マタイ6:9  天の父よ

 「主の祈り」の冒頭部分の意味を考えてみましょう。

1、父よ

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
(マタイ6:9)

ユダヤ人は昔から、神の本来の名前を口に出すことすら遠慮してきました。ですから、主イエスが神を父と呼んだ事にとても驚きました。
父と呼びかけて祈るようにと言われた主イエスの意図はどこにあるのでしょう。神を完全者や、隔絶者、遠い方として考えず、もっと近く感じ、神が温かいお父さんであることを意識するようにという勧めです。

父さんと呼びかけて祈るなら、どんな気持ちが湧き出てきますか。一人、静かな時に、父さんと祈ってみて下さい。
あなたのお父さんは、アルコール依存や暴力を振るう人間や借金作って蒸発した最低の人間かもしれません。そういう時は、本来の良い部分が出た時の優しいお父さんを何千倍にもふくらませて、父よと神を呼んでください。

 主イエスは、いつも神を父と呼んで親しく語りかけておられました。主イエスが最も苦しまれたゲッセマネの祈りの時には、「アバ、父よ」(マルコ14:36)と呼びました。ご自分を十字架につけた人々の罪の赦しを求めた時も、「父よ」と呼びかけておられます。(ルカ23:34)

神に対して「父さん」と呼びかけて下さい。そうすると、あなたの祈りも、あなたの信仰も、変化します。



2、御名があがめられるように

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
(マタイ6:9)

 多くの人は、「神よ」と呼びかけたすぐ後に、買い物リストのような願い事を並べます。神よ、彼女が見つかりますように、勉強せずにエール大学に入れますように。あるいは、「神よ」と呼びかけたら、不平や怒りをぶつける人もいます。祈りの最初は、「御名があがめられますように」と、神をたたえる言葉で始めましょう。

 もしアナハイムに、大谷さんという日系人が住んでいて、病院や薬局で名前を呼ばれたら、きっと周囲の人は驚いて、「あなたはエンジェルズの大谷選手の親か親戚か?」と聞いてくるでしょう。そして、あなたが親戚でないと分かっても、大谷選手の活躍をたたえる言葉を聞くことでしょう。それが、名前がほめたたえられることです。

祈りの最初に、神を賛美しましょう。祈りの冒頭で、神をたたえましょう。礼拝や賛美のない祈りは、神を使用人や自動販売機のように取り扱ってしまうのです。神を祈りの最初にたたえると、祈りの内容が変化します。やってみればすぐに分かります。
父さん、父さんは本当に凄いよ、父さんは何でも知っているね、どんな時も愛してくれて、苦しい時も助けてくれる。みんなに、父さんのことを知ってもらいたい。

 御名があがめられるようにという祈りは、第一に、個人的な賛美であり、礼拝です。第二に、周囲の人々にも神を知ってもらいたいという願いです。
 世界のすべての人がまことの神を知ってくれたら、世界は良くなります。全世界で神の御名があがめられることを願う祈りです。これは世界宣教のための祈りです。

 あなたの周囲の誰に、まことの神を知ってもらいたいですか。あの人の口からも、神の御名をたたえる言葉が出ますように、と私たちも祈りましょう。

 私が若い時、結婚の許可をもらいに妻の実家に行き、彼女の父親に話しました。結婚後、私は家内の父を「おとうさん」と呼び始めました。「お父さん」と私が呼べば、義理の父は私のことを息子と認識します。
 同じことが、信仰の世界でも起きています。私たちが神を父さんと認識するなら、神も私たちを子供と認めて下さいます。

 私たちはキングダムビルダーです。自分の力や努力だけでは、神の国は作れません。キングダムビルダーは、祈りによって神の国を作ります。神を父と呼び、神がたたえられることを求める祈りによって、神の国が作られます。さあ、主の祈りを祈りましょう。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」

