心を尽くして主に感謝 詩篇9篇

 私たちが幸せになったり、不幸せになったりする原因のほとんどは、言葉です。悪い言葉を聞けば、失望し、苦しみます。良い言葉を聞くと、元気になり、温かい気持ちになれます。
 人から「ありがとう」と言ってもらえると、苦労がすっと飛んでいきます。実に不思議なものです。今年最後の礼拝で、感謝することの素晴らしさを確認しましょう。



1、感謝すると、愛されていることが分かる

 「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」(詩篇9:1)

 これは詩篇9篇の主題であり、結論です。心を尽くしてとは、神がしてくださった事を、ひとつひとつ思い返したということです。
 感謝する能力があるとすれば、それは、隠れた努力や忍耐、注がれた愛に気がつく推察力と言い換えればいいでしょう。見えないところに隠れた神の愛や配慮に気づくことが、感謝です。

 主のして下さったことを数えましょう。今年、主から受けた恵みを一つ一つを感謝しましょう。あなたも、主に守られたことでしょう。そして、神に忘れられていません。

 「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。」(9節)
 「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。」(12節)
 
 結婚が近づき、花嫁が「お父さん、お母さん、ちょっと話があるの」と言いますね。そんなふうにした人はどのくらいいるでしょうか。両親も、「なんだい、改まって」と言いながら、実は、何を言うのか分かっています。「長い間お世話になりました」感謝する娘も涙、感謝される親も涙になります。親の愛と犠牲に見合う物やお金を返すことは不可能です。でも、ありがとうと言うなら、心は伝わるのです。親もそれ以上は求めません。
 神に対して、同じように感謝しましょう。感謝すれば、するほど、神に愛されていることに気づきます。



2、感謝すると、将来が明るくなる

 「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇9:10)

 神を信頼する者を、神は見捨てることがありませんでした。これは過去形です。それで、御名を知っている者は、これからも神に頼ります。これは未来形です。

 感謝することは、あなたの将来を明るくします。過去の感謝が、未来の安心を引き寄せるのです。今まで、神は、こんなに良くしてくださった。それなら、明日の心配はいらない。

 逆に言えば分かりやすいですよ。今、感謝をしない人の未来は、暗くなるのです。未来を造るのはあなたかもしれません。今の感謝が、将来の輝きを支えるのです。



3、感謝すると、礼拝者になれる

 「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」(詩篇9:2)

 感謝は、神のして下さった事実を土台にお礼を言うことです。感謝を続けると何が起こりますか。それは、恵みを下さる神ご自身が素晴らしいという確信を与えてくれます。もらったプレゼントが素晴らしければ、しばし、感激しますが、そのプレゼントを下さる神こそが、本当に素晴らしいと分かります。これが賛美です。そして、賛美とは礼拝の中心です。

 あなたが、感謝する人になれば、礼拝する人、賛美する人になっていきます。

 エレナ・デッセリッチちゃんは、5歳で脳腫瘍になり、6歳で亡くなりました。両親は子供にしてやれる治療のすべてを行い、余命わずかと分かったときには思い出作りのためエレナちゃんの喜ぶことをすべてしてあげました。
 亡くなった後、親が子供の机の引き出しを開けると、小さな紙が出てきました。「お父さん、お母さん、妹のグレース、大好き、ありがとう」と書いてありました。本棚から本を出すと、小さなメモが出てきました。その数は何百枚にもなり、家の中のあちこちに隠してありました。亡くなって2年たってもびっくりするような場所からメモが出てきました。

あなたの番です。
□まず、身近な人に、感謝しましょう。目を見て、心を尽くして、伝わる感謝をしましょう。
□神に感謝しましょう。一人で時間を取り、今年一年の感謝を具体的に思い出し、ノートに書き、祈りの中で神に感謝しましょう。

クリスマスの意味  マタイ1:18~25

 ラジオのスイッチを入れると、クリスマスは一年で最も素晴らしい時、と英語のスタンダードナンバーが聞こえてきます。
 なぜ、クリスマスは素晴らしいのでしょうか。今日は、クリスマスの意味を考えてみましょう。


