ペテロの手紙 第一、第二


 新約聖書の人物で誰に会いたいかと聞かれたら、私はペテロと答えます。
ペテロは漁師だったので日焼けした顔で、深く刻まれたしわがあったかもしれません。素朴な語り口、穏やかなまなざし、迫害で受けた傷跡、自分の失敗を語る率直さ、が想像できます。

文は人なりと言いますが、60年代に書かれたペテロの手紙には、ペテロの人柄がそのまま表れています。パウロのような論理的アウトラインはありません。トルコ半島に住むクリスチャン(第一ペテロ1:2)を心に思い描き、祈りつつ、迫害に苦しむクリスチャンを励まそうとして書いた手紙です。手紙のあちこちに、主イエスと過ごした思い出話が出てきます。(第一ペテロ1:7、2:4~8、2:21~15、4:12~14、5:1~2、第二ペテロ1:16~18)

ペテロの手紙のキーワードを3つチョイスするとしたら、①選び、②救い、③神の似姿を挙げることができます。


1、選ばれている
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(第一ペテロ1:2)

 神が私たちを選んだことを心に留めよ。ペテロはそう言いたいのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(2:9)

 主イエスがペテロを十二弟子に選んだのはなぜでしょう。それは、主イエスが昇天された後、主イエスの働きを継承するためでした。私もあなたも、「選ばれた種族」です。主イエスがして下さった素晴らしいみわざを周囲の人に述べ伝えるために選ばれました。福音を「いつでも弁明できる用意」(3:15)をしておきましょう。
 私たちも選ばれています。何のために選ばれたのか、よく考えて行動しましょう。

2、救われている

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(1:8~9)

 主イエスに会ったことのない人々が主イエスを愛していることを、ペテロは素朴に驚きました。主イエスを直接見ていないのに主イエスを信じている人々をペテロは心から喜びました。彼らの姿に、ペテロは救いの印を見ました。
 主イエスを信じたゆえの地上における救いだけでなく、天にたくわえられている救い(これから体験する素晴らしい恵み、受け継ぐ資産)があるとペテロは言いました。

 私は、ジグソーパズルが好きです。1000ピースのパズルを妻と一緒に楽しく作っています。カチッと入ったときは楽しいです。なんといっても、ジグソーパズルは完成すれば必ず美しい写真なり絵が現れるので安心して取り組めます。
 救われた人には、最後には救いの完成が約束されています。永遠の命が与えられ、朽ちない霊的資産がもらえるのです。

 救いがあると分かった人は、この世の小さなことに一喜一憂しなくなります。自分の終わりが分かっているので、じたばたする必要がありません。それで、損しても正しいことをしたり、苦労して人を助けたり、愛したりできます。また、上に立つ権威を尊敬して生活できます。(2:13)信仰ゆえの不当な苦しみを負う時も耐えることができます。(2:21~24)

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(2:21)

「道路に落としたゴミが多すぎて女子校生が拾い集めきれない、助けてあげてほしい」という電話を受けた日本の警察官が現場に着きました。夕方、日の落ちた県道で作業をしていた女子校生に尋ねると、誰かが落としたごみが散乱していたので拾い始め、自転車カゴには入りきれなかったので、コンビニでごみ袋を買って来て入れていたというのです。彼女は、当たり前と思ってゴミを拾った、と答えました。

当たり前、無意識、醸し出す雰囲気。そこに価値があります。主イエスに救われた人の心に主イエスが住んで下さるので、ごく当たり前に愛や正義や謙虚さがにじみ出てきます。それが付け焼刃でない本物です。
今週、救われているゆえの、当たり前の行動をしたいですね。

手紙を書いた頃のペテロには、信仰者としての年輪、主イエスを愛しているゆえの輝き、御霊による聖めの香りなどがにじみ出ていたことでしょう。

3、神の性質にあずかる者
 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:4)

