マルコ11:1~11 主がお入り用です

 今日は、ロバについて少し詳しく考えてみましょう。

 ロバに触れる前に、今日の箇所の背景をお話します。
主イエスが十字架にかかられたのが金曜日です。その週が始まる日曜日に、主イエスは、オリーブ山のふのとの町、ベタニヤ付近でロバの子を手に入れ、それに乗って祭りでにぎわう都エルサレムに入られました。ヨハネ11:18によると、ベタニヤはエルサレムから東に3キロメートルほどの距離にあると分かります。人々は「ホサナ」と叫んで、王としてエルサレムに来られた主イエスを熱狂的に歓迎しました。

 「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。』」(7~10節)

 マタイもマルコもルカも、ロバがどのように選ばれたのかを必要以上に詳しく書いています。いきなり赤の他人がロバを連れ帰り、ちょっとした騒動になるというユーモラスな出来事でもあります。これを記録したマタイたちにとっても、ロバと弟子たちの姿が何となく重なり、他人事に思えなかったのかもしれません。


1、主は、子ロバを知っておられた

 「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(2節)

 「ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう」とあります。ロバは、イエスさまとは関係なく、ロバの人生を送っていました。人生ではなく、ロバ生かもしれませんが。主イエスに見られていた事など、まったく念頭にないはずです。
主イエスは、ロバを見ていました。時が来たら、あのロバに乗ろうと心に決めておられたのでしょう。

 主イエスは、あなたを見ておられます。あなたを知っています。あなたが知らないだけです。主イエスは、あなたを心に置いておられます。


2、未知数のロバ

 「まだだれも乗ったことのない」「ろばの子」(2節)と書いてあります。

 このロバは、経験も実績もありません。子供なので、まだ役に立たないのです。

 経験不足、未熟、未知数。それがあなたの姿なら、あなたはロバに似ていませんか。


3、つながれていた

 「表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。」(4節)

 ロバは、家の戸口につながれていました。

 私たちは、主イエスを信じる時まで、様々なものに繋がれ、束縛されていました。罪の奴隷でした。この世の価値観の奴隷でした。否定的なセルフイメージで縛られていました。
主イエスは、あなたを縛っているものから解放して下さる方です。

 主イエスを信じてからも、まだ何かの紐で繋がれている人もいます。毎日の忙しさに繋がれています。ぬるま湯から出られません。まるでサーカスの像のように、杭に繋がれると、自分は逃げ出せないと思い込み、自分はダメだとあきらめています。違います。あなたはできるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 主イエスは、あなたをあらゆる束縛から解き放つ方です。
 今、あなたは何につながれていますか。


4、主がお入用です

 このロバが二重まぶたで美しいとか、力があるとか、血統が良い、気立てが良いとか、書いてありますか。カラオケの歌がうまいとか、コンピュータースキルがある、リーダーシップがあるなどとは書いてありません。選ばれた理由は、ロバの中にはないのです。

 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(3節)

 ロバが選ばれた理由は一つだけです。主イエスが、必要とされたという事です。平和の君、主イエスが乗る動物としてロバが一番適切だったのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就のためにもロバが必要なのです。

 ロバがイエスさまを乗せてエルサレムに向かった時、道を埋めた人々はロバに目を向けたのでしょうか。いいえ。主イエスを見て、賛美したのです。私たちの人生も同じです。主をお乗せして歩くとき、主たほめたたえられるのです。あなたの賜物と、あなたの経験を生かした分野で主イエスをお乗せして歩きましょう。主の栄光のため用いられる。それが、ロバの本当の喜びです。

 使徒行伝の時代、ユダヤから地理的に離れたアンテオケで外国人がたくさんクリスチャンになりました。バルナバがアンテオケ教会に遣わされましたが、バイリンガルの働き人が不足しており、バルナバはパウロを捜しにタルソに出かけ連れてきました。(使徒11:25~26)この場面でも、バルナバはパウロに今日と同じようなことを話したはずです。主があなたをアンテオケで必要としていると。

 イグナチオ・デ・ロヨラは、パリの大学で学んでいたとき15歳年下の青年と寮の同室になりました。1529年のことです。主イエスの福音のためにすべてをささげよと熱く説得し、それに応えたのがフランシスコ・ザビエルでした。

