マタイ27:57~66  アリマタヤのヨセフのイースター


 ハッピー・イースター。アメリカの良い点は、スーパーのレジ係りも、飛行機の乗客も、「ハッピー・イースター」と挨拶することです。主はよみがえりました!ハレルヤ。
 今日は、アリマタヤのヨセフの姿を通してイースターを考えましょう。

1、よみがえりを<予測>した人々

さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」(マタイ27:62~65)

 主イエスは死んで三日目によみがえる。主イエスは弟子たちにそう予告しました。でも、主イエスの予告を真剣に受け取ったのは、皮肉なことに、主イエスの敵である祭司長や律法学者たちでした。十二弟子が主イエスの遺体を盗んで復活をでっちあげる危険があると、祭司長らはピラトに警告し、墓の厳重な守りを依頼しました。

 一方、弟子たちは誰ひとり復活を信じていませんでした。イースターの朝、よみがえった主イエスに会った女たち戻ってきても、「たわごと」(ルカ24:11)だと相手にしませんでした。

 主イエスのよみがえりは、誰も期待していない中で、誰も復活を信じない中で起きました。不信やあきらめや悪意の中であっても、神はみわざは行われるのです。
 あなたを取り囲む環境は、否定的で無神論的で人間の醜さばかり見える世界かもしれませんが、神が何かをしようと思われるなら何の障害にもなりません。イースターは、神が、神のみわざを、神の時に行われるという偉大な宣言なのです。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)


2、アリマタヤのヨセフ

アリマタヤのヨセフについて3つの質問をします。以下の箇所を読んだり、4つの福音書を読んで一緒に考えて下さい。

夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。(マタイ27:57~60)


1)ヨセフはどんな人ですか。

ヨセフの出身地、生活の基盤は、エルサレム北部の丘陵地にあったアリマタヤでした。ヨセフという名は珍しい名ではありませんが、「アリマタヤのヨセフ」というだけで通じるほどの資産家、豪商、あるいは、著名なビジネスパーソンだったのでしょう。
2000年前のイスラエルは、政治行政と裁判所を兼ねるサンヘドリンという70人議会によって治められ、「祭司長たちも律法学者、長老たち」(マタイ27:41)という3つの階級で構成されていました。ヨセフは市民階級を代表する「長老」の立場で「有力な議員」(マルコ15:43)として名を連ねていました。ルカの福音書ルカ23:50を見ると、「りっぱな、正しい人」と呼ばれる人格者でした。その彼が、主イエスを信じたのです。


2)ヨセフが自分の墓を提供しなかったらどうなりましたか。

身寄りのない人が死んだ場合は共同墓地に埋葬されていました。でも犯罪者の場合、それも、極刑の十字架刑で死んだ者は、エルサレム城壁外のヒノムの谷のゴミ捨て場に捨てられていたのかもしれません。夜になれば野獣の餌食、昼間なら猛禽類が舞い降りたことでしょう。もし、ヨセフの新しい墓に主イエスが埋葬されなければ、主イエスがよみがえられたという有力な証拠の一つ、空の墓、という要素を失うことになったのです。


3)ヨセフが思い切って遺体の下げ渡しを申し出たのはなぜですか。

 一言でいうと、魂がふるえるほどの経験をしたからです。

ヨハネ19:38によると、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」でした。恐れがありました。積み上げてきた経歴と名声を失いたくなかったのです。

以下は私の推測です。ヨセフはイエスの教えを聞き、奇跡の場面にいて、個人的にも話した。やがてヨセフは主イエスを救い主として信じ、クリスチャンになった。当時はクリスチャンという用語がなかったので、「弟子」と呼ばれていました。

自分の墓をエルサレム郊外に買い求めた事から、ヨセフは年長者であったと思われますが、自分の息子ほどの年齢の主イエスを神の子として信じるほど心の柔らかな人でした。

 ヨセフは、主イエスの死刑を決める裁判に同席しました。主イエスが鞭打たれ、十字架に付けられ、息を引き取られるまでを、一番近くで見ていた蓋然性があります。
 ヨセフは、主イエスの裁判の段取りが不当であると述べました。偽証を聞き、煮えくり返る気持ちでいたことでしょう。そして、心の中でこう叫んでいたのでしょう。<主イエスよ、今までパリサイ人を蹴散らしてきたように見事に論破して下さい。あの時見せて下さった奇跡のわざをここで行い、祭司長たちを黙らせてください。天の軍勢を呼び寄せて、兵士たちを滅ぼして下さい。あなたはおできになるのです>

