テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙


 テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙は、各教会に宛てたパウロの手紙と性格が異なります。先輩牧師であるパウロが、若い牧師を励ますために書いたもので、教会運営上の具体的アドバイスが多く含まれています。

 これら3つの手紙のエッセンスを生かせば、子育て、職場での後輩指導、信仰上の弟子訓練に応用できます。


1、主のあわれみを受け取る

信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(第一テモテ1:2)

 パウロは、手紙の最初にいつも「恵みと平安」を祈りました。テモテに宛てた手紙だけに「あわれみ」を加えて「恵みとあわれみと平安」があるようにと祈りました。
 主イエスからあわれみを受けることなしに、牧師は続けられない。パウロは、まず自分の過去に触れて、どんなに大きな主のあわれみを受けたかを語りました。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:13~16)

先輩、親、上司、という立場の人は、立派な今の姿だけを見せるのではなく、失敗と未熟さがあった若き日を後輩に語ることが大切です。主からあわれみを受けたという経験談が若い人達に大きな励ましになります。
かくいう私も、神学校の1年生の時、寮を逃げ出したことがありました。自分の能力の限界と信仰の未熟さに失望して、いわば自主退校をしました。バック一つ持って部屋を出て、アルバイトニュースを買い求めました。大学の聖書研究会の部屋に泊まりましたが、その深夜に主のあわれみに気づき翌日学校に戻りました。私は、主のあわれみを受けて30年以上牧師として歩むことができましたが、あの日のことは忘れません。

私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(第二テモテ1:4~7)

テモテへの手紙第二にも、あわれみが書かれています。テモテよ、私はあの時のあなたの涙を覚えているよ。弱い時もある、臆病になる時もあるけれど、主のあわれみは注がれている、主から受けたものを思い出せ、必ず立ち上がれるよ、とパウロはテモテを励ましました。

 人を育てる者は、主からのあわれみを体験していることが必須です。


2、信頼できる人に任せる

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(第一テモテ3:2~7)

テモテへの手紙第一の時点では、テモテはエペソで牧師をしていました。また、テトスが手紙を受け取った時、テトスは地中海のクレテ島で牧師をしていました。二人とも若い牧師ですが、パウロに代わって各地を巡回していました。パウロは二人に対して、町ごとに教会の牧師を任命するようにと指示しました。上記の聖書箇所は、牧師の資質リストです。テトス1:5~9のリストも基本的には同じものです。牧師の資質を簡単に言うと、信頼できる人で、教える能力のある人です。

 パウロが第二の手紙でテモテを鼓舞している以下の部分でも、同じ事を言っています。他の人に教えることのできる人で忠実な人に弟子訓練をゆだねるように勧めています。

そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第二テモテ2:1~2)

 主イエスは十二弟子を①選び、②育て、③任せました。パウロも、教会のリーダーたちに対して、常に次世代のリーダーを選び、任せるよう命じました。

 あなたの周囲に、クリスチャンとして信頼できる人がいますか。その人は教える力を持ていますか。その人を選び、育て、任せましょう。

 弟子作りの原則は、子育てにも、後輩育成にも応用できます。


3、自分自身も向上に努める

 パウロはテモテ第二の手紙を書く時点で、死期の近いことを悟っていました。(第二テモテ4:6~8)事実、この手紙はパウロの絶筆となりました。
 テモテよ、若くても軽くみられるな、信徒の模範となれ、教える事と自分の生き方を分離するな、一貫性のある信仰生活を送れとパウロはいつも語っていました。弟子を育てるあなた自身が、主の弟子であり続けなさいと教えました。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(第二テモテ2:3)
 「熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:15)
「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2:22)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(4:2)

あなたも、クリスチャンとして一貫性を持ちましょう。教会でも、家庭でも、職場でも、嘘がなく、誠実で、親切で、主イエスを愛す人として生きましょう。周囲の人に信頼される人になりましょう。神の栄光をあらわし、主イエスの福音を生涯語り続けましょう。
 人間ですから、罪を犯したり、失敗することもあります。大事なことは、悔い改め、主のあわれみを受けて立ち上がり、クリスチャンとしての一貫性を再構築することです。
 そのためにも、毎朝祈りましょう、毎朝聖書を読む人になりましょう。ありがとう、ごめんなさい、愛してます、私がします、と言える人になりましょう。


