第2コリント3:1~18 御霊のあるところ 

 健康なクリスチャン生活の秘訣は、聖霊にあります。もっと、御霊を意識し、あがめ、導いていただきましょう。今日は、御霊に目を向けましょう。


1、私たちは、手紙

 コリント教会の一部の人たち、「ある人々」(第2コリント3:1)はパウロの使徒職を疑問視していたようです。それなら、ダマスコのアナニヤ(使徒9:10~20)にパウロの回心の様子をまとめてもらい、バルナバとペテロに正式な推薦状を書いてもらうことも可能でした。
 ところが、パウロは、そうしませんでした。その代わり、こう書いたのです。

 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。(2節)

 コリント教会が存在していること。コリントの人々が持っている信仰そのもの。それが、パウロ人となり、働きを裏付けると説明しました。

 私たちにも同じことが適用できます。私たちはキリストの手紙であり、御霊によって書かれた手紙(3節)なのです。知られています。読まれています。周囲の人が、私たちの言動を見て、私たちに書き込まれたキリストを知るのです。私たちの存在そのものが、公開書簡なのです。

 私は一人の女性看護士を知っています。人の嫌がる仕事を笑顔でする人でした。入院患者の一人は、そのことに気づき、やがて彼女を通して教会に導かれイエスさまを信じました。彼女は周囲の人に読まれていたのです。キリストの香り(第2コリント2:15)を放っていたのです。

 あなたも、現代のキリストの手紙なのです。


2、古い契約と新しい契約

 次にパウロは、古い契約と新しい契約を対比して説明しました。(新約聖書の新約という言葉は、古い約束、古い契約と対比した新しい約束を意味しています)コリント教会に入り込んだ人々は古い契約の信奉者で、律法的な信仰を賞賛したのかもしれません。
 律法を行うことで義を神の義を得るという生き方がどれほど困難な生き方か、パウロは体験的に知っていました。(ピリピ3:4~7)
 そこで、以下のような対比を行い、新しい契約の優位性を説明しました。新しい契約とは、主イエスを信じるだけで義とされる救い、そして、御霊により日々変えられる生き方です。

 ・古い契約(14節)……………………新しい契約(6節)
 ・殺す(6節)……………………………生かす(6節)
 ・罪に定める(9節)……………………義とする(9節)
 ・やがて消え去る栄光(7節)…………永続するものの栄光(11節)

 モーセは、十戒を神から頂き、山から降りて来ましたが、その際、神の栄光を反映して顔が光っており、人々はモーセの顔を見据えることができませんでした。(出エジプト34:29~30、34)
 古い契約における栄光ですら、そのような輝きを持つのなら、新しい契約における栄光ははるかに優れてものであるはずです。


2、変えられる

 私たちクリスチャンは、何かの拍子に、昔の考え方に立ち戻る傾向があります。クリスチャン生活を、道徳や努力に置き換えてしまいがちです。
 救われたのは、主イエスの十字架の恵みです。救われた後も、主の恵みと聖霊の助けによって歩むのです。

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 ・どうすれば変えられるのですか。(16節)主に向くならです。
 ・誰によって変えられるのですか。(18節)御霊なる主です。
 ・誰が変えられるのですか。(18節) 特別な人でなく、みなです。
 ・どのようにして変えられるのですか。(18節)主の栄光を反映してです。
 ・どのような姿に変えられるのですか。(18節)主イエスと同じかたちにです。

 私たちは、弱く、罪を犯しやすい者です。その上、繰り返し失敗をします。嘘をついた、会社の金を盗んだ、インターネットでポルノを見た、人の悪口を流布した、自分を良く見せようとして事実と違う印象を与えた、人の業績を自分の成果にした。

 まじめに生きよう。自分をコントロールしよう。そうした努力はとても大切です。ただし、聖霊の助けを排除して、自分だけで頑張ろうとするなら、律法的な生き方に陥ってしまいます。それは、成功すれば傲慢になり他人を裁く態度となり、失敗すれば信仰自体が破綻寸前となる実に不安的な信仰になります。