 ところが、目の前におられる主イエスは、黙ったまま、殴られるがままでした。イエスが祭司長の罠にはまって苦しめられているのではなく、十字架への道を自ら進んで、死のうとしていると、ヨセフは徐々に気づいたのかもしれません。イザヤ書53章にある預言通りに事が進んでいました。
 十字架刑の総監督者の百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」と告白しました。完了した」主イエスが死なれる姿を見て、魂が震えたことでしょう。主イエスは、臆病なヨセフのためにも死んで下さいました。ヨセフは考えたことでしょう。経歴や名声が何になろう。この方のためなら、何でもしようと心に決めたのでしょう。

 最近数年の間、NHKのドラマでクリスチャンの主人公が登場しています。新島八重、村岡花子、黒田官兵衛、「マッサン」のエリー。彼らは名声を得る中で、あるいは後に、主イエスを救い主と信じました。彼らは日本版のアリマタヤのヨセフです。

 私は、日本人弁護士でクリスチャンの方を昔から知っています。彼は、ある法律分野で著名な専門家で大学でも教え、弁護士会の会長もされました。クリスチャンだという一点だけを除けば申し分ないのだが、と周囲の人は評価するそうです。立派です。現代のアリマタヤのヨセフです。

 あなたの番です。あなたがアメリカでの駐在期間を終えて、日本に戻ったときに上司が「アメリカはどうだったかね。まさか、アメリカでクリスチャンになったなどという冗談は言わんでくれ」と言ったとしたらどうしますか。

 主イエスは、よみがえらえました。今も生きておられます。主イエスを恥じることなく生きましょう。復活の力と命は、信じる私たちのうちに力強く働いています。

「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイ28:6)

この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
(マタイ27:58)

 →あなたの番です
  □あなたの状態に関係なく、主イエスはみわざを行われます
  □ヨセフのように自分にできる方法で主の愛に報いましょう


使徒8:26~40 人と関わる賜物  ―ピリポの4ステップ―


 人と関わる賜物について考えてみましょう。特に、人を主イエスに導く伝道の賜物と聖書を教え育てる賜物を取り上げます。伝道の賜物はエペソ4:11に、教える賜物はローマ12:7に書かれてあります。
 
 使徒8章に登場するピリポは、伝道の賜物と聖書を教えてクリスチャンの信仰を育てる賜物を持っていました。彼は、4つの事をしました。①御霊に従い、②自分から近づき、③質問し、④主イエスを伝えました。


1、御霊の導きに従う

ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)(使徒8:26)
 
 ピリポはエルサレム教会の役員で(使徒6:5)、ギリシャ語を使うやもめたちへの食料配給に携わった地味な人でした。迫害で散らされてサマリヤにたどり着くと、ピリポは伝道者として、また、聖書を教える人として爆発的に用いられました。(使徒8:5~8)賜物は、環境が変わったり役目が変わると開花することがあります。

 天使はピリポにガザに行くよう指示しました。サマリヤから直線距離で80マイル南西にある海岸近くにあったガザにはアフリカ方面への幹線道路が通っていました。

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。(29~30節)

 ピリポは、第1に、御霊の導きに従い移動しました。今日も、御霊はあなたの関心を誰かに向けてくれます。

2、自分から近づく

 第2に、ピリポは、エチオピアの宦官の馬車に近づきました。
 御霊の語り掛けに従い、ピリポは走り出し、馬車と伴走しました。誰が乗っているのか知らないまま近づきました。すると、イザヤ書を読んでいる声が聞こえました。神を求めている人が乗っていると確信したことでしょう。

3、質問する

 第3に、ピリポは、質問しました。「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」とても的を得た質問でした。
 本当に教え上手な人は、質問が上手です。主イエスは、質問の名手だったことを思い出して下さい。良い質問は、相手を深い理解に導き入れます。

すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」(31~34節)

 馬車に乗っていたのは、エチオピア女王に仕える財務大臣のような役人でした。その宦官は、エチオピア人でありながらユダヤ人の神を求め、エルサレムの神殿で礼拝して帰る途中だった求道者です。イザヤ書53章を読んでいて、その中に出てきた「彼」が誰なのかを考えあぐねていたので、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答えました。宦官の聖書は、ヘブル語旧約聖書からギリシア語に翻訳した70人訳聖書だったと思われます。この聖書は当時とても高価でした。ピリポはギリシア人のやもめを助けた人で、当時の国際共通語ギリシア語を解するバイリンガルでした。

4、主イエスを紹介する

 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」(35~36節)