 →あなたの番です
  □主のあわれみを受け取りましょう
  □弟子を育てる弟子になりましょう
  □クリスチャンとしての一貫性を保ちましょう


ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙

 今日は、喜びと感謝について考えましょう。

1、ピリピ人への手紙

 パウロはローマで上訴審開催を待っており、拘留状態にありました。そこに、エパフロデトがピリピ教会から献金を持って来て、生活の足しにして下さいとパウロに渡してくれました。(ピリピ4:18)パウロはそれをものすごく喜んで、感謝の手紙を書きました。それがピリピ人への手紙を書いた直接の理由です。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20~21)

生きていても喜び。死んでも喜び。自分を通してキリストが明らかにされるなら、どちらでも構わないとパウロは考えたのです。日常生活に左右されない別次元の喜びをパウロは持っていました。
主イエスに愛されていること、主イエスの十字架で罪が赦されたこと、天国にいけること、罪深い私と共に主イエスがいてくださること、欠けの多い私を通してキリストがあがめられること、使命が与えられたこと、それらが喜びの源泉でした。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:4~7)

主にあって喜びなさいとパウロは何度も言いました。喜ぶか喜ばないかは、あなた次第です。主にあって喜ぶとは、生き方の選択です。あなたの心のカーナビを、喜びという方向にプリセットするのです。
多くの人は、不幸の原因を他人や環境のせいにしています。そういう人は一生不幸です。

教会に通う前の私は、毎朝不機嫌でした。前夜は運動部の疲れで夕食後はうたた寝して、夜中に置き出して夜更かしし、朝方自分の目覚まし時計では起きられず母に起こしてもらっても起きず、寝坊すると母親のせいにして「遅刻する!」と怒鳴りながらドアを思いっきり閉めて駆け出した高校生でした。私は他人のせいで不幸だと思い込んでいましたが、それは間違いでした。

出かける前に鏡の前で見だしだみを整えるように、一日を始める前に自分の心を整えることが、主にあって喜ぶことです。

 物事に左右されない喜びを身に着けるために、祈りが必要です。思い煩わずにまず祈ることです。他人の物まねのような笑顔を作るのではなく、自分らしい、心の穏やかさを持った、人生を肯定的にとらえる姿勢を整えるのです。それが、主にある喜びです。

 ヘドロの沼になってメタンガスを出すか、鮎が泳ぐ清流になるかは、それはあなたの心がけ次第です。さあ、周囲に影響されない自分、不幸を他人のせいにしない自分を作りましょう。主にあって、喜んでみましょう。



2、テサロニケ人への手紙

 私たちが、テサロニケ教会から学ぶ点は、迫害下でもくじけない心です。
パウロは通常、手紙の最初で各教会の信仰と愛を賞賛しますが、テサロニケ教会の場合、信仰と愛に加えて「忍耐」に言及しています。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(第一テサロニケ1:2~3)

 テサロニケの教会は、パウロが伝道した当初からユダヤ人による迫害が起きました。(使徒17:1~15)パウロに反対するユダヤ人は、町のならず者を利用して暴動を起こしたり、クリスチャンの家を襲わせました。クリスチャンになった瞬間から、苦難の人生が始まりました。テサロニケの人々はそんな中でも信仰告白し、周囲の人にイエスさまの福音を伝え(第一テサロニケ1:8)、信仰に堅く立っていました。(第一テサロニケ3:7~8)迫害の苦しみは、「神の国のため」(第二テサロニケ1:5)なのです。

 テサロニケのクリスチャンは、暴力や差別、あざけり、経済損出などを経験していたので、主イエスが再び地上に来られる日を強く待ち望みました。そうした信仰が暴走して、主イエスが来る前にクリスチャンは死なないという間違った理解が生まれ、死んだ仲間を見て落胆した人が出たので、パウロは主イエスの再臨を説明しました。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16~17)

 主イエスの再臨に気を取られ過ぎて日常生活がおろそかになる人も出てきたので、落ち着いた生活を心がけ、きちんと仕事をしなさいとパウロは教えました。(第一テサロニケ4:11、第二テサロニケ3:11~12)さらに、そんな困難な状況だからこそ、喜べ、祈れ、感謝せよと励ましました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16~18)

