喜びの人生へ ルカ19:1~10

1、ザアカイという男

 一番会いたくない男をイメージしてみよう。劣等感が強いくせに尊大で、金の亡者、それがザアカイだ。

 1)取税人の頭 ローマ帝国の手先として法外な税金を集めていた。
 2)金持ち  私腹を肥やす成金。
 3)背が低い 極端に背が低いという意味だろう。
 4)友達がいない 人だかりができたとき、入れてくれる人がいなかった。
 5)主イエスに興味がある  いちじく桑の木に登ってもひとめ見たかった。

 現代風に言えば、<おれおれ詐欺>の総元締めのような男だ。主イエスは、こんな男に会うためにエリコを訪れた。


2、名前を呼ぶ主イエス

 主イエスは、よろいや槍で固めた男の心にも、スーと入り込める近づきやすさを持っている。

 「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」(5節)

 主イエスが先に声をかけた。長年の友達のように、気さくに名前を呼び、今晩泊まることにしてあると話した。さわやかに主イエスの心が伝わった。
ザアカイは、ゴクリと唾を飲んだかもしれない。目が輝き、子供のように喜んで、子枝を折りながらもあわてて下りたことだろう。

 聖書を読むと、主イエスがザアカイを責めたとは一つも書いてない。責めること以上に、大きな友情で包むことのほうが、良い結果を生む。

 実は、ザアカイの外側と内面はかなり違っていた。外側は尊大で、醜い金の亡者でも、見捨てられた悲しさ、のけ者にされた悔しさ、落ちこぼれた辛さなどで一杯で、心の内側はむなしかった。
 ザアカイは人生をやり直したかったのだ。だから、木に登ってまで主イエスに会おうとしたのだ。

 「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」(8節)

 ザアカイは、全財産を失う覚悟だ。すべての金を失うことより、人生で価値あるものを得るほうが先決だった。

 「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」(9節)

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(10節)


3、キリストの真似をしたい

 主イエスの真似をしたいと思いませんか。

 主イエスのされたことは、先回りする友情だ。過去形でなく、未来形に生きる姿だ。誰よりも先に、心を開く勇気を持っておられる。夢の成就の喜びを今に引き寄せる力を持っておられる。

 主イエスが、あなたの過去だけを見ていたら、あなたに近づくことはしないでしょう。
身近な家族に先回りする愛で接しましょう。あなたが先に笑顔で迎えましょう。


 →あなたの番です。
まだクリスチャンでない人へ
主イエスをあなたの心に迎えましょう。

クリスチャンの方へ
主イエスの真似をして、あなたが先に心を開きましょう

 「さあ、早く降りて来なさい。今日は、あなたのところに泊まることにしてあるから」

あなたも赦される ヨハネ8:1~11

 主イエスの沈黙の意味を考えてみよう。

1、沈黙の意味 - パリサイ人から女を守るため

 パリサイ人は、主イエスに罠をかけた。どちらに転んでも、主イエスを失脚させられる悪賢い策略だった。罪深い女を赦して無罪放免にせよと主イエスが言えば、モーセの律法を破ったとして糾弾される。女を死刑にせよと答えれば、弱い立場の人を救うことができなかったと責められるのです。
 ところが、主イエスは、沈黙された。

 「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(ヨハネ8:6)

 この沈黙の意味は、パリサイ人の横暴さへの抗議といえます。まるで、おおきな愛のマントで包むように、主イエスは女をパリサイ人の非人道的な糾弾から守ったのです。

 「愛は多くの罪をおおうからです。」(第1ペテロ4:8)

2、沈黙の意味 - 女の信仰心を呼び覚ますため

 主イエスは、過保護なママがするように女と接しない。女と距離を置き、自分を振り返るよう促した。悔い改めと信仰の求めが自発的に起きるようにと。
 主イエスの沈黙の意味のもうひとつの意味は、女の信仰を呼び覚ますことだ。