 鍵は、聖霊にあります。聖霊が私たちの希望です。

 私たち自身を聖霊に委ねましょう。聖霊に取り扱っていただきましょう。

 私は、岩渕まことさんの著書『気分は各駅停車』を何度か読み返しました。飾らない信仰体験がしっとりと心に染み込みます。小学1年の娘さんが脳腫瘍になり、祈り、苦悩され、その中で「父の涙」という歌ができたこと。その作詞作曲したとき、ご自身も泣いておられたこと。医師から「強いですね」と言われたけれども、そう見えたのならイエスさまのおかげと話しておられること。とても素晴らしい本です。

 クリスチャン人生は、山もあり谷もあります。輝きもあり闇もあります。負のスパイラルに陥ることもあり、主と共に水の上を歩くときもあります。
 大切なことは、御霊と共に歩むことです。御霊の促しに従うことです。聖霊に作り変えていただくことです。

 第2コリント3:18を心にとめましょう。

 私たちは、………栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 御霊なる主よ。私を変えてください。

→あなたの番です
 □私たちはキリストの手紙です。周囲の人に読んでもらいましょう。
 □人間的な力みから離れて、御霊にゆだねた生き方を選びましょう。
 □私たちは、みな、主と同じかたちに変えられる。この聖句を信じましょう。

第2コリント2:1~11 涙の手紙

 人と人とが生きていると、誤解が生じたり、思いが届かないことがあります。
 パウロとて同じです。コリントの教会は問題の多い教会で、それを正そうとするパウロとコリントの人々との間で軋轢が生じていました。

1、コリントへの手紙は何通?

 パウロはコリントで伝道し(使徒18章)教会の基礎を築きました。パウロは活動の拠点をエペソに移した後もコリントの様子を心に留め、祈り、人を送り、手紙を書いて支え続けました。
 パウロがコリントの教会に宛てた手紙は、聖書の記述によると少なくとも4通あったようです。

 1)叱責の手紙(第1コリント5:9)
 2)コリント人への手紙第1
 3)涙の手紙(第2コリント2:4)
 4)コリント人への手紙第2

 手紙以外にも、テモテを遣わしたり(第1コリント16:10)、自分自身もコリントに赴いて(第2コリント2:1)、コリント人を励まし続けたことが分かります。


2、涙の手紙

 パウロが誤りを正そうとする。それを聞いて、コリントの人々がリアクションを起こす。少し改善される。まだ不十分なので、問題点を指摘する。うまくいかない。パウロの人間性や使徒としての信頼性に揺らぎが生じる。
 パウロは万策尽き、結果を主に委ねて、コリント人に対する思いのたけを手紙に書き記しました。それも、涙をもって。

 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(第2コリント2:4)

 涙とは何でしょう。思いやりの結晶です。

 3週間前、右足の小指を椅子にいやというほどぶつけました。骨折したかもしれないと内心感じましたが医者には行きませんでした。1週間して、娘が昼休みを利用して職場から私のオフィスにやってきました。「きちんとお医者さんに診てもらって。2時30分に予約を入れておいたから。行ってね。レントゲンを撮ってもらってね」と言うのです。私が「心は伝わったよ」とにべもない返事をすると、娘は涙を流し、同じことを繰りかえして言いました。医者に行くとは言わずに、結局娘を返しました。私は、娘が出て行った後に心を揺さぶられました。こんなに愛されている。携帯で「今から、行くよ。ありがとう」と連絡して、医者に行きました。それで折れていたことが分かりました。

 パウロの涙はコリント教会の人には見えません。でも、手紙の文面から、パウロの涙の流れる音が聞こえたはずです。
コリントの人々にパウロの心が通じたのです。パウロの涙の祈りが届いたのです。