1、クリスマスは、救い主の誕生

 日本のクリスマスは恋人たちのビッグイベントの代名詞になりました。アメリカでは家族のリユニオンの時です。

 本当のクリスマスの意味を一言でいいましょう。私たちを罪から救う<救い主>が生まれた、これがクリスマスの意味です。

 マタイの福音書をしばらく読んでみましょう。

 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
(マタイ1:18~21)

 聖書は道徳の本としては素晴らしいが、奇跡があるから信じられないという人が多いです。2000年前のユダヤ人ヨセフも現代人と同じ感覚を持っていました。自分に見覚えのないマリヤの妊娠をどう考えたらいいのか。婚約者のマリヤが妊娠したと知らされ、悩み苦しんだのです。

 神が本当におられたなら、と私と一緒に考えてください。時間と場所の制限を受けない神がいて、天と地のすべてと人間を造られた神がいたとしたらどうでしょう。宇宙の法則を定め、人間の体とDNAのすべてをつかさどり、物質の最小単位の原子、素粒子などのすべてを考案された方がいたらどうでしょう。その全能の神が、ある時、ご自分の造られた法則を一時的に変更することは不可能でしょうか。いいえ、可能です。奇跡は、全能の神を前提とすれば論理的にうなずけることなのです。

 マリヤは、天使ガブリエルとの出会いを詳細にヨセフに語ったことでしょう。ルカ1:26~38に詳しく書かれています。
 ヨセフは、マリヤを愛していました。けれども、常識と理性もあったので、マリヤの言うことは受け入れられません。それで、内密に婚約破棄し、スキャンダルの的にさせないようにと配慮しました。ヨセフができる精一杯の思いやりが表れています。

 処女降誕。ありえないことが起きたのです。けれども、救い主の誕生には、ありえない事がどうしても必要だったのです。
 人の罪を身代わりに背負うためには、救い主が罪があっては身代わりになりえません。普通の人間と同じように生まれて来たなら、それはただの人に過ぎません。聖霊によって誕生した方なので、罪人の身代わりになれるのです。
 また、この特別な誕生方法は預言者イザヤによって預言されていました。つまり、アクシデントではなく、予定通りなのです。イザヤ7:14「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』ち名づける。」(参照:マタイ1:22~23)

 神のひとり子が、神の栄光をかなぐり捨て、人間の姿をとって生まれてくださいました。当時ですら、家畜のえさ箱に寝かされる赤ちゃんなどいませんでした。貧しさの極みの夫婦のもとに生まれてくださいました。
 主イエスは、人として人生を送り、私たちが経験する悩みや悲しみや苦痛をすべて味わってくださいました。このようにして、私たちの救い主は来てくださったのです。その最後には、私たちの罪を背負って十字架で死ぬという最後が待っていました。

 ヨセフが悩んでいると、主の使いが夢に現れ、マリヤの言葉の正当性を教えてくれました。ヨセフは、これで吹っ切れました。離縁をやめました。ヨセフは男だな、と私は思います。

 ヨセフのこの決断によって、主イエスはヨセフの家系と認められました。(マタイ1:16)それゆえに、主イエスは旧約聖書が預言したとおり、ダビデの子として生まれたのです。



2、救い主を心に受け入れよう

 クリスマスが救い主の誕生であると分かっても、それだけではもったいない。主イエスは、いわば神からあなたに贈られた最高のプレゼントです。そのプレゼントの箱を空けずに横に置いていたら何にもなりません。受け取ることによって初めてその人のものになります。主イエスを心に受け入れ、信じましょう。それが、神のプレゼントを受け入れることです。

 フランシス・コリンズという人は、エール大学で物理化学の博士を取得、ノースカロナイナ大学の医学博士にもなった秀才です。
 インターンの時、お年寄りのクリスチャンから質問され、それが心に重く響きました。「あなたは何を信じているのですか」治療不可能な重度の狭心症で日々耐え難い痛みと戦っていたその患者は神を信じて平安を持っていました。
 フランシスは意図的に神に背を向けてきました。けれども、背中を押されるようにして、様々な宗教の本を読みましたが混迷は深まりました。近くにあったメソジスト教会の牧師に質問にいったおり、C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」を紹介され、読んでみました。自分の持っていたひとつひとつの疑問がわずかな言葉で的確に説明されているのを見て驚きました。それに触発され、クリスチャンになりました。
 フランシスは、後にヒトゲノム計画の責任者となるなど、遺伝子分野の有数な学者として知られるようになり、テレビのインタビューに登場し、はっきりと自分の信仰を語っています。主イエスは、私の救い主だと公言しています。

