マタイ2:1~12 行く、拝むクリスマス

Keep Christ in Christmas! こんなステッカーを付けた車が街を走っていました。そうです、クリスマスは、主イエスの誕生を祝う日です。買い物やパーティーに忙しく、肝心な主イエスを忘れてはいけませんね。
 
1、博士たちのクリスマス

 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:1~2)

 ここに登場する博士たちは、バビロニアの占星術師だと言われています。博士たちがいつものように星を観察していると特別な星が夜空に現れました。その星の輝き具合と位置から、ユダヤ人の国に王が生まれたと解釈しました。
 王の世継が生まれただけで博士たちが長い旅をすることはあり得ません。まして、拝むために行くというのは尋常ではありません。博士たちは、新しく生まれた王が、通常の王以上の方だと理解していたようです。

 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
(マタイ2:11)

 博士たちがささげた宝が、主イエスがどなたかを示唆しています。黄金は王の持つ貴金属です。キリストが王であることを示しています。乳香とは、かんらん科の植物の乳白色の樹脂のことで、香として焚くと素晴らしい香りがします。祭司が礼拝で用いた香なので、キリストが大祭司であると理解するむきと、礼拝すべき神であると解釈される場合もあります。没薬は、やはり、かんらん科の植物の樹脂のことで、香りと共に、強い殺菌力や鎮痛作用あるため薬としても用いられ、古来より死者の埋葬に使われました。主イエスの十字架の死を予告しています。博士は高価な宝を赤ちゃんの主イエスにささげました。


2、主イエスの誕生の意味を考える

 神である方が人になること、つまりクリスマスの出来事を、神学者たちは難しい用語でIncanation(インカーネーション=受肉)と呼びました。私たちの生活にも、このインカーネーションの思想の適用が必要かもしれません。

 ちょっとここで質問です。「復活の反対に当たる概念は何でしょう?」
復活の真逆の概念は、クリスマスです。
 
 復活では、朽ちる体が永遠の体に変わり、汚れた肉体が栄光の体に変わります。インカーネーションは、永遠なるお方が時間の制約に入られた瞬間を意味します。自由を持たれた方が、不自由の中に膝をかがめたのです。全能を有限に、強さを弱さに変えました。誰が、このようなプロセスを望むでしょうか。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

 赤ちゃん。この世で最も弱い存在。食べるにも、排泄も、親の助けなしにできない存在です。言葉を学び、生活習慣を教えられ、親の守りなくして一日たりとも生きていけません。主イエスは、あえてこの道を選ばれました。それは、私たちと同じ人間になり、私たちを救うためでした。大人の心を持ったまま、赤ちゃんに変身したと想像してみましょう。誰が耐えられるでしょう。主イエスは、そうされたのです。

 今日、インカーネーションを疑似体験ができる仕事があります。宣教師です。進んだ科学技術や文化や便利さを捨て、ジャングルの奥地に入って、何も言葉がしゃべれない愚か者の姿になって現地の人の言葉を学び、発音を失敗して笑われて生活します。それは、彼らの救いのためです。

 このクリスマス、インカーネーションの経験をほんの少しやってみませんか。あなたが、誰かのために、身を低くし、あなたの権限を捨て、耳を傾け、宝をささげ、その人が主イエスによって救われるためにであなたのできる事をするのです。

 子供と遊んであげるのも良いですね。配偶者のために時間を取り、耳を傾けることもいいでしょう。あなたの周囲で助けを必要とする方の役に立つことはどうでしょう。実際にあなたが短期宣教師になることだってできます。


3、行って、拝む

 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)

 今日の聖書箇所で繰り返されるのは、行くという言葉と、拝むという言葉です。

 これはクリスマスに際して、私たちが取るべき態度を明確に示しています。新約聖書では、主イエスの誕生を祝うパーティーやプレゼント交換の記事は一つもありません。羊飼いが赤ちゃんの主イエスを捜し当てるために「行った」こと、そして、帰りに道で神を賛美したことはルカの福音書に記録されています。また、今日の箇所では、博士が宝物をささげ、ひれ伏して拝んだことが書いてあります。

