みこころの奥義 エペソ1:8~10

 くやしいことだが、若い人にだけ聞こえる音があるらしい。「らしい」というのは、今の私に聞こえるかどうか自信がないからだ。ある一定の周波数は年配者にはまったく聞こえない。
 同様なことが聖書の真理にあてはまる。パウロが明確に理解し感激している事も、凡人の私などにはピンと来ない事が多々ある。今日の箇所などはその代表的な例だろう。日本語としては読むことはできるが、抽象的な言葉の連続のため内容をつかみきれない。


1、恵みの素晴らしさ明らかにされる

 「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、」(エペソ1:8~9)

 8節と9節を分かりやすく説明してみると以下のようになる。
神は、世界の始まる前から私たちを選び、神の子とする用意をされ、御子イエス・キリストの命と引き換えに私たちに罪の赦しを与えて下さった。これは、信じられないほどに大きな恵みであり、偶然や悲劇ではなく神の知恵に基づいた神の奥義だ。

 奥義とは、神以外の者には説明不可能な内容を指す。ペテロたち十二弟子は、主イエスが十字架の予告をされた時、この救いの奥義がさっぱり理解できなかった。(マルコ8:31~32)だが、主イエスの十字架の死と復活に接したとき、心の中でストンと腑に落ちた。点と点でしかなかった主イエスのお言葉が、線でつながり、全体像が瞬時に把握できた。奥義が分かったのである。ペテロたち十二弟子が経験したことを、私たちも同じ道を辿るようにしてやっと信仰が持てるようになる。

 もしあなたがクリスチャンでないなら、神があなたを救うために備えられた十字架の救いを受け止め、主イエスをあなたの救い主として信じてください。



2、神が明らかにされる苦しみの意味

 パウロが感激したのは神による救いのみわざだが、私たちの苦しみの意味という具体的な問題についても同じような視点で考えてみよう。

 ハイハイができるようになった赤ちゃんを公園の砂場などに連れていくと何が起きるだろう。お母さんたちなら良く知っている。砂を握って、口に持っていく。母親は、ダメよ、と言って制止するか、聞き分けないなら手をビシリとたたくかもしれない。赤ちゃんの立場で考えれば実に不快な経験になるが、親の意図や愛は分かるはずもない。
 神と私たちの関係もこれに似ている。赤ちゃんの時の「砂」が、大人になると成功とか誘惑とか栄誉だとか、ちょっと気のきいたモノに変わるだけで構図は同じだ。神は、私たちの手をたたくようにして、害になるものを捨てさせることがある。
 また、私たちは思いもかけない試練や苦悩を通ることもある。その意味は私たちに分かるはずもない。けれども、苦しみにだけ注視するのを止め、苦しみがもたらしたものに視点を移すと、新しい世界が開かれるのも事実だ。
 20歳代の息子さんを交通事故で亡くしたお母さんの話を私は先週お聞きしました。検死のため息子さんに会えない日々は泣き暮れたといいます。遺体と対面したとき、平安な息子さんの顔を見て彼女は大きな慰めを受け、それ以来、涙の質がまったく変わったと言っておられました。葬儀には1000人の人が教会にかけつけたいいます。私は、そのお母さんのお顔を見ながら深い感銘を受けました。

 神の深い知恵と思慮深さが私たちの上に今も注がれていると、私は信じます。私たちの今の苦悩の中にも神の奥義が隠れていると思えるのです。あなたは、どう思いますか。

 仲の悪かった夫婦が、子供の病気を通して心が通うようになった話は聞いたことがありますか。貧しくなったので、小さな事を感謝できるようになったと感じませんか。
私の家内はよく私に言います。「落ち込んだときのあなたが素敵!」私はその意見に同感です。自分のダメさ加減に幻滅しているときのほうが、私は謙虚に、素直に、なれます。

 苦しみの中にいるあなたにお勧めします。苦しみのもたらしたものに目をとめましょう。


3、やがて明らかにされる

 「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、」(エペソ1:10)

 神の奥義は、十字架という2000年前の歴史的事実に結実しました。ですが、まだ実現していない神の奥義が残されているのです。
 時が満ち、神のみこころが実行されるとき、世界がキリストによって秩序が回復するときがきます。不平等で、邪悪で、利己的なこの世界が、キリストの足元にひれ伏す時がきます。キリストが本来の栄光を持ってこの世界に来るときがやってきます。

