ヨシュア記24:1~33 ヨシュアの最期



 ヨシュア記の最終章を迎えました。

 ヨシュアは、民の指導者たちをシェケムに集めました。のろいを象徴する北のエバル山と祝福を象徴する南のゲリジム山の間に位置する町がシェケムで、あなたはどちらを選ぶかと迫っています。
ヨシュアは、指導者たちを神の前に立たせ、神の言葉を聞かせ(1~13節)、いつまでも主に仕える決意をさせ(14~24節)、それを石に記しました(25~27節)。その後、ヨシュアは110歳で死去します。(29節)これがヨシュア記最後の章、24章の内容です。


1、神が語られたこと

ヨシュアの遺言が23章なら、24章は神の言葉を取り次ぐ最後の言葉と言えます。2節から13節は、神が語られた言葉そのものです。
内容は、アブラハムの祖父テラが、他の神を拝み、ユーフラテス川の向こうに住んいた時から始まり、約束の地にイスラエルの人々が移住できたことまでに及んでいます。

わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。(3~4節)

3~4節から神がしてくださったことをピックアップしてみると、「(アブラハムを)連れて来る」「歩かせる」「子孫を増す」「(イサクに)ヤコブとエサウを与える」「セイルの山地を与える」「所有させる」となります。すべてが、「わたし」つまり、神がして下さったことなのです。

神が語られた言葉で、何度も繰り返されるのは「わたし」という言葉です。新改訳聖書では14回も繰り返しています。歴史とは、神を信じる人々のために神が為して下さった良き事の記録と理解することもできます。

私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。(17節)

イスラエルの指導者は、神の言葉を聴いた応答として17節を語り、第一に神の導き、第二に奇跡、第三に神の守りがあった事を認めました。
私たちも時間を取って、1年を振り返ってみましょう。神がどのようにあなたを導いて下さったか。神がして下さった奇跡は何か。神がどんなふうにあなたを守って下さったか。
私は、カレンダーを開けて、その月ごとに神がして下さったことをもう一度確認して、主に感謝しました。あなたにも、神の導き、奇跡、守りがあったはずです。
涙の多い一年でしたか、苦しみの多い一年でしたか、暗闇の一年でしたか。そんな年ほど、神の恵みは大きいのです。



2、主に仕える

14節から24節で繰り返される言葉は何でしょう。「主に仕える」(9回)です。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。(14節)

神のなさった事を振り返ると、神こそ誠実で真実な方だと分かります。それに対する私達の応答も、誠実で真実で神を恐れ敬い、主に仕えるというのは当然の応答だと思いませんか。

ヨシュアは、イスラエルの指導者たちの姿勢がいまひとつと認識したのでしょう。厳しい警告を加えながら、真剣に主に仕えるようにと押し問答を続けました。

すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」(19~20節)

イスラエルの民は、主に仕えると真心から告白し、契約の石にそれを書き記し(24~27節)、事実として、ヨシュアと共に歩んだ長老たちが生きているうちはイスラエルの民は神から離れることはありませんでした。(31節)

あなたは、神に仕えますか。  何をすることによって、神に仕えますか。

“Date your wife”という本は素晴らしい本です。著者のJustin Buzzardは、毎朝、結婚の誓いに目を通します。毎年一年間の妻との楽しいプランを立てます。子供が生まれるまでは、毎月2泊でどこかに二人で泊まりに行く計画を立てました。遠くに住んでる友達の家を取り替えっこするだけの旅行も、テントで泊まる計画もあるので、あまりお金もかかりません。3人の小さな男の子が生まれた後は、毎週金曜の夜に妻とデイトをして、子供たちは友人に預かってもらいました。妻との計画を最優先して、仕事でキャンセルにしません。妻を愛しているから、夫のジャスティンが率先して計画を立てるのです。

あなたは、神を愛していますか。
神のために、新しい年はどんな計画を立てますか。
何を最優先しますか。
伝道のために、あなたのスケジュールをどう変更しますか。
あなた自身の霊的成長のため、修養会やECに出るため日程を取り、貯金しますか?
人を育てるために、あなたの優先順位をどう変更しますか。
毎日聖書を読む計画を作りますか。

あなたは、具体的に何をして、主に仕えますか。


→あなたの番です
□今年1年の、神の導き、奇跡、守りは何でしたか
□新しい年に、主のためにしたいことは何ですか

 ヨシュアは力強く言いました。私たちもそういいましょう。
 「私と私の家とは、主に仕える。」(15節)


ピリピ2:6~11  仕えるためのクリスマス



クリスマスは、神が人となられた日です。


1、捨てる

ピリピ人への手紙を読むと、クリスマスにどんな意味があるのかが分かります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」(ピリピ2:6)

主イエスは、クリスマスに何かを捨てました。
何を捨てたのでしょう。神であることを捨てたのです。それがクリスマスです。

一人では生きていけない、一人では何もできない赤ちゃんの姿となって生まれて来たのです。

 私はあるお母さんを知っています。歯医者さんに行って、健康な歯を全部いっぺんに抜いて下さいとお願いしました。総入れ歯にするためです。詳しく説明する字数がありませんが、弱さを持って生まれた赤ちゃんを育てるためには、その道しかなかったのです。

あなたも、何かを捨てる必要に迫られるかもしれません。もしあなたが、自分の意思で何かを捨てるなら、それは、失うのだけではありません。見えない世界で何かを得ているのです。

 何かにしがみつくから失敗するのです。自分の意思で、捨てましょう。誰かを愛しているなら捨てられます。



2、下る
 
 主イエスは、下りました。上から下に降りました。

「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(7節)

主イエスは、人間になりました。私たちとまったく同じ人になられたのです。弱さも、孤独も、痛みも、誘惑も、私たちとまったく同じです。

若いお父さんは、子供の誕生に戸惑い、おしめを代えるという「試練」で打ちのめされます目。離乳食を食べるようになると、赤ちゃんのうんちが大人に近づき、「俺にはできない、助けてくれ、紙おむつの取替えは無理だ」と大抵のお父さんが音を上げます。
私も苦労しました。はっきり言いましょう。プライドがじゃまして、おしめを代えることができないのです。俺がやることじゃないと思うのです。そこから、降りてみましょう。プライドを捨てましょう。下ってみましょう。