 ここに、私たちが「神のご性質にあずかる者」になれるという約束が書かれてあります。

 この約束があるので、聖さを求める生き方が空しくなりません。(1:15~16、第二ペテロ3:14)夫や妻は互いに尊敬し、愛し合うことができます。(第一ペテロ3:1~7)兄弟愛を働かせ、謙虚に生きることも可能です。(3:8)主から頂いた賜物を用いて、奉仕し互いに仕えます。(4:8~11)

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(1:15)

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(4:2)

今から40年以上も前のことですが、ウイリアム・ニガンダというアフリカで有名な伝道者がいたそうです。アフリカでミニストリーをしていましたジム・ホワイトは、ウイリアム先生の噂を聞いていました。伝道集会などでウイリアム先生が講壇に立つと多くを語らないうちに心を刺され悔い改める人が出る人で、「神の人」という評判の高い人でした。
ナイロビで車を運転していたジム夫妻はウイリアム先生を見かけ、車に招き入れてしばらく話す機会がありました。ウイリアム先生は、後部座席にいた5歳の女の子に、「お嬢ちゃんのお名前は?」と尋ねました。「バレリー」と答えると、「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」と聞きました。「うん、まあね」と答えました。しばらくして先生と分かれたジムの家族は5分間、誰も口をきけませんでした。ウイリアム先生との会話で受けた温かい感動が圧倒していたのです。その後、やんちゃ盛りのバレリーはお母さんにこう言いました。「私も大人になったら、神の人になりたい」


 主に選ばれ、主によって救われ、神のご性質にあずかる者と約束された私たちは、普通の人とは違う「当たり前の生き方」が始まりました。
 身近な人を愛す。仕事で正義を選ぶ。汚れを離れ聖さを求める。困難の中でも、忍耐し、信じ、仕え合う。それがごく自然にできるようになりたいです。


 →あなたの番です
  □選ばれ、救われ、神に似るようにされたことを感謝する □人生のどんな時も、愛と聖さを実行し、福音を伝えていこう

ヤコブの手紙

 「行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
 このことばのように、ヤコブの手紙は厳しいという印象があります。ヤコブの手紙を読み解く鍵は、手紙をもらった人々の状況、そして、主イエスが語られた山上の垂訓にあります。


1、主イエスのように考える
 主イエスの弟であるヤコブは(マタイ13:55)、主イエスの復活後主イエスを信じ(使徒1:14)、エルサレム教会の中心人物(使徒15:13、ガラテヤ1:19)になりました。新約聖書の中で最も古い手紙の一つがこのヤコブの手紙です。迫害のためにエルサレムから各地に散らされたユダヤ人クリスチャンを励ますために書かれました。(ヤコブ1:1)

先週学んだ「ヘブル人への手紙」も、迫害の中にいたユダヤ人クリスチャンに書かれたものでした。苦しい中で信仰を守り通すために、主イエスがまことの救い主だと確認し、主イエスから目を離さないようにと語っていました。
「ヤコブの手紙」も同じような読者を想定していますが、その内容を簡潔に言うならば、主イエスのように考え、主イエスのように行動せよとなります。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(ヤコブの手紙1:2)

 試練は嫌なものです。誰も試練は喜べません。けれどもヤコブは、喜べと言いました。主イエスの山上の説教を彷彿させます。主イエスは、そういう人には天の報いが大きいと教えました。ヤコブは、試練で忍耐が育ち、成熟すると述べました。試練を表面的に見ず、大きな視点で見ることが大事です。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5:11~12)

迫害や苦しみの中にいる人にとって、物事の洞察力はとても大切です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

知恵というのは、迫害や試練の真相を見極める洞察力だと思います。今起きている事柄の本質を見抜くのが、主イエスのものの見方であり、本当の「知恵」です。主はあなたのみ知恵を必ず与えてくれます。

迫害を受けている人は、生活の困難を覚え、多くの場合は貧困に苦しみます。ヤコブは、貧しさは高い身分だと説明します。

貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。(ヤコブ1:9)

迫害でひどい仕打ちを受けた人は常に怒りモードに入っています。けれどもヤコブは、怒るなと言いました。

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブの手紙1:19~20)

主イエスも山上の垂訓で、人を「さばいてはいけません。」(マタイ7:1)と言われました。怒った状態で誰かに「ばか者」、「能無し」と言うのは殺人と等しいと語りました。(マタイ5:22)