 →あなたの番です
  □神を、お父さんと呼ぼう
  □祈りの最初に、神があがめよう


死は勝利にのまれた 第1コリント15:50~58

 死。
 私たち現代人は、死を隠し、死を見ないように生きています。
 けれども聖書は、死を正直に、真正面から見つめています。聖書は言います、私たちの最後の敵である死は、主イエスの復活によって滅ぼされたと。
 

1、変えられる

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第1コリント15:50~53)

 パウロは、死について論理的に考証しました。「血肉のからだは神の国を相続できません。」神のきよさと完全さと永遠性が完全に支配する国に、私たちのような朽ちる者は存在できません。私たちが太陽に近づけば、瞬時に焼けこげるようなものです。

 「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
 だから、朽ちていく者である私たちが根本的に変えられる必要があります。死とは、滅びる者が天の国に入るための通路です。私たちは、死を通して、天の国のパスポートを持つ者に変えられます。

 確かに死は、呼吸困難や体の痛みを伴い、親しい人からの悲しい別れがあり、予想外のタイミングでやってきます。ちょうど、お母さんのおなかの中で安心している胎児が、出産後の生活を予想できず、出産時の痛みに苦しんでいるのに似ています。それは、朽ちない体に変わるためにどうしても必要なプロセスです。私たちは、変えられるのです。
 
 
2、死のとげはどこに

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第1コリント15:45~57)

 パウロはキリスト教が大嫌いで、クリスチャンを迫害し殺害してきました。ダマスコ途上で復活の主イエスに劇的に出会って回心、その後、旧約聖書を読み直して気づいたのです。旧約聖書は主イエスの十字架と復活を預言していたと。
 
死に対する勝利や死のとげが失われたという言葉はパウロのオリジナルではありません。54節の引用はイザヤ書25章、55節はホセア書13章からの引用です。

永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ書25:8~9)

主イエスこそが、すべての人々が待ち望んだ救い主であり、死を滅ぼす方だとイザヤが言っています。パウロは、そのことを確信しました。

 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(ホセア13;14)

 とげを切り取られたサソリを想像して下さい。そのサソリがどんなに尻尾を持ち上げて威嚇して来ても、私たちは怖くありません。主イエスの復活により、死はもはや力を失いました。死は死でなくなったのです。主イエスの復活のゆえに、私たちは死に勝利したのです。

 朽ちない姿に変えられる望みを持ち、死に対する勝利を知っている者は、今日を生きる姿勢が変わります。すべては無駄ではない。労苦に意味がある。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(15:58)

 →あなたの番です
 □私たちは朽ちない者に変えられた □死のとげは取り去られた □労苦に意味がある、へこたれるな

施しと祈り マタイ6:1~6

 今日の箇所を読むと、神の国は何によって作られるのかが分かります。また、何が神の国建設を邪魔するのかが分かります。
 神の国は、施しと祈りによって作られます。神の国建設を邪魔するものは、偽善です。

1、人に見せるためにしない

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6:1)

1節が中心聖句です。ここで分かることが二つあります。私たちは、人に見せるための行動を取りやすい。もう一つは、隠れた善行をすると父なる神から報いがある。

偽善は、人を実体以上に立派に見せるトリックで、実体がありません。お互いの信頼関係を壊します。偽善は、粗悪なコンクリートでビルを作るようなものです。

人に見られたくてするのでなく、良い事を隠れてしましょう。逆に言うなら、誰が見ていても良いことはどんどんしましょう。そうすると、神からの報いが来ます。これは神の約束です。もう一度言います。神から報いが必ず来ます。


2、施し(2~4節)

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:2~4)

 何かを持っている人が、何かがなくて困っている人に与えることが施しです。まさに、これは神の国が広がり作られていく事です。

 あなたは、施しをしていますか。
 年配の人はお金や物を持っています。それを与えましょう。若い人は、お金や物は少ないのですが、時間とエネルギーを持っています。それを与えましょう。