捨てることは、通常は、私たちの一部を失うことです。下るということは、私たちのプライドを捨てるということです。プライドとは、自分自身です。
下ることによって、不自由になります。下ると、ばかにされます。下ることにより、自分が本来の自分でない気持ちがします。

自分から、降りてみましょう。下に行ってみましょう。誰かと同じところに立ってみましょう。今まで見てきた世界がどんなに傲慢だったか気がつきます。



3、死ぬ

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(8節)

捨てることは自分の一部を失うことで、下ることは自分のプライドを捨てることで、死ぬことは自分の最も大事なものを誰かのために使い尽くしてしまうことです。
主イエスは、私たちの罪を身代わりに背負い、私たちの受ける罰を受けてくれました。文字通り、私のために生まれ、私のために死んでくれた方なのです。

 十字架は屈辱と恥を伴う刑でしたので、当時の特権階級であるローマ市民はどんな悪人であっても十字架刑にはなりません。ユダヤ人の目から見るなら、十字架刑は神にのろわた者の印でした。(申命記21:23「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」、ガラテヤ3:13)

 主イエスが十字架についたという事実は、神の愛がどんなに広く深いかを表わしています。

リー・ストロベルは、シカゴトリュビューンの新聞記者で無心論者でした。ある年の11月、シカゴの西部に住む貧しい家族を訪ね、その様子を記事に書きました。60歳の祖母が11歳と13歳の孫と暮らしていました。部屋には食卓があるだけで、何もありません。シカゴの冬は寒いのです。でも孫娘たちは半そでの衣類しかなく、1枚あったグレーのセーターも薄手のものでした。祖母のデルガドスさんは主イエスを信じていて、イエスさまは私たちを見捨てる方ではないと語っていました。
ストロベル氏がクリスマスイブにその家を訪ねました。部屋は、新聞読者が送ってくれたプレゼントであふれ、電気製品、家具、暖かい衣類、食料、クリスマスツリー、そして現金が届いていました。デルガドスさんは言いました。感謝してるよ。でも、私らが働いて稼いだものじゃないんだ。プレゼントなんだ。近所には貧しい人がたくさんいる。だから、これから、届けようと思っている、と話しました。ストロベル氏は、その発言と行動に心を揺さぶられました。デルガドスさんは続けました。一番すばらしいプレゼントは、クリスマスに生まれてくださったお方、イエスさまだよ、と心から言うのでした。

→あなたの番です
□捨てる、下る、死ぬ。主イエスがして下さったことに感謝しましょう。
□今週、誰かに仕える人にさせてもらいましょう


ヨシュア記23:1~16  右にも左にも



「歳を重ねて、老人になった」(2節)「見よ。きょう、私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。」(14節)ヨシュアは、いわば、遺言として23章と24章を全イスラエルの前で語りました。

よく出来た息子と問題の多い息子の二人を残し、世を去ろうとする実業家が遺言するとしたら、どんな言葉を残すでしょう。
優秀で信頼できる息子には、「後は頼んだぞ、お前に何も言うことはない、謙虚な心を忘れるな」と言うでしょう。その反対のタイプの息子には、注意と警告の言葉を残すでしょう。

ヨシュアはどちらのタイプの遺言を23章で残したのでしょう。厳しい警告からみて、後者です。イスラエルの民が堕落して神に背く可能性があるとヨシュアは見抜いていたのです。


1、戦われたのは主

あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。(3節)

戦いの主役は自分達ではなく神だったのです。このことを、イスラエルの民はしっかりと心に刻む必要がありました。

今年一年、あなたの戦いはどんな戦いでしたか。勝利できたなら、それは主のみわざです。主にあって、あなたは一騎当千の武将とされました。これからも、主に戦っていただきましょう。

 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。(10節)



2、右にも左にもそれず

 水泳で難儀するのは背泳です。私が背泳ぎすると、プールの壁が近寄ってきます。私たちの信仰も曲がりやすいのです。

あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。(6節)

クロールで泳ぐなら私は曲がることはありません。理由は簡単です。底に見える線に沿って泳いでいるからです。信仰も同じです。右にも左にも逸れない秘訣があります。主イエスを見て、主イエスについていけばいいのです。主イエスも「ついて来なさい」と言っておられます。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)

戦いが起こり、試練がやって来た時、私たちは主イエスから目を離して自分流の方法でその場を無理やり乗り越えようとします。場合によっては罪を犯したり、嘘をついたり、神を裏切ったりしてでも、自分を楽にしようとします。つまり、右や左にそれるのです。そういう時こそ、主にすがり、主を愛しましょう。

ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。(8節)

 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(11節)




3、堕落の危険性

 ヨシュアが特に声を大にして語ったのは、堕落の危険とその結末です。

しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。(12~13節)

もし、偶像の神に心を寄せ、この世の流れにどっぷりと浸ってしまうなら、最後に待っているのは滅びだとヨシュアは警告しました。「滅びうせる」(13、16節)、「根絶やしにする」(15節)と繰り返し言いました。
主は約束された良いことを一つ残らず実現された方なので、約束された滅びも確実に来るとヨシュアは念を押します。

 あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。(15節)

 ヨシュアはこの章で、「私の神」と一度も言いません。「あなたがたの神、主」という言葉を11回も繰り返しました。(3、5、5、8、10、13、13、14、15、15、16節)イスラエルの民に、信仰を自覚してほしいのです。私の神は生きておられるとはっきり分かってほしいという願いで、執拗に「あなたがたの神、主」という言葉を使ったのでしょう。

牧師の息子で大学を中退し俳優になったアメリカ人がいました。成功と不安を行き来し、やがては酒におぼれ、薬物に手を出し、大きな邸宅も人手に渡しました。クリスマスを前にして、妨害が入らないように家のドアを釘で打ちつけ、致死量の薬物を摂取しようとした矢先、電話がかかってきました。兄からでした。実家に集まりみんなでクリスマスをお祝いするところだ。母が夢を見て、お前が死のうとしていると言うんだ。こっちに来ないか。今、祈ろう。電話口で、彼は「罪人の私をあわれんでください」とだけ祈ったのですが、神に包まれるような温かさを感じ、人生の新しい一歩を踏み始めました。やがて実家に戻り、家族に支えらリハビリし、やがては牧師になりました。