喜びを選び取り、祈ってゆだね、物事のポジティブな面を見つけましょう。そうすれば環境に左右されず芯が強く穏やかで自分らしい心を身に着けることができます。

 
→あなたの番です
 □主にあって喜びましょう
  □苦しい時こそ、感謝を見つけましょう


エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙


 エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙は、同じ頃パウロによって書かれました。この3つの手紙は紀元60年ごろ獄中で書かれ、テキコによって運ばれました。(エペソ6:21~22、コロサイ4:7~9)エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙は構造も内容も良く似た双子の手紙です。前半部分は教理、後半は実践部分になっています。

 正しい事をしたい、人に親切にしたい、悪に負けなくないと願う人は、自分の弱さに直面し失望します。ガソリンの無い車を走らせているのと同じだからです。神から霊的祝福を受け取るなら、人を愛すことが可能になります。



1、霊的祝福

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)

 主イエスを信じた者には、霊的祝福が与えられます。霊的祝福を、私なりに言い換えてみるとこうなります。神しか与えることのできない恵み。生きる力を後押しする励まし。本来の自分に戻れるさわやかな風。みんなが望んでいる心の平安と満足。
私たちクリスチャンは、霊的祝福を静かに確認し、味わい、感謝することが必要です。霊的祝福をかみしめた者だけが、愛と正義と聖さを実現できます。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:4~7)

 4~7節で、霊的祝福が説明されています。永遠の昔に私たちは選ばれた、神にずっと愛されていた、ひとり子イエスさまの血が流されて私たちの罪が赦された。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ1:13~18)

 コロサイ人への手紙においては、霊的祝福に続き、主イエスの神性が語られています。主イエスは、いつくしみ深い救い主であるだけでなく、永遠の昔から存在された偉大な神、世界の造り主なのです。その力強い主イエスが教会のリーダーなのです。このような主イエスだからこそ、霊的祝福を注ぐことができるのです。

 神に選ばれ、愛され、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命が保証され、聖霊が与えられていることを味わい、感謝しましょう。



2、日常生活に生きる信仰

 霊的祝福が与えられたので、私たちの生活は変わります。霊的祝福を知り、神に愛されている事を確認し、創造主イエスと共に歩むなら、悪い行いを止め(エペソ4:30)、「光の子ども」(エペソ5:8)らしく歩み、古い人を捨てて新しい人を着る(コロサイ3:9~10)ようになれます。同情心を持ち、寛容になり、互いに赦しあい、(コロサイ3:12~13)、キリストの言葉を大切にして神を賛美できるようになります。(コロサイ3:16)

 パウロは、エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の後半において、家庭を論じました。家庭は、普段着の場所、疲れたり我がままになったりする場所です。そこでこそ愛が育ち、信仰を実生活に生きるのです。

妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:22~27)

 妻は夫に従う。夫は妻を愛す。これはとても難しいことですか。いいえ、そうではありません。結婚前の二人は互いに実行してきました。だから、二人の愛は深まったのです。新しい気持ちで実行すれば、二人は再びラブラブになります。

 パウロは最初に、最も重要な夫婦関係を取り上げ、次に親子(エペソ6:1~4)、さらに奴隷と主人の関係(エペソ6:5~9)を語りました。家庭で思いやりを示し、職場で同僚を大切にするなら、社会は変わていきます。
 霊的祝福を注がれた人は、優しい人になります。今週、優しい人になりましょう。

 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)



3、ピレモンへの手紙

 最後に「ピレモンへの手紙」に触れます。この手紙はパウロの手紙で最も短く個人的です。逃亡奴隷のオネシモを主人ピレモンのもとに返すため、パウロは一肌脱ぎました。パウロが人に優しくした一例です。

むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(ピレモン9~12)

 獄中にいたパウロはオネシモと出会い、彼を救いに導き、信仰訓練を行いました。オネシモの将来を考えると、主人のもとに返すのが最善と考えたのです。当時、逃亡奴隷は死刑でしたが、主にある兄弟として受け入れ直してほしいとクリスチャンの主人ピレモンに懇願し、オネシモが盗んだお金を弁償する(18~19節)と書きました。
 パウロがしたことは、主イエスが十字架で私たちのためにして下さった事に良く似ていますね。