 あなたは、今日、この女の立場にいるかもしれない。失敗があらわになっているかもしれない。自分の罪が周囲の人々に知られてしまったかもしれない。
 そんなときは、この女と同じうように怒りだけが支配する。けれども、主イエスが目もあわせずに地面に何かを書いておられ、パリサイ人の催促にも関わらず無視し続ける姿は、女に自分を見つめさせる効果がある。あなたも、今、惨めな恥の中で、本当の自分の姿に出会っている。

 「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。」(ヨブ5:17)

3、誰もいない意味 - 罪の赦し

 主イエスは沈黙を破って、ひとことだけ言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)

 年長者からはじめて、結局はみなが去って行った。罪ある者には罪人を裁けないと気づいたのだ。

 「彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(11節)

 女が最初から信仰を持っていたとは思えない。主イエスへの期待も持っていなかったと思う。けれども、主イエスが、目に見えない愛と赦しのマントを女にかけてやったことにより、女は罪の悔い改めが生まれたと思われる。主イエスを頼る心、人生をやり直す勇気をもらったはずだ。


 あなたの最近の姿は以下のどれに近いですか。
1)パリサイ人のように、人のあらさがしをして、皆の前で人を責める
2)女のように、人前で、自分の失敗や罪が暴かれて、呆然としている
3)主イエスのように、愛のマントをかけて、罪を赦す人

 主イエスの姿と言葉に触れた人は、謙虚な心になる。主イエスの沈黙に接した人は、主イエスの愛のマントを持つ人に変えられる。今週、その愛のマントで人を包んであげてください。 

 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:7~8)

走り寄る愛  ルカ15:11~24

 今日の箇所は、「放蕩息子」のたとえとして知られている。主イエスの語られた最高のたとえ話だ。神の愛とは何かをドラマチックに教えてくれる。

1、あこがあれて

 たとえ話に登場する弟は、目もくらむ遺産を生前贈与の形で手にし、遠い国に旅立った。この息子は、人が望む3つの願いをすべて獲得した。人が望むものとは、自由、お金、欲望の3つだ。自由とは、親や地域社会の束縛からの自由、何をしてもいい自由のことだ。お金は、自分の願いをかなえる手段。欲望とは、セックス、麻薬、宴会騒ぎなどの快楽を指す。

 「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」(13節)

 「欲望自動販売機」というものを想像してほしい。もちろんこれは私の想像の産物にすぎない。コインを入れると、願う欲望が満たされる便利なものと思ってほしい。ただし、人間の尊厳というコインを入れないと商品は出てこない。たとえば、親の愛を踏みにじるというコインを入れて初めて、好き勝手な自由が手に入る。妻の信頼と家庭の団欒というコインを入れるなら、浮気という快楽が手に入る。自分の脳の破壊というコインを入れれば、覚せい剤が出てくる、というわけだ。多くの人は、自分の尊厳と家族の平和を犠牲にして欲望を追求する。

 弟息子は、あっという間に財産を使い切り、気がつくと飢饉にみまわれ、豚の飼育係に身をやつした。あなたは、放蕩息子と似ているだろうか。

2、我に帰る

 「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して積みを犯し、またあなたの前に罪を犯しました。(18節)

 弟息子は、どん底で、我に帰った。自由を求めていたが、結局は奴隷になっていた。靴を履いていないことから、彼が奴隷の身分だと分る。(22節)大金に喜んでいた彼は、湯水のように使ったため食事もできないほど貧しくなった。快楽に酔ったはずだが、孤独、空しさ、みじめさしか残らなかった。

 やっとここで、気づいた。孤独、空しさ、みじめさの原因は、自分の罪にあったと。父のもとに帰ると決心するが、息子として戻る資格がないことを正直に認めた。

3、走り寄る

 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)

 帰ってきた息子を最初に見つけたのは、父親だった。父は、走り寄って、次男を抱きしめ、口づけした。息子が自分の罪を告白したから、息子を抱きしめたのではない。父は息子が謝る前に、ボロをまとった息子を抱きしめていた。この常識はずれの父の姿は、何を意味しているのだろう。これが神の愛だと教えている。

