イザヤ書

 預言書の中でも最も重要な預言書、それがイザヤ書です。
 紀元前740~690年ごろ、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世下で、イザヤはエルサレムで約50年間語り続け、そのメッセージは膨大な量になりました。
 1~39章において、神に逆らった人々に悔い改めて主に立ち返れとイザヤは語りました。40~66章では、ユダ王国は滅び外国で奴隷状態になるけれども、神の恵みで解放されて帰還する、やがては新天新地が造られると預言しました。イザヤは、救い主の預言を多く語り、新約聖書で多数引用されました。
 

1、罪の赦し

 イザヤ書の第一の特徴は、罪の赦しです。
 多くの人が過去の問題を引きずって苦しんでいますが、神だけが罪を赦せます。

 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(43:25)

 若い頃のイザヤは、自分の罪を深く認識し、罪の赦しを体験しました。

そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:5~8)

 イザヤは自分の罪が神によって赦された、罪が贖われたと分かり大きな喜びに包まれました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言えるのは過去の罪を主に帳消しにしてもらえた者だけが言える言葉です。神は現代のイザヤを探しています。

 
2、神の愛

 イザヤ書の第二の特徴は、神の愛です。
 イザヤ書は神の愛で貫かれています。以下の言葉を読んで下さい。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(43:4)

 女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(49:15)

 「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(54:10)

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:4)

 悩み苦しむ人の多くは、愛してほしい人に愛されていない、自分は愛される価値がない、誰も私のことを愛してくれないと勝手に思い込んでいます。そんなことはありません。現在のあなたを、あなたのままで愛している神がいます。

 イザヤは神のみこころを語り、神があなたを愛していると色々な言い方で伝えました。それに対する応答は簡単です。「私もあなたを愛しています」と神に言えばよいのです。



3、希望

 イザヤ書の特徴の第三は、希望です。
 明日が心配な人、悩みがあって将来図を描けない人に朗報です。神は、あなたに希望を与えてくれるからです。以下はイザヤ書にある希望の言葉のほんの一部です。

 「主を待ち望む者は新しく力を得る。」(40:31)

 「恐れるな。わたしがあなたとともにいる。」(41:10)

 「川を渡る時もあなたは押し流されない。」(43:2)

 「彼はいたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともなく」(42:3)

 イザヤは、たとえエルサレムが滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れていかれても、必ず神は連れ戻して下さると預言し、その通りになりました。

あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」
海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(43:14~19)

 それにとどまらず、神は新天新地を造られるという、世の終わりの将来図をイザヤは語りましたが、これは黙示録の予告編となりました。(65:17~19)

 救い主が必ず来られる。それが、希望の根拠です。救い主は、処女から生まれ、ガリラヤ地域で活躍し、人の罪を背負って苦しんで死なれるとイザヤは預言しました(7:14、9:1~7、53:1~6)。

 →あなたの番です
  □あなたの罪は赦されました
  □あなたは、神に愛されています
  □主イエスは希望の源です

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、
落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(30:15)

雅歌


 雅歌は愛の歌です。花嫁が花婿と一体になることを恋焦がれる歌です。


1、あの方の腕の中に

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。(雅歌1:2~3)

 雅歌には神の名も、祈りも、律法も、祭司も、預言者も出てきません。でも、間違いなく神の言葉、聖書の一部です。
 雅歌の大前提は、神が男女を創造され、両者が互いを愛し求めるように神が造られ、性愛が結婚した男女に神が下さった賜物で良いものである、という事です。雅歌には、間接表現、比喩表現ではありますが男女の性愛が肯定的に描かれています。

 雅歌の冒頭の2節「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」は、まさにベサメムーチョ(スペイン語で、たくさんキスして)です。花嫁が、花婿の熱い口づけを待ち焦がれています。2:6では口づけだけでなく、強く抱きしめてほしいと花嫁が歌います。同じ言葉は8:3でも繰り返されます。

