マタイ22~37 良い木になりたい

 愛の人、柔和な人、優しい人。それが多くの人が持っている主イエスのイメージです。それだけではないのです。今日の箇所を読むと、勇気ある人、論理的な人、直言する人だということが分かります。

1、パリサイ人からの悪口

そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:22~24)

 主イエスは、大勢の人をいやしておられました。その中に、三重苦の人が連れて来られました。目が見えない。話せない。悪霊につかれている。その悲惨さと凶暴な行動のゆえに、身近な家族も知人も、食事の世話以外は何もできなかったでしょう。主イエスは、その人をいやしました。盲人が見えるようになり、話せなかった人が話し、悪霊につかれていた人が正気にもどったのです。

 主イエスの奇跡を見慣れた人々も今回のいやしには心底驚きました。人々は、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言い始めました。旧約聖書の預言通りの、ダビデの子孫として生まれる救い主かもしれないと思わせる圧倒的な神の力を感じたのです。

 まずい。人々の心がイエスになびいていく。パリサイ人は強い危機感を覚えました。そうは言っても、目の前で起きた奇跡は否定できません。そこで、イエスは悪魔の頭ベルゼブルの力でいやした、実に邪悪だと声高に叫んだのです。



2、主イエスの反論

イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。(マタイ12:25~30)

主イエスは即座に、パリサイ人の批判に論理的に破綻があると指摘しました。ベルゼブルによる悪霊追い出しが行われたとするなら、内輪もめなので混乱状態が続く。あるいは、強い悪魔が再びこの人に取り付いて終わるので、いやしはありえないとしたのです。

パリサイ人の悪口、根拠のない嘘を放置すると既成事実となり、言いふらされてしまいます。主イエスは躊躇せずに反論しました。相手が宗教的権威者であっても、間違いは間違いだと主張しました。反論により、律法学者を怒らせることは承知の上です。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31~32)

 主イエスは「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と述べ、いやしは聖霊の力によるものだと説明されました。聖霊に逆らうなら、それは、自分をいやす方の手を跳ね除けることになります。救われる道を自分で拒絶する行為です。それが、聖霊に逆らう罪は赦されないという意味なのです。

 この厳しい言い方の背後に、主イエスの愛が見え隠れします。主イエスを悪霊呼ばわりしたパリサイ人にも、滅びないようにとの忠告をしているのです。悔い改めるなら赦されるという道を示しておられるのです。

 聖霊はあなたをいやす方です。聖霊の助けを謙虚に求めましょう。




2、主イエスの診断書

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33~37)

 見えない、話せない、悪霊に取りつかれるという三重苦からいやされた人を、目の前で見てもパリサイ人は喜ぶことをしませんでした。宗教者としてありえない態度です。人間なら、いやされた人を抱きしめて、一緒に喜ぶはずです。主イエスは、彼らの人間性を厳しく責めました。「木が悪ければその実も悪い」「まむしのすえたち」「おまえたち悪い者」「さばきの日には言い開きをしなければなりません」

魂の医者であるイエスは、診断結果をパリサイ人に突きつけたのです。あなたがたは悪い木になっている。だから、何をしても悪い実しか結ばない。その事実を直視せよ。罪を悔い改めよと迫ったのです。

悪いことは悪いと言える判断力と勇気が欲しいです。聖霊の助けを受けられる謙虚な信仰を持ちたいです。付け焼刃の親切な言動ではなく、本体である私たち自身が「良い木」になりたいです。

いのりましょう。私を良い木にして下さい。良い実を結ばせて下さい。

 「良い人は、良い倉から良い物を取り出し」


 →あなたの番です
  □主イエスのような判断力と勇気を下さい □良い木にして下さい

マタイ12:15~21 くすぶる燈心


1、多くの人がついて来た

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
(マタイ12:15~17)

 主イエスが安息日にも関わらず手のなえた人をいやされました。パリサイ人は主イエスの言葉を聞き行動を見て反発を強め、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談を始めました。パリサイ人の悪巧みを察知した主イエスは、その会堂から立ち去られました。彼らとの無用な摩擦を避けるためでした。会堂を去る時、主イエスは何を考え、何を感じておられたのでしょう。