 聖書は、主イエスが救い主であることをあなたに伝え、あなたが信じて本当の命を受けられるようにと書かれたものなのです。

 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 あなたが、プレゼントの包みを開くときが来ました。
主イエスをあなたの救い主として信じましょう。そのとき、本当のクリスマスの喜びがあなたに届きます。

 クリスチャンのあなたにも最後に一言。堂々と主イエスが救い主であると人々に伝えましょう。

バルテマイ  マルコ10:46~52

 出会いは人生を変える。まさに今日はそれにふさわしい箇所です。盲人で乞食のバルテマイがどのように変えられたかを見ていきましょう。

1、つながるための叫び

 エリコは、オアシスの町、また、パレスチナで最も古い町の一つ。標高マイナス250mという低い場所にあり、もう少し下ると死海に着きます。
 ユダヤ人の大事な祭り、過ぎ越しの祭りが目前に迫っていたので、多くの人がエリコを通過してエルサレムを目指して上っていきました。

 盲人で、乞食のバルテマイが人通りの多いところに座っていたのでしょう。主イエスの一行が付近を通ると知ると急に叫びだしました。

 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。(マルコ10:47)

 バルテマイは主イエスの噂を聞き、この方こそ救い主、ダビデの子孫として生まれると旧約聖書に預言されたメシアだと確信して、「ダビデの子」と呼びました。マルコの福音書で唯一主イエスを「ダビデの子」と呼んだ人物がバルテマイです。

 まことの神を知らない人は、バルテマイと同じように霊的な意味で闇の中にいます。見たことのない方を完全に知ることは不可能です。知りえる情報から判断して、この方こそ救い主と知る以外道はありません。
「あなたが本当の救い主ですか。教えてください」そうあなたが叫ぶなら、あなたは必ず、主イエスの応答をもらえます。

 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13~14)

 主イエスは、バルテマイに応答されました。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(49節)

 主イエスとつながりたいというバルテマイの祈りは、このようにして主イエスに届きました。弟子たちがバルテマイに主イエスの言葉を伝えると、喜びのあまり上着を脱ぎ捨て立ち上がりました。

 あなたの番です。
あなたも、主イエスに届く祈りをしましょう。あなたを知りたいのです。あなたご自身を私に教えてください。私はあなたを信じます。そのように祈りましょう。


2、未来を切り拓く願い

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。

 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(51節)

 シャルル・ペローの「3つの願い」という話は興味深い寓話です。
きこりの夫婦が森で一本の木を切ろうとすると、木の妖精が現れ、この木を切らなければ3つの願いをかなえようと言うのです。言葉に従い、何を願おうかと考えいましたが、奥さんが「大きなソーセージが食べたいな」とつい口に出してしまいました。目の前に見たこともない巨大なソーセージが出てきました。大事な願いをつまらんことに使いおって、そんなソーセージはお前の鼻にくっついてしまえ、と夫が言い捨てました。すると、その通りになり、奥さんは困り果て、結局3つ目の願いは、それを外すことに使いました。

 私たちは、何を望んでいるのでしょう。たくさんのことを、ぼやっと願っているだけです。主イエスは、バルテマイの信仰を引き出したのです。

 「コーチング」という言葉があります。会社の社長や専門職が、新たな飛躍を求めて個人コーチを付ける例が増えてきました。カウンセリングは、どちらかといえば過去の問題の解決を志向しますが、コーチングは未来に向かって自分の行動を変えることを目指すと言われています。コーチングのプロは、課題を明らかにしたり、承認したり、励ましたり、目が覚ましたり、気づくことを促進させようと、的確な質問を投げかけます。そうなのです。良い質問は、漠然としていては出てきません。良い質問が人を育て、引き上げます。

