詩篇27篇 一つを願う



 恐れない、こわがらない、動じない、と苦難の中でダビデは言いました。
 詩篇27篇から、苦しみの乗り越える3つの秘訣を学んでみましょう。

1、神の助けを振り返る

 「♪古いアルバムめくり、ありがとうってつぶやいた♪」
 この歌のように過去を思い返して感謝できるとするなら、あなたの人生は素晴らしい人生です。神の助けが、あそこにも、ここにもあったと振り返れるなら、今日の苦しみに耐えることができます。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(1~3節)

ダビデは、苦しみの真っ最中に自分の過去に目をやりました。
まるで猛獣が獲物に襲い掛かり牙を剥いたような瞬間があったのですが、気がつくと、敵は自分でつまずき、自分で倒れ、自滅したのです。主の助けを受けた過去を振り返ることが、現在の苦しみに立ち向かう力になります。

あなたも、今ここで、自分の人生を振り返ってください。
私が思い出すのは、牧師になって結婚し二人の子供が与えられた後のことです。家内は慢性腎炎になりドクターから「もう子供は生めない、海外での働きは諦めなさい」と言われたことがありました。主のあわれみで数年後にいやされ、末娘が生まれ、今アメリカに住んでいます。すべてが主の助けです。主のみわざです。

あなたの周囲に敵がいますか。それなら、ダビデと同じく神の助けを振り返りましょう。主は、私の光、私の助け、いのちのとりでです。だれをおそれよう、だれをこわがろう、と言いましょう。



2、最も大事なことに目をとめる

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4節)

 苦しい時は、最も大事なことに目を留めるのです。主の前に出ること。主を礼拝すること。それが、苦しい時に私たちがすべき最も大事な事です。「一つのこと」です。
私たちを造り、愛し支えておられる神に感謝し、神の栄光を表す。つまり、神を礼拝することが私達の生きる目的の中心です。

 日本山岳救助機構によると、霧や雨で道を失った時は、谷や沢に下るなとアドバイスしています。迷った時は上へ。すると道に出たり、尾根に出る。安易に沢に降りると斜面がきつくなり、川が滝になり、足を踏み外して怪我して事態が一層悪化します。上を見上げることです。
 試練の時、苦難の時、礼拝を後回しにする人がいます。それは、安易に沢に下るのと同じです。苦しいから礼拝を第一にするのです。神の前に出ることを最優先するのです。

 プロゴルファーのハンター・メーハン(31歳)は、13アンダーで単独首位を走り、賞金1億を目の前にしていましたが、試合を棄権しました。理由は、妻の出産に立ち会いたいという願いでした。日本男子には真似できません。メーハンにとっての「一つのこと」は妻を愛すこと、妻のそばにいることだったのです。一つを大切にすると、何かを捨てることになりますが、それでいいのです。

 ダビデは、神を見上げ、その麗しさに圧倒されていたかったのです。ヤコブとヨハネとペテロは、栄光に輝く本来の主イエスに山の上でお会いして、腰を抜かし、何も言えませんでした。パウロは「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実は、そのほうがはるかにまさっています。」(ピリピ1:23)と言い切っています。

 ダビデは23篇でも、「いつまでも、主の家に住まいましょう。」と言っていました。ダビデは、主を愛す人、主を礼拝する大切さを誰よりも知っていた人でした。

 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。(8節)

 あなたは、今苦しいですか。上に目を向けましょう。主を礼拝しましょう。



3、神を待ち望む

 最後にダビデがしたことは、神を待ち望むことでした。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14節)

 どうでもいいことに、一生懸命になるのが男です。
 私が小学生の頃、友達の自転車の後ろに乗って道路を走っていたことを思い出します。運転していた友人が「目をつぶるぞ」と言ったので、俺も男だったので「俺も目をつぶるぞ」と返事しました。数秒後、二人は自転車もろとも、どぶ川に落ちました。
 
