「木には望みがある」 ヨブ記14章1~22

 14章でヨブが語ったことを4つに整理してみます。
1)人は弱く、はかなく、罪深い。
2)人は死んだら終わりだが、木には望みがある。
3)私をよみの深みに連れていき、罪を見過ごしにしてほしい。
4)けれども神は、そんな望みすら砕いてしまう。
 今日はこの中で、第2の「木には望みがある」ということに絞って考えてみましょう。

ヨブ記は、シンフォニーのようなものだと、私は思います。ベートーベンの交響曲第5番を例にして話しましょう。この曲は、1808年ウィーンで初演されました。最初にダダダダーンと第1主題が鳴ります。ベートーベンの弟子アントン・シントラーが冒頭の4つの音は何を示すのかと質問しましたが、「運命はこのように扉をたたく」と答えたそうです。主旋律のモチーフは既に1798年に記録があり、彼の耳が悪くなる時期と重なります。第1楽章は、運命に翻弄される弱い人間を表すといわれています。30歳でほとんど耳が聞こえなくなったベートーベンですが、1804年からの10年間に、エロイカ、運命、田園、ピアノソナタなど代表作を次々に世に送りました。苦悩を経て歓喜に至るというベートーベンの生き方が端的に表れている第5番です。

ヨブ記には、4つの主旋律があると私は思います。ダダダダーンに匹敵する第1主題が、「なぜ、正しい者が苦難を受けるのか」。第2主題は、「女から生まれた人間はは罪深く、弱い」です。第3、第4テーマは結論を話す42章前後に詳しく触れる予定です。

女から生まれた人間は罪深く、弱いという内容は最初エリファズの言葉で登場します。
「人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前にきよくありえようか。」(4章17節)。
次はヨブの言葉で今日の箇所にあります。
「女から生まれた人間は、日が短く、
心がかき乱されることでいっぱいです。」(14:1)
さらにエリファズの言葉が登場します。
「人はどうして、きよくありえようか。
女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか」(15章14節)
最後は、ベビルダデの言葉です。
「人はどうして神の前に正しくありえしょうか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。」(25章4節)

 小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の歌や、平家物語の書き出し、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」などを思い起こします。


あなたの人生を交響曲にたとえると、第1旋律は何ですか。そして、それを受けたあなたの弱さの告白である第2旋律はどうなりますか。


ハワイにモアナルアガーデンがあります。「この木何の木、気になる木」という日立のコマーシャルにより日本で有名になりました。樹齢100年を越していると管理人に教えてもらいました。
ハワイに住んでいたとき、その木を1時間、見続けた経験があります。実に、堂々としています。一人でどこにも動けないのに、人に安らぎをくれます。木陰、風に揺れる枝や葉っぱ。鳥たちや虫たちを呼び集める木。素晴らしい木です。
近づいて、木陰から枝を見上げて驚きました。枝が蛇行しているのです。人に剪定され切られています。嵐のせいでしょうか、折られてます。自分の意思のとおりにまっすぐ伸びなかった木です。

「木には望みがある。
たとい切られても、また芽を出し、
その若枝は絶えることがない」(14章7節)

ヨブは、自分の境遇を嘆き、自分はだめだとため息をつきますが、何気なく目をやった木を見て、憧れを語ったのだろう。
この木に、自分の名前を入れてみましょう。それが、聖書から来る励ましです。この木にイエス・キリストの名を入れよう。それは、事実であり、真実です。

私たちは、人生の嵐に翻弄されます。病になり、失敗し、道を外れます。そのうえ、弱く、罪深い。でも、それで終わりではない。私たちがより頼む主イエスがともにおられるので、失望することがないのです。

あなたの人生を襲った運命のため、私たちの主旋律は苦しみや悲しみ、怒りになりやすい。けれども、主イエス・キリストという最高の指揮者がいるので、暗い短調のメロディーでは終わらないのです。
手のひらに釘のある指揮者、イエス・キリストがあなたのメロディーを歓喜と賛美にあふれる第4楽章に必ず導き入れてくれるでしょう。7節を暗記して、あなたの力と希望の源泉にしましょう。