試練の時、貧しい時、怒りたい時、ひどい仕打ちを受けたとき、主イエスのものの見方をしてみましょう。



2、主イエスのように行動する


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
 
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)
 
 迫害、試練、経済的困難など生活上の悩みを抱えたときの処方箋は、「行動」です。小さなことでもいいのです。体を動かしましょう。誰かの役にたちましょう。

ヤコブは手紙の中で様々なアクションを勧めています。えこひいきしないで人と接する(2:1~4)、生活に困った人を具体的に助ける(2:15~16)、良い言葉を語る(3:2~12)、平和をつくる(3:13~18)、争わない(4:1~4)、罪を悔い改める(4:8~10)、謙虚に仕事をする(4:13~15)、互いのために祈り合う(5:14~16)。

 心が弱っている人、ダメージを受けている人にとっては、ヤコブの手紙の言葉は厳しいメッセージに聞こえるかもしれません。でも、迫害で苦しむ人へのアドバイスが「行い」であることに注意して下さい。弱っている人、ダメージを受けている人が、誰かのために自発的な行動をすること、それ自体に価値があり、逆に助けになるのです。

生きた信仰は行動します。行動すると、成功もあります、失敗もします。それでよいのです。生きた信仰者は、失敗を重ねながら愛を学び、忍耐を学び、主の力と恵みを発見します。あなたは、今週、何をしますか。アクションしましょう。

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ5:13)

 →あなたの番です
  □主イエスのように考えてみよう
  □主イエスのように行動してみよう

ヘブル人への手紙


 信仰者が苦難に遭遇したら、どうしたらよいのでしょう。「ヘブル人への手紙」は教えてくれます、主イエスに目を留めよ、と。

1、主イエスこそ救い主

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:3)

 ユダヤ人がクリスチャンになる。それは、昔も今も容易なことではありません。初代教会の時代、ユダヤ人がクリスチャンになると会堂から追放され、ユダヤ人コミュニティーで厳しい迫害を受けました。クリスチャンになったユダヤ人は、暴力、罵倒、捕縛、経済的損出を経験しました。(ヘブル10:32~34)

 ユダヤ人クリスチャンは、「押し流され」(21)、「不信仰の心」(3:12)になり、「確信を投げ捨て」(6:11、10:35)、「動揺」(10:23)し、「いっしょに集まることをやめ」(10:25)、「神の恵みから落ち」(12:15)そうになりました。そして、ユダヤ教の律法やいけにえに心が惹かれました。

 「ヘブル人への手紙」を書いた人物(著者不明)は、そうしたヘブル人に対して、主イエスに目を留めるように勧めました。主イエスは、旧約聖書が預言した救い主であり、「神の栄光の輝き」「神の本質の完全な現れ」(1:3)であり、「万物の存在の目的」(2:10)です。主イエスは、天使にまさり(1~2章)、モーセにまさり(3章)、ヨシュアにまさる(4章)のです。

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(9:12)

大祭司のいけにえは不完全であるがゆえ毎年繰り返されました。主イエスの十字架はたった一度で私たちの罪を完全にあがない、罪の赦しを与えてくれました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)

へブル人への手紙においては、主イエスが完全な救い主であることを教えるだけでなく、主イエスが苦しまれたということに注目しています。主イエスは、「多くの苦しみを通して」(2:10)、「苦しまれたので」(2:18)「私たちと同じように、試みに会われ」(4:15)、「お受けになった多くの苦しみ」(5:8)とあるように、主イエスは誰よりも苦しを経験されました。その苦しむ主イエスの姿が、私たちを勇気づけてくれるのです。

