この子の代わりに 創世記44章

 あなたが仲間や家族と一緒にレストランに行って、一人だけオーダーした食事が出てこない時、あなたならどうしますか。ウエイトレスに文句を言ってあげる人、料理が来るまで自分の分を食べない人もいます、そうかと思えば、冷めてしまうので先に食べるという人もいます。自分の分を分ける人もいます。あなたはどのタイプですか。
 人というものは、自分本位ですね。

1、ヨセフの悪意と自分本位

 ヨセフが奴隷に売られたり牢獄に入れられた時には、主が共におられる、という聖書の記述が続きました。けれども、ヨセフがエジプトの宰相になった後、そのようなコメントが消えてしまいました。

 「私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」(創世記44:2)

 兄たちと再会した際に、ヨセフの悪意や復讐心が表面化しました。兄たちにスパイの嫌疑をかけたり、投獄したことに、ヨセフの暗黒部分が表れています。今日の箇所では、ベニヤミンひとりを残す口実として、杯を盗んだように工作しました。血のつながった兄弟ふたりで再会を喜び、一緒に暮らす計画だったと思われます。

 みんなで撮影した写真をもらったとき、あなたは最初にどこを見ますか。そうです、自分ですね。完成した卒業アルバムを見て、良くできているかどうかの評価は何によって決まりますか。自分が良く映っているか、たくさん登場しているかで判断します。

 ヨセフの心には、明らかに悪意と自分本位、過去を引きずる思いがありました。あなたの心には今、何が隠れていますか。

2、ユダの変化

 ユダは、約22年前、ヨセフを奴隷に売るようにと提案した冷酷な人間でした。ところが、ベニヤミンの袋からヨセフの銀の杯が見つかったとき、神が自分の罪を暴かれたと理解したのです。ユダの心には、神の語りかけを聞ける謙虚な心が備わっていました。

 「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。」(16節)

 ヨセフを見捨てた冷たい兄たちです、22年前と同じ態度に出て、ベニヤミンを捨てて帰るだろう、とヨセフは予想しました。ところが、突然のユダの申し出がヨセフを激しく揺り動かしました。

 「このしもべを、あの子の代わりに、あなたの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(33節)

 ユダは、わがままで、えこひいきな年寄りとなった父を受け入れ、他者の幸せを喜ぶ人に変わっていました。今のユダは、昔のユダとはまったく違う人になっていました。

 人は、こういう真実さに心動かされ、目が開かれていくものです。あなたの生活でも、きっと同じようにして神が働かれる場面があるはずです。今週は、あなたの身近な人が示す真実さに注意を払いましよう。
 また、あなた自身が、純真な心を取り戻す週としたいですね。
 

 

ベニヤミン 創世記43章

1、ためらい

 「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに2度は行って帰って来られたことでしょう。」(創世記43章10節)

 高齢のヤコブ(イスラエルと呼ばれている)は大家族の長であったが、執着、溺愛、わがままのため、適切な決断ができなかった。エジプトに息子達を派遣し、穀物を買い付けないと一族が死に絶えてしまう。
ヤコブの目を覚ましたのは、4男ユダの捨て身の提案だった。(9節)

 問題の種類によっては、先延ばしすればするほど悪化する事がある。虫歯を放置したら良い事はひとつもないのと同じだ。<ためらい>それ自体が、自分を窮地に追いやる。
 
 あなたが今、ためらっていることは何ですか。良い事なのに、行動を起こさないのはなぜですか。神が喜ばれると知っていながら、あなたは動かない。今が、アクションを起こすときだ。

2、全能の神

 神はかつて、全能の神としてご自身をヤコブに現したことがあった。

「神はまた彼に仰せられた。『わたしは全能の神である』」
(創世記35:11)

 そのときから約30年が過ぎていた。ヤコブは長い期間、横道にそれていた。ついにヤコブは神への全幅の信頼を取り戻した。

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失うときには、失うのだ。」(14節)

 あなたの信じている神は、お財布を無くした時に見つけてくれる便利屋程度のお方なのか。学校のテストで、4択問題の回答をくれるだけの方なのか。

 ヤコブは、全能の神にすべてを任せることにした。たとい大切なものを失うようなことがあっても、主の最善を信じることにした。

 羽根田敏さん夫婦はクリスチャン医師としてネパールの田舎の病院で2003年から07年献身的に働いた方々です。その間、ネパール王政に対する反政府運動が高まり、各地でデモ行進が起き、道路が封鎖されました。日本から来ていた女性ゲストの帰国に合わせ、危険を感じていた羽根田さんたちも帰国する決意をしました。唯一動いていた外国人観光客用バスを待って、バス停前のレストランで待つこと2日。ためらっていてはいけない、と最終手段に打って出ました。病院の救急車を出し、ゲストの女性には急遽患者になってもらい、点滴をしながら検問所を5、6箇所突破、無事にカトマンドゥに到着しました。レストランでともに聖書を学んだとき、不思議にも表を行進する数千人のデモ隊にも恐れを感じなくなりました。全能の神は、道を開いてくださいました。