「ツォファルの言葉」 ヨブ記11章1~20

 今日は、「オムニポテンス」という言葉を心にとめてください。ラテン語で全能を意味する言葉です。オムニはすべて、ポテンスは可能とか力などを表します。ハレルヤコーラスでも、オムニポテンツという英語で主をたたえますね。
 7節の言葉を中心にすえて考えてみましょう。

 「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。」(7節)

 ヨブの友人の3番手はツォファルで、自説を11章で披瀝します。(翻訳によってはゾパル。原語のヘブル後の発音としてはツォファルに近い)どうやらツォファルは3人の中で一番若いようです。そのせいか、語気が強いですね。ヨブの言葉にかなり苛立っています。20章、2巡目のツォファルの言葉にも怒りが感じられます。3巡目でツォファルの番がやってきても、結局は声を発していません。<切れた>のかもしれません。

 ツォファルの要点は3つです。
1) ヨブのおしゃべりは詭弁であり、無駄話だ。

「ことば数が多ければ、
言い返しができないであろうか。
舌の人が義とされるのだろうか。」(2節)

ツォファルは、魂を削るようなヨブの叫びを表面的にしか聞けない人です。実に残念で、さびしいことです。4節でヨブの言葉を引用しますが、ヨブが9章21節前後で述べた苦悩など見過ごしています。

2) 神は全能者であり、人間は及びもつかない。

「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。
それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。
それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。」(7~9節)

ツォファルは神についての真理を語りました。残念なことに、否定的な調子を含んでしか話せません。全能者の前で人は何もできない、神と争えないし、神のすべてを知りえない。ヨブのしている事は無意味だと説得している。

3) 自分の悪を神にわびれば、幸せが来る。

「あなたの手に悪があれば、それを捨て、
あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14節)

他の友人二人と同じ主張で、ヨブに罪を悔いるよう勧めました。そうすれば、明るくて、安らぎに満ちた未来が待っている(17~18節)と諭したのです。

 ヨブは、また一つため息をつき、否定的に真理を語ったツォファルの言葉に打ちのめされたことでしょう。けれども、神が全能であることは、まぎれもない真理です。ですからツォファルの言葉は、全能者を見上げる機会を多くの人に提供しています。

 横田めぐみさんのお母さんは、友人に勧められてヨブ記を読んだのですが、1章21節の言葉が心に染みただけでなく、今日の7節にも強い印象を受けたと言われています。全能の神は、人間の力では及ばない、深くて大いなる方だと気づきました。全能者。その大きさの前で、なにか心にストンと府に落ちるというか、心のうなずきが生まれたようです。

 私たちも、全能者である神の前に静かに立つことが必要ですね。ヨブは、ツォファルの言葉を承知済みであると12章で反論しますが、ヨブの結論的な言葉として次のような内容を心から語っています。

「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成しとげられることを、
私は知りました。」(42章2節)

 オムニポテンス、全能。神が全能であることを、はっきり理解できたら、人生はきっと大きく変わるでしょう。全能の神に人生をゆだねることができます。困難なとき、安らぎを持てます。あなたも、全能者に信頼して歩きましょう。

 ニール・アンダーソンという聖書翻訳宣教師がパプア・ニューギニアで20年間活躍しました。村の人がジャングル奥地に入って狩に出ると聞き、彼は同行しました。ノブタやニシキヘビ、小動物や鳥を捕まえた夜、二人の村人の間に座って雨宿りをしました。右の人は、カブトムシを焼いたものを食べてます。左の人は、カブトムシの幼虫を竹筒に入れてあぶり、うまいよと宣教師の膝に置きました。アメリカ人宣教師が清水から飛び降りる覚悟で口に含むと、村人が背中をたたいて喜んでくれました。
 ある朝、イワシの缶詰のように同行者20人と横になって眠った翌朝、誰かの独り言が聞こえます。よく聞くと、祈りの言葉でした。「ここはあなたの森ですが、どうぞ獲物が捕れるよう助けてください」。別な男も祈っています。「残してきた妻や子供たちが守られますように」。次の祈りも聞こえます。「アメリカ人宣教師が村の言葉を理解して、神の言葉を俺たちに伝えてくれますように」
 素朴で、力強い、本音の祈りでした。アンダーソン宣教師は、村人の祈りに深く心動かされました。