 神の愛とは、“As is”の愛だ。アメリカで、不動産を売買する際によく“As is”という表現を使う。それは、<現状通り、傷あり、難あり、汚れアリ、保証なし、無条件受け入れ、修理が必要>という意味だ。神は、他人がまゆをしかめるようなあなたをそのままで受け入れてくれる。これが神の愛だ。
 あなたは今、神に愛されている。

◆あなたの番です。
1、まだクリスチャンでない人は、神の愛に気づいてほしい。あなたは、神に無条件に受け入れられている。あなたの罪を悔い改め、イエスさまを救い主として信じよう。

2、クリスチャンのあなたは、身近な人に行動で愛をあらわそう。
 哲学者のアリストテレスは、興味深いことを言っている。建築家は家を建築することによって建築家になり、ハープ奏者はハープを演奏することによって音楽家になる。彼の言いたいことはこうだ。<正しい人>というのは、頭で正しい事を考える人ではなく、行動で正しさを表すことだ。そこで、私はあなたに言いたい。あなたも、<愛の人>になろう。つまり、身近な人に愛が伝わるように、愛を具体的にあらわそう。

奉献式の喜び ネヘミヤ12:31~43

 城壁工事が完成し、いよいよ奉献式当日を迎えた。ネヘミヤは、晴れ晴れとした歓喜と充実感、そして神を賛美する心であふれていたことだろう。今日でネヘミヤ記の学びは終了する。


1、ユダヤ人の信仰を再建したネヘミヤ

 日本の高校で3年間運動部で活動した人は、運動技術だけでなく、根性、努力、忍耐など形に見えないものを身に着けている。アメリカでいえば、4年間マーチングバンドで活躍した人たちもやはり心の筋肉が付いている。

 ネヘミヤ記全体を概観してみると、同じようなことに気づく。ネヘミヤが再建したのは、建物としての城壁だけでなく、ユダヤ人の信仰そのものの再構築であったことが。神を信じて生きる具体的な生活を復活させた。

 以下の箇所見ると分かるが、ネヘミヤがユダヤ人の内面性の向上に大きなエネルギーを使っている。
7章でネヘミヤは、神殿で仕える祭司らの身分確認を行った。正当な系図を持っていない場合は祭司として認めなかった。
9章では、ユダヤ人が大挙して集まり罪の悔い改めをしたことが書かれている。聖書の朗読に耳を傾け、祖先の罪を思い起こし、自分たちの罪を悔い改めた。
10章は、悔い改めた民が、律法を守ると誓約する内容となっている。安息日を厳守する。安息日には商売しない。偶像礼拝を行う外国人とは結婚しない。3つの祭りを守るなど。
11章は、町の指導者、祭司、レビ人などの役割分担や組織の確認。
13章は、城壁完成後の後日談で、何年もたつうちに発生した腐敗や問題に対してネヘミヤが下した処分。城壁妨害の首謀者と懇意になった祭司らの処分。レビ人への給料未払い問題の解決。安息日商売禁止と外国人との結婚禁止の徹底など。

 人々は、今、神に従いたいと願っている。先祖が犯した失敗を繰り返したくないと思っている。ネヘミヤは、目に見える城壁と、内面の城壁の両方を再建したのだ。


2、人々に喜びの賛美を与えたネヘミヤ

 まだ、神を信じていない人が教会に来るようになって、その人がプロの音楽家だと分かると、礼拝で演奏してくださいと頼む人がいるが、私はきっぱりそれに反対する。音楽ができるから、賛美ができるわけではない。学校教師が教会に初めて来て、信仰を持たないのに、来週の礼拝で説教してくださいと依頼することと、同じことなのだ。

 ネヘミヤは、レビ人を探し集めた。(27節)レビ人は、神殿の働きの補助的な仕事や神殿の警備、そして主には賛美の仕事をしていた。歌うたいのレビ人、楽器を演奏できるレビ人があちこちからエルサレムに連れて来られた。聖書に登場する楽器は最低でも22種類はあると言われている。