ヨシュアは、外敵に勝利し、内部分裂の危機を乗り越えました。次の敵とは、自分自身の弱さなのです。私も、あなたも、神から離れ、軌道を離れやすい弱さを持っています。だから常に主イエスに目を向けていましょう。それたら、悔い改めて戻ればいいのです。

「主にすがらなければならない」(8節)
「主を愛しなさい」(11節)

 私のメッセージでの口癖は、「主は生きておられます」です。これは、いわば私の遺言のようなものです。私が死んだら、この言葉を思い出してください。(まだ死にませんよ)
「あなたの番です」という言葉もよく言います。神はあなたの神ですから、あなたなりのレスポンスをして下さいという意味です。
そして、私が、体全体、私の生涯すべてで語り続けたいことは、「あなたはやり直せる」です。どんな問題に出会っても、必ず立ち直れます。私は過去につぶれたことがあります。倒れたことも、死にたいと思ったことも、貧しくなったことも、明日の希望が見えなかった数年間も経験しました。でも、いける神が共にいて下さいました。神が私を励まし支えてくださいました。それで、立ち直れたのです。

さあ、あなたの番です。
□神が勝利して下さったことを振り返りましょう
□あなたは一騎当千の器にされました、神と共に戦いましょう
□道をそれたら、悔い改め、戻りましょう

「そこから右にも左にもそれてはならない。」(6節)

 

ヨシュア記22章  誤解


 外敵との戦いをひとまず終えたイスラエルは22章に入って、あわや内戦、見方同士の殺し合いという瀬戸際に立たされます。
 これは、私たちの日常生活でよく起きることで、意気消沈する結果を招きます。夫婦のいがみ合い、親子の断絶、友人同士の仲たがい、教会の分裂など私たちも経験する出来事です。
 今日は誤解について考えましょう。誤解の発生要因を検証し、解決方法を探りましょう。

1、2部族半の気持ち

ルベン、ガド、マナセの半部族はすでに相続地をヨルダン東側に得ていましたが、他のイスラエル人と共に今まで戦ってきました。ヨシュア記1:12~18で約束したように、どこへでも行き、何でもするという献身姿勢を最後まで崩しませんでした。
それでヨシュは2部族半の人々の姿勢を高く評価し、祝福して彼らを居住地に帰しました。(ヨシュア記22:1~5)その興奮さめやらぬ中で2部族半の人々は祭壇を築きました。

申命記12章は、いけにえをささげる祭壇は1箇所と明記しています。「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。」(申命記12:13)
別な場所に祭壇を作ったので、誤解の種になりました。

祭壇を作った理由は、自分たちもイスラエルの一部だと証拠を残すためでした。

しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。(ヨシュア記22:24)

「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」(28節)
 
 ヨルダン川西側の人々は、二部族半の人々の気持ちは理解できず、神への反逆、イスラエルからの離反と判断、早急に滅ぼすべきだとの強硬論が支配的となりました。

2、誤解が生まれる背景

 一般的に言って、誤解は次の要素で起きます。
1)外観とうわさと先入観(主観的な判断、好き嫌い)
2)感情的な行動(思慮の欠けた対処、話し合うことを避ける態度)

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。(10節)

 ヨルダン西部の人々は、見える部分、外観だけで判断しました。

イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」(11節)

2部族半が神に逆らい、不信の罪を犯し、独立分派行動を起こしたとのうわさに惑わされたのです。先に領地を得たしたたかな連中という先入観もあったかもしれない。

 今すぐ、ヨルダン東側の2部族半を攻撃し、滅ぼすべきだと頭に血が上ってしまった。

イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。(12節)

早急な態度を取ったイスラエル人とあなたは似ていませんか。
 
 自分を点検しましょう。
□外見と噂と先入観で人を判断していませんか
□感情に流された早急な行動をしていませんか

 夜中に見たEmailで感情を害し、かっとなって書いたメールがあるなら、送信ボタンを押すのは明日にしましょう。押さなくて良かったときっと思うはずです。

3、解決方法

 イスラエルの民は、どのように解決しましたか。
1)攻撃を中止する
2)早期に面会し、真意を確認する

それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。(13~14節)

 中立的な立場の祭司ピネハスを中心とした調査団が派遣されました。すばやい行動、直接会う。この二点は人間関係トラブルを解消するために、極めて有効な方法です。

ピネハスたちは怒っており一方的に決め付けていた(16~20節)ので模範的な調査団とは言えませんが、率直に疑念を述べ、2部族半の真意を確認できたのは主のあわれみといえるでしょう。「きょう、私たちは主が私たちの中におられることを知った」(31節)という記述は、主の介入、主の臨在を感謝した言葉だといえます。

誤解すること、誤解されること。これは、生きてる限り避けられません。私たちの中におられる主イエスの助けがあれば、誤解問題に勇気と愛で対応できます。
最後に試されるのは、あなたの勇気です。ある神学者は、勇気とは神への祈りの中で告げられる恐れだと表現しました。目を閉じてあなたの正直な恐れと願いを神に告げ、目を開けたときには勇気を持って誤解問題に立ち向かいましょう。

→あなたの番です。
□直接会う
□事実を確認する
□謝罪する
□和解する
□主をたたえる

そこで、イスラエル品は、これに満足した。それでイスラエル人は神をほめたたえ(33節)

ヨシュア記20:1~9  のがれの町



 約束の地が12部族に分割された後、のがれの町が設置された。
ヨルダン川の西側に3つの町、南から、死海西側のヘブロン、エフライムの山地のシェケム、ガリラヤ地方のケデシュ。ヨルダン川東側にも3つ、南から、ベツェル、ラモテ、ゴラン。(ヨシュア20:7~8)
今日は、のがれの町の意味について考えよう。

