マタイ1:18~25 ヨセフの勇気

 ヨセフがいなければ、クリスマスは無かったかもしれません。


1、絶望

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ1:18)

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」とあります。ヨセフとマリヤは、正式な婚約期間に入っていました。当時のユダヤの習慣では、婚約した男女はすでに夫婦とみなされました。マリヤは、天使ガブリエルの言葉を聞き、聖霊によって身ごもったことを知り(ルカ1:26~36)、妊娠の事実を婚約者のヨセフに告げたのでしょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1:19)

ヨセフは「正しい人」だったので、激しく悩み、混乱し、絶望しました。ヨセフには二つのチョイスがあったのです。
一つは、マリヤをふしだらな女性として公に訴えることです。そうすれば、マリヤは死刑です。もう一つは、内密に婚約破棄することです。マリヤは生きて行けます。でも、ヨセフは何も説明できません。すべてを胸の内にしまうことになります。

ヨセフはマリヤを信頼していたし、愛していたのでしょう。でも、マリヤの口から聞いた説明は信じられません。若いヨセフが悩んだ末に出した結論は、マリヤを内密に去らせることでした。ヨセフの心は定まり、今後の方針を「決めた」のです。ヨセフは勇気ある決断をしました。男です。

物事には、あれか、これかの二つではなく、人間が及びもつかない第三の道があります。ヨセフはこの時、第三の道、神の道があることを知りませんでした


2、恐れ

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(マタイ1:20)

内密にマリヤを去らせると決めても、まだヨセフは思い巡らしていました。つまり、決断がぐらついていたのです。納得できなかったのです。

聖霊による妊娠というマリヤの言葉を信じたいのですが、恐れがあって前に進めません。そんな事は聞いたことがない。ありえない。世間の人は何と言うだろう。ヨセフは騙された、まぬけな亭主だと噂するかもしれない。

そんな時に、天使が夢に現れました。第三の道を伝えに来たのです。

「ダビデの子」と天使が呼びかけ背後に深い意味がありました。ヨセフ、あなたは自分がダビデの子孫だという自覚を忘れたのか。まことの救い主は、ダビデの家系からしか生まれない。ヨセフ、あなたはダビデの子孫、ダビデの子だ。

「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と天使は言いました。
ヨセフ、あなたは何を恐れている。人の目、社会の批判を恐れているが、恐れよ止めよ。神が全責任を取るという時に、神は「恐れるな」と言われます。

本当にマリヤを愛しているなら、彼女の言葉を信頼しなさい。あなたが信じないで、誰が信じるか。マリヤが誠実で、嘘のない人だとあなたは知っているはずだ。今こそ、マリヤを迎えなさい。恐れるべき方を恐れなさい。神に不可能はない。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊による。あなたは、神に選ばれた。神の信頼に応えなさい。恐れを捨てなさい。神は、将来にわたってずっと、あなたと共におられる。


3、救い主

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)

生まれる子供が男の子であると天使は明言した。名前は、「イエス」という名にするよう天使は命じました。その名の意味は、当時誰でも知っていました。「イエス」は、「主は救い」を意味しました。

主イエスは、ご自分の民をその罪から救うために生まれる方です。

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:21~23)

この福音書を書いたマタイは、マリヤの妊娠について旧約聖書的な解説を挿入しています。ヨセフよりも700年前に活躍した預言者イザヤが、処女から生まれる救い主を予告していました。イエスというお方は、わたしたちと共におられる方です。

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイ1:24~25)

ヨセフは、主の使いの言葉をそのまま受け止め、妻を迎え入れ、御使いの言った通りに、子供が生まれるとイエスとなづけたました。

聖霊による妊娠は、アクシデントや偶然ではなく、神の必然、神の予定だったのです。マリヤを訴えるという道ではなく、また、内密に婚約破棄にするのでもない、マリヤを正式な妻として迎え結婚する道があったのです。これが、第三の道、神の計画なのです。神の計画を歩むこと、それこそが、神の栄光を表す人生です。

2003年10月31日の朝、13歳のベサニー・ハミルトンはハワイ州カウアイ島のハエナビーチにいました。
クリスチャンの両親に育てられ主イエスを救い主として信じていた彼女は、本格的にサーフィンのトレーニングを受けていました。その日も、サーフボードに横たわり左手だけを海の中に入れて良い波が来るのを待っていました。突然全身に電気が流れたようなショックを受け、辺り一面は血の海になりました。巨大なサメがベサニーの左腕をボードと一緒に食いちぎったのです。神さま、岸まで帰れるように助けて下さいと祈りながら右手でパドリングをして岸を目指し、救助され、緊急手術を受けて命を取りとめました。
クリスチャンの友人はベサニーにエレミヤ29:11の聖書の言葉を届けました。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
ベサニーは、サメに襲された事故を神の計画と受け止め直しました。翌11月、事件から1か月後の感謝祭の前日、ベサニーは再び海に立ち、サーフィンを再開しました。二年後、ベサニーは全米大会で優勝、4年後にサーフィンのプロになり、6年後世界ジュニア大会で準優勝し、現在は結婚して子供もいます。
彼女は言います、私のことを見て勇気を感じてくれる人がいたら、左腕を失ったことは無意味ではなく、神のご計画があったと分かると。