 多くの人は、同じようなような過ちを実際生活でしています。過去だけ見て、未来に目を閉じ、行方も定まらない運転をしています。
 主の前の悔い改めもなく、誠実な反省もなく、何度も何度もあの人が悪いと一方的に責めたり、自分の失敗をくよくよ考え、あげくの果てに、自暴自棄になり、混乱し、制御不能になり、結局は、現在の自分なおざりにして、未来を築く努力が後回しになり、時間を無駄にしています。

過去と現在と未来。あなたは、この3つのうち、どこに住んでいますか。

もし、あなたが主を待ち望むなら、次のようなことが起きます。
 1)祈る人、謙虚な人、悔い改める人になれる。
 2)自己本位の欲求や、感情の嵐や、不安定さから解放される。
 3)遅れず、先走らず、神のタイミングを見極められる。
 4)否定的過去から目を転じ、未来志向になれる。
 5)自分の能力の限界から解き放たれ、神の可能性を信じられる。
 6)勇気と積極性が生まれる。
 7)主によって満ち足りることを学べる。
 8)苦しみ・試練を乗り越えられる
9)新しい自分になれる。
 10)世界を変えられる。

 ターニャとジョンの夫婦は2011年、4歳の娘を交通事故で失いました。父親のジョンは、事故現場近くにいて、娘と共に救急治療室まで行きましたが、娘の死に直面しました。
 自動車を運転していたのはティーンエージャーの少年で、薬物に関わっていました。犯人の裁判に出席し、少年を知っていくにつれ、被害者夫婦は憎しみから解き放たれました。娘は取り戻せない。少年は助けられる。彼が刑務所に行けば、一生涯、暗い人生だろう。社会奉仕と薬物回復クラスを受けて、刑務所に行かないで済むようにと夫婦は嘆願し始めました。「悲しみは消えないが、彼を完全に赦した」と夫婦は明言しました。

誰もあなたの未来は邪魔しません。未来を選びましょう。明日を信じましょう。
 主を信頼し、主を待とうではありませんか。


→あなたの番です
□神の助けを振り返りましょう
□今、神を慕い、神を礼拝しましょう
□主を待ち望み、あなたの未来に希望を抱きましょう
 

 

詩篇26篇 誠実に生きる


 
 誠実に生きる。
 それは現代社会で、最も忘れ去られた生き方。
 詩篇26篇は、誠実に生きた人の告白です。
 
1、誠実に生きた人の告白

 私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。(詩編26:1 新改訳)

 弁護するという言葉は、どんな時に使うでしょう。不利な立場に陥った人が第三者の援助を要請し自分の正当性を立証してもらう時の言葉です。ですが、26篇には誹謗する人や、しつこく訴える人の姿は見当たりません。むしろ、自分の正当性を神に確認してもらいたいとして、弁護するという用語を使っているように見えます。

 弁護してくださいという言葉は、ヘブル語では本来<さばく>という意味です。そのため、他の日本語訳では以下のように訳しています。
 「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」(詩篇26:1新共同訳)
 「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。」(口語訳)

 それにしても、大胆です。私は誠実に歩いてきたと言い切れるのです。神のへの信頼は揺らいだことがないと言うのです。
 私は、こんなふうに大胆に主に言うことはできません。あなたは、どうですか。

 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(2~3節)

 調べる、試みる、ためす。あらゆる角度から、罪があるか、不正があるかを調べてほしいとたたみかけて述べています。

 よく注目すると、「あなたの恵みが私の目の前にあり」というフレーズが織り込まれています。神の愛と神の恵みがあったので、誠実に生きてこられたと読むことができます。
 生まれてから一度も罪を犯さなかったというのではなく、大きな罪を犯し、何度も失敗し、自己嫌悪でつぶれてしまっても、神の恵みで罪赦され、罪から離れることができたと言いたいのでしょう。


2、悪者の仲間にならない

 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。(4~5節)

 嘘つき。人の陰口を言う人。だます人。徒党を組んで悪さをする人々。そういう人とは、一切関わりを持たないと言っています。詩篇1篇、冒頭部を彷彿させます。

 主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。(6~8節)