 この真理を私たちの人生に当てはめればどうなるでしょう。やがて、神のときに、時が満ちて、私たちのための神の奥義が実現するときが来るということです。

 幼稚園の先生で、若いけれども厚化粧の女性がいました。生まれつき、顔に大きなあざがあり、化粧で隠していたのです。その人は教会に通うようになり、主イエスの十字架の救いと神の愛に気づいてから、あざは神からもらったプレゼントと考えるようになり、厚化粧を止めました。
 彼女の幼稚園に心を閉ざした暗い子供が入園してきました。その子の顔にもあざがありました。だから、顔にあざのある先生に出会ってびっくりしました。明るくて素敵なその先生が大好きになりました。いつのまにか、笑顔がこぼれるようになりました。
 幼稚園の先生が踏み出した小さな一歩は、誰かの喜びに貢献しました。時が満ちたとき、神はあなたの人生にも素晴らしいみこころを実行されることでしょう。

 未来を信じましょう。あなたの将来に、神がみわざを行われると信じましょう。

罪のゆるし  エペソ1:7

 あなたは、ゆるされて生きていますか。今日は、神が下さった霊的祝福の3番目、罪の赦しについて考えましょう。

 「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

1、持っているのか?

 今日の聖書箇所、エペソ1章7節を英語の聖書で見てみましょう。
In him we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, in accordance with the riches of God's grace. (NIV)

 分かりやすい英語ですね。私たちは持っている、と書いてあります。実は、ギリシア語の原文も「持っている」と書いてあるのです。日本語としては、贖いを持っている、ゆるしを持っていると書くとあまりに翻訳調になるのでそれを避けたのでしょう。
神からの霊的祝福の一つである、罪の赦し、それは、私たちが「持っている」と明確に言えることなのです。あなたは、罪の赦しを持っていますか。

 持っているか持っていないか、これは非常に明瞭な事です。携帯電話を持っているかどうか、それは、今、捜せば分かります。手元になければ、持っていないのです。あれば、持っていると言えます。罪が赦されたかどうかも、パウロの視点でいえば、持っているか、持っていないかであり、中途半端はありません。
「私の罪が赦されているかどうか、わかりません。天国に行けるかどうかも、行ってみなければ分かりません。傲慢不遜にも、自分でそうした事は判断できません。」と言うクリスチャンにたまに出会います。一見謙遜に見えますが、聖書を全く読んでいない人です。神の恵みをまったく知らない人です。

 イエス・キリストを信じた人は、罪のゆるしを持っているのです。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」



2、御子のあがない

 主イエスは、私たちを赦すために、特別なことをしてくださいました。ご自分のいのちと身代わりに、私たちの罪を赦してくださったのです。
ですから、罪の赦しの根拠は、私たちの内側にはなく、私たちの外にあるのです。2000年前の歴史的事実、主イエスの十字架にあるのです。

 贖いとは普通、奴隷に身をやつした人を自由にするため大金を払うことを意味します。主イエスが払ってくださった代価は、金でも宝石でもなく、ご自分の命でした。「御子の血による贖い」と書いてある意味はそういうことです。以下に、身代わりの実例を3つ挙げます。

 1942年11月神奈川県横須賀市の踏切で30歳の先生が小学4年生を引率して列車の通るのを待っていました。遮断機のない踏切で、先生は手を広げて生徒をとどめていたが、電車が通過したをきっかけに、一人の女の子が渡ろうとしました。ところが、ちょうど反対からも列車が来ていたので先生は生徒を突き飛ばして助けたましたが、自分は命を落としました。

 1941年7月アウシュビッツ収容所で脱走騒ぎがあり、10人が無作為に選ばれ見せしめとしての餓死刑が言い渡されました。50歳のポーランド人、フランツィシェク・ガオウィニチェクは「私には妻も子もいる」と叫び、命乞いをしまいた。それを聞いた、マキシミリアノ・コルベ神父は、私は司祭で子供も妻もいない、身代わりになります、と申し出ました。ガオウィニチェクは、このとき、神父にお礼を言うができず、目だけで感謝を伝えましたが、自責の念は消えなかったといいます。コルベ神父らは2週間、地下牢で食事と水の配給を断たれたが、神父は祈りと賛美で仲間を励まし続け、最後に薬殺されました。助けられたガオウィニチェクは生き残り、90歳過ぎるまでコルベ神父のことを語り続ける生涯を送りました。