 主イエスがどんな方か、思い出しましょう。主イエスは私たちの涙を読み取ってくださり、涙を流してくださる方です。

 主はその母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。(ルカ7:13)
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 あなたの愛を涙に変えて祈りましょう。伝えましょう。


3、赦しと慰め

 パウロは、罪を犯した人の処罰の断行を知り、今コリント教会で必要なことは、赦すことと慰めることだと諭しました。

 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(第2コリント2:6~7)

 パウロが望んだのは、コリントの人々を倒すことではなく、コリント教会の人々の笑顔を見ることでした。直言や叱責の最終目的は、回復であり、喜びの回復です。それを忘れないように。

 あなたの番です→
 □あなたが大切にしている人は誰ですか
 □涙にくるんで、あなたの愛と真心を伝えましょう
 □最終的に、あなたが見たいと望んでいることを忘れないように

 

第2コリント1:1~11 慰めがここに 

 これから、コリント人への手紙第2を毎週1章づつ学んでいきます。

 先日、右足の小指を椅子にぶつけて、あまりの痛さに倒れこみました。それを話すと人は二種類に分かれます。一方のタイプの人はこう言います。若くないのですから、気をつけなくちゃいけません。あわてるからつまづきます。別のタイプの人は、自分のことのように感じて、痛いでしょう、おつらいですね、どうぞお大事にしてくださいと言います。どちらのタイプの人が、私の痛みを倍加させてくれたか、分かりますね。

 第2コリントのキーワードは「慰め」です。シリーズ第1回目は、慰めをテーマに取り上げます。



1、神は、慰めの神

 まことの神は、慰めの神です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。(第2コリント1:3)

 神は、正しく、きよく、強くある方です。それだけではなく、私やあなたを慰めてくださる方であり、人の心に寄り添ってくださる方です。
 弱った人、病気の人、傷を負った人、倒れた人に対して、神は慰めの神として接してくださいます。

 主イエスも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(第2コリント1:4)

 そうです。神はどんな苦しみの中にある人をも慰めることができます。神なら、おできになるのです。神だけが、できるのです。だから、本当の神といえるのです。

 大きな苦しみの中にいる人に、神は細い声で、その人の心に届く方法で、慰めを与えてくださるのです。あなたも、その慰めを受け取ってください。




2、苦しんだ人が、誰かを慰める

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第2コリント1:4)

 パウロの言葉によると、神の慰めを受けた人は、他の人を慰める人になれるといいます。あなたは、それを信じますか。
それだけではありません。どのような苦しみの人をも、私たちが慰めることができるといいます。私たちが、誰かの慰め手になれるのです。

 私は牧師の仕事を辞したことがあります。その翌日、教会の英語部の方が私の家の前に車を止めました。仕事がなくなると生活が大変になるから食料を持って来ました、使ってくださいというのです。トランクは、お米、野菜、肉、食料で一杯でした。私は 呆然としました。
 翌日、別の方がやはり車を止めました。トランクを開けると、やはり食料が満載してありました。涙が出ました。
ある年配のご婦人は、パンを買って届けてくれました。それも、毎週来てくれました。留守の時にはパンだけを置いていかれました。おいしいと評判のベーカリーのパンでした。置かれているパンを見るたびに、大きな慰めを受けました。
 あるリタイアしたカップルは、私たち夫婦を日本食レストランに招き、ランチをご馳走してくれました。その時お二人は、一人分のランチを二人で分けて食べました。お二人の倹しい生活を思うと、食事が喉を通らないほど感激し、その心が伝わりました。
 家主の突然の申し渡しで急に引っ越しの必要が出て、かなり落ち込んでいた時。二組のご夫婦は、私たちの転居を手伝い、ジョークを飛ばして明るい雰囲気にして、引越し荷物を運んでくれました。
その他にも、心温かな人たちから、たくさんの愛と慰めを受けました。それで、生きることができたといっても過言ではありません。