 もし、あなたが、主イエスの立場だったら、その後の立ち振る舞いをどうしますか。パリサイ人を刺激しないように、安息日に人をいやす事を止めると考える人も多いでしょう。ウィークデイにも、病人を治す行為を控えるかもしれません。誰もが命は惜しいものです。

「すると多くの人がついて来た」とマタイは書きました。主イエスと行動を共にしていたマタイは、会堂を出た後に起きたことを目撃していました。この記述の流れを自然に受け止めれば、同じ安息日に、会同から出て来た主イエスの後に多くの人々が続いたことになります。

あなたが、その日、道端に立っていたとしましょう。主イエスの後を歩く人々の様子を見ていたなら、何を感じるでしょう。私なら涙が出てきます。

多くの人とは、生まれつきの障がい者と直る見込みのない病人だったはずです。取るに足らない人たち、やっかい者、無駄飯食い、邪魔者、生きる価値などないと一方的にレッテルを貼られてしまう人々かもしれません。ヒットラーなら全員ガス室送りです。

足を引きずっている人もいたでしょう。担架に乗せられた歩けない人もいたでしょう。余命宣告を受けた人、臨終を迎えた人。誰かに助けられてやって来た盲人。ひどい皮膚病を全身にわずらった人。
体だけでなく、心が病んだ人もいたでしょう。私など生きていてもいなくても同じだと落胆した人。愛する人を失った人、夢がかなわなかった人、失敗した人。大きな罪を犯した人。そういう人も加わっていたかもしれません。

折れてしまった人、今にも消えて滅んでしまいそうな人、それがこの人々でした。

これらの人々は、主イエスのうわさを聞いて、心に明かりが灯ったのです。きっと治していただけると信じるようになったのです。

主イエスは、こうした人たちを見捨てません。安息日に病人をいやしたら、パリサイ人の怒りをかい殺害されると分かっていても、主イエスは一人一人をいやしました。これが主イエスなのです。

大丈夫、直るよ。あきらめなくていい、やり直せるよ。あなたが必要だ。あなたには価値がある。わたしはあなたを、そのままで愛してる。自分で自分に「私はダメだ」とシールを貼ってはいけない、あなたは大丈夫だと主イエスは言われるのです。

ただし、直った自分をみせびらかしたりしない、主イエスのことを吹聴しないようにと念を押しました。パリサイ人を無用に刺激したくなかったのです。

あなたは、今日の聖書の箇所のどこにいますか。

「すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし」(マタイ12:15)



2、イザヤの預言が成就した

「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」
(マタイ12:18~21)

主イエスのこのような姿を見て、マタイは約700年前のイザヤの預言が成就したと確信しました。それで、イザヤの言葉を引用しました。この聖句は、4つの福音書でもマタイだけが用いている箇所です。主イエスの姿がイザヤの預言と重なったのです。

 預言者イザヤによると、まことの救い主は、父なる神がもろ手を上げて喜ぶ人だと言っています。見なさい、この人こそわたしが愛し信頼する者だと父なる神が言われる人です。
 言い争ったり戦争をして権力を握るタイプの救世主ではありません。大きな声で選挙演説をして口だけで人気を集める人でもありません。ユダヤ人から嫌われ見下された異邦人にさえ救いの手を伸ばす方です。異邦人は主イエスに望みをかけるのです。

 本当の救い主は、折れそうになった葦のよう人や芯がだめになって消えそうなランプのような人を思いやり、支え、力づけ、新たな希望を与える方です。
 折れそうな葦、消えそうな燈心は、最も弱い存在を示します。人々が見向きもしないもの、価値のないものです。主イエスは、そうした人々に目を留め、生き返らせ、輝かせてくださる方なのです。

 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(20~21節)

 「辛い」という漢字を「幸い」という漢字に変える方法があります。辛い自分の上に十字架を乗せると幸福の幸の字ができます。辛いとき、主イエスを見あげるなら幸いが来るのです。自分などダメだと考えてつぶれそうな時は、主イエスをあなたの上に置いて下さい。

 →あなたの番です
  □主イエスは人々をいやし、私をいやされた
  □いたんだ葦、くすぶる燈心は生き返る

マタイ12:9~14  迷いなく癒す

 主イエスはパリサイ人たちによって安息日論争に引きずり込まれました。ご自分が安息日の主であると宣言された後、そのパリサイ人の根拠地の会堂にあえて入って行かれました。


