マタイ8:5~13 百人隊長

 8章からは、主イエスと人々との出会いが書かれています。


1、百人隊長

イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」(マタイ8:5~7)

カペナウムは、川が注ぎ込むガリラヤ湖北部の町。一人の百人隊長が面会を求めてきました。もちろん、彼はユダヤ人ではありません。ローマ帝国の職業軍人です。百人隊長は、ローマの軍の最小単位、歩兵100人の指揮官です。戦闘時には鮮やかな羽飾りのついてかぶとをかぶり最前列で号令をかけるので戦死の危険がありました。隊長の号令によって様々な陣形を作って戦うので、兵士達からの絶対の信頼を受け、兵士たちの投票で選ばれる職でした。

この百人隊長は思いやり深い人でした。しもべの一人が中風で寝ていて苦しんでいる姿を見て、心を痛め、主イエスにいやしを懇願しました。中風とは、脳血管障害の後遺症のことで、半身不随になったり、顔がゆがんだり、手の震えが止まらなかったり、言語障害が残った人のことです。このしもべの症状はひどく、命の危険もあったようです。しもべという言葉が「若者」とも訳せることから、年齢的には若かったのかもしれません。

奴隷が売り買いされ家畜同然の扱いを受けていた時代ですから、このしもべが役立たずでやっかいものだとして家から追い出されてもおかしくありません。けれども、この百人隊長はしもべを助けたい直してやりたいと願って主イエスのもとに来ました。主イエスは、それを聞いて、すぐに助けに行こうとされました。

 哲学者カントはこう言いました。
 「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」
カントの言いたいことは、モノには一定の価値があるので同じ価値のモノと取り替えられるが、人間はモノではなく取替えがきかない存在だ、それが人間の尊厳、という事です。

 現代でも人間の尊厳は軽んじられています。学校の偏差値や成績で人間の価値が測られ、美人かハンサムかスタイルが良いかなどで差別され、金持ちか貧乏人か、有名企業の正社員かパートや派遣か、病気や障がいや高齢かという点で人間を評価しています。

 「おまえは愚かな奴だ、そんなしもべは切り捨てて放り出せばいいのだ」という声もあったかもしれませんが、百人隊長にはある確信があったのです。あのお方は、私に賛同してくれる。あのお方は、きっと助けてくれる。主イエスは、見捨てられようとしている人をあわれみ助けて下さる方だという確信があったのです。

 この百人隊長を見習って、私たちも心優しい人になりませんか。あなたの身近な人の尊厳を大切にしましょう。その人のために、行動してみましょう。



2、おことばを下さい

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8:8~9)

 当時のユダヤ人は異邦人を見下しており、外国人の家には足を踏み入れませんでした。百人隊長の考えは、そうしたユダヤ人の習慣を尊重し、ユダヤ人であるイエスさまに外国人の百人隊長の家に来てもらうわけにはいかないと考えたのです。

 「ただ、おことばをいただかせてください」は直訳すると「一言だけおっしゃってください」です。上官が部下に命じれば、部下はその通りに動くという軍隊の指揮命令系統を熟知していた百人隊長は、神の子が命じてくれれば必ず実現すると信じました。

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:3)
 風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、おおなぎになった。(マルコ4:39)

 神は、ひとことで何かを成し遂げる。
 ひとことおことばを頂ければ、それで奇跡が起きると百人隊長は信じていました。


3、ちょうどその時

イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8:10~13)

主イエスは、特別な驚きを示しました。神に選ばれた民、ユダヤ人の中にも、このような信仰を見たことがないと言って、主イエスは深く驚かれました。
世界の東西南北から、百人隊長のような信仰を持った外国人が大勢やって来て、族長アブラハムやイサク、ヤコブと同じ食卓に着くときが来ると予告されました。これは、将来の教会の姿、天国の姿のことでしょう。

主イエスは百人隊長に、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。百人隊長が戻ってみると、主イエスが言葉を発したちょうどその時に、中風の男がいやされたことが分かりました。脳出血の後遺症が回復するというのは、普通では考えられません。正真正銘の奇跡です。

 今週、心優しい人になりましょう。百人隊長のように。
 きっと直ると信じましょう。百人隊長のように。

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」

→あなたの番です
□心の優しい人になろう
□信じたとおりになる


マタイ8:1~4 わたしの心だ

 主イエスの教えが終わると、主イエスと人々との出会いの記録が始まります。


1、主イエスの教えを聞いた人々


イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。(マタイ8:1)

