第1サムエル31:1~13 サウル死す


 誰も避けられない死について考えましょう。

1、サウル死す

ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。(第1サムエル31:1~3)

 パレスチナ北部が戦場となり、イスラエル軍はペリシテ軍の総攻撃を受けて逃げ出しました。ダビデの親友ヨナタンも、サウルの他の2人の息子も戦死しました。その後、ペリシテ軍の攻撃はサウルに集中し、サウルは何本も矢を受けて手ひどい傷を負いました。
 戦いの前夜、サウルも息子たちも戦死するとサムエルから予告されていました(第1サムエル28:19)が、サウルは逃げませんでした。そこにサウルの勇気と諦観が感じられます。
 死は誰も避けられません。ですが、死のリアリティーを感じて生きる人はまれです。

 サウルは状況を判断し、道具持ちに自分を刺し殺すように命じましたが願いはかなわず、自らの剣を抜きその上に倒れこんで最期を遂げました。(4節)
 イスラエル軍は、被害を広げながら、散り散りに逃げ、ペリシテ人がイスラエルの領地を奪いました。(7節)

 「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれより、肩から上だけ高かった。」(第1サムエル9:2)とサウルは若き日に鮮烈なデビューを飾り、イスラエル初代の王となった可能性に満ちた人物でした。主の霊が下り力を発揮した時期もありましたが、アマレク人との戦いで主にそむき、ダビデに嫉妬し、世間体だけを取り繕う王となり、結局主はサウルから離れました。サウルは、主に耳を傾けることのできない人、チャンスを与えられてもやり直すことのできない人でした。
 
 死ぬのなら、元気に生きてある日突然に死にたい。いわゆる、ピンピンコロリ型の最期を望む人が多いですが、今日死んでもいいかというと準備はできてないわけです。
 それなら、いつ死んでも良いという環境を整えるというのも一つの生き方ですね。死ぬという現実を真面目に考えてみませんか。元気なうちに、考えませんか。
 サウルの死は不本意なものですた。不本意な死にしないため、今日を問い直してみましょう。


2、ヤベシュ・ギルアデの人々

 翌日、戦利品を奪うためペリシテ人が戦場を歩き回り、サウルと3人の息子を発見。来ていた武具はアシュタロテの宮に奉納し、サウルは首を切られ、遺体はベテ・シャンの城壁にさらされました。(8~10節)

 ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した。(11~13節)

 ヨルダン川東部の町、ヤベシュ・ギルアデの人々はサウルの恩を忘れませんでした。11章の記録によると、ヤベシュ・ギルアデの人々はアモン人から脅迫され、全員の右目をえぐり取られるところを、サウルによって助けられました。ですから、サウルの遺体がさらされたと聞くと、居ても立っても居られず夜通し歩いてベテ・シャンまで行きました。ベテ・シャンは、ヨルダン川の西数マイルの地点にあり、ヤベシュ・ギルアデから10マイル程度の町です。敵の占領下にある土地に行く危険を犯してもサウルの遺骸を取りおろして、丁重に葬り断食しました。

 31章では、その壮絶な戦いぶりによりによりサウルの名誉がたたえられ、ヤベシュ・ギルアデの人々の行為にによりサウルの功績が称賛されました。


3、主イエスを信じる者の死

 私たちは、自分の葬儀で語られる称賛の言葉を聞くことはできません。それ以上にすばらしい祝福を経験することになります。イエスと共なる死はただの死で終わりません。主イエスが死に打ち勝った勝利者だからです。

 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第1コリント15:51~52)

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)


 →あなたの番です
 □誰にでも訪れる死を、自分の死として考えてみよう
 □恩を忘れずに生きよう
 □悔いなき人生を送ろう

 

 

ルカ2:1~7 住民登録とクリスマス



 クリスマスは特別の日です。

1、主イエスは、歴史上の人物

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。(ルカ2:1~2)

 センサス。それはアメリカの国勢調査の名称ですが、もともとはローマ帝国で行われた人口調査でした。ルカ2:1の英語の聖書を読むと、センサスが行われたと書いてあります。皇帝アウグストは住民登録を3回実施したことが知られており、ルカの記述は紀元前8年のセンサスの一環だと推測できます。こうした記述は、主イエスが歴史的な人物であったことを教えてくれます。
 
 聖書以外の文書にも主イエスについての記述があります。たとえば、1世紀のユダヤ人歴史家のヨセフスが書いた『ユダヤ古代誌』には次のような部分があります。

 「さてこのころ、イエスという賢人―実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならばーが現れた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。」

 ローマの歴史家タキトゥスの紀元115年の記録には次のような文章があります。

 キリストなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当時は、この有害きわまりない迷信も一時しずまっていたのだが、最近になってふたたび、悪の発生地ユダヤのみならず、世界からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れこんでもてはやされるこの都においてすら、猛威をふるっているのである。

 ユダヤ人が権威を置く『タルムード』には2世紀の『ミシュナ』が含まれており、主イエスについての記録もあります。もちろん批判的に書いてあります。イエスは魔術によって病気をいやし、奇跡を行った人物であり、イエスは教師であり、弟子を持った異端で詐欺師という内容です。不思議なことに、いやしや奇跡は否定できませんでした。

 神である方が人となられたクリスマスが、皇帝アウグストによる人口調査と時期が重なりました。それで、主イエスの歴史性が確認されます。ここに主の御手を見ることができます。


2、主イエスは、預言を成就した方

 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。(3~5節)
 
 センサスには強制力がありました。日本風に言えば、戸籍上の本籍地で登録せよという命令です。それで、ヨセフは実家のあったベツレヘムへに臨月のマリアを連れて出かけました。二人の現住所はガリラヤのナザレだったので、直線距離でも70マイル離れていました。山また山の連続の道なので、二人は難儀したことでしょう。
 ヨセフたちが暮らしていたナザレは旧約聖書に登場しない小さな村でした。ジェームズ・ストレンジ博士によると、1世紀のナザレの人口は最大480人程度だったといいます。
 
 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」(ミカ5:2)

 旧約の預言者ミカは、主イエス誕生の700年前に、救い主がベツレヘムで生まれると預言しており、主イエス誕生時の律法学者もこの預言をしっかりと把握していました。(マタイ2:4~6)ヨセフは、自分たちがベツレヘムに滞在している事実を、ローマ帝国の横暴と考えたかもしれません。けれども神の時計に狂いはなく、救い主が生まれると預言されていた場所でマリヤは男の子を出産することになったのです。