 パリサイ人、律法学者は、人々に見える場所で施しをしました。それは偽善です。右の手のしていることを左の手に知られないようにする姿勢が大事だとイエスは言われました。
 神の国は、隠れた施しによって作られます。あなたも、キングダムビルダーです。


3、祈り(5~6節)

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:5~6)

神の国は、祈りによって作られます。施しは人間の力で行われます。私もあなたもキングダムビルダーとして与えることで貢献できます。
でも、究極的なことを言うと、神の国は人間の力では作れません。神が作るのです。だから、人は神に祈るのです。祈りなしに神の国は作れません。

ところが、人に聞かせる見栄を張った祈りなら無意味です。神の国を作りません。神に向かって祈る誠実な祈りが神の国を作ります。

パリサイ人たちは人にほめてもらいたかった。祈る姿を人に見せたかった。そのため、会堂や往来の激しい四つ角で祈りました。長い長い祈りをしました。美辞麗句で飾った言葉を家で準備し、練習してきた祈りでした。

クリスチャンが共に祈ることを否定しているわけではありません。見せびらかす祈りを否定しているのです。誰かと共に祈るときも、人でなく、神に向かって語りましょう。
主イエスは言われました。奥まった部屋で、戸を閉めて、隠れた所で祈りなさい。誰も見ていない所での祈りが最も大切なのです。そういう祈りが、神の国を作ります。

 野球が好きな一人の少年がいました。中学には野球部がなく、高校に入って初めて本格的な練習をしましたが、レギュラーにはなれませんでした。球拾いや、グランド整備を頑張りました。試合にでられなくても、練習を地道に頑張り、下級生ができても一緒にグランド整備をしました。高校3年になった時、監督が新しいキャプテンの名を発表しました。彼の名前が呼ばれました。誰もが驚きました。下級生からの強い推薦があったからでした。
 キャプテンになった後、初めての公式試合で監督から登録選手表を渡されました。1番、2番、3番に自分の名がありません。5番から9番にもありません。キャプテンになっても補欠かとがっかりしましたが、4番打者を見ると自分の名がそこにありました。それ以来、期待に応える打者に成長しました。彼はやがて、上場企業の社長になりました。
 誠実に生きる人は、誰かに見られていて、「報い」があります。
 
自己点検しましょう。
 ①私は、施しをしているか。もし、したことがなければ、やってみましょう。
 ②一人で祈る時間を大切にしているか。父なる神に誠実に祈ってみましょう。
 ③施しも祈りも、人目を気にせず、誰が見ていなくても、見ていても、誠実に父なる神だけを意識して行いましょう。あなたは、キングダムビルダーになれます。

 →あなたの番です
  □隠れて、与えましょう
  □隠れた場所で、祈りましょう

聖書で自己点検 マタイ5:17~48

 神の国は、聖書を鏡として自分の心を点検する人によって作られます。


1、聖書を神の国作りの土台とする

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5:18)

神の国を作るために不可欠なのは聖書です。たとえ天地が滅びても神の言葉は滅びません。神の言葉は絶対的な基準だからです。神の言葉を無視したり、自分に都合良く聖書を解釈するなら、神の国を建設することはできません。(19~20節)神の国は、聖書を愛する人によってのみ作られます。

マキャベリは1531年に『君主論』を書き、どうしたら強い国家を作れるかを述べました。王国を作る主役は、野望を持った王です。王が国作りに用いるものは、第一に強い軍隊(暴力)、第二に法律(王にとって都合の良いルール)です。王が最終的に望むものは、自分の誉れ、権力、富、快楽です。(荒野の誘惑を思い出して下さい)
以下は『君主論』からの引用です。
「民衆というものは頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしないといけない」
「一見、悪徳のように見えても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされる場合がある」
「信義など気にかけず、奸策をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むすろ大きな事業をやりとげている」
「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を守るものではないから、あなたのほうも、他人に信義を尽くす必要はない」
王国を作るためには、虐殺も、裏切りも、嘘も、見せかけの優しさも、最終目的のためにすべてが正当化されるとマキャベリは言います。現代社会の大統領、首相、政治家がマキャベリズムを利用していることが良く分かります。