 私は、10年たっても、これらの事を忘れません。何度も思い出し。何度も感謝し、何度も涙を流します。

 神の慰めを受けた人が、私を慰めてくれたのです。

 あなたも、誰かの心を慰めることができます。

 あなたの痛み、暗闇が、誰かの慰めに繋がっているのです。



3、慰めの経験は希望を生み出す

 パウロは、神が慰めの神であると説明しました。また、パウロは神の慰めや助けを確かに受けたと、経験的に語りました。8~9節によれば、それが、死を覚悟するほどの厳しい経験だったことが分かります。その経験がパウロに希望を与えました。

 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(第2コリント1:10)

 そうです。苦しみと慰めを経験した人が、ゆるがない希望を持つ者になるのです。

 苦難と慰めが、希望の人を生み出すのです。



 あなたの番です→
 □苦しみと弱さの真っ只中で、神の慰めを体験しましょう。
 □あなたは誰かを慰めるために生まれた。
 □自分を頼まず、神により頼む。そこに希望が生まれる。

マタイ16:13~19 教会につながる

 信仰の羅針盤シリーズの最終回です。
 安定したクリスチャン生活を送りたいなら、教会にしっかりと繋がることです。

1、信じる事と教会

 信仰を持つことは、個人的で、内面的なものです。けれども、信仰は他者とのつながりなしには成り立たない、という面も備わっています。そういう意味で、マタイ16章はとても興味深い箇所です。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:13~17)

 ペテロの信仰告白の場面として有名な箇所ですね。最後の部分に注目してください。主イエスは、あえてペテロの本名シモンと呼びかけています。あなたの信仰は、あなたの悟りや知識や経験によったのではなく、父なる神に導かれたものだと指摘されました。「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」これは、感動を持って聞き取りたい内容です。

 第1コリント12:3の視点を加えると、信仰告白は聖霊によるものだと理解されます。そうすると、私たちの信仰は、父と御子と聖霊の助けの中で初めて成り立つものだと分かります。信じているなら、あなたは三位一体の神との交わりの中にいるのです。

 次に目を留めたいのは、教会です。

 主イエスは、シモンの信仰告白を聞いて、それに応答するように、シモンをペテロ(岩)と呼びました。これは、いわば、主イエスの側からシモンに対する「信仰告白」とも言える内容です。不完全で、欠けの多いシモンを信仰者としては巌のような者と認めてくださいました。ちょっと気恥ずかしいですね。その信仰の上にご自分の教会を建てると主イエスは言われました。

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

 世界中にはたくさんの組織がありますが、主イエスが造れた組織は教会だけです。主イエスは、国にも、会社にも、学校にも、国連にも期待しておられません。教会にだけ期待しておられるのです。信じた人には、教会が必要なのです。クリスチャンが教会に繋がって生きるようになったのは、主イエスのプランなのです。

 リック・ウォレン牧師は、私たちが生まれて来た目的の一つは、教会に繋がることだと明言しています。

 あなたは、教会に繋がっていますか。
 特定の分野に専門的に関わる超教派団体が数多くありますが、それは、教会の腕として働く機関であり、教会ではありません。教会に地盤を置いて、超教派の働きに関わりましょう。
 自称「無教会」の人は、独善的になりがちで、教会評論家にしかなれません。評論家が1万人いるより、主イエスのために汗を流す10人のほうが意味があります。
 気ままに、あっちに行ったり、こっちに行ったり、という教会渡り鳥になってはいけません。それでは、クリスチャンの醍醐味は体験できません。

 一つの教会にしっかり繋がりましょう。雑多な人がいる教会。お年寄りも赤ちゃんもいる教会。ちょっと苦手なタイプの人がいる教会。そこに、大きな意味があります。そこに、成長の道が隠されています。そんな教会につながることが、どうしても必要なのです。



