ルカ1:26~38 おことばのとおりに


 マリヤがいなかったら、クリスマスはありません。
今日は、マリヤの信仰と勇気について考えましょう。

1、普通の若い女性、マリヤ

クリスマスは、パレスチナのナザレという町に住んでいた一人の女性から始まった。そう言っても過言ではありません。ナザレは、旧約聖書に一度も登場しない町で、商業、政治とは無縁の小さな田舎町です。聖地旅行で私もナザレを訪ねましたが、町の印象は丘陵地帯にある町という程度でした。

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。(ルカ1:26~27)

マリヤは、ヨセフと婚約中の普通の女性でした。二人は金持ちではなく、貧しい人々に属することはルカ2:24のいけにえの動物の種類から推測できます。
2000年前のパレスチナの女性は、今よりかなり若く結婚したので、マリヤが思慮深く落ち着いた女性と考える必要はないでしょう。むしろ、若く、心が柔軟で、新しい考えに順応性のある女性のように、私には思えます。

あなたは、マリヤに似ていますか。

2、おめでとう?

御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。(28~29)

 マリヤは、天使ガブリエルの言葉に戸惑いました。いきなりおめでとうと言われても心当たりはありません。ガブリエルは、約500年前に預言者ダニエルに表れた天使です。(ダニエル9:21)

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(30~33節)

マリヤが子供を生むというのです。それも、男の子であると天使が言うのです。
 その赤ちゃんが大きく成長すると、「いと高き方の子」と呼ばれます。これは、神の子という意味です。また、ダビデ王の後継者となり、永遠に終わることのない国を治める王となるというのです。これは、旧約聖書が預言する<救い主>を意味しています。

そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)

 マリヤの困惑の理由は、結婚してないのに、赤ちゃんが生まれるはずはないという点です。後に、神学者たちはこの出来事を「処女降誕」と呼びました。処女降誕を最も真剣に疑ったのはマリヤ本人です。あり得ないとマリヤは思いました。

それだけでなく、婚約中に妊娠したらとても困ります。婚約相手ヨセフに信じてもらえないでしょう。婚約解消だけでは済まず、場合によっては死刑さえあり得る時代でした。

 あなたがマリヤなら、どうしますか。


3、おことばとおりに

 天使ガブリエルは、どうして処女降誕が可能なのかを説明します。ポイントは二つ。第1は、神が全能の神だから可能。第2は、不可能が可能になった実例がある。

御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(35~37節)

 神が全能なら、すべては可能。これは、実に論理的です。
 宇宙を創造されたのが神。物質の構成を決め、分子も原子も素粒子も造られたのは神。遺伝子を作りその運用方法を決めたのも神。ならば、神がその法則を特別に変えることに何の問題もありません。

ユダヤの人々は何百年も動物のいけにえをささげ、傷のない動物だけをささげてきました。欠陥のある動物、汚れた動物は、人の罪の身代わりにはなれなかったのです。
主イエスは神の子羊です。人々の罪の身代わりになる神の子羊ならば、どうしても傷のない子羊、つまりまったく罪のない者、聖い者である必要がありました。ですから、救い主は聖霊によって生まれる必要性があったのです。
処女降誕は、偶然でも、思いつきでも、おとぎ話でもなく、神の必然だったのです。

 マリヤの親類のエリサベツは、だれもがびっくりするほどの高齢で出産を控えていました。それが神による特別の妊娠であることは、エリサベツの夫が天使に会って口がきけなる事件で周知の事実となっていました。(ルカ1:20)

マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(38節)

マリヤは普通の若い女性でしたが、普通ではない応答をしました。
 1)妊娠による将来の困難を受け入れました。
 2)神に不可能はないと信じました。
 3)謙虚に神からの使命を受け入れました。

 城ノブ(1872~1959)は若い頃から伝道者として各地で働いてきた女性でした。45歳の時、ノブは神戸の摩耶山の奥地に入り祈りました。哀れな身の上の女性たちを助ける仕事をすべきか、主のみこころを知ろうと3日間祈り、その結果、主からの使命と確信し、「神戸婦人同情会」というシェルターを開設しました。
 人身売買、家出、身を売る少女たちが悲惨な自殺をしていた時代でした。鉄道自殺の多い線路沿いに看板を立て、「一寸待て、神は愛なり。死なねばならぬ事情のある方は、すぐにいらして下さい」と書きました。その結果、40年間続けられた働きで、4000人の命が看板を見て救われ、他に、施設で助けた人数は6万人を超えたそうです。