 全能者を信頼した人は、人生が変わります。オムニポテンス、全能の神を生活の場で信じましょう。




 



 
 

「仲裁者」 ヨブ記9:1~35

 今日は、無力感について考えましょう。

 象は信じられないほど大きな力を発揮しますが、サーカスの象は杭につながれただけで静かになるといいます。それはなぜでしょう。鎖で杭につながれた小象時代、いくら暴れても逃げ出せないと学習したからです。それで、簡単に引き抜けるはずの杭につながれても、あきらめています。
多くの人が「サーカスの象」になっています。無気力におおわれています。

 ヨブ記8章では、了見の狭い学校教師のようなビルダデが意見を述べ、ヨブはその言葉を聞いて落胆しました。そんなこと、言われなくても知ってるよと1節で言い捨てました。ヨブは9章全体で神に反論しています。最初は間接的に、27節からは直接的に、神に反論しました。けれども、ヨブの心を支配していたのは圧倒的な「無力感」でした。

 ヨブの無力感を4つのフレーズでまとめました。

1、神は力が強く、とうてい太刀打ちできない。(3~12節)
「たとい神と言い争おうと思っても、
千に一つも応えられまい」(3節)
ヨブは神の創造の偉大さに思いを馳せ、おうし座、オリオン座など天体と造られた神に言及するが、その目は虚ろになります。

2、神が決めたことには逆らえない。(13~19節)
「神はあらしをもって私を打ち砕き、
理由もないのに、私の傷を増し加え
私に息もつかせず、
私を苦しみで満たしておられる」(17、18節)
 災難は神から来たのではないが、ヨブは神のせいだと誤解する。

3、神に自分の潔白さを主張しても、相手にしてもらえない。(20~31節)
「たとい私が正しくても、
私自身の口が私を罪ある者とし、
たとい私が潔白でも、
神は私を曲がった者とされる」(20節)
 ヨブは、22節のように、神の前では悪者も正しい者も結局同じ災いを受けるに過ぎないと無気力を加速させている。

4、神とヨブの間に、仲裁者がいない。(32~35節)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいない」(33節)
誰か、私を助ける人はいないか。神の前に立ってくれる人がいないか。私を弁護する人がいないか。これがヨブの叫びです。救い主を求める悲痛な叫びです。


 無力感に捕らわれている人は普通、二箇所にしか目が行きません。第一は、直面している問題。もうひとつは、弱い自分です。神を信じている人の場合は、もう一点が加わります。神をゆがんで見てしまうのです。色眼鏡をかけて神を見ます。不可能を可能にする神を忘れます。思いやり深い神を忘れます。

 理解してくれる人との接触がないと、人は孤独感が深まります。最後は、圧倒的な無力感に支配され、固まってしまいます。

 一人の日本人婦人がアメリカでポリスに呼び止められました。車の中から、「何か、私が悪いことをしましたか」と尋ねると、「あなたは、最低速度違反だ」と言われチケットを切られました。遅すぎるというのです。
 道路工事のため、道路には赤いコーンが置かれ、車線が規制されていたので、ゆっくり注意しながら走っただけでした。憤懣やるかたなしですが、お上には逆らえません。無力感でいっぱいになりました。
職場の同僚に話すと、「ノット・ギルティー」と主張して、裁判で戦ったらいい、「私も応援するよ」と励ましてくれました。現場の写真を撮り、交通裁判所に出廷する準備を始めました。クリスチャンの仲間に話して祈ってもらいました。
 祈って、祈って、ドキドキしながら当日を迎えると、法廷内に例の警察官がいます。やがて自分の番になりました。ふたを開けてみると、相手側のポリスは、「手元に資料がない」と説明、ポリスが争う意思を撤回したと判事は判断、女性に無罪を告げました。いわば不戦勝の勝利です。ハレルヤです。主をたたえ、感謝しました。