 主イエスは、旧約時代の預言者が予告したとおりにベツレヘムで生まれ、ダビデの子として生を受けたのです。

 ルイス・ラピディスはユダヤ人で、幼い頃からキリスト教を毛嫌いしていました。ルイスは、ベトナム戦争に参加し戦争の悲惨さを体験、以後は東洋宗教に引かれ、麻薬におぼれる生活になりました。カリフォルニアに戻った1969年、クリスチャンと議論し、「俺はユダヤ人なんだ。イエスなんか信じられるか」と反発すると、旧約聖書に救い主が預言されていることは知っているかと聞かれ、今まで聞いたことがないと答えると、聖書を調べてごらんと聖書を渡されて、その日から旧約聖書を読み始めました。すると、救い主についての預言を何か所も見つけました。救い主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれる。ベツレヘムで生まれる。救い主は裏切られ、偽証で告発される。手と足を刺されて死ぬ。朽ちることなく天に上げられる。イザヤ53章を読んだ時は体が震えるほどでした。53章に書かれている救い主はイエスのことだと気づき愕然としました。最終的には50箇所近くの救い主の預言箇所を見出し、その預言がことごとく主イエスに合致していることが分かりました。
 恐る恐る新約聖書を読みは始めると、マタイの系図に出会い、主イエスがアブラハムの子孫でダビデの子孫だと分かりました。処女がみごもるというイザヤの預言にも合致しています。ベツレヘムで生まれたことはミカの預言に適合しました。ルイスは、イエスが旧約聖書が預言したメシア、救い主だと納得し、信じました。すると麻薬から解放され、心が新しくされ、後にはカリフォルニア州で牧師になりました。

 主イエスは、旧約聖書が預言した救い主です。


3、主イエスは、救い主

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(6~7節)

 住民登録のため、ベツレヘムの宿屋は満杯で、生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせる場所は家畜のえさ箱しかありませんでした。えさ箱に赤ちゃんを寝かせるのは、当時でも、まれなことでした。それで、天使が羊飼いに教えた救い主の目印は、飼葉おけにねている赤ちゃんでした。飼葉おけに寝かせられた主イエスは、人々に追いやられた姿に見えました。

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(11~12節)

 クリスマスは救い主イエスの誕生した日です。ベツレヘムで生まれ、飼葉おけに寝かされたこの赤ちゃんは成長し、やがて十字架にかかって私たちの罪を赦してくださる方となります。

 主イエスは、理想化された架空の人物ではなく、歴史上実在された方です。旧約聖書に預言されたとおりベツレヘムで生まれた方です。天使が知らせた救い主の目印が指し示すように、主イエスはまことの救い主です。

 今から50年も前の事です。ある家庭でクリスマスの朝、幼い男の子が大喜びで玄関から戻りました。「サンタさんに、ミニカーのセットをもらった」というのです。日本全体が貧しい時代で、夫婦には子供のおもちゃを買う財力もありませんでした。誰がプレゼントをくれたのかを調べてみると、新聞配達の大学生だと分かりました。新聞受けに、手紙が入っていて、「サンタさん、ミニカーセットを下さい。このうちです」と書いてあったというのです。

 世界の人々は皆、心の新聞受けにメモを入れ、「神さま私を助けて下さい。」と救いを求めているように私には思えます。一番親しい人を愛したいのに愛せません。赦したいのにゆるせません。悪い道を離れたいのにできません。自分で自分を救えません。私を助けて下さい。「このうちです。」と救い主を求めているはずです。

 クリスマスは、暗い世界に生きる私たちに希望を与える輝かしい日です。あなたの罪は主イエスによって完全に赦されます。まだ主イエスを信じていない人は、今日。主イエスを心にお迎えしましょう。すでに主イエスを信じている人は、心を込めて主を賛美し、「このうちです」と助けを求めている人の所に福音を届けましょう。


 →あなたの番です
 □主イエスは歴史上の人物です
 □主イエスは、預言者が予告したとおりベツレヘムで生まれました
 □飼葉おけは救い主の印です


第1サムエル30:1~31 追撃


 指導者の真価が問われるのは、大敗北と大勝利の時です。

1、焼き払われた住まい

ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。(第1サムエル30:1~2)

 ダビデ達が北部の戦場から帰還すると、住まいは焼き払われた後だった。妻も子も連れ去られており、死骸は見当たらなかった。「ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」(4節)やがてダビデの部下たちはダビデを逆恨みし、ダビデを殺そうとした。

ダビデは窮地に立っていた。冷静さを失った部下たちと亀裂が生じた。あなたは、今、ダビデのような立場にいますか。それならば、ダビデを見習おう。

ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」(6~8節)

ダビデは主によって奮い立った。信仰者ダビデがよみがえった。ダビデは主に祈り、主に道を尋ねた。祭司を通じて主に尋ねた。追うべきですか、追いつけますか。主の答は、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」だった。
この部分の英語訳は、主語が明瞭で、行動の主体性が誰かを教えてくれる。Shall I pursue this raiding party? Will I overtake them?”私が追うべきかをダビデが尋ねている。困難が立ちはだかった時、私が決断しなければならない。他人ではなく、私だ。

ダビデの目のつけどころは見事で、ダビデを殺そうとした部下は敵ではなかった。敵はアマレク人であり、奪還作戦は無理だとするネガティブ思考だった。主は、ダビデを励まし、追え、必ず助け出せると教えて下さった。

1963年12月31日、その日は綾子さんにとって大切な締切の日でした。普通の主婦である綾子さんが長文の小説を書き終え、締切日ぎりぎりとなりましたが夫が郵便局から発送してくれました。プロの小説家も投稿する中で素人の主婦が小説を書いても朝日新聞の1000万円懸賞小説に入選するはずはないと、普通の人なら考えます。でも、三浦綾子さんは違いました。書きたいことがあったのです。書かずにはおられなかったのです。ダビデのように、行くべきだという内面の促しがあったのです。彼女の小説『氷点』は最優秀に選ばれ、新聞小説として公表され日本にブームを巻き起こしました。それ以後、三浦綾子さんはキリスト者として福音と信仰の価値を発信する作家となりました。

主に祈りましょう。主の導きをもらいましょう。私がすべきかどうかを尋ねましょう。そして、主に信頼して前に進みましょう。追撃しましょう。走り出しましょう。
「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」


2、主から受けたものだから

そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。(9節)

ダビデは追撃を開始しました。疲れた者200人は川を渡れずに、その場に残りました。400人は家族の行方を捜して、さらに南に進みました。
荒野での追撃は困難を極めます。風が砂を運び、足跡を消すからです。進んで行くと、アマレク人の奴隷のエジプト人と遭遇しました。主の助けです。その奴隷からアマレク人の居場所を突き止めました。(11~15節)アマレク人は勝利に浮かれ、祝宴の最中で無防備でした。

彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から、非常に多くの分捕り物を奪ったからである。そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりものがれおおせなかった。こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。(16~19節)

 ダビデたちは夕暮れ時を見計らい、奇襲攻撃をしかけ、アマレク人を打ち破りました。幸いなことに、妻や子は無事で、奪われた家畜も取り戻せました。一同は胸をなでおろしたでしょう。アマレク人からの多くの分捕り物を土産にして帰る途中、疲れきって動けなかった200人と川で再会すると、仲間割れが起きました。

そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」 その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。(22~25節)

 ダビデの視点は普通と違いました。「主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。」働かざるもの食うべからずではなく、働けるのも主の恵みなのだ。留守を預かる者にも主の恵みが注がれている。主が恵んで下さった物なのでみんなで分ける。それが、ダビデの考えであり、その後の基本方針となりました。

