コリント人への手紙第二


 「あー、本当に良かった。ほっとしたよ。主は素晴らしい。嬉しくて飛び上がりたい」コリント人への手紙第二を書いた当時のパウロは気持ちが高揚していました。パウロは、コリント教会に宛てて書いた厳しい手紙(2:4)の反応が心配だったのです。コリントから戻って来たテトスの報告を聞いてパウロは胸を撫でおろしたのです。罪を犯していた人が悔い改め(7:9~11)、パウロに対するコリント教会の信頼感が回復したようです。
 「それからね、コリント訪問の日程はこういう予定で(1:15~16)、エルサレム教会への献金はしっかり集めておいてほしい。(8~9章)それから………」という雰囲気で手紙は進むので、この手紙のアウトラインはちょっとつかみにくいのです。


1、慰めの神

 この手紙のキーワードは「慰め」です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(コリント人への手紙第二1:3~4)

 「慰めの神」と書いてあります。神を単なる力やエネルギーや法則と考える人がいますが間違っています。力や法則は人を慰めることはできません。本当の神は人格を持つ神なので、私たちの話に耳を傾け、心の深い部分まで分かってくれるのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」なぜそう言えるのでしょう。神だから、どんな苦しみの中にいる人も慰めることができるのです。

 大学生のサラは、ソフトボールの試合で生まれて初めてホームランを打ちましたが、一塁ベースを回る時に膝を痛めて倒れ込んでしまいました。チームメートが助けようとするとコーチと審判が「触るな」と言いました。ルールブックによると、そんな時に触れたなら選手はアウトになりホームランは無効になるのです。痛みのため動けないサラは、自分を責め、みじめな自分を恥じていたことでしょう。
 それを見て、敵側の一塁手と二塁手がサラを持ち上げて塁を回ると提案し、審判もOKを出し、無事ホームを踏めました。サラはどんなに感謝したか分かりません。この経験を経て、サラは誰かを慰めて助ける人になったことでしょう。

 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。(1:6)

 今、あなたはトラブルの真っ只中かもしれませんが、神は必ずあなたを慰めることができます。そしてあなたは、いつか、誰かを慰める人になります。


2、点と線

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(5:17)

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(3:18)

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(4:16)

 パウロは、第二の手紙において「肉に属する人」という話題を出しませんでした。むしろ、主イエスを信じた者は新しく造られた、という事実を指摘しました。新しく造られたら「はい、終了」ではなく、日々、どんどん新しくされるのだと教えました。

 主イエスが私たちに与えてくれた救いは、「点」と「線」です。罪人が主イエスの十字架により義と認められたことは「点」です。クリスチャンが聖霊によって日々キリストの姿に似た者と変えられるプロセスは「線」です。

 ロバートさんは占領軍の一員として沖縄の基地で働いていた時に、愛用の万年筆を無くしました。オフィス内で働く日本人男性の胸ポケットにその万年筆を見つけたので、厳しく問いつめて取り返しました。それから3週間後、ロバートさんは自宅で彼の万年筆を見つけました。取り上げた万年筆と比べると模様がわずかに異なっていました。その日本人は誠実な人柄だったことを思い出しました。ロバートさんは彼を探して謝罪したいと思いながら、それができずにアメリカに帰ってしまいました。それは生涯の悔いとなりました。

 私たちも、ロバートさんを責められません。同じことをしているので自分に嫌気をさすことがあります。生まれ変われたらな、と思うものです。
 主イエスを信じるな、主イエスの内にあるなら、私たちは新しく造られたのです。そして、日々新たにされるのです。ここに慰めと喜びがあるのです。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


3、弱さが力に

 異例ともいえますが、パウロはこの手紙でかなり個人的な事柄を書きました。伝道者として、迫害に遭い、鞭打たれ、投獄され、命の危険を何度も経験したと語りました。(11:24~27)
 さらにパウロは、14年前の特殊な体験も話しました。(12:2~5)天に引き上げられ、パラダイスで神と間近に接した経験をしました。
 キリストのための苦難の傷跡。神を身近に感じた栄光の出来事。その二つは、信仰者の勲章のようなものですが、パウロは誇れるものはそれではなく、弱さだと言いました。

また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(12:7~9)