ヨセフは、第三の道に目覚めました。事故や災難に思えた出来事が、神の計画だと分かったとたん、神の計画の中を歩む幸いに気づき、勇気が与えられました。救い主イエスの誕生は、絶望と恐れを乗り越えたヨセフによってもたらされたのです。

船は港にいれば安全だ。けれども、船はそのために作られたのではない。

あなたの番です。あなたは、今日、絶望していますか。恐れを持っていますか。人生には、人間が考える範囲内のあれかこれかの二者択一ではなく、神の切り拓かれる第三の道があります。神の計画として引き受けて下さい。主に信頼して、あなたという船を大海原に出航させて下さい。イエス・キリストは、どんな時もあなたと共におられるインマヌエル、救い主です。

「神は私たちとともにおられる」(23節)

→あなたの番です
 □絶望と恐れにつぶされない
 □絶望と恐れを突き破る神の計画を信じましょう



ヨハネの手紙第一、第二、第三、ユダの手紙


 物事をはっきりと言える人は、本質を理解している人です。十二弟子のひとり、ヨハネは短いセンテンスではっきり言い切る人でした。
 ヨハネは手紙の中で、神がどんな方かを教え、主イエスを信じたものが何を持っているかを説明し、主イエスを信じた者がどう生きたらよいかを示しました。まるで、神を網羅的に説明したリスト、クリスチャンの生き方を示したマニュアルのようです。

1、教会を守るヨハネ

 ヨハネの手紙第一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙第三、ユダの手紙、この4つの手紙には、教会を守るという共通テーマがあります。
 間違った教えに傾くな、邪悪なリーダーシップを排除せよと教えています。

迫害は、教会の外から攻撃して教会を潰そうとします。一方、間違った教えや邪悪なリーダーシップは教会内に巧妙に入り込むので注意が必要です。牧師だけでなく、信徒も教会を守るように招かれています。

というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(ユダの手紙 4節)

私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。(ヨハネの手紙第三 9節)

なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二 7節)

教会が間違った教えを信じるようになれば異端になります。牧師や教会役員が独裁者のように振舞えば宗教カルトになり、教会員が被害者になります。

 純粋な信仰を守るため、聖書をまんべんなんく読み続けましょう。邪悪なリーダーシップにノーと言える健全さを持ちましょう。



2、主イエスを紹介するヨハネ

 この頃、ヨハネは80歳くらいになっていたかもしれません。ヨハネの手紙第一の内容は、だいたい3節ごとに区切ることができます。老聖徒ヨハネは、心に浮かんだ事柄を短く言い、違うテーマに移り、また同じ内容に戻る形で話を進めました。

 「神はどんな方ですか」と質問されたら、ヨハネはこう答えるでしょう。神は、いのち、真理、愛。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(ヨハネの手紙第一 1:1~4)

上記のみことばを読むと、神はいのちであり、イエス・キリストの本質もいのちだと分かります。いのちとは何でしょう。いのちとは、つながっていること、流れていること、止まっていないこと、交流があることです。

ヨハネは、信仰を<私―キリスト>という点と線として理解していません。むしろ、三位一体の神の輪の中に、ヨハネが加わり、その輪の中に私達を入れようとしています。主イエスを信じることによる、私たちは神とのつながりに入り、神のいのちをもらえるようになります。人は、神とつながることによって、本来のいのちを回復します。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:5~7)

 ヨハネは、神は光です。暴力団が明るい陽射しの中でピクニックするのは似合いません。悪事は暗いところでします。神は光で、嘘がなく、罪がなく、きよさがあります。主イエスを信じた者も、罪が赦され、神の光の中を歩むようになるので、正義を選び(3:7)、キリストに似た者に(3:2)されていきます。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(4:7~11)

上記のみことばを読むと、神の本質が愛だと分かります。愛のない者には、神は分かりません、神は愛だからです。神は、無条件であなたを愛しています。あなたが気づかなくても愛しています。その証拠は、十字架を見れば分かります。

神はいのちです。光です。愛です。だから、主イエスを信じた私たちも、神との交流でいのちをもらい、光の中を歩み、互いに愛し合うことができます。


→あなたの番です
 □守るべきものを守ろう
 □神はいのち、光、愛です。 □いのちを喜び、光に歩み、愛し合って生きていきましょう。

ペテロの手紙 第一、第二


 新約聖書の人物で誰に会いたいかと聞かれたら、私はペテロと答えます。
ペテロは漁師だったので日焼けした顔で、深く刻まれたしわがあったかもしれません。素朴な語り口、穏やかなまなざし、迫害で受けた傷跡、自分の失敗を語る率直さ、が想像できます。