 ショッピングセンターの駐車場の端で敷物を広げ、ひれ伏して礼拝していたイスラム教徒を私は間近に見たことがありました。誰が見ていても、時間になれば、ひれ伏す。果たして、同じことが自分にできるかな、と考えてしまいました。

 クリスマス。私たちが博士たちから学ぶことは、この単純な二つの行為です。行く。拝む。私たちも、これと同じ心で主イエスをたたえたいと思います。

 自分を喜ばせるクリスマス。人間同士で完結して、上に向かうことのないクリスマス。栄光を捨ててこの地上に来てくださった主イエスを忘れ、お礼も感謝も賛美もささげないクリスマス。そんなクリスマスは、ヘロデ王のクリスマスです。

 博士たちのクリスマスを私たちのクリスマスにしましょう。文字通り、ひれ伏して、主イエスを礼拝してみましょう。大切なものを主イエスの足元に置き、自分を誰かにささげる生き方をしてみませんか。


 →あなたの番です
 □赤ちゃんになられた主イエスをたたえます
 □誰かのために、インカーネーションの一部を実行してみる
 □実際に、文字通り、ひれ伏して、主イエスを礼拝してみましょう

マルコ12:18~27 聖書と神の力

「あなた、また電話をかけ直しているの? リダイヤルのボタンが付いてるでしょう」「えっ。確かにある。知らなかった。早く教えてほしかった。いや、自分の問題だよね。トホホ。」
 今日は、知らなかった、という事がテーマです。

1、サドカイ人の質問

 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12:18)

 当事、ユダヤ人律法学者は大きく二派に分かれており、一つはパリサイ人、もう一つがサドカイ人でした。二者は互いに譲らず、深い対立(使徒23:1~10)がありました。
 サドカイ人は、祭司の家系に生まれた経済的に裕福な貴族階級です。その思想は、旧約聖書の中でもモーセ五書、つまり「律法」だけを神からの啓示と理解しました。復活はないと主張した論拠は、復活についての言及がある詩篇や諸書、預言書などを退けていた事によります。

 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」(20~23節)

 これはモーセ五書のひとつ、申命記25:5~6に見られる規定で、レビラート婚と呼ばれ、アフリカなどではまだ生きている制度です。7人兄弟全員が亡くなり、妻も死んだら、女は誰の妻なのか、という質問で、悪意ある奇問と言ってもよいでしょう。
 全員が復活すれば、女が誰の妻か言い切れません。それで、復活という思想そのものが間違っている、とサドカイ人は言いたいのです。この思考パターンは、前回説明したAll or Nothingの理屈と同じで、非論理的で、相手を追い詰める時に使う詭弁の一種です。



2、神の力を知らない

 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(24~25節)

 主イエスの答えは明快です。サドカイ人の考え方は「思い違い」で、「聖書も神の力も知らない」(24節)ことの証拠だと断定されました。

 主イエスは最初に、サドカイ人が神の力を知らないという点を取り上げます。サドカイ人は復活を信じていないので、同じ姿で息を吹き返す程度にしか復活を理解していませんでした。復活とは、神の力によって根底から徹底的に変えられることなのです。第1コリント15:51にあるように「みな変えられる」のです。単なる蘇生ではなく、神による新しい創造であり、栄光の姿への変化です。

 地上では、独身の孤独、子供がいない辛さ、未亡人は悲しさがあるかもしれません、天国にはそれはありません。私たちが、結婚関係のない天の御使いのように変えられるからです。性的な関わり、結婚や出産も天国にはないし、結婚カウンセラーも必要ありません。

 サドカイ人は、復活思想は愚かだと論破したつもりでしたが、結局、自分たちが神の力をまったく知らなかったことを暴露しただけでした。

 さて、私たちは、神の力がどれほど大きなものか、本当に知っているのでしょうか。

 私も、神の力の偉大さを知りません。
天国には、牧師という職業もないはずです。そこに神がおられるので牧師が説明する必要などないのです。きっと、私は主イエスの前で赤面し、あなたの事を何も知らないのに、知ったような顔で話してきて申し訳けありませんと、頭を下げるはずです。
 神の力をもっと知りたいと思いませんか。