 人の病をいやしてきたパウロなのに、自分の病=「肉体のとげ」をいやせない。その弱さの中で神の恵みに気づきました。弱さゆえに、神の力を体験しました。・

 あなたに弱さがありますか。
 あなたの弱さは何ですか。

生まれた家庭環境、人に言えない失敗や罪、誰かをひどく傷つけたこと、生まれついてのハンディー、深刻な病、災難に遭ったこと、今も解決しない深刻な問題、もつれたままの人間関係。それらの弱さは、神の恵みが注がれるための一口です。
弱さがあるから、あなたは謙虚になれます。弱さがあるので、神に祈れます。弱さゆえに、神の栄光を体験できます。弱さがなければ、傲慢で、人に共感できない、嫌な人になっています。

 つとむ君は、メキシコ系アメリカ兵士と沖縄の女性の間に生まれたハーフでした。生まれてすぐ医療事故で全盲になり、彼が1歳の時に両親は離婚、父はアメリカに帰還、祖母のもとで育てられましたが、彼が中学の時にその祖母も死去。人生を悲観し、井戸に飛び降りようとしたこともありました。
 そんな時に一人の牧師さんに出会いましたい。僕ほど不幸な人間はいない、目は見えない、混血児で差別される、父も母も大嫌いだ、生きる意味がない。牧師さんは、涙を流しながら親身に聞いてくれて、それ以降は家に招いて食事をご馳走してくれたり様々な世話をやいてくれて、勉君もクリスチャンになり新しく造られました。
 歌の好きな、新垣勉君さんは著名なボイストレーナーのオーディションを受ける機会があり、「君の声は日本人離れした明るい声を持っている。ラテン系のお父さんのおかげだね。その声で多くの人を励ますんんだ。」と励ましを受けました。新垣勉さんは、テノール歌手として活躍しています。弱さは力になりました。

あなたの弱さは、あなたが一番嫌うものです。けれども、弱さの中に神の恵みが染み込んでいます。弱さの中に神の力が現れます。あなたは、それを信じますか。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 →あなたの番です
  □まことの神は、慰めの神
  □私たちは、新しく造られ、日々変えられる
  □弱さの中にこそ、神の恵みと力あり

コリント人への手紙第一


 聖書の中で、最もがっかりさせられる教会がコリント人の教会です。
 でも、良く考えてみると、コリント教会は私たち自身の姿なのかもしれません。


1、コリント教会の問題

 紀元50年頃パウロはコリントで伝道を開始、コリント教会が誕生しました。コリントは交通の要所で大都会でした。大きな建物が並び、ギリシャ神の神殿には多くの参拝客が集まり、風紀の悪い歓楽街が大変賑わっていました。
 コリント教会の人々には都会的で知的で能力のある人達がいましたが、様々な問題を起こしていました。心あるクリスチャンがパウロに助言を求め、それに返答したのがこの手紙です。パウロは問題の背景を深く洞察しつつ、解決策を教えました。

<コリント教会の問題とパウロの対処>
1~4章:分裂、パウロ批判        → 仲間割れするな
5~6章:性的な堕落、訴訟事件      → きちんと除名せよ
7章:結婚観が混乱            → 健全な結婚生活を提示
8~11章:会食の混乱、偶像にささげた肉 → 弱い人を配慮しなさい
12~14章:賜物の優劣、混乱した礼拝  → 愛が一番大事
15章:復活を否定するクリスチャン           → 復活なければ信仰なし

 

2、肉に属する人

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(コリント人への手紙第一3:1~3)

 問題を起こしているクリスチャンを、パウロは「肉に属する人」だと指摘しました。肉に属する人は、信仰理解が不十分で、信仰生活が確立していない人です。

 信仰面をまずチェックしてみましょう。
 □自分の罪が赦されたと確信できない
 □その日の気分や環境で信仰が吹き飛ぶ
 □聖書が神の言葉であるとは思えない
以上のことがはっきりしないなら、救いの入門の学びをやり直しましょう。

クリスチャンの人生は、キリストを土台にして、その上に家を建てるようなものです。(3:10)

