詩篇103:1~5 年末に主をほめよ


 今日は、年末感謝礼拝でした。私たちは、礼拝の中で、主から受けた恵みを分かち合うことができました。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
(詩篇1-3:1~5)

 聖書では、主の恵みを振り返ることを繰り返し勧めています。
 それは第1に、私たちが忘れやすいからです。過去の恵みを忘れるので、現在の課題に右往左往してしまうのです。第2に、歩いて来た道を振り返ることは、主への信頼を深めるからです。主の愛、主の配慮を思い起こすと、そのタイミングとクオリティー、その方法に驚きます。

 嬉しかったこと、感謝だったことをピックアップしましょう。逆に、辛かったことや、悲しかったこと、苦しかったことも思い出しましょう。むしろ、マイナスと思えた経験の中に主の大きな恵みが隠されています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 あなたの番です。あなたは、今年、主からどんな良いことを頂きましたか。ダビデは6つの項目を思い出して主を賛美しました。

1、咎を赦された 私たちは大きな失敗をしました。主と身近な人を傷つけました。でも、その罪、咎が完全に赦されたのです。神だけが赦せます。罪が赦されることは、最大の恵みです。
2、病を癒された 私たちは今年、風邪もひきましたし、病気や怪我をしました。でも、主がいやしてくださいました。元気になっても、そのいやしに感謝しましょう。
3、穴から救い出された事 大きな試練や問題や悩みを経験しました、まるで、墓穴に片足いれた苦悩から救い出されました。
4、恵みとあわれみの冠を受けた
躍り上がるほど嬉しかった、主の恵みとあわれみを受けた瞬間もありました。誉れや栄光の瞬間もあったでしょう。
5、一生を良いもので満たして頂いた 人と比較して幸せを感じるのは不健全です。生まれて来て良かった。私の人生は満足です。主にあって、こう言えるのです。
6、新しくされた 鳥の羽は春と秋に生え変わります。鷲の夏羽は力強さを感じさせます。私たちが疲れ果て弱り切ったとしても、やり直す意欲や立ち向かう勇気が与えられます。
 あなたは、今年、どんなことを感謝しましたか。年の終わりに主をほめたたえましょう。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 

ルカ1:29~55 マリヤとエリサベツ


 クリスマスの裏舞台で何が起きていたのでしょう。

1、マリヤ、エリサベツに会いに行く

天使ガブリエルは、ナザレに住んでいたマリヤのもとに突然現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」(ルカ1:28)と語りました。マリヤは驚き、恐れました。天使の語った内容があまりにも突飛だったからです。マリヤが聖霊によって妊娠し、男の子が誕生し、名前はイエスになり、その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれるというのです。

マリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」(ルカ1:38)と、信仰を持って天使の言葉を信じ受け入れいました。

結婚前に身ごもった女性は死刑になる可能性があります。また、いいなずけのヨセフがどんな態度を取るか未知数です。
聖母マリヤと呼ばれるように、マリヤを理想的な女性としてとらえる人が多いです。当時の結婚では、花嫁の年齢が十代というのが普通でした。ですからマリヤも二十歳に満たない女性だと考えるのが妥当です。これからどうしよう。マリヤに恐れと心配が生まれたことでしょう。マリヤの取った方法は、親戚のエリサベツに会いに行くことでした。エリサベツなら分かってくれる。

 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39~40)

ナザレからエルサレム近郊のユダの山地までの距離は直線距離で100キロ以上あります。でも、どうしても会わなくてはいけないのです。

マリヤがエリサベツに会いに行ったのは、エリサベツ夫婦が特殊な経験をしていたからでした。エリサベツの夫ザカリヤは祭司でした。天使ガブリエルが高齢のザカリヤ夫婦に、子供が生まれると予告したとき、彼は素直に信じなかったため、言葉が話せなくなりました。(ルカ1:5~23)その後、エリサベツは妊娠し、妊娠5ヶ月になっていました。そのエリサベツのことは、天使ガブリエルがはっきり指摘していましたが、そのエリサベツの経験こそが、マリヤを励まし、支えてくれるはずだと悟ったのです。

 あなたの番です。
 あなたが信仰上で何か課題を抱えた場合、尊敬できる信仰者のところに行って、相談しましょう。マリヤのように。これは、あまりにも当たり前のアドバイスですが、訪ねて行かない人が多いので、あえて言います。
 遠くても出かけて行って、ゆっくりと時間を取ってもらって、あなたの心の中にあることを話し、信頼できる人に祈ってもらって下さい。



2、神は大いなることをしてくださる

 エリサベツはマリヤの母親と同じくらいの年齢でしょう。(7節)もっと上かもしれません。エリサベツはずいぶん長い間、子供が与えられるようにと主に祈ってきました。(13節)
御使いガブリエルがエリサベツの夫のザカリヤに現れてから、月日は流れ、今は、妊娠6ヶ月になり、お腹も大きくなったことでしょう。
マリヤがエリサベツに会えた時の感激は言葉に言い表せませんでした。

そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(40~45節)

 エリサベツからみれば、娘か孫のようなマリヤですが、エリサベツがマリヤの挨拶を聞くと、特別なことが起きました。エリサベツは聖霊に満たされたのです。また。エリサベツのお腹の中にいた赤ちゃんが、喜んで踊ったことが分かりました。単に、赤ちゃんが動いたというのと違うのです。その赤ちゃんとは、将来、バプテスマのヨハネになる人です。

 エリサベツはマリヤを励まして言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)

 エリサベツは、マリヤの生き方を100%認めてくれました。また、マリヤを賞賛しました。それは、マリヤにとって、何よりも必要な励ましでした。マリヤの体験したことも残らず聞いたはずです。
 それでいいのよ。世間の人がうさん臭い目であなたを見ても気にしない。神は語られたことを実現する方よ、うちの夫は、祭司のくせに、神の言葉を信じられなかったからずっと話ができないの。きっと良い薬になったと思うわ。あなたは、そのまま信じたから何の不自由もなくてよかったわね。あなたを尊敬するわ。そんな会話があったのかもしれません。

 マリヤは、後の時代の人が「マリヤの賛歌」と呼ぶ賛美の言葉をこの時に歌いました。取るに足りない自分に目を留めた神をたたえ、神のなさることの素晴らしさをたたえ、アブラハムへの約束であるとの理解を示しました。驚嘆すべき内容です。
 作曲家のバッハは、このマリヤの賛歌にメロディーを付け、「マニフィカト わが心 主を崇む」BWV 243として知られています。
 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46~50節)

 「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(49節)マリヤは、自分の内に始まっている事実に驚嘆しているのです。神に用いられることの幸いを述べているのです。
 この言葉は、クリスマスを迎えるあなたにも語られています。力ある神が、今のあなたに、大きなことをして下さいます。

 マリヤはこの後、3ヶ月、エリサベツと共に過ごしました。(56節)エリサベツの出産も近づいたので、身の回りの世話をマリヤが助けたはずです。二人は、祈り合い、励まし合ったことでしょう。