3、聖書を知らない

 次に主イエスは、「あなたがたは読んだことがないのですか」(26節)とサドカイ人が聖書に無知であることを皮肉を込めて言われました。サドカイ人が重視するモーセ五書の一つ、出エジプト記3章6節の言葉を取り上げ、主イエスはその意味するところを解説されました。

 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(26~27節)

 主イエスがおっしゃりたい事を簡単にまとめるならこうなります。アブラハムもイサクもヤコブも生きている。そういう事なのです。
 モーセが神と出会った当時、アブラハムやイサクやヤコブは何百年も前に死んでいました。ですから、過去形で「わたしは、ヤコブの神であった」と語るほうが自然です。でも神は、「わたしは、ヤコブの神である」と現在形で言われたのです。
 これは、アブラハムもイサクもヤコブも神の前で生きているという意味です。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(27節)とある通りです。神は永遠に生きておられ、アブラハムたちも生きているのです。

 サドカイ人は、これには何の反論もできません。聖書をきちんと読んでいなかった事が暴露されたので、歯ぎしりして帰ったのかもしれません。

 さて、私たちはどうでしょう。聖書をどれくらい知っているのでしょうか。
ちゃんと、神の言われたい事を聞いているのでしょうか。

 私たちが心配する事柄は、神の力が及ばないと考えている分野です。お金のこと、ビジネスのこと、家族のこと、人間関係のこと、自分の健康のこと。そこにも神の力が表れると信じますか。信じましょう。

 ビル・ブライトは1951年、30歳の時、フラー神学校の学生でした。UCLAで学生に主イエスの福音を伝え始めたのです。福音のエッセンスをわずか77の単語を使って文章にし、重要聖句をそれに添えました。後に『4つの法則』と呼ばれた伝道パンフレットです。この方法は大いに用いられ、25億冊以上が印刷され世界中で用いられ、多くの人を救いに導きました。1979年には、ルカの福音書をそのまま映画にした『ジーザス』を作成し、900を超える原語に翻訳され、多くの人がクリスチャンになりました。彼のミニストリーはキャンパス・クルセードと呼ばれます。
 フラー神学校の学生の時、ビル・ブライトは、一枚の紙に「私は神の奴隷になります」と書いて、署名しました。これが、大きな違いを生んだ秘訣だと後に述懐しています。

 神は、一人の人生を用いて神の力をこのように表して下さいます。あなたにも神の力が働くと信じましょう。

 →あなたの番です
 □神の力をあなたの計画に織り込みましょう
 □神をもっと知りたいと願い、聖書に聞き入りましょう

マルコ12:13~17 カイザルのものはカイザルに

罠について考えましょう。
 今回の罠には、All or Nothingの考え方が巧妙に使われています。


1、罠のからくり

 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12:13)

 「彼ら」とは祭司長たちのことで、律法学者のパリサイ人とヘロデ党の者たちを主イエスのもとに送り込みました。主イエスに罠をかける作戦でした。

 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」(14節)

 14節の前半は主イエスの率直さを際立たせ、主イエスがきっぱりと回答するようにと誘導しています。これは罠の第一段階です。

 「ところで」から始まる部分が罠の核心です。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるべきかと質問しました。この質問が罠だという意味は、イエスと答えても、ノーと答えても、主イエスに不利になるからです。
 主イエスがカイザルに税金を納めよと言うなら、異邦人を嫌うパリサイ人が反発します。神を冒涜する行為だと糾弾されるでしょう。群集が感情的になり、主イエスに石を投げつけ死に追いやる可能性もあります。
 もし、カイザルに税金を納めてはいけない、と主イエスが言われるならどうでしょう。ローマ帝国の後ろ盾で成り立つヘロデ政権の支持者、ヘロデ党の者は強く反発し、ローマに謀反を起こす者としてただちに訴えられ、逮捕され、処刑されるでしょう。