 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、
右の手が私を抱いてくださるとよいのに。(2:6)

雅歌をミュージカルだと理解すれが分かりやすいです。花嫁が、花婿と一つになれる喜びをソロで歌います。突然に花婿が登場して、彼女の素晴らしさを情熱的に歌い出します。唐突に、周囲の友人達がコーラスで歌います。これが雅歌の構成です。(誰がどの部分を歌っているのか判別が難しい点が雅歌解釈の難しさになっています。)

以下は花婿が花嫁をたたえる歌です。第三者が照れるほどの愛の言葉です。

女の中で最も美しい人よ。(1:8)
 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。
あなたの目は鳩のようだ。(1:15)
わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。(2:2)
あなたは私の心を奪った。(4:9)
 
花婿に愛される喜びや、花婿を愛す喜びが雅歌にあふれています。雅歌は感性で味わうものです。感性の素晴らしさは理詰めでは得られない体全体で感じる高揚感です。
一方で、感性には弱点があり、理屈なしに突然襲ってくる不安があります。3章と5章で花嫁は花婿を失う夢を見て、不安に陥ります。

雅歌の特徴は、花嫁と花婿の性愛の表現です。香水の香り、ぶどう酒の味わい、秘密の庭などが多様されますが、比喩的な表現です。大好きな人と心も体も一つになるという事は大きな喜び、分かちがたい深い絆です。

私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。
私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。
北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。(4:10~16)

結婚は唯一無二の深い絆です。性的な結合は、夫婦が一層深く結びつくために神が与えて下さった接着剤です。夫婦が性的に結ばれるということは、欲求の充足という浅いレベルで終わらず、感性における一体感の喜び、霊的な満足、根源的な孤独を慰める喜びを与えます。「ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。」(7:6)という言葉は、そのような文脈で語られたものです。

「Date your wife」という英語の本があります。Justin Buzzard牧師が書いた夫婦に関する良い本です。その中に、結婚60周年を迎えたニックとスーという年配のクリスチャン夫婦の話が書いてあります。ニックは80歳で奥さんは少し年下、二人は言います。新婚時代のセックスよりも、十年後のほうがもっと素晴らしかった。さらに10年後のほうが素晴らしかった。そして、今が最も素晴らしいと言うのです。二人が、日頃どんなに相手を大切にし、努力を重ね、耳を傾け、助け合ってきたかが分かる証言です。

 あなたも、神が下さったプレゼント、慰めに満ちた愛を大切にして下さい。


2、主イエスの花嫁としての喜び

 新約時代、パウロやヨハネは、雅歌の霊的な意味を深めました。雅歌の主人公は花嫁でしたが、新約時代、主イエスを花婿にたとえ、教会(=クリスチャン)を花嫁にたとえました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25~27)

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(ヨハネ黙示録19:7)
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(ヨハネ黙示録21:2)

地上においてクリスチャンは、主イエスが私たちの内におられることは知っていますが、一体感がいまひとつ足りません。やがて、主イエスにお会いする日に、私たちはきっと雅歌の言葉を自分の言葉にできるでしょう。

雅歌の花嫁は自分の皮膚が黒いことを恥じていましたが(雅歌1:5~6)、花婿は「女の中で最も美しい人よ」(1:8)と呼びかけました。私たちも、心が汚れ、黒い罪を持つ者ですが、主イエスは私たちに言ってくれるでしょう、「わが愛する者、美しい人よ。さあ、立って、出ておいで」(2:10)と。雅歌の花嫁は花婿に言いました。「あの方のすべてがいとしい。」(5:16)また、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」(6:3)と3度も言いました。私も、主イエスにお会いする日に言いたいと思います。「真心からあなたを愛しています。」(1:4)

雅歌は、主イエスの私たちへの愛がどんなに深いものかを気づかせてくれます。また、主イエスを愛す表現を教えてくれます。そして、私たちは今この時も主イエスと一つなのだということを分からせてくれます。