それと比較して、神の国建設がどんなものかを考えましょう。
神の国を建設する主体は、普通のクリスチャンたちです。神の国を作るための手段は、暴力や嘘や策謀ではありません。自分の罪を認める人、つまり心の貧しい人たちが主体です。悲しみを知っており、善を求め、平和で柔和で、あわれみ深い者たちによって神の国は建設されます。最終的に求めるものは、神の国であり、神の国の拡大であり、神の栄光です。
目的が良ければ何をしても良いというマキャベリズムはクリスチャンの辞書にはありません。だから、自分の動機が正しいか、心の在り方は神に喜ばれる状態か、聖書を鏡にして点検する必要性があるのです。人は表面的につくろって、心の中に悪を隠してしまい、自分は良い人だと言い聞かせています。21~48節では、6つの項目を自己点検しなさいと主イエスが語られました。


2、太陽はすべての人に注がれる
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21~22)

「と言われたのを、あなたがたは聞いています」「しかし、わたしはあながたがに言います」というフレーズを主イエスは繰り返されています。主イエスは聖書を廃棄して、まったく別な教えを語られたのではありません。聖書の本来の意味を取り戻しただけです。


①「人を殺してはならない」(21節)→憎むことは殺人と同じ。仲直りせよ。(24節)
②「姦淫してはならない」(27節)→誰でも心で姦淫している。心を野放しにするな。
③「妻を離別する者は」(31節)→自分勝手な都合で離縁するな。
④「偽りの誓いを立ててはならない」(33節)→悪や不誠実さを隠すため誓うな。
⑤「目には目を」(38節)復讐する権利を放棄せよ。
⑥「敵を憎め」(43節)→自分の敵を愛し、祈れ。

 山上の垂訓は、「立派な教えですな、深いですな」と感心しても何の役にも立ちません。やってみましょう。毎朝、聖書を読み、神の語りかけを素直に聞き、聖書の言葉を鏡にして自分の本当の姿を見つめて軌道修正しましょう。そのようにして聖書で自分の心を整えた人がキングダムビルダーになれます。

 主イエスが今日の箇所で言われたように、誰かと仲直りし、欲望に流れ込む心を制御し、夫婦愛を深め、悪は正直に告白し、「倍返しだ」と叫ばずに復讐の権利を投げ捨て、敵を憎むことに固執せずに敵のために祈って親切にしてみましょう。そのようにあなたが行動すると神の国が広がります。

 「天の父が完全なように、完全でありなさい。」(48節)という言葉で締めくくられています。悪人にも良い人にも分け隔てなく太陽を照らし雨を注ぐ神に私たちも近づきたいですね。

 →あなたの番です
  □聖書を鏡にして自分の動機を見つめる
  □自己保身しない、仲直りする、敵のために祈る

マタイ5:1~16 心の貧しい者は


 マタイの福音書5章~7章は同書の中心部分で「山上の垂訓」と呼ばれ、3章にわたって主イエスの教えの真髄がまとめられています。その基本テーマは、神の国の建設です。

 「山上の垂訓」を勉強し過ぎて迷路に入る人がいます。また、「素晴らしい教えですな」とほめるだけで一つも実行しない人がいます。「山上の垂訓」は実行するためにあるのです。


1、8つの心
 「~の人は幸いです」という、8つの項目を暗記して下さい。それは必ずあなたの人生を豊かにします。前半後半に分け、4項目ずつまとめれば簡単に覚えられます。時折、暗唱して自分の心をチェックして下さい。