ガリラヤ湖畔の山は、主イエスの教えを聞く大勢の人で埋め尽くされていました。人々は主の教えに驚き、感動し、主イエスの後から山を下りました。「多くの群集がイエスに従った」とありますが、人々はすぐには解散せずに、主イエスの後について歩きました。イエスの話をもっと聞きたかったのでず。主イエスについて行きたかったのです。

 こういう事を話す人なら、ついて行きたいと感じる。それはもう、心の中で主イエスを信じ始めているのです。



2、ツァラアトの人

 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(8:1)

 ツァラアトとは、全身に広がった皮膚病のことです。古い日本語訳聖書はライ病と訳してきました。この種の皮膚病患者は、社会から隔離され、乞食のような生活を強いられました。この男は、こっそりと岩陰などに隠れて、主イエスの教えを聞いていたのかもしれません。

 東方の博士を別にして、マタイの福音書において、主イエスにひれ伏したのはこの皮膚病患者が最初です。なぜ、ひれ伏したのでしょう。イエスを「主」と認め、この方こそ神であり、まことの救い主であるとして、礼拝行為なのです。

お心一つで私をきよくしてしていただけます、と彼は言いました。この言葉の背後には、何があるでしょう。私は、自分をいやせません。けれども、あなたはいやせます、という堅い信頼があります。

この皮膚病の男は、私たちの姿とそっくりです。
人は表面上の問題と内面の問題の二つを持っています。主イエスの所に来るのは、表面上の悩みがきっかけです。けれども、主イエスは内面の問題、つまり、罪の問題の解決を与えて下さる方です。ですから、単に、病をいやして下さいと言わずに、きよめの問題としての解決を求めました。

馬が好きで、乗馬クラブに入りたいという人がいたとします。華麗に馬に乗れるような実力がついたら乗馬クラブに入会しようと考えるなら愚かです。馬に乗れないそのままの姿で、乗馬クラブに入れば、教えてもらえて乗れるようになるのです。
同じように、立派な人なれたら、聖書を完全に理解できたら、クリスチャンらしくなれたら、その時にはクリスチャンになろうと考えている人がいます。それでは、死ぬまでクリスチャンになれません。罪人のままで、主イエスの前に出ましょう。主イエスがあなたを救うのです。この皮膚病患者のような謙虚で、真実な心で、主イエスをあなたの救い主として信じ受け入れましょう。


3、主イエスの心
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。(マタイ8:3)

 主イエスは、ひれ伏した男性を見ました。彼の真実な言葉を聞きました。おそらく、主イエスはひざまずき、男の肩あるいは腕に触れたのでしょう。これが主イエスの愛です。誰も触れなかった彼の体に触れました。男は、主イエスの手の温かさを生涯忘れないでしょう。また、皮膚病の男のすべてを受け入れたあかしに、男が使った言葉を用いて返事をされました。

 「わたしの心だ。きよくなれ。」

 そう言うと、絶望的だった皮膚病が一瞬のうちにいやされました。普通の肌に戻ったのです。神にしかできない奇蹟です。

イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」(マタイ8:4)

当時の祭司は宗教的な働き以外に、病人隔離の宣告、その逆に、癒された人の社会復帰の公式認定をする保健所のような役割も担っていました。
いやされたのだから、きちんと祭司に見てもらい、律法の規定通りに神への感謝をささげなさい。家に帰って普通の生活に戻ることが最も大切だと言われたのです。
いやしそのものを面白おかしく誰にでも話してしまうと、だんだんと焦点がずれていき、自分をヒーローにしてしまいがちです。むしろ、謙虚な姿勢で、社会復帰をしなさいと命じました。

●あなたの番です。まだイエスさまを救い主と公に告白していない人がいたら、今日、イエスさまを信じましょう。主イエスは、あなたの罪をゆるし、きよめて下さいます。

●<自分で解決できない何か>を持って苦しんでいる人がいますか。主イエスに手を伸ばしてもらい、触れてもらいましょう。愛でおおってもらい、いやしてもらいましょう。

「わたしの心だ。きよくなれ」

→あなたの番です
 □私もこの皮膚病患者と同じです
 □主イエスよ、あなたの心で、私をいやして下さい

マタイ7:24~29 岩の上に家を建てる

 人生の目的は何でしょう。「山上の垂訓」全体から結論を出せば、人は神の国を作るために生きている、となります。今日は、山上の垂訓の結論部分を読みます。

1、岩の上の家

 パレスチナの大工は、木材だけでなく、石を材料にして家を作りました。主イエスのお父さんは大工で、主イエスもヨセフの仕事を引き継いだので、どんな場所に家を建てたら良いかを主イエスは良く知っていました。家の良し悪しは、家を建てる場所で決まります。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。(マタイ7:24~25)