 クリスマスは、主のことばは必ず実現すると信じたマリヤの勇気ある信仰によってもたらされました。また、エリサベツの大きな励ましがあって実現しました。

 ところで、Mary, did you know?というクリスマスの歌を知っていますか。比較的新しいクリスマスの歌で、1984年に作られ、今では人気歌手などもクリスマスアルバムに入れる曲です。教会で降誕劇をするので、それに合ったクリスマスの歌を作ってほしいと依頼された、マーク・ローリー(Mary Lowry)が作詞しました。
 マリヤ、知っていたの?というフレーズが繰り返されます。マリヤ、あなたは知っていたの?あなたの赤ちゃんがやがて水の上を歩くことを。嵐を静めることを。盲人の目を開けることを。あなたを新しく生まれさせてくれることを。マリヤ、あなたが赤ちゃんの頬にキスすることは、神の御子の頬にキスすることだよ。あなたが腕に抱いて眠らせている赤ちゃんは、全世界を造られた創造主で、やがて世界を治める王になる方で、「ありて、ある者」と宣言される神ご自身なのだよ。という内容の歌詞です。ローリーは歌手でもあるので、彼自身の歌をYoutubeでご覧になって下さい。
 マリヤは、本当には、どこまで分かっていたのでしょうか。分かっているのは、天使から知らされたわずかな事だけを信じ、まだ見ぬ将来に向かって大胆に進んだ勇気ある信仰者で、神に用いられた特別の器だったということだけです。

 あなたの番です。
 力ある神は、あなたの中にも大きなことをして下さいます。
 
 あなたの番です
  □主によって語られたことは必ず実現します
  □信仰の友の所に行って、励ましを受けよう   □私の中に神は大きなことをして下さる

 

創世記18:1~33 主の前に立つ


 今日は、次の二つの聖句に注目して下さい。
 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)
「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」(22節)

1、主に不可能なことがあろうか

主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。(創世記18:1~2)

 アブラハムは、その3人が普通の人ではない、聖なる方であると直感的に分かりました。走って迎え、ひれ伏して礼をして、食事を召し上がってほしいと3人を招き入れました。アブラハムは、パンを焼き、子牛を料理するように命じ、自分自身でヨーグルトと牛乳を運び、食事が準備できると、主人のアブラハムみずからが給仕をしました。(3~8節)

 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(10~12節)

 見知らぬ3人のうちの一人は、アブラハムの妻の名がサラだと知っていました。サラは赤ちゃんの誕生の話を聞いて笑いました。アブラハムの最初の反応と同じです。(17:17)

 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」(13~15節)

 サラは、ちょっと恐ろしくなって、笑ったことを否定しました。見知らぬ訪問者がいつのまにか、「主」という表現に代わっています。

 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)

17章の中心テーマは、神が全能の神であるということでした。18章も、同じテーマを取り上げています。繰り返されるのは、私たちが忘れやすいからです。また、どうしても理解すべき重要な真理なので繰り返し語られるのです。

ある青年男性がギターを弾き始めました。彼は牧師の息子でした。牧師の息子のベーシストと牧師の息子のドラマーに彼は声をかけ、バンドをやろうよと熱心に誘いました。ボーカルも見つかり、曲を作り、活動を始めました。彼らの作った曲がプロサッカーチームの応援歌に選ばれました。主は素晴らしいです!やがて地域で有名なバンドになり、CDも発売するようになりました。「ナイトdeライト」というバンドのことです。
彼らの歩みを見ていると、主には不可能なことはありません、という言葉がじわっと私の胸に響いてきます。

あなたの番です。神は全能の神です。主に不可能なことはありません。私たちの具体的な生活の中で、神が働いて下さることを信じてみませんか。



2、アブラハムはまだ、主の前に立っていた
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。(17~20節)

 アブラハムは、世界の人々に祝福を与える者になるのです。また、多くの国民の父になるのです。そのために、神はアブラハムのマインドを変えようとされました。

悪徳の町で有名なソドムを一望できる場所まで主はアブラハムを連れて行きました。神はソドムの町を滅ぼすと言われました。アブラハムは、願いました。ソドムの町に正しい人がいるかもしれないので、その正しい人に免じて、滅ぼすのをお止め下さいと。

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。(23~24節)

とりなしの祈りは、自分以外の誰かのことを心にかけて、何らかの改善や癒しと祝福を願う祈りです。アブラハムは、神の前に立ち、自然にとりなしの祈りをしていたのです。

とりなしの祈りを続けているうちに、祈りの内容が変化しました。正しい人の数を50人から10人にまで引き下げて神に懇願しました。(28~32節)
私たちのとりなしの祈りも、繰り返し祈っていると祈りの内容が変化します。そこに意味があります。
とりなしの祈りとは、主の前に立って、その人の祝福と助けと改善のために祈ることです。

アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

あなたの番です。祈りのノートを作り、祈りの課題を書き込み、定期的に誰かのために祈りましょう。私の祈りのノートには、たくさんの祈りの課題や、祈り続けている人の名前がいっぱい書いてあります。願った祈りがかなえられると、印を付けます。年末に祈りのノートを見直す時、あらためて主のすばらしさを賛美できます。

 まず、夫や妻のために心を込めて祈りましょう。身近過ぎて祈るのを忘れている場合がありますが、第一に祈るべき相手です。子供のためにも祈りましょう。あなたが祈らなければ、世界の誰があなたの子供のために祝福を祈れるでしょう。
 あなたの友達や教会の仲間のために祈りましょう。誰かの深い悩みをあなたが知らされたのなら、それは、とりなしの祈りをするためです。
 こうして、とりなしの祈りの輪を広げていくなら、日本のため、アメリカのため、世界のために祈れます。あなたも、世界の祝福を祈れるのです。

 右近勝吉さんは元祖便利屋として知られています。高校時代にイエスさまを信じてクリスチャンになりました。ある日、精神病院の院長から連絡が入り、右近さんに会いたい患者がいるとのことでした。15年間、毎日壁に向かって独り言を言い続ける人がテレビで右近さんを見て興味を持ったといいます。訪問して、病院の中庭で缶ジュースを飲みながらその男性と話しましたが、ほとんど会話になりませんでした。でも、右近さんは最後にその青年のために声を出して祈ってあげました。病がいやされますようにと心を込めて主にお願いしたのです。
 3か月後、その青年から右近さんの事務所に電話が入りました。病院を退院し、掃除会社で働いています。あの時は、本当にありがとうございました。嬉しい報告が来ました。

 主は、とりなしの祈りに答えて下さる方です。そして、私たちは皆、誰かのためにとりなしの祈りをするように造られたのです。
 祈りのノートを作り、とりなしの祈りをずっと続けましょう。

 アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

→あなたの番です
 □主に不可能はない □誰かのために主の前に立って祈る


創世記17:1~27 エル・シャダイ


1、全能の神

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(1節)