 ある高校3年生女の子が、公民館の学習室で夏休みに勉強していました。受験のストレスで、家族に当たることもありました。その日、朝9時の開館時間になっても掃除のおばさんたちはおしゃべりしながら掃除を続けていました。不機嫌になってドアの所に立っていると、一人のおばさんが「その椅子、座っていいよ」と言ってくれました。早くいなくなって欲しいと思いながら彼女は勉強を始めました。しばらくすると、おばさんたちは部屋から出て行きましたが、一人のおばさんが残りました。「大学を目指してるの」と聞いてくるので、「いいえ、専門学校です」と答えました。「そうか、専門学校ね。頑張ってね」と言っておばさんはむこうを向きました。そして、窓をふきながらこう言いました、「がんばれ、がんばれ、がんばれ、がんばれ。」それを聞いて、胸が熱くなり、心の中で何かが解けて自由になり、涙が込み上げてきました。4回、応援してくれた言葉が嬉しかったのです。

 主イエスは、霊的祝福で今もあなたを応援しています。
 霊的祝福を受けた人は、人に優しくなります。あなたが応援したい人は誰ですが。今週、その人に優しい言葉を言ってあげましょう。
 

 →あなたの番です
  □霊的祝福を確認し感謝しよう
  □家庭や職場で、優しい人になってみよう

ガラテヤ人への手紙


 パウロがガラテヤ地方で伝道した後、ユダヤ人クリスチャンがやって来てパウロと違うことを教えました。信仰だけでは不十分だ、律法を行いなさいと教えたのです。パウロはそれを聞いて怒りました。それは福音ではない、主イエスの十字架を台無しにすると厳しく批判しました。それがガラテヤ人への手紙の中心テーマです。



1、律法主義への防波堤、パウロ

 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(1:13~14)

 パウロは、優秀な律法学者であり、律法の実践に熱心な行動派で、キリスト教徒迫害の先頭に立ちました。ダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、パウロは劇的にクリスチャンになりました。「生まれたときから選び分け」られたとパウロは述懐しています。

 この手紙でパウロは、福音を人間から聞かなかったし(1:12)、また、人間によって使徒に任命されたわけでもない(1:1)と証言しました。つまり、主イエスによって、直接福音を聞き、また、主イエスにより使徒の任命を受けたのです。十二弟子とパウロは、明らかに別ルートですが、両者の福音理解は同じでした。

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(2:16)

福音は道徳に変質しやすいので、福音になにかを付け加えてはいけないのです。福音の本質は、主イエスを信じるだけで罪から救われることです。
救いについて言えば、良い行いや律法は救いに何の関係もありません。クリスチャンになった後について言えば、割礼を受けたり、ユダヤ人の生活習慣を守る必要はないのです。

 パウロは、律法学者として歩んだ彼の経歴は、福音の真理を守るためだったのだと分かりました。
 私たちも主イエスに出会って初めて、自分とは誰なのかが分かります。物事の本質、自分のアイデンティティーが見えてきます。あなたは主に選ばれ、主に召されてたのです。あなたが通った回り道は、主イエスと出会うことにより納得できるようになります。



2、無価値な律法主義

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:1~3)

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(4:9)

 律法の空しさを最も自覚していたのはパウロでした。律法は、無力、無価値、幼稚な教えなのです。
 律法主義は、まじめな人や年長者が陥りやすい罠です。少しでも律法を守れると傲慢になり、守っていない人を見つけると裁きます。
 
 あなたは、最近、誰かを裁いていませんか。たいていは、自分が疲れたとき、ストレスの強いとき、為すべき事ができてない時など、人を裁きます。
 人をさばくのは止めましょう。むしろ、人の良い点を見つけて、ほめてあげましょう。

 

3、救われた人の生き方

 福音を知り、主イエスを信じた人は、三位一体の神と繋がりながら歩むようになります。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(4:6~7)

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(2:20)

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(5:16)

 アバとは、幼児がお父さんを呼ぶ時の言葉です。主イエスを信じた者は神の子になったので「アバ、父」と父なる神を呼べるようになります。
 主イエスを信じると、古い人は十字架で死に、キリストが私たちの内に生きるようになります。
 主イエスを信じると御霊が私たちの内に住んで下さいます。だから、御霊の導きを求めつつ歩むことができます。

この3つの聖句を読んで、あなたも気がつきましたね。信仰生活とは、神とのリレイションシップに生きる生活なのです。律法ではなく、御霊に導かれて生きるなら、御霊の実を結びます。その人の人格に素晴らしい変化が生まれます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(5:22~25)