 まとめます。主イエスは、経験も実績もない子ロバに目を留め、つながれていた紐をほどいて新しい出発に導かれました。主イエスは、子ロバのお前が必要だと言って下さいました。この招きに応えた時、主イエスをお乗せしてエルサレムに行くことができました。

 私は大学3年の3月、今日の箇所を読んで、主が私を牧師の働きに招いて下さっていると確信し、水曜の祈祷会であかしをしました。当時は、神学校の学費とか、自分の能力なと、二次的な事に思え、主の招きに応える喜びで心は躍っていました。私が所属していた教会は、私を含め3人が神学校に同時に行くという事態を主からの導きと受け止め、3人の授業料と寮費を全額支援してくれました。今考えても、素晴らしい教会、ささげる教会だと感動します。

 あなたは、人に誇れるものが何もないと嘆いていますか。それなら、あなたはロバです。未熟で、誰も相手にしてくれませんか。それなら、あなたはロバの子です。サラブレッドでない自分を嘆いてはいけません。たとえ人が何と言おうとも、主イエスはあなたが必要だと言って下さいます。あなたのスペアは世界中に一つもないのです。

 あなたが今生きているは、主があなたを必要とされている印です。主の期待に応えましょう。今週、あなたが必要なのだという具体的な依頼が来るかもしれません。「主の用なり」と積極的に自分をささげましょう。


 →あなたの番です
  □王である主は、あなたが必要だと言われます
  □主の招きに応答し、主に用いていただきましょう。
  □どんな分野で、主をお乗せして進みたいですか

第2コリント13:1~13 吟味する

 あなたは、どんな人になりたいですか。どんなクリスチャンになりたいですか。その理想像に近づくために、何をしたら良いでしょう。そのヒントが今日の箇所、第2コリントの最後の章、13章にあります。

1、自分の信仰を見直す

 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(第2コリント13:5)

 Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves. (NIV) まず、自分自身の信仰を吟味する必要があります。それが、理想のクリスチャンに近づく第一歩です。あなたの普通の生活態度、それが、あなたが信仰を如実に表しています。

 今まで、コリント教会の一部の人がパウロをテストしてきたのですが、今度は、パウロが逆にコリント人の信仰のありかたを問いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分をためし、また吟味しなさい。」(5節)パウロは第1コリント16:13で「堅く信仰に立ちなさい」と命じていましたが、コリントの人々は口で信じると言いながら、行動で信仰を否定していました。

 「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。」主イエス・キリストが私たちの中におられる。このことに気づいて生きているなら、信仰に立っていると言えるのです。私たちは、私たちの中におられる主イエスを忘れたり、無視したりして生きる悪い癖を持っています。

 この箇所と関連して、賛美歌の歌詞を思い出しました。アナ・P・ウォーナー(1822-1915)作詞のとても有名な子供賛美歌です。

 Jesus loves me! This I know, For the Bible tells me so. Little ones to Him belong; They are weak, but He is strong. Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. 

 この歌を明治維新の頃、バプテスト宣教師のゴーブルがこう翻訳しました。「エスワレヲ愛シマス。サウ聖書申シマス。彼レニ子供中。信スレハ属ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。サウ聖書申ス。」
 主イエスを信じる者は、主イエスの中におり、主イエスに属しているのです。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)というパウロの説明と同じ思想です。

 会社や学校で、何かの問題に出会ったとき、主イエスと相談しましょう。家庭の事柄や、自分の将来の事で、何かの決断が必要な時、主イエスに尋ねましょう。嬉しいとき、主イエスに話しましょう。悲しいとき、主イエスに伝えましょう。



2、目標は高く

 パウロはこの手紙で何度も自分の役割が、信仰のコーチだと語ってきました。(第2コリント10:8、12:19)10節でも「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」と語っています。

 「私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」(9~10節)

 11節でパウロは、クリスチャンの目指す一つの理想の姿を掲げました。理想の姿を持つこと。それは、信仰の成長を促す一つの方法です。

 「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11節)