 日本のボンクラ亭主は、次のように言いう人が多い。「金を稼いでいるのは俺だ。お前は家で三食昼寝付で優雅なご身分だ。俺は外で身を粉にして働いているのだから、俺は好きなことが許される。」さて、幼児と赤ちゃん2人を抱えた妻の仕事を1週間でも代わってみれば、どんなに過酷な仕事なのかが理解できるでしょう。
 ある専門家は、専業主婦の仕事を外注して、その費用を計算すると年間1280万円になると言いました。ベビーシッター、掃除人、買い出し係り、学校への送迎運転手、家庭教師、カウンセラー、料理人、洗濯請負人、施設管理者を一人でこなしているのです。
 カリフォルニアの法律では、離婚する時に財産は夫婦で均等に2分割されます。二人で造った財産だから、そう理解するのです。

 ダビデは、仲間で分捕り者を分けただけでなく、ユダの町々に贈り物を届けました。その町の名前が26~31節に記録されています。その目的は、ダビデがペリシテ人の地から離れてユダヤ人の地域に戻るための布石でした。仮の生活に別れを告げる時だとダビデは悟ったのです。
ダビデは後にユダで王となりますが、ヘブロンに住むことに決めました。(第2サムエル5:1~5)贈り物を届けた町のリストにヘブロンが含まれていることに注目して下さい。

 ある5歳の男の子は、ピアノで「chopsticks」という曲だけが弾けました。ある日、お父さんと本物のピアノコンサートに出掛けたのですが、ふらふらとステージにあがり、ピアノが目に入ったのでchopsticksを弾きました。ステージの幕が開き、観客の視線を浴びて、びっくりして逃げようとすると、ピアニストが表れて、椅子に座って弾いてごらんとうながしました。恐る恐るchopsticksを引くと、ピアニストはそれに合わせて曲を弾き、後ろに控えていたオーケストラに目くばせして盛大な伴奏が付き拍手喝采を浴びました。

 ダビデの追撃努力も、神の目からみれば、子供が演奏する簡単な曲のようなものです。主の大きな守りと助けがあるので壮大な音楽となるのです。すべては神からの守りであり、神との連弾です。私たちが受けたものは、みんなで分けるべきものなのです。

 ダビデは心機一転、ユダに戻り、正々堂々と生きようと考えました。仮の姿はもういらない。主と共に歩もうと決めたのです。

「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

→あなたの番です
 □不可能に見えても、追撃しよう
 □分捕り物は主からのプレゼント、皆で分けよう
 □心機一転、やり直そう


第1サムエル29:1~11 敵軍のダビデ


 窮地に陥った時、あなたはどうしますか。

1、窮地に陥ったダビデ

さて、ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、あるいは千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュといっしょに、そのあとに続いた。(第1サムエル29:1~2)

 アフェクに集合したペリシテ軍の中に、ダビデとその部下がいた。ダビデはアキシュから厚い信任を受け、アキシュの護衛を担うよう命じられていた。(28:1~3)ダビデは綱渡りを続けていたが、ついに窮地に陥った。
 このままでは、ダビデはイスラエル兵と戦うことになる。ダビデはどんな気持ちで戦列にいたのだろう。あなたなら、この場をどう切り抜けるだろう。
ダビデが選べる道は4つある。①ペリシテ軍としてイスラエル兵と戦う、②途中でペリシテを裏切る、③和平工作をする、④逃亡する。

 ①ダビデがイスラエル兵の命を奪うなら、将来イスラエルの王となることは困難だ。イスラエル人はダビデを王として認めないだろう。
 ②ペリシテを裏切り、アキシュを含めたペリシテの領主の命を奪うなら、ダビデは一宿一飯の恩義に反することになる。恩人を殺すことになるからだ。
 ③ダビデが仲介者となって和平工作をし、両軍に平和条約結ばせる道もある。だが、これは机上の空論だ。ペリシテが優勢だし、サウルが従うはずはない。
 ④ダビデが途中で逃げたなら、イスラエルからもペリシテからも軽蔑される。ダビデは自己保身に走った姑息な男とレッテルを貼られ、放浪者となるしかない。

 サウルが霊媒に頼ろうとした同じ日に、ダビデも決戦を明日に控えて悶々としていたはずだ。嘘と残虐行為と不信仰を1年以上続けて来たので、ギリギリのタイムリミットを迎えてもダビデは自分で道を切り拓くことはできなかった。
 ダビデと今のあなたは似ていますか。

 
2、あわれみ深い主の助け

すると、ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人は何者ですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいて、彼が私のところに落ちのびて来て以来、今日まで、私は彼に何のあやまちも見つけなかった。」(3節)

 ペリシテの領主らがアキシュに猛烈に抗議したが、アキシュはダビデをかばった。

ペリシテの首領たちは、「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。」と強く主張し、この男こそが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と流行歌にまでなった強敵だと不信感を募らせた。(4~5節)

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちの、気に入らないことはしないでくれ。」(6~7節)

イスラエルとは戦いたくないしアキシュを裏切りたくないという抜き差しならならない状況を打破したのは、ダビデではなくペリシテ領主らの強い抗議だった。板ばさみになったアキシュが、苦渋の選択としてダビデに帰還を勧めたのです。主は何とあわれみ深い方でしょう。

 ダビデはアキシュの提案を心の底で歓迎したはずだが、見栄を張って自分の正当性を強く主張した。(8節)

「さあ、あなたは、いっしょに来たあなたの主君のしもべたちと、あしたの朝、早く起きなさい。朝早く起きて、明るくなったら出かけなさい。」そこで、ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。(10~11節)

アキシュは、「あなたの主君のしもべたちと、あしたの朝、早く起きなさい」(10節)と述べ、ダビデはサウル王に仕える者であり、ダビデの部下はサウルの兵士だとアキシュは暗に認めていた。このようにして、ダビデとイスラエル兵との戦いは回避された。

29章にダビデの祈りはない。主の導きを求める姿勢もない。虚勢だけが空回りしていた。そんなダビデに対してさえ主の御手が伸べられた。

ふり返ってみると私たちも同じような経験をしている。試練や困難を体験すると、私たちの信仰はガタガタの状態になる。嘘をついたり、冷淡になったり、短気になったり、祈りを止めたり、悪い手段を使ったりして悪あがきをする。自力で問題の打開は不可能になる。そんな時なのだ。私たちが主のあわれみ深さを体験するのは、

井深八重(1897~1987)は、同志社女子学校を卒業し、長崎で英語教師になった。衆議院議員の父を持ち、叔父は明治学院の総理という良い家柄に生まれた未来ある女性だった。22歳の時、顔に赤い斑点が現れ、医者に診察してもらうとハンセン病と診断された。戸籍を外され、堀清子と名前を変えて御殿場の専門施設に隔離された。重病患者の様子を見て、自分の未来を悲観し、眠れない夜を過ごした。ドルワール・ド・レゼー神父が笑顔で患者の世話をしており、やがて神父の手伝いをするようになった。3年後、八重の斑点が消え、診察してもらうと誤診が判明、自由の身となった。思わぬ展開に喜び、主のあわれみを感謝した。
けれども八重は考えた。そして、看護学校に入学し、施設に戻り、一生涯をハンセン病患者のためにささげた。彼女の墓碑銘は「一粒の麦」主イエスの言葉を自分の信条としていたのだ。