ある田舎の小学校での出来事です。傘が木に引っかかっている、という連絡がありました。傘は小学1年の女の子のものでした。学校側はその子の自宅に連絡しておきました。しばらくすると、女の子のお父さんから電話が学校にありました。アクシデントで傘が引っかかったのではなく、女の子が傘をかけたのだといいます。その木にかわいい実がなっていて、雨が降って来たので濡れないようにと傘をかけたのだといいます。もしかしたら、その子は雨に濡れて帰ったのかもしれませんね。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などの品性の実を結んで、ほめられたい、自慢したい、クリスチャンとして一人前になりたいと思うなら、動機が不純です。身近な人の笑顔が見たいと思う時、内面が成長します。雨に濡れないようにと傘をさしてあげる人の心に、自然に、御霊の実が結ぶのです。

 福音に律法主義を付け加えてはいけません。律法主義は、空しく、傲慢や差別や争いを生みます。人を裁いても何も良いものは生まれません。
 御霊に導かれて生きるなら、他者への愛や寛容や親切が自然に生まれます。


 →あなたの番です
  □主イエスと出会うと、本質が見えてくる
  □律法的生き方を止めよう
  □御霊の実を結ぼう


コリント人への手紙第二


 「あー、本当に良かった。ほっとしたよ。主は素晴らしい。嬉しくて飛び上がりたい」コリント人への手紙第二を書いた当時のパウロは気持ちが高揚していました。パウロは、コリント教会に宛てて書いた厳しい手紙(2:4)の反応が心配だったのです。コリントから戻って来たテトスの報告を聞いてパウロは胸を撫でおろしたのです。罪を犯していた人が悔い改め(7:9~11)、パウロに対するコリント教会の信頼感が回復したようです。
 「それからね、コリント訪問の日程はこういう予定で(1:15~16)、エルサレム教会への献金はしっかり集めておいてほしい。(8~9章)それから………」という雰囲気で手紙は進むので、この手紙のアウトラインはちょっとつかみにくいのです。


1、慰めの神

 この手紙のキーワードは「慰め」です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(コリント人への手紙第二1:3~4)

 「慰めの神」と書いてあります。神を単なる力やエネルギーや法則と考える人がいますが間違っています。力や法則は人を慰めることはできません。本当の神は人格を持つ神なので、私たちの話に耳を傾け、心の深い部分まで分かってくれるのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」なぜそう言えるのでしょう。神だから、どんな苦しみの中にいる人も慰めることができるのです。

 大学生のサラは、ソフトボールの試合で生まれて初めてホームランを打ちましたが、一塁ベースを回る時に膝を痛めて倒れ込んでしまいました。チームメートが助けようとするとコーチと審判が「触るな」と言いました。ルールブックによると、そんな時に触れたなら選手はアウトになりホームランは無効になるのです。痛みのため動けないサラは、自分を責め、みじめな自分を恥じていたことでしょう。
 それを見て、敵側の一塁手と二塁手がサラを持ち上げて塁を回ると提案し、審判もOKを出し、無事ホームを踏めました。サラはどんなに感謝したか分かりません。この経験を経て、サラは誰かを慰めて助ける人になったことでしょう。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。(1:6)

 今、あなたはトラブルの真っ只中かもしれませんが、神は必ずあなたを慰めることができます。そしてあなたは、いつか、誰かを慰める人になります。


2、点と線

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(5:17)

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(3:18)

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(4:16)

 パウロは、第二の手紙において「肉に属する人」という話題を出しませんでした。むしろ、主イエスを信じた者は新しく造られた、という事実を指摘しました。新しく造られたら「はい、終了」ではなく、日々、どんどん新しくされるのだと教えました。

 主イエスが私たちに与えてくれた救いは、「点」と「線」です。罪人が主イエスの十字架により義と認められたことは「点」です。クリスチャンが聖霊によって日々キリストの姿に似た者と変えられるプロセスは「線」です。

 ロバートさんは占領軍の一員として沖縄の基地で働いていた時に、愛用の万年筆を無くしました。オフィス内で働く日本人男性の胸ポケットにその万年筆を見つけたので、厳しく問いつめて取り返しました。それから3週間後、ロバートさんは自宅で彼の万年筆を見つけました。取り上げた万年筆と比べると模様がわずかに異なっていました。その日本人は誠実な人柄だったことを思い出しました。ロバートさんは彼を探して謝罪したいと思いながら、それができずにアメリカに帰ってしまいました。それは生涯の悔いとなりました。

