マタイ7:7~12 求めなさい

 「大多数の人は、静かに絶望の生活を送っている。」(ヘンリー・ソロー、『森の生活』)

 あきらめる人が多いのです。だから主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と言って私たちを励ましてくれました。


1、求める

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)

 必要なものが手元になくて困ったときは、求めます。持っていたのに無くしてしまったら、探します。願っていた道が閉ざされたら、開けて下さいと叫びます。この3つは、同じことを言っています。

3度、似た言葉を繰り返すことによって、あきらめずに求め続けよと主イエスは言いたいのです。少年の日のように、求める心を取り戻そう。あきらめるのはまだ早い。一度はノーと言われても、もう一度やり直してみよう。

 
 多くの人は絶望の人生を送っています。また、辛い毎日はぬけがらのように過ごし、息抜きだけが喜びになっています。ストレス解消のゲームや飲酒のためにあなたは生きているのでしょうか。違います。
 どんなに立派な成果があったとしても、今が問題です。あなたは、今、何をしたいのですか。自分らしさを全うできる事は何ですか。時間を忘れて没頭したい事は何ですか。改革したいこと、救出したい人、達成したい事は何ですか。

 ウイリアム・ウイルバーフォース(1759-1833)はイギリス人でメソジストのクリスチャンでした。26歳の時、ジョン・ニュートン牧師と出会いました。将来の人生を神にささげて牧師になる道にあこがれ、政治家としての資質も持っていました。60歳のニュートン牧師は、若いウイルバーフォースを励まし、政治家としてのタラントを用いて、神の正義を実現しなさいと励ましました。ウイルバーフォースは、政治活動を選び、黒人奴隷の売買禁止の法律を12年後に成立させ、地上生涯を終える少し前に奴隷制度の完全撤廃をイギリスで実現させました。求めた人は、得たのです。

 あなたにとって切実な願いとは何ですか。大きな願いでも、小さな願いでもOKです。
あなたは、何を、あきらめてしまいましたか。
 道が閉ざされても、もう一度取り組んでみたい事は何ですか。 

 朝早く起き、心を沈め、あなたの心の一番奥底にある真実な願いを神に伝えましょう。朝、聖書の言葉から確信をもらい、祈りの中で聖霊に導かれながら、行動してみましょう。

 神は、人間の心に、希望という文字を刻んで下さっています。
 求めなさい。探しなさい。たたきなさい。

神の国は、希望を失わない人によってだけ作られます。



2、必ず与えられる

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:9~11)

子供が高級寿司や分厚いステーキが食べたいと言うなら、親は拒絶するでしょう。でも、子供が空腹になり、パンや魚などの庶民の食べ物を求めてきたら、当然、食べさせます。普通の親は、子供のために良いものを与えます。
まして、神が、私たちに良いものを下さらないわけがないのです。求めれば与えられるという根拠は、私たちの神が私たちの父だからです。

 神の国は、神を父親として信頼する人によって作られる。



3、他の人にも

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 12節は独立した内容ではありません。「それで」という接続詞に注目して下さい。今までの主イエスの言葉とつながりがあるのです。

天の父である私たちの神は、人の切実な必要に気づき、願いをかなえてくださいます。私たちは神の子であり、子供は親に似ていくものです。今度は、私たちが身近な人の願いに気づき、それをかなえる番です。

してほしくない事をするなというのは日本の道徳です。主イエスの教えは、その逆で、積極的に、自発的に、相手の喜ぶことを想像して、こちらからアクションを起こしなさいという教えです。

 「律法であり預言者」とは、聖書そのものを指す言葉です。(マタイ22:40)自分にしてもらいたいことを、他の人にするという行為は、聖書が望んでいることの中心だと主イエスはおっしゃりたいのです。

 心理学者のアドラーは、幸せになりたいなら、人の喜ぶことを考えよと言いました。
 あなたの家族の一人一人は、何を切実に願っているのでしょう。祈りながら考えましょう。家族だけでなく、教会の仲間、職場の人たち、クラスメイトなどが幸せになるために、あなたは何ができますか。