私たちには主のあわれみがどうしても必要だ。
キリエ・エレイソンという言葉を聞いたことがあると思う。「主よ、あわれんで下さい」という意味のギリシア語をラテン語的に発音したもので、カトリックのミサで使われる重要な祈祷文であり、賛美歌の歌詞だ。盲人のバルテマイや10人のらい病人も、あわれんで下さいと主イエスに懇願しました。

ダビデのように良い所が一つもなく、罪にまみれ、祈るの言葉もなく、大きな困難に巻き込まれ、自分で打開できないとき、主のあわれみが道を開いてくれます。
主のあわれみを求めましょう。あわれんで下さいと祈りましょう。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:16)


→あなたの番です
□主を忘れ、悪あがきしたことを悔い改める
□主のあわれみを謙虚に求める


第1サムエル28:1~25 袋小路のサウル


 人間はどんな時に占いに心引かれるのでしょう。

1、恐れに取り付かれたサウル

ペリシテ人が集まって、シュネムに来て陣を敷いたので、サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。(第1サムエル28:4~5)

サウルはペリシテ人による総攻撃を極度に恐れました。
なぜなら、ペリシテ人が北部から侵略し、背後を突かれた形となったからです。ペリシテ連合軍がシュネムに、サウル率いるイスラエル軍はシュネムより南にあるギルボアに陣を敷く形になりました。

それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、サウルは自分の家来たちに言った。「霊媒をする女を捜して来い。私がその女のところに行って、その女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」(6~7節)

サウルは主のみこころを尋ねました。けれども遅きに失したのです。サウルを選び、サウルを励まし、サウルに力を与え、サウルを叱責してきた主に向き合うことのなかったサウルを主は見限っていたのです。主に尋ねても、そこに主はおられなかったのです。それでサウルは霊媒の女を通して死んだ祭司サムエルを呼び出そうとしました。

人はどんな時に占いや霊媒師に頼るのでしょう。次の4つの場合です。①自分を知りたい時。②未来を知りたい時。③決断する時の安心が欲しい時。④成功や金という安易な幸福が欲しい時。まことの神を知っている人には占いも霊媒師も必要ありません。

 あなたは、おみくじを買ったことがありますか。仏滅とか大安を気にしますか。雑誌は後ろの方の占い欄から見ますか。今日のラッキーを身につけますか。風水の知識で部屋のレイアウトを変えたことがありますか。占い師に見てもらったことがありますか。占いを本気で信じましたか。占いに支配されたことがありませんか。
 まことの神を知っている人は、占いを必要としません。


2、聖書と占い

 聖書は占いや霊媒を明確に禁じています。

 申命記18:10~12を読みましょう。
「あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。」

民数記23:23
「まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。」

科学の進んだ現代社会は、人間を原子の集合体や偶然の産物とみなし、生きる意味を喪失させました。極端な合理主義は振り子の反動を生み出し、占い、霊媒、怪しげなスピリチュアリティー、輪廻、東洋思想などが市民権を得るようになりました。

占いや霊媒、心霊現象との関わりは危険です。オカルトへの接近、悪霊による支配、日常生活からの乖離、占いによる支配などを引き起こします。自分の罪に正直に向き合うことが不可能となり、私たちを愛している神を否定し、神との分離を招きます。こうした事柄との関わりを絶ちましょう。

 パウロは伝道旅行で訪れたピリピで、うらないの霊につかれた女を主イエスの名によって解放しました。(使徒16:18)また、エペソでは、パウロの働きを見て驚嘆した人々が魔術に関係した書物を焼き捨てた事件も記録されています。(使徒19:19)


3、サムエルの予告

サウルは聖書の禁止事項を破り、霊媒の女を使ってサムエルを呼び出しました。すると、「こうごうしい方」(13節)「年老いた方」「外套を着ておられる」(14節)方が現れました。

サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(15節)

「私は困りきっています。」「私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(15節)サウルはワラにもすがる思いでした。サウルは、神にではなく、死んだサムエルに助けを求めました。往生際の悪さこそがサウルの生き方の特徴でした。

主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。(19節)

サムエルの答えは残酷な未来でした。サウルが「主の御声に従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかった」(18節)ことが大きなきっかけだと述べました。明日、イスラエルは敗北し、サウルも息子ヨナタンも死ぬと伝えました。

サウルはそれを聞いて棒のように硬直し倒れました。(20節)霊媒女に介護され、食事をし、やっとのことでサウルはその夜遅くに陣地に戻りました。明日は決戦です。袋小路に入ったサウルに逃げ道はありません。これが、主に逆らい、主を無視したサウルの哀れな末路でした。

人生はお花畑を散歩するような安楽な道ではなく、苦難と悲哀に満ちています。辛い時、道を求める時、サウルのような安易な手段に走らず、主イエスと共に歩きましょう。主イエスは私たちを決して離れない方です。だから、恐れの中でも平安を持つことができるのです。

 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(ヘブル13:5~6)

 →あなたの番です
  □占いや霊媒と関係を持たない
  □神と語らい、神と共に歩む人生を送ろう


コロサイ3:15 感謝の心


 あなたは感謝する人ですか。感謝しにくい人です。

102人の乗客を乗せたメイフラワー号がアメリカに到着したのは1620年11月でした。(1620年と言えば日本では江戸時代です)2か月の困難な航海を終えてやっと新大陸に到着しても、極寒の地で家を建てるのは不可能、船での生活を続けました。翌年の秋にやっと収穫を祝いましたが、最初の感謝祭は単純な収穫感謝にはならなかったと私は思います。なぜなら、冬から春にかけて、乗客の半数は飢えや病気で死んでしまったからです。
感謝とは、すべてがうまく行く時にするものとは違うように思えるのです。

アメリカに住む人は若い頃を思い出して下さい。おばさんから500ドルで譲ってもらった古い車すら感謝したはずです。お父さんという厳しい教官のいない車で一人、フリーウエイを飛ばした日には開放感と大きな感謝に満たされたはずです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)

 新約聖書には何度も「感謝」という用語がでてきますが、おもに2つの使い方が出てきます。第一に、感謝している状態。第二に、感謝を命じる言葉です。

 パウロは、問題の多いコリント教会のことを覚えて祈る時、感謝していました。(第1コリント1:4)ペテロは、エルサレムで信仰ゆえに捕えられ、釈放されて戻った時に神を賛美していました。主イエスは5000人の人に食べ物を与えたいと願われた時、5つのパンと2匹の魚しかない現実に気づかれました。主イエスがしたことは、感謝でした。(ヨハネ6:11)
 
私たちの人生は、悲しい事、思い通りに行かないこと、疲れきってしまう事の連続です。だから、感謝は簡単ではありません。だから、聖書は感謝しなさいと命じるのです。

ハワイで100歳過ぎのおばあちゃんと話した事を今も忘れません。「長生きしてよかったね、おばあちゃん」と私が言うと、「そうじゃないんだよ、わしよりも先に息子が死んでしまって悲しいよ」と息子の写真を出して見せながら涙をしきりに流していました。