 私たちも、ロバートさんを責められません。同じことをしているので自分に嫌気をさすことがあります。生まれ変われたらな、と思うものです。
 主イエスを信じるな、主イエスの内にあるなら、私たちは新しく造られたのです。そして、日々新たにされるのです。ここに慰めと喜びがあるのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


3、弱さが力に

 異例ともいえますが、パウロはこの手紙でかなり個人的な事柄を書きました。伝道者として、迫害に遭い、鞭打たれ、投獄され、命の危険を何度も経験したと語りました。(11:24~27)
 さらにパウロは、14年前の特殊な体験も話しました。(12:2~5)天に引き上げられ、パラダイスで神と間近に接した経験をしました。
 キリストのための苦難の傷跡。神を身近に感じた栄光の出来事。その二つは、信仰者の勲章のようなものですが、パウロは誇れるものはそれではなく、弱さだと言いました。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(12:7~9)

 人の病をいやしてきたパウロなのに、自分の病=「肉体のとげ」をいやせない。その弱さの中で神の恵みに気づきました。弱さゆえに、神の力を体験しました。・

 あなたに弱さがありますか。
 あなたの弱さは何ですか。

生まれた家庭環境、人に言えない失敗や罪、誰かをひどく傷つけたこと、生まれついてのハンディー、深刻な病、災難に遭ったこと、今も解決しない深刻な問題、もつれたままの人間関係。それらの弱さは、神の恵みが注がれるための一口です。
弱さがあるから、あなたは謙虚になれます。弱さがあるので、神に祈れます。弱さゆえに、神の栄光を体験できます。弱さがなければ、傲慢で、人に共感できない、嫌な人になっています。

 つとむ君は、メキシコ系アメリカ兵士と沖縄の女性の間に生まれたハーフでした。生まれてすぐ医療事故で全盲になり、彼が1歳の時に両親は離婚、父はアメリカに帰還、祖母のもとで育てられましたが、彼が中学の時にその祖母も死去。人生を悲観し、井戸に飛び降りようとしたこともありました。
 そんな時に一人の牧師さんに出会いましたい。僕ほど不幸な人間はいない、目は見えない、混血児で差別される、父も母も大嫌いだ、生きる意味がない。牧師さんは、涙を流しながら親身に聞いてくれて、それ以降は家に招いて食事をご馳走してくれたり様々な世話をやいてくれて、勉君もクリスチャンになり新しく造られました。
 歌の好きな、新垣勉君さんは著名なボイストレーナーのオーディションを受ける機会があり、「君の声は日本人離れした明るい声を持っている。ラテン系のお父さんのおかげだね。その声で多くの人を励ますんんだ。」と励ましを受けました。新垣勉さんは、テノール歌手として活躍しています。弱さは力になりました。

あなたの弱さは、あなたが一番嫌うものです。けれども、弱さの中に神の恵みが染み込んでいます。弱さの中に神の力が現れます。あなたは、それを信じますか。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 →あなたの番です
  □まことの神は、慰めの神
  □私たちは、新しく造られ、日々変えられる
  □弱さの中にこそ、神の恵みと力あり

コリント人への手紙第一


 聖書の中で、最もがっかりさせられる教会がコリント人の教会です。
 でも、良く考えてみると、コリント教会は私たち自身の姿なのかもしれません。


1、コリント教会の問題

 紀元50年頃パウロはコリントで伝道を開始、コリント教会が誕生しました。コリントは交通の要所で大都会でした。大きな建物が並び、ギリシャ神の神殿には多くの参拝客が集まり、風紀の悪い歓楽街が大変賑わっていました。
 コリント教会の人々には都会的で知的で能力のある人達がいましたが、様々な問題を起こしていました。心あるクリスチャンがパウロに助言を求め、それに返答したのがこの手紙です。パウロは問題の背景を深く洞察しつつ、解決策を教えました。

<コリント教会の問題とパウロの対処>
1~4章:分裂、パウロ批判        → 仲間割れするな
5~6章:性的な堕落、訴訟事件      → きちんと除名せよ
7章:結婚観が混乱            → 健全な結婚生活を提示
8~11章:会食の混乱、偶像にささげた肉 → 弱い人を配慮しなさい
12~14章:賜物の優劣、混乱した礼拝  → 愛が一番大事
15章:復活を否定するクリスチャン           → 復活なければ信仰なし

 

2、肉に属する人

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(コリント人への手紙第一3:1~3)

