マルコ13:14~37 天地が滅びても

「この天地は滅びます。」(マルコ13:31)と、主イエスははっきりと言われました。弟子たちはピンと来なかったでしょう。私たちも同じです。
 この世界が滅びること、私たち自身が死ぬこと、この二つは確かなことです。それでは、どう生きたらよいのでしょう。

1、山に逃げること

 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。(マルコ13:14~16)

 まず、主イエスは、緊急事態の時に何をしたら良いのか具体的に指示されました。エルサレムが包囲された時、ダニエルが預言した通りにエルサレム神殿が『荒らす憎むべきもの』に汚されるような事態になったら、何も持たずに山へ逃げるようにと命じました。
 エルサレムが紀元70年に包囲され神殿が破壊されるとき、クリスチャン達は主イエスの言葉に従い、山に逃げて洞穴あなどに隠れて命が助かったと言われています。

 三陸海岸部では、江戸時代から「津波てんでんこ」という言葉があり、津波が来たら、その場からばらばらに高台に避難しなさいという言い伝えがあるそうですが、主イエスの助言に似ています。緊急事態には、「取り出そうとして中にはいってはいけません」(15節)。大事なものでも捨て去って、逃げなきゃいけない時があるのです。

 失恋しても、受験がうまくいかなくても、自分の会社が倒産しても、死んではいけません。違う会社に就職する道もあります。別な人と結婚できます。破産宣告しても、生きていく道があります。あなたが問題を抱えているなら、まず、捨てましょう。逃げましょう。

 ジャンボなどの旅客機が離陸直後に緊急事態になると燃料を投棄してからでないと着陸できません。燃料満載重量では機体が着陸の負荷に耐えられないのです。命のためなら、高価な燃料を躊躇なく捨てます。主イエスは言われます。「山に逃げなさい」(14節)

 あなたも躊躇してはいけない。捨てて、逃げなさい。


2、目を覚ますこと

 目を覚ます。これは、主イエスの言われた世の終わりのキーワードです。

 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:21~27)

 世の終わりにすべきことは、目を覚まして、偽者にだまされないことです。韓国の専門家によると、今、韓国には自分が再臨のキリストだと自称する人物が40人いるそうです。みんな偽者です。地上の誰かが再臨のキリストになることは、ありません。「人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」(26節)と書いてあるからです。

 次に目を覚まして、見つめるべきことは、季節の変化に気づくことです。28~29節で、新緑になると夏が近いと主イエスは指摘されました。同様に、これらの前兆が起きたなら、終わりが近いと知るべきです。「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(29節)

 「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。」(マルコ13:35)

 33~37節には、目を覚ませと何度も繰り返されます。ルカ21章で、主イエスは以下のような忠告も加えておられます。

 「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)

 目を覚まして時代を見ましょう。眠らないで、流されないでいましょう。たとけ、ある人物や思想に世界が熱狂する時でも、一つの方向に大多数が流れる時でも、聖書を読むクリスチャンは、それが何かを判別する目が与えられます。目をさましていましょう。


3、滅びないものがある

 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)

 江戸時代後期の僧侶、良寛(1758―1831年)は、辞世の句で「散る桜 残る桜も 散る桜」とうたいました。この地上に残る人間は一人もいません。皆が散る桜です。私もあなたも、死ぬ確立は100パーセントです。
 主イエスの言葉によるなら、天も地も滅び去るというのです。滅びる世界なら、生きる意味がない、あるいは、自分の好き勝手なことしようと考えるのが人間です。
たとえ、滅びる世界であっても、消える命であっても、破滅的な生き方ではなく、人間らしく生きる道が残されています。

  <明日、世界の終わりが来ても、私は今日りんごの木を植える。>

 これは、宗教改革者マルチン・ルターの言葉だといわれています。このルターの言葉を励みにして末期癌の日々を生き抜いた人がいました。43歳の牧師夫人、原崎百子(1934―78)さんです。4人の子供がいる中で、肺ガンの末期となり、ご主人からその告知を受け、40日後に昇天しました。
 百子さんは、告知するのが辛かったでしょうと夫をねぎらいました。「それでも私は、リンゴの木を植える。『明日やろう』と決めたこと・・・二郎に助動詞を復習してやること、忠雄の勉強の相手をすること…をしよう」とノートに書き記しました。