 ピリポが単なる聖書オタクなら、知識を披歴しただけで終わります。でも、ピリポは違いました。第4に、ピリポは、まっすぐに主イエスのことを語りました。伝道の賜物や人を教え育てる賜物を与えられた人は、主イエスさまを指し示す人です。ピリポはイザヤ書に書いてあるのは主イエスのことだと教えました。さらに、主イエスの十字架と復活を語ったことでしょう。すると宦官は、主イエスへの信仰を表明し、自分からバプテスマを受けたいと申し出て、ピリポはその場で宦官に洗礼を授けました。

 あなたのそばに現代のエチオピアの宦官がいます。それは、誰でしょう。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」「どうか教えてください」と叫んでいます。

 大学の研究職に就いていた28歳の男性が、学内の学者と知り合いになりました。その学者は、学識が深く、人格も魅力的で、会って話すことが楽しくなりました。学者はカトリックのクリスチャンで、神について、主イエスについて、一生懸命に教えてくれました。28歳の男性は徹底した無神論者でしたが、31歳の時に神の存在を認めるようになりました。33歳の時、深夜に及ぶ真剣な語らいなどを通じて、主イエスを救い主と信じ、礼拝に通うようになりました。熱心に神を教えた人物は、『指輪物語』で知られるJ・R・R・トールキン。無神論者からクリスチャンになったのが、後に『ナルニア国物語』の著者となる、C・S・ルイスです。二人はオックスフォード大学内で知り合い、ルイスは1931年9月に主イエスを信じました。
 あなたの隣りに未来のC・S・ルイスがいます。

伝道の賜物や人を教える賜物はないと思う人がいます。たぶん、多くの人がそう思うでしょう。でも、この分野は、賜物のあるなしに関係なく、必要が生じたら誰でもが用いられることになります。ルカ12:12で、聖霊が語るべきことばを必ず与えてくれるという約束があるので、勇気を持って語りましょう。また、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(第1コリント3:6)とあるように、人を育てるのは神なので、賜物のあるなしに関係なく、安心して人を育ててください。

あなたは、主から、伝道の賜物や人を教え育てる賜物をもらっていますか。そうならば、御霊に導かれ、自分から誰かの所に出て行き、質問し、主イエスを伝え、信仰の決断に導き、育てて下さい。

 →あなたの番です
  □御霊の導きに従い、誰かの所に出て行き、質問しましょう
  □主イエスを紹介しましょう


出エジプト31:1~11 神をたたえるクリエイティブな賜物


 私たちの教会の今年のテーマは「賜物を生かして主に仕える」です。それで、4回にわたって、神が与えて下さった賜物について考えてみます。
 第1回目の今日は、クエイティブな賜物を取り上げます。


1、ベツァルエル

主はモーセに告げて仰せられた。「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。(出エジプト31:1~5)

 幕屋建設のため、主ご自身がベツァルエルを総監督に任命されました。「ベツァルエルを名ざして召し」とあります。神は誰にデザインやアートの賜物を与えたのかを知っておられます。また、その賜物を持った人物に活躍してもらうタイミングを知っておらます。主に必要とされる時が、賜物を発揮する時です。
ベツァルエルは恐れと喜びを感じたことでしょう。人類史上一度も作られたことのない移動式神殿を作る責任者に選ばれたのです。でも、一人でするのではありません。「神の霊を満たした」とあります。デザインする時と、制作するプロセスの両方の期間に主の霊が導いてくれます。つまり、計画段階でデザインする時、また、実際の作業を行う時の技術面においても、主の助けがあるのです。

すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」(7~11節)

ベツァルエルは、建築、彫刻、絵画、インテリアデザイン、ファッションデザイン、ジュエリーデザイン、インダストリアルデザイン、香水の調合などを手掛けたことになります。余談ですが、イスラエルにはベツァルエル美術大学がありますがベツァルエルの名が付けられている理由が分かりますね。

絵画、彫刻、版画、デザイン、建築、書道、文章、詩作、俳句、陶芸、お花、写真、web デザイン、映画、ラップ、編集など、クリエイティブな賜物を主から頂いていますか。それを、主の栄光のために用いましょう。
主はクリエイティブな賜物を誰に与えたかを知っておられ、あなたの名を呼んでおられます。与えられた機会に、与えられた賜物で応答しましょう。
                            



3、アサフ、ヘマン、エドトン

 また、歌うたいであるレビ人全員も、すなわち、アサフもヘマンもエドトンも彼らの子らも彼らの兄弟たちも、白亜麻布を身にまとい、シンバル、十弦の琴および立琴を手にして、祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにいて、ラッパを吹き鳴らしていた。――ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。(第2歴代5:12~14)