1、人は失敗することがある

あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。(ヨシュア20:3)

 どんなに真面目な人でも、失敗を避けることはできない。「あやまって」とか、「知らずに」ミスを犯す。場合によっては殺人者になる可能性もある。
 大切な人を殺されたなら、身内の人は感情を抑え切れずに復讐するだろう。その危険から守るために、のがれの町が作られた。
これは、神が定められた制度だ。(出エジプト21:13、民数記35:9~15)のがれの町というシステムの中に、神のあわれみ、神の愛を見ることができる。

 神は、私たちの弱さを知っていてくださるのだ。
私たちが失敗した時でも、神は私たちを守ってくださる。

 誰かが失敗をした時、あなたはどうしてきましたか。きちんとやらないからだとお説教しますか。失敗をくどくどと責めますか。それとも、割れた皿をいっしょに集めてあげますか。
真面目な人ほど、人の失敗を厳しく責める傾向がある。気をつけよう。今週は、誰かの失敗に寛容になって、励まし、応援する人になろう。神は、のがれの町を作ってくださる方だ。

 東京で電車に乗っていたとき、持っていた二つのスーツケースに気を取られ、大事な物の入った鞄を棚に置き忘れたことがありました。身軽だなとホームで気づいた時には電車は行ってしまった後でした。この失敗を身近な人に話すと同情してくれて、祈ってくれました。それにどれだけ助けられたかしれません。
 失敗した人は、一番後悔し、自分を責めているものです。必要なのは、励ましです。


2、告白

人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)

 過失で誰かを殺してしまった人は、のがれの町に逃げ込み、復讐する者から守ってもらえる。けれども、門の入り口で必ずしなければならないことがある。自分のしたことを、はっきりと、正直に、洗いざらい話す必要がある。これは、のがれの町に逃げ込むためにはどうしても必要なこと。

 たとえば、木を切ろうと斧を振り上げたとき、誤って柄から斧の頭が抜け、それが友人に当たり死んでしまいました(申命記19:5)と門で言うのだ。

 私たちは、自分のした失敗を正直に、洗いざらい話す必要があります。あなたは、誰にそれを話しますか。何を話しますか。つらくても、包み隠さず話すことが次への道になる。


3、大祭司が死ぬ時まで

 過失致死となる事故を犯して逃げて来た人は、のがれの町から出てはいけません。もし、町から出て、復讐する者に見つかったなら、命の保障はありません。けれども、例外がありました。大祭司が死んだときは自分の町に帰ることができました。

その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節)

 なぜ、逃げ込んだ人が自分の町に帰れるのでしょう。
 大祭司の死が、犯した罪のあがないとなるからです。みがわりの死です。

 これは、イエス・キリストの十字架を予告する制度です。
 私たちにとって、主イエスがのがれの町なのです。

  「自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節) この言葉に大きな慰めと励ましが込められています。逃げ出して来た町に、再び戻れる日が来るのです。人生をやり直すことができるのです。大祭司の死によって、誰かが生き返るのです。

→あなたの番です。
 □誰かが失敗したとき、責めずに慰めてあげよう
 □自分が失敗したとき、神に告白しよう
 □イエス・キリストのみがわりの死に感謝しよう 

彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)


ヨシュア記14:1~15  カレブ、85歳


 ヨルダン川東側の分割は完了し、西側部分に関してはくじ引きで公平に割り当てていました。(ヨシュア記14:1~5)そこには、9部族とマナセの半部族の族長らが集まり、ヨシュアと大祭司エルアザルが立ち会っていました。
そこにユダ族のカレブがやって来て、くじ引きによらず、ヘブロンを割り当ててほしいと願い出ました。なぜカレブはそう言ったのでしょう。なぜ、特例が認められたのでしょう。今日のテーマは、カレブの信仰です。


1、従い通す信仰とは

ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。(ヨシュア記14:6~9)

 カレブの特徴は、主に従い通す信仰です。「主に従い通しました」(8節)、「主に従い通したからである」(9節)「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである」(13節)

 民数記13章によると、カレブは40歳の時、約束の地を偵察する12人の1人に選ばれて遣わされました。斥候たちはモーセに結果を報告し、10人は否定的意見を述べ、ヨシュアとカレブだけは肯定的に報告しました。想定外の困難な状況を聞いた人々は混乱し、泣き叫びました。

 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しおう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)

従い通すとはどんな事でしょう。強敵が目の前に立ちはだかっても、神の約束があるので、きっと征服できると信じる事です。たとえ、仲間の大多数が不信仰に陥り、自分が少数派になっても、決して信仰の妥協をしない姿勢です。10年、20年、40年と約束が実現しなくても、約束の実現を忍耐して待てる心です。

 不信仰に陥ったイスラエルの民は荒野で無為な40年間を過ごし、最終的には全員が滅びました。約束の地に入れたのはヨシュアとカレブだけでした。

 あなたに、お聞きします。
 神の約束があるが実現していないとします。カレブならどう考えますか。
 目の前に大きな困難が立ちはだかりました。カレブならどうしますか。
 大多数がもうだめだと言っています。カレブなら何と言うでしょう。
 ずいぶん時間がたって実現不可能という雰囲気です。カレブならどうしますか。
 
従い通すとは、神を信頼し、困難に動じず、多数派に飲み込まれず、長い年月を待てる信仰です。カレブの信仰、従い通す信仰、これを私の信仰として定着させたいですね。

 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。(ローマ4:21)


2、山地を与えてください

今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(ヨシュア14:10~12)

カレブは85歳で元気です。壮健です。まだ、戦えます。なぜ、彼はこれほど元気なのでしょう。神の約束が実現する日に備えて、鍛錬を欠かさず、セルフコントロールを心がけたのだろうと私は思います。
「主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました」(10節)とあるように、5歳で生かされている事自体が、神の真実さのあかしだとカレブは理解しています。生かされている事は、神の使命実現のため神が期待しているという意味です。