 誰にも知られないような普通の女性マリヤは、勇気と信仰を持って神の言葉を受け入れました。それが、救い主イエスの誕生、クリスマスとなりました。
 あなたの小さな勇気と信仰も、必ず誰かを生かことになります。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

→あなたの番です
□神が全能の神であると信じる
□神から頂いた使命を受け入れる


詩篇33篇 目を注ぐ神


 神の口、神の目。ダビデは二つの事を心に留め、神を賛美しました。

1、神の言葉

 まず、ダビデは、神の口に注目しました。

主のことばによって、天は造られた。
 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(6節)
まことに、主が仰せられると、そのようになり、
 主が命じられると、それは堅く立つ。(9節)

 言葉はコミュニケーションの道具として理解されます。ですから、神が語られたなら、私たちはそれを聞いて、祈りの言葉で応答するという図式になります。
 ですがダビデは、33篇において、コミュニケーションについてではなく、神の言葉がいかに力強いかについて言及しました。光あれ、と言うだけで光ができる。言葉で命じるだけで世界ができる。比類ない神の言葉の権威を歌います。世界、宇宙、すべての生物を造り、自然界の営みのルールを設定した神の言葉に思いをはせ、ダビデの心は賛美するのです。


2、神のまなざし

 次に、ダビデは、神の目に注目しました。

主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。(13~14節)

 神の眼差しはどこにありますか。神の作られた恒星、動物、法則などに目は向きません。神の目は、人間にだけ注がれています。神の関心は、私たち一人一人なのです。
 
 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。(14~15節)

 目といえば、人間の目と動物の目はずいぶん異なります。星明りでも獲物を見つけるフクロウの目は闇に強い目です。1千メートル上空からでも獲物を見つけるワシの目は、人間の何倍も画像がくっきり鮮明です。ミツバチは、人間に見えない紫外線までも見分けるので花の蜜がどこにあるかが分かります。それぞれの生き物に必須な目が与えられている事に驚きます。

 神は、人間にふさわしい目を造られました。犬や猫など哺乳類のほとんどは赤と青の二色を認識する目ですが、人間が赤、青、黄色の3色を識別し大自然の美しさに感嘆できるように造られていることに私は驚きます。
 神は人間にフルカラーを認識する眼球だけでなく、自分を見つめる目、つまり「心」をも与えました。15節に、「主は、彼らの心をそれぞれみな造り」と書いてある通りです。心という目で、人間は自分の生き方を見直し、神の言葉に共振し、心という目で神を礼拝できるのです。

 神の眼差しに応答できるのは人間だけです。心の目を神に向け、神を賛美しましょう。


3、神に信頼し、神を賛美する

 人間は、神の偉大さを忘れ、神の眼差しを感じなくなると、頼れるのは自分だけだと錯覚します。それで、国家レベルでは武力を増強することに腐心します。一人の人間なら、学歴や財産や権力や見栄えで自分を武装します。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16~17節)

 ダビデは王の立場にいましたが、頼りになるのは武力ではないと言い切りました。神に頼り、神を待ち望むことが人間のなすべき事です。

 私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。
 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。(20~21節)

 さあ、あなたもダビデと同じ心で主を賛美しましょう。
 神の偉大さをたたえ、神の眼差しが私たちに注がれていることを感謝し、日ごとに新しい歌を生み出しながら主を賛美しましょう。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(1節)

→あなたの番です
 □神の言葉の力強さを覚え、主を賛美しましょう。  
 □神の眼差しが注がれていることに感謝しましょう。
 □自分の力を過信せず、神を待ち望みましょう。


詩篇32篇 罪の告白



 罪の悔い改めの詩篇として詩篇51篇と詩篇32篇が有名です。51篇では罪の苦悩が、32篇では罪赦された者の幸いが歌われています。

1、黙っている時のうめき

 罪の解決方法は二つしかありません。
 一つは、罪を自分でおおう。もう一つは、罪を神におおってもらう。

 罪を自分でおおう場合、罪を打ち消すための嘘をつきます。あるいは、罪を隠すために多大なエネルギーを使います。これは自分の良心を麻痺させる作業です。

 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
(詩篇32:3~4)