文は人なりと言いますが、60年代に書かれたペテロの手紙には、ペテロの人柄がそのまま表れています。パウロのような論理的アウトラインはありません。トルコ半島に住むクリスチャン(第一ペテロ1:2)を心に思い描き、祈りつつ、迫害に苦しむクリスチャンを励まそうとして書いた手紙です。手紙のあちこちに、主イエスと過ごした思い出話が出てきます。(第一ペテロ1:7、2:4~8、2:21~15、4:12~14、5:1~2、第二ペテロ1:16~18)

ペテロの手紙のキーワードを3つチョイスするとしたら、①選び、②救い、③神の似姿を挙げることができます。


1、選ばれている
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(第一ペテロ1:2)

 神が私たちを選んだことを心に留めよ。ペテロはそう言いたいのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(2:9)

 主イエスがペテロを十二弟子に選んだのはなぜでしょう。それは、主イエスが昇天された後、主イエスの働きを継承するためでした。私もあなたも、「選ばれた種族」です。主イエスがして下さった素晴らしいみわざを周囲の人に述べ伝えるために選ばれました。福音を「いつでも弁明できる用意」(3:15)をしておきましょう。
 私たちも選ばれています。何のために選ばれたのか、よく考えて行動しましょう。

2、救われている

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(1:8~9)

 主イエスに会ったことのない人々が主イエスを愛していることを、ペテロは素朴に驚きました。主イエスを直接見ていないのに主イエスを信じている人々をペテロは心から喜びました。彼らの姿に、ペテロは救いの印を見ました。
 主イエスを信じたゆえの地上における救いだけでなく、天にたくわえられている救い(これから体験する素晴らしい恵み、受け継ぐ資産)があるとペテロは言いました。

 私は、ジグソーパズルが好きです。1000ピースのパズルを妻と一緒に楽しく作っています。カチッと入ったときは楽しいです。なんといっても、ジグソーパズルは完成すれば必ず美しい写真なり絵が現れるので安心して取り組めます。
 救われた人には、最後には救いの完成が約束されています。永遠の命が与えられ、朽ちない霊的資産がもらえるのです。

 救いがあると分かった人は、この世の小さなことに一喜一憂しなくなります。自分の終わりが分かっているので、じたばたする必要がありません。それで、損しても正しいことをしたり、苦労して人を助けたり、愛したりできます。また、上に立つ権威を尊敬して生活できます。(2:13)信仰ゆえの不当な苦しみを負う時も耐えることができます。(2:21~24)

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(2:21)

「道路に落としたゴミが多すぎて女子校生が拾い集めきれない、助けてあげてほしい」という電話を受けた日本の警察官が現場に着きました。夕方、日の落ちた県道で作業をしていた女子校生に尋ねると、誰かが落としたごみが散乱していたので拾い始め、自転車カゴには入りきれなかったので、コンビニでごみ袋を買って来て入れていたというのです。彼女は、当たり前と思ってゴミを拾った、と答えました。

当たり前、無意識、醸し出す雰囲気。そこに価値があります。主イエスに救われた人の心に主イエスが住んで下さるので、ごく当たり前に愛や正義や謙虚さがにじみ出てきます。それが付け焼刃でない本物です。
今週、救われているゆえの、当たり前の行動をしたいですね。

手紙を書いた頃のペテロには、信仰者としての年輪、主イエスを愛しているゆえの輝き、御霊による聖めの香りなどがにじみ出ていたことでしょう。

3、神の性質にあずかる者
 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:4)

 ここに、私たちが「神のご性質にあずかる者」になれるという約束が書かれてあります。

 この約束があるので、聖さを求める生き方が空しくなりません。(1:15~16、第二ペテロ3:14)夫や妻は互いに尊敬し、愛し合うことができます。(第一ペテロ3:1~7)兄弟愛を働かせ、謙虚に生きることも可能です。(3:8)主から頂いた賜物を用いて、奉仕し互いに仕えます。(4:8~11)

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(1:15)

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(4:2)

今から40年以上も前のことですが、ウイリアム・ニガンダというアフリカで有名な伝道者がいたそうです。アフリカでミニストリーをしていましたジム・ホワイトは、ウイリアム先生の噂を聞いていました。伝道集会などでウイリアム先生が講壇に立つと多くを語らないうちに心を刺され悔い改める人が出る人で、「神の人」という評判の高い人でした。
ナイロビで車を運転していたジム夫妻はウイリアム先生を見かけ、車に招き入れてしばらく話す機会がありました。ウイリアム先生は、後部座席にいた5歳の女の子に、「お嬢ちゃんのお名前は?」と尋ねました。「バレリー」と答えると、「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」と聞きました。「うん、まあね」と答えました。しばらくして先生と分かれたジムの家族は5分間、誰も口をきけませんでした。ウイリアム先生との会話で受けた温かい感動が圧倒していたのです。その後、やんちゃ盛りのバレリーはお母さんにこう言いました。「私も大人になったら、神の人になりたい」


