第1テサロニケ3:1~13 慰める時、慰められる時


 あの人を慰めてあげたい。
 自分自身が、慰めの言葉をもらいたい。
 あなたは今日、どちらですか。

 パウロは、テサロニケの人々を慰めようとしてテモテを派遣しました。テサロニケの人々の苦難の大きさを心配して、居ても立っても居られなかったのです。戻って来たテモテから良い知らせを聞いて、むしろパウロが慰められ、嬉しくなり、生きている実感を取り戻しました。それで、テサロニケの人々のために心を込めて祈りました。これが3章の内容です。

1、苦難に会う定め(1~5節)
 
それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。(第1テサロニケ3:2~4)

 ある国で活躍する一人の牧師さんから私は直接話を聞いたことがあります。礼拝中に投石され、教会を千人の人に取り囲まれ、誹謗チラシを町中に配られたというのです。現代でも、テサロニケのような状況にあるクリスチャンたちがいます。

パウロは悲観主義者ではなく現実主義者でした。「私たちはこのような苦難に会うように定められている。」と述べています。試練は避けられないし、驚くな(第1ペテロ4:12~14)とペテロも語っています。苦難に遭う定めはテサロニケの人々ばかりでなく、パウロも含まれていたので「私たち」と書いています。事実、パウロはこの手紙を執筆時も迫害の危険の中にいました。

パウロは以上のような視点を持っていますが、第1コリント10:13のように、試練とともに脱出の道があるとも語っています。

 あなたは、今、苦難で心がくじけそうですか。キリストゆえの苦しみがあるなら、キリストの慰めが必ずあります。

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(第2コリント1:4~5)


2、喜びの知らせ(6~9節)

 テモテが帰ってきました。テサロニケの良い知らせを届けてくれたのです。パウロが福音を伝えなければこんな苦しみに遭わなかった、と言ってパウロに反発する人は一人もいませんでした。むしろ、パウロに会いたがっていました。

このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。(7~8節)

パウロは、テサロニケの人々を慰めようと努めましたが、結局、パウロ自身が慰めと喜びをもらいました。

あなたが今、誰かを応援して、育てているなら、あなた自身も必ず苦しみます。でも、種をまいて手塩にかけて育てた農夫だけが収穫の喜びを体験するのです。「労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」(第2テモテ2:6)神こそが、私たちの成長を喜んでいて下さる農夫なのです。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15:1)
あなたの周囲の人を育てましょう、サポートしましょう、そして、農夫である神を信頼してその人の成長を御手に委ねましょう。




3、とりなしの祈り(10~13節)

パウロは祈りました。「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)また、テサロニケ訪問の道が開かれるよう(11節)にと祈りました。12~13節では、テサロニケの人々の愛がさらに増し加わり、聖い生活がおくれるようにと神に願いました。

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(12~13節)

 とりなしの祈りが目指すものは、主イエスの前に喜んで立てることです。
 祈るポイントは二つ。愛と聖さです。迫害の苦しさが増すと、自分だけが助かりたいと考えるものです。それで、愛が豊かになるように祈るのです。
 迫害の苦しみは大きなストレスを与えます。誘惑に負けたり、欲望に負けたりしやすくなります。だからこそ、聖さを保てるようにと祈るのです。

第1テサロニケ3章は、人を育てるパウロの苦悩と喜びと祈りが書いてありました。結局のところ、慰めようとした人が、慰められるのです。

ご主人に先立たれた若いクリスチャン女性が、悲しみで毎日押しつぶされていました。あるクリスチャン女性が声をかけてくれて、「ご主人が亡くなって半年ですか、これからもっと辛くなるね」と言ってくれました。その言葉に慰められました。同じく夫を失った人の言葉だったので、とても勇気づけられました。その後、同じ悲しみを背負ったクリスチャン女性が集まり、語り合い、祈り合ううちに、グリーフグループを立ち上げることになりました。悲しみに押しつぶされていた彼女は、今では、多くの人の悲しみに寄り添う人になっています。
慰めを受けた人が、いつしか、慰める人になるのです。主イエスの御手の中で。

私たち皆、慰めが必要です。
そして、慰める人になれます。

→あなたの番です
□苦難の中に、キリストの慰めあり
□農夫の苦しみは、収穫の喜びに変わる
□とりなしの目指すもの:主イエスの前に立てる人


 

