マタイ9:27~31 ふたりだから

 一人と二人。大きな違いがあります。


1、ふたり


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 目が見えないなら道も分からないし主イエスの姿も顔も見えないから、盲人が二人いても何の役にも立たないと考えるのは大間違いです。

 イエスさまは道端では何の反応もしてくれませんでしたが、盲人の二人は親友だったのでしょうか、あきらめず、励まし合ってイエスさまについて行けました。ギリシア語の2は、デュオです。二人だから立ち向かえたのです。

 「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。」(伝道者の書4:12)

 あなたも、この盲人の二人のようになりましょう。クリスチャンの友達を作って下さい。今の年齢からでも遅くありませんから、祈り合える友、助け合える友を作りましょう。



2、あわれんでください


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 二人は、主イエスを「ダビデの子」と呼びました。マタイの福音書で、実際の人物が主イエスをダビデの子と呼んだのはこの盲人の二人が最初でした。

 マタイ12:23では、民衆が「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言っていました。マタイ21:9では、人々はイエスさまがダビデの子であると確信して「ダビデの子にホサナ」と歓迎した様子が書いてあります。
 マタイの福音書の冒頭に、主イエスがダビデの子であると書かれています。マタイの福音書のテーマは、旧約聖書が預言した救い主がイエスであるということです。その観点から言うなら、この名もない盲人こそが、救い主に初めて気づいた人物なのです。目は見えませんが、心の目は誰よりも見えていました。

 「あわれんでください」という言葉は、ギリシア語で「エレイソン」です。カトリックのミサで歌われる「キリエ・エレイソン」というラテン語の賛美の、憐れんでくださいという言葉と同じです。
 「あわれんでください」とは、二重の意味が込められています。主イエスの深い愛で包んで下さい。そして、今直面している問題から助け出して下さいという祈りです。目が見えるようにして下さいという願いを込めて、あわれんで下さいと叫んだのです。

 あなたも今、この祈りが必要ではありませんか。主イエスの愛、主イエスのあわれみ、主イエスから来る慰め、主イエスが共にいてくれることが必要です。今、目の前の問題からの脱出が必要です。助けて下さいと祈りましょう。




3、信じたとおりに

 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。
 イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。(マタイ9:28~31)

 群衆のたくさんいる往来の真ん中で二人の目をいやしたなら、好奇の目にさらされます。場合によっては、ユダヤ当局の監視を受けたり、イエスの宣伝を助けるための嘘だと捕縛される可能性すらあります。それで、いやされた事を知らせるなと主イエスが言われたのでしょう。残念ながら彼らは、嬉しすぎて主イエスの忠告を無視してしまいます。

 主イエスは、家の中で、落ち着いて、二人と語り合い、彼らの信仰を明確にしてあげたいという意図を持っていたので、戸外では二人に取り合いませんでした。
 主イエスは、わたしがあなたがたの目を開けられると信じているのかい、尋ねました。盲人たちの信仰告白を導き出す質問でした。「そうです。主よ。」と二人は応えました。

 主イエスは、二人の目に手で触れて、言われました。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」すると、見えるようになりました。

 盲人二人が、少し明かりを感じる程度にして下さいとか、片目でも見えればいいと考えていたなら、そうなったでしょう。でも、二人は、普通に見えるようになりたいと願いました。それで、完全に見えるようになったのです。
 今日も、主イエスは、あなたに言われます。あなたの信じたとおりになるよ。あなたは、何を願っている。そんな程度の願いで本当に充分かな?


 まとめます。誰かと二人で立ち向かいましょう。主のあわれみを祈り求めましょう。信じたとおりになると、主イエスを信じて下さい。

 ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」
 

 →あなたの番です
  □ふたりで立ち向かう
  □「あわれんで下さい」と祈る
  □信じたとおりになる

マタイ9:18~26 差し伸ばす手

 
会堂管理者と長血の女。二人は似ています。
二人とも絶望していました。ところが、どん底から立ち上がりました。
鍵は、反意接続詞と未来受動態です。


1、でも <反意接続詞>

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。(マタイ9:18~19)

