第1コリント11:1~34  秩序が必要


 男性が礼拝に半ズボンで出席したら、どう感じますか。バミューダ諸島では、膝より長めの半ズボンと長い靴下、ジャケットにネクタイ姿は正装です。

 11~14章は、礼拝における混乱がテーマです。今日の11章においては、女性の服装、それから、聖餐式を含んだ食事の食べ方について考えましょう。


1、女性のかぶり物

しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。(5節)

2000年前のギリシアのコリントという地域と時代と文化において、また、礼拝という場面で、女性がかぶり物を付けることは適切で自然でした。当時、公の場所で、かぶり物を着けない女性は、ふしだらな女性とみなされました。救われたから何をしても良いと考えるのは間違いです。礼拝中に陶酔状態になったからといって長い髪を見せるのは不適切でした。

パウロは、ファッションや常識という尺度から、かぶり物を付けるように勧めました。それだけでなく、奇抜なファッションの背後に、男性と同等の権利を持ちたいという女性の意図を見抜き、神の秩序に従うように教えました。

男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。(7~9節)

女性がこの箇所を読むと、差別的に聞こえる部分かもしれません。でも、差別ではなく、秩序です。創世記1章を見ると、神が土から男を造られたことが分かります。男が確かに先でした。男性は、助け手の必要性を感じましたが、見つけられません。それで、神は、男を眠らせ、男性のあばら骨を元に女性を造りました。男性は、この人こそ私の願った人だと感じました。あばら骨から造られたことから、女性が男性と同等だと分かります。男女は平等ですが、役割が違います。神の秩序を理解するには、私は神に造られたのだと徹底的に理解する必要があります。「すべては神から発しています」(12節)

 神の作られた秩序を大切にしましょう。
     子供は両親に従いましょう。(コロサイ3:20)
     妻は夫に従いましょう。(エペソ5:22)
     立てられた権威に従いましょう。(第一ペテロ2:13)
     クリスチャンは主イエスに従いましょう。(ヨハネ21:19)



2、聖餐式と食事

 この頃は礼拝堂が存在しませんから、信者は大きな家に集まって礼拝しました。礼拝が、食事時と重なると食事をしました。また、聖餐式も行われました。そこで問題が発生しました。

しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。(20~22節)

コリント教会の金持ちの一部は、豪華な食事を持って来て、自分たちの都合ですぐに食べ始め、たらふく食べ、酔うほどに飲みました。貧しい人が後から来て、その姿を見たり、臭いをかいで、みじめな気分になって空腹のまま帰りました。これは異常です。パウロは怒っています。「あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。」(17節)具体的なアドバイスとしては、「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」(33節)と命じました。食事をシェアして楽しく食べれば良いのです。
 我先にと食事をして貧しい兄弟を無視する姿勢は、聖餐式にあずかるにはふさわしくありません。ですから、自分の生き方を吟味して聖餐にあずかるべきです。

したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。(27~29節)

パウロは、聖餐の意味を簡潔に以下のように述べました。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(23~26節)

 パウロはルカの福音書22:19~20の記述を土台として聖餐の意味を述べ、第1にキリストを覚えるため、第2に血による新しい契約、第3に主が再び来られるという予告、第4に福音を知らせるため、と説明しました。
 
 私たちが聖餐にあずかる時、自分の罪に目が行きやすいです。それよりも、主イエスご自身に焦点を合わせましょう。
また、主イエスが契約と言う時、それは主イエスの約束を指します。主イエスが十字架で私のために死んで下さり、その血によって私の罪を赦してくださるという約束を信じて杯を飲むのです。聖餐式にあずかるとは、主イエスを信じ、主イエスの約束を信じるという意味です。
「主が来れらるまで」とあるように、主イエスがは再びこられることが前提として、聖餐式が成立しています。ですから、聖餐式は過去を振り返るだけでなく、未来志向なのです。
最後に、聖餐式は、主イエスの死を周囲に知らせるものです。宣教的なアクションが含まれているのです。


 →あなたの番です
  □神の定めた秩序を重んじる
  □聖餐式で、主イエスを覚え、主イエスの再臨を待ち望む


第1コリント10:1~33 神の栄光のために


 第1コリント10章には飛び切り有名な聖句が二つあります。
これを知らないと「もぐりのクリスチャン」と言われかねない聖句です。一つは、試練の中にいる人を励まし続けた聖句で、もう一つはクリスチャンの基本姿勢を教えるものです。もうピントきましたか?13節と31節なので覚えやすい箇所です。