 この8項目は、神の国を作るのはこのような人達であると述べているのです。あなたが、悲しむ人であっても、あなたは神の国を作る一員です。

 悪魔、欲望、人気、権力、富を誘惑に用いました。これらを獲得すると幸せになれると普通考えますが、主イエスはその一つにも言及されませんでした。

①心の貧しい者は幸いです。               天の御国はその人のものだからです。
②悲しむ者は幸いです。                       その人は慰められるからです。
③柔和な者は幸いです。                       その人は地を相続するからです。
④義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
⑤あわれみ深い者は幸いです。           その人はあわれみを受けるからです。
⑥心のきよい者は幸いです。               その人は神を見るからです。
⑦平和をつくる者は幸いです。           その人は神の子どもと呼ばれるからです。
⑧義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3~10)

弱く、力なく、ピュアで、一見頼りないと見えるこうした人々でも、神に信頼して行動すると、神の国は着実に作られていきます。

 心の貧しい者とは、自分の罪を正直に認める人のことです。自分の弱さを知り、謙虚な心を持つことからすべては始まります。神の国の国民は全員、赦された罪人です。
悲しむ者とは、大切な人を亡くしたり、親友と離れ離れになったり、夢破れた人のことです。悲しみを経験した人は、社会の宝です。悲しんだ人は、人をいやす人になります。  柔和な人は、存在自体が世の光です。その人の温かさ、柔らかさ、安定さが周囲の人を幸せにします。
義に飢え渇く人は、不正を見逃さず、苦しむ人を助けたいと願う人です。勇気の人、行動の人、変革の人です。

あわれみ深い者は、自分以外の人に目を向ける人です。他者の心に寄り添い、耳を傾け、持っているものを与え、支え、励ます人、つまり愛の人です。
心のきよい者は神のきよさに関心があり、他者を見下して特権意識を持つタイプではないので、神だけを見るようになります。
平和をつくる者は、暴力や嘘を用いません。争いの間に立つ勇気を持ち、忍耐強く平和を作ります。家庭にも、職場にも、国と国の間にも平和が必要です。
義のために生きると迫害されます。正義、愛、平和、信仰のために行動を起こせば、必ず反発や誤解や暴力を受けます。それでも進み続ける人が神の国を作ります。

あなたは、今、この中でどの心を持っていますか。
 あなたは、どんな心が欲しいですか。
 あなたは、この中で、何をしていますか。


2、地の塩、世の光

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:13~16)

 神の国を作ろうとする人は、主イエスを信じる信仰のゆえに、ののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を受けると主イエスは予告されました。そして、そんな時こそ喜びなさいと言われました。

 クリスチャンの基本的役割は、「塩」であり「光」だと主イエスは教えました。塩とは、社会の腐敗を止めるもの。光とは暗い世界を照らすもの。
 クリスチャンが、塩として働くことを止めるな、光であるのに隠れるな、と主イエスは言われました。私たちが誠実に歩むなら、人々は神の栄光を見ることになるのです。

インドは約100年間イギリスの植民地にされ苦しみました。独立のきっかけを作ったのはガンジーでした。イギリス政府が塩の専売を行い、インド人は海から塩を作ることさえ法律で禁じられてました。1930年3月12日、ガンジーはイギリス政府による塩の専売に抗議し、アフマダーバードからダンディー海岸まで380キロの道を80人の支援者と23日かけて歩き、数千人が途中から加わりました。この行進は大きな影響を与え、非暴力、不服従を貫いたガンジーがインドの独立を勝ち取りました。塩の行進はキング牧師に大きな影響を与え、1963年のワシントン大行進につながります。
銃撃事件で友達を失ったフロリダの高校生は、銃販売規制を求めて今年2018年3月24日にワシントンに集まります。新たな行進です。若い高校生たちもアメリカを変えることができます。

ある若いクリスチャン女性が会社で働いていました。所属部署では会社のお金をごまかしてみんなの飲食費に当てていました。上司は彼女に、そのお金の管理係りに指名しました。彼女は、その実体を初めて知って、これは間違ってます、いけないことです、私にはできませんとはっきり言いました。これも、神の国を作る小さな働きの一つです。