1967年7月、17歳のジョニー・エレクソンは岸から遠く離れた海に浮かぶ浮台に立ち上がり、海に飛び込みました。ガツンという感じで何かに当たり電気ショックのような痛みを感じ、力なく浮いていました。幸い一命を取りとめましたが、首の骨を折り、首から下は全く動かなくなりました。病室で痛みと闘っていたとき、見舞いに来た友達が言いました。あなたは、十字架で釘づけられたイエスさまと同じだね。そう言われて、ジョニーははっとしました。主イエスは、私と同じ痛みを知っておられる。主イエスも自分で手合いを動かせなかった。それが彼女の慰めになり、やがて絵筆を口にくわえて絵を描いたり、歌ったりするようになり、クリスチャンとして多くの人を励ますようになりました。ジョニーは、苦しむイエスに慰められたのです。

苦しんでいるなら、主イエスに目を向けましょう。


2、忍耐

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:35~39)

 迫害を受けて苦しむヘブル人に、「へブル人への手紙」は忍耐を勧めます。人生には忍耐の時期があるのです。忍耐には価値があり、忍耐は報われます。主イエスも苦しまれ、忍耐されたのです。
 「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」(10:36)だから、旧約聖書の信仰者たちは困難な中で忍耐し「信仰によって」(11:8)歩んだのだから、「主はその愛する者を懲らしめ」(12:6)るのだから、やがて「ご自分の聖さにあずからせ」(12:10)て下さるのだから、忍耐を持って信仰の道を進みましょう。

 あなたも、今が忍耐のしどころです。忍耐は永遠には続きません。


3、主イエスから目を離さない

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:1~3)

 あなたが疲れ倒れたときは、人を見ず、自分も見ず、ただイエスさまを見上げましょう。苦難の十字架の道を選ばれた主イエスに目を向けましょう。あなたが元気を失い、疲れ果て、自分を支えるものが何もないと感じた時でも最後に残る確実なものがたった一つあります。主イエスが、あなたのために死なれたという事実です。十字架です。主イエスの苦しみ、痛み、流された血、受けた恥は、すべてあなたのためです。

 キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(13:5)
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(13:8)

 →あなたの番です
  □主イエスは、まことの救い主
  □人生には忍耐の時がある
  □主イエスから目を離さない

テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙


 テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙は、各教会に宛てたパウロの手紙と性格が異なります。先輩牧師であるパウロが、若い牧師を励ますために書いたもので、教会運営上の具体的アドバイスが多く含まれています。

 これら3つの手紙のエッセンスを生かせば、子育て、職場での後輩指導、信仰上の弟子訓練に応用できます。


1、主のあわれみを受け取る

信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(第一テモテ1:2)

 パウロは、手紙の最初にいつも「恵みと平安」を祈りました。テモテに宛てた手紙だけに「あわれみ」を加えて「恵みとあわれみと平安」があるようにと祈りました。
 主イエスからあわれみを受けることなしに、牧師は続けられない。パウロは、まず自分の過去に触れて、どんなに大きな主のあわれみを受けたかを語りました。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:13~16)

先輩、親、上司、という立場の人は、立派な今の姿だけを見せるのではなく、失敗と未熟さがあった若き日を後輩に語ることが大切です。主からあわれみを受けたという経験談が若い人達に大きな励ましになります。
かくいう私も、神学校の1年生の時、寮を逃げ出したことがありました。自分の能力の限界と信仰の未熟さに失望して、いわば自主退校をしました。バック一つ持って部屋を出て、アルバイトニュースを買い求めました。大学の聖書研究会の部屋に泊まりましたが、その深夜に主のあわれみに気づき翌日学校に戻りました。私は、主のあわれみを受けて30年以上牧師として歩むことができましたが、あの日のことは忘れません。

私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(第二テモテ1:4~7)

テモテへの手紙第二にも、あわれみが書かれています。テモテよ、私はあの時のあなたの涙を覚えているよ。弱い時もある、臆病になる時もあるけれど、主のあわれみは注がれている、主から受けたものを思い出せ、必ず立ち上がれるよ、とパウロはテモテを励ましました。

 人を育てる者は、主からのあわれみを体験していることが必須です。


2、信頼できる人に任せる

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(第一テモテ3:2~7)