 ある女性は、転勤した彼とデートするために、数週間に一度、彼のいる九州まで飛行機で飛びその日の最終便で帰る生活をしていました。その日も、最終便に乗る直前、「帰らなくてもいい日が来るといいね」と真顔で彼が言いました。どきまぎして飛行機に飛び乗りましたが、さっきの言葉がプロポーズなのか、自分の一人合点なのか分からなくなって機内でキョロキョロしているとCAさんと目が合い「なにかお探しものですか」と声をかけられました。それで、その日の出来事を説明しました。「きっとプロポーズですよ。羽田で電話して確かめるといいですよ」とCAさんは励ましてくれました。
 羽田で電話すると、プロポーズだよ、返事がもらえなくて落ち込んでいたところだよ、と彼が言うのです。もちろん、私もOKに決まっているわ。はっきり言わないから分からないじゃない。
 求めてよかった。背中を押してもらって良かったと思いました。


神の国は、自分にしてほしいことを他人にすることによって、作られていくのです。


まとめましょう。神の国は、希望を捨てない人、神を父と信頼する人、そして、与える愛を実践する人によって作られるのです。

 →あなたの番です
  □求めましょう、さがしまよう、たたきましょう
□自分にしてほしい事を、あなたが率先してやってみましょう

 

マタイ7:1~6 さばくな


 主イエスの教えは単純明快です。さばくな!

1、さばかれないように

さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:1~2)

 さばくな、とはどんな意味でしょう。
悪事を見ても、悪いことをされても、抵抗するなという意味ですか。違います。主イエスは、パリサイ人に面と向かって厳しい言葉で彼らの不正や悪を糾弾しました。また、主イエスは、神殿の物売りたちに実力行使をして追い出しました。悪に負けてはいけません。悪にはきちんと抗議し、訂正を求めましょう。しかし、さばくことは止めましょう。

泥棒に対して「あなたは私のお金を盗んだ」と言うのは正しいことです。あの人は万引きしそうな目をしてると噂するのは、さばくことです。さばくとは、主観的で、一方的で、根拠のない悪口のことです。

福沢諭吉は『学問のすす』第13篇で、怨望について書いています。怨望とは、嫉妬のことで、人間の不徳の中で最も大きな害が嫉妬だと述べています。

あなたの職場や学校やあなたの身近に、若い人、美しい人、強い人、賢い人、努力する人、英語の上手な人がやって来たらどうでしょう。平静でいられますか。あなたは、もやもやした気分になります。それは嫉妬です。そんな状態の時、私たちは、あら探しを始めます。皮肉を言います。意地悪します。不幸を願います。ある場合は、その人をつぶしたり、左遷させます。人間の心は陰険です。

主イエスは、さばくなと言われました。その理由は何でしょう。
あなたが同じ基準でさばかれるからです。あなたが誰かをさばけば痛快です。でも相手は怒ります。相手はもっと厳しい目であなたをさばきます。それによって争いが始まり、人間関係がこじれ、悩みのドツボに入ります。

 私たちがコントロールすべきなのは、私という人間だけです。
 私は、他者の心をコントロールしてはいけません。また、誰かが私の心をコントロールすることも望みません。どちらもバウンダリーの侵害になります。

相手の言動であなたが困ったのなら、本人に直接抗議し、行動を改めてもらいましょう。けれども根拠のない悪口を言いたいなら、自分の口を閉ざしましょう。
それが、あなたのためだと主イエスは考えます。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」まさに、口は災いのもとです。口を制御し、さばく思考パターンを止めましょう。

あなたは、今、誰をさばいていますか。さばくと、本人が不自由になります。憎む相手がそこにいなくても、その人の事を考えるだけで苦しくなり、怒るからです。

経済学の権威、ハーバード大学のマイケル・ポーター博士はこう言いました。「戦略とは、何をやらないかを決めることだ。」
私たちの人生の経営学にも同じことが言えます。さばかないと決める。主観的に、噂に従って、あるいは単なる好き嫌いで、人をさばかないと決めるのです。嫉妬心という石ころを人にぶつけません。嫉妬心という石ころを握りしめず、捨ててしまいましょう。