 主イエスの質問を読んで、当たり前のことを聞くなあ、と思わないでください。実に的確で的を得た質問なのです。

 「そのとき盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳をあけられる。」(イザヤ35:5)

 51節で、「盲人は言った。『先生、目が見えるようになることです。』」とあります。盲人がそういう事は大変困難なことです。
 バルテマイは、自分をいじめた人に仕返しがしたいと答えることもできました。世界一の金持ちになりたいとも言えます。けれども、主イエスと対面していたバルテマイは、その出会いによって、心が整えられ、大胆に求めることができたのです。

 あなたの番です。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスに今日聞かれたら、あなたは何と答えますか。

 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(52節)

 主イエスは、バルテマイを励まし、その信仰を肯定されました。あなたの信仰がこんな素晴らしい結果を導き出したのだと。ダビデの子であるとバルテマイが認めたこと、大声で求め続けたこと、主イエスの質問を受けて見えるようになりたいと言ったことなど、主イエスはバルテマイの信仰が素晴らしと励ましました。

 バルテマイは、その後どうしたでしょう。見えるようになった目で主イエスを見つめ、主イエスの後に従う者になりました。金持ちの青年ができなかったことをバルテマイはいとも自然に行うことができました。

 今日、三度目のあなたの番です。
あなたも、主イエスにいやされたなら、罪ゆるされたなら、主について行く人生を選びましょう。

仕える人  マルコ10:32~45

 「私は不幸せだ」と言う人には共通する何かがある。それは、受身の人生観です。愛してもらえない、分かってもらえない、白馬に乗った王子様が来てくれない、子供が問題ばかり起こす、良い仕事が来ない……。
 今日は、仕える心について話します。これを身につければ、間違いなく幸せになれます。

1、何かをする動機

 何かをする時、以下の3つのどれかが動機になっています。

 1)みんながやっている
 2)言われたから
 3)別の下心で

 私も日本人ですから、みんながしていると嫌でもやってしまう気持ちは分かります。人生のかなり多くの部分は、習慣、前例、きまり、規則などに従って生きています。でも、残るのは疲れだけです。

 次に、職場で上司から指示があると、やりたくないことでも、しますね。親に手伝うように言われた子供の顔が不満なのは理解できます。言われてやる事は、たいてい不平、不満が残ります。

 第3は、下心があって何かをする場合です。自分からしているという意味では受身ではありません。自発的ですが、自己中心です。相手からのお礼や見返りがない場合はたちどころに怒りに変ります。

 もし、第4の動機があれば、人生は大きく変ります。主イエスの生き方。仕える心があれば、満ち足りた人生になります。

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:44)

 マーケティングの基本は、他人の求めている事に応えることであり、つまりそれは、人に仕えることだ、と発言する経営コンサルタントがいます。
 ビジネスの世界で、ロバート・グリーンリーフは1970年に<サーバント・リーダーシップ>という考えを提唱しました。ワンマン社長ではなく、上司が部下に仕え会社を活性化するという思想です。この考えは広く知られるようになり、事実、生まれ変わった企業の例も報告されています。


2、主イエスの生き方


 主イエスの生き方は、他人と横並びではなく、言われたからするのでもなく、卑しい動機ですることもありません。

 1)目的を持つ

  主イエスは、これから起きることを弟子たちに予告しました。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:33~34)

 主イエスの未来にあるものは、困難と屈辱と暴力と死だけでした。主イエスは、淡々と十字架への道を歩いていかれました。十字架で身代わりになるという明確な目的を持っている主イエスは、迷うことも、ぶれることもありません。

 2)正しい動機で選択する

 12弟子のうちヤコブとヨハネは、主イエスのナンバー2とナンバー3にして欲しいと申し出ました。(37節)エルサレムで主イエスが何かをなさると予想できたので、今のうちにお願いしようと思ったのでしょう。出し抜かれた他の弟子たちも動機は同じで、後で話を聞いて腹を立てました。(41節)
 主イエスの動機は正しい心でした。人々の罪を赦すために十字架につくという無私の心でした。

 「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲」む、と主イエスはヤコブとヨハネに向かって予告されました。この事は、ヤコブが最初の殉教者(使途12:2)になり、ヨハネが島流しの刑を受ける(黙示録1:9)ことによって成就しました。