カレブが特権的に求めた相続地とはどこでしょう。普通は、緑多く、水豊かで、平坦で、平和な土地を望むでしょう。
ところが、カレブは、平地ではなく「山地を与えてください」(12節)と言うのです。45年前、斥候たちが恐れをなした巨人族、ゴリアテの先祖アナク人が住む町、ヘブロンをあえて求めました。カレブは実際、ヘブロンを完全に征服しました。

それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。(13~14節)

困難な課題。強敵。不可能。巨大な山。
これこそ、神を信じる者が武者震いして、立ち向かうべき相手なのです。

“Date your wife” Justin Buzzard2012年)という本は男の自己中心性をあばく強烈な本です。英語もあまり難しくないので、ぜひお読みください。夫たちよ、妻とデイトしなさい。最初のデイトのあの興奮、不安、期待を思い出せ。彼女が喜ぶ顔を夢見て、場所選びや何を食べるかまで計画したはずだ。そこに、愛があったはず。同じことを結婚後も続けよ。その姿勢をキープすれば、妻は笑顔になり、妻は変わる。
この本には、妻に裏切られた夫の話が出てくるが、聖書の原則に気づいた彼が、険しい山のような問題に正面からぶつかり解決する実例が書いてある。創世記で神がアダムに与えた使命、つまり、「そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2:15)という仕事は、夫が妻に対してなすべき使命であり、その使命をないがしろにしてきた結果だと気づく。そして、みごとに険しい山を登り、すばらしい恵、奇跡が起きたと書いてあります。


険しい山にこそ登ろう。
「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」(12節)

→あなたの番です。
□あなたもカレブになるように召されています
□あなたが登るべき険しい山地とは何ですか
□山を登り始める一歩とは何ですか。実行しましょう。

ヨシュア記13:1~33 年を重ねても



  年配者が一人亡くなることは、一つの図書館がなくなるのと同じ、という考え方がアフリカにあるそうです。なるほどと思います。今日は、歳を重ねることを考えます。

1、相続地が与えられた

モーセはルベン部族の諸氏族に相続地を与えた。(ヨシュア13:15)
モーセはまた、ガド部族、ガド族の諸氏族にも相続地を与えた。(24節)
モーセはまた、マナセの半部族にも、相続地を与えた。(29節)

 「相続地を与えた」と繰り返し述べています。

 13章の内容は、おもに、ヨルダン川東側の領土分割です。ヨシュア時代の聖書地図を見ると話が早いです。8~14節はまず、全体像を概説します。地域的に言えば南から北に向かって、ルベン族(15~23節)、ガド族(24~28節)、マナセの半部族(29~33節)に領地が分け与えられたことが書かれています。

安住の地が与えられる。それは、エジプトで奴隷だったイスラエル人の夢でした。夢は実現するのです。 今、不安定な状態の人は、安住の地に住めることを信じましょう。

私たちの人生に当てはめると、約束の地に相続地が与えられるとは、何を意味するでしょう。
     神に罪が赦され、神中心の人生に変化する。
     家庭で、小さな事を神に感謝しつつ、夫婦が愛し合い、子供を育てる。
     神に与えられた使命に気づき、神の力で使命に取り組くむ。
     今の職場や学校、家庭で、コミュニティーで、キリストの香りを放つ生き方をする。

相続地は人によって異なります。ガリラヤ湖のほとりと死海のほとりでは、気候も風景もずいぶん違います。レビ族には割り当て地すらありません。「イスラエルの神、主が彼らの相続地」(33節)だからです。14節では、「イスラエルの神、主への火によるささげ物」(14節)が相続地であるとも説明しています。相続地は人それぞれです。相続地を人と比べてはいけません。そこが、あなたのマイホームであり、スウィートホームなのです。

あなたの相続地とはどこですか。神から管理を任せられた分野に取り組んでいますか。


2、年を重ねたら

ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(ヨシュア記13:1)

 「年を重ねる」。とても含蓄のある表現です。ヨシュアはこの時、90歳から100歳でした。
年輪は一年に一つだけ増えていきます。厳しい暑さも降り積もる雪も、四季おりおりの生活を刻んで若木は大木になっていきます。
 喜びも悲しみも、満足も空虚さも、自分が倒れ果てることも誰かを支える体験も、たくさんたくさん経験して、年を重ねてきたのです。それが、老人の強さであり、また輝きなのです。

 主ははっきりと、あなたは老人だとヨシュアに言われました。英語の聖書は、You are now very oldと訳しています。老人なら、老人らしく引っ込んでいなさいと主は語られましたか。いいえ。むしろ逆です。「まだ占領すべき地がたくさん残っている」と励まされたのです。

2節から7節がまだ征服が完了していない地域のリストです。「その残っている地は次のとおりである。」(2節)南部の海沿地域に広がるペリシテ人の地は多く残っていました。

まだ占領すべき地がたくさん残っているのです。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」(ヘブル6:1

あなたの人格において、占領すべき場所が残っています。人を愛す分野で、占領すべき地が残っています。福音を伝えることでも、占領すべき地が残っています。

リック・ウォレンの「人生を導く5つの目的」の19章には興味深いことが書いてあります。教会や、スモールグループには、最低一人以上、性格的に問題の多い「難しい人」がいると述べています。その人がいることで、周囲の人が鍛えられ、育てられ、また本人も取り扱われるというのです。こういう人との関わりも占領すべき地なのかもしれません。

クリスチャンの日野原重明先生は、聖路加病院の責任者として長年医療に携わり、新老人の会という組織を作り年配者を励ましています。日野原先生は、現在101歳、100歳から Facebookを始めたといいます。やる気があるだけなら、やらないのと何も違いはないとも言われます。歳にかかわらず、10年後の目標を立てなさいとも言われます。本当に励まされます。

アブラハムが約束の地を目指したのは75歳でした。モーセがイスラエルの民のため働き出したのは80歳でした。

信仰にリタイヤはありません。聖書が教える積極人生を人生の最期まで貫きましょう。

→あなたの番です。
□神からどんな相続地をもらいましたか。
□年を重ねて、身に着けたものは何ですか。
□あなたの占領すべ地は、何ですか。

青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒2:17)