2、主イエスの回答

 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(15節)

 主イエスは、この質問が罠だと見破りました。それで、ローマ世界で通用していた銀貨を持って来させ、誰の顔が彫ってあるかと逆に質問しました。その場にいた者は「カイザルの銘」だと答えます。銀貨には、「ティベリウス、カイザル、聖なるアウグストの息子、大祭司」と書かれてありました。約100年間ローマに支配されていたパレスチナでは、14~65歳のユダヤ人男子が年に一度一デナリを税金として納める必要がありました。

 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。(17節)

 カイザルが流通させた貨幣で貨幣経済が成立しカイザルの庇護を受けているので、カイザルに税金を納めるのは理にかなっていると主イエスは言われました。
 それだけでなく、私たち皆は神の守りの中で生きているから、神に献金するのは当然のことだと主イエスは答えました。

 イエスでも、ノーでもない、第三の答えを聞いたとき、パリサイ人とヘロデ党の者は、驚嘆しました。



3、罠の仕組み

 私たちも、人生で必ず罠に出会います。出世すればするほど、罠の危険が増えます。誠実な信仰者として生きようとすればするほど、罠に出会います。
 時にはあなた自身が、無意識に、誰かに罠を仕掛けることさえあり得ます。

 あなたは、今、罠にかけられていますか。人が仕掛ける罠は、その人の怒り、憎しみ、ねたみ、誤解、復讐心などが原因になります。また、悪魔が仕掛ける罠は、私たちを神から引き離すことを目的にし、神を信じられないような現象を起こしたり、仲の良い人との間を引き裂くように画策します。

 罠とは、どうあがいても出られず、必ず捕まってしまうという非情な方法です。
 
 今回使われた罠は、二者択一の罠です。それは、オール・オア・ナッシングの思考法を利用しています。
 あなたは完全な神の民ユダヤ人か、それなら異邦人に税金を納めないはずだ、もし税金を納めるなら本当の救い主とはいえず冒涜に値する、という図式です。
 このタイプの理論でコーナーに追い込まれたら、大抵の人は、逆ギレして大声で怒りだすか、無視してその場を去ります。主イエスは大声を出すことも、無視することもなく、誠実に答え、オールでもなくゼロでもない第三の答えを出されました。主イエスの冷静な対応にはびっくりします。

 私たちにも当てはめてみましょう。「あなたは完全な父親と言えるか」と問われるなら、誰も下を向くでしょう。すると、「それなら、あなたは父親としては失格だ」と言われてしまいます。そう言われるとなぜか納得して落ち込みます。完璧であるか、それ以外なら、ゼロだという大雑把な事実認識の間違いに気づかないのです。

 あなたも、この二者択一の罠に気をつけましょう。また、この理屈で身近な誰かを追い詰めることも止めましょう。
あなたは完全なクリスチャンか、そうでないなら生きていく資格はない、という悪魔の常套手段の罠に負けてもいけません。

 私たちは、いつも100点でいることは不可能です。65点でも、70点でもいいのです。だからといって決して0点ではありません。All or Nothing 以外の第三の答えが必ずあります。主がその答えを必ず下さいます。上を見上げる時、必ず脱出の道があります。

 →あなたの番です
  □罠を見抜く知恵を神からいただきましょう
  □あなた自身も、人に罠をかけないこと
  □神の守りを感謝しつつ、第三の道を求めましょう

マルコ12:1~12 やり直せる

主イエスは、物事を簡略化して、分かりやすいたとえ話を使って、本質をズバリと指摘されます。今日のたとえ話からは、人間の心に潜む邪悪さが見えてきます。
 たとえ話の後に、主イエスは含蓄のある言葉を加え、私たちの励ましとされました。人生にはやり直しがあると勇気づけられます。