 主イエスのことばを聞いて行う人は、岩の上に家を建てた賢い人です。第一に雨、第二に洪水、第三に風がやって来ても、岩の上の家はびくともしません。

 パレスチナの気候は南カリフォルニアとそっくり同じで、夏には雨が降らず、冬に雨が降ります。時折、激しい雨が集中的に降ることがあり、岩地に降った雨は地面に染み込まず谷に集まり、鉄砲水のように流れ下り、洪水になることもあります。岩の上の家はそんんな時でもしっかり立って揺るぎません。

 家を建てるとき、安全で快適な場所を選びます。そこに住む家族が幸せになれるようにと細心の注意を払って場所を決めます。人生も同じことです。あなたが選んだ生き方が、その後の人生を方向付けます。
雨や洪水や風は、人生の試練を象徴しています。岩の上に家を建てても試練は襲ってきますが、家は壊れません。そんな人生を誰もが望んでいます。

なぜ岩の上の家はなぜ倒れないのでしょう。土台がイエスさまだからです。
主イエスの言葉を実行するということは、主イエスを信頼しているということです。主イエスの言われたことが本当だと信じる時に主イエスの言葉を実行します。主イエスを信じ、主イエスと共に歩み、主イエスの言われたことを行う人は幸いな人生を送ることができます。

主イエスを信じ、その言葉を実行しましょう。あなたの家は揺らぎません。


2、砂の上の家

 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26~27)

 主イエスのことばを聞いても、それを行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。第一に雨、第二に洪水、第三に風、という自然災害は前者と同じです。けれども、砂の上に建てた家なので、もろくも倒れてしまいました。しかも、それはひどい倒れ方です。

 主イエスの助言は、たいしたことはないし、警告も取るに足らないと思えるとき、主イエスの言われたことを実行しません。主イエスの言われたことを聞いても行わない人は、主イエスを無視し、主イエスを信頼していないのです。

 普通、二つとか、三つの例を出して何かを説明する場合は、最後に解決とか成功の例を入れるものです。主イエスは、その逆の順番にして、砂の上の家が壊れる場面で話を終えました。しかも、ひどい倒れ方だったと強調されました。それは、強い警告なのです。

 主イエスは、あなたを愛しています。倒れるな、壊れるな、人生を終わりにするなと叫んでいるのです。

砂の上に家を建てるのは、安易な生き方で、嘘と見せかけでその場しのぎをする生き方です。悪を正当化して生きたら、あなたは洪水と共に滅びます。「ひどい倒れ方」になってしまいます。

主イエスは山上の垂訓の中でこのように言われました。心の貧しい者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。実際に人を殺さなくても心で殺すことも、神の前では同じ。偽善者になるな。神を父としてあがめ、罪を悔い、罪をゆるし、人をさばくな。自分にしてほしいことを人にしなさい。求めなさい。明日の心配は無用です。神の国とその義を第一に求めるキングダムビルダーになりなさい、そうすれば必要なものは全部与えられる。日ごとの糧は天の父が下さる。天に宝を積みなさい。狭い門から入りなさい。

心の純真さや正義感を保ち、神に祈り、優しく接し、希望と信頼を持って生きる。そうすると、あなたは神の国を作ることになります。

ある女性が、携帯用水筒に熱々のお茶を入れてエアポートに来ました。飛行機に乗る前に荷物検査官に通告されました、液体は持ち込めない、水筒ごと破棄すると。大切な水筒だったので、全部飲めば問題ないですねと言って、女性はお茶を飲みました。熱いのでわずかしか飲めません。すると、話を聞いていた後ろの青年がその水筒を手に取ってお茶を飲みました。その後ろの人も飲みました。水筒は次々と渡っていって、6人面の女性が飲み干して空にしました。歓声を拍手がわきました。外国のエアポートで受けた親切にその女性は胸を熱くし、私もいつか受けた恩に報いようと心に決めたそうです。

 「あなたの番です」あなたは、山上の垂訓のどの教えを実行しますか。


3、権威ある者のよう

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイ7:28~29)

 パリサイ人、律法学者は、庶民を見下して権威的に律法を教えていました。主イエスの教えを聞いた人々は、主イエスが律法学者のように教えないことにひどく驚きました。主イエスは、まったく違う。権威的に教えるのではなく、まるで「権威ある者」のように教えている。本当の権威を持つ方、つまり神が人となって語っているかのように感じたのです。主イエスの奇蹟を見なくても、人々は、主イエスが神であることを感じ始めていました。

