでいたユダヤ人ですら、不可能とあきらめていた一大事業だった。

 普通の人は、なにげない繰り返しに埋もれて生活している。日常という瓦礫の山にうずもれている。不平は言うが、何も変えようとしない。何も見えていない。けれども、真のリーダーは、なにげない繰り返しの毎日から、問題の本質を切り出す能力を持っている。最も大切な目的や理念を提示し、力とエネルギーを集中できるよう呼びかけることができる。これが、指導者に最も必要な資質だ。

 組織の指導者や企業家たちは、大きくなる方法や流行している方法を追い求めるが、いかにすれば(How to)に注目するのではなく、何のために(For what)に焦点を当てることが大事だ。
何が問題の本質か見極める分析力。物事の骨になる部分を提示できること。それが指導者にとって、最も大切な資質だ。

 日本で牧師をしていたとき隣家が火事になり、私はわずかばかりだが消化の助けをした。後日、消防署から電話があり、表彰したいという。ところが、表彰されたのは近所の男性と家内だけだった。私も家中に散っていた小さな炎を消したのだが、消防署によると、冷静に消防署に連絡し、プロパンガスの元栓を締めた功績から家内が表彰に値するという。本質を突いていたのは家内だった。さすがプロパンガス屋の娘、プロパン爆発事故の惨事を見聞きしていたので、決死の覚悟で元栓を締めたのだろう。

 物事で大事なのは、枝葉ではなく幹だ。粘土細工でいえば、細かい仕上げをする前に、全体の構造を支える骨組みをきちんと作らなければ話にならない。

 骨が大事だ。幹が大事だ。本質が大事だ。目的が大事だ。

 聖書の中には神の命令が多くある。その中でも、神を愛す(マルコ12:30)、人を愛す(マルコ12:31)、福音を伝え弟子を育てる(マタイ28:19~20)などは基本中の基本の命令だ。これを人生の骨とするなら、失敗はない。

 サドルバック教会のリック・ウォレン牧師は、5つの目的を聖書から切り出した。
 1、あなたは神の喜びのために造られた
 2、あなたは神の家族となるために造られた
 3、あなたはキリストのようになるために造られた
 4、あなたは神に仕えるために造られた
 5、あなたは使命のために造られた

 実にみごとな真理の提示だ。同教会は、この5つの目的を骨として掲げ、クリスチャンが各自の賜物や使命に応じてさまざまな形で肉付けし具体的な活動実を行っている。
 
 あなたの人生を貫く目的は何だろう。あなたが所属する教会のミニストリーの目的は何だろう。あなたの仕事の中心は何だろう。以下にそのヒントを挙げた。
 ○あなたの心に響く神の命令とは何か。
 ○神があなたを喜んで応援してくれることは何か。
 ○主イエスが、「あなたを誇りに思う」と言ってくれる事は何か。
 ○あなたにとって悔いのない人生とは何か。
 ○あなたに与えられた賜物は何か。
 
 「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた。」(8節)

ああ、主よ ネヘミヤ1:1~11

 ネヘミヤ記はリーダーシップについてのすぐれた教科書だ。指導者はどう考え、どう行動したらいいか。困難にどう立ち向かったらよいか、仲間の協力を得る方法は、指導者としての自己管理は、など多くの点で示唆を与えてくれる。

序論としてのネヘミヤ記の背景

 イスラエル人は神に逆らい続けた。その結果、国は二つに分裂、北王国はBC722年に滅び、南王国のユダはからくも残った。けれどもBC605年エルサレムの人々はバビロン捕囚として遠く東の地に連れて行かれた。さらに、BC586年にエルサレムはついに滅亡。
バビロンの次に起きたのがペルシャ。クロス王は539年にユダヤ人に対して帰還命令を出した。それを受け、第1陣と第2陣がエルサレムに戻った。ネヘミヤは第3の集団に属する帰還者の一人だ。
 ネヘミヤは、アルタシャスタ1世(アルタクセルクセス王在位BC465~424年)の献酌官であり、やがてエルサレムに戻り城壁再建の指導者になる。なお、エルサレムの城壁が完成したのはBC445年ごろとされる。