 主に選ばれ、主によって救われ、神のご性質にあずかる者と約束された私たちは、普通の人とは違う「当たり前の生き方」が始まりました。
 身近な人を愛す。仕事で正義を選ぶ。汚れを離れ聖さを求める。困難の中でも、忍耐し、信じ、仕え合う。それがごく自然にできるようになりたいです。


 →あなたの番です
  □選ばれ、救われ、神に似るようにされたことを感謝する □人生のどんな時も、愛と聖さを実行し、福音を伝えていこう

ヤコブの手紙

 「行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
 このことばのように、ヤコブの手紙は厳しいという印象があります。ヤコブの手紙を読み解く鍵は、手紙をもらった人々の状況、そして、主イエスが語られた山上の垂訓にあります。


1、主イエスのように考える
 主イエスの弟であるヤコブは(マタイ13:55)、主イエスの復活後主イエスを信じ(使徒1:14)、エルサレム教会の中心人物(使徒15:13、ガラテヤ1:19)になりました。新約聖書の中で最も古い手紙の一つがこのヤコブの手紙です。迫害のためにエルサレムから各地に散らされたユダヤ人クリスチャンを励ますために書かれました。(ヤコブ1:1)

先週学んだ「ヘブル人への手紙」も、迫害の中にいたユダヤ人クリスチャンに書かれたものでした。苦しい中で信仰を守り通すために、主イエスがまことの救い主だと確認し、主イエスから目を離さないようにと語っていました。
「ヤコブの手紙」も同じような読者を想定していますが、その内容を簡潔に言うならば、主イエスのように考え、主イエスのように行動せよとなります。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(ヤコブの手紙1:2)

 試練は嫌なものです。誰も試練は喜べません。けれどもヤコブは、喜べと言いました。主イエスの山上の説教を彷彿させます。主イエスは、そういう人には天の報いが大きいと教えました。ヤコブは、試練で忍耐が育ち、成熟すると述べました。試練を表面的に見ず、大きな視点で見ることが大事です。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5:11~12)

迫害や苦しみの中にいる人にとって、物事の洞察力はとても大切です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

知恵というのは、迫害や試練の真相を見極める洞察力だと思います。今起きている事柄の本質を見抜くのが、主イエスのものの見方であり、本当の「知恵」です。主はあなたのみ知恵を必ず与えてくれます。

迫害を受けている人は、生活の困難を覚え、多くの場合は貧困に苦しみます。ヤコブは、貧しさは高い身分だと説明します。

貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。(ヤコブ1:9)

迫害でひどい仕打ちを受けた人は常に怒りモードに入っています。けれどもヤコブは、怒るなと言いました。

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブの手紙1:19~20)

主イエスも山上の垂訓で、人を「さばいてはいけません。」(マタイ7:1)と言われました。怒った状態で誰かに「ばか者」、「能無し」と言うのは殺人と等しいと語りました。(マタイ5:22)

試練の時、貧しい時、怒りたい時、ひどい仕打ちを受けたとき、主イエスのものの見方をしてみましょう。



2、主イエスのように行動する


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
 
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)
 
 迫害、試練、経済的困難など生活上の悩みを抱えたときの処方箋は、「行動」です。小さなことでもいいのです。体を動かしましょう。誰かの役にたちましょう。

ヤコブは手紙の中で様々なアクションを勧めています。えこひいきしないで人と接する(2:1~4)、生活に困った人を具体的に助ける(2:15~16)、良い言葉を語る(3:2~12)、平和をつくる(3:13~18)、争わない(4:1~4)、罪を悔い改める(4:8~10)、謙虚に仕事をする(4:13~15)、互いのために祈り合う(5:14~16)。

 心が弱っている人、ダメージを受けている人にとっては、ヤコブの手紙の言葉は厳しいメッセージに聞こえるかもしれません。でも、迫害で苦しむ人へのアドバイスが「行い」であることに注意して下さい。弱っている人、ダメージを受けている人が、誰かのために自発的な行動をすること、それ自体に価値があり、逆に助けになるのです。

生きた信仰は行動します。行動すると、成功もあります、失敗もします。それでよいのです。生きた信仰者は、失敗を重ねながら愛を学び、忍耐を学び、主の力と恵みを発見します。あなたは、今週、何をしますか。アクションしましょう。

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ5:13)

 →あなたの番です
  □主イエスのように考えてみよう
  □主イエスのように行動してみよう