 2007年2月、板橋区の踏切で自殺願望を持った39歳の女性が電車に飛び出したところ、53歳の宮本邦彦巡査部長が助けに入り女性は無事、警察官は死亡しました。

 歴史の中でも、最近の事でも、見ず知らずの人のため身代わりになる人がいます。自分の命を代償に他の人を生かす人の物語は心を打ちます。

 主イエスが命を捨ててくださったことにより、あなたが負うべき罪の罰は終わり、あなたの罪は赦されたのです。罪の赦しを持っているのです。もし、命を助けてもらったあなたが、「罪が赦されているかどうか分かりませんし、言い切るのは傲慢です。」と言ったとしたらどうでしょう。あなたは、主イエスの犠牲をまったく無駄にしているも同じです。
 先生に命を助けてもらった小学生でさえ、「先生は、身代わりになってくださったのです。電車の音を聞くたびに先生のことが目に浮かびます」と文集に書いています。

私たちが主イエスに言うべきことは、「ありがとう」です。


3、御子のうちにあって

 罪のゆるしを持つためには、何をしたらいいのでようか。自分の罪を悔い改めることですか。真面目になることですか。不思議なことに、パウロはここで罪の悔い改めについて触れていません。(誤解のないように言いますが、自分の罪を凝視し、罪を悔い改めることは信仰の成長や御霊の実を結ぶためにはどうしても必要なプロセスです。)パウロは、罪のゆるしが、まるで空から降り注ぐ雨のようだと言っているのです。おどろくべき恵みだと言っているのです。神から送り届けられた霊的祝福だと言っているのです。
人間が為すべき一番基本的なことは、私のために命を捨ててくださった主イエスを信じることです。それが、「御子のうちにあって」という状態です。以下の聖書の言葉に注目してください。

 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(使徒10:43)

 昨年12月8日、軍用機F/A18が、サンディエゴのドング・ヨーンさん(37歳)の家に墜落しました。彼は仕事のため不在でしたが、奥さん、2ヶ月になる赤ちゃん、1歳3ヶ月の赤ちゃん、手伝いに来ていた義理のお母さんの4人が炎に包まれ死亡しました。クリスチャンの韓国人ヨーンさんは、妻と子供らを失った悲しみをインタビューに答えて述べた後、緊急脱出で助かった28歳のパイロットについて言及しました。パイロットがこの事故で窮地に立つことがないよう祈っている、彼は我が国の宝だ、彼は自分にできるベストを行った、と。ヨーンさんは、パイロットが謝罪する前に赦していたのです。


→さあ、あなたの番です

・クリスチャンでない方は、主イエスを救い主と信じましょう。
・確信を持っていなかったクリスチャンは、今日の聖書の言葉を受け入れ、自分が罪のゆるしを持っている、と明確に認識しましょう。
・赦しの確信を持っている人は、人をゆるしましょう。

 他人を赦すということについて、最後に一言。ひとり子イエスの死の苦しみと悲しみを引き受ける中で父なる神は私たちを赦されました。これは赦しの原型です。ヨーンさんが、失意の中でパイロットを赦す姿と重なります。私たちの罪が結果的に主イエスを苦しめたのですが、傷を負わされた主イエスが私たちを赦してくださいました。
 相手が謝罪したからゆるすのではありません。相手が誠実だからゆするのでもありません。人を赦すのは、まったくの自発的行為です。見返りはありません。人をゆるすという行為は、痛みとうずきの中でだけできるのです。忘れないでください。人を赦すことができるのは、自分が傷を負った時にしかできないのです。


 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)

神の子供へ エペソ1:5~6

 神が与えて下さった霊的祝福の第二は、神の子供になることだ。

 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:5~6)

1、「ここがあなたの家だよ」

 神の子供とされたことの意味は、究極的な帰属場所が与えられるということだ。多くの人は、まるでクラゲのようにさまよっている。自分が誰で、どこから来て、どこに行くのか分からない。誰かの真似をして取り繕っているが、落ち着く場所もなく、帰る場所もない。

 埼玉県の三崎さんを私は尊敬している。毎朝の早祈祷会を欠かさない祈りの人であり、また、多くの里子や養子を受け入れる、愛の人だ。初めて家にやって来た子供に対しては、夜、添い寝をしてあげるという。ここがあなたの家だよ、私があなたのお母さんだよ、と全身で伝えてあげる。

 神も、ここに来なさい、ここに休みがある、と私たちに言っておられる。安全、安心、平安、完全な受容、自分が神に属している意識、それが神の子とされる意味だと思う。


2、「死んではいけない」

 人が、神の子供でないなら、それは、神から離れた罪人の状態だ。つまり、神を無視し、悪を重ね、罪の奴隷になっている。その行き着くところは永遠の滅びだ。だから神はあなたを救おうとする。たった一人の愛する息子、イエス・キリストを地上に送り、十字架で死ぬことにより私たちを罪から救い、神の子の身分を与えて下さった。
 神からのメッセージは、死んではいけない、という切実なものだ。