会堂管理者の12歳の娘が危篤状態に陥った。その後、娘は死んだという通知が来た。これは、父親としては絶望的な状況です。

絶望と悲しみの時に、誰と共にいるか、誰と語り合うかがとても大切です。会堂管理者は、娘が死んだという知らせを聞いても、主イエスのそばにいるという選択をしました。イエスのそばに立ち、主イエスと語らい、イエスの御顔を見ていたので、「でも」(原文では、ἀλλと言えたのです。娘が死んでも、「でも」と言い我が家に来て娘の上に手を置いて下さいと言えたのです。山登りで滑落したとき、ピッケルを斜面に突き刺して自分の体を止めるように、会堂管理者は絶望の滑落を止める「でも」を言えました。


会堂管理者は言いました。「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」私たちも、同じように言ってみましょう。

イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。
(マタイ9:23~26)

 会堂管理者の家にいた人々は、主イエスのことばを聞いてあざ笑いました。主イエスはそれを意に介せず、娘の部屋に入り娘の手を取りました。すると、死んでいた娘は起き上がりました。死から生き返ったのです。奇跡です。

 あなたの番です。すべての人間的可能性が閉じられても、人々にありえないと笑われても、「でも」と言ってみましょう。「でも」という反意接続詞は、信仰の言葉です。



2、きっと直る <未来形、受動態>

すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
(マタイ9:20~22)

この女性は、会堂管理者と同様に、絶望しきっていました。病気で長い間苦しみ、十二年の間は絶えず痛みにさらされ、出血に悩まされ、治療費もかなりの額を払いましたが直りません。12年間、絶望していたのです。
そんな時、主イエスの人柄や教えや奇跡を聞いて元気づけられたのです。「きっと直る」と考えたのです。ただし、これは、彼女の努力によって直るとか、彼女がそう思い込めば直るということではありません。
新改訳2017はここを、「私は救われる」と訳しています。原文はσωθήσομαι、文法的にいうと、未来形、かつ、受動態です。主イエスによっていやされる、という信仰です。

彼女のように出血を伴う婦人病の場合、汚れを背負っていると当時はみなされたので、主イエスの正面に出て「いやしてください」と頼むことは無理でした。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

それで彼女は、今までに前例のない方法を実行しました。主イエスに手を置いていただかなくても構わない。私のためにいやしの言葉を発してもらうこともはばかる。イエスさまに、自分の存在を認めてもらわなくてもいい。主イエスの着物に触れてみよう。群集に紛れて、後ろから、イエスさまの衣に触りました。すると瞬間的に直ったのです。
未来形で、受動態で、いやされると信じたので現実には何もしない。それは、彼女の態度ではありません。アクションしました。主イエスの衣に後ろから触れたのです。

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

あなたも、長血の女と同じような境遇にいるかもしれません。とてつもなく困難な問題に直面し、絶望の日常化という試練の中で、解決の前例を見たことがない。それなら、彼女と同じようにしましょう。神の設定された未来のある時に(未来形)、主イエスが主語になりあなたが救われる(受動態)。そう信じましょう。前例がなくても、あなたらしいオリジナリティーのある行動を今、取ってみましょう。それが、信仰です。

 あなたの番です。
 もう娘は死んだ、すべての扉が閉ざされたと思える事柄に直面していますか。直る見込みがなく12年間も苦しんできた病気のようなものを抱えていますか。
 現実を直視しつつも、「でも」と言いましょう。現実の困難さを知りつつも、きっと主イエスが私を救い出して下さると、手を伸ばして主イエスの衣に触れましょう。

「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

 →あなたの番です
  □厳しい現実に直面しても、「でも」と言いましょう
  □主イエスが救い出して下さる、と言いましょう

マタイ9:14~17 新しい皮袋

1、断食すべきだ

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マタイ9:14)

 バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスのもとにやって来て、十二弟子たちを批判しました。主イエスに対する批判のつもりで弟子たちの生き方を非難したのです。

 宗教家ならば断食するのは常識だ。なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか。バプテスマのヨハネよりもイエスのほうが有名になったので、バプテスマのヨハネの弟子たちが嫉妬心にかられて抗議したのでしょう。本来は敵対関係にあるパリサイ人を自分の仲間とみなしているのは驚きです。敵の敵は仲間になるのです。