1、パリサイ人の罠

イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。(マタイ12:9~10)

 片手の不自由な男性が会堂にいました。偶然だったのでしょうか、罠だったのでしょうか。パリサイ人は彼を例に取り上げて、主イエスに議論をしかけました。

安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」

安息日に仕事をしても良いとの証言を主イエスから引き出し、神の律法に逆らったとしてユダヤ当局に訴えようとしていました。実際に安息日に病人をいやす行為をさせれば、もっと強力な証拠になります。



2、羊は助ける

イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」(マタイ12:11~12)

 主イエスは、イエスかノーで最初答えません。質問には質問で答えました。
 羊を一匹しか所有していない人は貧しい人です。そういう人は、羊を家族のように大切にします。だから、羊が穴に落ちたら、すぐに助けあげるでしょう。同じ境遇なら誰でも同じことをします。たとえ安息日でも、ほとんど自動的に抱き上げるでしょう。

 安息日には何をしたらよいのでしょうか。それは、良いことです。神が喜んで下さる良いことをするのです。

「安息日に良いことをすることは、正しいのです」



3、安息日には、良いことを

それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイ12:13~14)

パリサイ人は意見の違う人を黙らせようという人々です。自分たちの立場を危うくする人物はどのように殺害するかを考える人々でした。一方主イエスは、意見の違うパリサイ人とも、きちんと議論します。また、議論をしただけで終わらせず、苦しんでいる人を実際にいやします。

いやす時には迷いがありません。いつものように、直します。苦しみ人、悲しむ人をほおっておけないのです。パリサイ人が見ていても治します。パリサイ人が見ていなくても、いやします。態度には一貫性があり、躊躇がありません。主イエスは、そういう方です。

安息日に人をいやしたら自分の立場が危うくなると主イエスは知っていました。それでも、いやしました。福音書全体を見ると、今回の出来事を含めて5回、安息日に人をいやしています。

①18年間腰の曲がっていた女性をいやす。(ルカ13:16)
②水腫をわずらっていた人をいやす。(ルカ14:4)
③エルサレムのベテスダの池で、38年間病気の男性をいやす。(ヨハネ5:9)
④シロアムの池で、盲人をいやす。(ヨハネ9:14)
⑤会堂で、手の不自由な人をいやす(マタイ12:13)

この箇所を細かく見て行くと、主イエスの愛、主イエスの勇気、主イエスの行動に圧倒されます。首都エルサレムでも実行している事から、殺されることは覚悟の上の行動とも取れます。

人を救うためなら、ルールの逸脱もいとわない。良いことなら、いつでも、どんな場面でもする。伝統的には、安息日には人をいやしてはいけないという人間の作ったルールが幅をきかせていましたが、主イエスは人々注視の中で、堂々とやってのけました。その姿は、人々を勇気づけたことでしょう。

安息日は、お互いを監視するための日ではない。安息日にいやすことは神の律法にかなうと主イエスは伝えたかったのです。安息日に良いことをすることが、父なる神の喜びだと示したかったのです。

昨年12月22日(土)午前8時ころ。ミルウォーキーで勤務中の女性バス運転手は、反対側の歩道を歩くよちよち歩きの赤ちゃんを見つけ、バスを緊急停車させ自分が降りて、赤ちゃんを保護、911に連絡しました。救急隊が来るまでバスを走らせずに、氷点下の道を歩いていた子を温めるために抱きしめていました。乗客5~6人も文句を言いません。
自分がバス運転手だったら、どうしただろうと考えます。

安息日は、良いことをする日です。
私たちも主イエスの考え方と行動に習いましょう。
迷いなく、いつものように、良い事ができる人になりたい。そう思います。

「安息日に良いことをすることは、正しいのです」


→あなたの番です □安息日は、良いことをする日
 □議論で終わらせず、行動する

マタイ12:1~8  安息日の主

 パリサイ人は主イエスをねたみ、事あるごとに訴える口実を見つけていました。パリサイ人のデマ、悪口、嘘、詭弁を主イエスは放置しませんでした。悪い情報を放置しておくと既成事実のように拡散されてしまうからです。
12章はパリサイ人と主イエスの議論がまとめられています。こうした摩擦を通しても、主イエスがどんな方なのかが浮き彫りにされていきます。