今まで神は、「わたしの示す地へ行きなさい」(12:1)と語る<導きの神>であり、「わたしはあなたの盾」(15:1)と語りアブラムを<守る神>であり、アブラムの子孫が夜空の星のように増えると述べて<約束される神>(15:5)でした。今回、神は<全能の神>として新たにご自分をアブラムに示されました。

全能の神。ヘブル語ではエル・シャダイ。神に不可能はない。アブラムは、全能の神を目の前に置いて歩み、全き者として歩むことが求められました。
アブラムの人生という文脈で1節を注意深く読んでみましょう。そうすると、「全き者であれ」という意味が道徳的に完全にきよくなれという意味ではなく、神を全能者として全幅の信頼を寄せることだと分かります。
アブラムにとって全き者であるというのは、99歳の自分と90歳の奥さんから子供が生まれると神が言われたなら、その通りに信じるという生き方です。

あなたの番です。お金、人間関係、仕事、健康など、とても現実的な問題の中で、神が全能の神であることを信頼しましょう。全能の神は、驚くようなことをして下さいます。

今まの人生で一度だけ、くじに当たって一等賞をもらったことがあります。ハワイ旅行お二人さま無料招待が当たったのです。日本がバブルで浮かれた時期のことでした。妻と娘がハワイを堪能して帰って来てしばらくして、ハワイの教会に赴任するという話が舞い込んできました。神は、妻と娘が不安にならないように、あらかじめハワイの下見をさせて下さったと今では考えています。全能の神が、微笑んでハワイ旅行を下さいました。


2、名前の変更

神は、次に、アブラムの名前を変えました。名前の変更は内面を変えます。

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。(4~6節)

「多くの国民の父」、それがアブラハムという新しい名前の意味です。妻が夫を呼ぶ時は、「多くの国民の父」、ごはんができましたよ、と呼ぶわけです。アブラハムはそう呼ばれることによって、父としての自覚が生まれてきます。まだ、子供もいない時に、それも高齢で。
 
 神は、私たちに新しい名を下さる方です。あなたは、どんな名を神からもらいましたか。今の年齢が何歳でも、今どんな立場にいても、神はあなたの人生をリスタートできる方です。


3、割礼

次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」(10~12節)

割礼は、生後8日の赤ちゃんの男性性器を包む皮の先端を切り取るという儀式です。現代アメリカでは、男子の赤ちゃんが生まれると医療処置として行われることが多いです。

 割礼の第一の意味は、神の約束を体に刻み付けて、子々孫々と忘れないためです。
また、性器に印を残すのは、子供が生まれることや家族の繁栄は人間の欲望の結果ではなく神の守りと約束のうちにあることを忘れないためです。
アブラハムとイシュマエル、家族内のすべての男性が割礼を受けました。(23~27節)

現代のクリスチャンにとっては、バプテスマが割礼の意味に近いように思います。神の民として歩みます。神と神の約束を信じます。神の愛と恵みによって、新しく生まれ変わりました。バプテスマはそうした意味を体全体で感じられる儀式です。



4、信じきれない夫婦

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(15~18節)

サライも新しい名を神からもらいました。「サラ」、王女という意味の名前です。サラは国々の母になるのです。
それを聞いて、アブラハムは思わず笑ってしまいました。99歳の私と90歳の妻から子供が生まれるはずはない。悪い冗談だと思ったのです。奴隷女ハガルから生まれた息子イシュマエルは13歳になっており、背丈も母より高くなっていたかもしれません。アブラハムはかなり真面目になって、このイシュマエルを正式な息子と認めて下さいと願いました。全能の神を信頼できなかったのです。

すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」(19節)

神は、男の子が確かにサラから生まれるので、イサクと命名するようにと言われました。実に意味深な名前です。イサクとは、ヘブル語で笑いを意味します。あり得ない、生まれるはずがない、親ですら笑ってしまったという笑いです。全能の神によってサラから赤ちゃんが生まれる日には、今度は両親が笑顔になるのです。神も微笑んで下さいます。
全能の神は、冷笑を歓喜に変えることのできる方です。私たちの人生にも同じことが起きます。ありえない。不可能だ。希望はない。そう断じていたあなたの人生に、神は予想を超えた輝かしい未来を用意して下さいます。あなたは、信じますか。全能の神を。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(1節)全能の神を信じて歩み出し、大きな笑顔で満たされる日を信じましょう。

→あなたの番です
 □神は全能の神
 □神の下さった新しい名前で生きる □笑顔になる日が来ると信じる

創世記16:1~16  困った時


 人生には3つの坂があると言います。上り坂。下り坂。そして、まさか。(知ってましたか!)
アブラムの妻サライと、サライに仕えていた女奴隷ハガルの間で昼ドラのようなどろどろの争いが勃発しました。何が原因だったのでしょう。どのようにして解決したのでしょう。


1、人間的な手段

アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。(創世記16:1~2)

主が子供を与えて下さるという約束をサライも知っていましたが、約束の地に来て10年間何の変化もありません。(3節)主がサライの胎を閉じている現実を彼女なりに考えた結果、自分の女奴隷ハガルを通して子供を手にしたいと夫に申し出ました。3節によると、「妻」としてハガルを差し出したのです。

85歳のアブラムは躊躇したはずです。拒絶もできました。子孫が夜空の星のようになるという神の約束を信じていました。最終的には、妻サライの胸の内を汲みとり、申し出を受け入れました。つまり、人間的な手段を許容したのです。
 
 ハガルは妊娠しました。妻サライの気持ちは複雑だったでしょう。ハガルは、妊娠した事実から自信を持ち、アブラムの正妻のように振る舞い、サライに横柄な態度を取るようになりました。サライは腹にすえかねて夫に文句を言いました。アブラムは妻の好きにさせたので、ハガルは虐待され、身重の体でしたが家出しました。

 今日の問題の第一原因は、主の約束を信じられずに人間的な解決手段を持ち出したサライにあります。第二原因は、神の約束を信じ切れなかったアブラムにあります。後に信仰の父と尊敬されたアブラムも、今回の事件では、見るべき点は一つもありません。

 あなたは今、大きな悩みや試練の中にいますか。そんな時、人間的な解決手段に心惹かれるものです。でも、人間的な解決手段は、手続きが複雑で、いっそう問題をこじらせます。神への信頼に基づく解決方法は、忍耐と祈りがいりますが、いたってシンプルな道です。さて、あなたは、どちらの道を選びますか。


2、ご覧になる方

主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(7~9節)

 主の使いは荒野のハガルを見つけました。どこへ逃げ、どこに行くのかと御使いに問われると、女主人のもとから逃げたとしか言えませんでした。行先は不明のままです。御使いは親身になって彼女の話を聞いてくれました。その上で、行き先を教えてくれたのです。謙遜になって主人のもとに戻りなさい。それでハガルは頭を下げて、恥をしのんで、苦労を覚悟して、女主人サライのもとに戻りました。それが最善と気づいたのです。神がイシュマエルの子孫を増やして下さるという約束(10節)も大きな励みになりました。

