マタイ14:22~33 ペテロの長所

 今回はペテロの長所に目を留めよう。

1、柔らかい心

 ペテロの長所の第1は、柔らかい心を持っていることです。

 まず最初にルカ5章の出来事に目を向けましょう。主イエスがペテロに網を下ろして魚を獲るように命じました。ペテロの答えは以下のようなものです。

 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5)

 網を引き上げると、舟が沈みそうになるくらいの大漁になり、ペテロは次のように叫びました。

 「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)

 今、主イエスもペテロも舟の中にいるのですから、離れてくださいと言っても無理な注文です。この辺が実にペテロらしくて楽しいです。
ペテロは、主イエスが行った奇跡に触発され、この大漁は神のわざだと直感し、自分の罪深さを一瞬のうちに悟りました。この瞬間に、自分の汚さ、小ささ、醜さ、罪深さの認識が理屈を超えて体内を駆け巡ったのです。
 さきほどまで主イエスがあんなに熱心に語られたのに、私は網をつくろうばかりで、まじめに聞いていなかった。徹夜の漁の疲れで否定的な気持ちになっていた。自分は傲慢だった。

 自分の罪深さに気づいて言葉を発したり、態度で表わした弟子は、福音書の中でペテロだけです。ペテロの優れた点は、自分の心を正直に見つめられることです。

 あなたも、柔らかい心が必要です。自分の罪深さに気づく心が必要です。

 ペテロのように、あなたも何かの出来事で心底驚き、自分が見物人でいられない状況に巻き込まれます。そのとき、あなたに必要なのは、ペテロのような柔らかい心です。自分の罪深さに気づくことです。


2、信じて行動する力

 ペテロの長所の第2は、信じて行動する力です。

 マタイ14章を読みましょう。この時、12弟子はガリラヤ湖の向こう岸を目指して舟を操っていましたが、向かい風が強くて前に進めませんでした。

 弟子たちの疲れ、はらぺこになり、体は冷え、いらついていたことでしょう。激しい風のため波は荒れ狂い、夜中の3時になりになりました。不気味な黒い水面を見ていると、漁師出身の弟子が多いとはいえ怖かったはずです。

 主イエスは、そんな弟子たちのため、山で祈っておられました。向かい風や嵐も私たちに必要な時があります。タイミングを見極めて、主イエスは湖の上を歩いて弟子たちに近づきました。主イエスだとわかると、ペテロはこう言いました。

 「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)

 ペテロの長所は、主イエスを素朴に信頼する心。そして、主イエスを信じて実際に体を動かすことです。
 多くの人は、主イエスの言葉が優れた言葉だと理解しますが、主イエスの言葉を実行する人はわずかです。

 主イエスはガリラヤ湖の水面で、「来なさい」とペテロに声をかけられました。「ペテロは、船から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(マタイ14:29)

湖の水面は波で荒れていましたが、ペテロは思い切って歩き始めました。ペテロには勇気があります。普通の神経なら水の上に足を出すことは不可能です。

 ペテロは、行動する人です。それは聖書の他の箇所からも分かります。主イエスが最後の晩餐の席で12弟子の足を洗おうとすると、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」(ヨハネ13:9)と発言しています。主イエスがゲッセマネの園で捉えられそうになると、剣を抜いて戦いました。(ヨハネ18:10)主イエスが大祭司の家まで連れて行かれると、その中庭まで入って行きました。(マタイ26:58)

 自動車会社GMの経営を立て直したアルフレッド・スローン(1875-1966)という人物はこう言いました。「何の過ちもおかさない人は、何もしない人たちである。」

 たしかにペテロの足や服は水でぬれ、危険な目に遇いました。けれども、水の上を歩いたのはペテロだけでした。主イエスに助け起こされたのもペテロだけが経験した祝福でした。行動する人は、必ず何かを学び取ります。

 あなたは、ロダンの彫刻の「考える人」タイプのクリスチャンになりたいですか。それともペテロのように「行動する人」になりたいですか。
 長年クリスチャンをしている人の大きな問題点は、聖書知識だけが肥大して、行動が伴いことです。ユダヤ人の12部族の名前を言えても、身近な家族を具体的に愛せないなら、聖書の知識は頭の引き出しでほこりをかぶっているノートの切れ端に過ぎません。
 行動しましょう。ペテロは、思い切って水の上に足を乗せた人です。