○日常生活をチェックしてみましょう。
□いつもイライラしていて、大声で怒ることもある
□人のうわさ話が大好き
□いやみを言う、人をいじめる、暴力を振るう
□酒、薬物、ギャンブルをやめられない
□声に出して祈れない
□家で聖書を開いたことがない
□救いのあかしをしたり、伝道したことが一度もない
□人を支配したがる、おせっかいが過ぎる
□極端に否定的な言動をする
□気の向いた時だけ日曜礼拝に参加する
□オカルトや占いをやっている
□不倫したり、いかがわしい場所に通っている
□職場で、嘘、盗み、詐欺をしても平気

自分が肉に属するクリスチャンだと分かったなら、聖霊の助けによって、日々変わることを心がけましょう。「成長させてくださる神」(3:8)がおられます。

揺るがない土台、変わり続ける生活。これがクリスチャンです。


3、心に留めたいみことば

1)十字架の言葉

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1:18)

人間の知恵や哲学を信仰の土台としないように、パウロは細心の注意を払ってコリントで伝道しました。信仰の土台は、十字架のことばです。主イエスの十字架の死と復活の事実こそが人を救います。


2)神の栄光

 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(10:31)

 信仰と仕事を分離せず、生活のあらゆる分野で主の栄光を現しましょう。私たちの体は、聖霊の宮であり、自分のものではなく主のものだからです。(6:19~20)
 食べるとか飲むとか小さな事ににこそ神の栄光をあらわしましょう。判断に悩んだ時は、イエスさまならどうするか、と考えましょう。

3)寛容と親切

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(13:4~7)

 知識と賜物を鼻にかけ派閥を作って他者を見下していたコリントの人達に、パウロは寛容と親切を教えました。
寛容とは、他者が自分と違うことを認め、尊敬し、喜ぶことです。親切とは、積極的に自分から助け、与えることです。

林竹治郎は18歳の時に信仰を持ち、美術学校を卒業して、札幌の学校で教師になりました。彼の家の家庭礼拝の様子を描いた「朝の祈り」(1904年)にという絵は有名です。ちゃぶ台の周囲に、母親と子供たちがいて、祈っています。お母さんのひざに顔をうずめて祈る幼い男の子は、後にハンセン氏病者の施設を開く林文雄医師です。この家庭礼拝は50年間続けられたといいます。信仰と家庭も切り離してはいけないのです。

日曜礼拝、朝の聖書や祈り、スモールグループ、賜物を生かした奉仕などは、クリスチャンが成長するためにはとても大切です。

揺るがない真理である主イエスを土台としましょう。その上に建物を建てていきましょう。主イエスは変わりません。私たちは日々に変えられましょう。聖霊の宮である私たちの体を用いて神の栄光を現し、身近な人に寛容で親切で愛を届けましょう。

 →あなたの番です
  □肉に属する人をやめる 
  □日々生き方を変え、神の栄光を現す
  □寛容になり、親切にする

ローマ人への手紙


 パウロが第3回伝道旅行で訪れたコリントにおいて、紀元57年頃、ローマに住むクリスチャンに宛てて書いた手紙がローマ人への手紙です。パウロの主著と呼べる論文で、キーワードは「義」です。

パウロは、ローマ人への手紙1~11章の部分で、十字架の意味を解説し、救いとは何かを明らかにしました。パウロは、主イエスの十字架という歴史的出来事の意味を解説できる神学者であり、教師なのです。
12~16章で、クリスチャンはどう生きたらよいのかを具体的に語りました。つまり、パウロはコーチ、メンターなのです。
さらにパウロは伝道者です。ローマを訪れた後にイスパニヤ(現在のスペイン)で伝道したいという願いを15:28に明記しています。
パウロは、神学者、メンター、伝道者として主に召されたのです。


1、罪
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ人への手紙1:20~21)

驚くことに、99%までロボット化された自動車工場があります。その一連の工程を見て、「偶然とはすごいもんだ」と感心する人はいません。誰かが工作ロボットを作り、誰かがプログラムしたことは一目瞭然です。
次に、私たちの体の中で起きているたんぱく質合成を考えて下さい。DNAは細胞の核内に厳重に保管され、たんぱく質合成の必要があるときはRNAにコピーされ、厳重に編集された上で核外に出てきます。リボゾームはそのRNAを取り込んで、暗号を解読し、20種のアミノ酸からふさわしいアミノ酸を選び出して細長いひもにします。それらは計画通り折りたたまれ、うまくできなかったものはシュレダー機能で処分されます。このようなたんぱく質は10万種類あります。これは偶然でしょうか。
すなわち神が作られた世界つまり被造物を見るなら神がおられる事が分かります。

