神の霊の宿る人 創世記41章

 ユダヤ人ヨセフは、17歳の時に奴隷に売られ、数奇な運命をたどり30歳にしてエジプトの宰相となって(41:46)国家的な危機を救いました。「神の霊の宿る人」(36節)とエジプト王に賞賛されたその人、ヨセフはどんな特徴を持つ人だったのか。

1、生きておられる神

30歳のヨセフは、監獄から突然呼び出されエジプト王の前に出ました。王の見た夢を解き明かすようにとの命令でした。夢を解く能力を王に指摘されると、ヨセフは思わず次のように語りました。
 
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(16節)

抽象的な神、あるいは思索上の神、それらには何の意味もありません。神がともにおられる人、ヨセフは、生ける神を身近に知っていました。それで、臆することなく生ける神を紹介しました。

本当に謙遜な人とは、ヨセフのような人です。自分の、能力も、知識も、理解力も、生まれも、技術も、経験も、努力さえ、神から頂いたものと理解しています。その上で、必要な時には、おしげもなく他人や神のために自分を差し出す人、それが真に謙遜な人なのです。

 あなたの信じている神は生きておられますか。あなたは、頂いた能力を“謙遜”に用いていますか。

2、生きて働く信仰

 「パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の7年に、エジプトの地に、備えをなさいますように。」(34節)

ヨセフはエジプト王に今後の計画を進言しました。「備える」とは、5分の1を取ること。つまり20%の租税を豊作時に集め、凶作の7年に備える計画です。ヨセフの信仰は抽象的な信仰ではありません。具体意的で、生きて働くものです。
豊作時を通常の120%の収穫とみなし、20%の租税をかけると、全収穫の24%が備蓄できます。これを7年続けた後に、凶作の年は租税を免除、政府が24%を配給すれば、たとえ通年の60%の収穫でも84%を利用できます。(詳しくは前原利夫師著『聖書が語るビジネスの基本』を参照)

「あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」(ピレモン6)

渡辺潔氏(1889-1977)は17歳で主イエスを信じ、25歳から牧師として働き、45歳の時に米国の神学校で学んだ人です。太平洋戦争勃発に伴い、英語能力のゆえに52歳で香港に遣わされ、捕虜収容所で通訳の働きを日本政府から命じられました。捕虜の置かれた悲惨な状態と、白人達に対する日本兵の残虐行為に驚き、一人で神の前で跪き祈りました。それ以来、外部からジフテリアなどの血清、医薬品、食料などを密かに収容所に持ち込み、救援活動を始めました。
渡辺氏の行為が明るみに出た後、死刑が言い渡されましたが、からくも終戦を迎え命は助かりました。白人捕虜たちは、渡辺氏を心から尊敬し、賛辞を惜しみません。なぜ、命をかけてまで助けてくれたのですかと問われると、「私ではありません。神がなさったのです。私は神に用いられただけです」と渡辺氏は答えたと記録に残っています。

 あなたも、具体的に、実際的に、信仰を生かしましょう。ビジネスの世界でも、家庭でも、政治でも、学校でも。

3、信仰的視点で自分の人生を振り返る

ヨセフは、生まれた長男にマナセ(忘れる)という名を、次男にはエフライム(実り多い)という名を付けた。(51、52節)

神と共に歩む人は、辛い人生を振り返る時、新たな視点が与えられる。暗い陰に覆われた過去を<忘れる人>になれる。寄留者のように過ごす場所で、神の恵みを見つけられる。

米田豊牧師は、「過去を思えば感謝、現在は平安、将来に対しては信頼あるのみ」という言葉を残しました。6人の子供を失い、妻を失い、戦時中の弾圧のため投獄された最中に述べた言葉です。

あなたにとって過去とは何ですか、そして現在は、未来は。あなたの人生を、共におられる神の助けを頂いて温かい目で見つめましょう。

監獄で 創世記40:1~15

 面白い計算をしてみましょう。1から10の数字を選んでください。それに1を足し、答えに2を掛け、4を足し、2で割り、最後に選んだ数で引いてください。おもしろいことに、最初にどの数を選んでも答えは全部3になります。これと同様に、どんな道を選んでも、最後には苦しみが待っている、これがヨセフの人生の常でした。

1、最悪に届く恵みと臨在

 ヨセフが奴隷として働くことになったのはエジプト王の側近ポティファルの家でした。能力とリーダーシップをポティファルに認められたヨセフは、家の管理すべてを任されました。ここまでは良いのです。我がままでKY(空気が読めない)な17歳のヨセフも、随分と成長したものです。
ところが、主人の妻に言い寄られ、拒絶したところ、事実無根の性的虐待容疑の訴えを起こされ、怒った主人はヨセフを牢屋に投げ込みました。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)

 ヨセフの最悪、最低の苦しみの場所に、主は共にいて下さいました。どんな事態でも、神の恵みが届かない最悪や最低は存在しないのです。よく考えて下さい。主人の妻に性的乱暴をしかけた奴隷なら、殺されて当然です。ヨセフのいる監獄は、ポティファルの大きな屋敷の敷地内にあった特別の監獄だったことも分かります(40:3)。監獄という状況の中にも主人の温情が見て取れます。