ハガルが戻って来たので、最初サライは不機嫌になりアブラムは胸をなでおろしたでしょう。ハガルが不遜な態度をわび、謙虚になっていたので、二人は驚愕したはずです。
ハガルは、荒野で主の使いに出会った経験を話さずにはいられないでしょう。妊娠して傲慢になり、トラブルを引き起こした奴隷女にすら神は目に留めて下さった。「苦しみを聞き入れ」(11節)て下さる方が真の神。こんな私を見て知っていて下さる方が「エル・ロイ」(13節)、つまり、ご覧になる(ロイ)神(エル)。主をたたえ、砕かれた心のハガルが家に戻ったことにより、アブラムの家庭は穏やかになりました。

全体を振り返ってみましょう。今回のトラブルはどのようにして解消しましたか。アブラムがハガルを探して荒野に行きましたか。ノー。自分の血が流れている子がハガルのお腹にいることを承知の上でも、何もしませんでした。サライも自分の態度を反省して、ハガルと胎児の命を心配しましたか。ノー。二人は何の行動も起こしませんでした。神が問題の尻拭いをされたのです。

 私たちの人生を振り返ると、私たちもアブラムに似ていることに気づきます。問題を起こすのはいつも私たちのほうです。恥ずかしい限りです。自分で問題解決できず、親や他者に助けられたことが多々ありました。何度も、トラブルの尻拭いをしてもらってきました。

今あなたは一人で悩み苦しんでいませんか。誰も分かってくれないと思っていませんか。ずぶ濡れネズミのような私たちでも、主はご覧になって下さり心配して下さいます。あなたが原因で起きたトラブルであっても、主はあわれみ深い方なので、あなたを助け出して下さいます。

大きな駅の通路で、若い女性がチンピラに因縁を付けられ怯えていました。通行人は見て見ぬふりをして通り過ぎました。そこに彼が走って来て、「遅くなってごめん。さあ急がないと」と言って彼女の手を取って人込みの中に走り去りました。かなり遠くまで二人で走った後、「大丈夫でしたか。気を付けて」それだけ言って男性は姿を消しました。見知らぬ人だったのです。助けられた彼女は新聞に投稿しお礼を述べました。彼の勇気と機転は素晴らしいです。
神は、あなたの苦しみを見て、心配し、走り寄って、尻拭いをして下さる方です。大丈夫かい。大変だったね。でも、もう大丈夫。さあ元気を出して、人間的手段ではなく、信頼して、まっすぐな道を進むんだよ。そう励まして下さる方です。

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。(13節)

 →あなたの番です
  □人間的な解決方法を取らない
  □神は、私と私の悩みをご覧になり、助けて下さる 
  □主の助けと約束を信じよう



ヨシュア記14:10~12 今の自分を感謝する


 アメリカのサンクスギビングの時期は、日本で言えばお正月の雰囲気に似ています。遠くに散っている家族が一同に集まり、伝統的なターキーの料理とパンプキンパイを食べ、ゆったりと語り合い笑い合って過ごします。もともとサンクスギビングは、アメリカに渡った初代の移民たちが最初の収穫を感謝したお祝いの食事であり、神への感謝の礼拝の時でした。

 今日は、神から頂いた自分、そして、今の年齢を感謝することを考えたいと思います。

 まず、サムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩の冒頭部分を紹介します。

Youth                           by Samuel Ullman

Youth is not a time of life ;  it is a state of mind ; 
it is not a matter of rosy cheeks,  red lips and supple knees ; 
it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions ; 
it is the freshness of the deep springs of life.

Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, 
For adventure over the love of ease. 
This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty.
Nobody grows old merely by a number of years.   
We grow old by deserting our ideals.


青春   (サムエル・ウルマン  作山宗久 訳)

青春とは人生のある期間ではなく 心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。

 私も先月60歳になりました。70歳や80歳の人は私を見て、「若いね」と言ってくれます。高校生や大学生は「先生、若い」とお世辞を言ってくれます。(若者がこう言う場合、歳のわりには若く見えるという意味ですね)孫は私を見るとニコニコして「おじいちゃん」と呼んでくれます。私は今の自分を感謝しています。

自分をマイナス評価する人が案外たくさんいます。自分の顔のパーツが気に入らない。太りすぎだ、やせすぎだと体形を気にする。能力やパーソナリティーに劣等感を持つ。自分の育った家庭や皮膚の色を嫌がる。自分の年齢をずっと隠す人もいます。
神にもらったかけがえのない自分と今の年齢をもっと感謝しませんか。あなたは失敗作品ではなく、神の芸術品だからです。

ヨシュア記14章には、一人のスーパーシニアが登場します。

今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。
(ヨシュア14:10~12)

カレブという人は85歳になっても、肉体、精神共に壮健でした。まさにスーパーシニアです。くじ引きで割り当て地を決めていた時に、ヘブロンを与えて欲しいと願い出ました。勝ち取るには困難な山地、強敵が住んでいる場所をあえて望みました。
カレブは40歳の時、12人の斥候の一人として約束の地を偵察しました。そのうち10人は無理だ勝てない戦いは止めるべきだと主張しましたが、ヨシュアとカレブだけは必ず勝てると信仰に立って反論しました。あれから45年、カレブの信仰は衰えず、85歳になっても再び信仰の冒険に取り組もうとしました。
カレブにとって、自分がシニアであるとか、85歳だとか、年齢など何の関係もありませんでした。今の自分を感謝し、主のためにできることをしたい、それだけでした。「主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」

あなたの番です。
あなたは今何歳ですか。今日があなたの人生でもっとも若い日です。自分の年齢と賜物と経験を主に感謝しましょう。そして、今の自分で主と人々にお仕えしましょう。

私は、日本で田原米子さんというクリスチャンに出会いました。最初の出会いの時は体が震えるほど感動しました。自分に与えられた人生と命を感謝している人でした。
米子さんは、高校3年生のときに鉄道自殺を試み、両足の膝から先を失い、左手は肩からすべてを失った人です。入院治療中に米子さんは自暴自棄になっていました。そんな時にクリスチャンが彼女を訪問し、主イエスを伝えました。何度か福音を聞くうちに、米子さんは主イエスを自分の救い主として信じ受け入れました。その結果、人生が180度変わりました。生き残っても両足もない、左手もない。右手に3本しか指がないと思っていましたが、主イエスを信じた後は、「指が3本も残っている」と気づき、感謝するようになりました。義足で歩けるようになり、やがて結婚、二人の子供を産んで育てて、彼女の半生の映画が作成され、日本だけでなく海外でも主イエスのあかしをして、67歳で天に帰られました。