 問題を起こしているクリスチャンを、パウロは「肉に属する人」だと指摘しました。肉に属する人は、信仰理解が不十分で、信仰生活が確立していない人です。

 信仰面をまずチェックしてみましょう。
 □自分の罪が赦されたと確信できない
 □その日の気分や環境で信仰が吹き飛ぶ
 □聖書が神の言葉であるとは思えない
以上のことがはっきりしないなら、救いの入門の学びをやり直しましょう。

クリスチャンの人生は、キリストを土台にして、その上に家を建てるようなものです。(3:10)

○日常生活をチェックしてみましょう。
□いつもイライラしていて、大声で怒ることもある
□人のうわさ話が大好き
□いやみを言う、人をいじめる、暴力を振るう
□酒、薬物、ギャンブルをやめられない
□声に出して祈れない
□家で聖書を開いたことがない
□救いのあかしをしたり、伝道したことが一度もない
□人を支配したがる、おせっかいが過ぎる
□極端に否定的な言動をする
□気の向いた時だけ日曜礼拝に参加する
□オカルトや占いをやっている
□不倫したり、いかがわしい場所に通っている
□職場で、嘘、盗み、詐欺をしても平気

自分が肉に属するクリスチャンだと分かったなら、聖霊の助けによって、日々変わることを心がけましょう。「成長させてくださる神」(3:8)がおられます。

揺るがない土台、変わり続ける生活。これがクリスチャンです。


3、心に留めたいみことば

1)十字架の言葉

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1:18)

人間の知恵や哲学を信仰の土台としないように、パウロは細心の注意を払ってコリントで伝道しました。信仰の土台は、十字架のことばです。主イエスの十字架の死と復活の事実こそが人を救います。


2)神の栄光

 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(10:31)

 信仰と仕事を分離せず、生活のあらゆる分野で主の栄光を現しましょう。私たちの体は、聖霊の宮であり、自分のものではなく主のものだからです。(6:19~20)
 食べるとか飲むとか小さな事ににこそ神の栄光をあらわしましょう。判断に悩んだ時は、イエスさまならどうするか、と考えましょう。

3)寛容と親切

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(13:4~7)

 知識と賜物を鼻にかけ派閥を作って他者を見下していたコリントの人達に、パウロは寛容と親切を教えました。
寛容とは、他者が自分と違うことを認め、尊敬し、喜ぶことです。親切とは、積極的に自分から助け、与えることです。

林竹治郎は18歳の時に信仰を持ち、美術学校を卒業して、札幌の学校で教師になりました。彼の家の家庭礼拝の様子を描いた「朝の祈り」(1904年)にという絵は有名です。ちゃぶ台の周囲に、母親と子供たちがいて、祈っています。お母さんのひざに顔をうずめて祈る幼い男の子は、後にハンセン氏病者の施設を開く林文雄医師です。この家庭礼拝は50年間続けられたといいます。信仰と家庭も切り離してはいけないのです。

日曜礼拝、朝の聖書や祈り、スモールグループ、賜物を生かした奉仕などは、クリスチャンが成長するためにはとても大切です。

揺るがない真理である主イエスを土台としましょう。その上に建物を建てていきましょう。主イエスは変わりません。私たちは日々に変えられましょう。聖霊の宮である私たちの体を用いて神の栄光を現し、身近な人に寛容で親切で愛を届けましょう。

 →あなたの番です
  □肉に属する人をやめる 
  □日々生き方を変え、神の栄光を現す
  □寛容になり、親切にする

ローマ人への手紙


 パウロが第3回伝道旅行で訪れたコリントにおいて、紀元57年頃、ローマに住むクリスチャンに宛てて書いた手紙がローマ人への手紙です。パウロの主著と呼べる論文で、キーワードは「義」です。

パウロは、ローマ人への手紙1~11章の部分で、十字架の意味を解説し、救いとは何かを明らかにしました。パウロは、主イエスの十字架という歴史的出来事の意味を解説できる神学者であり、教師なのです。
12~16章で、クリスチャンはどう生きたらよいのかを具体的に語りました。つまり、パウロはコーチ、メンターなのです。
さらにパウロは伝道者です。ローマを訪れた後にイスパニヤ(現在のスペイン)で伝道したいという願いを15:28に明記しています。
パウロは、神学者、メンター、伝道者として主に召されたのです。


1、罪
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ人への手紙1:20~21)