さばいて、人間関係をこじらせれば神の国建設は停滞します。柔和な者、あわれみ深い者、平和を作る者になって、キングダムビルダーになりましょう。


2、目に梁

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

「偽善者たちのよう」(マタイ6:2、5、16)であってはならない、と主イエスは何度も語ってこられましたが、偽善者とは律法学者たちを指していました。今回も「偽善者たち」と言っておられます。自分の目の中に大きな梁があることに気づかない律法学者をまず念頭に置いているのでしょう。自分の目に大きな木材が入っているなら、他人の目にある小さなチリを見つけることはできないはずです。

私やあなたの目にも、大きな梁が入っているかもしれません。自分だけは正しく、相手は間違っていると思い込んでいませんか。謙虚に、神の前で、自分の姿を認めましょう。

私たちがさばく相手は敵ではなく、兄弟です。兄弟とは、一番近しい関係です。身内であり、仲間です。一番幸せになってほしい人です。

映画評論家の淀川長治さんが晩年に入院しました。看護師さんが忙しさでゆとりがない様子を見て、便せんにこんな言葉を書いてドアに貼ったそうです。
  「このドアを開ける人は笑って開けて下さい。」
それからは、淀川さんの部屋だけでなく、どの部屋に入る時も笑って入る看護師さんが増えたそうです。
人をさばくのは止めて、こういう提案をするのはどうでしょう。さばくのを止めて自分から挨拶したり笑いかけることも可能です。


3、豚に真珠
 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

豚に真珠ということわざは、主イエスの言葉にルーツがありました。
「犬」や「豚」と言っていますが、それは動物のことではなく、人間のことです。当時、犬や豚は嫌われていた動物でした。聖なるもの、あるいは、真珠のように価値のあるものを与えても、その宝を踏みにじる人がいます。聖なるものや真珠を踏みにじるだけでなく、それを与えようとした私たちに危害を与える人がいます。そういう場合は最初から、相手にするなと主イエスは言われます。主イエスは合理的です。

福音や聖書や神の話を丁重に説明しても、馬鹿にする人、まったく話が通じない人、頑迷な人物、逆に私たちを攻撃してくる人がいます。たとえば宗教過激派テロリストのところに私が乗り込んで福音を伝えに行ったらどうなるでしょう。想像すれば分かります。

主イエスはバウンダリーをはっきり持っています。誰にでも好かれる必要はありません。スパッと割り切ればよいのです。無駄なエネルギーはいりません。

 →あなたの番です
  □さばくのを止めよう
  □そうすれば、幸せになる
  □そうすれば、神の国建設に集中できる

マタイ6:25~34 明日の心配

 日本の古いドラマを見ていたら、登場人物が自分の積極性を説明するために、「大丈夫、私はポジティブ・シンキングだから」と答えていました。thinking(考える)とsinking(沈む)は別物です。その時の発音がsinkingなので前向きに落ち込むことになります。
 あなたは、心配しやすい人ですか。

1、心配するな
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:25~27)

 あなたは今、何かを心配していますか。若い人は、大学、就職、結婚の心配があります。結婚していれば、相性、子育て、生活やお金の心配があります。年齢が上がると、親の介護や自分の病気、老後の生活など不安になります。

 今日の箇所全体でイエスさまが言いたいことは心配するなの一言です。主イエスは、誰に対してこう言われたのでしょう。心配しているすべての人です。
 なぜ、心配するなと言われたのでしょう。心配に効用はなく、マイナスになるからです。「心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」とある通りです。

主イエスは、語りながら空を飛ぶ鳥を見なさいと言いました。また、地面を指さして、花を見なさいと言われました。神は、空の鳥を養い、野のゆりを装ってくださるのだから、神は必ずあなたに良くして下さると説明されました。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(30節)

心配とはいわば信仰のようなものです。物事が否定的な結果になるはずだと固く信じているからです。だから、主イエスは「信仰の薄い人たち」と指摘されました。主イエスの側から言うなら、なぜ私に信頼しないで最悪のシナリオだけを信じてしまうのだ。なぜ、慈悲深い父なる神に信頼しないのだと言いたいのです。

心配の芽が顔を出したら、それを祈りに変えましょう。ネガティブ体質にさよならしませんか。


2、キングダムビルダー
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(32~34節)