 ソロモンの神殿が完成した時に、アサフ、ヘマン、エドトンらの賛美リーダーとレビ人の聖歌隊とオーケストラが主への賛美を演奏しました。その時、「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ」とあります。
 「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と賛美しました、神殿奉献式に歌ったのは、神の愛でした。神の愛こそたたえるべき中心テーマなのです。
 「主に向かって賛美した」とあります。通常の音楽は、コンサート会場の人に向けて演奏され、人々は演奏者をたたえます。この箇所では、演奏者たちは会衆にではなく、神に向けて賛美します。神を賛美するための音楽だからです。その結果何が起きましたか。神の栄光が表れ、祭司たちがその場に立っていられないほどの主の栄光に圧倒されたのです。

アサフ、ヘマン、エドトンの3人は、ダビデ王の時代に任命されたレビ人の音楽家です。(第1歴代25:1)アサフはレビ人の筆頭賛美リーダーであり、作詞も行いました。詩篇73~83は彼が作った詩篇です。
エドトンは、十弦の竪琴や竪琴、シンバルなどの器楽オーケストラの指揮者で、作曲も行っていたようです。詩篇39、62、77篇表題を見るとそれが分かります。

第一歴代誌25:6~7を見ると、アサフ、エドトン、ヘマンが、「主にささげる歌の訓練を受けた」とあり、「彼らはみな達人であった」と書かれています。アーティステックな賜物は、表に見える華やかな部分だけでなく、人には見えない隠れた努力や血のにじむような訓練があることを忘れてはいけません。

賛美の賜物は、主の素晴らしさをたたえるために与えられました。ですから、礼拝の場で用いましょう。賛美リーダーたちは、礼拝者たちの心を励まし、主を見上げる助けをします。神への純粋な賛美は、それだけでなく、人の心に深い感動を与えるので、伝道としても用いられます。

音楽家バッハは敬虔なクリスチャンでした。ライプツィヒ時代の初期数年間は、礼拝テーマに合わせた教会カンタータを毎日曜ごとに作曲し演奏しています。バッハは、楽譜の冒頭に「JJ」と書き入れ、作曲が終わるとSDGと書き入れました。JJとは、Jesu juva!(ラテン語で、イエスよ、助けたまえの意味)、SDGとは、Soli Deo Gloria(神のみに栄光あれ)という意味です。バッハは、音楽の目的は第一は神に栄光を帰すことだと知っていたのです。

クリエイティブな賜物とは音楽や芸術に秀でた人だけのものではありません。毎日工場で働きながら、作業工程を改善することは、クリエイティブな賜物を職場に生かすことになります。家事・育児で毎日追われるような生活をしている主婦が、自分の役割を見つめ直すと、やり方が変わります。それもクリエイティブな賜物を生かすことです。

さあ、現代のベツァルエルたち、また、アサフやエドトン、あなたに与えられた賜物が用いられる時です。

ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。(出エジプト31:2~3)

指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌
私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。
私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。(詩篇77:1)

→あなたの番です
□主から与えられたクリエイティブな賜物を用いよう
□輝きとひらめきは主から来る
□鍛錬を忘れない

創世記26:1~35 父の足跡をたどる


 「最近、お父さんに似てきたね」、「お母さんとそっくりだね」と言われませんか。顔立ちだけでなく、体型、しぐさ、言い方も、知らず知らずに似てくるものです。

父の足跡をたどる。創世記26章はそんな気持ちにさせてくれます。

1、神との出会いの中で

主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」(創世記26:2~5)

父が死んでもなお神を信じて歩んだ息子の存在なしに、神とイサクの邂逅はありえません。また、変わらない神がおられたゆえの出会いです。
創世記12:1~3、15:5を見て分かるように、神がイサクに語られた内容は、アブラハムに語られたとそっくり同じです。

「これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである」と神は言われました。イサクは、父の信仰者としての足跡に出会いました。


2、同じ弱さ

アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのだ。もう少しで、民のひとりがあなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」(10節)

飢饉で苦しんだイサクは、ペリシテ人の王アビメレクの許可を得て領内に身を避けましたが、妻のリベカを妹と偽ったので王の部下がリベカを妻にするところでした。創世記20章で、イサクの父アブラハムはまったく同じ失敗をしていました。イサクは無自覚でしたが、父の弱さを引き継いでいた事が分かります。

あなたも、父と同じ弱さを持っていますか。母親と同じ欠点を持っていますか。私たちは、父や母の弱さや欠点を引き継ぐものです。それが事実なら、両親の長所や強さを必ずもらっているはずです。