1、パリサイ人からの批判

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1~2)

律法学者パリサイ人は、主イエスと弟子たちの行動をスパイのように探っていました。ある安息日、十二弟子はひもじくなり、歩きながら穂を摘んで、籾殻を外し、硬い実を口に入れてお腹の足しにしました。
それを観察していたパリサイ人は、律法違反だと主イエスを責めました。収穫と脱穀という仕事をしたとみなされたのです。重箱の隅をつつくとはこのようなことです。

パリサイ人を反面教師として、職場や学校や家庭の自分の姿を見直しましょう。自分より後輩・若い・優れた人に嫉妬していませんか。些細な欠点を指摘して意地悪していませんか。

神が教えて下さった律法はシンプルで、基本中の基本は十戒です。安息日には仕事をしてはならない(出エジプト20:10)という十戒の規定を弟子たちが破ったことになるのでしょうか。主イエスは、弟子たちの行動が律法違反と考えません。

律法学者らは、律法を守るための613の細則を作りました。安息日に歩いて良い距離は片道約900m、持ち上げてもよい重さは干しイチジク程度などと細かく規定しました。現在でも、イスラエルのホテルは安息日モードのエレベーターがあり、ボタンを押さなくても各階で自動で開閉します。

神が安息日を造った目的が何であったのか、神の本来の意図を理解すれば、枝葉の議論に入ることも、お互いが監視する必要もありません。
安息日は、礼拝する日です。男性が日常の仕事を止め、女性たちも料理、家事、育児から完全に開放され、休めます。父親は妻や子供たちと一緒に過ごします。
礼拝と休息と家族との語らい。それが安息日の目的です。安息日によって、人は生き方のリセットができるのです。



2、主イエスの反論

しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。(マタイ12:3~6)

 主イエスは、ダビデの例と安息日に働く祭司の例をを取り上げて、反論されました。
ダビデがサウルに追われていた時、祭司以外は食べてはならないパンを祭司から分けてもらって食べました。(第1サムエル21:1~6)ダビデに神の罰は下りませんでした。

 祭司たちは、安息日なのに神殿で働きます。安息日に労働することは厳に禁じられていますが、祭司の場合は例外として働くことが認められています。

 安息日の本来の趣旨をきちんと受け止めているなら、些細な点は問題ないのです。



3、「安息日の主」の意味

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(マタイ12:7~8)

 パリサイ人は「罪のない者たちを罪に定め」た、と主イエスは断言されました。十二弟子は律法を犯していません。律法の細かい規定を守ったか、守らなかったか、という顕微鏡的な批判は無意味です。

いけにえより、神はあわれみを好む方だという旧約聖書の言葉(ホセア6:6)を主イエスは引用され、神の意図を説明されました。あわれみという言葉は、新改訳聖書2017では、「真実の愛」と訳されています。主イエスは真実の愛で私たちを愛してくださっています。私たちも、真実の愛で神を愛します。私たちと主イエスの関係が真実の愛によって相互に深まっていくなら、安息日律法に違反することはあり得ません。

 「人の子は安息日の主です」
 
 「人の子」は、詩篇などでは、人間と同じ意味で使われています。一般の人が、主イエスのこの発言を聞いたなら、ご自分を低くされた謙虚な方だと感じたかもしれません。
 もう一方で、旧約聖書の預言書で用いられる専門用語としての「人の子」があります。この場合の「人の子」はメシヤの呼称です。「人の子」は神の遣わされる救い主です。また、終わりの日に世界をさばく主です。
主イエスは大胆に、ご自分が主であると宣言しておられます。実に大胆で、確信に満ちています。安息日が作られた目的は主イエスにあると公言されています。パリサイ人たちはきっと怒り心頭に達したと思われます。

主イエスが安息日の主であるという意味を説明してみます。
安息日に礼拝すべき方は、主イエスである。
安息日に、真の休みを与えて下さる方は、主イエスである。
安息日が作られた目的は、主イエスにある。
主イエスを神の御子として受け入れ、安息日に主イエスを見上げればすべては満たされるのです。To get the son, get everything.

 「人の子は安息日の主です」

 →あなたの番です
  □重箱の隅をつつく批判を止めよう
  □安息日を本来の安息日に取り戻そう
□主イエスこそ、安息日の主です