第1コリント16:1~24 男なら、愛を


 この手紙の最後は、連絡事項と挨拶です。このわずかな文面からもパウロの信仰と愛がうかがえます。

1、連絡事項

 まず、具体的な連絡事項が4つ書かれています。
 1)エルサレム教会のために献金を集めなさい(1~4節)
 2)パウロのコリント訪問予告(5~9節)
 3)この手紙を持参するテモテを丁重に迎えるように(10~11節)
 4)伝道者アポロはコリント訪問の意志がない(12節)

 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。(1~3節)

 経済的窮乏にあえぐエルサレム教会を援助するため献金するようにパウロは勧めました。献金はあまったらするのではなく、「週の初めの日に、収入に応じて」(2節)先にささげるものです。

私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。(7節)

 パウロはこの手紙で問題の早期沈静化を図り、テモテに持参させるつもりでした。(10節)。若い愛弟子テモテを軽く扱わないようにと(11節)注意も加えています。エペソでの迫害が激化していたので安全を見届けるまで留まり、パウロはその後ピリピやテサロニケ教会を訪ねながら南下し、冬の間コリントに長期滞在する計画を立てました。

 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。(12節)

 コリント教会の分派の一つは伝道者アポロ派でした。パウロはアポロと親しい交流があることを「兄弟アポロ」と呼んで示しています。自分が出て行くのは得策ではないとアポロ自身が判断したことを、パウロはコリントの人々に伝えています。

 4つの伝達事項から分かるのは、パウロが行動の人だということです。今、気がかりな事がありますか。放置していませんか。山の手線のようにぐるぐる回るだけでは何も始まりません。なすべき事を絞り、行動に移しましょう。


2、あいさつ

 パウロは手紙の最後に称賛と挨拶と署名を行っています。
 1)ステパナらの労をねぎらうように(15~18節) 2)アクラとプリスカからの挨拶(19~20節) 3)パウロの署名と挨拶(21~24節)

ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。(17~18節)

コリントからはるばる旅をしてエペソを訪ね、教会の問題や質問等を伝えたステパナらをパウロは賞賛しました。

アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。(19節)

エペソ、コロサイ、ラオデキヤの教会からの挨拶が書かれています。コリント伝道初期に活躍したアクラとプリスカ夫妻がエペソにいたので、彼らの挨拶をパウロは丁重に伝えました。

私たちも、周囲の人への気配りや感謝を忘れないようにしましょう。



3、まとめの言葉

 13~14節が今回のキーワードです。

 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。(13~14節)

 「目を覚ましていなさい。」 トトロで有名な宮崎駿さんは、目で見た印象的な景色を心に記録し、資料を見ないでほぼ再現できる方です。見ている部分が私たちと違うのですね。主イエスは「だから、目をさましていなさい」(マタイ24:42)と言われました。毎日の生活に埋没したり、時代の流行に流されないようにしましょう。主イエスをしっかり見ていましょう。主は再び来られます。主イエスの見たように世界を見ましょう。

「堅く信仰に立ちなさい。」 生きることに疲れる一つの理由は、自分以上の自分を見せようとするからです。男なら強く見せたい。女なら美しく見せたい。でも実態とのギャップに悩みます。信仰とは、主イエスが見てくれて、受け入れてくれた、ありのままの自分からスタートします。弱さと罪の汚れをご存じの上で、主イエスは私たちを愛してくれました。だから、固く信仰に立つというのは、頑張って信じたふりをするのではなく、私を愛してくれたイエスに頼り切るということからスタートするものです。

「男らしく、強くありなさい。」 人生を切り拓くために、勇気が必要です。「恐れていることをせよ。そうすれば、恐怖は確実に死ぬ」と言ったのはマーク・トウェインです。愛する人のためなら、私たちは安全地帯から飛び出すことができます。主に信頼して、勇気を出してみましょう。