彼らは年老いてもなお、実を実らせ、
みずみずしく、おい茂っていましょう。(詩篇92:14)

ヨシュア記12:1~24 支配者たち



  今日の箇所、ヨシュア記12章は、約束の国を勝ち取る戦いがひとまず終了し、流れを振り返るという内容です。私たちの生活にも、振り返ることが必要です。

1、征服地図

旧約聖書は、内容的に見て大きく二つに分けられます。約束の国を獲得するまでと、約束の国を失うまでです。ヨシュアの時代は、その前半に属します。

ヨシュアの時代の聖書地図があれば、それを見ながら今日の箇所を確認してください。1~6節はヨルダン川東部の征服の様子です。
 ヨルダン川東側には、広い地域を支配する強大な王二人がいました。その反対に、ヨルダン川西部は都市国家型の小さな共同体が散在していました。
 死海に東側から注ぎ込むアルノン川から北方がエモリ人の王シホンが支配する地域でした。(2~3節)さらに北にあったのが、バシャンの王オグの支配地で、ヘルモン山の裾野にまで達していました。(4~5節)
 モーセが生きている時代にこれらの土地は征服され、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が自分たちの所有地にしました。(6節)

7~24節は、ヨルダン川西側の戦いを振り返っています。

 ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、西のほうで、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルへ上って行くハラク山までの地で打った王たちは、次のとおりである。――ヨシュアはこの地をイスラエルの部族に、所有地、その割り当ての地として与えた。――(7節)

 ハラク山は「はだかの山」を意味し、ヨルダン川西部で一番南に位置する山で、ベエル・シェバの南42キロにあります。カリフォルニアの茶褐色の山に似ているはずです。レバノンは北端に当たります。

これらは、山地、低地、アラバ、傾斜地、荒野、およびネゲブにおり、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。(8節)

パレスチナの地形が南カリフォルニアの地形と気候がそっくりだと何度かお話してきました。8節の記述のように、パレスチナの海岸地域が平坦な「低地」、1000m程度の山が南北に背骨のように連なるのが「山地」、山の東側の斜面が「傾斜地」、その東のぐっと低くなった南北の溝を「アラバ」と呼び、南に広がる不毛の地が「荒野」、荒野の手前の乾燥地帯を「ネゲブ」といいます。

9節から24節に、ヨルダン川西側の町々の王たちの名が31人分記されています。

エリコの王ひとり。ベテルのそばのアイの王ひとり。エルサレムの王ひとり。ヘブロンの王ひとり。ヤルムテの王ひとり。ラキシュの王ひとり。エグロンの王ひとり。ゲゼルの王ひとり。デビルの王ひとり。ゲデルの王ひとり。ホルマの王ひとり。アラデの王ひとり。リブナの王ひとり。アドラムの王ひとり。マケダの王ひとり。ベテルの王ひとり。タプアハの王ひとり。ヘフェルの王ひとり。アフェクの王ひとり。シャロンの王ひとり。マドンの王ひとり。ハツォルの王ひとり。シムロン・メロンの王ひとり。アクシャフの王ひとり。タナクの王ひとり。メギドの王ひとり。ケデシュの王ひとり。カルメルのヨクネアムの王ひとり。ドルの高地にいるドルの王ひとり。ギルガルのゴイムの王ひとり。ティルツァの王ひとり。合計三十一人の王である。(10~24節)

 ヨシュアは約束の地を平定しました。


2、振り返る

ヨシュアは、今までの歩みをまとめ、振り返っています。信仰者としてとても賢い歩み方です。申命記によると、振り返らない人は、傲慢になりやすく、神を忘れやすいのです。

あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(申命記8:12~14)

ヨシュアたちは、今までの戦いを振り返り、主をたたえたことでしょう。
ヨルダン川をせき止めた神、乾いた地の上を渡らせてくださった神。
祈りながらエリコの城壁を回り、一声で城壁が崩れたこと。
 アイという小さな町では、自分たちの罪が隠れていたので敗北を経験しました。
 エルサレムの王が編成した南部同盟軍と戦う時は、雹が降り、太陽が止まりました。
 ハツォルの王が率いる北部同盟軍の馬と戦車に負けませんでした。

 ヨシュアが出会った主の軍の将が、ずっと共にいて戦ってくださったので、31人の王たちに勝利することができました。

私の妻は、大学時代に救われ、それから毎朝聖書を読み、ディボーションノートを作り、教えられた聖句を書き込み、祈りの課題を書いて30年以上になります。主がしてくださった事、誰かにもらった物やお金、祈りがかなえられた事は赤字で記録しています。試練に会ったとき、苦しい時にノートを取り出して読みます。すると、主が助けてくださった事が明らかになり勇気が出ると言っています。

 →あなたの番です。今日、この1年間を振り返ってみませんか。

□危険や窮地に陥った事がありましたか。その解決は?
□弱り果てたり落ち込んだ時、どうやって回復できましたか。
□道に迷った時、導きを求めたとき、どんな結果になりましたか。
□祈りの課題は、どんなふうにしてかなえられましたか。
□思いもかけない素晴らしい事がありましたか。
□信仰は持っていなかったが、信じる心が生まれている。
□神さまからもらったもので一番うれしいものは何でしたか。

振り返ることは、「あなたのヨシュア記12章」を書くことなのです。


3、「ありがとう」を言う

最後に今日のキーワードに目を留めましょう。
2節、3節、5節に、同じ言葉があります。「支配していた」です。
これらの土地には、王たちがいて支配していました。今は、もういません。
同じことが、私たちの人生、私たちの心に起きていますね。

 今まで、罪や悪の力に支配されて来たけれど、主イエスによって解放された。
 今まで、自分の力で勝てなかったことがある。でも、今は、主イエスによって勝利した。

 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)

 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:14)


 私たちは、誰かに「ありがとう」を言うために生まれました。ヨシュアは、戦いを振り返って感謝を述べているのです。

 卒業式に来てくれた人が「おめでとう」と言われると、「ありがとう」と応えます。
 誕生日を祝ってもらえば、「ありがとう」と言います。結婚式をすれば、遠くから来てくれた友達に「ありがとう」と言います。そして、人生の最後を迎える日にも「ありがとう」と言って分かれます。
 ありがとうを言わない人は、人でなしです。ありがとうと言わなかった若い女性も、結婚して、子供が生まれると、「ありがとうを言いなさい」と子供を指導するようになります。