 今から500年前のルターの言葉は、原崎百子さんを励まし、その闘病記の『我が涙よ、我が歌となれ』の本がキリスト教会で知られ、やがてノンフィクション作家の柳田邦男の著書に引用され、今では、多くの日本のガン患者に力を与えています。

 日本のガン患者を励まし言葉は、どこから来たのでしょう。2000年前の主イエスの言葉に端を発しています。
 主イエス→ルター→原崎百子さん→日本の多くの癌患者。
 主イエスの言葉は2000年間色あせず、滅びなかったのです。私たちも、今、滅びることのない主イエスの言葉にブックマークを付けましょう。

 「しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(31節)


 捨てるべきものは思い切って捨てましょう。目を覚まして、しっかりと時代を見つめましょう。そして、揺るがない主イエスと滅びない主イエスの言葉を頼りに、今日も、あなたのリンゴの木を植えましょう。


  →あなたの番です。
   □不必要なものを思い切って捨てましょう。
   □目を覚まして時代を見つめましょう。
   □主イエスの言葉を信じて、リンゴの木を植えましょう。

マルコ13:1~13 世の終わりの前兆

主イエスは今日の聖書箇所で、3つの大切な要素を語っておられます。
 第1に、世の終わりが来ること。第2に、世の終わりの前兆があること。第3に、世の終わりに備えることができる、ということ。

1、予告の二重性

 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(2節)

 ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、弟子たちが見ていたヘロデ神殿は長さ10mを超える巨石が使われ、神殿の回廊には高さ12mの大理石の柱が建てられていたと述べています。
主イエスは、この壮麗な神殿もやがて壊されると予告され、約40年後の紀元70年、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊され、ユダヤ人は国を失い流浪の民となりました。

 主イエスは、二重の意味を込めて予告されました。それはちょうど、平地から見た山脈の景色に似ています。近くに見える低い山(間近にせまったエルサレムの滅亡)が、その向こうの高い山(世の終わり)の頂上を隠しているイメージです。
 エルサレムが予告通り崩壊したことは、世の終わりも間違いなく来るという印です。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決して」ないのです。
 
 ところで、33年間、毎朝鏡の前で自分にこう問いかけた男がいました。「今日が人生最後の日だとしたら、今日予定された仕事をしたいだろうか」その答えがNOである日が続くなら、何かを変えなくてはいけないと考えました。これはアップルを創設したスティーブ・ジョブズの言葉で、スタンフォード大学卒業式で語った勇名なスピーチの一部です。

 この世には終わりがあると主イエスの言葉で分かります。私たちの人生もまた、必ず終わりがあります。それなら、あなたは、今日をどう生きますか。


2、世の終わりの前兆

 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(4~8節)

 主イエスがここで言われた世の終わりの前兆とは何でしょう。1)偽キリストの出現、2)戦争、3)地震やききん、です。この前兆を聞いて、あなたはどう思いますか。

 偽キリストは自称他称を問わず世界のあちこちに登場しトラブルを起こしています。第一次世界大戦は国と国とを巻き込む大戦争になりました。(その様子を見たある人は主イエスの再臨と勘違いして人々を惑わしました。)第二次世界大戦後は、民族と民族が戦う戦争に変わったことにも注目して下さい。地震については何も言う必要はないでしょう。

 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(9~13節)

 9~13節に言及された前兆は、クリスチャンに対する組織的、国家的な迫害です。現代も、ある国では、クリスチャンになることが死を意味する国があります。
 世の終わりの前兆は、クリスチャンが信仰を持っているというだけで迫害され、父と子、兄弟の間でさえ憎まれることが予告されています。信仰の姿勢が問われる時が来ます。江戸時代の踏み絵が別な形で再現されるでしょう。アクセサリーのような信仰や、自分の満足のための信仰なら、ききんや地震や戦争と迫害で吹き飛んでしまうでしょう。