 当時パリサイ人たちは月曜と木曜に断食していました。(ルカ18:12)自分たちが高い宗教性を持っていることをひけらかしていました。主イエスは山上の垂訓で、断食の偽善性を批判したのは(マタイ6:16~18)、まさに、こういう種類の断食の事でした。



2、花婿と花婿の友人

イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。(マタイ9:15)

なぜ断食しないのかという質問への答えがこれでした。主イエスは花婿であり、十二弟子たちは花婿の友人に当たります。だから結婚式で断食するなどありえないのです。
ただし、花婿が死んだときには、断食すると述べました。これは、十字架の死を暗示しています。

実は、主イエスの出現によりバプテスマのヨハネの人気が陰り、バプテスマのヨハネの弟子たちが心配している様子がヨハネ3章に記録されています。主イエスを花婿にたとえ、自分を花婿の友人の立場に置いたのはバプテスマのヨハネでした。バプテスマの弟子たちに、彼らの先生の言葉を思い出させているようです。

「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29~30)

 私たちが親友の結婚式に出席し、親友の横に立っている場面を想像して下さい。花婿の喜びは友人の喜びになります。私たちの最も大切な友人であるイエスさまの結婚式に招かれて、私たちが花婿の喜ぶ姿を自分のことのように喜ぶ。これが、主イエスを信じた人の心の底に流れている喜びです。



3、新しい皮袋

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16~17)

 16節と17節の意味は同じです。繰り返して強調しています。古い洋服が裂けた時、新しい布でつぎあてをすると、新しい布が強いので引き伸ばされた瞬間に古い生地が裂けてしまいます。
同じように、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、発酵して膨張するので古い皮袋はその圧力に耐えられなくなり破裂します。

イエスさまを信じて変えられた心は、新しい布のようなもので、力があります。また、イエスさまを信じた私たちの心は、新しいぶどう酒のようで、新鮮で、ふくらむ力を持っています。

ですから、律法的な生き方、伝統や習慣や世間に合わせる生き方は似合いません。外見だけ飾る空しい生き方は無用です。否定的で、後ろ向きの口癖も過去のものです。

イエスさまを信じた人は、内面が変わり、親友の結婚式のような喜びが生まれ、最終的には、実際の生き方が変わります。新しいぶどう酒を入れるにふさわしい新しい皮袋が身についていきます。

「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

休暇で私たち夫婦は先週ドイツを旅してきました。ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルクの教会に95か条の質問状を掲げた教会を訪れ、深い感動を受けました。ルターはその町の大学で、29歳から34歳まで、約5年間、詩篇やローマ書などを講義しました。その中で、人間の努力や苦行によって神の義を獲得することはできず、主イエスの十字架によって与えられる神の義が人を救うことを聖書から確信しました。聖書に反した行為、特に、当時教会で行われていた免罪符などに反対しました。
その結果、カトリック教会から破門され、命の危険にさらされ、1521年、ヴァルトブルク城にかくまわれ、10週間で新約聖書をドイツ語に翻訳しました。(その部屋を見た時は強い感動を受けました)聖書と言えば当時はラテン語聖書だけしか無く、民衆は読めませんでした。また、修道士は結婚を禁止されていましたがルターは修道女と結婚、3男3女をもうけ、温かい家庭を作りました。また、礼拝ではラテン語の賛美歌を聴くだけの聴衆でしたが、ルターみずから歌詞を作り、リュートも演奏し、作曲もし、民衆が歌える讃美歌を礼拝に取り入れました。
ルターは、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れた人でした。

主イエスを信じ、主イエスにもらった新しい命が私たちの内で始まったのですから、私たちの外側、生活スタイルも自然と変わっていきます。
あなたの新しい皮袋とは何でしょう。新しく始めたい生活スタイルは何でしょう。正直さ、温かさ、平和、くじけない心、赦す姿勢など、あなたの新し皮袋があるはずです。

  →あなたの番です
   □親友の結婚式に出席している喜びが心にある
□内面の変化が外面の変化を生む
□新しい生活スタイルを始めてみる