第1テサロニケ2:1~20 母のように、父のように


 人を育てる。
 生きていく限り、誰もが会社や家庭で人を育てる立場に立ちます。どうやって人を育てればいいのでしょうか。母のように、父のように、そして、みことばを植え付けることがパウロが人を育てる方法でした。

背景の説明

 使徒17章によると、テサロニケでは、主イエスを信じたなら即、迫害の対象になりました。たとえばヤソンは、ならず者に家を荒らされ、無実の罪で官憲に突き出され、意味不明な金まで払わされました。

 パウロの敵対者は、テサロニケ伝道が無意味だったとか、パウロはテサロニケ人のことより自分の成果にしか興味がなかったと強く非難しました。それでパウロは、1~6節でテサロニケ伝道の動機が純粋であり、迷いやだまし事やむさぼりとは無縁だと反論しました。また、使徒の権威を乱用せず、母のように、父のように育てたと語りました。
 13~16節において、テサロニケ人が受けた迫害と、エルサレムの人々が受けた迫害は良く似ており、ユダヤ人は神の怒りを積み上げていると語りました。

1、母のように

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(7~8節)

 母の特徴は、第一に優しさ、第二に与える、です。
 母の優しさには、平安、落ち着き、満足、愛が込められています。小さな子供が母親のもとに走り寄ると、いつも大きな優しさに包まれます。

 「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。」とあるように、母の愛は与える愛です。目や耳を向け、時間、お金、体力、気遣い、食べ物を子供に与えます。

 今週、今週、身近な人に優しさで包み、あなたの持っているものを与えましょう。失敗をした相手を受け入れ、意気消沈した人の傍らに座ってみましょう。


2、父のように

また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。(11~12節)

父の特徴は何でしょう。第一に方向性、第二に励ましです。

「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし」とあります。神にふさわしく歩めと教えるのが父です。つまり、人生の目的、目標、使命、アイデンティティーなどに関わる分野で、方向性を示すのです。

人生には、逆風、挫折、誘惑、暗闇がありますが、励ますことが父親の仕事です。勧め、慰め、命じるのです。パウロは、テサロニケに滞在中、迫害を受けながらも天幕作りの仕事を行い、逆風に負けない父親像を見せています。

父性の乱用は、暴力や怒鳴り声に表れます。暴君ではなく、優れたコーチを目指しましょう。子供が転んだ時に走り寄って「痛いの痛いの飛んでけ」と言うのではなく、子供が立ち上がった姿をほめるのが父親です。

「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)主イエスこそ人生における最高のコーチです。

今週、父親的な目を持って、方向を示し、励ましましょう。


3、神の言葉は、生きて働く

こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(13節)

「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(13節)牧師の仕事は、人々の心に神の言葉を蒔くことです。牧師の言葉は消え、聖書、神の言葉が残るなら、それで牧師は満足です。

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)

神の言葉を人々の心に届けましょう。それが、人を育てます。必ずいつか、芽を出し、花を咲かせます。

 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。(18~20節)

パウロはテサロニケを再訪するつもりでした。2度計画しましたが、どうしても実行できなかったと述べました。これを聞いただけで、テサロニケの人々は涙したことでしょう。パウロが命を捨てる覚悟でテサロニケに来ようとしてくれたからです。
さらに、パウロが最後に言ってくれた言葉にどれほど心を打たれたことでしょう。テサロニケの人々を誇りに思うとパウロが言ってくれたからです。

アメリカの小学校で子供の作品展がありました。どう見ても、大人の作った立派な作品ばかりでした。でも、子供たちは自分を助けてくれたお父さんを誇らしく思いながら、自分の工作の前に立っていました。あるお父さんは、「こら、手を出すな。お父さんが作っているから邪魔するな」と作成中に子供を叱ったそうです。

私はおまえを誇りに思うよ、と子供たちに言ってあげましょう。人前でも、人がいなくても、おまえは私の喜びだと言ってあげましょう。心からの言葉は子供に届きます。

徴兵制の韓国でキム・ソンスクさんが軍隊に入りました。珍しく父親から手紙が来て、元気か、体は大丈夫か、きつい仕事だろうと励ましてくれたそうです。返事を書いた後も、何度か手紙を父に出しましたが、返事はもらえませんでした。休暇で実家に帰ると、脳卒中で右半身不随になって横たわっている父に対面しました。会話が不可能になった父は、左手でノートを指さしました。中を見ると、1ページ全体に息子の名前が大きく書いてありました。よれよれした文字は左手で書いたからでした。次のページも、同じく、大きく自分の名が書いてありました。その次のページもそうでした。父は、こうして、息子に返事を書いていたのです。