神の国とその義を第一にすれば、必要なものは与えられると主イエスは言われました。この言葉は唐突に思えるかもしれません。山上の垂訓を貫くメッセージを思い出せば、唐突ではなく筋が通った説明だと納得できます。
心配しすぎたり、ネガティブになる人は、心配のあまり、神の国建設の手が止まってしまいます。自分の狭い世界に入り込んで出て来れなくなります。それで、主イエスは、心配を止めなさい、神の国のために行動しなさいと言われたのです。

 心配に振り回されて、神の国建設の働きを止めていませんか。眉間にしわを寄せ、暗い顔になり、身近な人への親切を忘れていませんか。こんな状態では福音は語れないと伝道を一時停止していませんか。あなたは、キングダムビルダーです。神の国を作りましょう。神の義を実現しましょう。身近な人に温かい心で接しましょう。

 休暇で先週、日本に行って来ました。娘が航空会社に勤めている関係で、スタンバイチケットで出かけました。どうやら満席らしいと直前に分かりました。このチケットは、席が空いているなら乗せてもらえるものです。私は、今回、神さまを単純に信頼することにしました。エアポートのゲート前の待合場所では、正規のチケットを持った人が列を作り、次々と入って行きます。私は妻に祈ろうと言いました。「主よ、どうぞ乗せて下さい。きっと乗せて下さると信じます。」と主にお願いしました。どちらかというと私は、否定的将来を何種類か予測し、最悪に備えるタイプです。こういう場面で、否定的な事を言うことが多かったので妻を疲れさせていました。今回は、心配を止めて、主に信頼することに決めていましたので、妻は私の態度に驚いていました。ほとんどの人がゲートに入り、飛行機のドアが閉まる15分前になって、私たち夫婦の名前が呼ばれました。乗れたのです。ウエイティングリストや乗客数からいうなら、奇跡です。ビジネスクラスの席に隣り合わせた私たちは、手を握り合い、二重の意味で感謝の祈りをささげました。

 あなたの番です。心配は止めましょう。父なる神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □心配を止めよう
  □どんな時も、神の国を建設しよう
  □神は、必要なものを必ず与えて下さる

マタイ6:19~24 天に宝を積む

 神の国を建設する人に必要な3つの心構えを主イエスが語られました。
 価値観、視点、優先順位です。


1、宝は天に

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19~21)

高価な洋服は虫に食われて台無しになります。輝く貴金属も、やがてはさびたり、盗まれたりします。地上に蓄えた宝は、そのような運命をたどるのです。
私たちの心は宝のある所に引き寄せられるので、地上の宝だけを追求すると、私たちの生き方も朽ちる宝と同じような姿になります。金さえ持っていれば偉い人と考え、一時的で、刹那的で、自己中心的な人になります。

価値観を総入れ替えしましょう。お金がすべてではない。宝は天に積むためにある。

「受けるより与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

お金を下さる神に感謝しましょう。宝は神にお預けしましょう。そうすると、私たちは人に与えたり、分けたりすることに喜びを見出します。お金や財産に関する考え方を一新すると、真の意味で自由になれます。

「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(20節)

今週、何をして天に宝を積みますか。


2、健全な目

からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:22~23)

目とはものの見方です。あなたの雰囲気を作るコアな部分が、視点、感じ方です。

フーテンの寅さんは気ままな人生を送って、庶民のあこがれになっています。旅先の寅さんは親切ですが、実家に戻ると人が変わります。おいちゃんやおばさんに正論を説教されると、「それを言っちゃあおしめーだよ」と決め台詞を言って怒りあばれ出て行きます。つまり、自分の不幸の原因は自分以外の人から来ると思い込んでいます。
あなたも私もそういう傾向があります。ものの見方がきちんとできているなら、他者の影響を排除できます。自分の不幸を環境のせいにしません。

温かい心、という眼差しを持っているなら、あなたの全身が明るくなります。嘘のない正しい生き方、という眼差しを持っているなら、あなたの仕事は信頼されます。希望を持って前向きに生きる、という眼差しを持っているなら、周囲の人は励まされます。

 あなたは目はどんなフィルターですか。

「目が健全なら、あなたの全身が明るい」(22節)


3、二人の主人?

