マタイ6:19~24 天に宝を積む

 神の国を建設する人に必要な3つの心構えを主イエスが語られました。
 価値観、視点、優先順位です。


1、宝は天に

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19~21)

高価な洋服は虫に食われて台無しになります。輝く貴金属も、やがてはさびたり、盗まれたりします。地上に蓄えた宝は、そのような運命をたどるのです。
私たちの心は宝のある所に引き寄せられるので、地上の宝だけを追求すると、私たちの生き方も朽ちる宝と同じような姿になります。金さえ持っていれば偉い人と考え、一時的で、刹那的で、自己中心的な人になります。

価値観を総入れ替えしましょう。お金がすべてではない。宝は天に積むためにある。

「受けるより与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

お金を下さる神に感謝しましょう。宝は神にお預けしましょう。そうすると、私たちは人に与えたり、分けたりすることに喜びを見出します。お金や財産に関する考え方を一新すると、真の意味で自由になれます。

「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(20節)

今週、何をして天に宝を積みますか。


2、健全な目

からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:22~23)

目とはものの見方です。あなたの雰囲気を作るコアな部分が、視点、感じ方です。

フーテンの寅さんは気ままな人生を送って、庶民のあこがれになっています。旅先の寅さんは親切ですが、実家に戻ると人が変わります。おいちゃんやおばさんに正論を説教されると、「それを言っちゃあおしめーだよ」と決め台詞を言って怒りあばれ出て行きます。つまり、自分の不幸の原因は自分以外の人から来ると思い込んでいます。
あなたも私もそういう傾向があります。ものの見方がきちんとできているなら、他者の影響を排除できます。自分の不幸を環境のせいにしません。

温かい心、という眼差しを持っているなら、あなたの全身が明るくなります。嘘のない正しい生き方、という眼差しを持っているなら、あなたの仕事は信頼されます。希望を持って前向きに生きる、という眼差しを持っているなら、周囲の人は励まされます。

 あなたは目はどんなフィルターですか。

「目が健全なら、あなたの全身が明るい」(22節)


3、二人の主人?

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)

エンジェルスの試合を日本人なら無料になりますという知らせを聞いたらすぐに飛びつきますね。試合開始は礼拝開始と同じ日の同じ時刻だと分かったらどうします。
二つの事柄を、最初から天秤にかけて迷う人がいます。天秤にかけること自体がすでに問題なのです。

神中心の優先順位ができているなら、天秤にかけずに判断できます。あなたはいつも、物事を相対化して天秤にかけていませんか。神中心の絶対的尺度を持っていれば、決断に悩むことはないのです。お金がもうかるなら嘘をつこうとか、出世できるなら不正を働こうとか、勝てるなら反則もしようとか、考えないで済むのです。

UCLAバスケットをコーチしたジョン・ウッデン監督は、20世紀最大のスポーツコーチと呼ばれています。ウッデン監督は敬虔なクリスチャンで、聖書を読むことを人にも勧た人でした。全米大学選手権で優勝を何度も飾り、公式試合88連勝という輝かしい記録も持っています。勝利することが最終目標ではなく、学生の意識を変え、生き方を変えることを目指しました。親や友達を大切にし、練習や試合で汚い言葉を使ってはならないと教え、もちろん反則は許しません、これらに違反すれば即退場させました。彼の作った人格形成の15項目は今も学校などで用いられています。
以下のようなウッデン監督の言葉は良く知られています。
「生まれつきの才能は神から来たのだから謙虚に、称賛は人から来るので感謝する、うぬぼれは自分から出るものだから気をつけよ」
「成功とは、お金や業績ではなく、ベストを尽くした時に得られる心の満足のこと」

「ふたりの主人に仕えることはできません。」(24節)


 宝は天に。ものを見る目を健全に。一人の主人を第一にする。
 この3つの価値観をしっかり身につけていれば、環境に左右されない人生を切り拓き、豊かで平静な人生を送ることができます。そういう人が、神の国建設を行えるのです。

 →あなたの番です
  □宝を天にたくわえる
  □きよくて温かい眼差しで周囲を見る
  □プライオリティーを神に置く

マタイ6:13  試みに会わせないで

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(マタイ6:13)