義人はいない。ひとりもいない。(3:10)

 まことの神を心では知っているのに、神を無視して生きるなら、私たちは罪を犯すようになります。(1:28~32)神の前に正しい(=義)と認められる人は誰もいません。

 レストランでアルバイトしたある青年は、大きな味噌汁鍋にゴキブリが1匹入っているのを見て店長に伝えました。店長は、「ゴキブリを取り出せ」と命じましたが、味噌汁全部を捨てろとは言いませんでした。

 完全にきよい神の前では、私たちは汚れた罪人です。良い行いをして罪を相殺したいと思っても、行いによっては誰も神に正しいと認めてもらえません。最高の出汁を使って丹精込めて味噌汁を作ることが「行い」です。たった一つの「盗み」(=ゴキブリ)があれば誰も味噌汁を飲めないのです。
 私たちの人生もゴキブリの入った味噌汁のようなもので、本来は捨てられるべき存在です。神の前に正しいと認められる人、つまり義人は一人もいないのです。

 
2、義
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(5:6~9)

 主イエスは罪人の私たちをそのまま愛してくれました。そして、私たちの罪を身代わりに背負って、私たちが受けるべき罰を受けて十字架で死んで下さいました。私たちの罪の処分が終わったので、神の法廷において私たちは義と認められたのです。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(6:4~8)

 私たちはキリスト共に死んだのです。だから、罪から解放されたのです。私たちはキリストと共によみがえったのです。だから、キリストと共に生きる命が始まったのです。私たちの罪は、たった一度の主イエスの十字架で完全に解決されました。
 
 私は高校生の時にクリスチャンになりましたが、大学生クリスチャンのリーダー達が毎週のように私たち高校生の信仰状態を確認してくれました。「今日、死んでも天国行ける?」「救われているのは、君の気分が土台なの?」
 パウロが1~11章で書かれてある内容はそれと良く似ています。今日の気分がどうであれ、どんなトラブルにみまわれようとそれは問題ではありません。主イエスの十字架が私たちの救いの土台なのです。

 それでは、私たちはどうしたら神の救い、神の義を得られるのでしょう。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(10:9~10)

救われるためには、義と認められるために、どんなに努力しても、まじめに生きても、旧約聖書の律法を守ろうとしても、人間は行いによって神の前で義とされることはできません。いくら泳ぎの上手い人でも、アメリカから日本まで泳いで行けないのと同じです。ただ主イエスを信じる、その一点で義と認められ、救われるのです。


3、聖

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(8:28~30)

 イエスキリストを信じた者の特徴は「聖」です。信じる者のうちに住む聖なる霊=聖霊によって導かれるようになり、キリストに似た者に変えられます。神学では、このプロセスを聖化といいます。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(12:1~2)

イエスを信じた者は、自分自身を主にささげるように招かれています。聖いささげものとして自分をささげましょう。神のみこころを良く理解して、自分を変えていきましょう。

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(12:10~19)

罪人の時は、嘘も悪い事も汚れも自分の欲望を遂げるためなら平気で行ってきました。義とされ人は、主イエスが愛したように、身近な人を愛すようになります。

主よ、あなたの愛に感謝します。私を義と認めて下さり感謝します。聖霊により、私をイエスさまのような姿に作り変えてください。私は、自分をあなたにささげます。あなたの栄光のために、神の国建設のために、私を用いて下さい。
 →あなたの番で
□罪:私は罪人です
□義:主イエスの十字架により義とされました
□聖:自分を主にささげ、聖く歩み、隣人を愛します

使徒の働き


使徒の働きのアウトラインを確認しましょう。
 1~12章がエルサレム教会の誕生と迫害。(ペテロの宣教)
 13~20章が、アンテオケ教会主導の伝道旅行。(パウロの宣教)
 21~28章は、パウロの逮捕と裁判。