 30節にあるように、彼らは、自らをきよめた。賛美するにふさわしい心を主の前で整えた。ここが、通常の音楽家と根本的に違うところだ。
賛美する人は、自分の心を置き去りにして、歌うことができない。誰かに対して怒っていたら、神への賛美はできない。神から心が離れたままなら、人々の心から賛美を引き出すことはできない。まず、賛美をリードする人が悔い改める。ゆるす。謙虚さを持つ。信仰に立つことが必要だ。

 私が日本で牧会をしていたとき、礼拝で素晴らしい奏楽奉仕をしてくれた女性がいた。聞くと、彼女は一つの助言を受けて、奏楽の仕方を変えたという。ある礼拝で彼女が奏楽したが、ゲストとして出席した一人の中年男性が、礼拝後に彼女に尋ねたという。「あなたは、礼拝の奏楽をするとき、自分自身も賛美歌を声に出して歌いますか」「いいえ」「私も奏楽をしているが、必ず、声に出して賛美歌を歌います。練習もそうします。本番も声に出して歌います。あなたは素晴らしい奏楽をするから、これからは、声に出して賛美してください」これが、きっかけになって、奏楽スタイルが変わったという。

 12章31節、「そこで私は、ユダのつかさたちを城壁の上に上らせ、二つの大きな聖歌隊を編成した。一組は城壁の上を右のほうに糞の門に向かって進んだ。」

 ネヘミヤは、聖歌隊を2つに分け、完成した城壁の上を賛美しながら行進させた。祭司エズラが先頭に立つグループは、城壁の西側から南を回り、東部へと向かった。
 もう一隊は、ネヘミヤを中心として同じ出発点から時計回りに北方向を回り、神殿がある東側に向かった。二体は、民が集まっていた神殿の広場で合流し(40節)、高らかに主を賛美した。人々は、その賛美リードに合わせ、主に喜び歌った。

 「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(43)

 こうしてネヘミヤは、人々に賛美の心をよみがえらせた。

 ユダヤ人が神を喜んでいることが、エルサレム周囲の人々にまで知れ渡った。これは、すばらしい伝道だ。使徒2章46、47節にも、初代クリスチャンが賛美と喜びを持っていたことが分かり、それを見て周囲の人が好意を持ったことが記録されている。

3、私たちの“再建”を励ますネヘミヤ

 あなたの“城壁”は何ですか。

 私は自分が猛烈に教会のために働いていた30歳代の頃を、後悔と恥ずかしさを抱きながら思い出す。教会外の働きや、海外宣教委員長としても重責があり、ストレスと過労がひどかった。そのため、遠くで会議をしてきた夜など、駅に迎えに来てくれた妻に対して、助手席に乗り込んでもありがとうの一言も言えない愚か者だった。言わなくても当然と思っていた。俺のほうが大変で、一生懸命働いている、と合理化していた。
 こういう状態は、“城壁”が崩れていても気づかない状態だといってもいい。教会の人のためなら何でもする用意があったが、妻の話を親身になって聞く心さえ持ち合わせていなかった。

 あなたの“城壁”は、何でしょう。
あなたの、家庭でいうなら、家族団らんが持てることが、あなたの“城壁”かもしれない。傾いた事業を立て直すことが、“城壁”かもしれない。こわれた人間関係が、“城壁”でもある。あなたは、再建できると信じますか。

 城壁再建の物語は最初、小さく始まった。ネヘミヤがたった一人で泣きながら祈ったことに端を発している。あの麗しの神の都が廃墟となって100年以上たっているのに、瓦礫の山のままだという。エルサレムから直線距離で1000キロ以上離れた異国にいたネヘミヤに、何ができただろう。
けれども、目から流れ落ちた涙一滴一滴が、やがて信仰の小川となって集まり、それが山をも削るほどの大河となって流れ始めた。

 2章12節「私の神が、私の心を動かし」とある。ネヘミヤの情熱や野望ではなく、神がネヘミヤを動かされた。それが、落胆したユダヤ人に希望を与えた。敵の攻撃や中傷がどんなに激しくなっても、槍を片手に工事を続け、ついに完成に導いた。粘り強くなった人々。神の言葉を求めるようになった人々。生活面でも、信仰姿勢を貫き始めた人々。エルサレムの人々は、もはやかつての人とは違う人となった。