 「主の祈り」の括弧に囲まれた部分は原文にはありません。つまり、主イエスさまが教えてくれた「主の祈り」には無かったので触れません。ずっと後の時代になって、礼拝式の中の主の祈りに頌栄としてこの部分が追加されたようです。この追加文は、ダビデの祈り(第一歴代誌29:11)が元になったと言われています。


1、試みに会わせないで

「試みに会わせないで」(マタイ6:13)

 私は高校に入学して運動部に入りましたが、毎日が試練になりました。練習が厳しく、筋肉痛になり、駅の階段の上り下りすら困難で、夜は机に向かうとすぐに眠り込んでしまいました。1ヶ月過ぎると、鍛錬によって筋力が付き、持久力も出てきました。

新しい職場、新しい場所、新しい人々との出会いは試練となります。自分の能力を超えた仕事や出来事も試練になります。基本的に聖書は、試練を良いものと捉えています。試練によって私たちが鍛えられ、思いやりのある人になり、信仰飛躍の機会になるからです。

ただし、命を失うとか破壊的な結果を及ぼす大きな試練は有害です。それで、私たちは父なる神に願うのです。あまりにもひどい試練に会わせないで下さい。つぶされないように、守ってくださいと祈るのです。

そもそも、私たちはみな、赤ちゃん時代、幼児や小学生の頃、両親に守られてきました。「私も自転車に乗れるんだ」と誇らしげに運転していても、後ろで親が倒れないように支えています。
神も私たちを守ってくれています。残酷な試練に出会わないように神がプロテクトしてくれたのです。今までの主の守りを感謝しましょう。これからの人生も主の守りあります。父なる神に信頼し、試練に会わないように祈りましょう。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)

私たちが出会う試練は、必ず乗り越えられるのです。
  

2、悪から救ってください

「悪からお救いください。」(マタイ6:13)

私たちは、悪に直面することがあります。邪悪な人が、職場や学校や周囲に現れ、あなたを苦しめることがあります。いじめ、セクハラ、パワハラで苦しめられることがあります。身近な人が何らかの依存症になり、あなたが金銭的、精神的、身体的に損害を受けることもあります。

私たちが悪と直面するとき、自分の小ささ、弱さを実感します。私は、誠実に、愛をもって、精一杯生きているけれども限界ですと神に伝えましょう。私たちの父さんに、緊急電話をして、「父さん、助けて。この悪から救って下さい」と願いましょう。父なる神は助けてくれます。

ダニエル・デ・フォーが1719年に書いた小説『ロビンソン・クルーソー』は、難破して無人島で生き抜いた人の話です。いかにサバイブしたかという点に主眼は無く、荒くれ者が神を見出し変えられる姿こそ著者の言いたい点なのです。
ロビンソンが島で病気になり、初めて聖書を読む場面が書いてあります。その時読んだ箇所が詩篇50篇15節でした。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)
うまれて初めて膝をかがめて神に助けを求め、心に平安を得るようになり、朝に夕に聖書を読む人に変えられていきます。

私たちも祈りましょう。悪人の悪をとどめることができるのは神だけです。悪から助けてくださいと願いましょう。

   
3、とりなしの祈り

「私たちを」(マタイ6:13)

この部分も、主語は「私たち」です。あなたの周囲にも試練や悪と直面している人がいるはずです。その人たちが破壊的は試みに会わないよう、悪に苦しめられているあの人が救い出されるようにと祈りましょう。

 →あなたの番です
  □主にずっと守られ助けらて来たことを感謝!
  □父よ、これからも、守って、助けてください
  □あの人もこの人も、守り、助けて下さい

マタイ6:12  負い目を赦して

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」シリーズの第4回目です。人の悩みで一番深刻なテーマです。赦せない悩みです。

1、赦してない自分

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 主の祈りのこの部分を祈ると、私たちはみな、少々後ろめたい気持ちになります。自分の心にささくれがあるのに気づきます。「この祈りを素直に祈れないな。私に悪い事をした人を赦していない。むしろ憎んでる。嫌っている。赦さないぞと決めている。」