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

エンジェルスの試合を日本人なら無料になりますという知らせを聞いたらすぐに飛びつきますね。試合開始は礼拝開始と同じ日の同じ時刻だと分かったらどうします。
二つの事柄を、最初から天秤にかけて迷う人がいます。天秤にかけること自体がすでに問題なのです。

神中心の優先順位ができているなら、天秤にかけずに判断できます。あなたはいつも、物事を相対化して天秤にかけていませんか。神中心の絶対的尺度を持っていれば、決断に悩むことはないのです。お金がもうかるなら嘘をつこうとか、出世できるなら不正を働こうとか、勝てるなら反則もしようとか、考えないで済むのです。

UCLAバスケットをコーチしたジョン・ウッデン監督は、20世紀最大のスポーツコーチと呼ばれています。ウッデン監督は敬虔なクリスチャンで、聖書を読むことを人にも勧た人でした。全米大学選手権で優勝を何度も飾り、公式試合88連勝という輝かしい記録も持っています。勝利することが最終目標ではなく、学生の意識を変え、生き方を変えることを目指しました。親や友達を大切にし、練習や試合で汚い言葉を使ってはならないと教え、もちろん反則は許しません、これらに違反すれば即退場させました。彼の作った人格形成の15項目は今も学校などで用いられています。
以下のようなウッデン監督の言葉は良く知られています。
「生まれつきの才能は神から来たのだから謙虚に、称賛は人から来るので感謝する、うぬぼれは自分から出るものだから気をつけよ」
「成功とは、お金や業績ではなく、ベストを尽くした時に得られる心の満足のこと」

「ふたりの主人に仕えることはできません。」(24節)


 宝は天に。ものを見る目を健全に。一人の主人を第一にする。
 この3つの価値観をしっかり身につけていれば、環境に左右されない人生を切り拓き、豊かで平静な人生を送ることができます。そういう人が、神の国建設を行えるのです。

 →あなたの番です
  □宝を天にたくわえる
  □きよくて温かい眼差しで周囲を見る
  □プライオリティーを神に置く

マタイ6:13  試みに会わせないで

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(マタイ6:13)

 「主の祈り」の括弧に囲まれた部分は原文にはありません。つまり、主イエスさまが教えてくれた「主の祈り」には無かったので触れません。ずっと後の時代になって、礼拝式の中の主の祈りに頌栄としてこの部分が追加されたようです。この追加文は、ダビデの祈り(第一歴代誌29:11)が元になったと言われています。


1、試みに会わせないで

「試みに会わせないで」(マタイ6:13)

 私は高校に入学して運動部に入りましたが、毎日が試練になりました。練習が厳しく、筋肉痛になり、駅の階段の上り下りすら困難で、夜は机に向かうとすぐに眠り込んでしまいました。1ヶ月過ぎると、鍛錬によって筋力が付き、持久力も出てきました。

新しい職場、新しい場所、新しい人々との出会いは試練となります。自分の能力を超えた仕事や出来事も試練になります。基本的に聖書は、試練を良いものと捉えています。試練によって私たちが鍛えられ、思いやりのある人になり、信仰飛躍の機会になるからです。

ただし、命を失うとか破壊的な結果を及ぼす大きな試練は有害です。それで、私たちは父なる神に願うのです。あまりにもひどい試練に会わせないで下さい。つぶされないように、守ってくださいと祈るのです。

そもそも、私たちはみな、赤ちゃん時代、幼児や小学生の頃、両親に守られてきました。「私も自転車に乗れるんだ」と誇らしげに運転していても、後ろで親が倒れないように支えています。
神も私たちを守ってくれています。残酷な試練に出会わないように神がプロテクトしてくれたのです。今までの主の守りを感謝しましょう。これからの人生も主の守りあります。父なる神に信頼し、試練に会わないように祈りましょう。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)

私たちが出会う試練は、必ず乗り越えられるのです。
  

2、悪から救ってください

「悪からお救いください。」(マタイ6:13)

私たちは、悪に直面することがあります。邪悪な人が、職場や学校や周囲に現れ、あなたを苦しめることがあります。いじめ、セクハラ、パワハラで苦しめられることがあります。身近な人が何らかの依存症になり、あなたが金銭的、精神的、身体的に損害を受けることもあります。

私たちが悪と直面するとき、自分の小ささ、弱さを実感します。私は、誠実に、愛をもって、精一杯生きているけれども限界ですと神に伝えましょう。私たちの父さんに、緊急電話をして、「父さん、助けて。この悪から救って下さい」と願いましょう。父なる神は助けてくれます。