 あなたの“監獄”に注がれている主の恵みを捜しましょう。

 ヨセフは17歳の時のヨセフではありません。27、8歳のヨセフは、主が共におられることを知ったヨセフです。一時は落胆したでしょうが、主人や奥さんを呪う過ちから守られ、監獄でできる仕事を自分なりに積極的にこなすようになりました。

 「それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことをかんりするようになった。」(39:22)

 奴隷であっても家の監督官になったヨセフは、監獄でも一人の囚人ではなく、監獄管理者の立場になっていました。

2、神のなさること

 監獄に新入りの囚人が入ってきました。エジプト王の側近で、ひとりは献酌官長、もう一人は料理官長でした。王様に差し出したぶどう酒に、不幸にしてハエが飛び込んだりしても処罰されるような時代でした。

 ヨセフが政府高官に仕えることになり、身の回りの世話をしました。空気の読めなかったヨセフが、40章7節で二人の顔色まで注意していた事が分かります。
聞くと、夢を見たといいます。献酌官の夢は、ブドウがなってエジプト王の杯に注ぐという夢で、料理官の夢は、料理の入った籠が取りに食べられるというものでした。

 ヨセフは、その解き明かしを申し出ました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」(40:8)

 主が共におられると知った人は、主に問題解決をゆだねることができます。ヨセフは誰よりも働いて、努力した人だったでしょう。けれども、能力も、頑張りも、知識も、理解力も、神からもらっているとヨセフは理解するようになったのでしょう。だからこそ、謙遜だけれども、大胆になれるのです。本当の謙遜は、見せ掛けだけの謙遜そうなポーズではなく、自分を用いて頂きたいという大胆さに現れるのです。
 
 真剣に二人の話を聞いたヨセフには神からの知恵が与えられ、献酌官が3日後に元の地位に戻ることを説明し、料理官は処罰されるであろうと指摘しました。事実、ヨセフの解き明かしの通りになり、これが、後のヨセフの人生を方向づけます。

 残念なことに、献酌官長は、ヨセフのことを忘れて2年も時間が流れることになります。またまたヨセフは苦しみが続きます。どう転がっても「3」に戻る人生なのでしょうか。いいえ違います。どう転がっても、主が共にいてくださる人生です。最悪、最低にまで神の恵みは届くのです。

 あなたの最低、最悪は今ですか。そこにも主の恵みは届いています。
「あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物をまかせよう。」(マタイ25:21)
 神が事をなさる、あなたがそう期待する事柄は何ですか。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。」(マルコ10:27)
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:48)

逃げる 創世記39:1~18

奴隷としての苦労

 奴隷としてエジプトに連れて行かれたヨセフには、どんな苦労が待っていただろう。最初の壁はエジプトの言葉だろう。アメリカに住む日本人は英語で苦労するし、馬鹿にもされる。ヨセフも同じだろう。次は、奴隷労働の過酷さだろう。汚い、きつい、繰り返しの三拍子のそろった奴隷労働は出口がない。うまくできなければ容赦なく鞭が飛ぶ。ゴキブリとねずみに囲まれて夜は寝たことだろう。孤独で、情けなくて、兄たちを恨んで当然だろう。
 あなたにとって、エジプトでの奴隷生活とは何だろう。今の生活そのものが奴隷労働かもしれない。

ヨセフはなぜ変化したのか。

 兄たちに妬まれ奴隷に売られたヨセフは当時17歳だった。生意気で、わがままで、端にも棒にもかからなかった。
 それが、27歳前後には、エジプトの高官ポティファルから信頼される人物と変わっていた。また、ポティファルの妻からは、実に魅力的人物とみられていた。
(祝福された人にこそ誘惑が襲ってくることに注意しよう。主が共におられても、誘惑はあるし、誤解されて不遇に投げ込まれることもある。誘惑からの回避方法は、逃げるの一言につきる。戦うな。逃げよ。)
 確かに、ヨセフの中で何かが大きく変化した。その理由は何だろう。キーワードは「主がともにおられた」だ。

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(2節)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(3節)

 主語はヨセフではなく、神だ。神がヨセフと一緒にいてくださった。これが、変化の根源的理由だ。
 兄達が妬み、憎み、殺したいほどの人物のそばに、神はおられた。ここに、神の愛が現われている。惨めで、裸で、罪だらけの私たちを見捨てない。これが神の愛だ。ヨセフは、いつの間にか、神を求め始めた。後ろ向きで否定的な生き方が徐々に変化していった。気づくと、仕事を積極的に行い、工夫し、仲間の和を作り、リーダーシップを発揮していた。家畜も穀物も豊かになり、家の中には活気と調和が生まれ、主人もヨセフに一目置くようになった。主がヨセフとともにおられたからだ。
 
 主イエスは、憎まれ者で金の亡者ザアカイにご自分から声を掛けられた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)

 また、主イエスの復活が信じられない二人の弟子にエマオ途上で現われて、主イエスは一緒に道を歩かれた。
「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:15~16)