 罪を悔い改め、主イエスを信じた人は、神の国を作るという使命を与えられます。誰かに職業は何ですか聞かれたら、こう答えて下さい。「キングダムビルダーです」神の国を作ることが私の仕事で、そのために保険会社に勤務し、主婦をしていると考えて下さい。
山上の垂訓には神の国を作るために必要な、マインドとアクションが語られています。今日の箇所は、その中でも最も大切で基本的な心構えが書かれているのです。8つの心を持って、今週、あなたもキングダムビルダーになって下さい。

 →あなたの番です  
  □心貧しい罪人でも、悲しみで涙するあなたも、用いられる  
  □家庭と職場と社会で神の国を作ろう
  □小さくても光をともせば、神の栄光が現れる

マタイ4:1~11  野の誘惑


 悪魔の誘惑は、主イエスが御霊に導かれる中で起きました。

1、誘惑の目的

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。(マタイ4:1)

主イエスはヨルダン川を後にして、死海周辺と思われますが、荒涼たる荒野に入って行かれ、40日間断食されました。祈りに専念されたのでしょう。

主イエスは、悪魔の猛烈な誘惑にさらされ、私たちと同じように戦われました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

悪魔はこの時、二つの狙いを持っています。まず、主イエスが罪を犯すことです。どんな小さな罪でも主イエスが罪を犯せば、私たちの罪の身代わりにはなれません。
もう一つは、主イエスが十字架にかからないようにすることです。たとえば、主イエスが医者として有名になるとか、ローマ帝国からの独立を勝ち取る政治指導者になるなら、主イエスは成功者にはなれますが罪をあがなう救い主にはなれません。

私たちが誘惑に出会い、負けてしまえば罪を犯します。罪意識に苦しみ、神が遠くになったと感じます。誘惑に勝つ方法はあるのでしょうか。



2、石をパンにする=欲望

そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:2~4)

 悪魔は、主イエスの空腹時に、石をパンに変えて食べなさいと誘惑しました。最初は、小さな誘惑をしかけました。

 第一番目の誘惑の標的は何でしょう。欲望です。

 自分の欲望を満たすために、神の力を利用して奇跡を行う。それは、神の子、救い主がしてはいけない事です。神の子なのだから、石をパンに変えることができるはずだとプライドもくすぐりました。

一時的な欲望を、不正な方法を用いて満足させようとすると、刹那的な喜びしかやって来ません。嘘は嘘を生み、盗みは盗みを生み、性的罪は性的罪を生み、やがては欲望から抜け出せない下降スパイラルに陥って破滅します。

主イエスの答えはこうでした。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」旧約聖書、申命記8:3を引用されて、悪魔の誘惑を退けました。神の言葉を実行するとさわやかな満足感がやってきます。本当の満足は神と共に生きることです。神の言葉を食べ、実行するとき、満たされるのです。

 あなたの弱点の欲望は何ですか。食欲。性欲。金銭欲。
銀行の金を盗んで女に貢いで豪遊する支店長と、真面目に働いて貯金して初めて家族でハワイ旅行をする銀行員、どちらが本当に満ち足りるかあなたは分かるはずです。


3、身を投げよ=名声

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5~7)

 悪魔は次に、エルサレム神殿の一番高い所から飛び降りてみよ、と主イエスに言いました。父なる神が主イエスを守られるのだから、何事もなく地上に降りられるはずだ。詩篇91篇まで引用して主張の正統性を訴えました。悪魔は聖書を知っていました。

 二番目の誘惑の標的は何でしょう。名声です。人気です。誰もいない荒野の崖の上から飛び降りろと言われたら、誰もが断るでしょう。無意味な話なので誘惑にすらなりません。神殿には常に大勢の人々が集まっていたので、目立つ場所から飛び降りて無傷なら、大喝采を受けます。宗教的スターになれるし、勇気をたたえてもらえます。
 