1、使徒の働きとは

使徒の働きは、どのように教会が誕生し成長し世界に広がったかという約30年間の歴史で、「ルカの福音書」を書いたルカが著者です。

時間の流れが分かるように簡略化してみましょう。主イエスの十字架が、仮に、AD33年4月頃としましょう。すると、同年5月末のペンテコステに教会が誕生したことになります。1~2年の間に、エルサレムで信者が爆発的に増え、ステパノの殉教をきっかけに厳しい迫害が起こり、信者は周囲に散らされてサマリヤで伝道し、さらに北部のアンテオケまでに達して外国人の教会が生まれました。
十字架から2年後の35年頃には、迫害の急先鋒だったパウロがダマスコ途上で復活の主に出会い劇的に回心します。アンテオケ教会は47年頃から、パウロたちを伝道旅行に遣わし、それが3次にわたって行われ、トルコとギリシアに福音が伝わり教会が生まれました。その後、パウロは無実の罪で捕らえられ、60年頃にローマに移送されました。これが、歴史の流れを俯瞰するための大きな流れです。

使徒たちは教会を作るつもりはありませんでした。また、周囲の国々や海外に宣教するつもりもありませんでした。聖霊が、イニシアティブを取って、すべてが行われたのです。ですから、1:8の聖句が使徒の働きの中心聖句なのです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(1:8)



2、聖霊は力を与える

主イエスは、地上におられた時、聖霊を送ると弟子たちに約束されました。(使徒1:4~5)聖霊は目に見えない神の霊です。主イエスを信じる者の心に住んで下さり、主イエスの言葉を思い起こさせ、人々の心を慰め、力を与えてくださいます。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:1~4)

主イエスの十字架から50日目の祭りの日に、聖霊が激しく十二弟子に下り、他国の言葉で主イエスの福音を語り出しました。迫害を恐れていた弟子たちですが、大胆に主イエスの十字架と復活を人々に伝え、その日だけで3000人が洗礼を受けました。(2:41)
聖霊は、福音を語る力と勇気をあなたにも与えて下さいます。

ペテロや使徒たちは、主イエスと同じような奇跡を行いました。多数の病人が主イエスの御名によっていやされました。美しの門の足なえのいやしは、大ニュースになり(3:1~10)、当局者はペテロとヨハネを捕らえ尋問しましたが、「ペテロは聖霊に満たされて」(4:8)語り、律法学者や議員たちは反論できなくなりました。
聖霊は、知恵、判断、語る言葉の分野でも、あなたに力を与えてくれます。

 当局者に脅されても、エルサレムのクリスチャンたちは恐れず、聖霊に満たされ、今まで以上に大胆に主イエスの福音を語りました。(4:29~31)

 今、あなたに、恐れがありますか。心配事がありますか。あなたの内に住まれる聖霊は、あなたが本来持っていない力をあなたに付与します。誰かを助ける力をくれます。勇気を与えてくれます。知恵と言葉をくださいます。推進力を下さいます。あなたが臆病か大胆かは関係ありません、聖霊に従う人に力が与えられるのです。



3、聖霊が導く

 聖霊は、道を教えてくださる方です。
使徒の働きには、聖霊の具体的な導きがたくさん書いてあります。

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。(8:29)

聖霊に従って走り出した人はピリポだけです。馬車の中でエチオピア人の高官がイザヤ書を読んでいて、救い主を求めていたことが分かり、ピリポは福音を伝えました。

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。(13:2~3)

外国人クリスチャンで構成されたアンテオケ教会は成長しました。教会が巨大化するだけでいいのだろうかと考えるようになり、教会は神の導きを求めて断食して祈りました。聖霊は、パウロとバルナバを宣教師として送り出すようにと示されました。それで、第1回伝道旅行が始まったのです。迫害によって偶発的に散らされた伝道ではなく、ビジョンを持った初の世界宣教となりました。

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(16:6~10)

 パウロはトルコの伝道旅行中に困ってしまいました。南にも、北にも進めず、西は海でした。聖霊が両方向の道を閉ざしたと分かり、トロアスの町に滞在しました。そんな時パウロは夢を見ました。向こう岸のギリシアのマケドニヤ人が助けを求める幻でした。それで海を渡ったのです。良い計画が閉ざされる時は、さらに良い計画があるのです。

あなたは、道を求めていますか。それなら、聖霊に耳を傾け、聖書を読み、祈りましょう。自分の考えに固執しないことです。手を開きましょう。柔らかい心を持って、主の導きに従いましょう。

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。(1:8)