 クリスチャンが目指す目標とは、喜び、完全、慰め。一致と平和です。

 「喜びなさい」とあります。神に愛されている、罪が赦されている、主イエスが共にいて下さることによる安心が喜びの土台です。そのままで良いという大きな安心が私たちを包みます。
 カトリックのシスターで大学理事長をされた渡辺和子さんは、一日を振り返り3つの感謝をノートに書いたそうです。こういう姿勢は、喜びを習慣化させる良い方法ですね。
昨日プロポーズされ結婚を承諾した女性の喜びが簡単に消えないように、神の愛は私たちに大きな喜びを与えてくれます。

 「完全な者になりなさい」とあります。目標は高いほうがいい。パウロが掲げる目標はとてつもなく高い。高いがゆえに、私たちは自分の不十分さに気づき、成長したいと思うのです。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)とマリヤが言ったように、神が共にいて、神が助けて下さるなら、高すぎる目標ではないのです。
 あなたは、どの部分を変えたいですか。何を身に着けたいですか。何を学びたいですか。理想のクリスチャンになるには、今日何をしたらいいですか。今週何をしますか。この1ヶ月で何をしますか。この1年、この10年で何をしたいですか。

 「慰めを受けなさい」とあります。新共同訳では「励まし合いなさい」となっています。パウロがこの手紙の中で特に強調してきたことは、弱さと慰めでした。生きているなら誰でも必ず落ち込みます。それが人間です。だから、神と人からの慰めと励ましが必要なのです。
 垂直方向での神との交わりと共に、水平方向の人間との交わり。この両面があって初めて、クリスチャンは成長します。
 ある高校の先生が卒業式の後で、一人の生徒にこう言われたそうです。「先生だけは、私を見捨てないでいてくれました」家庭的にも、成績面でも問題があった生徒でしたが、その先生は授業中にこの学生と目が合うと、微笑んであげていた事を思い出しました。

 「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」とあります。一人で聖書を瞑想し、長時間の祈りを行い、霊的に高められ、心が完全にきよめられたという人がいたとします。ところが、家庭ではわがまま、職場では他人を無視、教会では仲間を見下ろすなら、その人は裸の王様と同じことになります。
 周囲の人、とくに家族や親友などの間で、愛を通わせ、交わりを修復できる能力はとても必要です。あなたは、誰かを具体的に援助していますか。誰からか相談を受ける人ですか。交わりの中でも平和や一致を求める人になりましょう。

 あなたはどんなクリスチャンになりたいですか。理想と今のあなたは、どれくらい違いますか。どうしたら、そのギャップを埋められますか。

 最後の祈りは、キリスト教会に広く知られている祝祷です。父なる神、子、聖霊が同列に扱われ、三位一体の根拠となる大事な聖句でもあります。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)

 あなたがどんなに罪深くても主イエスの恵みは必ず届きます。自分が無価値に感じても、神の愛は無限にあなたを包んでくれます。孤独をかみしめているなら、聖霊があなたの真の友であり、あなたとの交わりを決して放棄しないことを忘れないで下さい。

 この10年間、ほとんど毎日、私たち夫婦は夕食後にウォーキングをしてきました。共に歩き、共に語る中で、妻と心を通わせることがどんなに大切なことかを知りました。
 妻との心のつながりが深くなる中で、主イエスと共に歩むという意味がだんたんど理解できるようになりました。それに比例するように、信仰とは何か、少し分かるようになってきました。聖書知識を頭に詰め込むことや、自分の意志の強さで物事を行うことや、特殊な奇跡を待って手を上げ続けることが信仰の本質ではない。生きておられる主イエスと共に、歩くことが信仰の中核なのだと気づいてきました。

 子供賛美歌でもう一つ、私の好きな歌があります。「主イェスと共に歩きましょう、どこまでも。主イェスと共に歩きましょう、いつも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、いつも。」あなたも、主イエスと共に歩きましょう。

 →あなたの番です
 □あなたの信仰を吟味しましょう
 □喜び、完全、慰め、平和を求めましょう。
 □理想のクリスチャンになるために何をしますか
  今日、何をしたいですか。1ヶ月内に何をしたいですか。
  1年以内に何をしたいですか。10年の間に何をしたいですか。

第2コリント12:1~21 弱さを誇る

 履歴書に自分の欠点や弱さを書く人がいるでしょうか。たとえば、国際線の飛行機に乗り遅れたことが2回、なくした携帯電話は5個、失恋が3回。
 パウロは、あえて弱さを明らかにしました。それは、なぜでしょう。
 