この感謝祭のシーズン、今のあなたと今の年齢を主に感謝しましょう。そして、今の自分を主にささげ、主に用いていただきましょう。

「今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。」(ヨシュア14:10~11)

創世記15:1~21 神は私の盾


 昔、日記に「片思い」という言葉を書いた記憶がありますか。
 神の愛は想像を超える壮大な片思いなのだと、私は思います。

1、恐れるな、わたしは盾である

 深刻な恐れは、緊張がほどけた後にやって来ます。アブラムが戦い終えてひと段落すると恐怖に包まれました。命を落としてもおかしくない戦争だった。敵は復讐に来るかもしれない。次の戦いがあったら勝てるだろうか。そんな時に主がアブラムに語られました。幻の中の言葉なので、神の言葉はいっそう鮮やかに心に残ったことでしょう。

 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1)

神はアブラムの盾だと言われました。盾とは何でしょう。兵士を敵の攻撃から守る武具です。歴戦の勇士の盾の表面を想像して下さい。傷だらけのはずです。盾は、自分が叩かれても、切られても、刺されても、兵士を守ります。私たちの神は私たちを守るため、身代わりに傷つき、敵の前に立ちはだかってくださる方なのです。十字架の主イエスを見て下さい。私たちの盾となられた神の子の姿です。

私は、自分自身が大きな恐れと困難の中を通った時、この言葉を読みました。そして、この言葉に救われました。気持ちまで変化しました。そして、乗り越えました。もし、今、苦しみと恐れの中にいる人がいたら、1節を暗記し、何度も反芻してみて下さい。

たとえ、あなたが失敗しても、嫌われたとしても、弱くても、みじめな姿でも、神はあなたを守ると約束して下さいました。神は、あなたを守るため傷ついて下さる方なのです。
「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」


2、子孫は夜空の星のようになる

「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と主が約束されたので、アブラムはその報いとは何ですかと尋ねました。主の答えは二つありました。子孫を与える。土地を与える。2節から6節が子孫について、7節から終わりまでが土地についてです。

すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(4~6節)

この出来事は、アブラムが75歳から85歳の間に起きたことでしょう。アブラムには子供がいませんでした。アブラムの家の使用人頭エリエゼルが跡継ぎになるのだろうと彼は思いました。でも主は、アブラムに実子が与えられ、その子孫の数が夜空の星のようになると約束されました。アブラムは天幕を出ました。満天の星を見上げて、主の言われた言葉をそのまま信じました。
今までの人生で最も印象深い夜空を尋ねてみたところ、ある人はハワイ島の夜空の星が素晴らしかったと言いました。ある方は、モンゴルの草原で見た満天の星だと言いました。
アブラムにとってはいつもの夜空でしたが、神の約束として示された星空は、格別の感動があったはずです。

素直な信仰。アブラムのすぐれた特徴は神の言葉を単純に信じるという点です。パウロはローマ4章でアブラムの信仰を最大級に評価しました。アブラムの命の流れは、これから連綿と何世紀にも渡って続くことになります。

ところで、聖書には色々なタイプの人が出てきますが、あなたはどんな人に似ていますか。情熱と行動の人パウロに似てますか。ペテロは弱さと情けの人。モーセは意志の強固な指導者。そして、アブラムはどんな人かというと、パウロやペテロやモーセとは全然違うタイプの人です。行動面は穏やな人です。主の約束を信じて疑わずに、何十年も淡々と平凡な日々を過ごす人です。まるでガスコンロやガスストーブの種火のような人です。派手さはありませんが小さな炎を消さない忠実な人です。あなたは、もしかしたら、アブラハムに似ているかもしれません。平凡なのに非凡。

「彼は主を信じた。」(6節)あなたも、単純に、主と主の言葉を信頼しましょう。なると言ったら、なる。神の約束とはそういうものです。


3、土地を与える契約

神が下さるもう一つの報いは、カナンの土地を永遠に与えるということでした。アブラムは、「どのようにして知ることができましょうか。」(8節)と確証を求めたので、現代風に言い換えれば神ははっきりと契約書にサインをされたのです。

契約行事の最中に夕暮れになり、アブラムは深い眠りに陥りました。悪夢を見て、「暗黒の恐怖」を体験しました。アブラムの子孫が増えるが、エジプトで400年間も奴隷になり苦しみに会うが約束の地に戻れるという預言でした。(12~16節)

当時の商習慣はちょっと変わっています。動物を二つに切り裂き、その間を契約当事者双方が歩きます。契約を破ったならばこの動物のようになっても構わないという意味なのです。

さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」(17~18節)

アブラムは3種の動物を二つに切り裂き、夜を待ちました。すると、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」(17節)が切り裂かれた動物の間を通過しました。これは神が契約したという印でした。アブラムは歩いていません。約束の責任は神が全面的に負う。必ず実現するという意味です。

昔、流行した韓国ドラマ「冬のソナタ」を見ましたか。ヨン様が演じたチュンサンが道に迷ったユージンを探し出した時に言うせりふがあります。ポラリス(北極星)は動かない。」夜空の星は、北極星以外は全部動くので迷った時はポラリスを探せば方向が分かるのです。多くの女性が感動して聞いた有名な場面です。私も妻に言ってみたりしますが、さらりと流されてしまいます。

神は、動きません。人の心が揺れ動いても、神の愛は変わりません。神の約束は必ず実現します。旧約聖書で一番大事な言葉は、ヘセドというヘブル語で、新約聖書のアガペの愛に匹敵します。ヘセドは恵み、いつくしみ、愛と訳されます。神学者はヘセドを<契約に基づく神の愛>と説明します。決して見放さないと誓ってくれた愛です。神がアブラムに約束されたことにも同じ思想が流れています。

18節で「この地を与える」と訳されていますが、原文は完了形で、すでに与えたという意味を持っています。神の約束は、必ず実現します。

「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」(18節)


→あなたの番です
 □神はあなたの盾です。恐れることはありません。
 □今、何も見えなくても、星を見上げて神の約束を信じましょう。
 □神は全面的に約束を保障してくださる。

創世記14:1~24 メルキゼデクとの出会い


 14章において、アブラムはロトを救い出しますが、そこで何を学んだのでしょうか。

1、走り出して助けに向かう

さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。(創世記14:1~2)

 イラン高原南西部に住んでいたエラム人は、BC2000年頃、メソポタミアに南部に侵入し、一時はウルを征服したといわれています。
 一方、アブラムの住んでいたカナンには小さな都市国家しかありませんでした。エラムのケドルラオメル王がメソポタミヤで勢力を伸ばし、ソドムやゴモラのを12年間支配してきましたが、13年目にソドムを含めた4都市連合軍が反旗を翻し、ケドルラオメルは軍隊を送りました。(3~4節)
 
