ハガイ、ゼカリヤ、マラキ書


 今日のテーマは、立て直しです。
 あなたには、立て直したい事がありますか。

 預言者ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、捕囚から帰還した人々に語りました。紀元前520年、ハガイとゼカリヤは神殿建築を成し遂げるようにと人々を励まし、516年に完成しました。それから100年後に活躍したマラキは旧約聖書最後の預言者になりました。


1、ハガイ書  「宮を建てよ」

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。(ハガイ1:7~9)

紀元前536年、捕囚から戻った人々は神殿再建に取り掛かりましたが途中で挫折、10数年間放置されていました。預言者ハガイは、「宮を建てよ」と語り、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、そして、一般の人々を励ましました。

「現状をよく考えよ」とハガイは生活の再点検を命じました。人々は、「自分の家のために走り回って」(ハガイ1:9)、いくら働いても収穫が少なく、「穴のあいた袋」(1:6)のような毎日になっていました。生活の中心に神を置いていないので、問題が続出したのです。神殿は、生活の中心が神だと教えてくれる建造物なのです。

現状分析の次は、「さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。」(ハガイ2:18)とハガイは言いました。神を生活の中心に置くなら、主はあなたを祝福して下さるのです。理想的な将来像を描けるのです。

「強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」(ハガイ2:4)

さて、あなたは生活の中心に神を置いていますか。


2、ゼカリヤ書  「権力によらず」

 ゼカリヤ書には、たくさんの幻やイメージと世の終わりに関わる預言があるので難しい部分があります。また、救い主についての予告が多数あり、例えば、救い主がロバに乗ってエルサレムに入られる(ゼカリヤ9:9)、裏切りの代価は銀30シェケル(11:13)、突き刺される死の場面(12:10)、罪をきよめる泉(13:1)などがあります。

 ゼカリヤは、預言者ハガイと同時期に活躍し、神殿再建を推進し、神殿工事の責任者の二人、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを特に励ましました。

 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ4:1~6)

ゼカリヤは不思議な幻を見ました。燭台の両側に2本のオリーブの木がありました。その木は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを表していました。燭台の灯りを燃やし続けるオリーブ油の供給源がその二人だったのです。

神殿建設を推進する力とは何でしょう。ペルシャ王の承認をもらったという権力ではありません。ゼルバベル個人の頑張りや指導力でもありません。それなら「神の力」によってと言いたいところですが、「わたしの霊によって」と書いてあります。ゼルバベルが、神との交わりを続けるることが鍵です。神との霊的な関係を第一にするならば、リーダーシップ、尊敬される人格、具体的な決断力や智恵、困難や妨害に立ち向かう勇気が主から与えられるのです。

あなたが、何かを立て直したいなら、権力によらず、能力によらず、神の霊によって行って下さい。だから、聖書、祈り、礼拝、平静な心が大切なのです。


3、マラキ書  「離婚を憎む」


 マラキが活躍した紀元前430年頃は、神殿における礼拝やいけにえが行われていましたが、すべてが形式的でした。心が伴っていません。みかけは立派な信仰者のようであっても、結婚とお金の分野で破綻していたのです。

神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。(マラキ2:15~16)

 結婚すると、二人ではなく一人です。だから、神は離婚を憎むと言われました。夫婦関係は立て直せます。神を心の中心に据えるなら、愛し合う夫婦になれます。

 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:8~10)

 マラキの時代、欠陥のある動物であることを隠して神にささげたり(1:14)、献金を惜しんで神をないがしろにする人がいました。マラキはその問題的を指摘しました。

 私の命も、所有物も、仕事も、お金も、能力も、すべては神から頂いたものです。その事を感謝して、10分の1だけを主にお返しして、神に栄光を帰すのが聖書の基本原則です。主は「わたしをためしてみよ」と言われました。そうすれば、「あふれるばかりの祝福」を約束されました。
 経済面でも、立て直しましょう。主を第一にしましょう。

 アメリカには、Chick fill Aというファストフードがありますが、なんと、日曜は休みです。2013年の統計によると、一店舗当たりの売り上げはケンタッキーフライドチキンの3倍です。創業社長が南バプテストのクリスチャンで、神に栄光を帰すことをモットーに、収益金から地域の学校や病院などに寄付しています。現在でも、そのサービスの素晴らしさで高い評価を得ています。

 あなたは何を立て直したいですか。ビジネスでも、家庭でも、あなたの現在と将来において、主をあなたの中心に置きましょう。

 →あなたの番です
  □生活の中心に神を置く
  □権力でなく、人間の力でなく、神の霊によって行動する
  □結婚とお金の分野でも、主の祝福を信じる




オバデヤ、ヨナ、ナホム、ハバクク、ゼパニヤ書


 今日は、オバデヤ、ヨナ、ナホム、ハバクク、ゼパニヤ書をまとめて取り上げます。これらは「小預言書」と呼ばれる13書のうちの5つです。
この5つの書の基本テーマは「滅び」です。さて、将来に滅びが待っていると分かったなら、あなたはどうしますか。どういう気持ちで生きていきますか。