テモテへの手紙第一の時点では、テモテはエペソで牧師をしていました。また、テトスが手紙を受け取った時、テトスは地中海のクレテ島で牧師をしていました。二人とも若い牧師ですが、パウロに代わって各地を巡回していました。パウロは二人に対して、町ごとに教会の牧師を任命するようにと指示しました。上記の聖書箇所は、牧師の資質リストです。テトス1:5~9のリストも基本的には同じものです。牧師の資質を簡単に言うと、信頼できる人で、教える能力のある人です。

 パウロが第二の手紙でテモテを鼓舞している以下の部分でも、同じ事を言っています。他の人に教えることのできる人で忠実な人に弟子訓練をゆだねるように勧めています。

そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第二テモテ2:1~2)

 主イエスは十二弟子を①選び、②育て、③任せました。パウロも、教会のリーダーたちに対して、常に次世代のリーダーを選び、任せるよう命じました。

 あなたの周囲に、クリスチャンとして信頼できる人がいますか。その人は教える力を持ていますか。その人を選び、育て、任せましょう。

 弟子作りの原則は、子育てにも、後輩育成にも応用できます。


3、自分自身も向上に努める

 パウロはテモテ第二の手紙を書く時点で、死期の近いことを悟っていました。(第二テモテ4:6~8)事実、この手紙はパウロの絶筆となりました。
 テモテよ、若くても軽くみられるな、信徒の模範となれ、教える事と自分の生き方を分離するな、一貫性のある信仰生活を送れとパウロはいつも語っていました。弟子を育てるあなた自身が、主の弟子であり続けなさいと教えました。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(第二テモテ2:3)
 「熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:15)
「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2:22)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(4:2)

あなたも、クリスチャンとして一貫性を持ちましょう。教会でも、家庭でも、職場でも、嘘がなく、誠実で、親切で、主イエスを愛す人として生きましょう。周囲の人に信頼される人になりましょう。神の栄光をあらわし、主イエスの福音を生涯語り続けましょう。
 人間ですから、罪を犯したり、失敗することもあります。大事なことは、悔い改め、主のあわれみを受けて立ち上がり、クリスチャンとしての一貫性を再構築することです。
 そのためにも、毎朝祈りましょう、毎朝聖書を読む人になりましょう。ありがとう、ごめんなさい、愛してます、私がします、と言える人になりましょう。


 →あなたの番です
  □主のあわれみを受け取りましょう
  □弟子を育てる弟子になりましょう
  □クリスチャンとしての一貫性を保ちましょう


ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙

 今日は、喜びと感謝について考えましょう。

1、ピリピ人への手紙

 パウロはローマで上訴審開催を待っており、拘留状態にありました。そこに、エパフロデトがピリピ教会から献金を持って来て、生活の足しにして下さいとパウロに渡してくれました。(ピリピ4:18)パウロはそれをものすごく喜んで、感謝の手紙を書きました。それがピリピ人への手紙を書いた直接の理由です。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20~21)

生きていても喜び。死んでも喜び。自分を通してキリストが明らかにされるなら、どちらでも構わないとパウロは考えたのです。日常生活に左右されない別次元の喜びをパウロは持っていました。
主イエスに愛されていること、主イエスの十字架で罪が赦されたこと、天国にいけること、罪深い私と共に主イエスがいてくださること、欠けの多い私を通してキリストがあがめられること、使命が与えられたこと、それらが喜びの源泉でした。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:4~7)

主にあって喜びなさいとパウロは何度も言いました。喜ぶか喜ばないかは、あなた次第です。主にあって喜ぶとは、生き方の選択です。あなたの心のカーナビを、喜びという方向にプリセットするのです。
多くの人は、不幸の原因を他人や環境のせいにしています。そういう人は一生不幸です。

教会に通う前の私は、毎朝不機嫌でした。前夜は運動部の疲れで夕食後はうたた寝して、夜中に置き出して夜更かしし、朝方自分の目覚まし時計では起きられず母に起こしてもらっても起きず、寝坊すると母親のせいにして「遅刻する!」と怒鳴りながらドアを思いっきり閉めて駆け出した高校生でした。私は他人のせいで不幸だと思い込んでいましたが、それは間違いでした。