1、頂上の経験  <第三の天に引き上げられる>

 自分の強さを語る。それが、自分の立場を守る普通の方法です。

 「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。」(2節)

 14年前とあるので、この経験はダマスコにおけるパウロの回心の出来事ではありません。1節では「主のまぼろしと啓示」とあるので、主に主導権があったと理解できます。「引き上げられました」との表現からも、神によってもたらされた特別な経験だと分かります。
 「第三の天」は、4節で「パラダイス」と置き換えられています。パダダイスは、新約聖書で3回だけ登場する言葉で、主イエスが十字架上で悔い改めた強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言われたことから、主イエスを信じた者が死後にいく場所、主イエスがおられる場所だと分かります。黙示録によると「いのちの木の実」(黙示録2:7)のある場所がパラダイスだと言われていますが、それは天国と良く似ています。(黙示録22:2)

 「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(4節)

 これは、エベレストの頂上に立つような霊的な経験です。これ以上高い山はない、クリスチャンとしてこれ以上素晴らしい体験はない一生に一度の歓喜の時となりました。

 あなたも、このような頂上の経験がありますか。

 信仰的に最も恵まれた経験。奇跡を体験した。祈りの中で主がすぐそばにおられるような時を過ごした。神の言葉を耳で聞いた。
 そうした霊的な経験以外でも、頂上の経験に似たものはあります。あなたの優れた能力。財産や家柄という誇り。身体的美しさ。賞賛を受けた業績。

 これらの頂上の経験は、危険要素をはらんでいます。自分を大きくみせようとする傲慢さが忍び込んできます。周囲の人を見下したり、裁いたりしやすくなります。



2、谷底の経験  <肉体のとげ>

 パウロは、次に、自分の弱さを語り始めました。

 「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(7~8節)

 「肉体のとげ」ということは、実際の痛みがありことを意味します。「私を打つ」という表現から、その痛みが激しいものであると分かります。神からの愛の警告とは言わず、「サタンの使い」という言葉を選んだところから、情け容赦のない痛みだと想像できます。命を投げ出すように必死に何度も祈ったけれども聞かれなかったという事を、「三度も主に願いました」という言葉で表現しました。これほど真剣に純粋に祈ったことがなかったのに、かなえられなかったのです。

 パウロの肉体のとげは、何だったのでしょう。パウロは詳細に書きません。目の病気、むち打ちによる後遺症、ひどい持病、てんかんなどの可能性が聖書学者により指摘されていますが、とにかく、パウロは具体的に書きたくなった事なのです。肉体のとげとは、言いたくない事なのです。

 第三の天に引き上げられたのが山頂の経験と言えるなら、これは、谷底の経験です。
 祈ってもかなえられない、無力さ。サタンの使いに苦しめられるという霊的暗黒。何度も襲ってくる痛みの中での、みじめさや孤独。パラダイスの経験は一度きりでしたが、肉体のとげは頻繁に襲ってくる現在形の痛みであり、いつ終わるともしれない不安を伴いました。

 あなたの弱さは何ですか。とげは何ですか。谷底の経験は何ですか。

 失恋の痛手。最愛の人を失った悲しみ。他人には当たり前のことが自分にはできない辛さ。生まれた家や家族の恥や痛み。自分が抱える肉体的なハンディー。

 みじめさ。疑い。痛み。孤独。無力。私たちは、みな、この種の弱さを抱えています。



3、頂上と谷底がつながる時

 普通の人なら、頂上の経験はフォトフレームに入れて飾ります。パウロも、それだけ離せば、にぜ使徒たちを蹴散らすことができたのです。
 肉体のとげという悩みは心の引き出しの一番奥に放り込み、誰にも見せないものです。パウロはそうしませんでした。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロは、肉体のとげについて主に除去を願い出ました。その祈りの期間が、数ヶ月か、数年かは分かりません。でも、主イエスの言葉が、心に届いたとき、はじめて、頂上と谷底がつながったのです。

 第三の天の経験で高ぶることがないように、痛みはどうしても必要なものだったのです。

 「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないよに」(7節)