 あなたの信仰は、家族に反対されたら止めてしまうという程度の信仰ですか。


3、世の終わりへの備え

 世の終わりへの備えは3つあります。第一は、惑わされないことです。5節で主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい。」(5節)と主イエスは言われました。
 注意して下さい。6節にあるように、多くの人は必ず惑わされます。魅力ある人物が登場し、この人が再臨のキリストだろうかと騒ぎが起きるなら、全部にせ者です。主イエスは、世界の人が分かる形で雲に乗って再臨されるからです。(使徒1:11、第1テサロニケ4:16)

 第二の備えは、忍耐です。耐え忍ぶことです。これらの前兆は、本当の苦しみの前奏曲に過ぎません。「これらのことは、産みの苦しみの初めです。」(8節)とあるとおりです。世の終わりが近づくことは、地震、ききん、戦争という苦しみが日常生活になるという意味です。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(13節)自然災害や戦争でも、へこたれないタフな心が必要です。

 1586年ドイツで生まれたマルティン・リンカルト(Martin Rinkart 1586-1649)についてお話しします。リンカルトがアイレンブルクの牧師になった31歳の頃、ドイツは30年戦争に巻き込まれました。城壁に囲まれたその町には多くの難民が流れ込みました。巨大地震で苦しんでいる東北の人々の苦悩が30年間続いたと考えることもできます。
リンカルト牧師の生涯で戦争のない日は一日もなく、戦死者、伝染病で亡くなった人を埋葬し、日によっては30人を超える葬儀を行いました。埋葬した人の合計は生涯で4480人にのぼりました。リンカルト牧師は、そんな中で賛美歌2番の歌詞を作りました。翌年、奥さんが亡くなっています。彼こそ、耐え忍んだ人です。

 いざや共に声うちあげて、くしきみわざ ほめうたわまし
造りましし あめ土みな 神によりて喜びあり(賛美歌2番から)


 第三の備えは、常に主イエスをあかしすることです。クリスチャンへの迫害が強くなり、信仰が試されます。逮捕され取調べを受け、裁判官や政府の高官の前に立つことになります。それが、主イエスをあかしするチャンスになります。恐れずに、大胆に主イエスの福音を語りましょう。その時、語るのは誰でしょう。11節を見て下さい。
 「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(11節)

 自分は伝道できるコンディションにない、という人は多いですが、世の終わりに生きる人は、苦難とききんと迫害の中で福音を伝える人に変えられます。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」(10節)福音は、闇が深いときに広がるのです。

 本田弘慈先生をご存知ですか。日本を代表する巡回伝道者として生涯を送られた方です。次の7つのポイントは、本田先生が神学校に入る動機で、世の終わりに生きる心構えに通じるものがあります。

 1)キリストが私のために死んで下さり、キリストによって救われたから。
 2)ルカ9:60節のみことばで伝道者として召されたから。
 3)救われていない人が滅びに向かっていることを思うと、じっとしていられないから。
 4)主の再臨が近いから。
 5)洗礼後、自分のすべてをささげますと神に約束したから。
 6)弘慈という名は、神のいつくしみを広めるとの意味で、生まれた時から神に召されていた。
 7)キリストのために苦しむことは、この世のどんな快楽にもまさっているから。

 さあ、あなたの番です。
□世の終わりの前兆が見られるこの現代において、あなたはどう生きますか。
□朝祈ってみましょう。神の前で悔いない今日を過ごせるように。
□惑わされず、忍耐しつつ、主イエスの福音を伝えましょう。

マルコ12:35~44節 主イエスの視点

今日は、主イエスの目の付け所に注目したいと思います。41節に「イエスは~見ておられた」とあります。主イエスは、何を見ておられたのでしょうか。私たちと違う視点をお持ちなのでしょうか。

1、 ダビデの子と主イエス(35~37節)

 「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。(36~37節)

 旧約聖書は、やがてメシアが来られる、つまり、救い主がおいでになると預言していました。その救い主がダビデの子孫から生まれるので、救い主のことを「ダビデの子」と呼び慣わしていたのです。ダビデ王とその末裔。どちらが偉大という印象を与えますか。