ヨナ書以外は、紀元前600年前後に書かれています。


1、オバデヤ書 

オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。――主の御告げ。――
(オバデヤ書1:1~4)

 預言者オバデヤは、南王国ユダの南東に位置する隣国、エドムの滅びを預言しました。エドムは、アッシリヤに協力してエルサレム滅亡を喜び、滅亡に加担したことから、滅びを宣告されました。


2、ヨナ書  

太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
(ヨナ書4:8~11)

 預言者ヨナは第2列王記14:25にも言及されています。
 アッシリヤ帝国はユダヤ人の敵であり、その首都ニネベはユダヤ人が大嫌いな町でした。そのニネベに行って滅びの警告を語りなさい、と主は預言者ヨナに命じました。ヨナは、ユダヤ人至上主義者だったのでニネベの救いを嫌がり、正反対のタルシシュに逃げました。荒海で大魚に飲み込まれ3日間苦しんだ末やっと命令に従いました。「もう40日するとニネベは滅ぼされる」(ヨナ3:4)とヨナはニネベで叫びました。ニネベの人々はそれを聞いて悔い改めました。滅びが猶予されたのを見てヨナは死にたいほど不機嫌になりました。

 外国人の船乗りの誠実さとニネベの人々の正直さがヨナ書では際立っています。それに比べてヨナは偏狭で苛立ちやすい人間です。ヨナはニネベの人が滅ぼされることを期待していたのです。

ヨナ書は、主が世界の人々の救いを望んでおられるということを明確に語っています。主がアブラハムを選んだのは地上のすべての民族がユダヤ民族によって祝福されるためでした。ユダヤ人は、この使命を忘れ、選民意識で他民族を見下し、神から離れ、滅びてしまいました。世界の人々の救い阻むものがユダヤ人の愛国心であり、プライドであり、偏見だとヨナ書は教えています。

あなたに、嫌いな国や民族がありますか。神はその人たちも救いたいと願っています。


3、ナホム書  

ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。(ナホム書1:1~2)

 ナホム書にはニネベの滅びが語られています。悪を悔い改めたニネベの人もまた逆戻りして神を忘れました。ニネベの「破壊、滅亡、荒廃」(ナホム2:10)は避けられません。


4、ハバクク書  

この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
(ハバクク書2:3~4)

 エルサレム崩壊が近くなった頃、預言者ハバククは町に正義が失われたことを嘆き、解決を主に求めました。アッシリヤの次に起こったバビロニア帝国(カルデヤ人)によってユダの悪者を滅ぼす、という神の回答を聞いてハバククは驚きました。凶悪なカルデヤ人の処遇を神に尋ねると、カルデヤ人もやがて滅ぼすと主は言われました。

自分が望んだ現実にならなくても、神の最善が為されると受け止める。
それが信仰によって生きるということです。カルデヤ人が攻め寄せて果樹や家畜をすべて失ったとしても、ハバククは主にあって喜ぶと心に決めました。
パウロは、このハバククの短い一節から信仰者の基本をくみ取り、ローマ1:17で触れています。滅びが予想される時でも、死が迫る時でも、私たちは信仰によって生きることができるのです。


5、ゼパニヤ書  

わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす。(ゼパニヤ書1:4)

 「主の日が来る」と7回も警告があります。預言者ゼパニヤはエルサレムの滅びを預言しました。破滅の先には、捕囚の民の帰還、都の再建、そして、神が人々の中に住む日が来ると預言しました。ゼパニヤは、滅びを前にしても、その先にある希望を見上げました。主が、私たちの中におられるなら、恐れず、気力を失わずに生きることができるのです。

主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ3:15~17)


 まとめましょう。5つ小預言書全体から分かることは次のことです。
滅びはある。主は世界を本当に裁く方である。
ゼパニヤの預言通り、エルサレムは紀元前586年に滅びました。エルサレムの滅亡を喜んだ隣国エドムは滅ぼされました。ナホムの預言とおり、アッリシヤ帝国の首都ニネベも滅びました。ハバククが言ったように、エルサレムを破壊したカルデヤ人のバビロニア帝国も滅びました。
滅びを前にしても、願い通りにならくても、恐れず、信仰によって歩むことが可能です。

預言者ヨナの愚かな姿から学びましょう。民族至上主義は間違っています。神は、悪者が滅びることを望まず、世界のすべての民族が救われ、協力して神の国を建設する日を待ち望んでおられます。
 内村鑑三は、二つのJを愛すと言いました。Jesus(主イエス)と Japanです。世界に貢献できる日本にするのが本当の愛国心だと内村は述べました。