 →あなたの番です
  □聖霊は、力を与えてくれる
  □手を開き、聖霊の導きに従おう

ヨハネの福音書


 「ヨハネの福音書」は他の福音書の後に書かれ、ずいぶん違う内容です。その違いこそ、ヨハネが言いたい点なのです。

1、イエスは、神

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1:1~3)

 イエスは世界を創造された神だ、とヨハネは大胆に述べました。「ことば」の部分に「イエス」を入れ替えて読めば、ヨハネの真意が分かります。

2~11章で、ヨハネは7つの奇跡を取り上げました。(そのうち5つはヨハネだけに書いてあります)神でなければ実現不可能な奇跡ばかりです。これらの奇跡を実際に目撃者したヨハネは、イエスは神であると結論づけたのです。

①(2章)水をぶどう酒に変える
②(4章)遠隔地の子どもをいやす
③(5章)38年間病気だった人をいやす
④(6章)わずかなパンと魚で5000人に食べさせる
⑤(7章)ガリラヤ湖の水の上を歩く
⑥(9章)生まれつきの盲人の目を開ける
⑦(11章)死んで葬られたラザロを生き返らす。
 
  主イエスは、ご自分が神であることを何度も証言しておられます。

 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(8:58)
 わたしと父とは一つです。(10:30)
 わたしを見た者は、父を見たのです。(14:9)
 世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(17:5)

主イエスは、まことの神です。だから、信じるに値します。
 

2、イエスは、いのち

 20章31節を読むと、<主イエスを信じて、いのちを得てもらう>ために福音書を書いたと分かります。「いのち」こそ、ヨハネの福音書のキーワードです。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)

 主イエスと無関係に歩いていた時、私たちは死んでいます。嘘をつき、悪いことを行い、人の人格を踏みつぶし、人を裏切っても、罪意識を感じないなら、死んでいます。大人なのに、自分のことしか考えられないなら、死んでいます。いのちがありません。

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:1~3)

 主イエスは律法学者ニコデモと対話し、あなたには「いのち」がない、神によって新しく生まれる必要があると教えました。ニコデモは、そのいのちを得ました。

 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(4:14)

 サマリヤの女は5回結婚に失敗し、いのちが枯渇していました。わたしを信じるなら、心の内側からいのちがあふれ出ると4章で主イエスは約束され、その通りになりました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)
 
 他の3つの福音書は、主イエスが私たちの罪を赦す方であり、過去の問題は解消したと教えてくれます。ヨハネの着眼点は、現在と未来にあります。主イエスは神なので、今、あなたにいのちを与えてくれます。将来に向かっては、あなたに永遠のいのちを約束して下さいました。

 主イエスを信じたあなたに、新しいいのちが始まりました。


3、イエスに、とどまれ

 イエスを信じていのちをもらった人は、どう生きたらよいのでしょう。12~17章にその解答があります。この箇所は、他の福音書にありません。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)

 自分と同じように隣人を愛せ、と他の福音書に書いてありますが、ヨハネの福音書では、「わたしがあなたを愛したように」、「互いに愛し合いなさい」と言われています。

 たとえば、最後の晩餐の席で主イエスは跪き手ぬぐいで十二弟子の足を洗いました。(13:1~15)トマスは復活を信じられずに暴言をはきましたが、主イエスはトマスに現れ優しく接してくれました。ペテロは3度主イエスを裏切りましたが、主イエスは3度「わたしを愛しますか」(21:15)と語りかけ、ペテロに再出発のきっかけを与えました。主イエスは各人にスペシャルな方法で愛を伝えました。あなたも思い出して下さい。主イエスに愛されたように、身近な人を愛しましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(15:4~5)

 人を愛すことは簡単な事ではありません。主イエスにとどまり続けるなら、それは可能です。イエスさまはぶどうの木で、いのちの源です。主イエスという幹につながっていれば実を結ぶことができます。

 1955年夏の北海道で、三十一歳の三浦光世さんは、結核で寝たきりの綾子さんを初めて見舞いました。何回目かの訪問の時、どうぞ綾子さんを治してください、そのためなら私の命を差し上げますと彼女の前で声に出して祈ったそうです。4年後、二人は結婚し、奥さんの体調も良くなり、綾子さんは小説『氷点』を書き、小説家になりました。
 ご主人の光世は、綾子さんを愛する愛の源泉を常に主イエスに求めていたそうです。