1、邪悪な農夫

 このたとえ話は、当時の人ならすぐ納得できる日常的な題材を使っています。ぶどう園の主人が、農場で働く人を集めて仕事を委ねます。実がみのると、収穫を集めに人を送りました。でも農夫たちに乱暴され、次々に送ったしもべたちも暴力を受けたり殺されたりしました。主人は自分の息子まで殺されてしまいます。とうとう最後には、ぶどう園の主人は農夫たちを殺して処罰しました。以下がその詳細です。

 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。(マルコ12:1~9)

 このたとえ話に登場するぶどう園の主人は、善意の塊です。農夫たちの就職口を世話して、農夫たちを信頼しきって旅に出たのです。収穫を集めるためにしもべを遣わし、虐待されても、何度も忍耐深く別の使者を遣わし、自分の息子まで送り込みます。
 ここに表されているのは、何でしょう。神の愛です。神の愛は、まさに善意の塊です。信じられないほどピュアです。期待と希望に満ちています。

 一方、ぶどう園を任された農夫たちは、悪意の塊です。農園の主人に対して、恩を感じることなく、完全に無視しました。主人が送ってきたしもべに暴力を振るい追い返し、農園を自分たちのものにする算段です。農園の主人の一人息子ですら殺害しました。

 このたとえ話は、祭司長や律法学者の愚かさを気づかせるために主イエスが話したものでした。神が農園の主人、しもべは預言者たちです。農夫はイスラエル人であり、その指導者の祭司長や律法学者を表わしています。最後には、神の子イエス・キリストが遣わされますが、祭司長らにより殺害されます。
 祭司長たちも主イエスの意図に気づきました。(12節)でも、かえって心を閉ざし、主イエスを殺す動機になってしまいました。

 あなたの番です。あなたはこの農夫のような邪悪な心を持っていますか。神に対して恩知らずではありませんか。自己保身、自分の欲望がすべてではありませんか。
 普段の自分の姿を見つめてみましょう。あなたは、この邪悪な農夫に似ていませんか。

 神は、そんなあなたを、そんな私を、信じられないほどの愛で愛していてくれます。



2、捨てられた石が礎石になる

 10~12節は、詩篇118:22~23の引用です。

 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(10~11節)

 家を建てる専門家が、この石は役に立たないと捨てた石が土台の要となる礎石になったというのが詩篇の言葉です。

 この石とは何でしょう。主イエスを指した預言の言葉でした。主イエスは、十字架で死なれますが、それが人々の罪の赦しの代価になりました。捨てられた主イエスが、まことの救い主になったのです。

 主イエスほど深い絶望を味わった方はいません。また、主イエスほど大きな希望を持った方は他にいません。

 ここに大きな励ましがあります。捨てられた人がやり直せるという励ましです。たとえ、人に捨てられた人生でも、主イエスを信じて生きればやり直せます。

 地震の後に、釜石を応援するポスターが出来ました。その一枚一枚を見ていて勇気が出てきます。そのポスターには現地の人が作業着姿で写真に写っていて、下に短い言葉が書いてあります。数種類あるポスターの言葉は、「前よりいい町にしてやる」、「心まで壊されてたまるか」、「かわりに気づいた宝物」、「あきらめるな、と帆立が言う」などとなっています。

 そういえば、ベートーベンは偉大な作曲家ですがバイオリンはあまり上手ではなかったようです。ウォルト・ディズニーは、アイデアが足らないと言われて新聞社を首になったようです。アインシュタインは、4歳まで言葉をしゃべらず、7歳まで字が読めなかったといいます。エジソンは、学校の教師に、頭が悪くて何一つ学べない生徒だと言われました。彫刻家のロダンは、こんな息子を持って情けないと言われた子供だったといいます。何だか励まされますね。

 あなたがやり直せた時にこの言葉を味わって下さい。「これは主のなさったことだ」(11節)主があなたを立たせてくださるのです。


 →あなたの番です。

  □あなたの心に潜む邪悪な心に気づきましょう。
  □どんなに邪悪な私たちをも、神は愛しておられます。
  □倒れても、やり直せます。主イエスと共に歩めば復活できます。