 3)仕える姿勢で生きる

 主イエスの生き方は以下の言葉に集約されています。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

 栄光の神が、人となってくださったのです。しかも、罪深い人間に仕える姿を取られたのです。
 神の子が私たちに仕えようと考えてくださり、そのように行動されました。仕える心の中核は、命を与えることです。
 そうです、誰かに仕えることは、命を差し出してるに等しいのです。誰かが困っているとき、あなたがその場に行き、なぐさめ、抱きしめます。それは、あなたの時間をささげ、エネルギーをそそぎ、持てる愛のすべてを与えているのです。あなたも、仕える心を持ちましょう。世界が違って見えるはずです。あなたを待っている人がいます。最も仕えて人こそ、最も賞賛される人となるのです。

 →あなたの番です

 □職場で、家庭で、教会で仕える心を持ちましょう
 □誰かと共にいる、傾聴する、愛する、励ましの言葉のプレゼントをする
 □人を育てるために祈り、誰かに仕えるために計画を立てよう
 □福音を伝え、明確な決心者を生み出す行動を取ろう

 

福音のために マルコ10:23~31

1、神にはできる

 だいぶ昔のことですが、あるアメリカの新聞がお金についての定義を一般公募しまして、一位に選ばれた定義がこれです。
 お金とは、それを払えば天国を除くすべてのところに行く事ができ、幸福以外のどんなものでも買えるもの。

 お金にだけ価値を置き、お金だけを追求する金持ちに対して主イエスは厳しいことを言われました。

 「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。』」(マルコ10:23)

 その難しさを、弟子達に強く印象づけるために、当時ユダヤで知られていた最も大きな動物と最も小さな穴を対比して、次のように主イエスは言われました。

 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マルコ10:25)

 弟子たちは、主イエスの説明に驚きました。神に特別に祝福された人だから金持ちになれた、と当時の人々が考えていたので弟子の驚きは尋常ではなかったのです。

 弟子たちは、困惑しきって、「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(26節)と言いました。
 
 「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」(マルコ10:27)

 今日の箇所には、主イエスのまなざしがとても印象深く語られています。
 「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。」(23節)
 「イエスは、彼らをじっと見て言われた。」(27節)

 ルカは、主イエスのまなざしについては言及していません。(ルカ18:18~30)十二弟子の一人マタイは、二回目のまなざし(マタイ19:26)だけを記録しました。マルコの福音書は、主イエスが弟子たちを二度ご覧になったと記されています。おそらく、これはペテロの記憶に基づくものでしょう。
 ペテロが3度主イエスを裏切ったちょうどその時、「主が振り向いて、ペテロを見つめられた。」(ルカ22:61)とあります。ペテロはその場その場での主イエスの目を他の弟子以上に覚えていたのかもしれません。
 
 主イエスは、目で語るお方です。金持ちの青年にもいつくしみの視線を向けられました。金持ちが救われることが困難だと話すときも、悲しみの表情で語られたのでしょう。けれでも、神には人を救うことができるという時には、温かさと確信に満ちた目をされたことでしょう。
 人にはできない、しかし、神にはできる。神はどんな問題のある人、罪人も救うことができると主イエスは言われるのです。

 「どんなことでも、神にはできるのです。」(27節)

 あなたが、どんなに汚れていても主イエスはそれをきよめると言ってくださいます。あなたが、自分では不可能だとあきらめても、主イエスはできると言ってくださいます。あなたはこの言葉を信じますか。
 主イエスは、今日、あなたを見つめておられます。主イエスの目をまっすぐに見ましょう。

 

2、主イエスのためならできる

 もう、ペテロは黙っていられませんでした。

 「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マルコ10;28)

 ペテロはすぱっと捨てた人でした。マルコ1:18に、「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」とある通りです。これはペテロの英断です。仕事を捨て、大事な商売道具の網を捨てて、主イエスについて行くことにしたのです。
 ヤコブやヨハネは、父を置いて、また船を置いて、従ったことが分かります。(マルコ1:19~20)