私たちの神も、私たちの名を呼び、わたしもお前を誇りに思うと伝えてくれる方です。だから、私たちも、誰かを優しさで包み、励ましの言葉を伝え、神の言葉を心に灯しながら、誰かを育てましょう。そして、私はあなたを誇りに思うとしっかりと伝達しましょう。

→あなたの番です
 □母の優しさで人を包もう
 □父の力強さで人を励まそう
 □神の言葉を人の心に蒔きましょう


第1テサロニケ1:1~10 愛されている者たちよ


 パウロは、人の素晴らしさ見抜き、神の前で感謝する人でした。

1、信仰と希望と愛

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(2~3節)

いつも、絶えず、テサロニケのすべての人のため、祈り、感謝したパウロ。パウロは、テサロニケの信者たちの3つの特徴をすぐに言えました。「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」手紙のこの表現を読んだ人々は、涙を流したかもしれません。

私は、子供たちの素晴らしい点20項目を書いて、手紙で送りました。妻からの同様の手紙も同封しました。子供たちは、それをとても喜んでくれました。

あなたも、パウロのようにしませんか。身近な人の良い点を最低3つ思い浮かべ、感謝の祈りをささげるのです。それを、本人にもはっきりと伝えるのです。

テサロニケ人の持っていた良いもの3つは、信仰、愛、望みです。これは、目に見えないもので、働き、労苦、忍耐は、目に見えます。健全な信仰は行動に表れ、本物の愛は苦労や痛みや疲れや犠牲が伴い、主イエスにある望みは、願いがかなうまで忍耐する力を与えてくれます。あなたは、信仰、希望、愛の3つの分野で、どれを持っていますか。何が足りないですか。

 さて、この手紙の背景に触れます。
 第2回伝道旅行の際、パウロはテサロニケを訪れ、わずか3週間程度の滞在でしたが教会を組織すると(使徒17:1~10)、すぐアテネに移動しました。ユダヤ人からの迫害があまりも執拗で激しくパウロは命の危険にさらされたのでテサロニケを脱出したのです。パウロは残した人々が心配だったので弟子のテモテをテサロニケに(第1テサロニケ3:1~3)遣わしました。パウロはテモテから様子を聞き、コリントからこの手紙を書きました。そして、手紙の冒頭は、テサロニケ人の素晴らしさを率直にほめ、主に感謝しました。


2、愛されている理由

神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(4~6節)

 パウロは「神に愛されている兄弟たち。」と呼びかけました。
 苦しみの中にいるテサロニケの人々に向かって、今は辛い状況だけど、あなたは神に愛され、選ばれたのだと述べました。

 なぜ、なぜそう言えるのでしょう。その理由が5~6節に書いてあります。
 パウロがテサロニケで伝道した時、神の特別な力と聖霊の強い導きを受けたといいます。それが尋常ではなかったというのです。信じるなら、即、迫害を受ける状況だったのに、はっきりと信仰告白し、聖霊による喜びを体験した様子を見て、テサロニケの人々は神に愛されているとパウロは確信したのです。

 私たちが何度でも言ってもらうべき言葉は、「あなたは愛されている」です。自分が嫌いで、孤独で、自分の価値が見えない人がとても多い時代です。だから、何度でも言ってもらう必要があるのです。あなたは、そのままで、愛されていると。

 今苦しいけれど、神に見放されたのでも、嫌われているのでもなく、むしろ、神に愛されているのです。選ばれたのは目的がある証拠です。神はあなたのことを片時も忘れていません。


3、そのままで、励まし

こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。(7~8節)

 ベイビークリスチャン、純真な信仰、厳しい迫害、これがテサロニケ人の状況を表すキーワードです。迫害に苦しむ姿そのものが、他の人々を励ましていました。痛みと困惑の中にいた彼らが、ギリシア半島全体を勇気づけていたのです。