「いっさいのことを愛をもって行ないなさい。」 新渡戸稲造は『武士道』(1899)を英文で書き、武士道とキリスト教が似ていることを説明しました。武士道にないのは、愛だと述べています。手紙の末尾は、「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。」(24節)です。これはパウロの手紙の末尾としては異例で、ここだけです。問題の多いコリントの教会の人々を、パウロはとことん愛したのです。
強いだけの人になるのではなく、愛の人になりましょう。自分のしていることが正しいと自覚できたなら、次に、愛があるかを確認しましょう。

男たちよ、どんな時も勇敢であれ、そして愛を忘れるな。女性たちよ、しなやかであれ、そして隠し味に愛を忘れるな。そのために、目を覚まし、主イエスに信頼しよう。

 →あなたの番です
  □行動を起こそう
  □人から受けた恩を感謝しよう
  □勇気の人、愛の人になろう


第1コリント15:1~58 福音と復活


 パウロは15章でクリスチャン信仰の核心に触れました。畳み掛けるようにして、福音と復活を語ります。ど真ん中ストライクの超剛速球です。

1、福音

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(1~5節)

 福音とは、キリストが私たちの罪のために死んでよみがえられたことです。福音の内容は、全部主イエスがして下さったことです。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(3~4節)

 福音を信じるなら、救われます。私たちがすることは、ただ福音を信じれば良いのです。「この福音によって救われるのです」(2節)

パウロは、最も大切なものは福音だと言い切りました。福音は哲学ではなく、歴史上の事実です。つまり、本当に主イエスは十字架にかかって私たちの罪のために死なれました。また、本当によみがえったのです。5~8節には、復活した主イエスを見た人のリストが挙げられています。また、主イエスの十字架は偶然ではなく、聖書の預言の成就でした。

 天国に行って帰って来たという子供の話が本になったり映画になり話題になっています。でも、4歳の男の子の話とパウロの話を同列に扱うのはおかしな話です。私はパウロの証言を100%信頼します。パウロによると、主イエスは葬られて後よみがえり、十二弟子に現れ、500人に姿を現しました。「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」(6節)そして、パウロは「私にも、現れてくださいました」(8節)と、自分も復活の主にお会いしたと証言しています。

 パウロには「神の教会を迫害した」(9節)過去がありましたが、「神の恵みによって、私は今の私になりました」(10節)と述べ、福音を信じて救われるとはどんな事かを自分を例として提示しました。

 福音は信じるものです。福音は、いわば、ガンの特効薬のようなものです。ふーん、そういう薬があるのかと知っただけでは意味がありません。今日、主イエスを救い主として心に受け入れてください。福音はあなたの人生を変えます。

 「私があなたに宣べ伝えたもの」(1節)とパウロが言うように、福音は伝えるものです。
クリスチャンであるあなたに勧めます。「最も大切な」(3節)福音を隠してはいけません。福音を伝えましょう。


2、復活

ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。(12~14節)

 コリント教会の一部のクリスチャンは、主イエスの復活を信じていませんでした。もし復活がないなら、キリスト教信仰の実質は無くなり(14節)、偽証したことになり(15節)、罪の解決はなく(17節)、クリスチャンは世界で最も哀れな存在になる(19節)とパウロは警告しました。キリスト教―復活=ゼロ なのです。

 罪と死が世界に入ったのはアダムによってですが、罪をゆるし死を滅ぼすのは主イエスによる(21、26節)のです。主イエスの復活は、穀物の収穫で言うなら「初穂」(20、23節)なので、主イエスを信じる者達はその後に続いて復活します。ヘンデルのハレルヤコーラスで歌われるように、主イエスが王の王となる時が来るのです。

 最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。(26~27節)

コリントの教会には復活を具体的にイメージできない人(35節)がいました。そこでパウロは、種と発芽の比喩(36~38節)を用いて復活の流れを説明しました。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(42~44節)

 主イエスを信じて死んだ者たちは、どのように変えられるのでしょう。

 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(51~53節)

 主イエスは私たちの罪を背負って十字架で死んでくださり、罪が解決した確証を与えるためによみがえってくださいました。ですから、福音を信じた者は、罪の赦しと永遠の命を受け取ります。それが、困難な人生に耐える支柱となるのです。

 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(57~58節)