ダニエル・デ・フォーが1719年に書いた小説『ロビンソン・クルーソー』は、難破して無人島で生き抜いた人の話です。いかにサバイブしたかという点に主眼は無く、荒くれ者が神を見出し変えられる姿こそ著者の言いたい点なのです。
ロビンソンが島で病気になり、初めて聖書を読む場面が書いてあります。その時読んだ箇所が詩篇50篇15節でした。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)
うまれて初めて膝をかがめて神に助けを求め、心に平安を得るようになり、朝に夕に聖書を読む人に変えられていきます。

私たちも祈りましょう。悪人の悪をとどめることができるのは神だけです。悪から助けてくださいと願いましょう。

   
3、とりなしの祈り

「私たちを」(マタイ6:13)

この部分も、主語は「私たち」です。あなたの周囲にも試練や悪と直面している人がいるはずです。その人たちが破壊的は試みに会わないよう、悪に苦しめられているあの人が救い出されるようにと祈りましょう。

 →あなたの番です
  □主にずっと守られ助けらて来たことを感謝!
  □父よ、これからも、守って、助けてください
  □あの人もこの人も、守り、助けて下さい

マタイ6:12  負い目を赦して

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」シリーズの第4回目です。人の悩みで一番深刻なテーマです。赦せない悩みです。

1、赦してない自分

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 主の祈りのこの部分を祈ると、私たちはみな、少々後ろめたい気持ちになります。自分の心にささくれがあるのに気づきます。「この祈りを素直に祈れないな。私に悪い事をした人を赦していない。むしろ憎んでる。嫌っている。赦さないぞと決めている。」

 主の祈りにこの部分が加えられた理由は、まさに、そこにあると私は思います。赦していない自分に気づきなさい、と主イエスは言っておられれのです。

 赦すといっても、相手の悪事に賛成したり喜ぶわけではありません。そんな事は求められていません。悪は悪です。

赦さない人は、不幸の種を自分で毎日まいているようなものです。赦さないぞと思い続けるなら、憎しみと悪意のペンキで周囲を上塗りするようなものです。起きてしまった事は変えられません。相手が謝罪に来るわけでもありません。ならば、クリスチャンには二つの選択肢しかありません。
今赦すか、死ぬ直前に赦すか、です。

 官軍が庄内藩に勝利した後の西郷隆盛の采配は驚きです。1868年、庄内藩は降伏後、白装束で切腹を覚悟して表れました。西郷の判断は、死ぬ必要はない、でした。「敵となり味方になるのは運命である。一旦、降伏した以上、兄弟と心得よ。」と言って、官軍には丸腰になるよう命じ、庄内藩には帯刀を許したというのです。
 西郷隆盛は後半生に聖書を読む人になり、「敬天愛人」をモットーに掲げました。主イエスの愛と赦しを知り、実践したのかもしれません。

 あなたは、どうでしょう。赦していない人がいますか。主の前で静かな心になり、私もあの人を赦しますと、本音で言ってみましょう。そう言える日が来ますように。


2、赦された私

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 負い目という言葉は、罪を意味しますが、借金や損害と考えると分かりやすいです。たとえ話をします。50万円の高級ブランドのバッグを買ったとします。とてもやわらかい皮で傷が付きやすいものです。バッグをテーブルに乗せ、洋服を着替えて出かけようとしていると、やんちゃな二人の息子が棒を持ってちゃんばらを始め、エイと切りつけたら、バッグが一文字に切れてしまいました。さて、あなたが母親なら息子を赦せますか。

 母親はものすごい剣幕で息子をしかり飛ばすでしょうが、赦すしかないのです。赦す理由は3つ。①息子は弁償するお金を持っていない、②自分の息子だから、③息子を愛しているから、です。

 私たちの赦しは、表面的は赦し、一時的な赦し、条件付きの赦しです。母の赦しは神の赦しに似ているところがあります。私たち人間には、自分の罪の弁償ができません。(死をもってわびるしかない)神は私たちをご自分の子として見てくださいます。そして、深い愛で私たちを愛していて下さいます。
神の赦しを体験した人は、身近な誰かを赦せるようになります。