 いけにえをささげる祭壇の回りを感謝しならが歩く姿が目に浮かびます。神の栄光の住まう礼拝場所を愛し、神と共にいることを喜んでいます。

 どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。(9~12節)

 4~5節で、悪者たちに触れましたが、9~10節でも再度触れ、凶悪な人々とは無縁であることを強く主張しています。
 今までも誠実に歩んできましたが、これからもずっと誠実に歩むと心に刻んでいる様子が分かります。一言でいえば、平らな場所に立っている心境です。平安があり、安定しています。


3、誠実に生きる秘訣

 「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(ホセア6:4)とあるように、私たちの誠実とは、実にいい加減なものです。
 けれども、主の恵みを知り、主の贖いとあわれみ(11節)を体験した者は、謙虚さときよさを兼ね備えた生き方ができるのです。

 私の車は65マイル以上スピードを出すと、後ろのタイヤがガタガタ言ってとても乗り心地が悪くなっていました。右後ろのタイヤのホイールが一部へこんでいるとメカニックの方が指摘してくれて、新しいものに交換したら見事に安定した走りになりました。
 私たちもそれなりに正しく生きているのですが、肝心な部分にへこみや片寄りがあります。どんなに自分なりに正しいと思っても、結局、自己中心だったり、自分の罪を大目に見る生き方をしがちです。
 神に点検してもらい、きちんと心の掃除をして、悔い改め、謝るべきことは虚心坦懐に謝罪しましょう。主の恵みで贖われたのです。主の豊かなあわれみを受けたのです。ですから、主に信頼し、主の助けをもらって誠実に生きていきましょう。

 エベレストの頂上のように高くてきよらかで神に近い心を持ちながら、マリアナ海溝の最深部のような低く謙虚な心を持ち、誠実に歩むことが可能なのです。詩編26篇はその実例です。
 
 ある50歳代のご婦人が、余命半年の末期ガンとの宣告を受け、それでも動揺せずに、牧師を訪れ報告した方がいるそうです。残された時を生かし、主を喜んで礼拝し、日曜学校の奉仕をされ、主のあわれみと多くの人の祈りに支えられ2年半、主の前に誠実に生きて、本当に幸せだったと言って天に召されたそうです。
 その方は、自分が普通のクリスチャンであると述べたといいます。普通な人が、普通でない見事な生き方をされ、主から頂いた人生を見事に全うしました。主の前に誠実に生きるとはどんな人生なのかを示してくれました。

  「私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。」

 →あなたの番です
 □あらゆる角度から、主に調べていただき、悔い改めましょう
 □主の恵み、贖いに感謝しましょう
 □誠実に歩み、平らな場所に住み、主をたたえましょう




詩篇25篇 小道を行く


  私たちの人生では、道を見失うことがあります。
先に行きたいのに、障害物があって進めない。道に迷い、同じ所をぐるぐる回る。疲れ切って、先に行く気力を失う。
そんな時、詩篇25篇は大きな励ましになります。詩篇25篇は、道の詩篇です。

ところで、私は先週、聖書を読んでいた時、左目にフラッシュライトのような光が見えました。何だろうと考えて、また目を聖書に向けていると続けて光が見えます。おかしい。数分後、また閃光が見えました。以前読んだ本に、同じような症状で網膜剥離になり失明したクリスチャンの話を読んだことがあったので、愕然とし、その日は、自分の心の中だけで祈り、妻にも、教会の人にも言えないで過ごしました。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 私はただ一人で、悩んでいます。」(詩篇25篇16節)
まさに、16節の心境でした。悪いことに、翌日は独立記念日で病院は休みです。妻に話し、近所の教会員で眼科の医師に電話し、対策を教えてもらい、翌日はファミリードクターで診察、翌々日に眼科医に見てもらい、網膜剥離ではないと診断を受けました。ほっとしました。加齢のせいで、多くの人に同じ症状が出ると言われ、肩の力が抜けました。知識の足らない自分の空回りに過ぎませんでした。
妻や子供に祈ってもらい、心配してもらい、寄り添ってもらい、家族の愛、主の守りを感じました。謙虚になること、良く知っている人に道を尋ねることの重大性を身にしみて感じました。