1、試練に脱出の道あり

 試練の中にいる人を励まし続けてきた超有名な聖句が13節です。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(13節)

 1~12節の流れを追って、この聖句の文脈上の意味を確認しましょう。
クリスチャンがバプテスマを受けて信仰生活を歩む事と、イスラエルの人々がエジプトから救い出された歴史には共通点があるとパウロは考えました。
イスラエルの人々は、雲の柱に導かれ、紅海の底を歩く経験、いわば「モーセにつくバプテスマ」(1~2節)を受け、エジプトから救われました。けれども荒野の厳しい生活で、水が欲しいとか肉が食べたいという欲求に取り疲れ、その後、様々な欲に負けてしまい、①偶像礼拝(7節)、②姦淫(8節)、③主を試みる(9節)、④主につぶやく(10節)という罪を犯し、神を完全に拒絶してしまいました。そのため、多くの者が滅びてしまいました。イスラエルの民にとって、生活そのものが試練となったのです。

パウロが指摘した7~10節の4つのポイントは、これまで説明してきたコリント教会の問題点に良く似ています。ですから、偶像にささげた肉を平気で食べる姿勢は、偶像礼拝に移行する危険をはらんでいるのです。
10章前半の中心メッセージは<イスラエルの民のように試練につぶされて滅びるな>です。ですから「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(12節)とパウロは警告します。イスラエルの歴史は「私たちへの戒め」(6、11節)なのです。

今、あなたは、何らかの試練の中にいますか。
受験、お金、就職、人間関係、家族の誰かの問題、子供の教育、病人やお年よりの介護、精神的な病気、自分自身の意欲のなさ、資格試験、離婚、住居問題、疲れすぎ、偶像礼拝を強要されている、自分の病気、自分の性格、死の恐れ。本当にたくさんの試練が襲ってきます。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(13節)

13節は暗記すべき聖句です。心で反芻しましょう。この聖句によると、耐えられない試練はないのです。脱出できない試練はないのです。真実な主に信頼しましょう。




2、すべては神の栄光のため

10章前半はバプテスマに関連づけて語られましたが、後半は聖餐との関連で議論が進みます。私たちが聖餐を受けるなら、主イエスの血潮とからだを受け、主イエスと一体になります。(16節)本来、偶像の神は存在しませんが、偶像の背後に悪霊がいます。ですから、偶像の神にささげられた肉を食べることは、悪霊の聖餐にあずかり、悪霊と一つになることを意味します。ですからパウロの結論は、「偶像礼拝を避けなさい。」(14節)となるのです。

私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。(19~21節)

 <偶像にささげた肉を食べて良いか>という問題が8~10章で取り上げられてきましたが、25~28節は3つの事例を想定した具体的な回答であり、31節はその問題を考える上での基本姿勢となります。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。(25~28節)

 パウロは、人々が救われるために(33節)、他人の利益(24節)、他人の良心(29節)、を第一にしました。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(31~33節)

 コリント教会の一部の人は、弱い人を無視して偶像の宮で食事をして偶像礼拝に接近しました。パウロは、弱い人々の良心を考え、肉を食べないと宣言しました。飲む事や食べる事などは小さな事柄で大差ないとパウロは考えません。私たちの生き方の本音がライフスタイルに顔を出します。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(1920-2015)は19841994年ドイツの大統領として働き高い支持率を得ました。彼はドイツ福音主義信徒会の議長を務めていたクリスチャンでした。戦後40年の記念演説は「荒野の40年」という題で日本で知られています。その演説は、まるで礼拝のメッセージを聞くような内容で、聖書を土台に構成されており、過去の悔い改めと未来に向けた責任を問う優れた講演でした。ヴァイツゼッカーの在任中にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一という困難な事業を担当しました。東ドイツの人々は、ヴァイツゼッカーがいるから心配ない、という絶大な信頼を彼に置いていました。信仰者として、置かれた立場で神の栄光を表した人、それがヴァイツゼッカー大統領でした。

私は神の栄光をあらわしているだろうか。言葉。態度。お金の使い方。目標。後ろ姿。ライフスタイルを見直してみましょう。私は、何をしたら神の栄光をあらわすことができるのでしょう。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(31節)