 私たちは、身近な誰かに「ありがとう」と言うために生まれました。そして、神にありがとうと言うために生まれたのです。
 
 ありがとうを言う秘訣は、振り返ることです。
 愛されて来たんだ。共にいてくれたんだ。助けられたのだ。それが分かります。
 主の恵を振り返りましょう。神に感謝しましょう。

 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。(詩篇28:7)

ヨシュア記11:1~23 戦いは終わった



 戦いの目的は何でしょう。戦いを終えることです。
 今日は、パレスチナ北部での戦闘がどのように展開したかを見ていきましょう。

  「ラストシーンから書く」、という言葉を本で読みました。有名な映画監督が言ったそうです。感動的なラストシーンをまず練り上げ、それから映画全体を構成する。なるほどと思います。
あなたの人生のラストシーンは、できていますか。


1、ヨシュアの映画のラストシーン
 
 11章全体の内容を確認しましょう。10章の戦いでは、イスラエルがエルサレム連合軍に勝利し、パレスチナ中央部分を支配下に入れました。11章は、戦いの場所をパレスチナ北部に移します。北の同盟軍は「メロムの水」(5節)に結集しました。その場所はガリラヤ湖北西15キロにあります。

 ハツォルの王ヤビンが近くの町々に声をかけ、イスラエルとの戦いに臨みました。ハツォルは、紀元前19世紀のエジプトの文書に名前がある古くからある有力な町でした。

 ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。(1~4節)

主は、ラストシーンを以下のようにするとヨシュアに伝えました。

主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」(ヨシュア記11:6)

 ラストシーンは、イスラエルの大勝利だと決まったのです。この映画を貫くスピリットは、神への信頼と勇気です。神が約束されたラストシーンに向かって、勇気を持って進んで行く、それが私たちの人生なのです。



2、戦いの局面で大切なこと

1)受身にならず、積極的に戦う

そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは、彼らを打ち、大シドン、およびミスレフォテ・マイムまで追い、さらに東のほうでは、ミツパの谷まで彼らを追い、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打った。(7~8節)

 当時の人々が恐れた兵器は戦車です。ベンハーの映画で登場するような馬車で、二頭の馬に馬車を引かせ、馬を操作する御者と弓を放つ兵士が乗り込みます。たとえ最新兵器であっても、海の砂ほどの大軍であっても、ヨシュアをはじめ、イスラエルの民は恐れませんでした。
それは、ラストシーンで、その戦車と馬が破壊される場面をイメージしていたからです。「あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」(6節)

ヨシュアは、戦いを引き伸ばす作戦を取りましたか。いいえ。相手が攻めてくるのを受身になって待ちましたか。いいえ。「彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。」(7節)とあります。受身にならず、積極的に戦いに出ました。
ハツォルの王ヤビンは、これだけの大軍が陣を敷き、戦車という強力な兵器を持っているのだから、相手はおいそれと攻めてくるはずがないとたかをくくっていたのでしょう。ですから、却ってそこに勝機がありました。

あなたの目の前にはだかる大軍とは何ですか。
正面から、まっすぐにその問題や人物に立ち向かっていく時かもしれません。

 
2)神の言葉に忠実

ヨシュアは、主が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。(9節)

 「ヨシュアは、主が命じたとおりにして」(9節)、「ヨシュアはそのとおりに行い」(15節)とあります。

 ヨシュアの戦い方は、まっすぐです。神の言葉に対してまっすぐです。
神の言葉に忠実、神ご自身に忠実であることは、とても大切です。

あなたは、今、誘惑にさらされているかもしれません。有利になるが、嘘をつくことになる道。もうかるが不正をする道。願いはかなうが後ろめたい方法。それのいずれも排除しましょう。主が命じたとおりに生きましょう。


3)主から出たこと

彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。(20節)

敵からの攻撃という危険は、実は、「主から出たこと」(20節)だとは聖書は言います。ピンチと思える出来事は、むしろ神があたえたタイムリーな出来事だったのです。
敵の町一つ一つが城壁の背後に逃げ込むならば、戦いの長期化は避けられません。約束の地をすみやかに獲得するためには、こうした敵の動きはイスラエルにとって好都合だったのです。

 私たちのピンチは、神の下さった好機なのです。主から出たことなのです。


3、あなたのラストシーンを思い浮かべる

 さあ、あなたの番です。あなたのラストシーンを作りましょう。

 多くの人は、自分を悲劇のヒーロー、不遇のヒロインにして生きています。悲劇のシナリオをいつも作って、みじめになっています。
「どうせ、私はみにくいあひるの子だ。だれも振り返ってくれない。」
「俺は、日陰のどくだみだ。成功するのは他人ばかりだ。」
悲劇的な想像もできるなら、祝福の場面を予想をすることもできます。

 今、あなたのラストシーンがハッピーエンドで終わるようにシナリオを書いてみましょう。

     感激で涙があふれるハッピーエンド。
     出演者みんなが「ごめんね」と言い合い、和解する。
     劣勢を跳ね返して、大勝利を勝ち取る。
     家族や周囲の人がイエスさまを信じて、あなたに感謝する。
     自分が思い描いていた以上の人間性を身につける。
     結婚、子育て、お金、健康、様々な試練で苦しんでいる人が、自分と同じ苦しみに出会った人と出会い、力強い助っ人になって応援している姿。
     教会に集っている子供たちが、バンドを作って賛美したり、伝道旅行に行く。

 あなたのラストシーンをまず描こう。そして、映画の途中を生きて行こう。

 映画の主人公は、必ず途中で挫折し、夢をあきらめ、やけっぱちになり、恋人ふられます。大事な人が亡くなることもあります。でも、地道な努力を始めるし、多くの人に助けられ、願った以上の栄誉にあずかります。それが、あなたのラストシーンでもあります。