1、 廃墟となったエルサレム 

 エルサレムからやって来た人々の話をネヘミヤは聞いた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」(3節)
 困難に直面しているなら、あなたは廃墟にいる。他人から馬鹿にされたり、笑われているなら、あなたは廃墟に住んでいる。城壁や門のない町が町としての基盤を失っているように、職を失ったり、築き上げた名誉を失っているなら、あなたは廃墟に座っている。

2、 すべては祈りから始まる 

 祈りが、暗い闇のカーテンを開く鍵になる。ネヘミヤの祈りを分析してみよう。
①嘆きの祈り(4節)
②悔い改めの祈り(6節)
③神の約束に訴える祈り(9節)→申命記30:1~5
④解決を求める祈り(11節)

 やり直しの第一歩はいつも祈りから始まる。廃墟から立ち上がりたいなら、祈りから始めよう。
 「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、」(4節)とある。困難が大きいとき、「ああ、天の神、主。」(5節)としか祈れない。神の前で注ぎ出すのなら、涙もうめきも立派な祈りになる。
 つらいことがあると人を責め、憎む人がいる。その人は廃墟に住み着いてしまった人だ。ネヘミヤは違う。ユダヤ人の苦難が先祖たちの不信仰に原因があると悟り、先祖を責めるのではなく彼らの罪を自分に引き寄せて罪の告白をした。自分にも非があると、自分の罪を悔い改めた。
さらにネヘミヤは、申命記30:1~5を念頭に神の約束を引き合いに出し、神の助けを求めて祈った。
 

3、私には何が残っているのか

 ネヘミヤがエルサレムの窮状を聞き、どれくらい落ち込んだかは分からない。数日はまともに祈れず、涙とうめきに終始したかもしれない。
その後、祈りが変わり、悔い改めとなり、主の約束に目が向かい、助けを求めるようになるにはかなりの日数が必要だった。けれども、その最後に、祈りの中から大切な自己認識が生まれた。

「そのとき、私は王の献酌官であった。」(11節)

 真っ暗闇に神からのスポットライトが当たった。すべてを失ってもなお残る自分の資源や可能性にネヘミヤは気づいた。
 <私はペルシャ帝国で王の側近として仕事をしている。この立場が、エルサレム城壁再建に役立つだろうか。しかり。私はそのためにここにいる。私を主に捧げよう。>こうしてネヘミヤは、廃墟から立ち上がり始めた。

 あなたの番です。あなたは今、廃墟にいますか。そこから見える大切なものとは何ですか。

 廃墟の経験。それは、あなたが神の栄光を表す都となるために、なくてはならない土台となる。すべてを失って、それでも残る大切なもの。その大切なもののため、精一杯生きていこう。うめきと涙の祈りから始めよう。残されている自分の可能性に気づいて、廃墟を後にして歩き出そう。廃墟を築き直すために。

廃墟からだけ見える青空がある。

本物は廃墟からしか始まらない。

 

聖霊の助け ヨハネ16:7~14

 「若葉のメッセージ」シリーズ6回目、最終回の今回は聖霊によって歩むことを考えましょう。信仰の確信を持って歩み続けるには御霊による歩みが不可欠です。自分の努力や真面目さでクリスチャン生活は維持できません。
  
1、聖霊なしにクリスチャン生活は不可能

 最初に聖霊についての基本情報を確認します。聖霊は三位一体の第3位格。聖霊は神です。(マタイ28:19、第2コリント13:13、使徒5:3~4)聖霊は人格を持つお方です。(ヨハネ16:8、16:13)
 旧約のヘブル語で聖霊はルーアハ、ギリシア語ではプニュウマ、パラクレートスで、日本語では、聖霊、御霊、助け主、慰めぬし、英語では、ホーリースピリット、カウンセラー、弁護者などと訳されます。

 聖霊なしにクリスチャン生活を送ることは不可能です。小説家の太宰治は、おのれのごとく隣人を愛せよという主イエスの言葉が自分の苦悩の原因だと言いました。マタイ伝を読むのに3年かかったとも書いています。彼が、一般人に混じり礼拝の中で聖書を聞いたなら、謙虚に主イエスを信じたなら、ヨハネ伝を詳細に読み聖霊を知ったなら、悲劇的な幕切れは避けられたかもしれません。