 主イエスは、ダビデの詩篇110篇を引用し、ダビデがキリストを「私の主」と呼んでいると指摘。ダビデは、まだ見ぬ救い主を我が主とあがめていたと説明しました。
聞いている人々は、こうした主イエスの解き明かしを「喜んで聞いていた」(37節)のです。律法学者とはまったく違う、神の言葉の生きた解き明かしに目が開かれる思いでした。

 主イエスの視点とはどんな視点でしょう。神の言葉の中心を切り出せる視点です。

 私たちも、毎朝読む聖書の言葉の、まんまん中の、大事なポイントを受け止められる視点を持ちたいですね。主イエスの視点は、まず、神のことばに注がれていました。
 

2、律法学者に気をつけよ(38~40節)

 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(38~40節)

 私たちの住む南カリフォルニアでは、山に近い場所でコヨーテが出ることがあります。コヨーテに気をつけなさい、と言われたら、危険な場所には行きません。
 主イエスは、「律法学者たちには気をつけなさい。」(38節)と言われました。つまり、律法学者に近づくな、尊敬するな、影響を受けるな、と言っておられるのです。

 律法学者は、独特の長い洋服を着ていて権威が感じられ、教養がありそうで、信仰が深いように見えました。主イエスは、外見にだまされるな、内面は空っぽだと指摘されました。そういう人と付き合うことは、危険で、悪影響になると警告されたのです。

 律法学者の関心事は、人前でほめられること、挨拶されること、高い地位に置いてもらうことでした。祈りですら、神にではなく人に聞かせるための、長々した言葉の羅列でした。
私たちクリスチャンも同じような誘惑に会います。人にではなく、神に。それが、信仰生活でとても大事なことです。

 教会の礼拝で、賛美リードの奉仕ほど難しい奉仕はありません。なぜなら、人前に立つからです。律法学者と同じ誘惑に立たされます。自分一人の時に神をたたえることがないなら、賛美リードはできません。

 同じく牧師も大きな誘惑にさらされます。主イエスの視点は、牧師である私のどこを見ておられるでしょうか。感動的なメッセージを礼拝で語れるかどうかなど主イエスの眼中にはありません。私が家庭でどう生きているか。妻や家族に尊敬されているか。妻や子供たちに、「ごめんなさい」や「ありがとう」が言えるか、口先ではなく私の家庭での言動、一人でいるときの生き方に目を留めておられます。

 英語部のBさんは毎週水曜3時間かけて教会堂の掃除を一人でされます。教会に来る人が気持ちよく礼拝できるようにと、心をこめてそうじをして下さっています。誰にも見られないところで、主に仕える姿は、とても美しいです。淡々と主に仕えています。

 主イエスの視点はどこにありますか。有害な人を見抜き、注意を喚起する目です。

 外側だけを飾る空虚な信仰者の真似はしないようにしましょう。「気をつけなさい」です。


3、レプタ2枚の献金(41~44節)

 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(41~44節)

 神殿に来ていた人は、金持ちがささげた多額の献金に圧倒されていました。たいしたもんだ。凄い。大金だ。一方やもめは、最小単位のコイン2枚をささげました。換算すれば1ドルや2ドル程度の額です。誰も、その献金に目をくれなかったはずです。

 主イエスは、「人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられ」、わざわざ弟子を呼び集め、多く献金したのは金持ちではなく、貧しいあの女性だと教えられました。「どの人よりたくさん投げ入れました」(43節)と評価されました。有り余る中から献金した金持ちより、生活費のすべての金額をささげた女性に感動されたのです。

 立派な外見の律法学者を尊敬し、みすぼらしい服装の女性を軽蔑する。それが私たちの弱さです。主イエスは、違うところを見なさいと弟子たちに諭しました。主は、今日、あなたにも同じことを指摘されます。見るべきところを、見なさいと言っておられます。

 私たちは、何を見ているのでしょう。

 ジョエル・オースティン牧師は自分が子供のころ、礼拝中にある男性のことを馬鹿にしていたと述懐したことがありました。賛美の時間になると踊り出す男性がいて、友達と一緒にその人物を見つけては毎回笑いものにしていたそうです。その男性が礼拝の時、あかしをしたそうです。どんな悲惨な人生から自分が救われたか、主イエスを信じて仕事も妻も与えられたことがうれしくて、賛美の時には自然に踊りだしてしまうと真摯に語ったそうです。それを聞いて、ジョエル少年はその男性を心から尊敬するようになったといいます。