去年の夏、私の父は寝ている間に心臓発作で亡くなりました。知らせを受けた電話口で、私の心が崩れる体験をしました。でも、長期間の入院をしなかった事を感謝できました。

ローマ1:21や第2テモテ3:2を見ると、神を知らない人の特徴が感謝しない事だと分かります。ならば、神を信じている者の特徴は感謝に違いないのです。
本を読んでいて重要なフレーズに出会うとアンダーラインを引きます。感動する言葉に出会うと黄色のマーカーで印を付けます。私たちの人生という本にアンダーラインを引くこと、それが感謝なのです。忘れないようにする作業です。主は生きておられると、賛美する行為です。

私が若い牧師の頃、素晴らしいクリスチャンの女性Nさんに出会いました。Nさんの口癖は、「感謝ね」です。3人の小学生のお母さんで、伝道熱心な方でした。近所の人が悩みを持つと彼女の所に行って話を聞いてもらいました。Nさんは、悩む人の話を残らず聞き、慰め、主イエスを伝え、最後には、相談しに来た人が感謝を見つけて帰ることができました。Nさんが開く家庭集会にはたくさんの方が毎回集まっていました。
そんなNさんが癌になり、つらい治療をすることになりました。入院すると、同室者の仲間にイエスさまを伝え、43歳の若さで天に召されました。今も、私は、Nさんの口癖「感謝ね」を思い起こすと心が温かくなります。

今日は、感謝祭の礼拝です。どんなにつらい一年だったとしても、感謝な事を今3つ見つけて下さい。それは、ちょうど、荒れ狂う川に橋を架ける作業に似ています。人生の悲しさ、辛さという強い流れで翻弄されそうになりますが、感謝すると、それが、明日への希望の橋の橋げたとなるのです。毎日をサンクスギビングに!

→あなたの番です
 □感謝なことを3つ思い出しましょう
 □主に感謝し、身近な人に感謝の言葉を伝えましょう


第1サムエル27:1~12 仮の姿


 今のあなたは、仮の姿ですか。
 自分が選んだ道なのに、失敗したと内心では思っていませんか。

1、ダビデらしくない

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。(第1サムエル27:1~2)

 突然のように、ダビデはサウルに滅ぼされることを極度に恐れてしまった。サウルから逃げる方法を一生懸命考えたが、いつものように主に祈って導きを求めることをしなかった。
 大切な事を祈らない。導きを求めない。そういう事が起きる。それは、自分の計画を押し通す時、無意識に私たちが行うことだ。祈らないことが、主のみこころに沿わない道への入口になる。

 預言者エリシャも恐れを知らない信仰の巨人だったが、ふとしたことからイザベルを恐れて荒野に逃げたが、状況は良く似ている。恐れはある時、急にリアリティーを持つ。

ダビデが思いついた作戦は、ペリシテ人の地に逃げ込む奇策だった。現代風に言えば、亡命だ。ダゴンの神を礼拝する国であっても、サウルが追ってこない場所なら目をつぶろうと考えた。事実、サウルはダビデを追うのをあきらめた。(4節)

 ダビデはアキシュの部下となることを申し出て、認められた。いわば、仮の姿となった。アキシュはペリシテ人の領主の一人、海岸の町ガテの王。アキシュはダビデを信頼し、他のペリシテ人の領主の前でダビデを弁護する者となった。(29:3)ダビデは、ガテの東、ジフの荒野の南西にあるツィケラグという町をアキシュから与えられ、そこに住んだ。(5~6節)

 ダビデは、アキシュの保護を受けたのだから、貢物を差し出す義務がある。600人の部下も養わなければならない。妻アビガイルが連れてきた多数の羊やヤギも十分ではなかった。
そこでダビデは、ユダヤ人に好意的な町を攻撃したように見せかけ、アキシュをだまし(12節)、南の砂漠地帯のネゲブに住む遊牧民の一団を皆殺しにし、財宝や家畜をアキシュに差し出した。(7~11節)そんな仮の姿を1年4ヶ月も続けることになった。

ネゲブに住む遊牧民はユダヤ人の敵となる事もあったが、この場合、ダビデの都合で一方的に攻撃をしかけ、一般市民も皆殺しにした。
神の戦いを戦っていたダビデではなく、山賊となんら変わらなかった。「いつも、このようなやり方をしていた。」(11節)と記録されたが、仮の姿が普通の姿になりつつあった。


2、私にとっての「サウル」

 あなたは、仮の生活をしていますか。
 強いられた仮の姿ではなく、あなたが選んだ結果の仮の生活です。

 1)アキシュに対する嘘 2)ネゲブの遊牧民を襲う残虐さ 3)主への信頼欠如 という3つの問題を抱えたままダビデは突っ走っていた。
 主からの警告は1年4ヶ月、何もなかった。だから、問題がなかったのではない。30章では大きな問題が起きるが、仮の姿のつけは必ず払うことになる。

私たちの場合を考えてみよう。私たちが恐れているサウルとは、何だろう。

お金がない。住む場所がない。通う学校がない。世間体が悪い。結婚したい。仕事がほしい。これらの目の前に差し迫った必要事項がとても大きく見え、恐怖に押しつぶされることがある。
すると、ダビデのような愚かな行動を取ってしまう。たとえば、かなり問題のある仕事、転居、結婚、生活スタイルを選んでしまう。すっきりしない心を抱えたまま、惰性でそれを続けてしまう。やがて、生活にきしみが出て、ほころびが現れ、抜き差しなら無い現実に出会う。

以下のような場合、あなたはどうしますか。
 日曜日に働くシフトの仕事しか見つからなかった。
 安いルームシェアを見つけたが、麻薬のにおいのする男女が夜に出入りするアパートだ。
 失恋した直後に出会った人がとても優しかったので、出会って1か月で結婚の予定だ。
 単身赴任か、家族みんなで転居か、あまり話し合っていない。
 会社のお金を使い込んでしまった。

 ダビデのような失敗をしないための大事な鍵は、優先順位だ。主を第一にする優先順位にするならば、冷静な判断ができる。なぜなら、旧約聖書も新約聖書も、主を第一にするなら主が道を整えて下さるという約束があるからだ。

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5~6)
 
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:33)
 

 あなたを圧迫するような何かがやったと感じても、あせらないことです。即断しないことです。主イエスならどうするだろう。尊敬しているあの信仰者ならどうするだろう。本当に悔いのない決断は何だろう。主と、あなたが最も愛する人々の最善を考えたなら、おのずと、優先順位が見えてきます。プライオリティーが分かったら、静かに祈り、主を第一として、為すべきことを淡々と行って行きましょう。

→あなたの番です。
 □あなたはどんな「サウル」を恐れていますか
□あなたは今、仮の姿ですか
 □健全な優先順位とは何ですか


 

 