 富める青年の話を見ていると、財産を捨て主イエスについて行くことが困難に感じられましたが、事実、捨てて従った人々がいたのです。主イエスの素晴らしさを知ったなら、捨てることは自然にできます。
 最も価値あることのためには、価値あるものを捨てることは可能なのです。

 主イエスは、「わたしのため、また福音のために」何かを捨てた人はその100倍の祝福が来ると約束されました。100倍は、大きな祝福を意味するのであって、お母さんが100人になるわけではありません。

 「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」(マルコ10:29~30)

 主イエスを信じる者は、主イエスが見ているものを見るようになります。主イエスが神の栄光を捨てたように、私たちもいつのまにか捨てることができます。

 主イエスのために価値あるものを捨てた人生というと、エリック・リデルを思い出します。
 エリック・リデル(Eric Liddell1、902-1945)は、中国で宣教師をしていた両親のもとに生まれ、スコットランドで教育を受けました。運動能力に優れ、1924年パリオリンピックの100mで金メダルを期待された人物でした。レースが日曜に行われたため、信仰を理由に欠場、つまり主イエスのために金メダルを捨てたのです。とはいえ、エリックは400mで金メダルを取りました。
 翌年、宣教師になるため中国に戻り、やがて結婚しました。日本軍の満州進出など不穏な空気が流れ、エリックは妻と3人の子供を故国に戻し一人宣教地の中国に残りました。
 第二次世界大戦勃発後、エリックは収容所に入れられます。捕虜交換の候補として選ばれてもエリックは妊婦にその特権を譲りました。所内の日曜学校では青少年たちに聖書を教えていました。
 エリックから聖書を学んだ少年の一人に、14歳のスティーブン・メティカフがいました。敵を愛せとの主イエスの言葉は守れないという正直な感想に対し、エリックは、敵のために祈ることはできるよ、私は日本人のために祈っていると話しました。祈らないなら自分中心になる、祈るなら神を中心の人生が送れる、と教えたといいます。スティーブンは、エリックの葬儀の時に棺を担ぎ、エリックの信仰のバトンを心で受け止めました。戦後、聖書を学び、日本に来て宣教師となり38年間福音を伝え続けました。

 一人の信仰者が、キリストのため、福音のため、かけがいのないものを捨てるなら、多くの祝福が周囲に及ぶことがこれからも分かります。

 あなたは、今、何のために生きていますか。

 主イエスのために、何を捨てますか。

 福音のために、今週できることは何ですか。

 あなたの番です。



 
 
 

富める青年  マルコ10:17~22

 華麗なファッションに身を包み、流行のヘアースタイルを決め、真っ赤なスポーツカーに乗った若い男が教会に来たとしよう。「どうしたら、あの人の愛を買えるだろうか」と聞いてきたら、私は言ってやりますね、「みそしるで顔を洗って出直してきな」とね。
 愛は金では買えない。同様に、永遠の命も人間の努力や道徳では獲得できない。だが、今日の箇所に登場する男にはそれが分かっていなかった。


1、一期一会

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』」(マルコ10:17)

 マタイ19:20を見ると、この男が青年であることが分かる。ルカ18:18によれば、職業が役人であり、ルカ18:23からは、大変な金持ちであることも分かる。マルコの福音書を読むと、走り寄り、跪く青年の様子がみてとれる。
 このとき、青年の目はどこに注がれていたのだろう。果たして、主イエスの目を見ただろうか。

 青年は病気でも、盲目でもなかった。いまにも死にそうな家族がいるわけでもない。青年は、ただ永遠の命がほしくて、その獲得方法を尋ねるため跪いた。
 主イエスに出会って、悲しみながら帰ったのはこの青年だけだ。他の大勢の人々は、喜び、賛美し、感謝して帰って行った。他の出会いの場面と何が違うのだろう。

 長血の女の場合と比較してみよう。主イエスの着物に触れればいやされると女は信じて手を伸ばした。その結果、瞬時に痛みが引き、癒された。主イエスは、病気が治ればそれで良しとされず、いやされた人を見つけようとされた。女が出てくると、主イエスは言葉を交わされ、信仰を励ましてから帰された。主イエスは、病気のいやしだけではなく、人との交わりを求めておられた。主イエスは、病気をいやすマシンではないのだ。