アメリカに生活する私たちは英語を理解し話せます。だから英語でも主イエスの福音を誰にでも伝えましょう。

 →あなたの番です
  □神は、警告する方、滅ぼす方
  □民族至上主義に陥ってはいけない
  □人種と国と文化を越えて主イエスの福音を伝えよう

見えるようになる ルカ18:35~43


 一人の盲人が主イエスに出会い、目が見えるようになりました。

1、この盲人は誰かに似ている(35~36節)

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。(ルカ18:35~36)

 ヨルダン川流域からエルサレムに上るときは、エリコの町を通ることになります。盲人が町の門の入口付近の地べたに座って物乞いをしていました。

 この盲人と私たちには共通点があります。それは何でしょう。
①繰り返しの毎日だった。
②生活のためには嫌な事もする。地べたにも座る。
③私たちが主イエスに近づいたのではなく、主イエスが近くに来て下さった。
④盲人は主イエスの姿が見えなかったが、私たちも見た事がない。

 盲人は晴眼者に比べて敏感な耳を持っています。威圧的な王様の行列、殺気立ったローマ兵の行進、商人のキャラバン隊など、区別できまました。ところが、今、目の前を誰が通ろうとしているのが誰か皆目見当がつかないので尋ねました。


2、「ナザレのイエス」と「ダビデの子のイエス」(37~39節)

ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。(37~38節)

 「ナザレのイエス」が通過するのだと教えられました。これは、主イエスの出身地を述べた中立的な言い方ではありません。見下した言葉でした。
 総督ピラトが主イエスを十字架に付けた看板には、ナザレのイエスと書いてありました。(ヨハネ19:19)この場合の「ナザレのイエス」は、田舎者、取るに足らない者、愚か者という意味です。
 初代教会の時代、ステパノを訴えた悪意ある証人たちは、「あのナザレ人イエス」(使徒6:14)と、汚いものに触れるような言い方をしました。
 パウロがクリスチャンを迫害するためダマスコに向う途中、復活の主イエスに会いました。主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ」(使徒22:8)とあえて言われました。

 「ナザレのイエス」だと聞いた途端、この盲人は「ナザレのイエスよ」と言わず、「ダビデの子のイエスさま」と大声で叫びました。盲人は、2~3年の間、主イエスによる病気のいやしと主イエスの教えを伝え聞いていたのでしょう。イエスさまこそダビデの子、旧約聖書が預言したダビデ王の子孫として生まれてくるメシア、救い主だだと確信していたのです。盲人の精一杯の信仰告白としての叫びなのです。

 あわれんでください、という言葉は日常的には使いません。自分で自分を救えない状態であると認めなければ言えません。あわれんで下さいという言葉を因数分解してみましょう。目をとめてください。愛してください。勇気をください。救ってください。罪をゆるしてください。そばにいてください。色々な意味が含まれるでしょう。

 あなたは、「ナザレのイエス」と呼びますか、「ダビデの子」救い主と呼びますか。


3、何をしてほしいのか(40~43節)

彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。(39~40)

 盲人の声がうるさかったので周囲の人に制止されましたが、彼は止めません。最後に彼の声は主イエスに届きました。あなたの声も、主イエスに届きます。祈り方が分からなくても、あなたの真実さは主イエスに届きます。あなたも祈って下さい。

彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスは尋ねられました。盲人は躊躇なく、「主よ。目が見えるようになることです。」と返事しました。(41節)

「わたしに何をしてほしいのか」という質問は、核心を突くものでした。

 イエスさまに同じように今日聞かれたら、あなたはどうしますか。
 大金持ちにしてほしい、ハンサム、美人にして下さい、とイエスさまに言いますか。人間関係の改善。夫婦が仲良くなるように。能力を下さい。大学、就職、結婚、子供を下さい。病気を治してください。罪をゆるして下さい。そう願いますか。
 盲人は、きっと声をからしていたでしょう。「主よ。目がが見えるようになることです。」と答えました。

 彼の願いは、金や欲望に関した求めでなく、復讐の実現でもありません。普通の人にして下さい、という願いでした。見えるだけで良いという謙虚な願いです。

イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(42~43節)

いやす力が主イエスの力であることは大前提です。あえて「あなたの信仰があなたを直したのです。」と主イエスは言われ、盲人の信仰を自覚させました。この盲人の信仰とはどんな信仰でしょうか。
①「ダビデの子」と確信をもって呼べる信仰告白。
②主イエスとの人格的交流を求めた態度。
③主イエスが目を開ける力を持つ方だと信じたこと。