2、聖霊の働き

 聖霊は、私たちが信仰を持つはじめから終わりまで密接に関わる神です。私たちが信仰告白するときにも、罪を認めるときにも、聖化のプロセスを歩むときも、救いの確信を得るときにも、聖霊はそのすべての行程で私たちと共におられます。以下の聖書箇所を開いて確認してください。

①信仰を持つことを助ける
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(第1コリント12:3後半)
②信じた者が神を父と呼べるようにする
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6) 
③私たちの内に住む 
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3:16)
④天国が与えられることの保証
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」(エペソ1:14)
⑤聖化の歩みを助ける
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:18)
⑥御霊の実を結ぶ原動力 (ガラテヤ5:22~23)
⑦主イエスをあかしする力 (使徒1:8)

3、聖霊によって歩む

 パウロは聖霊を良く知っていました。ローマ7章で罪との壮絶な戦いを語った後、8章で聖霊について述べるというパウロの思想の流れは十分に理解できます。聖霊だけが、罪と失敗に満ちた人間の希望であり、慰めであり、支えであり、友であり、実際的な力だからです。
 ①御霊は弱い私たちを助け、とりなしてくれる
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~27)
 「助けてくださいます」と書いてありますが、この言葉は共に担うとか、代わりに負うという意味です。「ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主」(詩68:19)という詩篇のように、聖霊が日々私たちの重荷を共に、あるいは代わりに負ってくださるのです。それで、クリスチャンとして歩み続けることができるのです。

 アメリカに住む男性は、案外友達がいません。日本から地理的に遠く離れたこともあるし、今さら友情作りも面倒という人が多いのです。聖霊が親友のようにして私たちの心に住んでくださるということは本当にありがたいことです。
 哲学者アリストテレスは、「友情とは、ふたつの身体の中にあるひとつの魂のことである」と言いました。至言ですね。イギリスの小説家オスカー・ワイルドは「真の友人は正面から刺す」と言いました。他人は私たちのことを真剣に考えないのでいい加減に聞き流しますが、親友は直言できる存在です。聖霊は、私たちの弱さを知り、ズバリと罪を指摘し、私たちの繰りごとにあきることなく耳を傾け、悩みをともに背負い、悲しむとき共に悲しみ(エペソ4:30)、私たちが祈れないときに代わりに祈ってくれる存在なのです。

 ②自分の力や悟りでなく、御霊によって歩む
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
 自分の努力と熱意でクリスチャン生活をせよと聖書は言いません。御霊によって歩めと勧めます。御霊によって歩むということを、噛み砕いて以下に書きました。これなら、日常生活で生かすことができますね。

 さあ、あなたの番です。今週、御霊によって歩みましょう。
・カウンセラーである聖霊と相談する
・弁護士である聖霊の助言に従う
・コーチである聖霊の声を聞き、自分を鍛え、道を選ぶ
・助け手である聖霊から力をもらいチャレンジする
・きよめ主である聖霊から罪の指摘と恵みのシャワーを受ける
・親友である聖霊を喜び、いつも心にとどめる
・慰め主の聖霊との会話にほっとし、慰めを受ける
・神である聖霊をあがめ、感謝する

 新しい自分になることを恐れてはいけません。私たちの心に住む聖霊を生涯の友として大切にし、友情をはぐくみましょう。

 このシリーズで学んできたことを土台にして、揺るがない信仰生活を送りましょう。

ファミリーの温かさ ヨハネ20:24~29

 「若葉のメッセージ」シリーズの第5回目。教会の交わりにとどまること、それが救いの確信を持ち続ける秘訣です。
 自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
  

1、決して信じません

 イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
 ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
 
 トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
 人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。

 「決して信じません」これはトマスの本心ですか。

 そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
 主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
 トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。

 そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。

 あなたはトマスに似てますか。

 救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
 クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
 ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。

2、仲間たち

 それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
 信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。

 信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
 他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。

 受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。

 私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。

 私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。

 信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。

 出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
 
 主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)

 主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。

 トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。

 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。

 信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。

 さあ、あなたの番です。

 信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。


 トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。

 受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。