 信仰を持って日の浅いテサロニケ人は、パウロたちの生活態度をコピーしました。まねっこしかできない幼子なのです。「ならう者」は英語でImitatorsですが、彼らが信仰の模範になりました。模範とは、英語でModel(7節)です。ImitatorsがModelになったのです。

また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(10節)

P.U.S.H.  - Pray Until Something Happens! -  主が何かを起こしてくださるまで祈り続けましょう。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)

あるクリスチャン女性がいました。回復不能の病になっても、けなげに病と闘いました。残される夫のために簡単な食事の作り方や家事の方法を教え、子供世代との二世帯同居の手続きを進めました。そのご主人は有名俳優でしたが、イエス様を信じ、洗礼を受けたそうです。

戦っている人、苦難の中にいる人が誰かを励ますことがあるのです。

→あなたの番です
□信仰と希望と愛を持っていますか。働き、労苦、忍耐として表れていますか。
□あなたは神に愛されています
□苦しんでいるあなたが、誰かの支えになっています


ピレモン1~25 謝る事と赦す事


 謝ることと、赦すこと。どちらが難しいですか。
 ピレモンへの手紙は、赦しについて多くを教えてくれる珠玉の手紙です。
  
 
1、赦された人 <オネシモ>

 コロサイで暮らしていたオネシモという奴隷が、主人の家から逃げ、エーゲ海、ギリシャ、アドリヤ海、イタリヤと西へ西へと逃げ、最後は首都ローマで行き詰まり、パウロの牢獄に逃げ込みました。
 戦争に負けたり困窮した人々は奴隷となりお金で売り買いされたので、逃亡奴隷への処罰が死刑になることも珍しくありませんでした。

むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(9~12節)

「獄中で生んだわが子オネシモ」と呼ばれたように、オネシモはイエス・キリストを救い主と信じ、生まれ変わったのです。心の態度が180度変えられました。
オネシモという名前は、本来は<有益>という意味ですが、主人の財産を持ち逃げしたので役立たずになりました。でも、イエスさまを信じて、名前の通りの役に立つ者になったとパウロは太鼓判を押しました。

オネシモは、主イエスの十字架による罪の赦しを体験しました。叱られる、罰を受ける、仲間外れにされると心配しましたが、大きな愛で包まれました。
この経験は、愛の人、赦しの人として生きるのに不可欠の体験です。赦された人だけが、人を本当に赦せます。


2、赦そうとした人 <ピレモン>

 ピレモンはコロサイ教会の中心的信徒の一人で、自宅を開放し礼拝をおこなって(1~2節)いました。ピレモンは、その信仰と愛(5節)において際立った人でした。パウロはピレモンから大きな霊的励ましを受けたと言っています。

 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。(7節)

パウロは、「コロサイ人への手紙」をテキコに預け、コロサイに届けるように命じ、その際、オネシモをピレモンのところに連れて行くように指示しました。(コロサイ4:9)

 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。(15~17節)

ピレモンがテキコを迎えた時、オネシモが立っていたはずです。ピレモンは激しく動揺し、憤りを表したかもしれませんが、テキコは素早くパウロの手紙を手渡したはずです。

謝ることと、赦すこと。どちらが難しいですか。車をぶつけて「ごめんなさい」と言う場合と、へこんだ自分の車を前にして「いいよ」と言うことのどちらが大変かは、すぐに分かるでしょう。赦すほうが難しいのです。
赦しとは、被害を受けた人だけが行使できる愛の行為です。ピレモンは、オネシモより難度の高い信仰の決断を迫られました。

ピレモンは最終的にはきっと、逃亡奴隷のオネシモを抱きしめ、兄弟と呼び、新しい出発を祝福したことでしょう。オネシモも、非礼を何度もわび、涙で謝罪したことでしょう。

あなたは、誰を赦していませんか。お父さんですか、お母さんですか、配偶者ですか、子供ですか。一番身近な人を赦したら、あなたも相手も幸せになれます。


3、この人を赦して下さいと頭を下げる人 <パウロ>

パウロは、オネシモを高く評価し推薦した後にこう書き添えました。

もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。(18~19節)