 主の祈りにこの部分が加えられた理由は、まさに、そこにあると私は思います。赦していない自分に気づきなさい、と主イエスは言っておられれのです。

 赦すといっても、相手の悪事に賛成したり喜ぶわけではありません。そんな事は求められていません。悪は悪です。

赦さない人は、不幸の種を自分で毎日まいているようなものです。赦さないぞと思い続けるなら、憎しみと悪意のペンキで周囲を上塗りするようなものです。起きてしまった事は変えられません。相手が謝罪に来るわけでもありません。ならば、クリスチャンには二つの選択肢しかありません。
今赦すか、死ぬ直前に赦すか、です。

 官軍が庄内藩に勝利した後の西郷隆盛の采配は驚きです。1868年、庄内藩は降伏後、白装束で切腹を覚悟して表れました。西郷の判断は、死ぬ必要はない、でした。「敵となり味方になるのは運命である。一旦、降伏した以上、兄弟と心得よ。」と言って、官軍には丸腰になるよう命じ、庄内藩には帯刀を許したというのです。
 西郷隆盛は後半生に聖書を読む人になり、「敬天愛人」をモットーに掲げました。主イエスの愛と赦しを知り、実践したのかもしれません。

 あなたは、どうでしょう。赦していない人がいますか。主の前で静かな心になり、私もあの人を赦しますと、本音で言ってみましょう。そう言える日が来ますように。


2、赦された私

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 負い目という言葉は、罪を意味しますが、借金や損害と考えると分かりやすいです。たとえ話をします。50万円の高級ブランドのバッグを買ったとします。とてもやわらかい皮で傷が付きやすいものです。バッグをテーブルに乗せ、洋服を着替えて出かけようとしていると、やんちゃな二人の息子が棒を持ってちゃんばらを始め、エイと切りつけたら、バッグが一文字に切れてしまいました。さて、あなたが母親なら息子を赦せますか。

 母親はものすごい剣幕で息子をしかり飛ばすでしょうが、赦すしかないのです。赦す理由は3つ。①息子は弁償するお金を持っていない、②自分の息子だから、③息子を愛しているから、です。

 私たちの赦しは、表面的は赦し、一時的な赦し、条件付きの赦しです。母の赦しは神の赦しに似ているところがあります。私たち人間には、自分の罪の弁償ができません。(死をもってわびるしかない)神は私たちをご自分の子として見てくださいます。そして、深い愛で私たちを愛していて下さいます。
神の赦しを体験した人は、身近な誰かを赦せるようになります。

 ある青年に赦せない人がいて、赦せない葛藤でつぶされそうになりました。牧師に相談したところ、主イエスはどう思っているのかな、と質問されたそうです。「赦せ」と言っていますと答えると、違うと牧師は言って、もっと深く考えなさいと促しました。しばらく考えた末に青年ははっとしました。赦せないでいる僕を見て、主イエスは僕に愛しているよ、と言ってくれています。牧師は、そうなんだよと答えました。主イエスの愛は、そのままを愛してくれる無条件の愛で、どんな罪も赦してくれる無条件の赦しなのです。

 →あなたの番です
  □赦せない人を、赦しましょう
  □赦せないあなたも、主イエスは愛しています
□あなたは主イエスに赦されています

マタイ6:11 日ごとの糧

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

主の祈りで初めての願い事は、食事を与えて下さいという祈りです。この部分には、どんな意味が込められているのでしょう。


1、神の助けで生かされている

 「日ごとの糧をきょうもお与えください。」(11節)

これは神の助けによって、私たちは生かされている、その事を自覚するための祈りです。

俺がお前たちを食わせてやっているんだ、と偉そうに言うお父さんたちがいます。一生懸命働いているのは分かりますが、働ける環境や健康が整って頑張れるのです。

夫や妻が働いていた会社が突然倒産した人もいるでしょう。リストラで、解雇された人もいるでしょう。病気や交通事故で、仕事を止めた人、学校を止めた人もいるでしょう。ストレスの蓄積で、うつ病になり、動けなくなる人もいます。地震などの自然災害や火事で家族を失い、家財を失った人もいます。家族の介護が必要になり、生活の仕方を変えた人がいます。
私たちが生きているのは当たり前ではないのです。神に生かされているのです。だから、謙虚になりましょう。神に信頼し、食べ物を与え、私を生かして下さいと祈りましょう。