 私たちにとっても、人気は誘惑です。フェイスブックで「いいね」をもらったり、ツィッターで一番人気になれるなら、手段を選ばない人もいます。

 「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」主イエスは、申命記6:16を引用し、神を試みるのはいけない事だと反論されました。神の力を利用してはいかねいのです。

主イエスは、人気取りのために奇跡を行いませんでした。重い病人、生まれつきの盲人、歩けない人に出会うと、いやされました。そこには、おごそかな神の栄光があらわれました。奇跡は人々の救いと神の栄光が現れる時なのです。求めるべきは、自分の人気や名声ではなく、神の栄光なのです。



4、世界の栄華=権力と富

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4:8~11)

 三番目の誘惑で悪魔は、自分を拝むなら全世界を与えようといいました。

 「国々とその栄華」とあります。この誘惑の標的は、権力と富です。

 最後の誘惑はとてつもなく大きな代償が示されました。世界の支配者になれる、世界の富を自分のものにできる。代償が大きすぎると人は誘惑に負けます。

 この白い薬をあのコップに入れてほしい、そしたらテンミリオンを上げよう。この薬を手に取ってくれるだけで手付金のワンミリオンを渡そう。この種の誘惑に勝てますか。

主イエスは言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と申命記6:13の言葉を引用して誘惑を退けました。
主イエスが「引き下がれ、サタン」と言われました。得られる報酬がどんなに莫大であっても、まことの神以外を神として礼拝してはいけません。私たちが偶像礼拝を強要される時は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」という言葉を思い出しましょう。

 主イエスの目指していることは、世界の支配者になることや世界の富を独り占めにすることではなく、世界に仕えることです。ご自分の命を差し出して、罪と滅びから人々を救うことを目指しています。
 会社の社長、政治家、色々な部門の責任者は、自分の仕事や決断が本当に人々を幸せにするものか、権力と富を獲得するためなのか、見つめ直すことが必要です。

 誘惑に勝つ方法は、一人で立ち向かわないことです。信頼できるクリスチャンにあなたの誘惑を話し、祈って支えてもらって下さい。また、聖書の言葉はあなたに勇気をくれます。祈りの中で聖霊の守りと導きをもらって下さい。誘惑を振り払い、神の道を選べるならあなたは本当の満足を得ます。

 欲望。名声。権力。

 主イエスは、あらゆる誘惑を退け、十字架の道に進んでいかれました。あなたも、その足跡について行きましょう。

 →あなたの番です。
  □欲望でなく、みことばを行う満足を体験しましょう
  □名声でなく、神の栄光を求めましょう
  □権力でなく、仕える心を喜びとしましょう

マタイ3:13~17 父の眼差し


 私の手元に、私の子供時代の白黒写真があります。父が仕事で乗船していた貨物船の煙突を背景に、5歳くらいの私が両手を腰にあて、誇らしげに父の帽子をかぶって笑っている写真です。父の船に初めて乗れた喜びが見て取れます。
 この写真は父がシャッターを押したのだと最近になって気づきました。父の優しさや喜びや希望がこの写真に込められていたと分かってじーんとしました。
 今日の聖書箇所には、御子イエスに注がれた父なる神の愛に満ちた視線が見て取れます。


1、正しい事をする

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:13~15)

 主イエスの公生涯の第一歩は、正しいことを行うことでした。
バプテスマをさずけて欲しいという主イエスの願いを聞いて、ヨハネは強く拒否しました。それは、主イエスが罪のない方で(第1ヨハネ3:5)、罪の悔い改めのバプテスマは不必要だったからです。主イエスが神の御子で、ヨハネは主イエスの靴の紐を解く値打ちもないと理解していたからです。

 「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と主イエスは言われました。神は正しいことを行う方であり、神に造られた私たち人間も正しいことを行うように造られているのです。
考えてみましょう。あなたの身の回りにある正しいことは何ですか。職場で正しいこと、家庭で正しいことは何ですか。正しいことを実行しましょう。