第1サムエル26:1~25 主は彼を打たれる


 中学時代、腹が痛くなり医者に盲腸と診断され、すぐ手術になり、数日で退院できました。この経験は、私にとって驚きでしたが試練とは言えませんでした。
 では、試練とはどんなものでしょう。

1、繰り返すから、試練

ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。(第1サムエル26:1~4)

 ジフ人がサウル王の所まで出向いてダビデが近くに潜んでいると密告しました。サウルは、それを好機とみなし3000人の精鋭と共にダビデ殺害に向かいました。
 ダビデは斥候を送り、確かにサウルが来ていることを確認しました。サウルは、洞窟でダビデに命を助けられた日のことを完全に忘れ去ったようです。

 繰り返すから試練なのです。試練とは、終わりの見えない延長戦です。他人が繰り返すがっかりさせられる事。自分が繰り返す失敗。直らない病気。改善しない人間関係。解決の糸口の見えない悩み。ひと段落ついてほっとしたのもつかの間、また同じ問題で悩まされる。これがダメージを与えるのです。最近、そんな事がありませんか。

私は、最近、左足の親指の爪の周囲が痛いです。割れた爪の横から小さな破片が飛び出し「陥入爪」の状態になり、肉を刺すのでビリッと痛いのです。若い時にも似た経験をしており、爪の手術後に左足は革靴、右足はサンダルで親指に包帯というひどい格好で結婚式にも出席したことさえあります。
今回、「サウル王、また来たか」という感じです。爪がきれいに伸びてくれる日まで痛みは私の生活の一部になりました。

「サウル王、また来たか」という現実に私たちも遭遇しますが、出口は必ずあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)



2、主が打たれる

 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」(8~11節)

 ダビデは深夜、部下のアビシャイを連れて、敵軍宿営地のサウルのテントに入り込みました。主は深い眠りを敵軍一同に与えたので、ダビデらは発見されません。
(5~7節)アビシャイは今こそ好機到来、槍の一突きでサウルを殺せますと進言しましたが、ダビデは拒絶しました。
 サウルの寝顔を見て、ダビデは、「主は、必ず彼を打たれる」という確信に至りました。同じレベルの喧嘩から離れ、ダビデは一段高い場所から物事が見られるようになったのです。主がサウルを打たれるという確信の根拠は何も書かれていません。確信は主からやってきたとしか言えないのです。
 私たちが誠実を尽くしても相手に届かない場合は、主が動いてくれます。主からの確信をもらうと怒りや復讐心は霧散します。

 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)



3、誠実に生きる

 主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。(23~25節)

 もし、ダビデがサウルをその場で殺したら、何が起こるでしょう。ダビデの怒りは解消されますが、3000人の兵士と内戦状態に陥ります。ダビデも同胞のユダヤ人を殺さねばなりません。実は、主にあっては、負けるが勝ちなのです。

 サウルの水差しと槍を持ち帰り、安全な岩の上まで登ったダビデは、サウルの将軍アブネルを呼びつけ、護衛がなっていないと責めました。(13~16節)その後、ダビデはサウル王と直接語り合い、殺す意志の無いことを水差しと槍を証拠に告げました。サウル王は、ダビデの声とその行動に心を打たれ、サウルはダビデを追うことを止めました。

 「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。」ダビデは、終始、主の前で誠実に行動しました。「私があなたのいのちをたいせつにしたように」ダビデは敵であるサウルの命も大切に扱いました。

 繰り返しの試練の中で、ダビデのように、あきらめない人、誠実な人、温かい人にしていただきましょう。

→あなたの番です
 □先が見えず、繰り返すから試練
 □復讐はしない
 □主よ、しなやかで、温かい心を下さい

 

第1サムエル25:1~44 アビガイルの機転


 ダビデは完璧な人間ではない。激高すれば、行き過ぎた復讐心を持つ。
 聡明な女性アビガイルは、そのダビデを落ち着かせ、心を主に向けさせた。

1、愚かな男、ナバル

マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。(第1サムエル25:2~3)

 ナバルとアビガイルの夫婦がカルメルにいた。カルメルとは、預言者エリヤで有名な北部の山ではなく、この場面ではヘブロンに近い山岳地帯を指す。ナバルは家畜を多数保有する富豪だったが頑迷で行状の悪い男で、妻のアビガイルは聡明で美人だった。

ダビデはナバルの羊の群れに危険が及ばないよう保護してきた。羊の毛の刈り取りの季節がやってきたので、ダビデは祝いの言葉を部下から告げさせ、セキュリティー労働に対する見返りをやんわり求めた。(5~8節)これは、ダビデ達が生計を立てる一つの方法だったのだろう。

ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(10~11節)

ナバルはダビデを逃亡奴隷にたとえて罵倒、受けた恩を完全に無視した。それを伝え聞いたダビデは怒り、400人の部下を率いてナバル討伐に出発した。(12~13節)ダビデは完璧な人ではなかった。復讐の鬼と化したダビデを誰も止められなかった。

ナバルは男の典型だ。ナバルを鏡として自分を振り返ろう。人を見下していないか。感謝する心を持っているか。平和を作ろうとしているか。

ダビデもまた男の典型だ。思慮深く、主に頼っていたダビデだが、メンツをつぶされれば激怒する。怒りが沸騰すると、復讐の鬼となる。あなたは今、怒っていないか。あなたの大声が、周囲の人に恐怖を与えていないか。怒りの持って行き場所を間違えていないか。

器の大きな人間になろう。受けて立つのが横綱相撲だ。


2、聡明な女、アビガイル

 アビガイルは牧童から事の顛末を聞いた。(14~17節)彼女の聡明さは、問題解決能力と他者に主を見上げさせる信仰姿勢に表れている。

1)解決力

 そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。(18~19節)

多くの人は、起きてしまった過去の問題を嘆き、他人や自分や運命を責め、身動きが取れなくなる。けれどもアビガイルは未来に焦点を当てて行動した。つまり、問題が解決した時のイメージを持っていたのだ。用意した食料がダビデの期待したセキュリティー請負費に見合うものとなり、ダビデが満足している様子が見えていた。

アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。」(23~24節)

「あの罪は私にあるのです。」アビガイルは、問題を夫のせいにしなかった。自分の問題として主体的に引き受けた。剣を帯び、殺気立った兵士らの前にひれ伏すアビガイルは見事です。

解決力とは何でしょう。問題の本質を見抜く洞察力、未来志向、主体性、具体的な行動、他者に助けを請う謙虚さ、勇気、これらの総和が解決力です。アビガイルは、ちょっと「できすぎ君」かもしれません。平均的な人間とは、弱さを抱え、意気地なしで、後ろ向きです。私もその一人です。

シャルル・ペローという人を知っていますか。フランスの物語作家で、「眠りの森の美女」や「美女と野獣」などの作者です。「愚かな願い」という話はペローの作で、こんな筋書です。
貧しい木こりの夫婦がいました。一本の木を切り倒さなかったことで、妖精が3つの願いをかなえると約束しました。奥さんが「大きなソーセージが食べたい」とつい口に出すと、見たこともない大きなソーセージが現れます。夫がそれを見て怒り、愚かな願いをしたもんだ、そんなソーセージはお前の鼻にくっついたてしまえと言いました。3つ目の願いは、それを元に戻して下さいというものでした。
この木こりの夫婦は、ごく普通の夫婦です。もし、夫が怒らずに、一緒に楽しくソーセージを食べて楽しみ、二つ目の願いは夫が考え、3つ目の願いを二人で話し合えば良い結果になったはずです。