→あなたの番です
 □試練の中でも、脱出の道を信じる
 □神の栄光のために、生きてみる


第1コリント9:1~27  すべてを福音のために


 「一つしか買わないの?それなら、お先にどうぞ。」と前の人に言われ、スーパーのレジで順番を譲ってもらった事がありませんか。逆に、あなたが後ろの人に順番を譲ってあげたことがありますか。今日は、自分の権利を放棄する事を手掛かりに、福音の伝達について考えます。

1、権利を捨てた

 パウロはコリントにおいて、当然の権利を放棄していました。筋から言えば、パウロは牧師としてのサラリーをコリント教会からもらえました。でも、パウロは意図的にしませんでした。

自分で自分に給料を払う兵隊など(7節)どこにもいません。旧約律法でも、畑仕事で汗を流している牛の口に覆いをかけてはならないと教えており(9節)、働く者が報酬を受けることは合理的だと語ります。主イエスもマタイ10:10で、みことばを語る者が報酬を受けるのは当然だと教えています。(14節)

パウロが当然の権利を放棄した背景には、明確な目的がありました。福音のためという目的です。コリントで福音が受け入れられ、教会が健全に成長するためなら、自分の権利などどうでもよかったのです。

もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。(12節)

パウロは15節でも、「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」と述べました。無論、お金の問題ではありません。福音を伝えることがパウロの全生涯を貫く目標だったのです。

というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(16節)

さて、偶像にそなえた肉を食べてもよいかというテーマが8~10章で取り扱われていました。8章で弱い人のために肉は食べないとパウロは述べました。9章では、明確な目的があれば自分の権利を捨てることがある、だから、偶像に備えた肉は食べないと言いたいのです。

Chicken soup for the soulという本に次のような実話が掲載されています。
サーカスのチケット売り場の列に、両親と8人の子供が並んでいました。お金持ちには見えない家族ですが、子供たちは良くしつけられていました。そのお父さんは、大人2人子供8人の料金を係り員に尋ねました。値段があまりに高いのでお父さんはびっくりして、お母さんは失望して下を向いてしまいました。そのすぐ後ろで様子を見ていた別の男性がいました。彼は自分のポケットから札を地面に落とし、それを拾い上げてお父さんの肩をたたき、「もしもし、あなたのポケットからこれが落ちましたよ」と紙幣を渡しました。お父さんは、深い感謝の言葉を述べ、家族10人は中に入れました。お金を渡した男性と娘はお金を使い果たしのでサーカスは見ずに家路につきましたが、心はとても温かだったといいます。

私達も、今週、当然の権利を捨ててみませんか。



2、ユダヤ人にはユダヤ人のように

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。(19~20節)

 ハドソン・テーラー(1832-1905)は1854年、上海に上陸しました。イギリスから福音を伝えるため、あらゆるものを捨て宣教師となって来ました。21歳という若い命を中国の人々にささげたのです。テーラーは頭をそり、中央の髪だけを伸ばし弁髪にし、西洋の服の代わりに長い中国服を着ました。ユダヤ人にはユダヤ人のように、中国人になって福音を伝えました。

 当然の権利を捨てるというのは、楽ではありません。犠牲を伴います。けれども、人生で目指すものがはっきりしていれば、判断をにぶらすことはありません。福音のためならできます。

弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(22~23節)

「何とかして、幾人かでも救うため」とあります。私たちにできることがあるはずです。

 杉原千畝さんはユダヤ人5000人にビザを発行して命を救いました。OfficeDepotのCEO がユダヤ人の方で、杉原さんの働きを記念してリトル東京に杉原さんの銅像を作ったそうです。今もセントラル・アベニューにあります。ベンチに座って、ビザを差し出す等身大の像は、杉原さんが何をしたかを如実に物語っています。

 私たちも、福音という命のビザを誰にもらいました。それで、今の私たちがあります。今度は私たちの番です。何とかして、幾人かでも救いたい。永遠の命のビザを誰かに渡したい。「私はすべてのことを、福音のためにしています。」と言える人生にしたいと思いませんか。

 最後にパウロはオリンピック選手の例を挙げました。スポーツ選手は、色々なものを捨てます。自制します。訓練に励みます。金メダルを取るという目標のためなら、何でもします。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。(24~25節)

 私たちが目指すものは、朽ちない冠、永遠に価値あることです。そのために、私たちの一週間の生活を見直し、福音のために何かできないか、祈り、考え、動きましょう。
 福音を伝えるつもりがない人の毎日は気楽です。一旦、伝道しようと心に示されると、祈りが変わり、姿勢が変わり、時間の使い方が変わります。

