第2コリント4:1~18 途方に暮れても

 第2コリントには、パウロの体温が感じられる。あらかじめアウトラインを練ったタイプの手紙ではないだろう。心情の吐露が随所で見られ、喜びの奔流があふれ出ている。特に4章は、パウロの自覚、信仰、価値観、視点、確信などが自然な形で語られており驚嘆に値する。
 あなたが今、悩みを抱えているなら、パウロのような視点が必ず助けになる。

1、あわれみを受けている

 人からどう思われるか。あなたの悩みはこのタイプの問題ですか。

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
(第2コリント4:1~2)

 パウロは、神からあわれみを受けたと書いている。その感激で心が溢れている。(1節)
あわれみを受けるとはどんな状態だろう。条件に届かない、資格がない、落第している状態なのに、神の愛と力と配慮を受けていることです。
 パウロは、クリスチャンを迫害し、暴力を振るった過去があり、自分は<あわれみの見本>にされたと強く自覚しています。(第1テモテ1:12~16)

 だからパウロは、自分を見て落ち込まず、他人の評価で勇気を失うことなく、昔使った卑劣な悪巧みは捨て去り、神の言葉を曲げず、真理に生きる態度を取れたのです。(1~2節)

 私は、ハワイで新聞記者をしていた時に日本の政府高官の記者会見に出席したことがあります。その人物の言葉と態度に辟易しました。傲慢そのものだったのです。その帰りのエレベーターで地元テレビの有名なニュースキャスターと乗り合わせました。彼のフレンドリーで温かい態度に驚きました。どちらに私が好印象を持ったか、言うまでもありません。

 パウロは、人間からの評価など気にしていません。神からあわれみを受けたという喜びで、謙虚な人柄になっていたのです。あなたも、あわれみを受けています。


2、宝を持っている

 あなたは、自分に価値がないと落ち込んでいますか。いいえ、あなたは素晴らしい価値を持っています。

 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(第2コリント4:7)

 土の器とは何でしょう。金や銀の器に比べれば価値がない。壊れやすく弱い。取るに足りないものです。私たちも土の器です。
でも、ただの弱い器ではないのです。その内側に宝を持っているのです。宝とは、イエス・キリストです。その宝が、私たちを価値あるものに変えます。

 パウロはルステラで、ユダヤ人にから石打ちの刑を受けたことがありました。むごいリンチの処刑方法です。大小さまざまな石を大勢からぶつけられ、完全に死んだとみなされて、町の外に捨てられました。幸い命に別状はありませんでした。生命力が強かったのではないのです。はかり知れない力がパウロを守ったのです。パウロはこの宝の凄さを体験したのです。

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(第2コリント4:8~9)

 以上のように、人間的にはもうだめだという絶対絶命のピンチを4回、畳み掛けるようにパウロは語りました。それで終わりではないとパウロは力説します。主イエスを内に持つ者は、不屈の意志が備えられるのです。

 戦後直後、群馬県で伝道を始めたコーウィン宣教師は、ある日タイプライターやアコーデオンなどを盗まれました。数日後、そっと、おわびの手紙と物品が返却されました。新聞記者に同宣教師は以下のように心境を語り、記事になりました。私も同じ罪人です。あなたをゆるします。神に赦されることが大事です。どうぞ、我が家に来てください。ご一緒に食事をしましょう。
 新聞記事を読んだ犯人は自責の念から服毒自殺未遂をし、その親から連絡を受けた宣教師が見舞いに訪れ主イエスの福音を語りました。犯人は悔い改めました。

 あなたは土の器ですが、主イエスという宝が内にある限り、困難に取り囲まれて終わりということはないのです。
 あきらめてはいけません。主イエスキリストがあきらめていないのですから。


3、見方は変えられる

 目先のことで右往左往している人がいます。あなたの視点が問題なのです。
 にっちもさっちも行かないときでも希望があります。私たちの見方が変化する可能性があるからです。そうすれば、取り組み方が根本的に変わるのです。別な出口が見えるのです。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第2コリント4:16~18)

1)外なる人は衰えるが、内なる人が日々新たにされる
 若い頃は努力と根性でなんとかなりました。歳を取って無理をすると怪我をします。幸いなことに、主イエスが私たちの内面の動機、感情、思考方法を日々変革してくださるのです。

2)患難は一時的であり、軽い。最終的には、栄光をもたらす
 目の前の苦しみや問題が永遠に続くと錯覚して、戦う前につぶされてしまう人が多いです。永遠の視点で見ると、どんな患難もひと時の苦しみ。軽いのです。新共同訳では、いっときの軽い艱難と翻訳しています。

3)見えるものにではなく、見えないものに目を留める
 私たちが深い満足を得るのは、見えないものを大事にしたときです。正義のために苦しんでも、愛のために犠牲を払っても、真実のために倒れても、私たちの心には満足が訪れます。見えないものに目を留めて、歩きましょう。

 主のあわれみに励まされ、主イエスの臨在を内に感じて、あきらめずに進みましょう。途方に暮れても、道はあるのです。

 →あなたの番です
□私たちはあわれみの器です。だから、勇気を出そう。
□私たちは土の器です。倒れても終わりではない。
□私たちは見えないものに目を留める器です。必ず変えられる、乗り越えられる。