 福音は信じるもの、福音は伝えるもの、福音は復活の希望を与え人生の困難に打つ勝つ力をくれるものです。


→あなたの番です
  □福音を信じる □福音を知らせる
  □困難な時、復活の希望をしっかりとにぎる


第1コリント14:1~40 徳を高める


 14章でパウロは、かなり注意深く、言葉を選んで、異言の問題に触れました。

1、異言について

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。(2~5節)

異言という用語は、新約聖書において、使徒の働きに2度(使徒10:46、19:6)、それ以外は第1コリント14章だけで使われています。

 異言とは、聖霊の与える賜物の一つです。異言は、論理的な言葉の祈りとは違い、神の臨在を強く意識する中で霊によって(2、14節)神に祈る行為です。異言の祈りは、本人も他の人にも理解不能な音(8、11節)として発せられます。
 
 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。(14節)

それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。(11節)

 もしパウロが異言を否定したり異言を禁止するなら、賜物を与えた神を無視することになります。また一方で、礼拝中に異言で祈る一部の人々を放置するなら、外部の人々に誤解を与え、宣教の妨げになります。ですから、かなりセンシテブな問題だったのです。

御霊の賜物は他者の益となる目的(12:7)で与えられますが、異言だけが自分の徳を高める特殊な賜物だと解説(2、4節)、パウロ自身も異言で祈れることを明かし(18節)、その有効性を認めつつも(5節)、異言の解き明かし者がいない場合の礼拝では悪影響(23節)になるので使用を控えるように教え(28節)、解き明かす者がいる時でも同時に語らず2~3人が順番にしなさい(27節)と具体的な解決策を提示しました。

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています(18節)

ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。(23節)

もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。(27~28節)

以上が14章の骨子です。




2、互いの益を目指す

 夫は妻の弱さや欠点を子供の前で指摘したり、馬鹿にすることが多く、基本的に傲慢です。妻は、そういう夫を軽蔑したり、下に見ていますが、心の中に隠しています。男も女も、高慢な心を持っていて、それがお互いを傷つけています。

異言問題の背後に隠れているのは、実は、霊的高慢の問題です。

異言の賜物を持つ一部の人はコリント教会の礼拝で大きな声で祈ったのでしょう。それはとても目立つ行為で、周囲のクリスチャンは彼らを特別に信仰深い人とみなしたと思われます。クリスチャンでない人や弱い人を配慮できないほど、霊的高慢が強かったのです。

優れた賜物があっても愛がないなら空しいとパウロは13章で語りましたが、異言の賜物を持つ人がその例の筆頭に挙げられていたことを思い出して下さい。

「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないならやかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(13:1)

あなたが異言の賜物を神から与えられているなら、14章を読み直し、異言についての理解を深め、パウロの指示に従いましょう。預言の賜物を求めましょう。(5節)

私たちも自分を見つめましょう。霊的高慢になる要素がありませんか。
知識の賜物、リーダーシップの賜物、賛美の賜物など、人の前に立ち、評価される賜物を持っている人は、霊的高慢の誘惑から守られるように心がけましょう。

「徳を高める」とはオイコドメオーというギリシャ語で、「家」と「建てる」の合成語です。私たちが高慢になるなら、周囲の家を壊すことになります。主から頂いた賜物を他の人(17節)や教会(4、5、12節)の徳を高めに積極的に用いましょう。

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるように、熱心に求めなさい。(12節)

→あなたの番です
     霊的な高慢を避ける
     周囲の人を立てあげる人になる


第1コリント13:1~13 愛の章

  愛について言及した最も美しい箇所が本章で、4~7節は必須暗記箇所の一つです。

1、どんな能力よりも価値があり、決して色褪せないもの

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(1~3節)

異言、預言、知識、信仰、慈善、殉教の賜物のうち、最高レベルの賜物を持っていたとしても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」。(3節)

どんなに能力があっても、頭が良くても、仕事ができても、信仰が深くても、愛がないなら無意味なのです。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。(8~11節)

たとえば知識の賜物はすたれる時がきます。有名な神学者のアウスティヌスやルターが天国で栄光の主イエスの前に出て自説の神学を論ずることができるでしょうか。否です。私たちが主イエスとまみゆる日に、すべてが明瞭になります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(13節)