 さて、この青年に、主イエスとの心の触れ合いを求めた形跡があるだろうか。自分自身を任せた跡があるだろうか。信じようという姿勢があっただろうか。

 主イエスは、心が触れ合うことを何よりも大事にされた。一期一会の出会いが肝心だと確信されていた。主イエスを信じ自分自身をゆだねる経験が、たとえわずかな瞬間であろうと、その一瞬が永遠のとびらを開く鍵となる。
 
 主イエスは、この青年と意味のある出会いをしたいと願われた。青年の目を開きたいと思われた。それで、今回のような対応を選び、言葉を用いられた。


2、つながり

 青年は知識を求め、主イエスは<つながり>を求められた。

 青年の姿勢は、「永遠の命の入った缶をください」とお金を握って教会に来るようなものだ。礼拝に出るつもりはない、クリスチャンに会うつもりもない、缶を手に入れればそれでいいわけだ。

第1ヨハネの手紙には、永遠のいのちが何かを説明している。

 「あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠の命です。」(第1ヨハネ2:24~25)(参照→第1ヨハネ5:11、12)

 命とは、つながりだ。つながっているから、流れる。永遠の命とは、モノではなく、生き生きした関係の事なのだ。主イエスが命だから(ヨハネ14:6)、主イエスとつながることによって命が伝わってくる。
 
 主イエスはつながりを作ろうとされた。でも青年はそれをはじき返してしまった。


3、欠けたところ

 「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」(マルコ10:21)

 この表現はきわめて異例だ。青年を見つめる主イエスのまなざしには、特別な思いが込められていた。

 青年は、今まで人からほめられるだけの人生だったかもしれない。「お金があっていいですね。うらやましいですね。」「真面目ですね。熱心ですね。親孝行ですね。宗教心が篤いですね。」と何度も言われたことだろう。
 主イエスは、青年をひとつも賞賛しなかった。十戒の言葉を部分的に引用して、青年の目を開かせようとされたが、律法については落ち度なく守っていると答え進展はなかった。
それで主イエスは、最後の方法をとられた。いつくしんで言われた。青年の本当の姿をあぶりだすために厳しく言われた。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)

 「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:22)

 もし青年がこう答えたらどうだろう。主イエスさま、そんなことは不可能です。自分の生活も守りたいです。自分がかわいいです。でも、今までの生き方には満足できません。助けてください。

 主イエスはこの瞬間を待っておられた、と私は想像している。

 自分の無力さと罪深さを嘆き、青年が助けを求めて主イエスの顔を見上げたなら、主イエスのいつくしみをたたえたまなざしに気づいたはずだ。
 
 そうすれば、ザアカイが喜んで主イエスをお迎えしたように、青年も心を開き、自分ができることを自発的に提案したことだろう。

 →あなたの番です

□あなたも、主イエスにつながろう。主イエスを救い主として信じよう。

□すでに信じてクリスチャンになっている人は、もっと主イエスとつながりを深くしよう。

□主イエスは今日、あなたに指摘したいことがあるかもしれない。欠けたところがひとつあると言っておられる。それは、何だろう。

 主イエスは、あなたの欠けたところを補うために来られた。そして、あなたといつまでも共に歩みたいと言っておられる。永遠の命は、ここから始まる。

富める青年  マルコ10:17~22

 華麗なファッションに身を包み、流行のヘアースタイルを決め、真っ赤なスポーツカーに乗った若い男が教会に来たとしよう。「どうしたら、あの人の愛を買えるだろうか」と聞いてきたら、私は言ってやりますね、「みそしるで顔を洗って出直してきな」とね。
 愛は金では買えない。同様に、永遠の命も人間の努力や道徳では獲得できない。だが、今日の箇所に登場する男にはそれが分かっていなかった。


1、一期一会

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』」(マルコ10:17)

 マタイ19:20を見ると、この男が青年であることが分かる。ルカ18:18によれば、職業が役人であり、ルカ18:23からは、大変な金持ちであることも分かる。マルコの福音書を読むと、走り寄り、跪く青年の様子がみてとれる。
 このとき、青年の目はどこに注がれていたのだろう。果たして、主イエスの目を見ただろうか。