「日ごとの糧」と言っているのはなぜでしょう。今日生きていくために必要なのは、わずかな食料です。30年分のコメをくださいとは祈る必要がないのです。私たちが生きていくために必要なものは、わずかな量です。

クリスチャンが食事の前に祈るのは、日ごとの糧を与えて下さいという主の祈りがかなえられた感謝です。
 
 昔は畑で種をまいて日ごとの糧を得ました。現代は、日ごとの糧をお金で買います。だから、今日生きていくためのお金を下さいという祈りにも主の祈りに含まれています。
沖縄の人は、「なんくるないさ」と良くいいます。なんとかなるさという言葉ですね。クリスチャンも信仰によって「主がおられるので、なんくるないさ」と言ってみましょう。
 主は、あなたの日常生活の一番大事なものを備えてくれます。



2、私たち
 「私たちの日ごとの糧」(11節)

 主の祈りの主語は誰ですか。私ではなく、私たちなのです。
 
 私だけ食べさせて下さい、という祈りではありません。私の家族の糧を与えて下さいという意味です。でもそれでは足りません。「私たち」を広げて考えると、周囲のみんな、敵、世界の人も食べられるように願うのです。

 私は無職になった時がありました。そんな時、70歳くらいのクリスチャン夫妻が私たちのことを心配して、ランチに誘って下さいました。お二人はお子さんの家の小さな部屋に住まわせてもらっていて、僅かな年金で暮らしていたのですが、日本食レストランで何でも食べなさいと勧めてくれました。私たち夫婦がそれぞれオーダーすると、お二人は「歳なので、あまり食べられないのです」と説明してから二人で一人前を注文されました。私も妻も、二人の温かい気持ちに感動して、涙がこぼれないようにするが精一杯でした。

 韓国の人は、食事時間以外でも「パモゴッソヨ?」と挨拶します。意味は、ご飯食べましたか?です。文化的歴史的な背景から出た挨拶なのだと思います。これをクリスチャン的に用いることもできます。日ごとの糧を得ることができましたか? 主の祝福や守りを頂きましたか? まだなら、ぜひご一緒に食べましょう、あなの祝福のため私にできることをさせて下さい。
 「私たち」という祈りの中に、他の人を招きいれてみましょう。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

 →あなたの番です
  □主よ、あなたが私を生かして下っています   □主よ、これからも私の生活を支えて下さい
  □私も、私たちにも、日々の糧を与えて下さい

マタイ6:10 御国を求めて

 主の祈りで、最初に願ったことは二つ。神の国の到来と神の願いの実現です。

1、御国を求める

御国が来ますように。(マタイ6:10)

 聖書の原文はシンプルです。10節は、あなたの国が来ますように、となっています。

 一週間に33時間しか仕事をせず、残業はなく、仕事の効率は日本人より高く、社員もパートも同一賃金で、子供たちは世界一幸せだと認定された国があります。オランダです。そんな国に行ってみたいと思うものです。国民を幸せにしたいと思ったリーダーたちが年月をかけて住みやすい国にしたのです。同じような考えを持つ指導者が日本やアメリカにもいれば、そういう国作りは可能です。

 御国が来ますように。神が、私のところに来て下さるなら、私は幸せになれます。神よ、私の心に来てください。私の会社に来てください。私の家庭に来て下さい。あなたの愛と真理によって私の心と生活を守り導いて下さいと祈ることができます。

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。(ルカ12:31~32)

 私たちは日常生活の様々な悩みの解決をまず祈りますが、神の国が来るならばそのすべては解消します。神の国を望むなら、私たちの必需品すべてを与えようと主イエスは約束されました。この言葉を信じますか。

何よりもまず、神の国が来ることを願いましょう。


2、みこころが行われるよう願う
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

10節後半の原文もシンプルです。あなたの願いが行われるように、です。

この部分から祈りの本質が分かります。祈りとは、神の願いに気づくための神との対話です。神が願っていることが分かり、私たちに実行可能なら、私たちはそれをします。つまり、神に代わって私たちが神の願いを実現することになります。神の願い、神の心、神の計画、神の意志を、心そ静めて聞きましょう。

