聖霊の助け ヨハネ16:7~14

 「若葉のメッセージ」シリーズ6回目、最終回の今回は聖霊によって歩むことを考えましょう。信仰の確信を持って歩み続けるには御霊による歩みが不可欠です。自分の努力や真面目さでクリスチャン生活は維持できません。
  
1、聖霊なしにクリスチャン生活は不可能

 最初に聖霊についての基本情報を確認します。聖霊は三位一体の第3位格。聖霊は神です。(マタイ28:19、第2コリント13:13、使徒5:3~4)聖霊は人格を持つお方です。(ヨハネ16:8、16:13)
 旧約のヘブル語で聖霊はルーアハ、ギリシア語ではプニュウマ、パラクレートスで、日本語では、聖霊、御霊、助け主、慰めぬし、英語では、ホーリースピリット、カウンセラー、弁護者などと訳されます。

 聖霊なしにクリスチャン生活を送ることは不可能です。小説家の太宰治は、おのれのごとく隣人を愛せよという主イエスの言葉が自分の苦悩の原因だと言いました。マタイ伝を読むのに3年かかったとも書いています。彼が、一般人に混じり礼拝の中で聖書を聞いたなら、謙虚に主イエスを信じたなら、ヨハネ伝を詳細に読み聖霊を知ったなら、悲劇的な幕切れは避けられたかもしれません。

2、聖霊の働き

 聖霊は、私たちが信仰を持つはじめから終わりまで密接に関わる神です。私たちが信仰告白するときにも、罪を認めるときにも、聖化のプロセスを歩むときも、救いの確信を得るときにも、聖霊はそのすべての行程で私たちと共におられます。以下の聖書箇所を開いて確認してください。

①信仰を持つことを助ける
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(第1コリント12:3後半)
②信じた者が神を父と呼べるようにする
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6) 
③私たちの内に住む 
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3:16)
④天国が与えられることの保証
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」(エペソ1:14)
⑤聖化の歩みを助ける
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:18)
⑥御霊の実を結ぶ原動力 (ガラテヤ5:22~23)
⑦主イエスをあかしする力 (使徒1:8)

3、聖霊によって歩む

 パウロは聖霊を良く知っていました。ローマ7章で罪との壮絶な戦いを語った後、8章で聖霊について述べるというパウロの思想の流れは十分に理解できます。聖霊だけが、罪と失敗に満ちた人間の希望であり、慰めであり、支えであり、友であり、実際的な力だからです。
 ①御霊は弱い私たちを助け、とりなしてくれる
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~27)
 「助けてくださいます」と書いてありますが、この言葉は共に担うとか、代わりに負うという意味です。「ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主」(詩68:19)という詩篇のように、聖霊が日々私たちの重荷を共に、あるいは代わりに負ってくださるのです。それで、クリスチャンとして歩み続けることができるのです。

 アメリカに住む男性は、案外友達がいません。日本から地理的に遠く離れたこともあるし、今さら友情作りも面倒という人が多いのです。聖霊が親友のようにして私たちの心に住んでくださるということは本当にありがたいことです。
 哲学者アリストテレスは、「友情とは、ふたつの身体の中にあるひとつの魂のことである」と言いました。至言ですね。イギリスの小説家オスカー・ワイルドは「真の友人は正面から刺す」と言いました。他人は私たちのことを真剣に考えないのでいい加減に聞き流しますが、親友は直言できる存在です。聖霊は、私たちの弱さを知り、ズバリと罪を指摘し、私たちの繰りごとにあきることなく耳を傾け、悩みをともに背負い、悲しむとき共に悲しみ(エペソ4:30)、私たちが祈れないときに代わりに祈ってくれる存在なのです。

 ②自分の力や悟りでなく、御霊によって歩む
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
 自分の努力と熱意でクリスチャン生活をせよと聖書は言いません。御霊によって歩めと勧めます。御霊によって歩むということを、噛み砕いて以下に書きました。これなら、日常生活で生かすことができますね。

 さあ、あなたの番です。今週、御霊によって歩みましょう。
・カウンセラーである聖霊と相談する
・弁護士である聖霊の助言に従う
・コーチである聖霊の声を聞き、自分を鍛え、道を選ぶ
・助け手である聖霊から力をもらいチャレンジする
・きよめ主である聖霊から罪の指摘と恵みのシャワーを受ける
・親友である聖霊を喜び、いつも心にとどめる
・慰め主の聖霊との会話にほっとし、慰めを受ける
・神である聖霊をあがめ、感謝する

 新しい自分になることを恐れてはいけません。私たちの心に住む聖霊を生涯の友として大切にし、友情をはぐくみましょう。

 このシリーズで学んできたことを土台にして、揺るがない信仰生活を送りましょう。

ファミリーの温かさ ヨハネ20:24~29

 「若葉のメッセージ」シリーズの第5回目。教会の交わりにとどまること、それが救いの確信を持ち続ける秘訣です。
 自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
  