 ケドルラオメル軍は、他の4カ国と同盟を組み、当時の通商路である「王の道」の支配権を確立するため、ヨルダン川の東側を北から南に攻め下って各地の都市を撃破(5~7節)。アカバ湾に至ると北上し、ソドムやゴモラの4カ国連合軍と戦いました。
 戦いはケドルラオメル軍の圧勝で、ソドムとゴモラの王は逃げ出し、多くの人々と食料や財宝が奪われました。(8~10節)

そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。(11~12節)

 生存者がアブラムに知らせに走り、アブラムのおいロトが連れ去られたと伝えました。アブラムは、安全保障の約束を交わしていた当地の知り合い、マムレ、エシュコル、アネルの力も借り、急いで北上。ガリラヤ湖よりさらに北のダンまで追いかけました。

アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。(14~16節)

<いつの間にか悪徳都市のソドムの中で暮らすようになったロトの自己責任だ、あんなやつ見捨てよう>とアブラムは言いませんでした。自分が75歳を過ぎた年寄りだから体力的に無理だとも言いません。もうロトは殺されているかもしれない、とも考えません。318人では勝ち目はない、と断定しません。アブラムは150マイル以上の山道を追いかけ、夜の奇襲攻撃をしかけ、敵を打ち破ってロトを救出しました。あっぱれです。
アブラムの姿から何を学びますか。あきらめない姿勢です。見捨てない心です。困った人を見捨てない行動力です。

白浜バプテスト教会の藤藪先生を私は尊敬します。自殺しようとする人を24時間体制で助けているからです。先代の江見太郎牧師が始めた働きを若くして引き継ぎ、三段壁という海に面した観光名所に立ちすくみ逡巡している人を救い出し社会復帰のお手伝いをしています。

 あなたの周囲の人が助けを求めていませんか。それはいつも突然起こります。フリーウエイで車が動かない人、救急車や消防車必要な人、宿泊場所を求めている人、相談相手を求めている人、色々な人が助けを求めています。家族や友人が助けを求めています。礼拝で尋ねてみたところ、道路で車が故障して見知らぬ人に助けられた人が多数いました。今度は、あなたの番です。そして、主イエスの福音を伝えて罪からの救いを伝えましょう。その助けはあなたしかできません。

「アブラムは~ダンまで追跡した。」(14節)


2、祭司メルキゼデクとの出会い

こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。(17節)

 アブラムは嬉しかったでしょう。わずかな兵力で強敵に勝利したのです。ソドムの王は迎えに出て、満面の笑みでアブラムを迎え、賛辞を送ったことでしょう。アブラムもまんざらではない気持ちになります。
 そこに祭司メルキゼデクが突然のように現れました。メルキゼデクはシャレム(後のエルサレム)の王、メルキが王、ゼデクが義を意味します。メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来ました。新約聖書の目で見ると、あきらかに主イエスを想起させる存在です。

また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。(18~20節)

 この言葉を聞いてアブラムは我に帰りました。今回の勝利は自分の努力ではなく、主による勝利なのだ。天地を造られた方、いと高き神のおかげで、ソドムの人々を救出し祝福をもたらすことができたのだ。アブラムは主に栄光を帰すために、10分の1をささげものをしました。

 ソドムの王は、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」(21節)と述べました。アブラムは「天と地を造られた方、いと高き神」の御名によって、つまりメルキゼデクから教えてもらった神の御名を用いて返答しました。
 アブラムはソドムの王の申し出を拒絶しました。ソドムは悪徳の町、背信の町、その王からの厚遇を受けるのは不適切と判断しました。
 もし、アブラムが勝利に酔って傲慢になるなら、祝福の注ぎ手としては失格となり、祝福は止むことでしょう。だから、このタイミングで祭司メルキゼデクがアブラムに会いに来たのです。私たちも、。成功した時、努力が報われた時、問題が解決した時は、いと高き神をほめたたえましょう。

 ネパールの赤ひげと呼ばれたクリスチャンの岩村昇医師に私は数回お会いしたことがあります。ネパールの山岳部で多くの人を助けり孤児院を開いたりした素晴らしいドクターです。ある時、重病のおばあさんを診療所まで連れていく移動手段がなく困っていましたが、シェルパ族の青年がおんぶして運んでくれました。険しい山道を3日もかかる道のりでした。岩村医師が感謝を述べ、お礼を渡そうとすると断られました。理由を聞くと、「サンガイ・ジウネ・コラギ」(みんなで一緒に生きるためだ)、と言い、むしろ「ありがとう」と言って帰って行きました。岩村医師が後に知ったのですが、この言葉はシェルパ族に伝わることわざのようなものでした。自分の労苦への評価や対価を求めない姿勢は、本来の人間の生き方を教えてくれます。

 アブラムはロトが困っていると知ると全力で助けに行きました。今日、身近な誰かが困っていると知ったなら、助けに行きましょう。
 アブラムは祭司メルキゼデクとの出会いを通して、神に栄光を帰す人になれました。勝って兜の緒を締めよ、勝っていと高き方の御名をほめよ。

「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」(20節)

 →あなたの番です
  □誰かが困っているなら、助けに行こう
  □勝利は主による、だから栄光は主に

創世記13:1~18 目を上げて何を見る

生きている限り私たちは何らかのトラブルに巻き込まれます。アブラムがトラブルをどう乗り越えたか、それを通して何を見上げるようになったか、創世記13章を見てみましょう。

1、トラブル発生

創世記13章の前半部分には、アブラムが親戚のロトとトラブルになり、平和的に別れたという内容が書かれています。

そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8~9)

アブラムはロトを連れて旅をしてきました。ロトは、アブラムの兄弟ハランの息子、つまり、おい(創世記11:27)に当たります。ロトの父は早くに亡くなり、母親も登場しないことから、身寄りが無くなったロトをアブラムが引き取ったと思われます。
 しばらくは問題がなかったのですが、エジプトから戻りベテルにいた頃、アブラムの家畜とロトの家畜が増えるに従い、両者の羊飼い同士が小競り合いを起こしました。(13:5~7)狭い範囲で多くの羊を飼っていれば、水や牧草の奪い合いが起きたのは当然でしょう。

善意で始めたことが、いつのまにかトラブルになる。こういう事は、私達の日常生活にもしばしば起こります。自分から解決策を言い出しにくい場合があります。方法を間違えると、喧嘩になったり、嫌われたり、後々まで尾を引くことになります。

 アブラムの解決方法は以下の通りです。
1)冷静に事実を話し、親戚なので仲良くしたいと述べた。
2)分かれることが解決策だと提案した。
3)一歩譲って、相手に優先権を与えた。
4)神の約束を信じていたので、カナンの地から離れなかった。