この箇所から分かることがもう一つあります。主の祈りは、私たちが失望しないという意思表示になります。残酷で不平等で不条理な世界でも、主の祈りをする人は失望しません。神の国が来ることを求め、神の願いが地上で実現することを止めないからです。それは、暗闇に明かりをともすことになります。

あなたの番です。あなたの生活のどこに、神の国に来てほしいですか。神は、今、あなたに何を願っていますか。神の国を作るキングダムビルダーとなって、神の国を求め、神の願いを実行しましょう。

 貿易センタービルが炎に包まれました、あの911の日。ユナイテッド93便もハイジャックされました。クリスチャンのトッド・ビーマーは、妻子のある33歳、機内にいました。電話交換手と連絡が通じ貿易センタービルの惨事を知りました。ハイジャックされたこの飛行機もどこかに突入し誰かを殺害するのだと分かりました。
トッドは電話交換手に状況を話し、妻への伝言を頼んだ後、こう言いました。「神を信頼して、これから行動を起こします。」その後、電話交換手と共に祈りました。主の祈りを祈りました。あなたの国が来るように、あなたの願いが行われるように、と。
「準備はいいか、さあ行くぞ("Let's roll")」がトッドの最後の言葉になりました。この結果、ハイジャック機はテロ突入目標にたどりつけずピッツバーグの野原に墜落しました。最悪のコンディションの中でも、トッドは神の国を求め、希望を捨てませんでした。
 
あなたの心に、職場に、家庭に、教会に、地域にも神の国が来ることを祈りましょう。そして、神の願いが何なのかを神に聞き、理解しましょう。その上で、アクションを起こして下さい。神の国を作りましょう。

 →あなたの番です
  □私の心に、神の国が来ますように
  □神の願いを私が理解し、行えるように
□失望せずに祈りましょう



マタイ6:9  天の父よ

 「主の祈り」の冒頭部分の意味を考えてみましょう。

1、父よ

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
(マタイ6:9)

ユダヤ人は昔から、神の本来の名前を口に出すことすら遠慮してきました。ですから、主イエスが神を父と呼んだ事にとても驚きました。
父と呼びかけて祈るようにと言われた主イエスの意図はどこにあるのでしょう。神を完全者や、隔絶者、遠い方として考えず、もっと近く感じ、神が温かいお父さんであることを意識するようにという勧めです。

父さんと呼びかけて祈るなら、どんな気持ちが湧き出てきますか。一人、静かな時に、父さんと祈ってみて下さい。
あなたのお父さんは、アルコール依存や暴力を振るう人間や借金作って蒸発した最低の人間かもしれません。そういう時は、本来の良い部分が出た時の優しいお父さんを何千倍にもふくらませて、父よと神を呼んでください。

 主イエスは、いつも神を父と呼んで親しく語りかけておられました。主イエスが最も苦しまれたゲッセマネの祈りの時には、「アバ、父よ」(マルコ14:36)と呼びました。ご自分を十字架につけた人々の罪の赦しを求めた時も、「父よ」と呼びかけておられます。(ルカ23:34)

神に対して「父さん」と呼びかけて下さい。そうすると、あなたの祈りも、あなたの信仰も、変化します。



2、御名があがめられるように

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
(マタイ6:9)

 多くの人は、「神よ」と呼びかけたすぐ後に、買い物リストのような願い事を並べます。神よ、彼女が見つかりますように、勉強せずにエール大学に入れますように。あるいは、「神よ」と呼びかけたら、不平や怒りをぶつける人もいます。祈りの最初は、「御名があがめられますように」と、神をたたえる言葉で始めましょう。

 もしアナハイムに、大谷さんという日系人が住んでいて、病院や薬局で名前を呼ばれたら、きっと周囲の人は驚いて、「あなたはエンジェルズの大谷選手の親か親戚か?」と聞いてくるでしょう。そして、あなたが親戚でないと分かっても、大谷選手の活躍をたたえる言葉を聞くことでしょう。それが、名前がほめたたえられることです。