アビガイルほとのスーパー聡明な人にはなれませんが、少し忍耐を持ち、主から知恵を与えて頂けば、打開策はあるはずです。あきらめないで、主に期待しましょう。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


2)人の心を神に向ける

アビガイルは、激高しているダビデを冷静にさせ、神を見上げる心を取り戻させました。ここに彼女の聡明さが表れています。

 今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。(26節)

「ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ」とアビガイルは語りました。プライドを傷つけられたダビデは残虐な復讐をする可能性がありましたが、神がそれを止められたとアビガイルは述べました。アビガイルが止めたのではないと言うのです。

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。(28節)

「主の戦い」という言葉は、ゴリアテに戦いを挑んだダビデが使った言葉(17:47)でした。個人的復讐は主の戦いとは呼べず、神に油注がれた王の汚点となります。「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。」(31節)
こうしてアビガイルは、ダビデの心を落ち着かせ、主に目を向けさせることができました。

 有名なプロゴルファーが長いスランプを経験し、優勝から遠ざかったことがありました。奥さんは、夫のために祈り、みずからが悔い改め、その心が夫に伝わるようになり、7年たって復活の勝利を夫婦で勝ち取りました。

 あなたの身近な人がスランプを経験し、落ち込んだり、怒っているかもしれません。主はあなたに忍耐と知恵を与えて、あなたの祈りと存在を用いて、その人の心を主に向けさせてくれます。とても難しい働きですが、主が共におられれば可能です。



3、ナバルとアビガイルのその後

 ナバルは翌日、酔いがさめた時にダビデの襲撃の話を聞き、心臓発作か脳梗塞か分かりませんが、石のように倒れ、10日後に死にました。(36~38節)
ダビデは既にアヒノアムという妻がいましたが、アビガイルとも結婚しました。(39~44節)未亡人のアビガイルを保護するため、また、多数の家畜や資産がダビデ一行の経済基盤を支えると考えたのかもしれません。
ヘブロンに安定した地盤を得た後にダビデは、マアカ、ハギテ、アビタル、エグラなど複数の妻を持ちます。ダビデの夫婦関係は私たちの手本にはなりません。戦国時代の武将のように、縁談が近隣諸国との安全保障に貢献するという面はあったでしょうが、王が多数の妻を持つことは申命記17:17で禁じられており、後にダビデの家庭問題の火種となりました。

 さて、アビガイルに戻りましょう。
聡明さとは行動です。状況を俯瞰し、人の心を読み取り、自分ができる最善を絞り込み、主に信頼しつつ勇気を持って主体的に動き、他者に主を見上げるきっかけを与える事が真の聡明さです。
聡明さを与えて下さいと祈りましょう。

神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第1ペテロ5:10)

→あなたの番です
 □怒りは汚点を作ります。怒りを静めましょう
 □主を見上げて、問題解決に動きましょう



第1サムエル24:1~22  受け入れるか、動くか


 受け入れる事と変えるべき事。その識別力と勇気がほしい。

1、主から出たこと

彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。(第1サムエル24:3~4)

 ダビデたちはエン・ゲディにいた。エンは泉、ゲディは子ヤギという意味。死海の西側の荒涼とした岩山に、奇跡のような泉があった。付近には滝もあり、洞窟も多数あった。
その洞窟の一つに潜んでいたダビデに千載一遇の機会が訪れた。目の前にサウル王が一人で現れた。家来はいない。今なら、難なく殺害できる。そもそも、ダビデがその気になれば、クーデターを起こしてサウル王を殺すこともできたはずだ。

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(6~7節)

 サウル王は主に「油注がれた方」であり、「私の主君」だとダビデは認識していました。サウルの上着のすその一部を切り取ったことすら後悔しました。サウルが神に油注がれた王であるということは、ダビデにとって神から出たことで、変えることのできない事だったのです。

ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)The Serenity Prayerを知っている人が多いと思います。ダビデの心の中で、ちょうど同じようなプロセスがあったのでしょう。

The Serenity Prayer
God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.

Living one day at a time;
Enjoying one moment at a time;
Accepting hardships as the pathway to peace;
Taking, as He did, this sinful world
as it is, not as I would have it;
Trusting that He will make all things right
if I surrender to His Will;
That I may be reasonably happy in this life
and supremely happy with Him
Forever in the next.
Amen.

平静の祈り

神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

一日、一日を生き、
一瞬、一瞬を楽しみ、
苦しみも、平安へ続く道として受け入れ、
この罪深い世を、自分の願うようにではなく、そのままに受けとめる
あの方がそうなさったように

神の御心に自らを明け渡すのならば
神は全てを善いように変えてくださると信頼しつつ
それによって私がこの世での人生もそれなりに幸せに生き
来るべき次の世ではとこしえに
神と共に最上の幸せを得るように
(中村佐知訳)

 主から出た事とは、主から発送されて私たちのところに届いた小包のようなものです。受け入れにくい事、意に反する事、窮地に追い込まれる事、場合によってはこの世を去る事も、主から出た事です。主から出たことならば、静かな心で受け入れましょう。


2、直接対面

その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。(8~10節)

 ダビデはサウル王に最高度の尊敬を示し、地にひれ伏しました。さらに、サウルを殺害する意志がないことを上着のすそを切ったことで証明しました。ダビデは、サウルと3000人の兵に殺される危険も承知の上で、直接サウルに語ろうとしました。変えることのできるものは変える勇気を持って対処しようと思ったのです。

もう追うのを止めてほしいとダビデは率直に述べました。サウルがダビデを追うことは、まるで死んだ犬や一匹の蚤(14節)を追っているのと同じなのです。

 ダビデはサウル王に直接、自分の心を披瀝しました。ダビデは、純粋で、まっすぐな心を持った人物です。遠まわしに、誰かを介して連絡しませんでした。
 人間関係のもつれが起きた時、ダビデの方法は参考になります。一番勇気がいるけど、一番話が早いのは、こじれた相手の所に直接出向き心を開いて自分の思いをぶつけることです。

 今、誰と関係がこじれていますか。相手の顔を見て、心を率直に伝えましょう。



3、泣いたサウル王

ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。(16節)

ダビデは勇気を持ってサウルに語り、主は直接介入してサウルの心を変えてくれました。ねたみと怒りで半狂乱だったはずのサウル王はダビデの誠実な心に触れて涙を流しました。奇跡とも思える涙です。主に選ばれた頃の純真なサウルの真心が戻ったのです。

そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。(17~20節)