 主イエスは、頭のいい人や要領の良い人を弟子にしませんでした。失敗を決してしない完全無欠の人を探しませんでした。ペテロのような人を選び、弟子にして、その長所を伸ばされたのです。

 さあ、あなたの番です。あなたもペテロになりませんか。

□柔らかい心で、素直に自分の罪深さを認めましょう。そこから、離れましょう。
□家庭で、職場で、学校で、ペテロのように、主イエスのみこころを実行しましょう。
□恐れを捨てて、主イエスを頼って、あなたの直面している大波に足を踏み出そう。

マルコ3:13~19 訓練を受ける

 「無学な普通の人」(使徒4:13)であるペテロが、聖徒また指導者へと変えられた秘訣は何だろう。
 今日の箇所を最初の手がかりとして、その秘訣に迫ってみよう。

1、ペテロたちは主イエスと共に生活した

 主イエスは、ご自分が地上を去った後を12弟子に任せるおつもりだった。弟子を教え育てる方法は、いわゆる学校教育の形を取らなかった。単に理屈が分かったというレベルでは実生活で何も役に立たない。徒弟制度のように、見て、学び、やってみて、さらに失敗しながら体得して初めて自分のものになる。
 その分野では古典的名著と言われる「伝道のマスタープラン」を書いたロバート・コールマンによると、主イエスの教授法は驚くほど「形式ばらない」方法だったという。

 マルコ3章13~19には、主イエスが12弟子を選び、どのように訓練されたかが書いてあるが、鍵になるのは、「彼らを身近に置き」(マルコ3:14)という言葉だ。主イエスが意識的に弟子たちを身近に置いたことが分かる。

 主イエスも、弟子たちも、共に生活した約3年の日々を忘れなかった。主イエスは、復活後に弟子たちに現れ、「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ」(ルカ24:44)という表現を使われた。また、ペテロもペンテコステ前に「主イエスが私たちといっしょに生活された間」(使徒1:21)という言い方をしている。
 主イエスと寝食を共にすることは、弟子となる上で必須の条件だったことが分かる。自分自身が変えられる3年間となった。主イエスが学校であり、主イエスがカリキュラムだ。

 ペテロたちが経験したことを、5つの<る>としてまとめてみた。(語尾が全部「る」になっている)
  1)びっくりする    マルコ4:35~41
  2)分かる      マルコ4:1~20
  3)あたたまる    ヨハネ8:1~11
  4)広がる      ルカ18:15~17
  5)やってみる    マタイ10:5~23

 ガリラヤ湖の嵐を言葉だけで静めるイエスに弟子たちは驚いた。多くの奇跡に感激の連続だったろう。
 山上の垂訓に感動し、たとえ話については主イエスから直接意味を教わった。パリサイ人と議論する主イエスの言葉からも、大いに目が開いて神の言葉の理解が深まったはずだ。
 姦淫の現場で捕らえられた女を赦す主イエスの姿、取税人や罪人とも食事をする態度に心が温かくなったはずだ。ヨハネなどは、自分こそが最も主に愛されたと公言したほどだ。
 良かれと思って子供たちを排除した弟子たちは結局主に叱られた。それは自分たちの偏狭さを示される経験となり、心が主によってどんどんと広げられる経験になった。
 主イエスは、ある時期になると、12弟子を二人一組で伝道旅行に遣わされた。これは実地訓練だった。

 こんなふうにして約3年間、弟子たちは主のそばにいただけでみるみる変えられていった。主イエスと共に生活する。それが鍵だ。それがすべてだ。


2、主イエスが昇天された後、弟子たちはどうなったか

 主イエスが十字架について天に昇られた後、弟子たちはどうなっただろう。使徒2:40~47を読むとその姿が分かる。結論から言おう。ペテロたち弟子たちは、みごとに主イエスの期待に応えた。
 ペンテコステの日、3000人が主イエスを信じ、ペテロはその人々にどうしたらいいか明瞭に指導できた。信じたばかりの人々に何をしたら良いのか方向性を示すことができた。

 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:41~42)