「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(15:4)
 
 →あなたの番です
  □イエスは、神です
  □イエスは、いのちです 
  □イエスに、とどまりましょう
 

ルカの福音書


 主イエスの優しさが溢れている。それが、ルカの福音書の特徴です。

1、ルカの福音書の特徴

私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(ルカ1:1~3)

 異邦人の医者ルカ(コロサイ4:14)は、テオピロのために主イエスの生涯をまとめました。テオピロはローマ人で、学識があり、高い地位と豊富な財産のある人物のようです。そのために、正確な年代確認(2:1~2、3:1)、目撃者への取材(1~2章の母マリヤの思い出など)が行われ、ギリシャ語文体も洗練されていました。

ルカは、パウロの伝道旅行に同行し(使徒16:11)、獄中のパウロを最後までサポートしました(第2テモテ4:11)。後の教会指導者イレナエウスによると、ルカはパウロの宣べ伝えた福音を一巻の書に記したと述べています。
           
 ルカが新たに福音書を書いた目的は、イエスの生涯の記録をテオピロに献呈するためであり、主イエスの優しさを知ってもらうためでした。
 良きサマリヤ人のたとえ(10章)、放蕩息子のたとえ(15章)、律法学者と取税人の祈りのたとえ(18章)は、いずれもルカ独自のたとえ話で、差別された人々や罪人への温かい視線が感じられます。

 主イエスは、裏切る前のペテロに、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われました。これはルカ独自の記事です。裏切った直後に「主が振り向いてペテロを見つめられた」(22:61)と書いてあるのもルカの福音書だけです。


2、ナインの女

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。(ルカ7:11~15)

このナインの未亡人についての記述もルカの福音書だけにあります。
夫に先立たれた女性のそばにいたのは、成長した一人息子だけでした。でも、その子が死にました。主イエスは、「かわいそうに」思い、「泣かなくてもよい」(7:13)と言われました。この「かわいそう」という言葉は、良きサマリヤ人が倒れた旅人を見つけた時の感情と同じで、放蕩息子を迎えた父親の気持ちでもありました。(10:33、15:20)主イエスは、棺おけに手をかけて行列を止め、息子を生き返らせました。

主イエスは、社会的な弱者であるこの女性の悲しみに寄り添ってくれました。

今日、あなたは悲しんでいますか。主イエスは、あなたの横におられます。


3、ザアカイ

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:1~10)

 取税人制度はローマ帝国全土にありましたので、ローマ人のテオピロにとっては興味深い話でした。他人の苦しみなど意に返さない悪人、金の亡者の取税人の心は誰も変えられません。ところが、ザアカイは、主イエスを家に迎え入れた後、破産覚悟で罪の償いとチャリティーを行いました。

 ザアカイを変えたのは、主イエスの愛です。主イエスはまるで旧友のようにザアカイに接し、「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」(19:5)と言って泊まりに行きました。ザアカイは、大喜びです。病気が治ったわけではないのに、大喜びしたのは福音書でザアカイだけかもしれません。真の友、主イエスを得た喜びが、罪の悔い改めの原動力になりました。

 主イエスはあなたの友達です。主イエスと一緒なら、人生のやり直しが可能です。


4、十字架上の犯罪人

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:39~43)

主イエスが3本の十字架の真ん中につけられたと4つの福音書は語ります。その一人の犯罪人が回心したのは、ルカだけの記述です。
極悪人しか十字架刑にはなりません。二人の犯罪人たちは、手に打ち込まれた釘の苦しさから、「イエスといっしょに十字架につけらた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44)と書いてあります。朝の9時から正午までの間に、男の心に何かの変化があったのです。

主イエスは、ご自分を十字架につける人達のために祈りました。それを聞いて、男の心が変化したのかもしれません。男は、自分の罪の醜さをはっきりと認識しましたが、今日死んだら天国に入れて下さいとは主イエスにお願いしませんでした。「私を思い出してください」(3:42)とだけ言いました。主イエスは、その男の心を知り、大丈夫、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言ってくれました。

人生の最後の瞬間に罪を悔い改め主イエスを信じた男であっても、主イエスは彼の罪をゆるし、受け入れてくれました。主イエスの愛が届かない場所は地上にありません。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