 主イエスは、何を見ておられるでしょうか。私たちは何に目を留めれば良いのでしょう。

 ある幼稚園で生まれつき足が少し不自由な子がいました。運動会に向けてクラス全員リレーの練習をしますが、その子のクラスが必ず最下位です。子供たちは、その子を容赦なく非難しました。運動会の予行演習の日に、クリスチャン家庭に育った男の子がクラスのみんなを呼んで円陣を組み、何かの作戦を提案しました。
 よーいドン。足の遅い子が最初に走る作戦でした。クラスの皆は、今まで違い、その子を応援したのです。次の走者は遅れを取り戻す意気込みで一生懸命走ります。次の子も距離を縮めます。やがては追いつき、追い抜き、最後は一位でゴールしました。いつも文句を言われていたその子を中心に歓喜の渦ができました。クラス担任の幼稚園の先生は涙なしにその光景を見ることができませんでした。
 作戦を立てた子は、幼いながら、聖書、つまり神の心を、自分なりに理解して生活に適応したのです。足の遅い子をダメな子と見ないで、普通の視点と違う見方をして、その子を励ましてみんなで戦うことを提案できたのです。

 さあ、あなたの番です。主イエスが見るであろう視点で、人と物事を見て、勇気をもって動き出しましょう。
 
 □神の言葉の中心を取り出せる目を養いましょう。
 □空虚な外側だけの人と真実な信仰者の違いを見極める目を持ちましょう。
 □まごころと信仰のこもった心で、献金しましょう。

 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第1サムエル16:7)

マルコ12:28~34 二つとも大事

人生で一番大事なことは何か。たまには、こういう大きな質問をしてみよう。

1、人は何のために生まれてきたのか

 今日の箇所は受難週の出来事でした。神殿で行われていた律法学者と主イエスの論争を聞いていて、主イエスに関心を寄せた律法学者の一人が、かなり本気になって主イエスに質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(28節)

 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)

 主イエスは、最も大事な事が、霊的に成長する事だ、聖書知識を増やすことだ、深い悟りを得ることだ、力強い賛美をすることだ、長く祈ることだ、伝道することだ、正義を行うことだ、と言われませんでした。

 主イエスの答えに注目して下さい。一言に凝縮するとしたら、どうなるでしょう。最も大切な命令は、愛すこと、なのです。

 私たちは誰かを愛すために生まれてきた、と言い切っても良いのです。


2、「愛す」とは、何をすること?

 さあ、ここからは、あなたの番です。主イエスは、愛を考えなさいとは言われません。実際に、愛しなさいと言われたのです。

 そこで、数学の素因数分解をするように、誰かを愛すということを具体的な要素に置き換えてみましょう。愛すということを、別な言葉に言い換えてください。
先を見ないで、まず、あなたが考えて書き出してみてください。

 次の項目は、私が考えたもので、「愛する」という事を具体的な行為に書き直したものです。

 □ありがとうと言う
 □ごめんなさいと言う
 □ゆるす
 □尊敬する
 □話を聞く
 □その人のことを、しばしば考える
 □その人のために、何かする
 □共にいる
 □愛していると言葉で伝える

 私たちが不幸だと感じる瞬間は、こちらが努力したのに「ありがとう」と言ってもらえない時、苦しめられても「ごめんなさい」と言ってもらえない時、ごめんねと言ってもゆるしてもらえない時などです。だから、ひっくり返して考えればすぐに分かります。誰かにしてもらうと嬉しいこと、それが、具体的な愛です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(31節)と主イエスが言われた意味が分かりますね。