 大学の頃に私は、著名なカウンセラー平木典子先生から心理学やカウンセリングを学び、また、大学卒業後にはアサーティブ・トレーニングも受けました。平木先生は、この分野で日本の第一人者です。Assertiveの考え方は、さわやかな自己主張を行い、コミュニケーションを円滑化し、トラブルを解決する技術です。
Assertiveな生き方の基本手順は次のようになります。①事実を描写する「満員電車で、あなたの靴が私の足を踏んでいます」②事実に伴う自分の感情を表現する「私はサンダルなので、猛烈に痛いです」③解決方法を明確化する「あなたの足の場所を変えてもらえますか」④選択肢を提示する。「私がスーツケースを移動すればあなたの足の場所を確保できるでしょう。そうしてもらえないなら、あなの体を無理にでもドアに押し付けますよ」(describe explain specify →chooseというDESCの4段階)
アブラムの行動は、Assertiveな考え方にかなり近いのでびっくりします。

「私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。」(8~9節)

 人生においてトラブルは避けられないし、トラブルは嫌なものです。でも、トラブルは私達を成長させるチャンスになるし、何が大事なのかプライオリティーを確認させてくれます。

スティーブ・ジョブスは、21歳の時にアップルを設立し、30歳の時に同社から追い出され、ひどく落胆しました。でも、後になってこう言っています。「アップルを追い出されたことは私の人生で最良の出来事でした」彼は、成功ゆえの重圧から解放され、初心に戻ってNeXTを作り、アニメーション会社ピクサーで「トイストーリー」を作成し、人生で最もクリエイティブな時期を過ごせたと後に述べています。

 あなたは、今、どんなトラブルを抱えていますか。解決は必ずあります。第1コリント10:13に言う通り脱出の道が必ずあります。あなたが祈りと勇気を持って、ノーと言う態度がきっかけかもしれません。トラブルに出会った時は、主に頼りつつ、冷静に事実を描写し、自分の感情を伝え、明確に方向性を示し、選択肢を提示しましょう。



2、アブラムの見たもの

 主は、スポーツの名監督のように、要所でズバリとアブラムにアドバイスをされました。トラブルを乗り越えた後、人は相手の悪口を恨んだり、過去に捕らわれるものです。でも主は、彼に目を上げよと命じました。人生の指針となる主の約束に目を留めよと諭したのです。

ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(14~17節)

行く所を知らずに主の示す場所に出て行く事と、まだ実現していない神の約束を信じ続ける事は本質的に同じことです。アブラムは主と主の約束を信じました。

ロトが目を上げて見たのは、悪徳と背信の町ソドムとその付近の肥沃な地域でした。(10~13節)一方、アブラムは目を上げて、主の約束を見上げ、主が約束された全地に目を向けました。その後、アブラムはパレスチナ中央高地を南下してヘブロンに居を構え(18節)、主への祭壇を築きました。アブラムは、人生の節目となった場所、つまり、神の臨在を身近に感じた場所を記念して祭壇を築き礼拝をささげる人でした。ベテルでもアブラムは主に祈りました。「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」(4節)祭壇で主を礼拝するたびに、神の約束を感謝し、神の約束は実現すると信じたのです。ヘブロンでも「主のために祭壇を」(18節)築きました。
たとえ、子供がいなくても、テント生活の遊牧民で一坪の土地も所有していなくても、アブラムは主の約束を信じました。

3Mに研究員のスペンサー・シルバーがいました。粘着力の強い糊の開発を依頼され、1968年、粘着力の弱い糊を作ってしまいました。それから5年たった頃、彼の同僚で教会の聖歌隊員だったアート・フライは讃美歌集にしおりを貼れてはがせる糊の便利さに気づきました。やがてこのアイデアが「ポストイット」として大ヒットし、世界100カ国以上で売られるまでになりました。実に小さな発明品でしたが、世界の人に便利さを提供できたのです。

あなたも言ってみれば失敗作です。(失礼!私もです)それでも世界は私やあなたを待っています。あなたは必ず祝福されるし、誰かの祝福になります。あなた自身を主と身近な人々のためにささげましょう。実現していない神の約束を信じましょう。救いと喜びと希望と慰めを世界に届けましょう。あなたに関する主の約束は必ず実現します。

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」(14~15節)

→あなたの番です
 □トラブルには解決の道がある
 □神の約束を信じて、世界を祝福する者となろう

創世記12:1~20 アブラハムの平凡と非凡


 12章から創世記の後半部分が始まります。堕落した人類と混乱した世界を救うため、神は一人の人物を選ばれました。それがアブラム(後のアブラハム)です。

 アブラムは主からの招きに応答してカナンの地に移住しました。これは大きな冒険でした。その後、約24年間、彼は平凡な毎日を過ごします。それでは、なぜ、アブラムが信仰の父と呼ばれるのでしょうか。

1、平凡な生活?

その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

 アブラムの父親テラは、チグリス・ユーフラテス川下流のウルの町から中流地域のハランという町に移住しました。テラは3人の息子、アブラム、ナホル、ハランとその妻も連れて行きました。テラはカナンに行く計画を中断し、そこで死にました。(創世記11:27~32)そんな時に、アブラムに神の声が迫ってきました。「わたしが示す地へ行きなさい。」

アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。(12:4~5)

アブラムは神の命令に従いました。安定を捨てて、見知らぬ土地カナンに移住しました。妻も、財産も、おいのロトも伴いました。75歳の新たな出発です。主に従う場合、年齢は関係ありません。
アブラムたちはパレスチナ中央山地の尾根に沿って南下し、シェケムを通り、とアイの中間地点を訪れました。(6~8節)アブラムは、神から重要な言葉を頂くたびに、また、主を身近に感じて礼拝した場所に祭壇を築きました。

12章後半の10~20節の内容は、アブラムの失敗談です。
ききんが起きたので、アブラム一行は食料の豊富なエジプトに一時避難しました。アブラムは身の安全のために妻サライを自分の妹と偽りました。65歳を過ぎたサライでしたが、その美貌ゆえにエジプト王の宮廷に召し入れられ、それが災いしてエジプトに害を与え、エジプト人に嘘を責められるも、からくもパレスチナに戻れました。
アブラムは不完全で、弱さを持っていたのです。

アブラムが約束の地に出かけた75歳の時から99歳までの24年間、彼は何も特別なことをしていません。波風はありましたが、いわば平凡な日々を送りました。
平凡な毎日でしたが、アブラムの信仰は非凡でした。アブラムの妻、「サライは不妊の女で、子どもがなかった。」(11:30)という状態でしたが、アブラムは神の約束を信じたのです。きっと子供が生まれ、その子孫が増え、世界を祝福すると信じたのです。24年の間、神の約束が実現しなくても、アブラムは神を信頼しました。自分の弱さに気づき、失敗でへこんでも、神を信じることを止めません。そこが、アブラハムの信仰の非凡さなのです。



2、祝福の注ぎ口として

神がアブラムへに言われた言葉を、もう一度思い巡らしましょう。

その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)

あなたにとって、「生まれ故郷」、「父の家」とは何でしょう。そして、「わたしが示す地」とはどこでしょう。

住み慣れた場所から離れ、神が行けと言われる場所に出て行く用意がありますか。人によっては、結婚する、仕事を変える、引っ越す事などが主の示される道です。それだけでなく、主が示された地が、家のペンキを塗ること、家族に温かい言葉をかける事かもしれません。今、示されている地に出かけましょう。