 イエスはそういうお方なのだ。

 今週は、主イエスがあなたと共におられることを意識して過ごそう。主がともにおられることを拒絶してはいけない。主がおられることにもっと敏感でいよう。車の助手席、食卓の空席、職場や学校やリビングルーム、ベッドルームにも主は共にいてくださる。生活のどんな場所にも主イエスがおられると知った人は、大きな慰めと勇気を得る。

夢見る者  創世記37:1~8

 これから8回に分けて、ヨセフの人生を見ることにしましょう。大雑把に言って3500年以上前の出来事になります。アブラハムの子がイサク、その息子がヤコブ、その子がヨセフです。

Ⅰ、ヨセフに関わるキーワード

 最初にヨセフのキーワードを3つ取り上げてみます。「17歳」。「そでつきの長服」。「夢」。

1、17歳
 ヨセフは、37章の時点で17歳。2節から分かるように、まだ一人前の羊飼いではなく、手伝いでした。
セブンティーン。まさに青春真っ只中のまぶしい年齢。若さ以外には何も持っていない。人生経験もない、結婚もしていない、勢いはあるが不安定という年頃。

 →あなたは今、何歳ですか。その年齢は何を意味しますか。

2、そでつきの長服
 3節を見ると、ヨセフが「そでつきの長服」を着ていたことが分かる。これは、年老いた父親ヤコブのえこひいきの象徴。ヨセフだけをかわいがっていた証拠。洋服なのでいつまでも同じものは着られない。何年かに一度、豪華で目立つ服を新調したことだろう。今風に言えば、歳の離れた兄さんたちは10年落ちのフォードを買ってもらっただけ。ヨセフは2年ごとに真っ赤なフェラーリを買い与えられたといったところだ。

 →あなたの性格や人生を象徴するものを選ぶとすれば、それは何ですか。

3、夢
 ヨセフは、夢を見た。7節と9節に2種類の夢の話が出ている。ヨセフは得意げに話したことだろう。兄さんたちが、ボクに頭を下げたという夢だ。やっぱり、ボクは特別なんだ。兄さん達なんかより、ボクは偉いんだぞ、という雰囲気が見え見えだ。
 この夢には実は深い意味が隠されていたが、ヨセフにはその意図が分からないまま、ただ有頂天になっていた。ヨセフは17歳、人生を何も知らず、生意気で、わがままで、ちゃらちゃらした嫌なやつだった。

 →あなたの夢は何ですか。神があなたのために立てている計画は何ですか。

Ⅱ、突然の災難

 ある日、ヨセフに事件が起きた。それは37章12節から35節に詳しい。簡単に言えば、兄達が共謀して、ヨセフを奴隷証人に売り飛ばしたということだ。フェラーリから無理やり降ろされて、リヤカーを引く身分に落ちぶれたというわけだ。

 ヨセフは、奴隷商人に拘束されて南に向かっていることは分かる。おそらく、手を縛られ、逃げることは不可能な状態だ。ラクダを連ねたキャラバン隊の一員になって焼ける地面を裸足で歩かされていただろう。ヨセフは、なぜこうなったのか分からない。

 いくら叫んでも助けはなかった。一番の見方だと思った長男ルベンは、肝心な時にどこかへ出かけてしまった。怖い兄たちは、長服を乱暴に脱がせて、穴に投げ込み、一時は殺される事も覚悟した。
 少し前までは、毎日が楽しく、気ままだった。そでつきの長服を着て得意満面だった。かなり歳の離れた兄たちがいたが、少しも怖くなかった。それは、父親に特別にえこひいきされ、守られていたからだった。
 ボクはこれからどうなるのだろう。怖い。僕はまだ17歳だ。あの夢の話をしたのがいけなかったのか。あんな夢、見なければよかった。

 あなたも、ヨセフのような突然の災難の中にいるかもしれない。

 主イエスは、非常に意味の深い言葉を残されている。最後の晩餐前に弟子たちの足を洗われた時、主イエスは以下のように言われた。

「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
(ヨハネ13:7)

 堀 肇(ほり・はじめ)先生は『百万人の福音』(3月号)で、苦しみに遭遇した人と出会ったとき、自分勝手な解釈をしないようにと勧めている。その人に寄り添い、心の痛みを真実に聴くという<解釈しない優しさ>が必要だと述べている。大切な視点だと思う。

 堀先生が引用されたアイルランドに伝わる祈りは、困難に出会った人に贈ることばとして温かみのある言葉だと思う。

友よ、あなたの行く手の道が、
身を起こしてあなたを迎えるように。
風が、あなたの歩みを励ますように。
太陽が、あなたの顔を温かくてらすように。
雨が、あなたの畑をやさしく潤すように。
私たちがふたたび会う日まで
神が、あなたを大いなる掌(たなごころ)のうちに
おいてくださるように。
               (『祈りの花束』から)


 ヨセフの出会った苦しみを、ヨセフのわがままのせいだと決め付けず、温かい目で見たいものだ。人間に見える事象を越えた神の大きな計画があることは、後になって分かる。ヨセフは、奴隷となって苦しみ、内面的に成長し、神と共に歩む者に変えられていく。
 ヨセフの歩みは、私や、あなたの歩みそのものだ。