1、全体の流れ

1)1~3節

 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。(1節)
 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2節)

詩篇の作者は今、辛い状況にある。困っている。馬鹿にされたり、笑われたりしている。でも、今の自分にできることをしようと心を決め、主を待ち望みました。


2)4~5節

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。(4節)

辛く、困っている時に、何をしたらよいのだろうか。主の道を教えてもらうことが最善の方法だ。出口なしと思える時でも、必ず神の道はある。解決の道は、人間の頭でこねくり出すものではなく、主に教えてもらうものです。


3)6~7節

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(7節)

自分を振り返ると、きれいな心でなかったし、若い時に大きな失敗もしてきた。だから、神のあわれみを求める。恵みによって、私を取り扱って下さるように願う。
罪の自覚は、導きを求める姿勢として、とても大切なもの。


4)8~11節

 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。(8節)
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。(9節)

 罪人にさえ、主は道を教えてくれる。それが、私たちの神。心の貧しさを痛切に感じる中で、咎の赦しを心から求める。


5)12~15節

主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。(12節)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(14節)

主に道を教えられる者は幸せだ。主をもっと深く知り、親しく感じるようになる。苦しむ時、共にいてくださる方が私たちの神。辛い時に、神との友情が深まる。


6)16~22節

私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。(16節)
 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。(20節)

今、確かに、苦しい。悩みは強い。だから、ひたすら、神のあわれみを求めます。助けてください。恥を見ることがないようにしてくださいと願うのです。
最初に、「あなたを仰いでいます」(1節)と告白しましたが、最後も「あなたを待ち望んでいます」(21節)と祈っています。


2、25篇のキーワード

 詩篇25篇のキーワードの第一は「道」です。4節にも、8節、9節、10節にも、「道」という言葉が繰り返されます。それで私は、道の詩篇、と呼ぶことにしました。

 「道」は、道路を表す旧約聖書で最も一般的な用語で、ヘブル語でデレクといいます。「小道」(オルハ)は、デレクの同義語で、繰り返しの際の言い換え語です。道は、人が歩く道路の他には、人生を意味します。また、方向性の意味もあります。

道は自分で作るもの、そういう考えが一般にありますし、誇り高い人間の特権のようにも思えます。ただし、詩篇25篇を読むと、道は作るものではなくて、道は教えてもらうものだと分かります。自分は道を知らないという現実、神は道を知っておられる。だから、謙虚さがどうしても必要です。

 「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)

道を教えてもらうためいは、謙虚になる必要があります。第2のキーワードは「罪」です。道が閉ざされたとき、自分のした罪が原因でこんな事になってしまった、と気づくことがあります。詩篇の作者は、道を失って苦しい時に、「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。」(7節)と述べています。主は、「罪人に道を教えられる」(8節)方なのです。

9節に「貧しい者」(アナウィーム)とありますが、この言葉の第一の意味は、謙遜な者、へりくだる者です。道を求める者は、自分の罪に気づき、自分の心の貧しさに気づいて謙虚になる必要があるのです。

第3のキーワードは、「仰ぐ」です。
道を教えてもらう心を持ち、自分の罪深さに気づいてへりくだった心を持ったなら、最後にすることは、主を礼拝することです。
あわただしく対策を練ったり、走り回って道を作ろうとする人には、心の静けさがありません。神を仰ぎ見るとか、信頼(2節)するとか、待ち望む(3節)ということは不可能です。
道を教えてもらうためには、ぴたっと立ち止まることが不可欠です。静まらないと、神のみこえは聞こえません。

「私の目はいつも主に向かう。」(15節)
「私はあなたを待ち望んでいます。」(21節)

 道を失った時、主に道を尋ねましょう。謙虚な心で、静かで礼拝する心で。


→あなたの番です
□道が見えないなら、神に道を聞く
□罪を告白し、謙虚になり、神を待ち望む