2、つながると、命がめぐる

 主イエスは、ヨハネの福音書15章で、つながることの大切さをぶどうの木のたとえで説明しています。

 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

 聖書を長年読んで来ましたが、この箇所は、教会にとどまりなさい、と読み替えても、同じ意味になると私は考えるようになりました。なぜなら、教会はキリストの体だからです。(エペソ1:23、コロサイ1:18)

 弱くて小さな枝でも、幹であるキリストにつながるなら、主イエスの命があなたの中を巡るようになります。主イエスのいのちが、あなたを生かすのです。

 また、私は17歳で信仰を持って以来、いくつかの教会に関わり、たくさんのクリスチャンを見てきましたが、教会に結びついていることが、健全なクリスチャン生活に不可欠だと確信を持って言えます。

 私は、牧師の立場を離れ、信徒として5年間、教会につながったことがあります。その時の体験を思い出しても、教会は本当に素晴らしいものだと心から言えます。その時、昼食会の後の掃除とごみ出しを自分の奉仕にしました。主に仕える喜びを知りました。
 主イエスを信じる人たちに触れるだけで励まされました。祈ってくれる人がいて、支えられました。共に、泣いてくれる方たちによって生きることができました。


 日本の教会は、暗い、小さい、つまらない、などと陰口を言われます。特に、アメリカの大きな教会を見ていると、日本の教会がくすんで見えます。
 でも、そうした見方は浅薄です。私も若いころ、日本の小さな教会を見下げたり、有名な牧師をヒーローに見立て、名も無い牧師を無視していた生意気な時期がありました。ゼロからの開拓伝道をする立場になってみて初めて日本の教会の現状に気づきました。
 日本の教会の礼拝出席平均は30数名で、そんな教会が全体の半数を超えています。10数名の教会もたくさんあります。むしろ今、そうした小さな教会、名も無い牧師先生の長年にわたる祈りと伝道を尊いものとして心から尊敬しています。福音の灯台となって地域に留まっていることは何にも増して価値があります。
 

 完全な教会など地上にありません。あなたが、そこにいれば、完全でなくなるからです。(失礼)素晴らしい教会があったとしても、私がそこに加われば不完全になってしまいます。

 地上の教会は欠けだらけです。でも、主イエスは、教会にだけ期待しておられるのです。教会だけを信頼してくださっているのです。

 どんなことがあっても、教会につながり続けましょう。教会を愛しましょう。あなたの実家としましょう。
 
 今までシリーズで話してきた、神を愛す、人を愛す、福音を伝える、人を育てる、これら4つの要素は、教会につながることによって実現します。教会につながることがクリスチャン生活の要なのです。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)


 あなたの番です。
 □しっかりと一つの教会に所属してください
 □教会のスモールグループに加わりましょう
 □教会で何かの奉仕をしましょう
 □教会批評家にならず、教会を愛す人になりましょう

使徒18:24~28 育てる人が育てられる 

 信仰の基本姿勢を見直す「羅針盤シリーズ」。今日はその本論の4回目、育てる人になる、がテーマです。
 ところで、スターバックスではバリスタと呼ばれる店員がコーヒーを作ってくれますが、グリーンのエプロンとブラックのエプロンの人がいます。ブラックのエプロンはコーヒーマスターと呼ばれるスペシャリストの印です。
 あなたもクリスチャンになったなら、ブラックのエプロンを付けた人になりませんか。

1、プリスキラとアクラ

 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。(使徒18:26)

 パウロを彷彿させる伝道者アポロが流星のようにエペソに現れ、ユダヤ人の会堂で主イエスの福音を語りました。学識、熱意とも申し分ありません。ただし、聖霊についての理解が不足していました。
 そこでプリスキラとアクラの夫婦が自宅に呼んで、正確に教えました。夫婦に教えられたアポロはコリントに渡り、素晴らしい伝道・牧会を行いました。(第1コリント3:6)