 主イエスと一緒にいたペテロたちの経験談は、現代の聖書の役割を果たしていた。弟子たちは、信じたばかりの人たちを、自分が主イエスに受け入れられたように愛した。そして、祈り合い、具体的に助け合い、食事をともにし、賛美していた。主イエスはそこにいないが、まるで主イエスと共に過ごしているようだ。

 主イエスは、弟子と過ごした3年間をそっくりそのまま教会に置き換えるようにと、あらかじ想定しておられたのかもしれない。

 以下の聖句は、主イエスの昇天後、ペテロたちが伝道活動ゆえに捕らえられた時に、取り調べ担当者が気がついた内容だ。
「ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」(使徒4:13)
 英語聖書のほうが意味がストレートに心に入ってくる。
 When they saw the courage of Peter and John and realized that they were unschooled, ordinary men, they were astonished and they took note that these men had been with Jesus. (Acts 4:13 NIV)

 無学で普通の人が変えられたのは、主イエスと共に生活したことのゆえだと、敵までが認めた。あなたも、変えられる。

→さあ、あなたの番です。以下の事を実行して、あなたも主イエスと共に生活しよう!

□主イエスを愛している人と時間を過ごす
□いつでも主イエスに話しかけてみよう
□自分の普段の生活とペテロたちの体験とを重ねて考える
□主イエスの言われたことを、実際にやってみる

マタイ4:18~22 最初の一歩

 今日から、ペテロの生涯を8回のシリーズで学んでいきます。
ペテロとは誰でしょう。主イエスが最も手塩にかけて育てた弟子。主イエスの心を最も苦しめた弟子。主イエスがその成長を最も喜んだ弟子。ペテロとは、私であり、あなたです。
 第1回は、ペテロのバックグランドと主イエスとの出会いを取り扱います。

1、ペテロの背景

 父の名は、ヨハネ(ヨハネ1:42)。出身はベツサイダ(ヨハネ1:44)、後にガリラヤ湖畔北西のカペナウムに住む。職業は漁師(マルコ1:16)。
 妻帯者で(第1コリント9:5)、妻の母と同居している(マルコ1:29)。子供についての記述はない。話すことばになまりがあり(マタイ26:73)、「無学な普通の人」と(使徒4:13)みなされた。
 
 私も、あなたも、普通の人かもしれません。(特別に優れた人が中にはいるかもしれません)たとえ普通の人であっても、人生を普通で終わらせたいとは誰も思いません。

2、主イエスとの出会い

 ペテロと主イエスの出会いは、まずユダヤ地方で起きたと聖書学者たちは考えます。初期ユダヤ伝道の時期にペテロは主イエスと知り合いました。きっかけはペテロの兄弟アンデレが作りました。アンデレは当時バプテスマのヨハネの弟子になっていました。

 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネ1:40~42)

 ペテロの本名はシモンでした。主イエスは、彼が成長して、変えられ、用いられる日が来ると確信し、シモンにペテロ(岩)という名を与えました。
そうです。主イエスは未来志向です。成長した姿を思い描いて「岩」という名を与えたのです。
 自分自身を振り返ってみましょう。主イエスは、あなたに新しい名前を下さっているはずです。どんな名前ですか。

 興味心は人一倍強いが不安定なシモン。今、マイナスと見える部分が、将来プラスに転じる。不安定なシモンが岩のような人になると信じますか。主イエスの未来思考を取り込んで、あなた自身に適応してみましょう。


3、大切な決断(マタイ4:18~22)

 人の一生で大切な決断がいくつかあります。その中でも、誰についていくか、という選択はかなり重要なものです。

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイ4:18~22)

 主イエスについていく。これは、その人の人生を決める、とても大切で基本的な決断です。私も17歳のとき、主イエスを信じて、主イエスについてきました。この決断に後悔したことは一度もありません。
 ペテロたちは、網を捨て、父を置いて、主イエスについて行く決断をしました。

 信じることは、ついて行くこと。
 信じることは、主イエスと共に歩くこと。

 声をかけてくださったのはイエスさまなのですから、安心してついて行きましょう。最初の一歩がなければ何も始まりません。

 さあ、あなたも、主イエスを信じ、歩み出し、普通の人が非凡な人に変えられる体験を味わってください。