悪いことではなく正しいことを選ばれたというだけでなく、主イエスは謙虚に正しいことをされました。主がバプテスマを受けるという事は、謙虚さの極みです。私たちが正しい事をする時も、謙虚さを忘れないように。

 もう一言。主イエスを信じた人で、まだバプテスマを受けていない人がいるなら、受けてください。一般の人は、バプテスマは立派なクリスチャンの印と思い込んでいますが、それは誤解です。バプテスマは卒業式ではなく、入学式です。



2、三位一体の神のフェローシップ

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3:16)

聖霊は、この時、目に見える形をとって主イエスに下りてこられました。聖霊を見たのは主イエスだけではありません。バプテスマのヨハネも、鳩の姿をとった聖霊が下るのを見たと証言しています。(ヨハネ1:32)
鳩の姿は、聖霊が主イエスのもとに、天から下って来たことを表しています。また、平和の象徴の鳩が、聖霊の優しさを示しています。主イエスの生涯はすべては、聖霊と共に歩む日々になりました。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

 聖書には三位一体の神に言及している箇所が複数あります。たとえば、マタイ28:19、ヨハネ15:26、第二コリント13:13、などは有名です。
今日の場面は、三位一体の神が、歴史の中で、人の目や耳で確認できた唯一の瞬間という意味でとても貴重です。主イエスが神の子であり、まことの救い主であることを客観的に証明する歴史的事実です。

父なる神は天の高みから地上の主イエスに「愛する子」と言われました。主イエスは父なる神から熱烈に愛されていました。主イエスも、十字架にかかるまでの日々に父なる神からの愛がどうしても必要だったのです。
聖書の中で、父なる神が特定の人物に対して、心からの喜びを表したことは、歴史上、この箇所以外はありません。

父なる神は、主イエスがへりくだって洗礼を受けた姿を喜び、これからの活動を応援されました。あなたはわたしの子、わたしはあなたを愛する、あなたの存在は私の大きな喜びだと、父なる神は大声で言われたのです。それは、私たち人間のためというより、愛する一人息子に対する声援だったのです。

1992年のバルセロナオリンピック陸上400mの準決勝で金メダル候補の一人、イギリスのデレク・レドモンド選手(Derek Redmond)は良いスタートを切りました。160mまで走ったところで肉離れを起こし、激痛に顔をゆがめてしゃがみこんでしまいました。ストレッチャーで搬送しようとした医療チームを振り払い、17歳のデレクは片足で走り始めました。しばらくすると一人の中年男性がコースに出て来て、デレクに肩を貸して何かを言いました。それは、デレクの父親のジムでした。「もう走る必要はない」と父が言うと、「最後までやる」と息子は答え、「それなら、一緒にゴールしよう」と父は語り、二人でゴールしました。65000人の観衆は立ち上がって二人の健闘をたたえました。
父の眼差しは息子に注がれていました。

主イエスのバプテスマの瞬間、父なる神の眼差しはひとり子イエスに注がれていました。主イエスの十字架に至る走路には数々の困難の待ち構えていました。へりくだってバプテスマを受けるところから一歩を踏み出した御子イエスを父なる神は喜び、天からはっきりと声をおかけになりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」主イエスも、その声でどんなに力づけられたことでしょう。

主イエスは、神の国は近づいたと宣言されました。愛を注ぐ父なる神。鳩のように穏やかな聖霊。謙虚な神の御子イエス。この三位一体の神の温かい交わりこそが、神の国の始まりを知らせています。私たちもそのフェローシップに招かれています。

仲良し家族の夕食に招かれたゲストにように、私たちも神の愛の交わりの中に包まれ喜びをもらいましょう。そのような交わりの中で、私たちは正しいことを謙虚に行えるようになるのです。


→あなたの番です
 □正しい事を謙虚に行いましょう
 □三位一体の神とのフェローシップの中で生きていこう