 盲人の目はたちどころに開きました。男は神をあがめ、主イエスについて行きました。民は、驚き、神を賛美しました。

 あなたの人生にも、同じことが起きます。主イエスを信頼することにより、今まで見えなかったものが見えるようになります。

 ある男性は、奥さんを礼拝に車で送っているうちに礼拝に出るようになり、自分の罪を認めてクリスチャンになりました。しばらくして、はっと気づいた事がありました。「妻がいた!」今までは自分の仕事と将来の事しか眼中に無かったのですが、愛してくれている妻がいたと分かったのです。これからは自分が妻を愛していこうと思ったそうです。見えるようになったのです。

「私をあわれんでください。」 「わたしに何をしてほしいのか。」

 →あなたの番です
  □ナザレのイエスでなく、「ダビデの子」と信仰告白しましょう
  □あわれんでくださいと祈りましょう。
  □目が見えるようにして下さい、と主イエスに願いましょう

アモス書、ホセア書

 今回は、アモス書とホセア書の二つを一緒に取り上げます。二人は、北王国イスラエルで活躍した預言者です。

1、繁栄の陰を暴く   <アモス書>

「私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。」(アモス7:14)とあるように、アモスは南王国ユダのベツレヘムに近いテコアで働いていた一介の農夫でした。

アモスが預言者として神に召されたのはBC760年頃です。北王国イスラエルはヤロブアム二世の時代で極めて繁栄していました。指導者や金持ちだけでなく、庶民たちも真の神から心は離れ、経済的な繁栄に浮かれていました。

繁栄の陰に不正あり。
誰かが極端に大もうけする時は、他人の利益の横取り、弱者の抑圧、詐欺、暴力、不正な裁判などが隠れています。
南王国から来たよそ者で農夫にすぎないアモスが、王たち、金持ち、権力者の悪を痛烈に批判しました。アモスは言います、このままでは国は滅びる、飢饉が来る、「主のことばを聞くことのききんである。」(8:11)と述べました。

「あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。」(アモス5:11~15)

もしアモスが現代に現れたら厳しく批判したことでしょう。政治家と組んで自分達に都合の良い法律を作らせる金持ちを糾弾したはずです。タックスヘイブンを利用して税金逃れを行う富豪や多国籍企業を責めたことでしょう。その代償は庶民が負わされています。安価だけれど有害物質を含んだ製品を作る大企業は、被害が出るまで放置します。企業は人件費を削るために、アルバイトや派遣など不安定雇用を押し付けます。訴訟になれば、敏腕弁護士を雇って黒を白にします。「あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。」というアモスの言葉は現代にも通用します。

「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(5:24)

 神を信じる者は神の姿に似てくるので、正しい行為を愛するようになります。あなたも今週、職場でも、家庭でも、嘘や不正を避けて正しく歩みましょう。
 富を求めるのではなく、神ご自身を求めましょう。

 「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(4:12)
「わたしを求めて生きよ。」(アモス5:4) 「主を求めよ」(5:6)



2、神に立ち返れ  <ホセア書>

 神の言葉を書き残した北王国出身の預言者はホセアしかいません。北王国イスラエルは紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされましたが、ホセアはヤロブアム二世の時代の治世から、王国が滅んで行く姿をリアルタイムで目撃しました。

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(ホセア1:1~2)

 ホセアの活動のユニークさは、その結婚生活にあります。姦淫の女を引き取り、結婚せよと主はホセアに命じ、彼はそれを実行しゴメルと結婚しました。
 妻ゴメルは子供たちを産んだ後、再び身を持ち崩し他の男に走り、奴隷の身分に落ちぶれました。「夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。」(3:1)と主はホセアに命じ、ホセアは銀15シェケルと大麦1ホメル半を払って妻を買い戻しました。
 ホセアの妻ゴメルはイスラエルを象徴しています。姦淫の女を見捨てずに愛し、犠牲を払って買い戻すホセアは神を象徴しています。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1~3)

あなたはボロボロの姿では神に戻れないと考えているかもしれません。自分できれいになれるのなら救い主は必要ありません。
主イエスが放蕩息子のたとえ話をされましたが、立ち返ることがどんな事かを教えてくれます。奴隷に身をやつした息子を見て、父親は走り寄って抱きしめ、新しい服と靴をご馳走を与えます。それが神の愛です。
罪のまま、みじめな姿のまま、そのままで構いません、主に立ち返りましょう。主のもとに戻る。それが人間にとって最も大事なことです。主のもとに立ち返ると平安がやってきます。罪の赦しを確信できます。

主に立ち返ると、次に、私たちは本来自分が立つべき場所にしっかりと立つことができます。心を通わせる夫婦になれます。愛し合う家族になれます。誠実な社会人になれます。

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。(14:4)

あなたも、主に立ち返りましょう。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」

→あなたの番です
  □正しく生きよう
  □主に立ち返ろう。