 あなたには、今日、無力感がありますか。そこから出る道筋を紹介しましょう。

1、 勇気をくれる人に相談する。
2、 小さなアクションを今日から始める。
3、 あなたの横に立つ主イエスに信頼して、勇気を出す。

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出してなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(使徒23章11節)
主イエスがそばにおられる、それが勇気の源です。

 仲間に話そう。主イエスに話そう。小さく始めよう。勇気を出そう。主イエスを信じて進もう。あなたも無力感から解放されます。

「キリストのために生きる」 ピリピ1:20、21

 新年あけましておめでとうございます。

 悔いのない人生を送りたいと、思いませんか。年の初めは普段考えない大きな事を考えましょう。ドーンと大きな視点で自分を見つめましょう。

 ハワイではどんな家にもアリが入ってきます。高層コンドミニアムにもアリは来ます。ある日私は、透明なコップの縁にアリが一匹いるのに気づきました。アリは左周りに歩き出し、出発地点に戻っても左に左に歩き続けました。いつまでたっても回り続けました。毎日の生活にだけ追われている人はこのアリと同じです。そこから抜け出しましょう。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、
キリストのすばらしさが現されることを求める
私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
(ピリピ1章20、21節)

 パウロは、自分の体を通してキリストの素晴らしさを現すために生きていました。ですが、パウロのこのときの状態を考慮すると、よくも言えたと感心します。この時、パウロは牢獄にいたのです。
過去を振り返ればクリスチャンを迫害し死に追いやった暗い過去があります。現在は牢獄の中にいて、パウロの素行を疑問視する向きもありました。将来はというと、何の保障もなく死刑の可能性もありました。
 そのパウロはそんな「自分の身」をもってキリストをあかししたいと願っているのです。突き抜けています。牢獄の天井を突き破るくらい、目が天に開いています。貫く心棒がはっきりしています。このパウロの言葉を読んだ多くの人が2000年間励まされているのです。

 1964年の東京オリンピックからもう40年以上時が過ぎていますが、私が記憶に残っている陸上選手の名前があります。カルナナンダ選手です。
 1万メートル決勝に出場したセイロン(現在のスリランカ)の選手です。400メートルのトラックを25周し、有名選手は30分を切ってゴールします。すべての選手がゴールしましたが、カルナナンダはまだ走っています。苦しそうに走ります。1周したときには、7万5千人の観衆からあざけりの反応が出ました。2周しました。まだゴールになりません。3周して、あきらかにラストスパートをかけ、全力で走ってゴールしました。観衆の空気はがらりと変わり、感動と声援がスタジアムを包みました。
 カルナナンダ選手は、インタビューに答えてこう言いました。昨晩高熱が出ましたが、力を振り絞って走りました。娘が大きくなったら、父さんは東京で頑張ったと言ってやりたい。28歳、ゼッケン67。

あなたもキリストのために走ろう。この世界の基準なんてたいしたことはない。カルナナンダ選手も、勝利のために走らなかった。記録のために走らなかった。故郷にいる家族と娘のために走ったのです。
僕らもキリストのために生きよう。キリストに再会するとき胸をはって語れる人生を送ろう。「いつか、そうなりたいね」と言っているなら、左周りのアリと同じになる。悔いのない人生を送りたいなら、今、この瞬間からそれを始めればいい。
キリストのために、という生き方を始めたら、誤解されるかもしれない。笑われるかもしれない。損するかもしれない。それでもいい。キリストのため、具体的なアクションを始めよう。