 あなたは、全能の神を信じていますか。全能の神に自分自身と問題のすべてを、しっかりとお任せしましょう。

希望に溢れています  ローマ5:1~5

 主イエスを信じてクリスチャンになった人には、いくつかの特徴が見受けられます。今日は、その特徴を6つ取り上げてみます。それらの特徴は、努力の結果ではなく、神からのプレゼントと見るべきでしょう。

1、ごめんなさいと言える人

自分が罪人だと心底気づいた人は、神に「ごめんなさい」と言える。そういう人は、人にも「ごめんなさい」と言える。私の高校時代、ある女子高校生がクリスチャンになった後、心に刺さる過去を思い出しました。電車でキセルをして罪を神に示され、駅長に謝りに行き、弁償しようとした話を聞きました。私は、驚いたし、胸を刺されました。
クリスチャンになった人は、ごめんなさいと言える人になりますね。
ローマ4:7~8「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

2、ありがとうと素直に言う
 罪深い私のために、主イエスが身代わりになって十字架で死んでくださった。それで、主イエスに「ありがとう」とクリスチャンは言います。それで、どんな小さな事に対しても感謝の心が出てきます。生かされていること、命があること、健康であること、家族がいること、小さなことを感謝できる人になります。

3、心が落ち着いている 
主イエスを信じると、神との根源的な平和が与えられる。だから心が落ち着くのです。神を知り、主イエスの十字架の愛を知った人は、心が静かになります。実は、この平安こそ、人間が求めている基本的幸福なのです。
『NHKラジオ英語会』で有名な講師、東後勝明先生は、人の一歩前に出るが信条で他人を寄せ付けないほど仕事に追われていたので家の飼い猫も寄って来なかったそうです。イエスさまを信じて救われたら後、そのネコがひょいと膝に乗ったそうです。動物は、ひとのかもし出す殺気や平安を見分けられるのですね。

4、神の栄光を願う人
主イエスを信じると、主イエスのために生きていきたいと自然に思います。それで、自分のことはどうでもいい、神の栄光が表れてほしいと願います。それで、「私にやらせてください」とか「やったことがないけど、やらせてください」と言えるようになります。
よく言われるように、JOY(喜び)にはある種の法則があるらしい。最初に求めるものはJ:Jesus、次はO:Others、最後はY:YOURSELVES。これは律法として守ることではなく、人間の心の底から湧いてくる自然の情となるときに本物になる。

 ここまでが、1節から3節までの部分だ。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たち立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
主イエスに救われ、変えられと、今までと異なる価値観で生きるようになる。それが、次の特徴になって表れる。」
 義認による罪の解決をプレゼントとして受けると、「ごめんなさい」と「ありがとう」となる。それに続くのが、恵みの実感。そして神の栄光を求める姿勢につながる。そうなった人が、次にことが言える。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(3~5節)

5、苦しみの受け止め方が違ってくる
 試練や苦しみは辛い。貧乏くじを引いたとか、なぜ私だけ苦しむのか、と後ろ向きになるのでなく、主イエスが共におられる、主イエスが共に苦しんでくださる、その中で患難、忍耐、練られた品性という希望の連鎖があることに気づく。根本的な価値観に変化が生まれる。

6、希望が与えられている
 本当の希望は、人間の計算を超えたところにある。まるで、突如目の前に現れる鮮やかな虹のようなものだ。“上から”降って来るもの、与えられるものです。

今日は飯島寛子さんに礼拝の中で体験談を話していただき感謝でした。夫で、世界的ウィンドサーファーだった飯島夏樹さんが書いた『ガンに生かされて』のあとがきを読み、私は一瞬固まりました。

「以来、今に至るまで、体調は悪化しても、心は希望で溢れています。」

 飯島夏樹さんは肝細胞癌になり、数度の手術を受け、最後は治療方法が無くなり余命宣告を受けてハワイに移住、自宅で半年以上闘病生活を続けました。教会の仲間の一人として私もその姿に大きな感銘を受けました。腹水を3度抜いた後、天に召される5日前に書いた文章がこの文章です。なんという突き抜けた姿勢でしょうか。主からの希望を頂いて走りぬけた爽快感がそこにあります。 
 