出かける前に鏡の前で見だしだみを整えるように、一日を始める前に自分の心を整えることが、主にあって喜ぶことです。

 物事に左右されない喜びを身に着けるために、祈りが必要です。思い煩わずにまず祈ることです。他人の物まねのような笑顔を作るのではなく、自分らしい、心の穏やかさを持った、人生を肯定的にとらえる姿勢を整えるのです。それが、主にある喜びです。

 ヘドロの沼になってメタンガスを出すか、鮎が泳ぐ清流になるかは、それはあなたの心がけ次第です。さあ、周囲に影響されない自分、不幸を他人のせいにしない自分を作りましょう。主にあって、喜んでみましょう。



2、テサロニケ人への手紙

 私たちが、テサロニケ教会から学ぶ点は、迫害下でもくじけない心です。
パウロは通常、手紙の最初で各教会の信仰と愛を賞賛しますが、テサロニケ教会の場合、信仰と愛に加えて「忍耐」に言及しています。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(第一テサロニケ1:2~3)

 テサロニケの教会は、パウロが伝道した当初からユダヤ人による迫害が起きました。(使徒17:1~15)パウロに反対するユダヤ人は、町のならず者を利用して暴動を起こしたり、クリスチャンの家を襲わせました。クリスチャンになった瞬間から、苦難の人生が始まりました。テサロニケの人々はそんな中でも信仰告白し、周囲の人にイエスさまの福音を伝え(第一テサロニケ1:8)、信仰に堅く立っていました。(第一テサロニケ3:7~8)迫害の苦しみは、「神の国のため」(第二テサロニケ1:5)なのです。

 テサロニケのクリスチャンは、暴力や差別、あざけり、経済損出などを経験していたので、主イエスが再び地上に来られる日を強く待ち望みました。そうした信仰が暴走して、主イエスが来る前にクリスチャンは死なないという間違った理解が生まれ、死んだ仲間を見て落胆した人が出たので、パウロは主イエスの再臨を説明しました。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16~17)

 主イエスの再臨に気を取られ過ぎて日常生活がおろそかになる人も出てきたので、落ち着いた生活を心がけ、きちんと仕事をしなさいとパウロは教えました。(第一テサロニケ4:11、第二テサロニケ3:11~12)さらに、そんな困難な状況だからこそ、喜べ、祈れ、感謝せよと励ましました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16~18)

喜びを選び取り、祈ってゆだね、物事のポジティブな面を見つけましょう。そうすれば環境に左右されず芯が強く穏やかで自分らしい心を身に着けることができます。

 
→あなたの番です
 □主にあって喜びましょう
  □苦しい時こそ、感謝を見つけましょう


エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙


 エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙は、同じ頃パウロによって書かれました。この3つの手紙は紀元60年ごろ獄中で書かれ、テキコによって運ばれました。(エペソ6:21~22、コロサイ4:7~9)エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙は構造も内容も良く似た双子の手紙です。前半部分は教理、後半は実践部分になっています。

 正しい事をしたい、人に親切にしたい、悪に負けなくないと願う人は、自分の弱さに直面し失望します。ガソリンの無い車を走らせているのと同じだからです。神から霊的祝福を受け取るなら、人を愛すことが可能になります。



1、霊的祝福

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)

 主イエスを信じた者には、霊的祝福が与えられます。霊的祝福を、私なりに言い換えてみるとこうなります。神しか与えることのできない恵み。生きる力を後押しする励まし。本来の自分に戻れるさわやかな風。みんなが望んでいる心の平安と満足。
私たちクリスチャンは、霊的祝福を静かに確認し、味わい、感謝することが必要です。霊的祝福をかみしめた者だけが、愛と正義と聖さを実現できます。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:4~7)

 4~7節で、霊的祝福が説明されています。永遠の昔に私たちは選ばれた、神にずっと愛されていた、ひとり子イエスさまの血が流されて私たちの罪が赦された。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ1:13~18)

 コロサイ人への手紙においては、霊的祝福に続き、主イエスの神性が語られています。主イエスは、いつくしみ深い救い主であるだけでなく、永遠の昔から存在された偉大な神、世界の造り主なのです。その力強い主イエスが教会のリーダーなのです。このような主イエスだからこそ、霊的祝福を注ぐことができるのです。