驚くことに、99%までロボット化された自動車工場があります。その一連の工程を見て、「偶然とはすごいもんだ」と感心する人はいません。誰かが工作ロボットを作り、誰かがプログラムしたことは一目瞭然です。
次に、私たちの体の中で起きているたんぱく質合成を考えて下さい。DNAは細胞の核内に厳重に保管され、たんぱく質合成の必要があるときはRNAにコピーされ、厳重に編集された上で核外に出てきます。リボゾームはそのRNAを取り込んで、暗号を解読し、20種のアミノ酸からふさわしいアミノ酸を選び出して細長いひもにします。それらは計画通り折りたたまれ、うまくできなかったものはシュレダー機能で処分されます。このようなたんぱく質は10万種類あります。これは偶然でしょうか。
すなわち神が作られた世界つまり被造物を見るなら神がおられる事が分かります。

義人はいない。ひとりもいない。(3:10)

 まことの神を心では知っているのに、神を無視して生きるなら、私たちは罪を犯すようになります。(1:28~32)神の前に正しい(=義)と認められる人は誰もいません。

 レストランでアルバイトしたある青年は、大きな味噌汁鍋にゴキブリが1匹入っているのを見て店長に伝えました。店長は、「ゴキブリを取り出せ」と命じましたが、味噌汁全部を捨てろとは言いませんでした。

 完全にきよい神の前では、私たちは汚れた罪人です。良い行いをして罪を相殺したいと思っても、行いによっては誰も神に正しいと認めてもらえません。最高の出汁を使って丹精込めて味噌汁を作ることが「行い」です。たった一つの「盗み」(=ゴキブリ)があれば誰も味噌汁を飲めないのです。
 私たちの人生もゴキブリの入った味噌汁のようなもので、本来は捨てられるべき存在です。神の前に正しいと認められる人、つまり義人は一人もいないのです。

 
2、義
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(5:6~9)

 主イエスは罪人の私たちをそのまま愛してくれました。そして、私たちの罪を身代わりに背負って、私たちが受けるべき罰を受けて十字架で死んで下さいました。私たちの罪の処分が終わったので、神の法廷において私たちは義と認められたのです。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(6:4~8)

 私たちはキリスト共に死んだのです。だから、罪から解放されたのです。私たちはキリストと共によみがえったのです。だから、キリストと共に生きる命が始まったのです。私たちの罪は、たった一度の主イエスの十字架で完全に解決されました。
 
 私は高校生の時にクリスチャンになりましたが、大学生クリスチャンのリーダー達が毎週のように私たち高校生の信仰状態を確認してくれました。「今日、死んでも天国行ける?」「救われているのは、君の気分が土台なの?」
 パウロが1~11章で書かれてある内容はそれと良く似ています。今日の気分がどうであれ、どんなトラブルにみまわれようとそれは問題ではありません。主イエスの十字架が私たちの救いの土台なのです。

 それでは、私たちはどうしたら神の救い、神の義を得られるのでしょう。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(10:9~10)

救われるためには、義と認められるために、どんなに努力しても、まじめに生きても、旧約聖書の律法を守ろうとしても、人間は行いによって神の前で義とされることはできません。いくら泳ぎの上手い人でも、アメリカから日本まで泳いで行けないのと同じです。ただ主イエスを信じる、その一点で義と認められ、救われるのです。


3、聖

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(8:28~30)

 イエスキリストを信じた者の特徴は「聖」です。信じる者のうちに住む聖なる霊=聖霊によって導かれるようになり、キリストに似た者に変えられます。神学では、このプロセスを聖化といいます。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(12:1~2)

イエスを信じた者は、自分自身を主にささげるように招かれています。聖いささげものとして自分をささげましょう。神のみこころを良く理解して、自分を変えていきましょう。

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(12:10~19)

罪人の時は、嘘も悪い事も汚れも自分の欲望を遂げるためなら平気で行ってきました。義とされ人は、主イエスが愛したように、身近な人を愛すようになります。

主よ、あなたの愛に感謝します。私を義と認めて下さり感謝します。聖霊により、私をイエスさまのような姿に作り変えてください。私は、自分をあなたにささげます。あなたの栄光のために、神の国建設のために、私を用いて下さい。
 →あなたの番で
□罪:私は罪人です
□義:主イエスの十字架により義とされました
□聖:自分を主にささげ、聖く歩み、隣人を愛します