 青年は病気でも、盲目でもなかった。いまにも死にそうな家族がいるわけでもない。青年は、ただ永遠の命がほしくて、その獲得方法を尋ねるため跪いた。
 主イエスに出会って、悲しみながら帰ったのはこの青年だけだ。他の大勢の人々は、喜び、賛美し、感謝して帰って行った。他の出会いの場面と何が違うのだろう。

 長血の女の場合と比較してみよう。主イエスの着物に触れればいやされると女は信じて手を伸ばした。その結果、瞬時に痛みが引き、癒された。主イエスは、病気が治ればそれで良しとされず、いやされた人を見つけようとされた。女が出てくると、主イエスは言葉を交わされ、信仰を励ましてから帰された。主イエスは、病気のいやしだけではなく、人との交わりを求めておられた。主イエスは、病気をいやすマシンではないのだ。

 さて、この青年に、主イエスとの心の触れ合いを求めた形跡があるだろうか。自分自身を任せた跡があるだろうか。信じようという姿勢があっただろうか。

 主イエスは、心が触れ合うことを何よりも大事にされた。一期一会の出会いが肝心だと確信されていた。主イエスを信じ自分自身をゆだねる経験が、たとえわずかな瞬間であろうと、その一瞬が永遠のとびらを開く鍵となる。
 
 主イエスは、この青年と意味のある出会いをしたいと願われた。青年の目を開きたいと思われた。それで、今回のような対応を選び、言葉を用いられた。


2、つながり

 青年は知識を求め、主イエスは<つながり>を求められた。

 青年の姿勢は、「永遠の命の入った缶をください」とお金を握って教会に来るようなものだ。礼拝に出るつもりはない、クリスチャンに会うつもりもない、缶を手に入れればそれでいいわけだ。

第1ヨハネの手紙には、永遠のいのちが何かを説明している。

 「あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠の命です。」(第1ヨハネ2:24~25)(参照→第1ヨハネ5:11、12)

 命とは、つながりだ。つながっているから、流れる。永遠の命とは、モノではなく、生き生きした関係の事なのだ。主イエスが命だから(ヨハネ14:6)、主イエスとつながることによって命が伝わってくる。
 
 主イエスはつながりを作ろうとされた。でも青年はそれをはじき返してしまった。


3、欠けたところ

 「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」(マルコ10:21)

 この表現はきわめて異例だ。青年を見つめる主イエスのまなざしには、特別な思いが込められていた。

 青年は、今まで人からほめられるだけの人生だったかもしれない。「お金があっていいですね。うらやましいですね。」「真面目ですね。熱心ですね。親孝行ですね。宗教心が篤いですね。」と何度も言われたことだろう。
 主イエスは、青年をひとつも賞賛しなかった。十戒の言葉を部分的に引用して、青年の目を開かせようとされたが、律法については落ち度なく守っていると答え進展はなかった。
それで主イエスは、最後の方法をとられた。いつくしんで言われた。青年の本当の姿をあぶりだすために厳しく言われた。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)

 「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:22)

 もし青年がこう答えたらどうだろう。主イエスさま、そんなことは不可能です。自分の生活も守りたいです。自分がかわいいです。でも、今までの生き方には満足できません。助けてください。

 主イエスはこの瞬間を待っておられた、と私は想像している。

 自分の無力さと罪深さを嘆き、青年が助けを求めて主イエスの顔を見上げたなら、主イエスのいつくしみをたたえたまなざしに気づいたはずだ。
 
 そうすれば、ザアカイが喜んで主イエスをお迎えしたように、青年も心を開き、自分ができることを自発的に提案したことだろう。

 →あなたの番です

□あなたも、主イエスにつながろう。主イエスを救い主として信じよう。

□すでに信じてクリスチャンになっている人は、もっと主イエスとつながりを深くしよう。

□主イエスは今日、あなたに指摘したいことがあるかもしれない。欠けたところがひとつあると言っておられる。それは、何だろう。

 主イエスは、あなたの欠けたところを補うために来られた。そして、あなたといつまでも共に歩みたいと言っておられる。永遠の命は、ここから始まる。