祈りの最初に、神を賛美しましょう。祈りの冒頭で、神をたたえましょう。礼拝や賛美のない祈りは、神を使用人や自動販売機のように取り扱ってしまうのです。神を祈りの最初にたたえると、祈りの内容が変化します。やってみればすぐに分かります。
父さん、父さんは本当に凄いよ、父さんは何でも知っているね、どんな時も愛してくれて、苦しい時も助けてくれる。みんなに、父さんのことを知ってもらいたい。

 御名があがめられるようにという祈りは、第一に、個人的な賛美であり、礼拝です。第二に、周囲の人々にも神を知ってもらいたいという願いです。
 世界のすべての人がまことの神を知ってくれたら、世界は良くなります。全世界で神の御名があがめられることを願う祈りです。これは世界宣教のための祈りです。

 あなたの周囲の誰に、まことの神を知ってもらいたいですか。あの人の口からも、神の御名をたたえる言葉が出ますように、と私たちも祈りましょう。

 私が若い時、結婚の許可をもらいに妻の実家に行き、彼女の父親に話しました。結婚後、私は家内の父を「おとうさん」と呼び始めました。「お父さん」と私が呼べば、義理の父は私のことを息子と認識します。
 同じことが、信仰の世界でも起きています。私たちが神を父さんと認識するなら、神も私たちを子供と認めて下さいます。

 私たちはキングダムビルダーです。自分の力や努力だけでは、神の国は作れません。キングダムビルダーは、祈りによって神の国を作ります。神を父と呼び、神がたたえられることを求める祈りによって、神の国が作られます。さあ、主の祈りを祈りましょう。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」

 →あなたの番です
  □神を、お父さんと呼ぼう
  □祈りの最初に、神があがめよう


死は勝利にのまれた 第1コリント15:50~58

 死。
 私たち現代人は、死を隠し、死を見ないように生きています。
 けれども聖書は、死を正直に、真正面から見つめています。聖書は言います、私たちの最後の敵である死は、主イエスの復活によって滅ぼされたと。
 

1、変えられる

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第1コリント15:50~53)

 パウロは、死について論理的に考証しました。「血肉のからだは神の国を相続できません。」神のきよさと完全さと永遠性が完全に支配する国に、私たちのような朽ちる者は存在できません。私たちが太陽に近づけば、瞬時に焼けこげるようなものです。

 「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
 だから、朽ちていく者である私たちが根本的に変えられる必要があります。死とは、滅びる者が天の国に入るための通路です。私たちは、死を通して、天の国のパスポートを持つ者に変えられます。

 確かに死は、呼吸困難や体の痛みを伴い、親しい人からの悲しい別れがあり、予想外のタイミングでやってきます。ちょうど、お母さんのおなかの中で安心している胎児が、出産後の生活を予想できず、出産時の痛みに苦しんでいるのに似ています。それは、朽ちない体に変わるためにどうしても必要なプロセスです。私たちは、変えられるのです。
 
 
2、死のとげはどこに

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第1コリント15:45~57)

 パウロはキリスト教が大嫌いで、クリスチャンを迫害し殺害してきました。ダマスコ途上で復活の主イエスに劇的に出会って回心、その後、旧約聖書を読み直して気づいたのです。旧約聖書は主イエスの十字架と復活を預言していたと。
 
死に対する勝利や死のとげが失われたという言葉はパウロのオリジナルではありません。54節の引用はイザヤ書25章、55節はホセア書13章からの引用です。

永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ書25:8~9)

主イエスこそが、すべての人々が待ち望んだ救い主であり、死を滅ぼす方だとイザヤが言っています。パウロは、そのことを確信しました。

 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。(ホセア13;14)

 とげを切り取られたサソリを想像して下さい。そのサソリがどんなに尻尾を持ち上げて威嚇して来ても、私たちは怖くありません。主イエスの復活により、死はもはや力を失いました。死は死でなくなったのです。主イエスの復活のゆえに、私たちは死に勝利したのです。

 朽ちない姿に変えられる望みを持ち、死に対する勝利を知っている者は、今日を生きる姿勢が変わります。すべては無駄ではない。労苦に意味がある。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(15:58)

 →あなたの番です
 □私たちは朽ちない者に変えられた □死のとげは取り去られた □労苦に意味がある、へこたれるな