 宮城県の産婦人科医師、菊田昇氏は、1973年新聞に「生まれたばかりの男の子を我が子として育てる方を求む」と広告を出し、賛否両論が噴出、大変な話題となった。当時合法とされた8ヶ月未満ぎりぎりで中絶処置をすると、元気な産声を上げる赤ちゃんもいた。そんな赤ちゃんは、積極的あるいは消極的に命を奪うしかなかった。悩んだ末菊田医師は、望まれない妊娠をした子供を元気に産ませ、子供を望む夫婦に養子として斡旋し、にせの出生証明まで書いたが、合法的に子供を救う道が必要と判断、自身の人生や名誉、命をかけて戦うことにした。除名処分を受けたり、営業停止命令を受けたりしながらも、4年後、法律改正を勝ち取った。合法的中絶の月齢を下げ、養子縁組しても戸籍上で実子扱いできるようになった。キリスト者の菊田医師の悲願が実った。その後の人生で、600人の赤ちゃんの命を救った。あなたが、その子供であったかもしれない。

 神は、私たちが滅びに向かうことをゆるせなかった。それで大きな犠牲を払う決意をされた。大切な、たった一人の息子、イエス・キリストを十字架にかけるという決断だ。「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」という言葉は、そういう意味だ。

 私たちが神の子供にされた背後には、こんなに大きな犠牲が払われている。


3、「大好きだよ」

 神の子とされた理由をもし神に問うたなら、神はこう答えるだろう。わたしの心だ、愛しているからだと。それが神のみこころだ。

 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)

 養子をもらう人も、里子を育てる人も人の子で、かわいい子や素直な子を選びたいものだ。神が私たちを神の子とする場合は、まったく違う基準で選ぶ。愛しているから神の子にしてくれた。それが神の心であるから、私たちを選ばれた。

 ボニー・ウィラー著『愛と喜びの家族』という本を私はかなり昔に読んで、深く心が動かされた。3人の子供のいる家庭に、3人の養子が加わる実話だ。クリスチャンのウィラー夫妻の長女は10歳のジュリー、小児麻痺で足に補助器具を付けていた。2番目は7歳のティミー、落ち着きのないADHD(注意欠陥・多動性障害)の子。ロビーは4歳で小児麻痺、足にギブス。奥さんは4回流産したが、それでも子供がほしかった。家族で話し合い、養子の条件を決めた。3歳以下で、混血児で、身体に障害のある子。結局、家にやって来たのは、病気をたくさん持っている子や耳と目の不自由な子たちだった。ウィラー家はその後も温かい家庭となっていった。

 私たち夫婦の話をしよう。二人の子供が与えられた後、望まれない妊娠で生まれた子を引き受けたいと夫婦で祈った時期があったが、主は道を開かれなかった。妻は大病をして、もう次の子供の出産は無理と言われたが、主の恵みで治癒され、第一子から10年後に3番目の子が宿った。高齢出産で障害のある子が生まれるリスクが高いと産科医は判断、羊水検査を勧めた。家内は、「どんな子供でも産みます」と答え、医師はいぶかしげに「どんな子供でも産みます」とカルテに書き込んだ。生まれた子供が、今の末っ子だ。

 神は、御子イエスがヨルダン川でバプテスマを受けた際、天から大声で愛を表された。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)

 この言葉は、あなたにも同じように適応できる。なぜ? 父なる神は、あなたを見るとき、身代わりになった「その愛する方」、御子イエスの命を私たちの内に見出すことができるので、愛しているよ、喜んでいるよと、躊躇なく言える。

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(第1ヨハネ3:1)

 USCのフットボールコーチ、ジョン・マッケイは、次のようにインタビューに答えたことがある。息子が昨シーズン活躍したことを喜んでいます。よくやりました。でも、息子が試合にひとつも出られなくても私は息子を誇りに思います。神も、同じように言われる。あなたを誇りに思う。あなたは、間違いなく私の子だと。
 
 「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6)


 あなたの番です。
→あなたが神の子とされている事を味わい、感謝し、神をたたえましょう。
→あなたの子供をあなたの子としてきちんと認め、喜び、愛を伝えよう。
→あなたは神の子です。その身分にふさわしく胸をはって生きていこう。