 肉体のとげや弱さというのは、欠けたり不足した状態ではないとパウロは悟りました。「わたしの恵みは、あなたに十分である」とあるように、痛みと恥と無力感の中に、主イエスの恵みが不足することなく十分に注がれていたのです。主イエスの愛は、弱さの中にあふれるほど注がれているのです。主イエスの力は、私の弱さの中にこそ現れるのです。それも、完全に。弱さこそ、主イエスを身近に感じられる入り口です。

 伝道者の正木茂先生は、その著書に何度も内山さんという方の話を書いておられます。内山さんは九州の大学病院に入院されていた方で、とても難しい病気になられました。当事は治療法がなく、薬の入った風呂に全身を浸しておく以外生きていくすべがないという状態でした。
 主イエスを信じていた内山さんは、薬の液が滴る手で手紙を書き、主イエスを伝え、困難の中にいる人を励ましました。亡くなる前の最後の言葉は、「神は愛だ。それは本当だ。かみの恵みは私に足れりだ」と言われて天に召されたそうです。

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

 弱さが、神への信頼を強めてくれます。
 弱さが、愛の人を作ります。
 弱さが、傲慢にならないための防波堤になります。
 弱さが、主イエスが身近におられると教えてくれます。
 弱さが、主イエスの力の注ぎ口です。
 弱さは、宝です。

 「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

  あなたの番です→
   □あなたの「第三の天」の経験は何ですか
   □あなたの弱さ、「肉体のとげ」は何ですか
   □今週、あなたの弱さを生かして、主の栄光を現しましょう
 

第2コリント11:16~33 心配と苦しみ

1、異なる福音

 あなたが真面目な人かどうか、ちょっとテストをしてみましょう。
1)深夜、交差点にあなたが立っています。どこにも自動車がいません。歩行者用の信号が赤ですが、渡りますか、待っていますか。
 2)お店でおつりをもらいましたが、10ドルよけいでした。返しますか、主の恵みと勝手に納得して、もらいますか。
 3)車の運転席から、ガムやタバコを捨てる人を見たら怒りますか。
 信号を待ち、おつりを返し、怒るなら、あなたは正真正銘の真面目な人です。

 クリスチャンが真面目になりすぎるとやっかいな問題が生まれます。それは、律法主義です。一方的な恵みで救われたことを忘れ、真面目でいることが救いの土台であり、真面目に行動することがクリスチャンの目標だと思い違いをする人がいます。

 パウロは、コリント教会に混乱を招いた人々を、「にせ使徒」(13節)と呼んで糾弾し、にせ使徒が、「異なる福音」(4節)を持ち込んだと指摘しました。

 「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(13節)

 「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(4節)

 異なる福音とは、律法主義です。主イエスを信じるだけでは不十分で、ユダヤ人のように行動することが必要だと主張しました。ガラテヤの教会でも同種の問題が起き、パウロは以下のように救いの本質を説明しました。

 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)

 人間は、自分の行いや真面目さが救いにつながると考えやすいものです。ですからパウロは、救いの本質が恵みであると語り、人間の力や熱心、真面目さを誇ってはならないと語りました。

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 真面目なクリスチャンは、自分の思考パターンに気をつけてください。自分の良い行いを誇らないようにしましょう。自分だけがクリスチャンのエリートだと錯覚して、他人をさばくことのないようにしましょう。



2、差し出した愛

 人が何かを誇るときは、自分の業績や能力を誇るものです。ですからパウロは、自分が教会を多数開拓し育てたことを誇ることができたはずです。病人をいやした事や、学歴が高く聖書の知識に精通していること、復活された主イエスにダマスコで会った事などを話せば、にせ使徒との差別化ができます。けれども、パウロはそうしませんでした。その代わり、主イエスのために苦しんだ事だけを語りました。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(第2コリント11:24~27)

 三十九のむちを受けたことが5度あるとパウロは述べました。申命記25:3によると、ユダヤでのむち打ち刑は40回が上限とされていました、つまり、これ以上の刑は死刑しかない重い刑であることが分かります。
 ユダヤ人以外から受けたむち打ちが3度と書いてあります。これは異邦人によるむち打ち刑を指します。使徒16:33で、ピリピでパウロがむち打たれた後に、傷を洗ってもらったことが書いてあることから、ローマ兵によるむち打ち刑がどんなに過酷な処罰か分かります。
 石で打たれたと書いてありますが、これは死刑なので、生き延びたこと自体が例外的出来事でした。