 自分が平凡だと嘆いていたアメリカ人女性がいました。学力も平均。ピアノを習ってもそこそこ。容姿やスタイルも普通。付き合って結婚した男性はクラスの人気者で何をしても良くできて、彼の部屋にはたくさんのトロフィーがあります。牧師になった彼は、すばらしい働きで高く評価されましたが、彼女は普通の人でした。自分の無力さを嘆いて涙していた時、ラジオから歌が聞こえてきました。Ordinary Peopleという歌でした。神は、普通の人々を用いられる。主の手に握られた普通の人が主の栄光をあらわすという歌詞でした。
 その時、普通の自分を主に明け渡すことにしました。すると、彼女は優れた神学のテキストを書き、表彰されるまでになりました。彼女は、リック・ウォレンの奥さん、ケイ・ウォレンさんです。ケイさんは、さらに自分自身を主に明け渡し、エイズで孤児になったアフリカの人々を助ける働きを始めています。「普通の人」という看板を受け入れ、主に降伏し、主に用いていただく決心をすることにより、彼女は素晴らしいラストシーンを書き始めたのです。

こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕えて、彼らを打って、殺した。ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。(16~19節)

厳しい戦いでしたが、ヨシュアは最後に勝利を得ました。23節の言葉を心に留めましょう。

こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。(23節)

 「すべて主がモーセに告げたとおりであった。」神のシナリオ通りだったのです。「その地に戦争はやんだ」願っていた平和がやって来たのです。

戦いの目的は何ですか。戦争を終えることです。その日が来ることを信じましょう。


 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


ヨシュア記10:1~21 太陽よ、動くな


 私たちは、誰かを助けるために生まれてきた。

 
1、ギブオン救出作戦

それで、エモリ人の五人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王とその全陣営は、相集まり、上って行って、ギブオンに向かって陣を敷き、それを攻めて戦った。(5節)

エルサレムの王が呼びかけ、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王が連合して、この同盟軍によるギブオン攻撃が始まった。(1~5節)

 嘘をついて同盟関係に入ったばかりのギブオン人が、ヨシュアに泣きついてきました。国会答弁のように、ただいま各方面との調整を試み、様々な知見を持ち寄り、前向きに対処いたします。なんて言って、時間かせぎをすれば、ギブオンは自滅しますが、ヨシュアはそんなことはしません。

 ヨシュアは、文句の一つも、皮肉の言葉も言いません。イスラエルの民からも不服の声は上がりません。主の名によって盟約を結んだのですから、たとえ奴隷であっても大事な身内なのです。すぐに攻撃態勢に入り、直線距離20マイル、実際には千メートルも高い場所にあるギブオンに向かい、夜の闇をついて出かけました。「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。」(9節)

 主が8節で語っておられるところをみると、ヨシュアが主の指示を仰いだことが分かります。9章と同じ失敗はしません。戦いが勝利に終わると主がヨシュアに告げられました。

 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」(ヨシュア記10:8)

 注目すべきは、主がギブオンを救えと命じておられないことです。それは、いわば主とヨシュアとの暗黙の了解事項なのです。助けにいくのは当たり前。むしろ、この機会は、敵であるカナン人を聖絶するチャンスであると主は明言しておられるのです。

 誰かを助けようと行動を起こす。すると、私たち本来のミッションがいつのまにか達成されていく。これが神の知恵、神の計画なのです。

ヨシュアは、朝方の奇襲攻撃を成功させました。(10節)

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

人が誰かを助けようと動く、そのときに、神の力があらわれるのです。
奇跡とは、何でしょう。誰かを助けたいけど力がない、でもやってみます、神さま助けてくださいという祈りの応答として、奇跡が起きるのです。

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

直径20センチにもなる雹が観測され、写真も残っていますが、このときも、巨大な氷が降ってきたのでしょう。

ヨシュアは、連合軍を徹底的に壊滅させるのは今だと悟り、非常識とも言える祈りをささげました。時間を与えてください。時を止めてくださいと祈りました。

主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。(12~13節)

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(14節)

ヨシュアとイスラエルの民は、ギブオンを救出すると、時計の反対周りに5都市同盟軍に追い討ちをかけ、最終的には、5都市の王たち全員を殺害し(23~27節)マケダ、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルを聖絶しました。(29~39節)

青森県最北端の小さな町に、あさ子さんという女性がいました。海に近い彼女の農地を買いたいという申し出がありましたが断りました。原子力発電所用地だったからです。その後、地域の地権者157人のうち、156人が土地を売り、あさ子さん一人が30年間首を縦に振りませんでした。彼女の土地は炉心から当初50mの距離にありました。彼女はその土地に家を建て、一人で反対を続ける中で亡くなり、娘さんがその意志を引き継ぎ「あさこはうす」として戦いを続けています。原発施設は今も建設途中で、40%ができています。手紙を出すことだけでも、助けることになります。

あなたのそばにも、現代のギブオン人がいます。
私たちの身近にも、助けを求めている人がいます。
誰が助けを求めていますか。


2、主の戦い

 ヨシュア記10章を読み直すと、「主」とう字が多いことに気づきます。

 10節「主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので」
 11節「主は天から彼らの上に大きな石を降らし」
 12節「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日」
 14節「主が人の声を聞き入れたこのような日は」
 14節「主がイスラエルのために戦ったからである」
 19節「主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ」
 25節「主がこのようにされる」
 32節「主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので」
 42節「主が、イスラエルのために戦われたからである」

ここから分かることは、主が私たちの前に立たれて闘うということです。

今誰かを助ける時だ。
今、誰かのために戦うべきだ。
そう導かれたなら、行動しましょう。そうすると、主が先に立たれ、敵を恐れさせ、天から雹を降らせ、時間さえ止め、主ご自身が先頭に立って戦われるのです。

自分一人の幸せだけを追求するなんて、ちっぽけな人間になるのはもうやめましょう。私たちは、誰かを助けるために生まれてきたのです。

→あなたの番です。

□誰かが、あなたに助けを求めていませんか
□今、行動を起こし、主の助けを求めましょう
□主が戦われるのです

 「イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである」(42節)