 サウルは自分の非を認め、主からの幸いがダビデにあるようにと願い、次に王になるのはダビデであると告げました。

 砕かれた魂ほど美しいものはありません。
 サウルは、うまれたばかりの赤ちゃんの皮膚のような柔らかな心を見せました。
 いくつになっても、どんな立場でも、みっともなくても、自分の非を認めましょう。私たちは不完全なので、誰かと共に生きなら必ず誰かに迷惑をかけるか、迷惑をこうむるかのどちらかです。「私はあなたに悪いしうちをした」(17節)と言える人になりたいです。
 
 自分が悪いと認めた人は、「ごめんなさい美人」です。同じように、悪かったと言える男は、「ごめんなさいハンサム」です。多くの人に好かれる人は、失敗をしない人ではなく、素直に謝罪できる人です。


「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


バーニータという看護学生が勉強していました。クリスチャンの彼女は、主のために与えられた賜物を生かしてナースとして人々に仕えたいと願っていました。感謝祭前の火曜日、指導教官が急に言い捨てました。「あなたは良い看護師にはなれない。いつか患者を殺すだろう。来週、退学になるので覚悟するように」他の学生6人も退学処分になるとだと知りました。
感謝祭の休日、実家に戻り、双子の姉妹に事情を話しました。それを伝え聞いたバーニータのお父さんは学部長に抗議に出かけました。学部長は、そんなはずはない、詳しく調べるので休み明けに来るようにと返答しました。バーニータが翌週学校に行くと、学部長は指導教官には様々な問題があり学校を辞めていただいた、あなたは安心して学業を続けるようにと励まされました。卒業後、彼女は40年間レジスタード・ナースとして立派に働きを続けました。

受け入れる事、動いて事態を変える事、その二つを見極め、ダビデのように勇気を持って対処しましょう。その中で、主が驚く方法で介入して下さいます。

 →あなたの番です
  □主から出たことは、受け入れる
  □正面からぶつかって行きましょう
  □「ごめんなさい」と言える心が大切


第1サムエル23:1~29 仕切りの岩

 体は前向きに、心は上向きに造られている。私にはそう思えるのです。
 ダビデは、前向きで上向きな人です。


1、主に尋ねる

 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」
(第1サムエル23:1~2)

 収穫時を狙ってペリシテ人がユダのケイラを襲った。ダビデは、ケイラを助けに行くべきかを主に尋ねた。主の答えは、「行け」、だった。
 ダビデの部下は、ケイラを助けると居場所がサウルに分かり危険になるとの指摘した。もう一度主に尋ねると、やはり「行け」だった。それで、ダビデはケイラの人々を助け、奪われた穀物を荷馬車ごと取り返した。実に前向きな生き方です。

 その後、サウルがダビデの居場所を知り、ケイラに来る可能性が高くなった。それで、再び主に尋ねた。サウルは来るでしょうか。「彼は下ってくる」(11節)もう一つダビデは尋ねた。ケイラの人は私たちを守ってくれるか、それともサウル王に寝返るでしょうか。答えは、「彼らは引き渡す」(12節)でした。それで、ダビデたちは荒野に逃げたのです。主に道を聞く姿勢は、上向きです。

 その道に困難があるから、「行くべきでしょうか」と主に尋ねます。
 今の環境が快適なので、「離れるべきでしょうか」と尋ねます。

 アメリカに住む日本人は、日本に行くべきか、居心地の良いアメリカを離れるべきか、と何度か真剣に問うものです。
 主に道を尋ねることは、自分の心にある深い井戸に桶を下して、本当の願いを組み上げる作業です。主に静かに道を聞いて下さい。
 

2、神の御名で励ます友

ダビデは、ケイラの人々から平和に離れました。怒りもせず、報復もせず、静かに部下を撤退させました。サウルなら皆殺しの場面ですね。

 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。(16~18節)

そんな時です。ヨナタンが突然訪問してきたのは。ダビデが意気消沈した時に親友がやってきたのです。友、遠方より来る、楽しからずや、です。

落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。(ヨブ記6:14)

 良き友は、落胆した友のそばに出掛けていくものです。
 信仰の友は、神の御名によって励ます者です。神の視点に帰らせ、神の約束と守りを思い起こさせてくれる事が、神の御名によって励ますとことです。
 
 あなたも、良き友として、また、信仰の友として、友の傍らに行こう。


3、主の助けがある

 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。(26~28節)

 サウルの全軍は3000人程度、ダビデは600人。互いに同じ山の反対側を進んでいて、もう少し進めば両者は対面し、ダビデたちは全滅したことだろう。
 パレスチナ南部の荒野は、夏は雨が一滴も降らず、カラカラに乾く。雨は冬にだけ降るが、雨の流れが岩を削り、ワジという川を作り、深い谷を刻んでいた。だから、一つの山の向こうとこちらにいても敵の姿は見えないし、岩山は急斜面のため容易には上れなかった。
 サウルが、ほぼ全軍をダビデのもとに向かわせたことをペリシテ人は察知し、手薄な都市部を攻撃してきた。その知らせを受けると、サウル王はすぐに戻った。
 ヘリコプターから見下ろせば、ダビデとサウルがまもなく鉢合わせするのは分かったはずだ。主は、高いところからこの場面を見ておられて、ギリギリのタイミングでダビデを救われた。

 ラッキー!なのではない。主の守りがあったのだ。23章で鍵になる言葉は14節です。

 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。(14節)

 「私の父サウルの手があなたに及ぶことはないからです。」(17節)とヨナタンが語った言葉は、14節の真実さを確認させてくれる言葉だ。

 自殺未遂をしたある女性は病院で目覚めてこう言ったそうです。「あれだけたくさん切ったのに死ねなかった」。
 考えてみてください。体は簡単には死なないように造られたのです。体はあきらめないのです。出血すると、脾臓が収縮、アドレナリンが出て、毛細血管も収縮します。空気に触れれば、血液内の物質が凝固して傷をふさごうとします。あなたが危険にさらされると、普段さらさら流れている血は、あなたを守るため自分を殺して固くなるようにして傷口をふさぐのです。
 神は、あなたが危機に陥ってもあきらめません。サウルのような存在があなたを襲っても、主た守って下さるのです。何度も危機がやって来ても、「神はダビデをサウルの手に渡さ」ないのです。

 ロナルド・ピンカートンさんは、クリスチャンです。彼がパラグライダーで上空1200mを飛んでいた時、突風が吹き、一気に100mの高さまで落ちました。今までで経験したことのない風で、コントロール不可能でした。ちょうど右下2mのところに小型の鷹が同じように強風に苦労して羽をバタつかせていました。風は収まることがなく、為すすべがありません。すると鷹は、地面に向けて真っ逆さまに進路を取り、急降下しました。自分の力も経験も知識も通用しないと悟ったロナルドさんは鷹の後をついて行くと心に決めました。地上30mほどになって、温かい上昇気流がどこからともなく吹きあげて、鷹もロナルドさんも助かりました。

 行き詰っても神に信頼しましょう。人間の絶望地点こそが、神の上昇気流の始まるポイントです。私たちの「仕切りの岩」はすぐそこにあるのです。神に栄光あれ。

 →あなたの番です
  □危険な時、困った時、神に道を尋ねよう
  □神の御名で励ます友になろう
  □プロテクトしてくれる神に信頼しよう