 パウロがむち打たれていた時、何を考えていたでしょう。主イエスが十字架で苦しまれたことを思い起こしていたのではと思います。

 最後にパウロは、あちこちの教会のクリスチャンに対する心配で押しつぶされそうになったとも書いています。(28~29節)苦しみ以外に誇れるものは、自分が弱いことしかないと語ります。
 「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30節)


 パウロは、11章前半で、コリント教会の人々のことが心配だと書き、後半では、主イエスのために苦しんだことを書きました。
 誰かのことが心配になる。誰かのために苦しみを担う。それを一言で言い表すなら、愛です。パウロが、コリントの教会と、主イエスに差し出したものは、愛だったのです。


 あなたも、主イエスのために、迫害されたり、ばかにされたりしたなら、あなたは主イエスを愛しているとあかししているのです。今週、主イエスのために苦しみを背負ったなら、しっかりとそれを背負いましょう。

 身近な人のことで、心を痛めたり、苦しんだりしていますか。難しい10代の子供に振り回されていますか。それは、あなたが、その人を愛しているという証拠です。愛しているなら、苦しみを共に担いましょう。

 主イエスは、十字架であなたのために苦しみを背負ってくれたのですから。


 あなたの番です→
 □良い行いを誇らない
 □苦しみの中で主イエスの十字架を思う
 □愛しているなら、苦しみも心配も背負って歩こう

第2コリント10:1~18 「強さ」とは

 パウロは、コリント教会の一部の人から批判を受けていましたが、10章からその問題を本格的に取り扱います。
 
 あなたは批判する人ですか。批判を受ける立場ですか。

 今日は、批判に関する問題を取り上げながら、本当の強さとは何かを考えてみたいと思います。


1、的外れな批判を受けたパウロ

 パウロは、コリント教会の開拓伝道者であり、初代牧師でした。コリント教会を離れて数年たった今、教会の一部の人、おそらく外部から入り込んで来た人々によってパウロは鋭く批判されていました。

1)信仰的でない
 パウロを批判する人々は、パウロが「肉に従って歩んでいる」(2節)と非難しました。パウロが神を忘れ、自分の力だけで仕事をしていると指摘したのです。これは、一方的な思い込みです。パウロをねたむ心が背景にあったのでしょう。
 パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」(3節)と切り返しました。パウロは、神に由来する力を体験していました。(4節)

2)弱々しい
 「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」(10節)
 パウロが謙虚に話したり聞いたりした姿勢を、弱腰だと非難しました。使徒26章によればパウロはアグリッパ王の心を揺るがす説教をし、使徒22章によれば暴徒たちの前で救いのあかしを堂々としたので、むしろパウロは雄弁であることが分かります。
 パウロは、「そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。」(11節)と答えました。

 リーダーとは、批判という海を泳ぎ続ける人のことです。

 私は、高校時代は運動部のキャプテン、大学時代は聖書研究会のリーダー、そして、長い年月牧師をしましたが、リーダーであることは批判の中に生きることだと認識しています。
 あなたも、会社で長く働けばリーダーになります。「長」の付く役職になります。家庭でも、結婚して子供が与えられれば、父であり母であり、家庭のリーダーになります。教会でも様々な奉仕の中でリーダーになります。男はつらいよ、ではありませんが、リーダーという立場はつらいのです。

 批判にさらされるリーダーであることを止めなかった人。それが、パウロです。それが、本当の強さです。



2、問題のある批判者

 非難している人自身に問題があるとパウロは指摘します。

1)高ぶり

 小林一茶は、「他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貪欲、恐るべきはおごり」、と言いました。
パウロは、批判者の心に高ぶりがあると見破りました。

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

 非難という行為は、高ぶりから出て来る場合が多いものです。自分を良く見せたい、自分がリーダーになりたい、尊敬されたい、という願いが私たち自身を高慢にします。神を敬う心を忘れ、自分の弱さから目をそらしています。

 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(6節)
 本当の強さを持つ人は謙虚です。主イエスに従順な心は、自分の限度や割り当てを自覚できます。
 「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。」(13節)