 人となられた神、主イエスは、あなたを愛しているので強い警告をしました。滅びるな、倒れるな、わたしに信頼しなさい、わたしの言葉を実行しなさいと語りました。


 →あなたの番です
  □岩の上の家は揺るがず、砂の上の家は倒れた □主イエスを信頼し、主イエスの言葉を実行しよう
  □神の国を建設するために生まれた



マタイ7:15~23  警告

 山上の垂訓も、いよいよ最後の部分に入ってきました。13~23節は警告、次回取り上げる24~29節は結論になります。
 飛行機に乗る時はパスポートを忘れるなとか、パリではスリに気をつけろ、などが警告です。警告とは、最重要事項の点検です。これを怠るとすべてが無駄になります。


1、狭い門から入れ

世の中に二つの門があると、主イエス語られました。広い門と狭い門です。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13~14)

旧約聖書の時代も、イエスさまの時代も、大きな町には頑丈な城壁があり、立派な正門から人々が中に入るので門の付近はにぎやかでした。旅の間は山賊に襲われる心配もあるし、道に迷うこともありますが、門を通って町に入れば安心です。あえて、小さな門を探す人はいません。ですから、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを聞いて、人々は奇異に感じだことでしょう。

広い門は、大きな門で、広い道が続いていて、多くの人がその門を通っています。見栄えが良く、人気があります。けれども、その門から入るなら滅びます。

もう一つの門は、小さな門であり、道は狭く、その門を見つけることが難しく、少数の人しか入れません。見栄えが悪く、人気がない門です。けれども、狭い門から入るなら「いのち」を得ます。

見かけが立派で人気のある方に行きたいのが人情です。でもそれは滅びの門です。見掛けにとらわれず、落ち着いて、見極めて、納得して、狭い門を選びましょう。

これが、山上の垂訓を無駄にしないための主イエスの警告なのです。あなたの前に、大きな門と小さな門が見えますか。狭い門を選んで下さい。



2、偽預言者に気をつけよ

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:15~20)

次の警告は、偽預言者に気をつけよ、です。

偽預言者は、羊のようなイメージで、柔和で良い人を装って近づいてきます。けれども、その本質は貪欲な狼です。つまり、人々を餌食にし、苦しめ、支配するのです。そのような偽預言者を見抜きなさい。偽預言者について行くな。偽預言者を拒絶せよ。これも主イエスの警告です。また、あなた自身が偽預言者化するなという警告でもあります。

主イエスが現代におられたらこう言うでしょう。偽牧師、偽役員、偽伝道者、偽リーダー、偽クリスチャンに気をつけよと。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21~23)

文脈からいうなら、21~23節は偽預言者に対する神の裁きと捉えることができます。神が偽預言者を拒絶し、天の御国に入れないと宣言されると、偽預言者たちは自分達の正当性を述べるだろと主イエスは言われました。

偽預言者が、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったと主張し、天の御国にふさわしいと自負しても、神には通じません。こうした自負こそ、霊的傲慢の印です。

<私は普通の信者より信仰面ではるかに優れていると考える>それが霊的傲慢です。別の言い方をすれば霊的盲目です。霊的傲慢が偽預言者を作ります。何かを教えたり指導したりすると、人々が喜び、人々からの尊敬が返ってきます。そのようにして、偽預言者は尊敬を糧にして肥大化し、人々を洗脳し、人々に金を集めさせ、信者の数を増やし、権力を私物化し、最終的には自分お神とし、自分の王国を作ります。カルト宗教はすべて同じ構造です。

このように危険極まりない偽預言者なので、気をつけること、「実」で判断し見極めることを警告しました。

また、あなた自身が偽預言者にならないようにしましょう。影響力のある人、声の大きい人、リーダーに推奨される人、聖書知識の多い人、信仰歴の長い人、「長」とか「先生」と呼ばれる人、気をつけましょう。
霊的傲慢にならない秘訣は、自分が罪人であることを忘れないことです。また、謙遜でいることです。主イエスが語られた「パリサイ人と取税人」のたとえの取税人の祈りを心に留めていてください。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

主イエスは、心の貧しい人、悲しむ者、柔和な者、義に飢えかわく者、あわれみ深い者、心のきよい人、平和を作る人、義のために迫害されている者が幸いだと言われました。そして、宗教カルトの教祖になる誘惑をすべて退け、主イエスは徹底して謙虚に生き、十字架で命をささげるという「狭い門」を選ばれました。

あなたも主イエスの道をたどり、狭い門を選び、謙虚に生きましょう。
 →あなたの番です
 □狭い門から入りましょう
 □偽預言者に気をつけましょう
 □霊的傲慢にならず、謙虚に生きましょう