 私は、10年間、夕食後、妻と手をつないで語り合ってきました。子供の頃の話や学生時代の昔話をして大笑いしたり、子供たちのことを話題にしたり、バーゲンセールで安い買い物をしたり、日本に旅行する計画を話したり、テレビドラマを話題にしたり、何でも話しています。
 かつては、こうした時間が無駄な時間だと思った時期もありました。でも、今は、かけがいのない無い時間になりました。この世を去るまでずっと続けたいと思っています。妻が望んでいた語り合いのひとときが、私の喜びになりました。
 
 あなたは、今日、今週、誰を愛したいですか。何をして、愛を伝えたいですか。
 


3、二つとも大事

 主イエスの答えは、少し奇妙です。律法学者は最も大切な一つを尋ねたのですが、主イエスは2つあると答えました。「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(31節)
 32~33節を見ると、律法学者が主イエスのその答えを聞いて、興奮ぎみに同意している雰囲気が伝わってきます。二つが大事だという考え方に驚嘆しているのです。
 「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(32~33節)

 人だけを愛し、神を愛すことをしなければ、どうなりますか。困った人のために泥棒することが合理化されます。純粋な愛だと思い込めば、不倫も正当化されます。
 その反対のケースを考えましょう。神を愛すと叫び、賛美する事を喜び、聖書の真理に興奮し、神との交わりで恍惚状態を経験できても、妻や夫との関係が離婚寸前という場合も起こります。神との交わりに、配偶者がじゃまだと考える人さえいるかもしれません。

 愛が健全になるためには、「神を愛すこと」と「人を愛すこと」が切り離されてはいけないのです。二つで一つなのです。

 あなたは、神への愛と人への愛で、どちらが強いですか。(どちらも弱いですか?困りましたね)弱い愛のほうを、もっと豊かにしましょう。

 神を愛すことが弱い人は、上に上げたリストを神に向けてください。そうすれば、自然に神を愛せます。つまり、感謝、悔い改め、賛美、聖書を読む、みこころを求める、献金、祈り、礼拝をすることになりますね。
 
 神を愛していますか?神のために、という動機で、あなたはどんなことをしたことがありますか。朝聖書を読むディボーションは、突き詰めて考えると、誰のためなのでしょう。

 素朴に伺います。神さまが微笑んでくれることは何かと考えたことがありますか。それが何か分かって、実際に行動したことがありますか。神に、「主よ。あなたが大好きです。」と言ったことがありますか。

 デレク・レドモンド(Derek Redmond)というイギリスの黒人陸上選手がいました。世界選手権400mリレーの金メダリストの一人です。彼が27歳の時、バルセロナ・オリンピック(1992年)に出場し、予選を軽々とクリアし、準決勝のレースの最中に肉離れを起こして顔をしかめてその場に跪いてしまいました。救護の人が様子を見ている中、デレクは立ち上がりました。係員の静止を振り切って、左足だけでピョンピョンという感じでコースを走り始めました。すると、中年男性がコースに飛び出し、やはり係員を振り切ってデレクの肩を抱きました。何か言葉を交わすと、デレクは泣き出しましたが、肩を組んだまま二人はゴールインしました。
 男性は、デレクの父親でした。もう走らなくていい、と言葉をかけましたが、最後まで走るとデレクは答え、分かった二人で走ろうと話したといいます。二人でゴールしたときは6万5千人が総立ちで拍手しました。今日では、400m競技の金メダリストの名前は忘れられていますが、デレクは多くの人に知られています。

 人生にも同じことが起きます。私たちはコースで立ち止まり、落胆します。主イエスは、私たちをこよなく愛し、私たちの人生に入ってこれらました。そして、私たちを励まして下さいます。この人生で必要なことは、愛すことだ。出世しないかもしれない、金持ちになれないかもしれない、罪を犯すかもしれない、人を傷つけるかもしれない、でも、人生というレースから降りてはいけない。その足で立ち上がるんだ。人を具体的に愛しなさい。そして、神を愛すことを体で覚えなさい。主イエスは、あなたと肩を組んでくださいます。たとえ、人生のゴールが、涙に暮れ、人から失敗と思われる人生であっても、主イエスと共にゴールインできるなら、人生の勝利者となるのです。

 さあ、あなたの番です。人を具体的に愛しましょう。神の心を思い巡らし、神のために体を動かしましょう。ふたつとも大事です。

 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)