→あなたの番です
 □あなたは、悲しむ者、嫌われ者、犯罪者かもしれません □主イエスは、その誰をも愛し、ゆるし、希望を与えてくれます
 □あなたも、主イエスに似た者になれます



マルコの福音書


 マルコの福音書は、簡潔です。
主イエスの福音にピタリと焦点を合わせているからです。
福音は、伝えられ、いのちを与え、人を作り変えます。

 マルコの福音書は、早ければ紀元50年代後半に完成したと学者たちは言います。マタイとルカは「マルコの福音書」を参考にして福音書を書きました。それはつまり、福音書の基本アウトラインはマルコによって方向付けられたと言えるのです。


1、主イエスは、福音を伝えるために来られた

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)

 1章1節は、マルコの福音書の表題です。主イエスがこの世に来られた目的は、福音を知らせるためでした。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(1:38)

福音とは、本来、良いニュースという意味です。主イエスが宣教の初期に語られた福音は、律法による救いや行いによる救いではなく、罪を悔い改めて主イエスを信じるだけで救われるという福音でした。信じるだけで救われるのですから、これはまさに福音でした。(主イエスの宣教活動の初期、主イエスは十字架の死を予告しておられませんでした)

主イエスが福音を語り始めた時期、人々はびっくりしました。主イエスの教えの素晴らしさに驚嘆し、主イエスの奇跡に驚きました。
マルコは、何百という奇跡の中から特に意義深い事例を取り上げて、おもに1~8章に記しました。主イエスは、人々の信仰を引き出す言葉をかけられました。

 寝たきりの中風の男に、「起きなさい」(2:11)
 片手のなえた人には、「手を伸ばしなさい」(3:5)
 長血の女に、「あなたの信仰があなたを直したのです」(5:34)
 ヤイロには、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:36)
 バルテマイに、「何をしてほしいのか」(10:51)

人々は、未熟で素朴に主イエスを信頼しました。すると、奇跡、救い、罪の赦しを体験しました。驚くべき奇跡は、主イエスが救い主であることの証明です。

 主イエスは福音を伝えるために来られました。あなたも伝えましょう。
 福音は信じるためにあります。まだ信じていないなら、主イエスを信頼しましょう。



2、主イエスは、命を与えるために来られた

 十字架は偶然の悲劇ではありません。「あなたは、キリストです」(8:29)とペテロが信仰告白をした後、主イエスが十字架の死と復活を3度予告されたことからもそれが分かります。(8:31、9:31、10:33~34)

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(10:45)

 これは大切な言葉です。主イエスが何のためにこの世に来られたのかがはっきり分かります。主イエスは十字架で私たちの罪を身代わりに背負い、贖いの代価としてご自分の命を私たちに与えるために来られました。

 主イエスは最も大切ないのちを私たちに与えてくれました。
 今週、誰かが困っている時、その人にいのちを与えるようなヘルプをしましょう。



3、主イエスは、人を作り変えるために来られた

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14:51~52)

この箇所はマルコの福音書にしかありません。前後を読んでも、彼が誰かは分かりません。他の福音書記者は、このみっともない男性について書くのを遠慮しました。おそらく、マルコ自身なのでしょう。深夜、主イエスが捕らわれたという情報を知らされマルコは、寝ぼけ眼で暗い町に飛び出しました。身の危険を感じると、逃げ出しましたが、布がじゃまだったので裸で逃げたのです。
今は、ペテロの通訳をしたり、福音書を書いたりして人々からは「先生」と呼ばれるような立場にたっていても、私は罪人であり、主を見捨てた弱虫だとマルコは告白しているのです。主イエスは、そんなマルコを愛してくださった。罪人、失敗者、臆病者のマルコを主イエスは作り変えて下さったと言いたかったのです。主イエスの十字架と復活が私を変えたとマルコは世界に伝えました。

本来のマルコの福音書は16章8節で突然終わっています。あなたがマルコのように主イエスによって変えられ、証し人となって福音を語ることにより、マルコの福音書は完結します。

「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」(13:10)
「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら」(14:9)


 →あなたの番です
  □福音は伝えられるもの → 信じよう
  □福音はいのちを与えもの → 誰かを助けよう
  □福音は人を作り変える → あきらめない