2)間違った優越感

 批判者は、間違ったエリート意識を持ちます。自分たちだけがキリストに属していると勘違いしていました。

 それで、パウロは、こう諭します。「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」(7節)

 本当にキリストに属している人は、キリストに属している他のクリスチャンを見抜けるはずです。それが見抜けないのは、批判者がキリストに属していないという証拠になります。


3)自己推薦している(12節)

 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」(12節)

 コリント教会に紛れ込んだ、<にせ使徒>、あるいは、<にせ教師>は、パウロの悪口を言い、コリントの教会の一部の人々は完全に巻き込まれてしまいました。
 こういう種類の人を、私は「教会無宿ならず者」と呼びます。信仰年数が長い人が、どこかの教会に流れ着きます。神学校で聴講した経験があったり、教会役員経験者、学識者、社会的地位の高い人の場合もありますが、こうした人が、家庭集会などで周囲の人の不満を上手に聞き出し、牧師批判を始めます。教会が分裂状態になり、牧師が辞任せざるを得ない状態になります。私は、こうした例をあちこちで見聞きしてきました。
 あなたを含めて、すべてのクリスチャンはそういう人になる危険があります。霊的傲慢ほど恐ろしいものないのです。

 パウロはこう言いました。「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17節)
 「主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(18節)




3、私はどうだろう


 あなたは、批判者ですか。あなたは、批判される人ですか。

 批判的態度だけで一生を終わらせると、「いじわるばあさん」、あるいは、「頑固じじい」になります。神を知り、信仰の成長を遂げた人は、「励ましじいさん」と「感謝ばあさん」になれます。


 良いものを生み出すために、正当で客観的な評価は必要です。問題は、独断的で悪意ある心や否定的な感情に支配された人の批判です。

 誰かを非難したいという衝動にかられたなら、神の前で静かに祈ってみましょう。平安があなたを覆うなら、適切な言葉を選んで、本人に直接話して下さい。平安がないなら、止めましょう。
 批判の言葉でなく、具体的で、積極的な提案をしましょう。さらに、私に協力させてくださいと一歩前に出ましょう。

 第二次世界大戦中のイギリスの首相チャーチルはこう言いました。「築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。」

 今日の一番大事な言葉はこれです。

 「あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。」(8節)

 「立てるために主が私たちに授けられた権威」私たちは、評論家になるために生まれたのではありません。文句を言うだけの人、悪意ある批判をする人、自分以外を否定する人、否定的な言葉で他者を叩き潰す人になるために神に造られたのではありません。私たちはみな、誰かを立てあげるために生まれてきたのです。

 私の知り合いのイラストレーターは、アメリカの会社に中途採用され、絵がうまいので先輩にねたまれました。先輩は部下を使い嫌がらせをさせ、「I don’t like you」と職場で言わせました。クリスチャンの彼は、「I like you」と返事しました。再び「I don’t like you」
と言われても、「I like you」といい続け、結局喧嘩にも、混乱にもなりませんでした。


 何かを作り上げたいという目的を持ったリーダー達は、困難を乗り越え、問題的を改善し、調和を作り、最終目的に邁進する人です。目的達成のためなら、泥をかぶること、叩かれること、傷を負うこと、批判されること、遠回りの道も厭いません。

 あなたは、どちらですか。壊し屋ですか。建築家ですか。家庭や教会、会社や地域で、どちらの立場にいますか。無責任な批判者で一生を終えますか。勝利を信じて汗を流し手を取り合って進む主イエスの弟子になりませんか。

 主イエスは、公生涯のほとんどを律法学者からの批判を浴びて歩まれました。けれども、主イエスは、批判ばかりする私たちの罪を赦し、ネガティブな私たちを積極的に励ます十字架の道を選ばれました。主イエスこそ、真の建築家です。

 「十字架は重いが、ふしぎなことに、
 おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
 初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
 この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。」
      ―ヒルティ「眠られぬ夜のために」3月13日―


 あなたの番です→
 □批判的になりやすい自分の動機を見つめよう。
 □建て上げる人になろう。提案者になろう。サポーターになろう。
 □主イエスに習い、批判につぶされない、強さを持つリーダーになろう