 神に選ばれ、愛され、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命が保証され、聖霊が与えられていることを味わい、感謝しましょう。



2、日常生活に生きる信仰

 霊的祝福が与えられたので、私たちの生活は変わります。霊的祝福を知り、神に愛されている事を確認し、創造主イエスと共に歩むなら、悪い行いを止め(エペソ4:30)、「光の子ども」(エペソ5:8)らしく歩み、古い人を捨てて新しい人を着る(コロサイ3:9~10)ようになれます。同情心を持ち、寛容になり、互いに赦しあい、(コロサイ3:12~13)、キリストの言葉を大切にして神を賛美できるようになります。(コロサイ3:16)

 パウロは、エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の後半において、家庭を論じました。家庭は、普段着の場所、疲れたり我がままになったりする場所です。そこでこそ愛が育ち、信仰を実生活に生きるのです。

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:22~27)

 妻は夫に従う。夫は妻を愛す。これはとても難しいことですか。いいえ、そうではありません。結婚前の二人は互いに実行してきました。だから、二人の愛は深まったのです。新しい気持ちで実行すれば、二人は再びラブラブになります。

 パウロは最初に、最も重要な夫婦関係を取り上げ、次に親子(エペソ6:1~4)、さらに奴隷と主人の関係(エペソ6:5~9)を語りました。家庭で思いやりを示し、職場で同僚を大切にするなら、社会は変わていきます。
 霊的祝福を注がれた人は、優しい人になります。今週、優しい人になりましょう。

 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)



3、ピレモンへの手紙

 最後に「ピレモンへの手紙」に触れます。この手紙はパウロの手紙で最も短く個人的です。逃亡奴隷のオネシモを主人ピレモンのもとに返すため、パウロは一肌脱ぎました。パウロが人に優しくした一例です。

むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(ピレモン9~12)

 獄中にいたパウロはオネシモと出会い、彼を救いに導き、信仰訓練を行いました。オネシモの将来を考えると、主人のもとに返すのが最善と考えたのです。当時、逃亡奴隷は死刑でしたが、主にある兄弟として受け入れ直してほしいとクリスチャンの主人ピレモンに懇願し、オネシモが盗んだお金を弁償する(18~19節)と書きました。
 パウロがしたことは、主イエスが十字架で私たちのためにして下さった事に良く似ていますね。

 ある高校3年生女の子が、公民館の学習室で夏休みに勉強していました。受験のストレスで、家族に当たることもありました。その日、朝9時の開館時間になっても掃除のおばさんたちはおしゃべりしながら掃除を続けていました。不機嫌になってドアの所に立っていると、一人のおばさんが「その椅子、座っていいよ」と言ってくれました。早くいなくなって欲しいと思いながら彼女は勉強を始めました。しばらくすると、おばさんたちは部屋から出て行きましたが、一人のおばさんが残りました。「大学を目指してるの」と聞いてくるので、「いいえ、専門学校です」と答えました。「そうか、専門学校ね。頑張ってね」と言っておばさんはむこうを向きました。そして、窓をふきながらこう言いました、「がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ。」それを聞いて、胸が熱くなり、心の中で何かが解けて自由になり、涙が込み上げてきました。4回、応援してくれた言葉が嬉しかったのです。

 主イエスは、霊的祝福で今もあなたを応援しています。
 霊的祝福を受けた人は、人に優しくなります。あなたが応援したい人は誰ですが。今週、その人に優しい言葉を言ってあげましょう。
 

 →あなたの番です
  □霊的祝福を確認し感謝しよう
  □家庭や職場で、優しい人になってみよう

ガラテヤ人への手紙


 パウロがガラテヤ地方で伝道した後、ユダヤ人クリスチャンがやって来てパウロと違うことを教えました。信仰だけでは不十分だ、律法を行いなさいと教えたのです。パウロはそれを聞いて怒りました。それは福音ではない、主イエスの十字架を台無しにすると厳しく批判しました。それがガラテヤ人への手紙の中心テーマです。