「わが愛する者。あなたはなんと美しいことか。」  「真心からあなたを愛しています。」

 →あなたの番です
  □夫婦の一体感を大切に
  □主イエスに愛され、主イエスを愛す

伝道者の書



 空の空。すべては空。
 
 これは仏教の経典ではなく、聖書で最も異彩を放つ「伝道者の書」の冒頭の言葉です。


1、すべては空

方丈記は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と言いました。平家物語は、「奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と語りました。それより2000年前に、伝道者の書はソロモンによって書かれました。

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(伝道者の書1:2~3)

 すべては繰り返しで、新しいものは一つもなく、すべては空しいと述べています。

 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(2:1~2)

 快楽や富を追及しても、そこには空しさが残ります。また、事業を拡張して成功しても、知識を増やしても空しい。知恵ある者も知恵のない者も結局は同じ死に至るので空しい。社会には恐ろしいほどの不平等があり、正しい者が苦しみ、悪者が大手を振って歩き金持ちになって長生きしている。人生は空しいと語ります。

実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(2:22~23)

 空しさは、生きる推進力を奪います。私も、まだ教会に通う前の高校時代、空しさで押し潰されそうでした。あなたは、どうですか。心に空洞がありますか。


2、神のなさること

人生が空しいなら、生きる価値がない。それが論理的結論です。でもちょっと待って下さい。人間の手が及ばない領域を手がかりに、別な角度から考えてみましょう。

 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
(3:2~8)

 この部分を読むと、不思議に納得感がやって来ます。人の手が及ばない領域が確かにあります。その領域は神の御手です。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(3:11~14)

神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(7:13)

 かけがいのない人が死に、大切なものを失い、思いもかけない不幸に巻き込まれるのが人生です。やがて私も死んで行きますし、その時を選べません。それが人生です。嬉しいことも辛いことも、神の御手にある。神が曲げたものはまっすぐにできない。それらを悔やみ続けたり、誰かを恨む生き方もあります。でも、神のなさったことは、時にかなって美しいと思えるようになれたら心は穏やかになります。

 神は創造主。私たちは神に造られました。そして、神は私たちを愛しておられれます。この空しい世界で、ただ一つ、空しくない存在があります。それが神です。ただ一人、信頼できる方が神です。「人は神を恐れなければならない」その通りなのです。



3、くよくよしない生き方へ

見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。(5:18~20)

神を認め神を恐れ敬って生きるなら、空しい人生に喜びを見い出せます。小さな幸せを味わえます。食べたり飲んだり、仕事をしたり、物を所有したりして喜べるのです。くよくよしないで生きられます。

あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。(11:1)
朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。
あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。
二つとも同じようにうまくいくかもわからない。(11:6)

上記の言葉はとても積極的です。空しく見える人生であっても、神を恐れつつ歩むなら希望が生まれるのです。
大切な事は、今(あなたの人生で最も若い日に)、神を信じ、創造主を恐れ敬って生きることです。そうすれば、空しい世界であっても、あなたの人生が空しくなることはありません。これが伝道者の書の結論です。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
(12:1)

森村市左衛門(1839-1919)は1904年にノリタケカンパニーを興し、陶磁器を製作して輸出、やがてアメリカで超人気ブランドになりました。ちょうど食器を製作・輸出をしている頃に森村は教会に通い始め、彼の考えがあったのでしょうが洗礼は死ぬ2年前に受けています。渋沢栄一は、森村が「以前から熱心な基督教信者であって確固たる信心に従容して」いると評価していました。森村は事業の成功や金銭的な豊かさに流されず、堅実に歩み、慈善事業に貢献し、神を伝える働きに貢献しました。彼は、成功や快楽の空しさと無縁な人で、水の上にパンをまいた人と言えるでしょう。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(12:13)

 →あなたの番です
  □神のなさる事は時にかなって美しい
  □創造主を覚えつつ、人生を見よう 
  □くよくよせずに、種を蒔け