地上には、いつか朽ち果てるものと、永遠に残るものがあります。ならば、永遠に価値あることを行いましょう。男性諸君、愛を追及しましょう。


2、愛とは何か

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(4~7節)

愛とは何でしょうか、4~7節を読んで分かるのは次の4つの事です。

1)他者をありのまま受け入れる、寛容。
2)自分から出発する、親切。
3)心のブレーキを踏んで、周囲に愛を届ける。
4)どんな時にも、苦しむ他者をサポートする。

1)ありのままを肯定する

「愛は寛容であり」とあります。寛容は、すべての愛の基本姿勢です。自分中心の発想から離れて、相手を大切にする姿勢です。

 かつてのパウロは、寛容が最も似合わない男でした。律法の理解と儀式の順守に全エネルギーを注いだからです。クリスチャンに対して不寛容の態度を貫き、クリスチャンを虐待しても殺害しても罪意識は感じませんでした。ですが、主イエスに出会って180度変化しました。愛が最も大切だと悟り、愛のスタート地点が他者の肯定であると知ったのです。寛容。それは、コリント教会の人々に一番必要なものでした。

愛とは自分の物差しで人を測らず、ありのままで受け入れることです。イエスさまは、私たちの弱さと欠点と偏りを、そのまま受け入れてくれました。

 あなたの周囲に大嫌いな人がいますか。まず、寛容になってみましょう。
 

2)自分から親切にする

 親切とは、相手の必要を察知して、先回りしてその必要を満たすことです。

  主イエスは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)と言われました。それこそが親切です。親切は、自発的で、クリエイティブで、必ず行動を伴います。ちょっとの勇気があればできます。

3)心のブレーキを踏む

<~をしない>という事が8回続けて書いてあります。「また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。」

愛とは、心のブレーキを踏むことです。人の心は斜面に置いたボールのようなもので、そのまま放置すると悪い方にころがります。だから、ブレーキを踏むだけで、花の香りのように愛が広がり、周囲はほのぼのします。心のブレーキを踏めば、人間関係の交通事故はなくなります。

あなたの心のブレーキは、どこが弱いですか。

4)苦しむ他者をサポートする

 「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 これは、身近な誰かが苦しむ時の愛です。誰かに雨や嵐がやって来ても、愛で支えます。どんな状況になっても、大切な人が困難を乗り越えられると信じてサポートを惜しまないことです。あなたが、傘となり盾となり毛布となって愛で包み守るのです。

 もう一度、4節から7節を読みましょう。今の私に必要な言葉はどれですか。そして、誰を愛しますか。

 ベンゲルという人がこう言いました。「愛こそが、私たちを神に似た者に作り変えてくれる」


→あなたの番です
 □愛は寛容であり、愛は親切です。
 □今週、身近な人を愛しましょう。

第1コリント12:1~31 賜物を生かす


 第1コリント12章のテーマは賜物です。賜物とは、ある種の能力と言えば分かりやすいと思います。たとえば、洞察力、歌、リーダーシップ、もてなしなど、様々な能力を指します。
 まず、二つの大切な質問に答えて下さい。
 あなたの賜物は何ですか。
 あなたは、その賜物を使っていますか。

1、あなたの賜物は何か

 12章の内容を簡単に説明します。コリントの教会には、すぐれた賜物を持つ人が多くいたようです。そうした優秀な人は平均的な人達を下に見るという風潮(21節)がありました。そこでパウロは、賜物の源は神にあるので(11節)誇ることはできず、賜物が多様であっても一つの体であり(12節)、賜物は互いの益となるために(7節)、また、互いを支えるために(26節)用いるべきだと語りました。

 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(11節)

 11節によると、御霊が、つまり神が人に賜物を与えるのです。8節から10節を見ると、「与えられた」という言葉が繰り返され、強調されているのがわかります。
 さらに、御霊は、もれなく、すべての人に賜物を与えることが分かります。私には何の賜物もないと言う人がいますが、神から賜物をもらわない人は一人もいません。あなたも、私も、神から何かの賜物をもらっています。