「私がそれを支払ます」手紙の中で、パウロが頭を深々と下げている様子が目に浮かびます。ピレモンへの手紙は、身元引受書であり、損害賠償支払い誓約書です。
他人の罪を引き受け、身代わりに謝罪した人、それがパウロです。パウロは、ピレモンがパウロの意を汲んでオネシモを赦してくれると心から信じました。きっと、そうしてくれる、パウロの心をリフレッシュしてくれると信じていました。

そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけて(refresh my heart in Christ)ください。(20節)

阿部寛のTVドラマ「結婚できない男」は笑ったり、ジーンときたりの良いドラマでした。いつも皮肉を言って、嫌われている主人公ですが、女性に真剣に言われる次のようなシーンがあります。いつも私たちはドッジボールのような会話をしているけど、本当は、あなたとキャッチボールがしたいの。
身近な人に強くて意地悪なボールをぶつけることが多いですね。だから相手も、もっと嫌なボールを投げ返してきます。その反対に、幼い息子とキャッチボールする父親は、息子が取れるボールしかなげません。もっと素直で温かい心のキャッチボールをしたいですね。そうすれば、あやまること、赦すことも自然にできます。場合によっては、その人の代わりに謝罪する役まで買って出るかもしれません。

赦された人。赦そうとした人。誰かのために頭を下げる人。あなたはどれになりたいですか。
「この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。」

→あなたの番です
 □ごめんなさいと言う人になり、赦しを体験しましょう
 □受けた損害を水に流し、赦す人になりましょう
 □誰かの失敗を肩代わりして、代わりに謝る人へと成長しましょう




コロサイ4:1~18 心に残るアドバイス


 1863年11月、リンカーンはゲティスバーグで演説しましたが、エドワード・エヴァレットという人が2時間近く熱弁を振るった後に行われたものでした。人民の人民による人民のための政治というフレーズが後世に残った有名な演説ですが、わずか2分間で終了したのです。
 今日はパウロの短い助言に目を留めましょう。短い言葉は、私たちの記憶に長く留まります。

1、祈りなさい、祈って下さい

日本を離れアメリカに旅立つ時、空港で親から言われた短い言葉を忘れないものです。
パウロも手紙の最後で短いアドバイスを3種類残しました。たゆみなく祈れ(2節)、親切で塩味のきいた言葉を心がけよ(6節)、受けた努めをしっかり果たせ(17節)。

目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。(2~4節)

本論は終わりました。パウロはその本論で、御子について語り、空虚で幼稚な哲学への警告を鳴らしました。御子が世界を造り、御子により罪が贖われたのだ。だから御子に根差して歩み、新しいを人を着て、家庭で職場で信仰を実践するようにと語ってきたのです。

パウロが最後に付け加えたのは、祈りについての助言でした。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」祈りとは、自分の力への過信を捨て去り、謙虚になり、神の力と導きを求める姿勢です。
火のような伝道者パウロが、自分のために祈ってほしいと言うのです。自分の弱さを本当に知っている人が、祈って下さいと言える勇気を持っているのです。

伝道したい人は祈りましょう。伝道の門、人の心は神だけが開いてくれます。知識の豊富さや弁舌で人をねじ伏せるのでなく、キリストだけを語り、聖霊に信頼し、神が先立って下さることを信じて福音を伝えましょう。


2、親切と塩味

外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(5~6節)

主イエスは山上の説教で、「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世界の光です」(マタイ5:13、14)と言われました。その言葉をパウロらしく言い換えたのでしょう。不正と自己中心の世界に、正しさと愛が必要です。嫌われても正義を実行する実行力と自発的な愛が家庭に必要です。あなたの言葉と行動に、親切と塩味を忘れずに。


3、パウロを囲む人々

パウロのローマにおける軟禁生活は、孤独ではなかったのです。7~14節によると8人の仲間を確認できます。この手紙の共同執筆者はテモテなので、愛弟子のテモテを加えれば9人がパウロのそばにいるのです。

私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。(7~9節)

1)愛弟子     テモテ
2)忠実な奉仕者 テキコ
3)愛する兄弟  オネシモ
4)囚人      アリスタルコ
5)歓迎すべき  マルコ
6)激励する   ユスト
7)祈りに励む  エパフラス
8)医者      ルカ
9)         デマス

テキコは、パウロの代役としてコロサイ教会に出かける計画で、このコロサイ人への手紙を手渡す予定で、オネシモも連れていきます。オネシモは、コロサイから逃げて来た逃亡奴隷で、獄中でクリスチャンになり、立派な人物に生まれ変わっていました。