 ある青年に赦せない人がいて、赦せない葛藤でつぶされそうになりました。牧師に相談したところ、主イエスはどう思っているのかな、と質問されたそうです。「赦せ」と言っていますと答えると、違うと牧師は言って、もっと深く考えなさいと促しました。しばらく考えた末に青年ははっとしました。赦せないでいる僕を見て、主イエスは僕に愛しているよ、と言ってくれています。牧師は、そうなんだよと答えました。主イエスの愛は、そのままを愛してくれる無条件の愛で、どんな罪も赦してくれる無条件の赦しなのです。

 →あなたの番です
  □赦せない人を、赦しましょう
  □赦せないあなたも、主イエスは愛しています
□あなたは主イエスに赦されています

マタイ6:11 日ごとの糧

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

主の祈りで初めての願い事は、食事を与えて下さいという祈りです。この部分には、どんな意味が込められているのでしょう。


1、神の助けで生かされている

 「日ごとの糧をきょうもお与えください。」(11節)

これは神の助けによって、私たちは生かされている、その事を自覚するための祈りです。

俺がお前たちを食わせてやっているんだ、と偉そうに言うお父さんたちがいます。一生懸命働いているのは分かりますが、働ける環境や健康が整って頑張れるのです。

夫や妻が働いていた会社が突然倒産した人もいるでしょう。リストラで、解雇された人もいるでしょう。病気や交通事故で、仕事を止めた人、学校を止めた人もいるでしょう。ストレスの蓄積で、うつ病になり、動けなくなる人もいます。地震などの自然災害や火事で家族を失い、家財を失った人もいます。家族の介護が必要になり、生活の仕方を変えた人がいます。
私たちが生きているのは当たり前ではないのです。神に生かされているのです。だから、謙虚になりましょう。神に信頼し、食べ物を与え、私を生かして下さいと祈りましょう。

「日ごとの糧」と言っているのはなぜでしょう。今日生きていくために必要なのは、わずかな食料です。30年分のコメをくださいとは祈る必要がないのです。私たちが生きていくために必要なものは、わずかな量です。

クリスチャンが食事の前に祈るのは、日ごとの糧を与えて下さいという主の祈りがかなえられた感謝です。
 
 昔は畑で種をまいて日ごとの糧を得ました。現代は、日ごとの糧をお金で買います。だから、今日生きていくためのお金を下さいという祈りにも主の祈りに含まれています。
沖縄の人は、「なんくるないさ」と良くいいます。なんとかなるさという言葉ですね。クリスチャンも信仰によって「主がおられるので、なんくるないさ」と言ってみましょう。
 主は、あなたの日常生活の一番大事なものを備えてくれます。



2、私たち
 「私たちの日ごとの糧」(11節)

 主の祈りの主語は誰ですか。私ではなく、私たちなのです。
 
 私だけ食べさせて下さい、という祈りではありません。私の家族の糧を与えて下さいという意味です。でもそれでは足りません。「私たち」を広げて考えると、周囲のみんな、敵、世界の人も食べられるように願うのです。

 私は無職になった時がありました。そんな時、70歳くらいのクリスチャン夫妻が私たちのことを心配して、ランチに誘って下さいました。お二人はお子さんの家の小さな部屋に住まわせてもらっていて、僅かな年金で暮らしていたのですが、日本食レストランで何でも食べなさいと勧めてくれました。私たち夫婦がそれぞれオーダーすると、お二人は「歳なので、あまり食べられないのです」と説明してから二人で一人前を注文されました。私も妻も、二人の温かい気持ちに感動して、涙がこぼれないようにするが精一杯でした。

 韓国の人は、食事時間以外でも「パモゴッソヨ?」と挨拶します。意味は、ご飯食べましたか?です。文化的歴史的な背景から出た挨拶なのだと思います。これをクリスチャン的に用いることもできます。日ごとの糧を得ることができましたか? 主の祝福や守りを頂きましたか? まだなら、ぜひご一緒に食べましょう、あなの祝福のため私にできることをさせて下さい。
 「私たち」という祈りの中に、他の人を招きいれてみましょう。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

 →あなたの番です
  □主よ、あなたが私を生かして下っています   □主よ、これからも私の生活を支えて下さい
  □私も、私たちにも、日々の糧を与えて下さい