 私は大学時代、聖書研究会の仲間と一緒に、月に1度の伝道会を校内のチャペルを借りて行っていました。そのため、チラシをガリ版で印刷し、校門で朝早く配りました。正直言うと、辛い部分が半分、嬉しい部分が半分でした。くる・たのしいという気持ちです。でも、他の仲間となら勇気が出ました。祈って、行動して、福音の種をまく働きはとても意義がありました。
 あなたも福音のため、苦・楽しい経験をしませんか。

「私はすべてのことを、福音のためにしています。」(23節)

 →あなたの番です
  □当然の権利を捨ててみる
  □「福音のため」に生活パターンを変える


マルコ10:32~34  復活の予告


 主イエスは復活の予告をしました。
 3度も、それも別な場所で、弟子たちだけに。
 なぜ、3回も予告したのでしょう。

1)マルコ8:31  (ピリポ・カイザリヤで)

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

第1回目の予告は、ガリラヤ湖の北、ピリポ・カイザリヤで語られました。人の子とは主イエスのことです。イエスが殺されてよみがえる。それが言いたいことです。死ぬ前に苦しみを受ける事と権力者に殺される事も付け加えられています。

2)マルコ9:31  (ガリラヤで)

それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。

基本内容は同じです。主イエスは殺されるが、よみがえる。引き渡されるという言葉によって、主イエスの弟子が裏切るとほのめかされています。

3)マルコ10:33~34  (ユダヤとヨルダン川の向こうで)

さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。

基本内容は同じです。死刑と異邦人という言葉に注目しましょう。ユダヤはローマ支配下にあったので、ローマ総督の判断を受け十字架刑にかけられると予測できます。主イエスは、苦しみだけでなく、あざけりや恥を受けることも想像できます。

3度繰り返す意味は何でしょう。
第1に、これから起きることはアクシデントではないという説明です。主イエスは十字架をご自分から受けようとしていました。第2に、とても重要な事なので繰り返しています。歴史上最も重要な出来事がこれから起こるのです。第3に、約束した事は必ず守るという意味です。必ず3日後によみがえると言われました。


7歳のチャールズ君は家族と数日間のキャンプでパローマ・マウンテン州立公園に出掛けました。公園内に池がありマスが良く釣れました。お父さんと釣りを何日か楽しんだ後、チャールズ君はある日の午後、一人で釣りに行きたいと願い出ました。お父さんは、よし気を付けるんだよ、もしも迷子になったら歩き回らず、その場で待っていろ、必ず父さんが迎えにいくからと話しました。
釣りを楽しんだ後、チャールズ君は道に迷ってしまいました。でも、お父さんとの約束を思い出し、その場に座って父さんを待ちました。日が傾く頃、公園レインジャーが車で通りかかり、「君くらいの男の子を見なかったかい、迷子になって家族から捜索願いが出ているんだ」と声をかけました。「僕くらいの男の子ですか。んー、見ませんでした。」「ありがとう」レインジャーは行ってしまいました。キャンプ場の案内版の下で落ち着いて座っていた少年の姿は、とても迷子に見えなかったのです。
日が暮れて暗くなり始めた頃、大きな男性が近づいて来ました。お父さんでした。父親は息子をしかりません。ぐっと抱きしめて、楽しそうに話しながら帰りました。
父は約束を守りました。子は約束を信じました。


十二弟子の場合はどうでしょう。主イエスが3度も繰り返した約束は聞き流しました。予告通り、主イエスが苦しめられ侮辱を受けて十字架で死んだ後も、十二弟子は復活の約束を信じません。でも、主イエスは約束を守りました。「人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:34)

この世には、何億という数のあきらめの心が排気ガスのように地上を漂っています。だめだ、無理だ、いまさら遅いという心が蔓延しています。あなたの絶望の種は何ですか。なぜ絶望しているのですか。解決不可能という確信の根拠は何ですか。
どんな失望でも、病でも、経済的困難でも、悩みでも、行く手をはばむ巨体な鉄の壁でも、誰も信じられなくなった心も、主イエスはそのすべての否定的なものを振り払ってくれます。なぜですか。主イエスがよみがえったからです。イースターの朝、それらの絶望の雲を吹き払って、主イエスはよみがえってくれたのです。

主イエスは約束を守られました。私たちは、何をしたらよいですか。

「あの方はよみがえられました。」(マルコ16:6)

→あなたの番です
 □主の約束を信じましょう。
 □イースターの力を、今、頂きましょう。