 あなたには、どの特徴が与えられていますか。そして、あなたが今日、一番ほしいものは上記の中で、どれですか。主イエスに願いましょう。

再会 創世記42章

1、隠れていた怒り

 ヨセフは当時38歳前後、幸せで満ち足りていた。結婚して二人の息子が生まれ、地位と名声を得て働き盛りの真っ最中にいた。夢の解き明かし通りに豊作が7年続き、やがて凶作の時期に入った。ヨセフは外国から穀物を買い付けに来た人々を監視していたが、とんでもない人物たちが目の前に現われた。兄たちだ。自分を奴隷商人に売り飛ばした兄たち10人だ。

 ヨセフは意図的に荒々しい言葉を使い、スパイの嫌疑を一方的にかけた。(7節)自分も気づかないくらい憤っていた。兄たちの言葉、「正直者でございます」(11節)、「もうひとりはいなくなりました」(13節)を聞いて苛立ちはいっそう激しくなった。

 ヨセフは無意識のうちに意地悪な処置を言い渡し、10人を一時軟禁した。

 あなたにも、隠れた怒りがあるかもしれない。まるで地雷のように普段は隠れているが、何かの拍子に、死んでいた凶暴な怒りが頭をもたげることがある。
 あなたの隠れた怒りを発見する方法がある。ある事柄やある人の話題に触れただけで、極端に無口になる、攻撃的になる、冷たくなる、という事があれば、それがあなたの隠れている怒りだ。

2、涙が生み出すもの

 ヨセフは3日間、兄たちを牢に閉じ込めた後、「私も神を恐れる者だから」(18節)と本来のヨセフに近づき始めた。さらに、通訳を介さずに兄たちの言葉が耳に届き(21節)、ヨセフは心を揺さぶられた。兄たちは、悔いている。兄たちは、反省している。神から罰を受けたと自分達の行為を責めている。
 「ヨセフは彼らから離れて、泣いた」(24節)涙が何かを流し出した。ヨセフが抱えていた怒りの一部が流れ出た。ヨセフは、変わり始めている。
 
 あなたの番です。一番身近で大切な人の本音が聞こえれば、あなたの心も変わります。神がヨセフに兄たちの肉声を聞かせてくれたように、神は同じことをしてくださいます。心の耳を開きましょう。“敵”の心すら、親身になって聞くことさえできます。心の耳を澄ませてくださいと祈りましょう。それが、身近な人との和解の第一歩です。

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」(詩篇37:7)
「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」(詩篇37:8)

 


 
 

新しく生まれる 第2コリント5:17

 日本語、ギリシア語、英語で第2コリント5:17を見てみましょう。新約聖書はギリシア語で書かれています。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5:17新改訳)
 ὥστε εἴ τις ἐν Χριστῷ, καινὴ κτίσις• τὰ ἀρχαῖα παρῆλθεν, ἰδοὺ γέγονεν καινά. (ギリシャ語)
 Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come! (NIV)

 今日は、男性3人がビーチで礼拝後洗礼を受けます。嬉しいです。礼拝の中で3人の方が、どのようにしてイエスさまを信じるようになったかを話してくれました。

 今日の聖書箇所に注目しましょう。まず、「だれでも」と書いてあります。泥棒でも、殺人犯でも、詐欺師でも、どんな人でも「だれでも」の中に入ります。あなたも、もちろんその一員です。どんな人でも、「キリストのうち」(ἐν Χριστῷ in Christ)にあるなら例外なく人生が変わります。

 主イエスを信じる行為は、自分の中にイエスさまを取り込む事と理解されがちです。でも聖書によれば、これは逆です。信じた私たちがイエスさまの中に取り込まれているのです。イエスさまの愛の中に入れられました。主イエスの守り、いのち、平安の中に招き入れられたのです。主イエスの命が届いた人は、どんどん変化していきます。変わるのではなく、変えられるのです。信じて飛び込むというより、主イエスに迎えられるのです。

 主イエスを信じた人は、新しく造られたものです。「造られた者」とはギリシャ語本文ではκτίσις(creation)と書かれています。これは、他の箇所で<被造物>、<創造>、などと訳される言葉です。主イエスを信じた人は、神によって新しく創造されたものなのです。

 別の言い方をすれば、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」となります。新しくなったという言葉はギリシア語でγέγονενです。完了形が使われていることから、神が私たちを作品として造ってくださり、それが完成したことが分ります。私たちは、神による作品なのです。
  
 主イエスさまを信じた多くの人が異口同音に言う感想があります。「自然が美しく見える。見えるものすべてが全然違う」周囲のものは以前と同じですが、自分が変化したのです。

 エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」

 主イエスだけが、あなたを、新しく創造してくださる方です。主イエスにあなた自身をお任せしましょう。