私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。――この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。――ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。(10~14節)

アリスタルコは、パウロの伝道旅行中エペソの暴動で捕らえられ苦難を経験した(使徒19:29)人物です。また、カイザリヤからローマまでパウロに同行し(使徒27:2)、恐らくパウロの奴隷という名目で身の回りの世話をし終始離れなかったようです。
マルコは、かつてパウロが脱落者の烙印を押したことのある若者でしたが(使徒15:36~41)、パウロから学ぶ者、また支援者となりました。マルコはパウロに謝罪したのでしょうし、パウロも成長したマルコを認めてくれました。
ユストは、パウロが心をゆるせる同国人のユダヤ人で、パウロを激励してくれました。
エパフラスは、1章で言及したとおり、コロサイ教会の開拓伝道をした伝道者で、今はコロサイの人々のためにとりなしの祈りに励んでいます。
医者ルカは、伝道旅行の途中からパウロに合流しローマまで同行しました。学識も地位も財も捨て、パウロという神の人を医学的に支えようとして最後まで離れませんでした。
デマスはしばらく後に脱落者になります(第2テモテ4:10)。パウロは彼の弱さも分かっていたので何のコメントも入れませんが、仲間はずれにしませんでした。

パウロの手紙の末尾にある挨拶部分を比較すると、コロサイ人への手紙ほど生き生きした描写は他にありません。まるで、幕末の私塾のように、あるいは、神学校の熱心な学生たちのような主への献身と情熱が感じられます。

いったいこの9人はなぜそこにいたのでしょう。パウロの何がそうさせたのでしょう。パウロに与えられた使命、パウロの信仰や情熱、パウロの人柄、パウロのビジョンが鍵でしょう。
逆に、パウロの病気や体の弱さや加齢や不自由な軟禁生活や殉教の可能性というマイナス要素がむしろ人々を引き付け、手足となって働きたい、パウロを支えたいという人々が集まってきたのです。コロサイの人々におなじみの人々が、主に仕えている姿そのものが輝いています。
あなたの周囲に誰かが集まってきますか。または、あなたは誰かの周囲に集まり、その人を支援し、その人から学び、共に主のために奉仕したいと思いませんか。スモールグループを作って互いに励まし合いましょう。


4、受けた努め

どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」と言ってください。パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。(15~18節)

コロサイとラオデキヤは16キロしか離れていません。それで、パウロの2通の手紙は両方で見せ合うことになります。
ヌンパはラオデキヤで伝道に励み、ヌンパの家で礼拝していたようです。アルキポはコロサイにいましたから、この手紙が公に読み上げられた、自分の名前が突然読み上げられたのでびっくりしたでしょう。
「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」アルキポはパウロのこの忠告を聞き、目頭が熱くなり、主への再献身を新たにしたことでしょう。パウロは自分の弱さを知っていても、受けた努めが中途半端で終わっているのに気付いていても、祈って励ましていてくれると分かったはずです。天からの啓示にそむかず、どのような困難にも立ち向かったパウロが、鎖の音をさせながらローマで応援してくれると分かったのです。
パウロは、自筆のサインを加えて手紙を閉じました。

 ある中年男性がいました。仕事に夢中で家を顧みず、外で遊んで酒の臭いをさせての深夜帰宅が続きました。息子たちの関係も最悪になり、妻にも見捨てられていました。その彼が、主イエスを信じ、罪を悔い改め、家庭を大切にしようと努力を始めました。家庭礼拝を開始した夜、息子に言いました。「父さんの直すところを言ってほしい」すると、黙っています。もう一度、何でも言ってほしいと語ると、目に涙を浮かべ、「父さんは僕を無視してきた。だから、父さんは嫌いだ」と言われました。父は、自分の至らなさを痛感して、土下座して謝りました。それ以来、父と息子の関係の修復が始まり、家庭が変わったといいます。
 人によっては、息子との関係修復が主から受けた使命なのかもしれません。あなたが主から頂いた使命は何でしょう。それを、主イエスの力を頂いて実現させましょう。

→あなたの番です
     たゆみなく祈りましょう
     親切と塩味を心がけましょう
     仲間を作り励まし合いましょう
     主から受けた努めを果たしましょう