1、決して信じません

 イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
 ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
 
 トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
 人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。

 「決して信じません」これはトマスの本心ですか。

 そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
 主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
 トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。

 そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。

 あなたはトマスに似てますか。

 救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
 クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
 ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。

2、仲間たち

 それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
 信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。

 信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
 他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。

 受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。

 私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。

 私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。

 信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。

 出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
 
 主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)

 主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。

 トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。

 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。

 信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。

 さあ、あなたの番です。

 信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。


 トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。

 受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。

失敗したとき  ルカ18:9~14

 「若葉のメッセージ」シリーズの4回目です。救いの確信を失うきっかけに、罪の問題があります。
 主イエスを信じた。バプテスマも受けた。けれども罪を犯してしまった。こんな自分は教会に行く資格がない、と極端に考えることがある。今日のメッセージは、そんなふうに考えている人へのメッセージです。

 主イエスは、パリサイ人と取税人の祈りをたとえ話として教えられました。自分は正しいと思い込み、他人を見下している人がいましたが、そうした人々が自分の間違いに気づくようにとたとえ話をしました。

1、パリサイ人の祈り

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:10~12)

 パリサイ人の祈りには二つの特徴があった。
1)他人と比較する
 パリサイ人は、神に語りながらも、意識は他人にだけ向いていた。他人との比較は、結局、優越感か劣等感しか生み出さない。パリサイ人は、自分は立派な人間だと自認し、取税人のような詐欺も悪事はしていないと優越感に浸っていた。空腹でつらくても断食し、生活が苦しくても献金の割合は崩さななかった自分を自画自賛し、取税人を見下した。
2)問題的を意識できない
 注意してほしい。パリサイ人は他人に聞こえるように大声で祈りを聞かせたのではない。心の中で祈った。そこにパリサイ人の問題の深さが表れている。彼は、本気だった。自分は立派だと疑わずに信じていた。

 あなたは、このパリサイ人を非難するかもしれない。けれども、あなたは、パリサイ人に似ていないか。あなたの安心や誇りは、人との比較の産物ではないのか。


2、取税人の祈り

 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)

 取税人の祈りは、2つの特徴がある。
1)真実な悲しみ
 遠く離れて立つ、目を天に上げない、胸をたたく、という姿に、取税人の悲しみが表れている。自分の罪の重さに驚愕し落胆しきっている。

2)罪人である認識
 「罪をゆるしてください」と彼は祈ったのか。そうではない。罪人の私をあわれんでくださいと祈った。ここに、深い自己洞察と信仰がにじみ出ている。
 個々の罪を深く悔いることはもちろんだ。それらを主の前に差し出した後で、取税人はどうにもならない<自分>に直面した。罪を犯してしまう、弱い自分に気づいた。それで、罪をゆるしてくださいという言葉で終止符とせず、罪人である自分自身を主に差し出した。取り繕わず、人との比較で自己弁護をせず、裸で神の前に出る。これが、悔い改めだ。神は、心砕かれた罪人をさげすむことはない。

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

 神のあわれみが、罪を赦し、罪をきよめ、罪人に生きる希望を与えてくれる。取税人は罪人である自分に必要なのは、神のあわれみ以外ないと気づいた。人はみな、神のあわれみをシャワーのようにあびて生きていくのだ。
 キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と呼ばれるラテン語賛美歌はキリスト教の歴史で歌い継がれた最も有名な賛美歌形態であることもうなずける。

 ビル・マカートニーはコロラド大学フットボールチームを全国優勝に導いた監督で知られる。若いころクリスチャンになったが、成功するとともに形式的な信仰に陥り、娘が未婚の母になる問題を通して自分の問題点に気づいた。妻や娘との関係も修復し、人生をやり直した。その経験を男性クリスチャンと分かち合い、後にプロミス・キーパーズと呼ばれる運動を創設した。運動はその後拡大、1997年ワシントンDCで記念碑的集会を開催、聖書のメッセージに耳を傾け、全国から集まった何十万という男性たちが大地に跪いて真実に生きることを決意した。

 結論です。クリスチャンになっても、罪を犯すことがある。その時、自分は教会に行く資格がないとは考えてはいけない。あなたには、主イエスが必要だ。主イエスのあわれみが不可欠だ。だから、取税人のように、罪人のまま礼拝に出よう。そこで主のあわれみを受けよう。
 主はそんなあなたを見捨てず、悔い改めを促しておられる。取税人のように、主の前に立とう。主があきらめないのだから、私たちもあきらめてはいけない。
 「わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)

スランプ  第1列王19:1~8

 「若葉のメッセージ」シリーズ第3回目は、信仰のスランプについてついてです。スポーツ選手がスランプに陥った話は良く聞きますが、クリスチャンもスランプになります。それが信仰の確信を揺さぶることがあります。
 スランプに陥り、死を願った4人の例を見ながら、スランプの原因とその脱出方法を見つけましょう。脱出に導くキーワードは、<出会う>、<気づく>、<分ける>、<休む>、の4つです。