 ダビデはうめきました。疲れました。心が重く、骨が痛く、心が乾き切りました。罪を隠している時、私たちの健康は弱まるのです。

 ダビデとバテシェバとの姦淫の罪が、この詩篇の背後にあると学者たちは指摘します。罪を隠すため、ダビデは偽装工作をするも失敗、最終的にはバテシェバの夫殺害にまで手を染めました。詳しくは第二サムエル11章をご覧ください。預言者ナタンにより罪を指摘された時、ダビデ王は素直にその場で罪を告白しました。「私は主に対して罪を犯した」(第二サムエル12章13節)普通、言い訳は長く、真実の悔い改めは言葉が少ないものです。ダビデは、この時の経験を後で振り返り、罪赦されることがどんなに幸いかを歌っているのです。


2、赦される幸い

 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ(5~7節)

 罪をそのまま神に知らせること、自分の罪を隠さないこと、罪を申し上げ、告白すること、それが悔い改めです。
 罪を告白すると何が起きるでしょう。神が隠れ場になってくれる。助けられ、守られる。救いの歓声で私たちを取り囲んでくれるのです。つまり、神が私たちの罪をおおってくれるのです。

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(1~2節)

 東京に雪が降った翌日は、町中が雪と泥とごみが混じって薄汚れた景色になります。でも、北国の雪は違います。どんなに汚れた地面も、人の足跡も、夜中に降り続けた雪が一面の雪野原に変えてしまいます。神が罪を赦して下さることも同じで、完全のゆるしで私たちをおおってくれます。神による罪の赦しはびっくりするくらい完璧なのです。
 神が私たちの罪を赦すとは、完全に罪のない者として認めることです。神の記憶から、私たちの罪を消し去ることです。

 主は、どんな罪もゆるし、何度でもゆるす方です。神だから、それができるのです。


3、行くべき道が示される

 罪赦された人は、過去の問題が清算されるだけでなく、未来への扉が開かれます。

 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。(8~9節)

 罪を抱えている時は、神が見えず、神のビジョンが見えません。でも、罪が解決されると、神が新しい方向性を明らかにしてくれます。悟りが与えられ、行くべき道が見えてきます。
 過去と未来だけでなく、現在の自分にも祝福がやってきます。11節のような大きな喜びが今のあなたをおおうのです。

 一つも罪を犯さない人が幸いなのではありません。罪を犯さな人など地上に一人もいないからです。大事なことは、罪を犯した時に、罪を告白し、主に信頼することです。
 罪赦された人こそが、真に正しい人、心の直ぐな人なのです。罪赦され、謙虚になった人こそ、主のビジョンを行うにふさわしい人です。

 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(10~11節)

 パトリシア・セントジョンが書いた『雪の宝』という小学生高学年用の小説があります。罪の悔い改めをテーマに、主イエスを心に迎え入れるとは何かを教えてくれる極めて優れた本です。スイス山奥に住む小学生とその家族が登場人物で、美しい自然と素朴な人たちによる美しい物語です。
 物語では、アンネットの弟ダニーが足を怪我して歩けなくなるのですが、ルシエンという男の子によるいじめが発端でした。子供にも大人にも無視されるようになったルシエンが自分の罪を悔い、主イエスを信じ、人のために犠牲を惜しまない人に変えられていきます。
 ルシエンが罪を悔い、信仰を持つきっかけになるのが山小屋のおじいさんとの交流でした。ただ一人、ルシエンを受け入れてくれたおじいさん、そのおじいさんにルシエンは自分の過去を話す必要がありました。もし、過去の罪を語れば、おじいさんにもさげすまれ、嫌われる恐れがありましたが、ルシエンは自分の犯した罪を正直に話しました。清々しい罪の告白の場面に私は心洗われました。

 あなたも、勇気を出して、自分の罪を神に話しませんか。神は、その瞬間を待ちかねています。罪を告白し、裸になると、神はあなたを愛と赦しと救いの歓声の衣でおおってくれるのです。

 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(第二コリント5:14)

 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(1~2節)

→あなたの番です
 □主に罪を告白しよう。身近な人に、あやまろう。
 □謙虚な心で、主の示す道に進んで行こう。