神に従うなら、アブラムとその子孫によって地上のすべての民族が祝福されるのです。アブラムが世界の祝福の注ぎ口になるのです。

昌子さんはクリスチャンの看護師で、毎週土曜日に全身麻痺を抱える男性をお見舞いしました。約8年の間に、彼はクリスチャンになりました。その彼が一枚の絵を昌子さんにプレゼントしました。初めて口で絵筆をくわえて描いたランの絵です。やがて、昌子さんは彼と結婚を決意しました。主の示された道を歩み出したのです。彼の名は、星野富弘さん。富弘さんの描いた絵は、昌子さんが絵具を出して夫を支えてきました。その詩画は多くの人を励まし、主の祝福を世界中の人に届けています。

あなたも私も、祝福の注ぎ口になれます。主の示される道に出て行きましょう。そして、主の祝福の約束をずっと信じ続けましょう。クリエイティブに考えれれば、主のために生きる道は100万通りもあるはずです。

 米国の秀才が集まるスタンフォード大学でこんな授業が行われました。
クラスの各グループが5ドルを元手に、週末に実働時間2時間でお金を稼ぎ、その結果を3分間のプレゼンテーションにまとめるというプロジェクトです。あなたなら、何をしますか。
よくあるアイデアで洗車やレモネードスタンドをしたグループもありました。自転車の空気圧を調べてタイヤに空気を入れるサービスも評判になりました。人気レストランで順番を取り、列の後ろの人に売った例もありました。広告を取って来て、プレゼンテーションの時にクラスの皆に見せたグループは650ドルをもうけました。
 
世界と人間の問題を解決するために、神は一人の人物を選び、献身をうながしました。神が求めているのは、お金ではありません。神の示した道に出て行く人物です。

あなたの番です
□「わたしの示す地」に出て行こう
□平凡な毎日を、非凡な信頼をもって生きよう
□主のためにもっとクリエイティブに!

創世記10~11章 バベルの塔


 主が、バベルでしたことを、誰が予想できたでしょう。

1、ノアの息子たちの子孫

これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。(創世記10:1)

 ノアの3人の子供から、世界の民族が生まれました。
 ヤペテの子孫は、海沿いの国つまり地中海、カスピ海、黒海沿いの民族となり、ヨーロッパに広がっていきました。(5節)マゴグ、マダイは黒海沿岸の東ヨーロッパの人々。アシュケナズはヨーロッパ人、タルシシシュはスペイン、ドダニムはギリシャの人。

 ハムの子孫は、クシュ(エチオピア)、ミツライム(エジプト)をはじめ、中近東、バビロンへと増え広がり(6節)、イスラエルと後に対立するカナン人もその流れの民族です。(15~18節)

 セムの子孫からは、ユダヤ人が生まれ出ます。(11:10~32)セムの子孫テラの息子であるアブラハムがユダヤ民族の父となります。創世記は、カメラをズームアップして多数の人々の様子からアブラハム一人に焦点を合わせることになります。


2、バベルの塔

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:1~4)

ハムの子孫のニムロデは、地上で最初の権力者(10:8)となり、シヌアルの地でいくつかの町を建て、「バベル」(10:10)も作りました。「頂が天に届く塔」(4節)を建設するつもりでした。世界一番高い建物とは、その町や国の国力が世界一だと示す印です。

シヌアルの地とは、チグリス・ユーフラテス川流域の平野。この地域にはジッグラト(ziggurat)と呼ばれる遺跡が残っています。空から俯瞰すると四角形で、地上から見ると大きな台形を2層、3層に重ねた建造物です。この地では硬いレンガを作る技術が発展し、瀝青を防水材・結合材として使ったようです。瀝青は、石油を産出する地域で見つかる天然のアスファルトです。

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(11:5~8)

 この箇所には強烈な皮肉が込められています。バベルの人々は天にまで届く塔を作り、神のようになり、自分たちの名を広めようとしました。けれでも、神が「降りて」みないと様子が分からないほどの低い建物だったのです。神の領域に達したと豪語する人間の愚かさは、すべてこのようなものです。

 神は、人々の「ことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないように」されました。それにより、人々は世界に散って行ったのです。

 今日の箇所で大事な事はこれです。
 私たちが最も大切なものを見失う時、驚くようなショック療法を神は用いられる。

 言葉が通じなくなりました。相手の言ったことが分からない。自分の言おうとしたことが伝わらない。その結果、同じ目的で協力できない。人と人の間が断絶しました。
 もし、あなたが、身近な人との間で心が通じなくなったなら、あなたのバベルの塔を神が壊そうとしているのです。


3、ことばが通じる世界へ

 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(11:9)

混乱させるというヘブル語が「バーラル」です。バーラルしたので、その町がバベルと呼ばれたのは納得できる。つまりここは、語呂合わせによる説明です。

ヨハネの福音書の冒頭で主イエスが何と呼ばれていたかを思い出して下さい。
「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
主イエスは、言葉として神と人を結ぶ方です。主イエスは、十字架の救いによって、人と人との心をつなぐ方です。だから主イエスを知った人は、人本来のコミュニケーションを取り戻せるのです。「ごめんなさい」を言えるし、「ゆるす」と言えるし、「愛している」と言えるし、「私もです」と共感する心も、主イエスのゆえに回復できるのです。
 ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちが外国の言葉で福音を語りました。それはバベルの塔で分断された人々をつなぎ合わせる印となりました。

 あるアメリカ人男性は心に傷を負ってベトナム戦争から帰ってきました。彼は仕事に没頭して成功、やがて浮気をし、アルコール依存になりました。妻も夫もクリスチャンでした。そんな夫を赦せない妻は、夫を軽蔑しました。そんな時、結婚カウンセラーに話を聞いてもらい、聖書の言葉に従うチャレンジを受けました。「妻もまた自分の夫を敬いなさい」(エペソ5:33)を実行してみたらどうかと。神の言葉なので、結果は神が責任を持ってくれると教えられました。熟慮の上、今の夫の姿に左右されず、神の言葉に従ってみることにしました。夫が仕事をしてくれることを感謝し、尊敬している気持ちをきちんと伝えました。すると、夫の態度が変わり、結婚以来一度も妻の車を洗ってくれたことがないのに、急に洗ってくれました。皿を洗ってくれました。もらったボーナスから500ドルをお小遣いとしてくれました。断絶していたコミュニケーションが回復したのです。

現代は、神を無視し、人間がバベルの塔をあちこちに建てる時代です。そのような価値観から離れて、神と共に生き、神の栄光を求め、身近な人と心通じる生き方をしたいですね。

→あなたの番です
 □あなたがバベルの塔を作っていませんか
□あなたが修復したい人間関係は何ですか
 □主イエスは、愛のことばとして、私達の間にいてくださいます