1、大きな災いに遭ったヨブ
 
 7人の息子と3人の娘を一日で失い、財産すべてをなくしたヨブは、神をのろい、生まれなければよかった、つまり死にたいと口にしました。

 ヨブ記3:11「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」

 ヨブの場合は、大きな災難がスランプの原因です。悲しみと苦悩の中で、信仰がゆらぐのは理解できます。ヨブは、正しい者が苦しみに遭う不条理を嘆き、神に「なぜですか」と問い続けました。ところが答えは得られませんでした。苦悩の理由を求めても、答えを得ることはできないと私は思います。ヨブは問い続けた質問とは異なる次元で脱出の道を得ました。ヨブのキーワードは、<出会う>です。ヨブはまことの神に出会ったのです。目からうろこが落ちるように、神と出会ったのです。自分が知っていた神は、神のほんの一部だったことに気づきました。

2、願いがきかれないヨナ

 自分の願い通りにならないと、へそを曲げ、信仰が揺れてしまう人がいます。あなたが今欲しいものは何ですか、とのアンケートに答え、「変人」と書いた人がいました。「恋人」のつもりが字を間違えたのです。クリスチャンの独身男性が陥りやすい失敗に、<自爆テロ的プロポーズ>があります。「祈って、聖書を読んで分りました。あなたは神のみこころの人です。結婚してください。」こう一方的に言われた女性はたまりませんね。「それは神の御旨ではなく、あなたのおこころでしょう」と言ってやりましょう。

 ヨナは紀元前700年代の預言者でしたが、自分勝手な男でした。アッシリヤの首都ニネベを救うためにメッセージを語れと神に命じられ、俺はいやだとばかりに反対方向を目指して船で逃げ出した預言者です。嵐の海で魚に飲み込まれ、その中で悔い改め、ニネベに出向き、3日で滅ぼされるから悔い改めよと町中で語りました。その結果、王様を含めて皆が悔い改め、町は救われたのです。
 願いがきかれなかったのを見てヨナは、腹を立て、勢いにまかせて俺を殺せと息巻いたのでした。

 ヨナ書4:3「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

 脱出のためのキーワードは、「気づく」です。自分のわがままに気づくことは大切な人生のレッスンです。願いがきかれないことを通して、自分の本当の姿に気づくことは重要です。その時、神の忍耐やあわれみにも気づくのです。

3、責任の重さにつぶされたモーセ

 モーセは、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)と言われる指導者です。偶像礼拝をした民を神の怒りから救おうと自分の命さえ投げ出した人物です。(出エジプト32:32)エジプトから民を導き出し、シナイ山で十戒を頂き、幕屋を作り終えた頃、人々がエジプトを思い出し、肉が食べたい、にんにくやスイカが食べたいと不平をもらしました。それを聞いたとき、モーセは死を願いました。張り詰めた糸が切れたのです。このわがままな人々を連れて歩くのには耐えられない。死んだほうがいい。モーセのスランプの原因は責任の重さでした。

 民数記11:15「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

 脱出の鍵は、<分ける>です。民数記11:17で主は、モーセの霊を民の指導者に分けるよう勧めておられます。
 あなたの重荷を誰かと分かち合いましょう。分けることは恥でもないし、弱さでもありません。一人で抱え込むと、あなたもつぶれ、あなたの周囲の人も被害を受けます。分けることは、人生の智恵です。奥さんに話しましょう。夫に話しましょう。仲間に話して祈ってもらいましょう。支えてもらいましょう。重荷を少し持ってもらいましょう。

4、疲れたエリヤ

 炎の預言者エリヤは、バアルの神と預言者との戦いに疲れ切り、豪雨の中を走り下り、陰の権力者イゼベルに命を狙われて、力尽きました。

第1列王19:4「主。もう十分です。私のいのちを取ってください。」

 スランプの原因に覚えがないという人は、蓄積疲労が原因として考えられます。寝てない。休んでない。疲れすぎて、頭も回転しない。体は不調だし、悪いことばかり考える。早く寝なければと思っても、眠れない。
 神はエリヤを責めません。エリヤに食べさせ、ゆっくりと寝かせる神でした。神がエリヤに言われ言葉は、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(第1列王19:7)でした。

 信仰のスランプからの脱出法、最後のキーワードは、<休む>です。思い切って休みを取りましょう。いつもより1時間、早く寝ましょう。運動を少しずつ始めましょう。温泉にもつかってみましょう。
 

 あなたは今日、信仰のスランプにいますか。信仰のスランプから脱出するためのキーワードで、あなたに必要なものは以下のどれですか。神と出会う。自分の我がままに気づく。責任を分ける。思い切って休む。

 あなたの番です、信仰のスランプの原因を見定め、適切な脱出方法を試みましょう。それも、誰かと祈り合いながら、励まし合いながら。