 実はこの夫婦、只者ではないのです。パウロは当初、二人の家でルームシェアしていました。1年6ヶ月、パウロから直接薫陶を受けたクリスチャン夫婦なのです。

プリスキラとアクラは、エペソで家の教会(第1コリント16:19)を作り、ローマに移動するとそこでも家の教会(ローマ16:5)を作った伝道的な夫婦でした。また、パウロの命を救い出した、牧師を心底サポートする信徒の鏡です。(ローマ16:3~4)

 青年たち、結婚したならこの夫婦の生き方をモデルにしましょう。すでに結婚している人たち、今から目指しましょう。人を育てる人がどんなに成長するのか、プリスキラとアクラはその実例です。


2、人を育てること

 教会には、信仰年数何十年という人がいます。ですが、「どうしたら、クリスチャンになれますか。クリスチャンとして生きるには、どうすればいいですか」と質問されると、牧師に聞いてください、としか言えない人がたくさんいます。
 スターバックスのバリスタになれる知識も経験もあるのに、お客さんの立場で満足しているクリスチャンが多すぎるのです。

1)主イエスの基本戦略

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)

 主イエスは、自分が世を去った後のことを考えておられました。主イエスは群衆にではなく、弟子にフォーカスしておられるのです。福音書を詳しく読むと、主イエスが驚くほど多くの時間を弟子たちに費やし、実地訓練をされていたことが分かります。
 
 また、主は、あえてエリートを集めませんでした。怒りっぽい欠点を持つヤコブとヨハネ(雷の子=マルコ3:17)、冷酷でなければ勤まらない収税人の過去を持つマタイ、内にこもる懐疑主義者トマス、でしゃばりのペテロ、暗闇を抱えたユダ。このように、普通の人こそが弟子として作り変えられるという手本を示してくださいました。
 これは、私たちへの大きな励ましです。3年たった弟子たちは、みごとに主イエスの代役を果たせるまでに成長しました。

2)次の次の次

 パウロは、人を育てる場合、全部で4代を念頭に置くように教えています。

 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第2テモテ2:2)

 まだ、誰にも聖書を教えたことのない人は、それを始めてください。教える人が最も多くを教えられるのです。
 パウロ→テモテ→忠実な人→他の人。パウロは、次の次の次、つまり4代を意識してテモテに教えていました。

3)人まね小猿

 「私のようになってください」(ガラテヤ4:12)
 「兄弟たち。私を見ならう者になってください」(ピリピ3:17)

 人を育てることは簡単です。私のそのままを真似ればいいのです。これが、主イエスの生き方であり、パウロが実行したことでした。

 困ったな、と感じる方は、自分のクリスチャンとしての歩みが不十分と気づいた人です。そうであっても、あなたが達しているところまで、他の人を引き上げてください。誰かをケアするうちに、あなたも強められ整えられます。
 多くの若い女性たちは、そのようにしてママになります。お母さんの責任感や忍耐力、思いやりや犠牲などは、on the job trainingで身につくものなのです。

 伝道団体ナビゲーターの創始者ドーソン・トロットマンといえば、カリフォルニアに住む者としてとても身近に感じます。トロットマンはLAで生まれ、1934年ロングビーチの海岸でミニストリーを始めました。一人の水兵を救いに導き、彼を訓練して伝道できるクリスチャンに整え、その水兵が他の人を救いに導きました。このミニストリーは連鎖して拡大し、第二次大戦前後に1000人のクリスチャンが生まれたといいます。
 大伝道者ビリー・グラハムが、生涯で最も感銘を受けた人物と評したのがドーソン・トロットマンでした。

 さあ、あなたも福音の種をまきましょう。そして、その人を育てましょう。あなたのような人を育ててください。私たちは、誰かを救い養うために、新しく生まれたのです。

あなたの番です→
 □あなたが育てる人は誰ですか
 □生活、仕事、教会生活すべてを見せて、私のようになれば良いと言える人になろう
 □4代先を見て、育てましょう