 ある日、宅配便が届いたとしましょう。差出人は神です。あなたに送られてきたのは小さな錠剤です。それを飲んでみると、とたんに英語がペラペラになりました。そんなあなたは英語の能力を誇れません。だって神からもらった能力なのですから。違う錠剤を飲むと、とたんに歌が抜群にうまくなりました。
 私が言いたいポイントが分かりますね。賜物は、神があなたに与えたもの、神からのもらいものなのです。たとえ、あなたが人の何倍も努力したり練習したとしても、英語も歌も神からもらった賜物なのです。だから、誇らずに、隠さずにだから、用いるべきなのです。

 次の箇所に賜物のリストがあります。あなたの賜物が見つかりましたか。

 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。(8~10節)
 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。(28節)

 8~10節と28節によると、14の賜物があります。でも、これはすべての賜物を網羅していません。なぜなら、ローマ12:7~8、エペソ4:11、第1ペテロ4:11にも別の賜物のリストがあり、それらを加えると全部で22くらいの賜物になります。ということは、ここに書かれていない賜物もきっとあるはずです。

 第1の質問を繰り返します。あなたの賜物は何ですか。
 もし分からないなら、身近な人に聞いて下さい。きっと的確に教えてくれます。


2、賜物を使っているか

 しかし、みなの益となるために、
 おのおのに御霊の現われが与えられているのです。(7節)

 賜物には目的があります。賜物は、他の人の益となるために与えられたものです。ですから、賜物は発見すべきもの、使うもの、そして、磨くものです。

 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(25~27節)

 私たちは、キリストを頭とした一つのからだです。だから、体に属する誰かが苦しむ時は、あなたの賜物を使いましょう。慰めの賜物、共にいる賜物、助ける賜物もあるはずです。

 私たちの教会でも、賛美の賜物のある人が賛美をリードしてくれます。また、通訳の賜物のある人が日本語を英語にしてくれます。サンデースクールで子供に教えている人もいます。教会の役員となって指導の賜物を発揮してくれる人もいます。そのような目に見える賜物以外にも、たくさんの賜物があります。
 生け花の心得のある人は、中心となる花とそれをサポートする花があることを知っていますね。賜物も、目立つ賜物もあるし、その働きをサポートする賜物もあります。そこに上下はありません。
 
 日本人クリスチャンは過度に遠慮したり、行き過ぎた謙遜になる傾向があります。私は、そういう日本人クリスチャンを<海老クリスチャン>と呼んでいます。「いいえ、私は何もできません」「私の賜物など、お恥ずかしい」「まだ、そのレベルではありません」「あの方を差し置いて、私がしゃしゃり出るなど無理です」エビが敵に出会って、急速に後ずさりする姿とそっくりだからです。

 賜物は神から送られたプレゼントです。だから、隠さない、恥じない、恐れない。みなの益になるよう用いましょう。賜物はあなたの物ではありません、あなたが属するキリストの体が必要としているのです。

 1859年、ジェームスは44歳の時、奥さんのクララと共に横浜にやってきました。ニューヨークでの医師としての名声や富をふり捨てて、ちょんまげと刀の日本人に福音を伝えるため海を越えました。お寺に住み、診療所を開き、多くの日本人の病気を治しました。それは、いやしの賜物と考えても良いでしょう。また、日本語―英語の辞書を作り、ローマ字を考案し、聖書を日本語に翻訳しました。それは知恵の賜物です。奥さんのクララは英語を教え、それがやがて明治学院大学やフェリス女子大になりました。教える賜物です。キリスト教禁止令が解除になるとすぐに教会堂を建設しました。与える賜物、宣教の賜物です。
 ジェームスとは、ジェームス・カーティス・ヘップバーン(1815-1911)。当時の日本人は、彼の名をヘボンと発音しました。ヘボンは70歳過ぎまで日本で奉仕し、日本政府は勲章を授与しました。与えられた賜物を主と人々のために用いた人生でした。

 →あなたの番です
  □あなたの賜物は何ですか。
  □あなたの賜物を使いましょう。