1、律法主義への防波堤、パウロ

 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(1:13~14)

 パウロは、優秀な律法学者であり、律法の実践に熱心な行動派で、キリスト教徒迫害の先頭に立ちました。ダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、パウロは劇的にクリスチャンになりました。「生まれたときから選び分け」られたとパウロは述懐しています。

 この手紙でパウロは、福音を人間から聞かなかったし(1:12)、また、人間によって使徒に任命されたわけでもない(1:1)と証言しました。つまり、主イエスによって、直接福音を聞き、また、主イエスにより使徒の任命を受けたのです。十二弟子とパウロは、明らかに別ルートですが、両者の福音理解は同じでした。

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(2:16)

福音は道徳に変質しやすいので、福音になにかを付け加えてはいけないのです。福音の本質は、主イエスを信じるだけで罪から救われることです。
救いについて言えば、良い行いや律法は救いに何の関係もありません。クリスチャンになった後について言えば、割礼を受けたり、ユダヤ人の生活習慣を守る必要はないのです。

 パウロは、律法学者として歩んだ彼の経歴は、福音の真理を守るためだったのだと分かりました。
 私たちも主イエスに出会って初めて、自分とは誰なのかが分かります。物事の本質、自分のアイデンティティーが見えてきます。あなたは主に選ばれ、主に召されてたのです。あなたが通った回り道は、主イエスと出会うことにより納得できるようになります。



2、無価値な律法主義

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:1~3)

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(4:9)

 律法の空しさを最も自覚していたのはパウロでした。律法は、無力、無価値、幼稚な教えなのです。
 律法主義は、まじめな人や年長者が陥りやすい罠です。少しでも律法を守れると傲慢になり、守っていない人を見つけると裁きます。
 
 あなたは、最近、誰かを裁いていませんか。たいていは、自分が疲れたとき、ストレスの強いとき、為すべき事ができてない時など、人を裁きます。
 人をさばくのは止めましょう。むしろ、人の良い点を見つけて、ほめてあげましょう。

 

3、救われた人の生き方

 福音を知り、主イエスを信じた人は、三位一体の神と繋がりながら歩むようになります。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(4:6~7)

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(2:20)

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16)

 アバとは、幼児がお父さんを呼ぶ時の言葉です。主イエスを信じた者は神の子になったので「アバ、父」と父なる神を呼べるようになります。
 主イエスを信じると、古い人は十字架で死に、キリストが私たちの内に生きるようになります。
 主イエスを信じると御霊が私たちの内に住んで下さいます。だから、御霊の導きを求めつつ歩むことができます。

この3つの聖句を読んで、あなたも気がつきましたね。信仰生活とは、神とのリレイションシップに生きる生活なのです。律法ではなく、御霊に導かれて生きるなら、御霊の実を結びます。その人の人格に素晴らしい変化が生まれます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(5:22~25)

ある田舎の小学校での出来事です。傘が木に引っかかっている、という連絡がありました。傘は小学1年の女の子のものでした。学校側はその子の自宅に連絡しておきました。しばらくすると、女の子のお父さんから電話が学校にありました。アクシデントで傘が引っかかったのではなく、女の子が傘をかけたのだといいます。その木にかわいい実がなっていて、雨が降って来たので濡れないようにと傘をかけたのだといいます。もしかしたら、その子は雨に濡れて帰ったのかもしれませんね。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などの品性の実を結んで、ほめられたい、自慢したい、クリスチャンとして一人前になりたいと思うなら、動機が不純です。身近な人の笑顔が見たいと思う時、内面が成長します。雨に濡れないようにと傘をさしてあげる人の心に、自然に、御霊の実が結ぶのです。

 福音に律法主義を付け加えてはいけません。律法主義は、空しく、傲慢や差別や争いを生みます。人を裁いても何も良いものは生まれません。
 御霊に導かれて生きるなら、他者への愛や寛容や親切が自然に生まれます。


 →あなたの番です
  □主イエスと出会うと、本質が見えてくる
  □律法的生き方を止めよう
  □御霊の実を結ぼう