シンガーソングライター馬場俊英の『右と左の補助輪』という歌は、子供を愛す親の気持ちを表した歌です。弱さや不完全さを持った子供を、親は無条件に受け入れ、愛すと歌います。補助輪なしで初めて自転車に乗った子の背中を見て涙が出たと歌います。自分が死んだ後もお前の光になって照らしてやりたいと歌います。
こうした親の心を私たちは忘れています。自分が子供であったとき、親から無条件の愛で受け入れられていました。自分が親になった時は、子供を誰よりも応援し、誰よりも誇りに思う親になっているはずです。

神は、アビメレクを通してきちんとイサクの非を叱りますが、見捨てません。同じように、神は私たちの弱さや失敗を知っていますが拒絶しません。弱虫でも、挫折しても、そのまま抱きしめてくれるのが神です。見て下さい、みっともない失敗をしたイサクを神は100倍の祝福で満たして下さいました。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。(12~13節)

自分はダメな人間だとか、生きて行く価値のない存在だと言わないでください。今も、神の愛と祝福はあなたをおおっています。


3、父の業績と信仰

 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」(13~16節)

アビメレク王とペリシテ人はイサクをねたみ、井戸の取り合いが起き、アブラハムの掘った井戸は埋められ、領地から追い出されました。イサクは苦労しながらも、どこに行っても父の掘った井戸があることに気づきます。父さんはすごいな。イサクは父アブラハムの業績に改めて感心したはずです。

やがてパレスチナの南端ベエル・シェバにイサクは移動し、井戸も確保できて一息ついた頃、再び主はイサクに現れて下さいました。

主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」(24節)

イサクの父アブラハムの神であられた神が、今、息子イサクに声をかけて下さっています。具体的な生活において、恐れる必要はなくなったのです。弱さがあり、失敗したイサクであっても、神は共におられます。大収穫と家畜の増加に見られるように、神は祝福して下さいました。イサクに生まれる子供と子孫が増えるという約束も頂きました。それらは、すべて、父親アブラハムが神のしもべとして忠実に歩んだ信仰ゆえでした。

26~33節を読むと、喧嘩別れしたアビメレクが、イサクと友好同盟・平和条約を結びたいと申し出たことが書いてあります。驚くべきことです。アビメレクは、「主があなたとともにおられることを、はっきり見た」(28節)と述べ、「あなたは今、主に祝福されています」(29節)と証言しています。神の祝福は、第三者から明確に見えるのです。

 イサクは実感したことでしょう。自分が神の約束をもらえたことや、祝福をもらっていることは、自分の努力だけではない、先に父が主と共に歩いてくれたからだと。

そうです。私たちも、両親の愛と犠牲なしにここにいません。また、信仰を持った父と母がいるなら、両親の祈りと具体的な助けと愛がなければ今のあなたはないのです。

1933年、21歳で来日したドイツ人の神父、グスタフ・フォス(1912-1990)は、後に栄光学園という私立学校の校長になり長年日本で働き、『日本の父へ』という彼の本に以下のようなエピソードを載せています。
1965年、フォス神父は故国を出て実に32年ぶりにドイツに帰り、様々な仕事を済ませた後、実家のそばのカトリック教会を訪れ、彼のお父さんと交流の深かった地元の神父と会いました。教会の裏手にあったフォスのお父さんの墓の前で、その老神父は彼にこう言いました。
あなたが日本で立派な仕事をしていると聞いています。すばらしいことです。でも、それがどれほどお父さんのおかげをこうむっているか知っていますか。あなたのお父さんは偉かった。息子のお前に会いたくてたまらないと、時折私にもらしていました。いつかあなたに会えるだろうと死ぬ日まで思っていましたが、それもかなわなかった。父である自分が犠牲を払うことで息子を支えたい、そして、祈りによってあなたを助けたいと口癖のように言っていました。あなたのお父さんは本当に立派な人でした。あなたは精一杯やってきたけれど、あなたの力は、お父さんの力でもあることを忘れてはいけない。
グスタフ・フォス神父は当時50歳を過ぎていましたが、お父さんの墓の前で涙を止めることができませんでした。

イサクは、父アブラハムの労働、犠牲、信仰、祈りのゆえに神の祝福を受けました。
私たちも、父の労苦、母の愛に支えられ、親の祈りによって、今日、ここにあります。もし健在なら、手紙を書いたり、電話をしたり、直に話して父と母に感謝を表しましょう。そして、変わることのない神の守りに感謝し、神を賛美しましょう。

「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」(24節)

→あなたの番です
 □父の犠牲、母の愛のゆえ、今の自分があることを感謝する  
□欠点や弱さがあっても、私たちは神に愛されている
  □私たちも、祝福を次世代に伝える人になる