 あなたもネヘミヤになれる。今は涙でも、奉献式喜びの歌声と笑顔を必ず経験できる。あなたは、それを、信じますか。

 「女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」

悲しんではならない ネヘミヤ8:1~12

 ネヘミヤは、エルサレムの城壁をわずか52日間の工事で完成させた。紀元前445年のことである。
 

1、神の言葉を求める心

 人々は神の言葉を強烈に求め、「律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」(1節)

 ネヘミヤは城壁を再建するために帰って来たが、同時に、ユダヤ人の信仰を立て直すために来たと私には思えてならない。人々は神の言葉を自発的に求めた。

 私は高校3年ごろから教会に通い始めたが、教会の高校生の温かさや明るさに心底驚いた。彼らの心の中には神の言葉があったのだと気づくには時間がかかった。

 「夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」(3節)
 
 人々は約6時間、聖書の言葉に耳を傾け、律法学者やレビ人の説明を熱心に聞いた。神の言葉を求める心が、すべての出発点といえる。

2、心砕かれる礼拝   

 祭司エズラが神をたたえ、祈り始めた。すると人々は、一斉にひれ伏した。1人の真実な礼拝者、エズラが、大勢の礼拝者の心を神に向けました。一人の真実な礼拝者は、教会全体が祝福される導火線になる。
 
 「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」(6節)

 オセロゲームで勝ちたければ、四隅を取ることだ。そこを押さえれば、周囲は同じ色に変わっていく。一人の真実な礼拝者がいれば、礼拝の雰囲気は変わる。そして、家族が、社会が変わっていく。
アメリカの歴史には、大覚醒と呼ばれる出来事が何回か起きている。ジョナサン・エドワーズによるリバイバルはその中でも一番有名だ。エドワーズ牧師は、聖書が淡々と解き明かした。すると、人々は、自分の魂の救いについて強い求めを持ち、多くの人が信仰を持っていった。なまぬるい信仰から、生き生きした信仰に変わっていった。

 神の言葉に飢え渇いて礼拝に来るなら、必ず大きな恵みを受ける。真実な礼拝は、時に私たちの心を砕くことがある。生きている神が、私の罪をはっきり指摘することがある。
 「民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」(9節)

 人々は、聖書の朗読を聞いているうちに、なぜ、エルサレムが崩壊したのか分った。先祖たちが神を離れ、罪を犯したからだ。自分自身の罪の汚れにも気づいた。心の深いうなずきは、悔い改めの涙として結晶した。


3、神を喜ぶことが私たちの力

 「悲しんではならない。泣いてはならない。」(9節)
ネヘミヤは、人々に語りかけた。自分の罪に泣くだけで終わってはならない、神を喜べと。
どんなに深い罪であっても、主の手が届かない罪はない。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

 「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」(口語訳)
 「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源だ。」(新共同訳)
  “For the joy of the Lord is your strength” (NIV)

 我々はどんな時に喜ぶだろうか。多くの場合、どこからか転がり込んできたプレゼントのような幸運を喜びと理解している。だから、苦しみの時には喜べない。自分の貧しさや弱さに気づくと喜べない。けれどもネヘミヤは、根源的な幸せの秘訣を教えた。神を喜ぶこと、それ自体が力になると。
心から賛美するとき、私たちは幸福で満たされる。それは、心から神を喜んでいるからだ。神を喜ぶ賛美をささげよう。神を喜ぶ祈りをささげよう。神を喜ぶ心と言葉が、我々を強くする。


●あなたの番です
 真のリーダーは、人々の信仰を立て上げることに焦点を当てる。
また、神の言葉を求めるようになり、礼拝する後ろ姿で人々に影響を与える。

 目立つ人にならなくていい。神に感動する人になればいい。
笑いを取る人になる必要はない。神を喜ぶ人になればいい。